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2006年4月

4月29日『読売』社説[教育基本法改正]云々を笑う

 29日の『読売新聞』社説[教育基本法改正]「民主党も意見集約を急いでは」は、ついに、『読売』は、お笑いに転じたかと思わせる。

 「日本の将来を担う人材を育てるための教育の目的や理念はどうあるべきか。充実した審議を展開してもらいたい」。これは正論だ。

 しかし、続いて、「改正案は、現行法に記述のない「公共の精神」「伝統」の尊重や、「我が国と郷土を愛する…態度」との表現で愛国心を養うことなどを盛り込んだ」と、態度と心を区別していない。言葉を大事にするなら、これが公明党に妥協して、「愛国心」という表現をあえて避けていることは、一目瞭然であるのに、どうしてこれが「愛国心を養うことを盛り込んだ」ことになるのか。

 日本会議や議連は、はっきりと「愛国心」を明記するように求めて、そうしなければ、この法案に反対すると主張している。こちらの方が、言葉の意味を明瞭に理解している。言葉を使う職業の新聞人が、心と態度の意味の違いをあえて無視することをやってのけているのは、どういうことだ? とにかく、なんでもいいから、「愛国心」らしき表現さえ入ればいいということか? それとも、この法律が成立してしまえば、解釈で、なんとかなるということか? ともかく、ここは、わけがわからない。

 アメリカは、対テロ戦争の真っ最中で戦時中である。それなのに同盟国たる日本は、戦時中ではないというのだろうか? 平時なら、与党は、なんで「共謀罪」新設を急いでいるのか? 日教組が「軍国主義教育の復活をさせる動きだ」として反対しているのは無理があるというが、イラクで自衛隊が、米軍に物資輸送を行っているのは、アメリカの戦争に加わっていることにはならないのか? アメリカは、「対テロ戦争」が、新たな形態の戦争であり、それに勝つためには自衛のための先制攻撃を行うと宣言している。つまり、防衛は同時に先制攻撃準備でもあるということだ。日本はそれに参戦しているのではないか? これは新たな戦時ではないのだろうか? 同盟国の片方が戦時入りしているのに、もう片方が戦時ではないということはどういうことか? 第二次世界大戦型の戦争形態での戦時しか思い浮かばない『読売』の方が、古くさい。これは、『読売』が、イラク侵略戦争から何も学んでいないということを表している。

 続けて、「学校現場は、いじめ、校内暴力、不登校など多くの問題を抱えている。犯罪の低年齢化や自己中心的な子どもの増大、「ニート」に象徴される若者の職業観の乱れも深刻だ」といろいろと問題を並べている。この社説は、それらを解決するのは、次の、「改正案では、「家庭教育」の条文も新設する。戦後教育が家庭の役割をおろそかにしてきたとの反省から、父母が子どもの教育に第一義的責任を持つことを明確にする趣旨だ」というところにあると言っているようだ。しかし、文章上は、そうなのかどうかは、はっきりとはしない。

 むしろ、「政府に、政策目標などを明示した「教育振興基本計画」を策定することも義務づけた」ことに解決策の主眼があるようにも読める。「教育が直面する問題の是正のため、どんな政策目標を掲げるのか。国民の関心も高い。国会での法案審議と並行して、国民の関心に応える基本計画策定の作業を急ぐべきだ」と続けて書いてあるからだ。

 それから、審議が進まないだろうと予想し、それは民主党が正反対の意見に別れているせいだと、民主党のせいにしている。民主党は対案づくりは容易ではないし、鳩山幹事長が、「教育基本法は憲法と並ぶ重要なものだ」と言っているのは、改憲まで教育基本法改正を先送りするものだと述べている。

 しかし、教育基本法は、教育を日本国憲法の理念の実現の手段と位置づけており、鳩山幹事長が、教育基本法を憲法とセットにして扱っているのは、正しい。与党案でも、「日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓(ひら)く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する」と、憲法精神の実現が、教育基本法の役割であることを明記している。もちろん、自民党は、将来の改憲を視野に入れつつ、教育基本法改定をその先取りとしたいのである。

 憲法が国の基本的な目標や理念などを規定し、それを実現するために教育という手段が取られるのであり、教育が、憲法を超えて一人歩きすることがあってはならないわけである。しかし、与党案は、やや教育だけを独立的に扱うような書き方ではある。

 この社説があげる学校現場の諸問題が、この与党案の成立によって解決するとも思われない。むしろ、29日『東京新聞』社説が、「自分の国を愛する、というような感情も、よい政治が行われ、国民一人一人の安全や安心が担保されていれば、国民の心の中に自然と芽生えてくるたぐいのものだ。基本法を改定してまで条文化することにはなじまない」と言うように、現場での混乱が増すことが予想される。

 また、それは、「教育の憲法ともいえる基本法に明記すれば、当然、それに連なる学校教育法などの関連法令、さらには教える内容を定めている学習指導要領にも色濃く反映され、強制の度合いを深めていくことになろう。/小中学校の社会科や道徳で先取りしている「国を愛する心」を持つとの目標を、さらに拡大・推進したい、との思いが見て取れる。/教育現場では既に二〇〇二年、福岡市の小学校で「愛国心」を通知表で評価していることが表面化したが、条文化すればこうした動きにも法的な根拠を与えることになる」。

 こうした諸問題が予想される以上、『読売新聞』のように、審議を急がせるようなことはあってはならず、ましてや与党が数を頼みに、成立を急ぐというようなことはあってはならない。お笑いなのは、『読売新聞』がこれまで主張してきたことから言えば、この与党案は、ベストな案ではなく、ベターであるにすぎないことは誰が見ても明らかなのに、それを全面支持しているその二枚舌である。

 それに、教育問題を日教組などの他者のせいにして、新聞やメディアの責任をスルーしてすましていることだ。自分にも責任があるという自覚がないでは、本当の問題解決にはつながらない。何でも他人のせいでは、「公共の精神」を語る資格がないのは、明白である。

 いずれにしても、教育基本法改悪には、反対するほかはない。  

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エリート主義者藤岡信勝氏の女性差別を表すブログ記事によせて

 藤岡信勝という人は、日本共産党を辞めても、そのエリート主義体質だけは、そのまま受け継いでいるらしい。

 彼の転向の仕方は、『赤旗』信奉から『産経新聞』信奉に変わったというだけのようである。それにしても、彼のはじめた『藤岡信勝ネット発信局』というブログの4月28日の「「従軍慰安婦法案」の審議を許すな」という文章には、彼のどうしようもないエリート主義が現れている。

 彼は、「1930年代に中国との戦争が始まってから、日本軍は「慰安所」と呼ばれる施設を業者に提供して営業させることを始めた。その目的は、戦地で強姦事件が発生するのを予防することと、性病の蔓延をふせぐことだった。慰安所で働く女性は「慰安婦」と呼ばれた。売春業者に連れられて戦地に働きに来た女性が慰安婦だったのである」と書いている。

  そして、「こうした問題は古今東西を問わず、軍隊につきものの普遍的な現象である。例えば、ナポレオン戦争の時のフランス軍は、戦死者の十倍の数の兵士が性病で使いものにならなくなった。1942年中国大陸に派遣されていたアメリカ空軍航空部隊では、昆明の売春宿に通いつめたパイロットと地上員の間に性病が蔓延して、戦闘機の半数が飛び立てなかった。だからどの国の軍隊でも、兵士の性欲処理のための施設をつくったのだ」とする。

 つまり、「慰安所」は、戦時に、性病や強姦事件を予防するための兵士の性欲処理施設であったというのが「慰安所」の藤岡氏の定義である。ところが氏は、続いて違う定義を持ち出す。

 「日本の慰安所で働く女性は国内で働く遊郭の女性と本質的には何も変わらない」。

  今度は、上記の「慰安所」の定義は本質の定義ではないと聞かされる。遊郭は、平時にも存在し、それは文字通り、遊ぶところで、男性が性欲を満たすための男のための娯楽施設である。それは、性病や強姦の予防施設でもなければ、兵士の性欲処理施設でもない。兵士だけを特別に相手にするところでもないし、戦時に対応して営業しているわけでもない。それに、遊郭で働く女性を「慰安婦」とは呼ばない。「慰安所」は、軍隊用の戦時の特別な施設の呼び名である。

 とにかく、定義が変わっているのだから、すでに論理的に破綻している。続けて、氏は、「むしろ戦地の方が遙かに高収入が得られる有利な仕事であった。だから、国内外を問わず、当時も戦後も、これを問題にすることなど考えられなかった」と述べる。高収入だから問題にならなかったとはどういうことだろうか? 朝鮮人慰安婦の収入を調べたデータでもあるのだろうか? これではわからない。まさか、学者たる者がそうに違いないという思いこみで書いているのではなかろうなあ。それに、彼女らのような職種の人たちの境遇や人権について、当時のアメリカなどが本気で取り上げるような時代状況だったとは考えにくい。高収入が得られる有利な仕事であったから、国内外で問題にならなかったというのは、根拠がある主張とは思えない。

 また、「日本人の「被害者」が除外されているのは、職業として戦地で働いていただけなのに、そのことを根拠に日本政府から金をせしめようと考える、はしたない日本女性はただの一人もいないからである。これは日本人として誇りにして良いことだ」と書いているが、こんなことを同情の表明なしに言えるということがエリート主義的である。貧乏な時代に、泣く泣くそうした職業に就いた女性がいたことに思いがいかないのだ。これは、女性が金を稼ぐのに、限られた職業しかなかったことを表している。それが、誇るべき職業としての社会的地位として認められていたのなら、その職歴を隠さず、堂々とそれを語る女性がいないのはなぜだろうか? 彼女たちは日本人として誇っていいはずなのに。特定の職業や女性の振る舞いを、「はしたない」かどうかと評する世間や女性や特定の職種を見下すエリートの差別的視線がなかったら、自分の体験を自由に語ったかもしれない。

 「はしたない日本女性」という言葉を思わず漏らしてしまったことで、藤岡氏は、自らのエリート主義的差別主義を自己暴露してしまっている。

 *なお、余談だが、ニーチェは、娼婦を愛し、賞賛し、学のある女性を罵り、軽蔑した。

 *1910年代には、ドイツで、ローザ・ルクセンブルクらが、娼婦の組織化と要求の運動化をはじめている。

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小泉政権5周年に徒然想った

  小泉政権発足から丸5年が過ぎた。このところ、格差拡大・固定化の格差社会化をはじめ小泉政権の「影」についての議論が活発になっている。

 小泉首相自身は、「古い自民党をぶっ壊した」ことを成果として強調し、自画自賛している。しかし、この古い自民党とは、1970年代に作られた田中派支配の自民党のことであり、小泉政治は、ある意味で、それ以前のさらに古い自民党政治に回帰したともいえる。

 高度成長期、経済成長重視の経済政策で、都市の過密、農村の過疎、公害、等々の「影」が拡大し、耐え難いまでに大きくなり、学生運動から労働運動から社会運動から、続々と誕生した革新自治体から、その是正を求める人々の声が強まり広がったのに対して、田中角栄政治が、保守側の修正派・改良派として登場したのであり、それは、地方の開発(新全総など)、環境庁設置、社会保障制度の充実、等々として現実化したのであり、こうした公の介入の増大が、同時に利権構造や癒着などを深めることにもなったのである。

 そして今、こうした田中政治の古い自民党をぶっ壊して出てきたのは、それ以前のもっと古い自民党政治であり、その結果が、首都圏や大都市部への人口集中・過密化、農村の高齢化・過疎化、格差拡大・固定化の格差社会等々である。60年代の高度成長時代の記憶も薄れているが、田中派自民党は、佐藤政権下で拡大した社会矛盾に対応しなければならなかったのである。そうして当時は改革派だった田中派自民党が、その後、90年代まで、続いてきたのである。

 それに小泉政権の構造改革路線は、多国籍資本(大企業は多くが多国籍化しているので、ほぼ大企業と同義である)の利害を反映している。ただし、トヨタなどの多国籍資本が望んでいる対中関係の改善は、小泉首相の靖国参拝へのこだわりで、できないでいるが。

 小泉首相が、国会で、靖国参拝を問われて、「誰にいわれて参拝しているわけでもないし、誰にも指図されない」と答えたのは、孤立した個人主義への信念を表したものである。ここでは、それは、韓国・中国などの外国に言われて参拝中止することはないという意味であるが、こういう一般論的な信念表明の形で言うと、たとえ国民投票で靖国参拝中止が多数になっても参拝を止めないと言っているようにも取れる。そんな民意にも従わないような超民主主義的権限、独裁権を一体誰が認めただろうか?  しかし、同時に、「誰にも靖国参拝を指図しない」と次期総裁には、靖国参拝を求めないことをも明らかにしている。

 総理就任時には約90%の圧倒的な支持があったとはいえ、今、新聞などの世論調査で、50%前後の支持率である。靖国参拝については、人々の世論は揺れ動いており、半々に割れるようなことも多い。小泉総理は、A級戦犯が合祀されていることを知り、東京裁判の結果を正しいと認めながら、つまりは、東条英機らを戦犯と認めながら、戦争の責任者とその指示・命令に従って命を落としたその他の戦没者を区別しないで、「不戦の誓い」をする。

 保守を自認する西尾幹二氏は、東京裁判を正しいと認めながら、しかも戦争に勝つことを信じ目指して戦死した「英霊」に、「不戦の誓い」をするというのは間違いだと批判する。氏は、靖国に参拝するなら、今度は負けないと誓うのが正しいのだと言う。これは、遊就館に表されている靖国信仰の心髄とも一致しており、小泉首相の靖国参拝の仕方は、その心髄を否定するものである。靖国思想では、天皇のために闘った官軍の犠牲者こそ、「英霊」という霊の中でも特別優れた霊なのであり、あの世で、天皇のために命を投げ出して奉公することを願っている「英霊」なのであり、「不戦」を望んでいるなどということはありえないというふうになっている。アメリカ大統領は、アーリントン墓地で、不戦を誓ったりするだろうか? 

 なお、西尾幹二氏は、戦艦大和撃沈の戦死者をはじめ先の戦争の戦死を無駄死と描く反戦映画(西尾氏曰く)の「男たちの大和」が若者を中心に流行ったことを見て、本人も映画を観ながら涙を流したそうだが、9条改憲は当分無理だろうと思ったそうだ。さすがは、彼はニーチェ学者だけあって、ワーグナーの壮大で神聖な国民劇の世界にいったんは惹かれたが、後にそれを脱して、ビゼーの「カルメン」の俗な民衆劇の世界を愛好するようになったニーチェの俗物性に学んでいるのだろう。

 『唯物論研究会』の故船山信一と縁続きで、講座派エリートのサラブレットの系譜に連なってきた藤岡信勝氏の高尚さとは対照的である。自由主義史観研究会なるネーミングのセンスもなにやら、義理の叔父を意識しているかのようである。ニーチェは、超人に奉仕する宗教を欲したが、自らは宗教を利用するのであって、信仰しないという無神論者であった。なお、船山信一は、フォイエルバッハに傾倒し、その人間学的唯物論を高く評価し、その翻訳や紹介に務めた(『フォイエルバッハ全集』『唯心論と唯物論』岩波文庫訳など)。

 靖国神社は、たんなる一神社ではなく、独特な靖国思想・歴史観を持つ特殊な政治勢力の拠点であり、「内心の自由」などという次元ではすまされない特殊な政治的空間として作られている。それを示しているのが遊就館である。小泉首相は、遊就館は関係ない、東京裁判の結果を受け入れ、A級戦犯の存在を認めていると言っている。しかしやっていることは、A級戦犯とその他の戦没者を一緒くたにして、参拝しているのであり、「内心」ではそれらを区別しながら、「外面」「行為」では区別していない。東京裁判にいろいろな問題があるのは確かであるが、しかし戦争責任が当時の指導部にあることは、日本自身が裁いてもおなじことで、東条英樹にも責任がある。そしてそのことを彼自身が認識していたことは、家族の証言でも明らかである。東京裁判を否定したとしても、そのことに変わりはない。

 保守派から見ても、小泉首相のやっていることは、保守的ではなく、ましてや愛国主義的ではない。個人主義的で、合理主義的で、国際的なのである。欧米人が黄色い皮膚を被っているような感じである。靖国参拝にも魂や心が感じられないのである。総理大臣という公人が、自我にとらわれ、メンツや外面を異常に気にしているようにしかみえない。彼は、教育基本法改定の森元総理の狙いである公共の精神をもっていない、戦後民主主義的な個人主義の行きすぎた人に見える。

 景気は回復しつつあるとはいうものの、景気循環は、基本的には政策によって自由になるものではない。これをなくすことは、社会主義の目的であり、資本主義ではありえないことである。したがって、好況・不況、停滞、上昇、過熱、恐慌、等々の経済変動が、つきまとうのであり、ケインズ主義は、それを政治的分配の管理によって、多少の緩和をしたにすぎないのである。それにもかかわらず、マル経の大内国独資論などは、ケインズ主義の採用によって、資本主義的経済法則が完全変容したかのように主張した。しかしそれは誤りであった。

 自由主義経済政策をとれば、かならず失業者が多数出ることは、19世紀のイギリスの歴史からもわかっており、それがチャーチスト運動などの労働運動を大きくさせたし、諸種の社会主義を発展させた。キリスト教社会主義、リカード派社会主義、チャーチスト、空想的社会主義、等々。レーガン、サッチャー時代も同じだった。そして、小泉構造改革の結果も同じである。失業が大きく減るのは、好況の最後の景気過熱の段階である。そしてその時に、恐慌が準備されるのである。つまり、内的不均衡が著しくなるのである。ちょうど、バブル末期に、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を誇っていた時のようにである。この時、卸売物価が低下ないし安定していたが、同時に、不動産などの資産価格の急上昇が起きており、明らかに、価格運動が不均衡、偏りを示していた。

 現在は、企業間物価は原油などの輸入物価の上昇にともなって上昇しているが、消費者物価が上昇していない。このような不均衡の拡大は、やがて、調整されなければならない時が来るが、それが急激だと、不均衡が急に波及していって、経済運動を急激に攪乱することになるだろう。それは結局は、恐慌によって暴力的に調整されることになるだろう。そしてそれは、外国市場にも連鎖していくだろう。それはあるいは、アメリカ・ドルの暴落から始まるかも知れないし、中国・韓国・台湾やアセアン諸国などから始まるかも知れない。アセアン諸国では、外国通貨保有の多様化に務めており、ドル一辺倒の以前の政策を改めている。しかし、中国は、対米輸出が伸びているために、ドルを大量保有しており、それを米国債購入に当てている。日本も似たようなもので、アメリカの財政赤字やドル暴落の影響を強く受けることになる。

 物事を客観的に見れる人は、自由主義経済には失業・恐慌がつきものであることをわかっている。そういう人の中には、それはわかっているが、それらの問題を解決できる別の経済はありそうもないから、これらの問題に耐えるしかないと言う者もいる。とにかく経済成長して、全体のパイを拡大するしか、手はないというのである。ところが、それで一時的に改善されるのは失業問題であり、恐慌の方は解決されない。恐慌は好況時に準備される。恐慌後の不況は、ケインズ主義的な政策で対応すれば改善したはずが、バブル崩壊後の「平成不況」は、長引いた。

 バブル崩壊の恐慌は、極めて大きな社会変化を引き起こした。その一つは、土地神話の崩壊で、土地などの不動産担保による信用供与というそれまでの銀行のやり方が出来なくなったことである。地価下落は、バブル崩壊から10年以上たつ今も続いている。銀行は、それに代わって、国債などの債権類の蓄積や国費注入を受ける形で、資本安定・拡大をはかり、信用縮小、貸し渋り、貸しはがしを行ってきた。そして今や、莫大な利益を上げるようになった。証券・保険・銀行業の垣根も撤廃されて、銀行は、より多様なもうけ口を得たのである。国費注入に抵抗を示した銀行に対して、国有化するぞと脅しをかけてまで、それを強行したのは竹中である。その結果、20兆円を超える国費ー税金が返ってこないままとなった。他方で、小泉首相は、「痛みに耐えよ」と人々に我慢を要求してきたのだ。一方は、国から無理やり金を持たされ、他方の人々は、年金保険料値上げなど、増税や負担増で、国に金をむしりとられていった。それが、小泉構造改革の5年の結果の一つである。

 千葉7区補選で当選した民主党の太田和美氏は、「負け組ゼロ」を目標として掲げて、自民党の経済産業省出身で、埼玉県の元副知事のエリート「勝ち組」候補を敗った。勝負という基準で計れば、勝ちと負けはどんな社会にも生まれる。しかしそれは、あるルールに基づく部分的で一時的な結果であるにすぎない。例えば、マラソンでの勝ち負けは、トランプでの勝ち負けとは違う。前者での勝ち組が、後者での勝ち組になるとは限らない。その結果はどうか? マラソンでの金メダリストは、後に様々な報償や陸上指導者などの地位を得るだろうが、トランプの勝者にはそのような成果はもたらされない。ルールも違えば、使う能力も違うし、環境、社会条件、社会的評価等々も異なるのだ。

 ここで彼女が掲げている「負け組ゼロ」は、目標であり、それは、スポーツ選手が金メダルを目指すという目標を掲げているのと同じで、掲げたからといって必ず金メダルが取れるわけではないのは当たり前である。社会格差の度合いは、ある程度は政策・制度によって縮めることが可能であり、これまでだってそうしてきた。所得再分配制度がその一つである。90年代後期から、その機能が弱められてきたのであり、小泉構造改革によって、それがさらに弱められたのである。消費税という逆進性の高い税制もそうだし、所得税の累進性を弱めたのも、その一つである。高額所得者の税率をある程度戻せば、再分配機能を強化することがある程度可能である。今では、所得税の累進性は、先進国中で一番低いのだ。

 資本主義経済が、内的不均衡を拡大していくのには、信用の発展がかかわっている。信用によって、過剰投資がおき、それによって生産の過剰拡大がおき、過剰在庫が生じ、過剰消費が生じ、という具合に、不均衡が連鎖・拡大していくのである。企業同士が、競争に駆り立てられ、信用が容易な時期には、投資拡大競争が過熱し、過剰かどうかわからないまま、投資を拡大する。ライバルがそれを追いかけ、追い抜く競争に駆り立てられる。やがて臨界点を超える。恐慌が起きて、はじめて、過剰投資、過剰生産であったことに気づく。

 そのような不均衡をかかえ、格差をかかえ、不安定な社会に、長く絶え続けることは困難であり、それを感じる人は、安定した社会を強く求めるようになる。

 新入社員:終身雇用望む人4割 日本型経営への回帰顕著に
  財団法人「社会経済生産性本部」が今年の新入社員に実施した意識調査で、終身雇用を望む人が過去最多の約4割になるなど「日本型経営」と呼ばれた雇用システムへの回帰がみられることが分かった。一方「社内出世より、起業・独立」を望む人は約2割と3年連続で減少した。

 調査は90年から行っており、今年は3、4月に新入社員研修で実施し、1961人(回収率97.5%)が回答した。

 給与体系では、過去最高の37%が年功給を望んだのに対し、成果給は過去最低の63%。転職の問いでは「今の会社に一生」が過去最高の39.8%。従業員300人以上の企業では44.7%が終身雇用を望み、安定志向が目立った。「チャンスがあれば転職」は39.7%だった。

 安定志向は社内関係にも影響を見せ、担当したい仕事では「チームを組んで成果を分かち合う」が79%で「個人の努力が直接成果に結びつく」の20%を大きく上回った。「運動会など社内行事には参加したくない」は17.3%で過去最低となり、会社や同僚との一体感を求める傾向が出た。

 また約4割が「ニートになる人の気持ちは分かる」と答え、同じく約4割が「人より多く賃金を得なくても、食べていけるだけの収入で十分」と答えた。【東海林智】
                   (『毎日新聞』4月26日)

 小泉新自由主義とは正反対のものを求めはじめている新入社員が増えているというのである。無意識的に小泉政治の終焉を求める若者が増えているのである。「チームを組んで成果を分かち合う」が79%、「会社や同僚との一体感」を求める傾向が出た」。これは、小泉首相が自分個人の考えや判断に固執し、同僚を冷酷に切り捨てていったのとは好対照である。それは、終身雇用・年功序列などの日本型システムを守旧的として破壊してきた小泉構造改革に、真っ向から反している。雇用が流動的すぎるとリスクが大きくて、危険であることを経験から学んだのだろう。

 ようやく小泉政権5年間が、マイナスとして受け止められるようになったことは、高い代償を払ったにしても、けっこうなことだ。今、連立の成果をあげるという政治的目的を優先させた意味のよくわからない妥協の産物のベターでしかないと自民党幹部が自認している「教育基本法」改悪を、数の多いうちに片づけようということか、急いで成立させようとしている。また、当初の立法の趣旨をはなれて、「治安維持法」的な内容に変えられた「共謀罪」が審議入りしている。右派が次期総理と期待している安倍官房長官は、ベターでしかない「教育基本法案」を今国会で成立させると言っている。権力のためには、節を曲げるわけだ。

 ブッシュ大統領の支持率はついに32%と最低を更新した。議会共和党は多数ではあるが、これでは、力も出ない。数が多ければ力が出るというものではない。千葉7区の総力戦での敗北は、自民党内の確執や利害争いに火をつけたことだろう。小泉人気に頼り切った党運営に代わる党の求心力がないままだと、党分裂の危機に陥るのは、今度は自民党の方だろう。

 ようやく小泉政権の詐欺劇場の悪夢の時代が終わろうとしている。しかし、最後の置きみやげとして、本人も与党協議に丸投げしただけでやる気のない「教育基本法」改悪だとか、会話も取り締まる「共謀罪」だとか、憲法改悪を目論む手続き法の「国民投票法案」だとか、とんでもない悪法を残されてはたまったものではない。また、在日米軍再編の負担3兆円という声がアメリカから出てきており、日米一体路線を走ってきた小泉政権が、たんにアメリカにとって都合のいい金庫にすぎないことが、明らかになっている。そのツケを払わされるのは言うまでもなく、「国民」だ。こんな置きみやげもたくさんだ。 

 そんなこんなを徒然想った。

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小泉自由主義をのりこえるためにーとくに女性解放の視点から

  小泉首相は、今国会での「教育基本法改正案」の成立を目指すことにしたという。千葉7区補選での敗北で、秋の退陣までに、一つでも功績を残そうという焦りが強まったのだろうか? あるいは、武部幹事長よりも、森会長よりにスタンスを変えた方が得策と考えたのか? 

 森会長が、会期を延長してでも「教育基本法改正法案」を成立させたいと言っているが、それは、公共の精神を尊重する教育が戦後教育で抜けていることが、少年犯罪などを多発させている原因だからだという。彼の「教育基本法」改定の主眼は、前文の「公共の精神を尊び」というところにあるわけだ。しかし、これを「社会性を尊び」としないで、「国家精神を尊ぶ」という含みを持たせる「公共の精神を尊び」という表現にしているのは、「愛国心」と親和的な意味合いを帯びさせようとしているように見える。こういう点も含めて、この「教育基本法改正案」は、「改正」ではなく「改悪」である。

 会話をも取り締まる「共謀罪」もすでに審議入りさせており、衆議院での圧倒的多数を獲得している今がチャンスだとばかり、野党の反対が強い法案を置きみやげに、引退を迎えようということなのだろうか? 「共謀罪」は、とんでもない悪法である。

 去年の郵政解散総選挙でも、反対派を押しつぶして、自らを守旧派に潰されかかっている被害者のように振る舞って、有権者に救いを求めるというお涙ちょうだい劇で、小泉自民党を圧勝させたので、やればできるという自信が彼にはあるのかもしれない。しかしそれは過信というものだろう。劇場型選挙もあきられ、人気と選挙が別なことを千葉7区補選は結果で示したのである。昨年の総選挙の圧勝は、特殊なケースにすぎなかったということだ。そこで獲得した約300議席は、単なる数で、力や内容がある数ではないということだ。いわゆるホリエモン逮捕問題などの三点セットの追求の中で、小泉チルドレンさえ、小泉首相から距離を取ったことが、それを示している。党中央直轄選挙で敗れたことを見て、つぎの選挙での不安を抱えるかれらは、派閥や地元の支持団体・組織を頼りたくなっていることだろう。

 彼の政治は、ようするに、新自由主義・グローバル化政治であり、多国籍資本の利害代表である。彼の趣味も、オペラと歌舞伎、など、和洋混淆であり、国際的である。日米首脳会談では、ジーンズをはき、キャッチボールをする。そうかとおもえば、今度は、紋付きはかまで、相撲の表彰式に登場する。中国の孔子の言葉を使うかと思えば、国連総会で英語のスピーチをやる。

 男女共同参画推進の男女平等論者であり、欧米流の価値観を身に付けている合理主義者である。おそらく霊など信じていないが、靖国神社に格好だけの参拝はする。言葉は単なる道具で、できるだけ節約する。コミュニケーションについても、合理的で、肌と肌のつきあいはしない。

 こういうことが、男尊女卑的な古いタイプの政治家を嫌い、「冬のソナタ」ブームに見られた女性を1人の個人として対等な立場で愛するという自由恋愛観にはまった日本の女性の支持を受ける理由の一つだろう。しかし、小泉首相の男女平等思想は、能力主義を基礎にした自由主義的フェミニズムにすぎないのであり、「強い女」「勝ち組」の男女平等思想にすぎない。そのことは、すでに佐藤ゆかり、猪口邦子、小池百合子などの姿を見れば明らかだ。また、それは、過労が原因と思われる肺炎で入院した小池百合子環境大臣の、退院時に、男性と同等に見られるためには、何倍も働かねばならないので、無理をしたという意味の発言でも明らかだ。

  韓国は、戸籍制度を解体し、制度上で男女同権を進めており、女性首相が誕生する。社会には、封建的な意識や文化や慣習は残っているだろうが、制度上は、男女同権を進めている。その点で、日本は遅れをとった点もあり、それどころか、「男は外で仕事、女は家庭で家事・育児・介護」を主張するバックラッシュ派が、一部地域で、勢いづいている。

 小泉首相自身は、欧米流の男女同権思想を持っているように見えるが、それは構造改革だの郵政民営化だのに比べれば、前面には出しておらず、それを実現するための新たな政策化をする様子もない。ただ、外面・イメージだけが、男女同権論者ぽく、確かに内閣に女性大臣を登用したし、女性候補を刺客として公認したりはした。しかし、それも、パフォーマンス的で、しかも能力のある女性の登用であり、男と変わりないだけの仕事の出来る女性の登用であり、それはその能力が男性・女性に関係ないものゆえの登用なのである。一部の限られた能力の高い特別な女性だけの男女平等にすぎないのである。

 だが、日本での女性解放が遅れているために、それですら、今よりは、女性解放の前進として受け止められてしまっているのだ。これは、日本における女性解放の遅れを示しているので、反省しなければならないことだ。能力を高めることで、被差別の境遇から解放されようとするのは、在日外国人の間でも見られることである。

 能力主義は、いろいろな無理をもたらしたり、人間形成のバランスを崩したりする。能力主義によって一面的な人格が育つのをなくさないとだめだ。これは、塊より始めないといけないことで、意識変革と教育が重要である。社会全体が、人間形成のバランスを発展させないといけないのである。しかしなによりも、差別をなくすことが大事だ。差別する方も一面的な人格形成から解放されねばならないからだ。差別する者は自由ではないのである。

 女性が小泉支持なのは、民主党がこの分野で積極的な差別是正策を強調しないし、バックラッシュと闘わないからだ。

 『朝日新聞』の内閣支持率調査で、小泉内閣支持率が、若者の間で高まっているのは、この間の、民主党のごたごたが反映しているのであり、こういうことに大きく政治意識が左右されるのは、政治経験不足のせいである。かれらは、たまにしか投票には行かないだろうから、実際の選挙結果を左右することはあまりないだろう。

 民主党支持が多いのが40代・50代の男性だというのは、この層が、社会的にも、中堅層であることからすれば、有力な支持層である。しかし、政権奪取を目指すというなら、女性の支持をもっと多く獲得できるようにしなければならないので、執行部への女性の登用や政策づくりに女性党員・議員の声を反映させなければならない。26歳という若い女性候補の勝利は、そういう形で、党づくりに生かされなければ、看板だけ変えても支持の拡大にはつながらないだろう。

 小泉自民党は、民主党がかつて女性議員をつぎつぎと誕生させたことに学んで、女性に支持されるように党改革を進めてきたのだから、それ以下では、この面では勝負にならない。

 女性解放とパートなどの格差問題は、結びついている。同一労働同一賃金や少子化対策などとりくむべき課題は多い。新しい政治には、小泉自民党の自由主義的男女同権主義を乗り越える女性解放の思想・政策がいる。

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与党候補の相次ぐ敗北にちょっと思った

与党候補相次ぎ敗北 米軍再編争点の市長選など
 
 23日に投開票された各地の注目市長選で与党候補が相次いで敗れ、衆院千葉7区補選での自民党候補の敗北に加え、政府、与党に厳しい結果となった。後半国会を控え、小泉純一郎首相の政権運営にも影響を与えそうだ。
 
  在日米軍再編が争点となった山口県岩国市長選は、空母艦載機移転の撤回を求める井原勝介氏が当選。沖縄県沖縄市長選でも、米軍嘉手納基地の自衛隊の共同使用に反対する東門美津子元衆院議員が当選、与党候補が敗北した。
 
  米軍再編では、基地や部隊の移転先となる関係自治体が相次いで反対を表明。政府は、近く予定している米側との最終合意を前に、難しい対応を迫られることになった。(4月23日共同通信)
 23日投開票された千葉7区の衆議院補欠選挙をはじめ、岩国市長選挙、沖縄県沖縄市長選挙で、与党が支持する候補が敗れた。また、広島県東広島市長選挙では、自民党の中川政調会長の二男が立候補して負けた。
 
 千葉7区補選では、民主党候補が、小泉改革批判として、格差の是正を強く訴えて、自民党武部執行部が公募で選定した党中央が選挙区におろした落下傘型候補を敗り、小泉人気も通じず、小泉チルドレンから、ポスト小泉候補、ハマコーまで投入しての総力戦で敗れたことは、小泉執行部には大打撃である。小泉路線への批判票は、日本共産党候補の票を合わせるとかなり大きい。
 
 米軍部隊の岩国移転に反対する候補が市長選で大差で勝利したことも、小泉執行部には大打撃である。小泉後継最有力候補である地元山口県選出の安倍官房長官が、岩国市長選挙で、自民党が推す候補を支援しながら敗れたのである。
 
 昨年の総選挙でも、格差の是正を中心に訴えた社民党は議席と得票を伸ばし、日本共産党も議席維持を果たしていることから、この問題に対する人々の不安や不満が広がっていることは明らかであり、そのことが千葉7区の補選では再確認されたといえよう。

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4月23日『産経新聞』「職員会議 採決は校長の権限を縛る」のひどいこと

  23日付『産経新聞』主張「職員会議 採決は校長の権限を縛る」を読んで、頭にきた。

 この「主張」は、先日、東京都教育委員会が、学校の職員会議で挙手や採決を行うことを不適切とする通知を出したことを支持している。その理由は、「公教育の現場では校長の意思決定が優先し、たとえ教職員の多数意思であっても、それを否定することは許されていない。校長は職員会議の意見を参考にしてもいいが、最後は自分自身で決断しなければならない権限と責任を持っている。民主主義のルールをはき違えてはいけない」というものだ。

 問題は、職員会議での採択を参考にして校長が意志決定しないで、職員会議の多数決採択の結果によって、校長の意志決定が縛られたかどうかである。都教委は、そういうことが一部の学校で実際にあったとして、上の通知を出したわけである。これ自体は、校長自身の問題であり、職員会議の問題ではない。職員会議で、挙手や採択があったとしても、法的に校長の意志を縛るものではなく、ただ参考にしておけばいいことだ。

 この主張は、それを、職員会議のせいにして、問題をすりかえている。これは、校長がかわればいいだけの話である。

 それなのに、そこから問題をふくらまして、教職員の横暴な振る舞いが教育現場の混乱の原因として、無理やり、この問題と関連させている。曰く。

 「もともと、職員会議に関する法規定はなく、慣習とし認められていたに過ぎなかった。教職員組合の勢力が強い学校では、職員会議があたかも最高議決機関であるかのように誤解され、教育現場を混乱させてきた」。

 法規定のない慣習は、この世の中にはいくらでもあって、それはそれなりに、社会生活を円滑にする上で、有効な働きをするものもあるし、だんだん世の中に合わなくなって、廃れたり、廃止されたり、矛盾が大きくなっているものもある。習慣が、法律化されるという場合もある。民法には、そういう規定が多い。印鑑やサインが習慣的に使われていたのが、電子署名が習慣になって、公的に認められるようになるなどというのもそういう類のことだ。

 職員会議が、学校の最高議決機関として習慣化して、それが学校運営や教育上、いい効果を発揮する習慣であれば、それを合法化してもいいわけだ。

 しかし、「旧文部省は職員会議を「校長の補助機関」と位置づけ、意思決定機関ではないとした」。やはり、公式には、校長が職員会議を補助機関として扱えばよいだけの話である。

 とはいえ、こういう旧文部省の職員会議を「校長の補助機関」とする位置づけ自体が、はたして正しいかどうかという問題がある。

 この「主張」は、「広島県で七年前、国旗国歌問題をめぐり連日連夜の職員会議や教職員組合との交渉に追われた校長が自殺した。また、埼玉県立所沢高校では八年前、職員会議に加え、生徒会までが校長の指導に従わず、入学式や卒業式をボイコットした」「東京都国立市で、過激な教員の影響を受けた小学生が、卒業式に国旗を掲げた校長に土下座謝罪を求める事態が起きた(平成十二年)。広島県尾道市では、民間人校長が職員会議による“いじめ”同然の反発を受けて自殺した(十五年)」ことをあげ、これらの事件の原因を、「理不尽な職員会議」のせいにしている。

 またこれらの事例に対して、「悲劇や混乱」という観客的な態度をとっていることも、ジャーナリズムとしての自覚と責任感を欠いている。事件をしっかりと客観的にえぐる役割を放棄して、眺める者になってしまい、そして、そういう主観的印象を「職員会議」のマイナス評価と直結してしまっている。そういう前に、きっちりと問題を検証することが必要だ。この「主張」は、それをしていない。

 校長が右と言っているのに、それに反対して職員会議が左というと、校長の自殺や入学式や卒業式の混乱が起きるといっているわけだ。卒入学式で「日の丸君が代」強制を校長に指令したのは、教育委員会や教育官僚である。校長が、それを学校現場で実行するのは、校長の自発的意志というよりも、上からの官僚通達や指令や指導によるものだ。

 校長は、教育委員会や教育官僚の操り人形か? それで、どうやって、創造的な教育が実践できるだろうか? 校長が、教育委員会や教育官僚のロボット化して、自由や民主主義教育が、本物になろうか?

 『産経新聞』は、自由だの民主化だのについて、口では、耳にたこができるほど、繰り返してきた。とくに、イラクに自由と民主化をもたらすためには米英などの多国籍軍によるイラク攻撃は有効だったと強調している。イラクには自由民主主義、日本では教育の官僚主義支配の支持、一体どっちが正しいのか? 読者を混乱させるその二枚舌をいい加減に止めたらどうだろう。こういう二枚舌や裏表ある態度こそ、教育のためにならない。

 教職員の意欲やインセンティブを高め、引き出す教育こそが、上のような愚策で教育を官僚主義で窒息させるよりも、はるかに教育を向上させていくことになる。

 この「主張」は、民主主義とは何かを提起せずに、ただ他紙の民主主義観にけちをつけるネガティブキャンペーン的なことをやってすましている。それも問題だ。『産経』流の民主主義観は、あくまでも『産経』という民間の一新聞の特殊な見方にすぎないことを読者はしっかりと念頭に置く必要があることを強調しておきたい。 

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教育基本法改定案について。再び。

  自民ー公明が合意した教育基本法改正案が、今月中にも、国会上程されるという報道がなされた。しかし、この改定案は、読めば読むほど、おかしな文章に見えてきて、どうしてこんなわけのわからない基本法を、急いで成立させようとしているのか、不思議に思えてくる。

 自民党内からも、いろいろと批判が出ているようだが、すでに反対派への根回しはすんだと自民党幹部が語っているという。しかし、小泉首相自身は、慎重に情勢を見極めると言っているという。

 まず、もっとも大きな焦点になっている「愛国心」は、けっきょくもりこまれず、「国や郷土を愛する態度」になっている。いうまでもなく、「態度」と「心」は異なるものである。「態度」を『岩波国語辞書』で引くと、「身の構え。そぶり。様子。」とある。「心」は、「①からだに対し(しかもからだの中に宿るものとしての)知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働き。」である。

 「態度」は、外形的なものであり、「心」は、内在的なものである。したがって、この部分は、国を愛することを内面に立ち入って教育するものではないということをわざわざ明示しているわけだ。「愛国心」強制を排除する根拠を明記しているといってもいい。

 さらに、日本国憲法の精神に基礎を置くことを残しており、そういう歯止めもかかっている。

 確かに、公共性の精神や教員の崇高な使命の自覚とか自立心などの精神・心の強調が目立ち、教育がそういう領域に深入りする危険が感じられるものではある。

 新たに入れられた家庭教育・幼児教育の部分はどうだろうか。

10・家庭教育

(1)父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。

(2)国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。

11・幼児期の教育

 幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。

 これらのことは、いろいろとこれまでも行政が行ってきたことであり、わざわざ教育基本法に入れるほどのこともないことである。こうしてなんでも国家行政にやらそうというのは、「官から民へ」の小泉改革のスローガンには逆行するのだが、そんなこともおかまいなしだ。

 道徳教育は入っておらず、宗教教育についても、保守派が従来から主張してきた宗教的情操の涵養はまったく入っていない。道徳教育については、学習指導要領が強調しており、「ゆとり教育」の狙いが、そこにあったことは明らかだ。学力一辺倒だと、道徳教育がおろそかになるということだ。受験勉強のために、道徳の時間が削られることを体験した人も多いのではないだろうか。他科目の自習黙認みたいな形である。文部官僚は、そうやって、受験競争を突破してきたのではないだろうか。「ゆとり教育」については、経済界からも批判が強くなって、学力重視になし崩しに戻りつつある。

 とにかく文部官僚は、昨日決めたことを今日はひっくりがえすことを繰り返して、現場に混乱ばかり引き起こしている。「日の丸君が代」強制みたいな現場を混乱させるような余計な官僚主義的な介入をしないのが教育のためである。

 「教育は、不当な支配に服することなく」は、そのまま残っている。『産経新聞』は、それが、学校での「日の丸君が代」強制に抵抗する教師などの行為に根拠を与えていると批判している。

 いずれにしても、これは、自民党と公明党が、連立の求心力を保つための法案であって、昨年の総選挙での圧勝によってえた圧倒的な議席数の優位を背景にした政局的な狙いを持つものだろう。連立の成果が欲しいのだろう。

 「愛国心」明記などを求めている保守派は、昨年の総選挙で、刺客を送り込まれて支持基盤を分裂させられたり、大量に処分されたり、党から追放されてしまって、自民党執行部に逆らえる状態ではないし、弱体化してしまっている。民主党でも、西村真吾は離党しているし、保守系の大物議員も多く落選してしまった。力もでない。

 こんなものに変えても、教育がかかえる課題は解決などしない。教育基本法改悪反対である。現行教育基本法の理念の現実化を推進していくのがよい。

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沖縄県民沿岸移設案反対71.4%

  以下の『沖縄タイムス』の記事を読むと、政府と名護市の間の普天間基地名護市沿岸移設案の合意への沖縄の人々の風当たりはそうとうきつそうだ。

 先日、沖縄の基地問題や歴史に詳しい人に聞いたのだが、稲嶺沖縄県知事は、今年秋での引退が濃厚で、残りわずかな任期中に、この問題を無理に解決する気がなく、政府提案を突っぱねる可能性があるということだった。下手に妥協すると、こういう名護市と政府の合意を批判している多数派の県民から非難され、名誉ある引退が難しくなるからということだろうか。

 在日米軍再編が、政府と米政府の間で、住民の頭越しに行われたことのツケが回っているのである。どう決着がついても、以下に現れている不信感は、そう簡単には消えないだろう。

 『沖縄タイムス』社説(2006年4月20日朝刊)

[沿岸合意世論調査]

「絶対ノー」が県民総意だ

県と県民への差別としか

 米軍普天間飛行場移設地である名護市辺野古キャンプ・シュワブ沿岸部に滑走路を二本造る案に対し県民の71・4%が反対していることが分かった。

 沖縄タイムス社が実施した世論調査の結果だが、政府と合意した島袋吉和名護市長の姿勢についても67・8%が「支持しない」と答えている。

 「二本案」に賛成(17・3%)、市長の合意判断支持(20・3%)と比べれば、島袋市長が選択した合意が民意に反しているのは明らかだ。

 市長を支持しない理由の約六割が「市民や県民の総意とは思えないから」ということからも分かるように、政府案への反発は相当なものがある。

 島袋市長は合意理由を市民に説明すべきであり、その際は政府による振興策の是非も明確にすべきだろう。

 賛成の中には「政府の地域振興策が期待できる」(19・6%)という回答もあった。県内の経済・雇用環境の厳しさを考えればもちろん理解できる。

 だが「二本案」の建設に名護市を含む北部エリアでの反対が66%あり、賛成は20%しかない。もはや“アメ”では県経済の根本的課題は解決しえないと考える人が北部地域にも増えてきたとみていいのではないか。

 この数字は、町村民にまったく説明せずに合意した周辺自治体首長にも突きつけられたといっていいだろう。

 その意味で、市長はじめ周辺自治体首長の行動が基地の固定化を容認したと受け取られても仕方なく、その責任は重い。

 防衛庁幹部は「県民の思いは重く受け止めるが、想定内の数字だ」と述べている。裏を返せば「反対があっても移設を実行する」という姿勢といえる。これは基地が過重配備されている沖縄県と地域住民に対する差別であり、絶対に許してはならない。

 「二本案」に反対する七割超の民意は県内移設に対し「ノー」の意思をあらためて鮮明にした。稲嶺恵一知事を支持する73・4%の数字と合わせて考えれば、政府は反対の数値を「想定内」と判断してはなるまい。

 政府の認識は県民総意と相容れず、県民の声をあえて無視する姿勢が傲慢に映っていることを知るべきだ。

訓練の内容知らない長官

 滑走路二本を風向きによって「離陸用」「着陸用」に使い分けるが、有事には「例外措置」を適用する。額賀福志郎防衛庁長官はこう説明した。

 在日米軍再編の重点項目が抑止力維持と機能強化であれば例外措置が増えるのは明白ではないか。戦後六十年を経てなお基地被害を受け続けている県民は、米軍が県民の暮らしを無視して訓練することをよく知っている。

 有事にとどまらず、米軍は自らの裁量でいつでも例外措置を取ってきた。

 騒音防止協定で原則禁止されている嘉手納基地における未明の離着陸がいまだに繰り返されている状況をみれば、長官の発言は詭弁であり、負担軽減につながらないのは明らかだろう。

 提供された施設の管理権は米軍にある。「運用」について政府はこれまで何も言えない―とし、県民の恐怖や不安に応えてこなかったではないか。いまさら取ってつけたように例外措置を強調するのはやめてもらいたい。

 しかも普天間飛行場、嘉手納基地で展開されるタッチ・アンド・ゴー(離着陸)の訓練を「承知していない」と長官自ら述べるのだからあきれる。この訓練はV字形滑走路でも実施されるはずであり、知らないでは済まされまい。

事後報告は政府と同じだ

 移設問題を地域の頭越しに進めないとしたのは政府である。地元の理解を得た上で交渉する―という小泉純一郎首相の言葉も県民は忘れてはいない。

 それを頭越しに行い、選挙で選ばれたばかりの島袋市長の同意を強引に得た。国が設定した土俵に上がった市長の判断ももちろん甘いといっていい。

 が、見過ごせないのは市長もまた市民の頭越しに政府と合意したという事実である。これでは「事後報告は卑劣」と批判した政府と何ら変わらない。

 少なくとも防衛庁幹部に「市民の代表である島袋吉和市長の同意を得ている」と正当化を許してしまったのは失策であり、市長は合意に至った経緯を市民に説明する責任がある。

 「二本案」への合意が「市民をないがしろにした」のは確かで、島袋市長はスタートしたばかりの市政をどう舵取りするつもりなのか。その政治理念に市民の厳しい目が向けられていることを忘れてはなるまい。

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前記事への補足

 グローバル化と安定は一時的にしか両立しない。この社説のように両立するように言うのは、近代経済学に共通する均衡論のドグマを信じ込んでいるからである。この点については、近代経済学の中から、不均衡論が台頭したことからも、また90年代の世界経済の現実からも明らかであって、『朝日新聞』であれ、『日経新聞』であれ、グローバル化と安定を両立可能であるかのように論じているのは、夢想を語っているのだ。

 それなら、アジア共通通貨構想やアジア共同体論を、中曽根元首相をはじめ、財界や政界、経済学者などがなぜ推進しているのかが理解できないだろう。現に、古典派経済学を信奉している連中は、これが中国のアジア覇権確立の政治的狙いで推進しているという空想話を繰り返している。それなら、これらを積極的に推進しているのが、アセアン諸国であるのは、どういうわけだろうか? 

 アセアン諸国は1990年代後期に、アジア通貨危機を経験し、ひどい目にあったから、ドル依存からの脱却を進めてきた。地域経済統合をつくり、経済を安定させる必要を強く感じているのだ。それに対して、日本は、ますまるドル依存を深め、アメリカ経済とのつながりを強めている。双子の赤字増大が止まらないアメリカを信用し続けているのである。不動産バブルが崩壊しつつあるアメリカ経済の先行きは不透明であり、ドル暴落の危険性をつねにはらんでいるような、不安定なアメリカ経済に依存し続けているのだ。

 いずれにしても、グローバル化は、不安定なのが通常であって、安定しているのは一時的である。アジア通貨危機を引き起こした外貨取引の自由化を大規模にしたオフショア市場は、一瞬にして、ものすごい規模のマネーを右から左に、地球上を動かすのであり、それを政府は監視もコントロールもできないのである。日本にも東京オフショア市場があるが、そこでの取引規模は現在はそれほど大きくないようだ。

 いずれにしても、自由化によって、政府が危機を管理することが難しくなって、国家破産にまで一気に進んでしまうのである。そこで破産国家には、IMF(国際通貨基金)が、最後の貸し手として、融資を行うのだが、つけられる条件は極めて厳しく、融資を受けた政府の経済政策はほぼIMFが握るというもので、主権を失うに等しいものである。

 90年代、日本も危なかった。不良債権の巨大化によって、銀行がBIS規制を守れず、海外業務が不可能になるとか、山一証券破綻や銀行倒産が起きつつあったからである。アジア通貨危機によって、アセアン市場も縮小した。それを救ったのは、中国の高成長であり、中国市場での需要がなければ、大変厳しい状況に陥っただろう。

 このように、グローバル化と安定は相容れないのであって、それを近代経済学が、調和するように言うのは、神話を信じ込んでいるとしか思われない。ロシア経済危機がアメリカの金融市場に波及し、国家破産手前までいった事件を、NHK特集がやったことがある。国家主権の及ばない世界市場を通じて、巨大なマネーが世界を移動し続けているという事態が、国家を大きく揺さぶっているのである。

 グローバル化時代に、国家財政の安定など望むべくもないし、社会保障制度の安定も困難なことは明白である。まずは、国際環境の変動に対して緩衝装置を作る必要があり、しかもそれは単独ではなく、国際的に作る必要がある。グローバル化に対応するには、そういうことまで視野に入れなければならない。

 小泉政権の路線が復古だというのは、単独の古典的国家像をもって、こうしたグローバル化に対応しているからでもある。田中政治の国家改造に対して、古典的な自由主義国家像を対置しているのである。とはいえ、実際には、グローバル化への対応としての国家改造を進めているのであり、多国籍資本の利害が反映されているのだ。つまり、BIS規制をクリアして国際銀行業務を続けるさせるという国家意志を貫いて、銀行救済をまずは国有化をちらつかせながら行ったのである。

 グローバル化に対して、アジア通貨危機を経験したアセアンや韓国は、こんな日本の新聞のグローバル化礼賛の記事を読んだら、甘いと思うことだろう。

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4月19日『朝日新聞』社説は経済がわかっていない

 4月19日『朝日新聞』社説は書いている。

  経済成長 豊かさを支えるために

 高めの名目成長率をめざすのか、早めの増税に頼るのか。財政再建の道筋をめぐる政府・与党内の論争は、次期政権への思惑もからんで経済政策の大きなテーマになっている。

 傾いた財政を立て直すには経済の成長が不可欠だ。ただ、名目成長率は物価上昇でかさ上げされた数字だ。経済の実力を高め、安定した社会を築く実質成長こそ重視する必要がある。そのための戦略こそ競うべきだ。

 日本は人口減と高齢化、それにモノもカネも国境を超えて往来するグローバル化に直面している。初めて体験する巨大な波を乗り切るには、経済の活力を保つ構想力が求められる。

 成長のカギを握る要素は労働、資本、技術といわれる。すでに働く人の数は減りだした。お年寄りを中心に貯蓄を取り崩す世帯が増え、企業に回る資金が細る心配も募っている。

 けれども過度に悲観することはない。技術力をさらに高め、質の高い人材を育てることで、個々の労働者がより多くの価値を生み出せるようにする道があるからだ。それには学校教育の充実や企業の人材づくりへの投資が欠かせない。

 新たな商品やサービスを生み出すために規制の見直しをさらに進めたい。談合などを通じ、仲間内で利益を分け合う産業の生産性は低い。意欲のある起業家の知恵や工夫が生きる構造に変えることが急がれる。

 最近の耐震偽装問題やライブドア事件の元凶として、規制緩和をやり玉に挙げる向きもある。経営の暴走を監視し、企業が自らを律する仕組みづくりは急がれるが、競争をただ制限する方向に舵(かじ)を戻すのでは元も子もなくなる。

 グローバル化も、国内産業の空洞化といった負の側面ばかりを強調していては実態を見誤る。

 とくにアジアの国々との自由貿易協定は大切だ。新しい技術を提供することで途上国と成長を分かち合うべきだし、より多くの外国資本を国内に導き入れるのも成長の糧になる。

 もちろん地球環境を損ない、人心がすさむような成長至上主義は論外だ。国内総生産(GDP)を増やし所得が伸びれば、直ちに暮らしやすさや幸せがもたらされるわけでない。それは戦後の高度成長のなかで身をもって学んだ。

 だからといって、成長力を失った社会では安心できる暮らしは望めない。長期不況によって、どれだけの人が職を失い、苦しい思いをしただろうか。

 働くことは生活を支えるだけでなく、充実した人生を送る土台でもある。年金や医療費といった少子高齢社会を支える原資も、成長を通じてもたらされる。

 経済が停滞すれば、失業が増えたり、国民の税負担が大きくなったりして、貧しい人がさらに打撃を受けることにもなりかねない。行き過ぎた所得格差や機会の不平等を是正する政策も、経済の拡大と歩調を合わせてこそ円滑に進む。

 『朝日新聞』は、こんな近代経済学の教科書の一節のようなものを読まされて、本当に人々が納得するとでも思っているのだろうか? 

 まず、名目成長率(GNP)よりも実質成長率(GDP)が重要であるという。その理由は、実質成長は、経済の実力を示すからだという。その経済の実力とは、技術力と人材力からなる。それらを教育、人材育成投資などによって、個人個人としての労働者がより以上の価値を生み出せるようになる。1人当たりの生産性をアップさせることだというのだ。

 これは1人当たり生産性などという不条理な概念をでっち上げて、リストラや能力主義賃金、成果主義導入を正当化した企業の論理そのままだ。どんな企業体でも、労働は、個人労働ではなく、結合労働であって、成果はその全体であり、それは、個人労働の単純合計ではない。そうでなければ、株主が引き出す配当はどこからも出てこない。それについては、ちょっと数式が面倒だが、「マイリスト」に載せてある松尾匡さんのホームページにある「マルクスの基本定理」のところを読んでみていただきたい。

 ときどき統計数字として出てくる1人当たりGDPとかいう数字も、あくまで計算上の抽象であって、一つの目的が限定された指標にすぎないのである。生産性は、今日の生産体制、技術、協業と分業等々と関連して考えられねばならないので、ある抽象的な単純化して作られた指標の一つとして扱われねばならないのである。

 それから、規制緩和、起業促進、生産性向上、そしてグローバル化の正の側面の強調である。この社説が、グローバル化の負の側面というのは、産業空洞化で、法人税を上げれば、国内企業が外国に移転してしまうということなどである。しかし、例えば、トヨタが、本社ごと海外移転したとして、何万人もの従業員を引き連れていくことは難しい。例えば、そういう企業からの輸入を禁止すれば、大きな販売市場を一つ失うことになる。ライバルが一つ消えれば、他の同業者はよろこんで生産を増やすだろうし、それこそ外国資本も参入の機会が増えたと進出してくるなどして、その穴を短期間で埋めるだろう。もちろん、技術力を備え、トヨタによってよく訓練された労働者は、それらの企業によって雇用されることになろう。ただし、法人税引き上げに抵抗するために、利害を共にする企業同士が手を組むことはありうる。その場合には、それを許さない、労働者の利害のために力を発揮する権力があることが必要である。

 ただし、グローバル化による経済成長の正の側面を強調しつつ、「もちろん地球環境を損ない、人心がすさむような成長至上主義は論外だ。国内総生産(GDP)を増やし所得が伸びれば、直ちに暮らしやすさや幸せがもたらされるわけでない。それは戦後の高度成長のなかで身をもって学んだ」と、その負の側面を指摘する。これはこれでバランスを取った記述である。かつて、所沢のダイオキシン騒動で、あれほど厳しく環境保護を声高に主張した『朝日』にしては、ずいぶんと、環境問題を低めている書き方だ。成長至上主義を、人心荒廃すなわち心の問題に入れている。環境問題は、生命の問題であり、生存、生活の問題だったのではないか? ダイオキシンが出にくいものを作り、最終処分やリサイクルしやすいものをつくるように企業を規制しなければ、この問題は解決しないのは明白だ。戦後の高度成長がもたらした弊害は、公害問題、都市過密問題、などとして、ついには人々の生存を脅かしつつあって、それまでの成長主義の近代経済学の限界が明らかになったこともあって、田中路線が生まれたのである。

 『朝日』は、また田中以前の成長主義の近代経済学の時代に逆戻りしろというのか? すでに破綻したものに戻れというのだろうか?

 社説は、低経済成長率が、貧困化や社会の不安定化、年金・医療危機の深刻化の原因だとして、成長、経済拡大を求めている。しかし、資本主義経済である限り、景気循環があって、かつてのバブル崩壊のような恐慌は避けられない。つまり、政策で、自由に経済を動かすことはできないのであり、したがって、公的社会保障制度を安定的に維持することはできないのである。そこでアメリカでは、経済状況次第で変動する401K年金制度にしているのである。年金は株価(資本市場)次第なのだ。

 『朝日』は、これに対して、経済成長すれば、セーフティーネットもよくなると楽観的だ。しかも競争も拡大すべきだという。グローバル化時代では、世界的な競争の激化による経済の波をもろに被ることになり、アジア通貨危機の時がそうだったように、危機は連鎖的に国際的に広まる。それに対して、EUであれ、アセアンであれ、南米共同体であれ、地域統合をすすめているのは、こういうことになんらかの備えを単独ではなく共同で行わねばならないからである。

 また、「働くことは生活を支えるだけでなく、充実した人生を送る土台でもある」と言っているが、現状ではこうなっておらず、だから勤労者も、自由時間がほしい、余暇がほしいとと言っているのである。非正規雇用者は、時間はあるが、生活が苦しい。人々の前には、どっちかしかないという二極化の選択肢があるだけで、どっちもあるという本当の豊かさは選択肢にないのだ。戦後60年、どうしてこんなことになってしまったのか、近代経済学の教科書の優等生の模範解答みたいなもの繰り返すのは止めにして、『朝日』には、つっこんで考えてもらいたいものだ。

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小泉政権の末期に徒然想った

 いよいよ小泉首相も退陣の時期が迫ってきて、彼の「改革」の化けの皮もはがれつつある。彼が、古い自民党をぶっ壊すというのは、田中派ー旧経政会支配をぶっ壊すという意味であり、それに取って代わったのは、森派支配、すなわち岸政治の復活ということにすぎなかった。革新でなく、復古だったのだ。

 つまり、ぶっ壊して出てきたのは、田中派支配前の古い昔の自民党であり、そういう昔の自民党を知らない者には、新しく見えているというだけのことなのである。経済政策は、昔懐かしい古典派経済学であり、政治は大資本よりの自由主義であり、日米同盟派だ。

 だから、それは、右派保守派の先祖を称える声と、昔の政治に戻るという動きとマッチしているのである。過去にさかのぼったところで、いい点も悪い点も見つかるわけで、一方的に誇ろうとしても、普通の認識力があれば、無理がある。

 靖国問題にしても、旧橋本派の牙城である遺族会を手中にせんとする動機で続けているだけで、中・韓への「内心の自由」の主張も、先祖の犠牲への感謝などというのも口先だけのことだ。今はやりの細木和子なら、あの年で単身でいること自体、先祖に無礼だと怒られるだろうし、毎日先祖を拝んでもいないだろうし、月命日の墓参りなどしていないだろう。年に一回、ちょいと靖国神社でお賽銭を投げて拝む、それは遺族会向けのパフォーマンスとしては十分かも知れないが、先祖への感謝の誠を捧げるには、非礼なので、そう思うまじめな人は、そんな非礼をするぐらいなら、靖国参拝など止めてしまえと言っているわけだ。

 小泉という人は、どうみても、アメリカ流の合理主義者であって、日本的共同体で育まれた宗教感や倫理観とは無縁なのである。明治時代の神社合祀で、共同体の人々が信仰していた雑多な仏や神などを壊したり、鎮守の森の古木を伐採していったことに痛みを感じた南方熊楠のような感性を持ち合わせていないのである。

 熊楠がとくに怒ったのは、役人と政治家と神主らが材木商と結託して、鎮守の森の古木を売って、伐採していったことで、これを止めるために、柳田国男と結んで、反対運動を行った。小泉首相にはそういう感性などかけらもない。それは靖国神社にもない。共同体から働き手を奪い、共同体の神や仏を祀るべき祭主を奪ったことにたいして、共同体の神や仏にたいしてわびの一言もない。

 靖国神社の歴代宮司も、ご立派な元貴族のお歴々で、下々の生活とは無縁の殿上人ばかりで、南方熊楠のような、人々の暮らしと密着している共同体の信仰生活など知らぬ者たちだ。それが、知ったような顔をして、みんなお国のために死んでいったなどとのたまうから、死者も鼻白んで、しらけているだろう。

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自虐史観批判ブームの終焉に徒然想う

  一時、都市部で一世を風靡した小林よしのりやその信奉者たちが、特攻隊をはじめとする旧帝国軍人をやたら神のごとく崇めて、持ち上げた。不思議なのは、それは明らかに行きすぎで極端であるにもかかわらず、言ってる本人たちは、それを普通だと思いこんでいることだ。どうみても、この連中は、信仰を持つ信者に見えるのだが、その自覚を欠いているみたいである。

 もともと地方では小林よりのりはそれほど人気はないが、今では、まったく読まれていないようで、どうして都市部だけで、あれだけ売れたのか、不思議だ。今や全国どこでも『国家の品格』ブームだろう。この本は、ナショナリズムには懐疑的だし、教育基本法に愛国心を入れることにも著者は反対だと言っている。

 小林ブームの場合、スタイルの珍しさということはあったかもしれない。左翼をカタカナのサヨクと書いてみたりするということだ。ゴーマニズムなる造語の面白さもあったかもしれない。しかし、主張内容は、むかしから言われてきたものばかりで、ネタ自体は古いもので新味はない。使っているのは、例えば、日韓併合についてのところでは、形式主義にすぎない。しかし、一般の法律問題でも、現実の内容を調べて、正当性を吟味するということは行われていることであり、例えば、脅迫や詐欺による契約は無効である。契約当事者の双方が実際に自由で対等な意志を持って契約したものかどうかを調べるのである。

 「一進会」は、対等合邦を求めたのであって、永久併合を求めたわけではなく、日本側で、「一進会」を支援していた右翼も、日本政府に裏切られたと言っている。その後、日本政府が、「一進会」を活動禁止にしたのは、「一進会」の対等合邦論が、日本政府の真の狙いであった永久併合の政策に反する主張だったからであろう。永久併合ではないならば、独立の条件や期限等々の約束がなされていなければならない。もちろん暗黙の前提ということもあろう。しかし、その後の独立運動を弾圧したことからも、それはなかったと言える。

 その民族が独立するかしないかは、その民族自身が自由で民主的に自主的に決めることで、他の民族が干渉すべきことではないという民族自決権が、世界のルールとして大きく宣言されたのは、第一次世界大戦時であり、アメリカ大統領のウィルソンの原則が有名だ。国連憲章も民族自決権の承認を掲げている。

  戦後韓国がアメリカの力を借りて独立したから真の独立ではないなどという意見も見られるが、どこの力を借りようが、政治的独立は独立である。それを言うなら、日本だって、今のイラクだって、真の独立国と言えないだろう。帝国主義時代には、政治的独立ー形式的独立は実現できても、真の独立などということは一部の帝国主義国をのぞいてはありえない。形式的政治的独立が、民族自決権の最高度である。それを超えるとなると、帝国主義の仲間入りするしかない。それには、日本が、日清・日露戦争を戦ったように、後発組は大変な犠牲を払わねば無理である。日露戦争でのイギリスからの借金の負担は、後に大増税をもたらした。帝国主義間の争いも熾烈であり、弱小帝国主義国は、強い帝国主義国に従属させられる。アメリカと日本の関係のように。

 日共のように、このような関係を、帝国主義間の関係ではないとして、アメリカ帝国主義と日本独占資本主義との関係というふうに見るのは、超帝国主義論であって、正しくない。日米関係は、支配的帝国主義国と従属的帝国主義国という帝間関係である。

 さて、小林よしのりなどの自虐史観批判などに、なんとなくはまったが、だまされたと気づいて、こういう連中から離れたという人も出始めているようである。しかし、だからといってすぐには、反対側に行くというわけではなく、その間には、中間の状態、あるいは中立という状態がある。今、中立化ということが起きているように思われる。

 この間の「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛に嫌気がさして脱会する会員が出始めているようだが、そういう人も、まずは中立に移行するのではないだろうか。

 それにしても、日本会議とフジ産経グループは、表向きは不介入を装いながら、陰で「つくる会」人事に介入するという薄汚いまねをやっていることに、「つくる会」東京支部はずいぶん怒っているようで、種子島会長ー八木副会長体制確立をはかるための関東ブロック会議をボイコットするという。

 西尾氏は、怪文書も公開して、全面的に闘う構えを見せている。それに藤岡信勝も、反八木を鮮明にしつつあり、八木ー宮崎元事務局長ー旧日本青年協議会系理事との対立は、いよいよ本格的になってきた。この分裂が、フジ産経グループや日本会議に反射して、そちらでも内紛が始まるかもしれない。

 それにしてもブームははかないものだ。

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教育基本法改定与党合意案への各紙の反応から

 教育基本法改定の与党合意案ができたことを受けて、新聞各紙が社説で取り上げている。まず、抜粋してみる。

  4月14日『朝日新聞』

 第一に、急いで見直す必要が本当にあるのだろうか。基本法でうたっているのは理念である。改正しなければ実現できない教育施策や教育改革があるというのなら、どんなものかを聞きたい。

 学校で事件や問題が起きるたびに、教育基本法を改正すべきだという声が政治家から上がる。しかし、本当に基本法が悪いから問題が起きるのか。きちんと吟味する必要がある。

 第二に、「国を愛する」ことは自発的な心の動きであり、愛し方は人によってさまざまなはずだ。法律で定めれば、このように国を愛せ、と画一的に教えることにならないか。それが心配だ。

 こうした不安が消えないのは、国旗・国歌法について当時の首相が「強制は考えていない」と答弁したのに、強制が広がっている現実があるからだ。

 基本法の改正をめぐる与党検討会は3年間で計70回にのぼる。しかし、与党内だけのやりとりであり、国民の関心や論議はいっこうに盛り上がっていない。

 教育という大事な政策の基本にかかわることである。今回の合意をたたき台にして、国民が大いに論議することが必要だ。改正法案を出すかどうかは、それから先の話である。

 4月14日『東京新聞』
 
 なぜいま、合意を急いだのか。巨大与党の小泉政権のうちに解決しておきたい自民党と、今秋の首脳人事や来年の参院選を控える公明党との思惑が一致した、との見方がある。

 基本法の改正については三年前、中央教育審議会が答申で「国を愛する心」や「公共の精神」など八項目を、あらたに盛り込むべき概念として挙げた。

 「国を愛する心」については「国家至上主義的な考え方や全体主義的なものになってはいけない」と、既にその時クギを刺している。

 基本法は教育の憲法である。その基本法で定められれば、学校現場で教育内容を規定している学習指導要領などにも、より色濃く反映されよう。基本法でうたう以上、教育現場での扱いをどうするのか。現場が混乱しないのか。

 かつて国旗・国歌法が成立したとき、小渕首相(当時)が「児童や生徒に強制するものではない」と国会で答弁したにもかかわらず、現実には卒業式で国歌斉唱時に、起立を半ば強制している教育委員会もある。

 現行法では、前文で「個人の尊厳」や「真理と平和を希求する人間の育成」などがうたわれている。改正の前文案でもこれらの理念は引き継がれているというが、この理念が教育現場で実践されていれば、いま社会問題となっているいじめや虐待、拝金主義などの問題は克服されていよう。改正する前に現行法の理念を実践することが先である、ともいえる。

 教育基本法改正に関する与党検討会の議事録は公開されていない。いまのところその予定もない。教育は国民みんなのものだ。改正の是非をじっくりと考えたい。

 4月14日『産経新聞』

  「愛国心」の表現で、これだけもめる国は、おそらく日本だけだろう。愛国心は、どの国の国民も当然持っているものだ。そして、愛国者であることは最大の誇りとされる。国の根本法規である教育基本法は、もっと素直な表現であってほしい。

 これまでの与党合意には、家庭教育の充実など評価すべき点も多いが、現行法より後退しかねない部分は、なお修正が必要である。戦後教育の歪(ゆが)みを正し、子供たちが日本に生まれたことに誇りを持てるような格調の高い改正案に仕上げてもらいたい。

 4月13日『読売新聞』

 「愛国心イコール戦前の教育」との考え方は共産、社民両党も主張している。民主党内にも、旧社会党系議員を中心に同様の意見が根強い。

 だが、愛国心を教えることを否定的にとらえる国など、日本以外にない。戦後の平和国家としての歩みを見ても、わが国が「戦前の教育」に戻る可能性は、微塵(みじん)もない。

 こうして並べてみると、この問題に関して、『読売』『産経』の主張が無内容である。 『産経』は、愛国心は世界的に普通だという一般論で、誤魔化している。もめているのは、その中身をめぐってであって、愛国心一般をめぐってではない。『産経』が、それを具体的に提出していないのがだめなのだ。そこから、表現に文句をつけて、素直じゃないなどと言っている。それから、現行法より後退しかねない部分の修正を求めている。どこがそれに当たるのかは具体的に指摘していない。野党に向かっては対案を出せとうるさく噛みついている割には、自分自身にはそれを免除している。次の戦後教育の歪みを正すということがもっとも言いたいことなのだろう。与党合意案は、やはり公明党への配慮がいろいろあって、それにはほど遠いものであり、『産経』は、再修正が必要だと思っているようだ。ただ、表現に文句をつけているだけで、具体的な内容を対置していない。

 『読売』の方は、この合意案に全面的に賛成で、今国会で成立させるべきだと言う。愛国心については、前に書いたように、対テロ戦争という戦時の中で、すでに平和国家も怪しくなりつつある中での「愛国心」教育は、新たな「戦前の教育」と言えよう。そういう時代の現実を見ないで、どうして時代を読んだと自負できるのか。『読売』の主張は、自惚れにしか見えない。

 『朝日』『東京新聞』は、改正するかしないかも含めて、これから議論をしっかりやるべきだと主張するものだ。後者は、教育基本法の理念が教育現場で実践されていれば、いじめや虐待、拝金主義などの問題が克服されると主張している。「改正する前に現行法の理念を実践することが先である、ともいえる」。これは憲法の問題でもそうだが、大事な視点である。

 東京都教育庁の職員会議の挙手、採決禁止と校長主導の学校運営の導入の促進の指令は、この間、トップダウン式のワンマン経営者たちがいろいろと問題を引き起こしてきたことを見れば、あらかじめ様々な問題が生じることがわかりきっているものだ。どうしてこんなおかしなことをやろうとするのか。官僚主義に陥って、現実を知らない官僚が、頭の中だけで描いた絵空事の実現に熱中しているとしか思えない。公正取引委員会の委員長の官僚が、独禁法からの新聞の特殊指定廃止を、市場原理の導入を主張して、1人で固執しているというが、それと似ているのではないだろうか。民主主義があれば、責任をシェアできるし、それだけ管理職の責任を軽くすることができる。仕事も進めやすいのである。合意したことについては、全員が責任を果たそうとするからである。官僚制度が、非効率になりがちなのは、民主主義ではなく、命令や指令などだけで、組織を動かそうとするからである。

 教育基本法に愛国心などを入れたら、こんなしょうもない連中を力づけるだけになりかねない。与党合意案は、それほどでもないが、自民党内では、これを再修正しろという意見が出ているらしい。改悪になるくらいなら、変える必要はないし、それよりも、理念の実践や現実化こそ、やるべきことだ。

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格差社会を指摘した労働経済白書の記事を読んで

 厚生労働省が毎年作成する「労働経済の分析」(労働経済白書)の平成十八年版骨子で「二十代の所得格差が拡大し、固定化が懸念される」と指摘していることが十三日、分かった。三十-四十代の正社員でも、成果主義賃金の導入で格差が広がっているとした。また正社員ではない非正規労働者で配偶者のいる割合が低く、少子化が進む要因になっていると分析している。
 「格差社会」が国会で論点となっており、小泉純一郎首相は「先進国と比べて日本では(格差は)決して広がっていない」などと答弁したが、白書は正社員かどうかの雇用形態や年代によって賃金格差が拡大していることを示した。
 今回の白書のテーマは「就業形態の多様化と勤労者生活」で、「労働経済の推移と特徴」「就業形態の多様化とその背景」「勤労者生活の課題」の三部構成。
 正社員と、それ以外のパート、派遣、請負労働者などの非正規労働者との格差に触れ、非正規では正社員のように年齢が上がっても賃金は上昇せず、特に二十代では非正規が増加し格差拡大が続いているとした。非正規労働者は十七年で労働人口の約32%を占め、約千五百九十万人に上っている。
 正社員でも業績・成果主義賃金の導入で、特に三十-四十代で賃金格差が拡大したと分析。教育費の支出は、非正規を含めた全体では減っているが、高所得層では増えている。
 非正規労働者では配偶者を持つ割合が低く、少子化を進める背景になっている可能性が高い。十四年時点で二十-三十四歳の男性正社員のうち、配偶者がいる割合は約41%、非正規では約8%。その後、二年の間に結婚した人は正社員で約10%だったが、非正規では約3%にとどまった。非正規労働者の場合、職業能力開発の機会も正社員に比べて少なかった。
 労働経済白書は七-八月に閣議報告し、公表される。
     ◇
【用語解説】格差社会問題
 小泉政権が構造改革路線を進めた結果、所得格差や都市と地方の格差が広がったと指摘する声が増加。2月の衆院予算委員会でも、格差をめぐる集中審議が行われた。内閣府は世帯間の所得格差を表す指標「ジニ係数」を示し、格差拡大は定年退職して働かない高齢者層や、低所得の単身世帯の増加などによる、見かけ上のものだと分析。小泉純一郎首相は「格差がない社会なんてあり得ない。格差を認め、力を発揮できる社会が望ましい」と格差批判に反論している。 (産経新聞) - 4月13日」

 格差社会の問題をめぐっては、世間の関心も高く、国会でも問題になっている。『労働経済白書』は、二十代の所得格差が固定化する危険性があり、30代以上でも成果主義の導入で格差が拡大し、非正規雇用者が、今や労働人口の約32%、約1590万人に上り、少子化の背景になっているとしている。高所得層は教育費を増やしており、子供を高学歴にして、上層として再生産しようとしている。格差固定の階層化が進んでいるのである。この間の、企業の雇用状況を見ていれば、こうなることは当然の結果であり、政府ー小泉首相の認識が不十分なことは明らかだ。

 小泉首相は、格差があるのは当然としているが、程度の問題があり、さらに社会目標としての平等や民主主義はどうなるのか。機会平等論やセーフティーネット論などが言われているが、それが不十分だと、上層と下層との間の矛盾は、社会を分裂させ、不安定化するだろう。現に、この間の、自立支援法改悪や社会保障制度の改悪、負担増などによて、下層の不満と怒りが拡大しつつある。どの程度の格差までを容認し、さらにその固定化を防ぐにはどうすればいいのか。政府から具体的な答えが出てこない。「痛みに耐えよ」と言うが、いつまでも、どこまでも痛みに耐えられるわけがない。

 中国の農民暴動を中共の危機だとして喜んでいるようなナショナリストは、日本でも農民ではないかもしれないが同様の事態が起きるかもしれないということを見ていない。中国の下層や農民の暴動を煽ることは、日本での下層の暴動を煽動していることでもある。どこで発火するかはわからない。だが、事態がこのまま進めば、それは時間の問題だろう。それすらわからない竹中が信奉するアメリカ流経済学は三流である。

 足下に火がついてはじめてあわてることになるようでは、そんな政府ー政権も三流である。この記事は、そんなことを教えてくれている。

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世論調査はそれほど正確ではない

 読売新聞社が8、9の両日に実施した全国世論調査(面接方式)                                         民主支持層では90%の人が期待感を寄せていた。民主党の支持率は、14・0%で、3月の前回調査(11・1%)よりも2・9ポイント上昇した。                                           小泉内閣の支持率は56・0%で、前回調査に比べ、1・1ポイント増えた。自民党の支持率は42・8%で、前回比0・5ポイントの微増だった。(4月10日読売新聞)

 民主党の新代表に小沢一郎氏が就任したことを受け、産経新聞社はFNN(フジニュースネットワーク)と合同で八、九の両日、政治情勢に関する世論調査を実施した。
 内閣支持率は48・8%で、内閣改造直後の昨年十一月に行った前回調査(56・9%)より低下したものの、小泉純一郎首相が今年九月の退陣を表明している中で安定した水準を保っている.。(産経新聞)

  NHKは、今月7日からの3日間、全国の20歳以上の男女を対象にコンピューターで無作為に発生させた番号に電話をかけるRDDという方法で世論調査を行いました。調査の対象になったのは、1777人で、このうち62%にあたる1097人から回答を得ました。それによりますと、小泉内閣を「支持する」と答えた人は、先月より2ポイント上がって51%でした。これに対し「支持しない」と答えた人は、先月より2ポイント下がって32%でした。

 同時期に行われた世論調査結果で、内閣支持率は、『読売新聞』56%、『産経新聞』48.8%、NHK51%、である。『読売』と『産経』の数字では、7・2ポイントの差がある。また、政党支持率で、社民党支持率は、NHKが1・7%、『毎日新聞』では3%である。どうしてこう大きな開きがでるのかはわからないが、少なくとも、そのていどのものでしかないということを踏まえて、世論調査結果を見る必要があることは確かだ。

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与党の教育基本法改定案について

 どうも教育の話が続きますが、「教育基本法」改正案が、与党内でまとまった。『読売新聞』記事から、前文案を引用する。

   我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類福祉の向上に貢献することを願うものである。我々はこの理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊ぶ豊かな人間性と創造性を備えた国民の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに我々は日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓(ひら)く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

 これを見ると思いの外、たいしたことがないもので、やはり公明党にかなり配慮したことがうかがえるものだ。これを『読売新聞』が喜んだのはいうまでもない。公共の云々という当たりは、『読売新聞』のこの間の主張のとおりだからである。

 13日の『読売新聞』社説は、「戦後間もない1947年に制定された現行法は、「個人の尊厳を重んじ」などの表現が多い反面、公共心の育成には一言も触れていない。制定当初から、「社会的配慮を欠いた自分勝手な生き方を奨励する」と指摘する声があった」が、「青少年の心の荒廃や犯罪の低年齢化、ライブドア事件に見られる自己中心の拝金主義的な考え方の蔓延(まんえん)などを見れば、懸念は現実になったとも言える」として、教育基本法改定は時代の要請だと書いている。

 法律が、自分勝手な生き方を奨励したなどと言うのは、法律主義的な幻想である。第一、ライブドア事件に見られる自己中心の拝金主義的な考え方を蔓延させることに一役買ったのは、与党自民党でもあり、新人野球選手をルール違反の大金を積んで独り占めしようとした『読売新聞』渡辺恒雄主筆自身ではないか。それを法律のせいにして、自分たちの責任を反省しないのは、どういうわけだろう。問題は、愛国心の欠如ではなく、人間同士のコミュニケーションのあり方であり、企業内などで、バラバラの私人同士として厳しく競争させられて、相互の間で深い理解がつくられず、縁遠い存在にさせられてしまって、相手の苦しみや犠牲や被害を理解し、共感する感性が摩耗させられ、想像力が奪われていることだろう。『読売新聞』自身が、岩国市での住民投票や名護市の普天間基地移転問題などについて、そこでの住民の犠牲や痛みや被害に、共感も理解も欠いていることをあらわにしている。

 教育基本法に愛国心を入れたからといって、犠牲者に対する理解や共感や想像力が生まれることは期待できないし、むしろ、それは新たな戦前への道を掃き清めることになる可能性が高い。なぜなら、『読売新聞』社説は、戦後60年にわたり平和国家を築いてきたのだから、戦前に回帰することはないというのだが、すでに、イラクへの自衛隊派兵によって、同盟国の戦争に事実上参加し、さらにその同盟関係を強めよと『読売新聞』はこの間、繰り返しているが、それに従えば、同盟強化=国益という図式の中で、新たな戦争体制が作られていくことは明らかである。なにせ、アメリカは、自衛のための先制攻撃論を唱えている国だから、自衛は同時に先制攻撃力を準備することを意味しており、それに同盟国としておつきあいするためには、自衛専念などでは間に合わず、アメリカの先制攻撃準備に合わせた攻撃的体制をとらねばならないことになる。

 愛国心の対象に「統治機構」を含むのかどうかが曖昧なまま、「愛国心」が盛り込まれたのは、大問題だ。公務員を愛することが、基本法で規定されるか否かは、重要なことで、この点を追求しながら、公明党が妥協したのは連立優先で、後に問題を残したことを意味する。もっとも、まだ連立与党間での合意ができたというだけである。教育基本法改悪反対運動もあるていどの盛り上がりを見せており、決着はまだ先である。

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入学式でも相変わらず文部官僚の官僚主義が吹き荒れている

  入学式が各地で行われた。相変わらず、東京都が突出しているが、全国の公立学校で日の丸君が代の強制が行われたようだ。東京都では、公安警察が監視やビラまきの妨害に当たっているようで、どうしてこれが公安の扱う事案なのかわからないが、とにかく、教育委員会と学校当局の執念を表していることは確かだ。

 あのうんざりする長い校長式辞や来賓挨拶を誰か止めてくれと言いたくなったものだが、それはともかく、こういうことをやっているのは、韓国と日本ぐらいだという記事を読んだ。アメリカには、「星条旗を永遠なれ」の他にも国歌扱いの歌があるという。国歌といってもいい加減なものなのだ。

 北海道では、ある校長は国が学習指導要領で決めたからだと述べたという。文部科学省は、国の一行政機関で、国そのものではないでしょうに。教育者には、もっと別に力を入れてやるべことがたくさんあるというのに、中央官庁でも天下りが多い文部科学省なんぞのいいなりになってばかりではなさけないでしょう。木っ端役人が何をいおうと自分には自分なりの教育のやり方や考えがあるというような気概はないのか。世の中にはこんな人もいるのだ。

 ところで、今日、カミさんと2人で娘の高校の入学式に行ってきました。駅を降りるとビラを配っている人がいます。
 受け取って見出しを見たら、「入学式に出られない先生がいるのをご存知ですか?」とあります。どういうことなのでしょうか。次のような説明が書いてありました。

  今日は八王子東養護学校の入学式です。しかし、去る1月25日の調布養護学校の周年行事で国歌斉唱の際に起立しなかった河原井純子さんは3月13日に停職処分が出されたために入学式に出席できません。実は、河原井さんは4月1日付で八王子東養護学校に着任したのです。

  国歌斉唱の際に起立しなかったから停職処分を受け、新たに着任した学校の入学式に出られないというわけです。
 「起立しない」ことが、それほどの「罪」なのでしょうか。このような「罰」によって起立を強制することが、教育現場にふさわしいことなのでしょうか。

  娘の高校の入学式でも、国歌斉唱があります。起立して「開会の辞」が述べられた後、「国歌斉唱」と言われたとき、父母席の一番前にいた私は静かに椅子に座りました。座っていたのは、私とカミさんの2人だけだったでしょう。
 来賓席にいた東京都教育委員会の方の目に入って欲しいと思いました。私たちの行動が、都の教育委員会が行っている愚行への異議申し立てであり、抗議であることを理解してもらいたいと思ったからです。
 この方は、来賓としての祝辞で「互いの人格を尊重し」と述べていました。その言葉は何と白々しく響いたことでしょう。「互いの人格を尊重」できる人であれば、国歌斉唱で起立を強制し、それに従わなかった見せしめに停職を言い渡して入学式にも出席させないというようなことをするはずがありません。

 娘の高校の校章には、Lの字が刻まれています。「自由(Liberty )」をデザイン化したものだといいます。
 「自由」。その価値の尊さと大切さは、今日の入学式の場でも多く語られたことでしょう。しかし、そのような言葉が語られている場なのに、君が代についての「内心の自由」は存在せず、起立が強制されています。
 私たち夫婦は、一個人として、このような強制に反対であるという意思を表明しました。同時にそれは、このような自由を守り、強制に屈しない人間に成長して欲しいという願いを込めてのことでもあります。そのメッセージが、式場にいた娘など新入生に届いたかどうかは分かりませんが……。                                             「五十嵐仁の転成仁語」http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm

 他方で、教育基本法に「愛国心」を入れる改定を今国会中に目指している自民党の森元総理は、これに賛成するかどうかが、民主党が健全野党かどうかを判断する踏み絵だということを述べた。与党が、野党の健全性の基準を決めるなどという馬鹿げたことを言ったわけだ。アメリカでは、共和党も民主党もうんざりだ、民主主義を発展させるために、予備選の廃止、大統領直接選挙を求める運動が起きている。二大政党制は、民主主義発展の阻害物であることを訴える動きが起きているのである。イギリスでは、すでに二大政党制ではなく事実上多党制になっている。 

  「愛国心」の言葉を入れることよりも、教育現場での問題解決力を育てるための支援策づくりに力を入れることが必要だ。やるべきことに力を集中し、心の問題に国が介入することはやめるべきだ。 

 レイバーネットジャパンhttp://www.labornetjp.org/より

     東京・日比谷野音で「教育基本法・憲法の改悪をとめよう!全国集会」が開催され、会場いっぱいの4千人が集まった

     4月22日(土)06年卒・入学式-総括と展望を語る集会(都教委包囲首都圏ネット主催)13時30分 文京区民センター(都営地下鉄春日)

 

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4月7日『産経』教育基本法改悪の主張を批判する

 4月7日の『産経新聞』「は、教育基本法に「国を愛する心」を入れるために、自民党がんばれと声援を送っている。アホらしい主張だが、学校現場で、心の問題への公的介入、心の強制が、処分という強制手段で行われ、その犠牲者が数多くでているという異常事態が起きているから、日本国憲法で、自由と権利を保持するために不断に努力する義務を課せられている「国民」として、これを見逃すわけにはいかない。

 【主張】教育基本法改正 自民は主導権を取り戻せ

 「教育基本法改正をめぐる与党協議が大詰めを迎えている。最大の焦点は、「愛国心」をどういう表現で改正案に盛り込むかだ。

 従来の「国を愛する心」とする自民党案、「国を大切にする心」という公明党案に加え、「祖国日本を愛する心」「郷土日本を愛する心」といった案が浮上している。また、自民党の関連部会では「祖国愛」を支持する声も強まっている。

 この問題で自民党と公明党の歩み寄りが見られず、両党が納得できそうな折衷案として、これらの対案が出されたという側面も否定できない。

 しかし、与党協議に先立つ平成十五年三月、中央教育審議会は「郷土や国を愛する心の涵養(かんよう)を図ることが重要」とする答申を出した。その答申に沿って、素直に「国を愛する心」と表現することに、何か不自然さや不都合があるのだろうか。自民党は「国を愛する心」の涵養を改正案に書き込むべきだとする当初の方針を貫いてほしい。

 「国を愛する心」の涵養は学習指導要領に盛り込まれており、改めて法律に明記する必要はないという意見もある。しかし、国旗・国歌の指導義務が指導要領に書かれていながら、一部の教師がこれを守らず、校長が自殺する事件も起きた。平成十一年、国旗国歌法が成立し、教育現場の混乱は是正されつつある。「国を愛する心」を教育基本法に明記する意義は大きい。

 与党協議のもう一つの大きな焦点だった「宗教的情操」の涵養を改正案に盛り込むかどうかについては、自民党が公明党に譲歩し、盛り込まないことになったとされる。だが、子供たちが身につけていかねばならない伝統行事や礼儀作法などは、日本の伝統的な宗教と深い関係にある。規範意識をはぐくむためにも、宗教的情操をはぐくむ教育は必要である」。

 この「主張」は、「国を愛する心」という表現に違和感を感じていないようだ。しかし、愛するという概念には、自由恋愛とか独立した個人同士の対等な関係とかの近代的価値観やイメージと近いものを感じる人が多いのではないだろうか。例の「冬のソナタ」が、女性に受けたのも、こういう近代的な独立した個人としての男女が自由で対等な愛を貫く姿への共感があったのだろう。愛という言葉が、こうした個人同士の平等な関係をともなうコミュニケーションのあり方を意味すると広く受け止められているから、そのおなじ言葉を国などという大きい対象について使うことに、違和感を感じるのだろう。「ぴんとこない」というのが多くの人々の正直なところではないだろうか。

 それに対して教育基本法に「国を愛する心」という表現を入れたところで、それが具体性を持つことにはならないだろう。それは、日の丸君が代を国旗国歌とすると法律で決めても、これらに神聖性が宿るわけでもなく、日の丸が渋谷の街でほこりまみれにされていたり、落書きされてスポーツ試合で振られたり、君が代がジャズ風のアレンジで歌われたりするという世俗化された形で使われることに変わりはないだろう。

 だからこそ、同時に「宗教的情操」という神聖感の涵養を必要とするのであろう。国旗や国歌を神聖視して、それを汚すことがしにくくなり、その前で姿勢を正す、敬意を抱く、等々、そういうふうにならなければ、日の丸はただの標識や象徴の一つにすぎず、君が代はあまたある好きな歌の一つにすぎない。歴史的事実としては、日の丸は最初は、外国船に対して日本の商船を区別するためのマークであった。

 国旗国歌の指導義務が、学習指導要領に、盛り込まれたが、憲法の思想信条の自由の規定に反し、教育基本法にもないことを、一官庁にすぎない文部科学省が指導義務にしているわけで、それが、教育現場混乱の原因として大きいのである。指導だの通達だの指令だのという官僚的なやり方で、法律しかも最高法規たる日本国憲法を骨抜きにし、くぐり抜けるという官僚主義の弊害が大きいのである。

 中央教育審議会にしても一審議会にすぎず、教育政策の決定機関でも何でもなく、別にそれを人々が支持する義務もない。ただ、『産経新聞』という一民間新聞がそういう立場で支持しているというにすぎない。

 今年も、東京都では、卒入学式での日の丸君が代強制に抗議して行動した良心的な教職員33人の処分を発表している。日本国憲法の思想信条の自由を守り、自由と権利のために不断に努力する義務を果たした教職員たちと、超法的に独裁した官僚とでは、前者が正しいことは明らかだ。

 最高法規を尊重する心がなく、文部官僚の独裁を愛する心をあらわにする『産経新聞』は、「新しい教科書をつくる会」に陰から政治介入した「日本会議」と連携している。

 「宗教的情操」云々の部分は、論理破綻している。伝統行事や礼儀作法を身につけることは、「宗教的情操」と直接的な関係はないし、規範意識の形成とも直接的な関係はない。伝統行事や礼儀作法や規範意識のもとになっているのは、生産のあり方を基礎とする共同体の諸関係である。

 問題の根は、生産のあり方に基づく社会や共同体の諸関係にある。

 東京都をはじめ、学校行事での日の丸君が代の強制の官僚独裁の行使を止めるべきだ。学習指導要領から国家国旗の指導義務を削除すべきだ。教育基本法に「国を愛する心」を入れるべきではない。「宗教的情操」を押しつけるな。学校を社会のものにすること。学校・教育で民主主義を前進させること。等々。

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クルド難民の強制送還問題の紹介

 前から気になっていたクルド人問題を紹介。まず、レイバーネットのブログにあるフリージャーナリストの安田さんの記事。

   クルド難民の強制送還

 クルド難民のカザンキランさんとラマザンさんが、日本政府によって強制送還を執行された。

 日本政府は、口を開けば「人権、人道、国際協力、国連主義…」を繰り返し、与党の幹部はどこぞの国の独裁者を罵倒する。ずっと昔から日本列島に住み続けてきた人々とその子孫以外の人びと(そして日本政府を批判する「日本人」もだ)にだって人権があるということをご存じないのか、知らないふりをしているのか、はたまた知ってはいるけど外国人は日本から出ていけばいいんだと思っているのか。

 国際協力と口では言いながら、国際的なセンスが決定的に欠如し、国連中心と言いながらも国連が認定した難民を放り出すことの矛盾に気が付かない政府機関の役人、事実と正反対のデマを流してまで外国人排斥に余念のない国粋主義的な政治家…。
日本の政府は、トルコ政府の圧政と人権侵害に対して、いったい何を働き掛けてきたのか。トルコ政府がクルド人をはじめ、国内の反体制活動家などに加えてきた数々の弾圧と人権侵害に対して、日本政府はきちんと対応してきたのか。

 日本の憲法には、その前文に国際社会で名誉ある地位を占めたいと書かれている。自国さえよければいい、外国のことは知らないでは通らない。

 クルド難民の強制送還は、国際的な不名誉を日本にもたらす愚行だ。も国連が認定した難民を放り出すことの矛盾に気が付かない政府機関の役人、事実と正反対のデマを流してまで外国人排斥に余念のない国粋主義的な政治家…。

 日本の政府は、トルコ政府の圧政と人権侵害に対して、いったい何を働き掛けてきたのか。トルコ政府がクルド人をはじめ、国内の反体制活動家などに加えてきた数々の弾圧と人権侵害に対して、日本政府はきちんと対応してきたのか。

 日本の憲法には、その前文に国際社会で名誉ある地位を占めたいと書かれている。自国さえよければいい、外国のことは知らないでは通らない。

 クルド難民の強制送還は、国際的な不名誉を日本にもたらす愚行だ。

 この問題では、難民認定を求めるクルド人二家族を支援し続けている「クルド人難民二家族を支援する会」http://homepage3.nifty.com/kds/kds_020.htmがある。

 クルド人は、現在のシリア、トルコ、イラク、イランにまたがる地域に暮らしており、それぞれの政府から迫害されてきた。イラクでは、フセイン政権の崩壊にともなって、大幅な自治を獲得し、議会に議員を送るなど政治的権利も拡大した。トルコでは、弾圧・迫害が続いており、つい最近も衝突した。

 日本で、今、帰国すれば迫害される恐れのあるクルド人を難民として認定するよう求める運動が続けられている。日本政府はかれらの要求を受け入れるべきだ。

 

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9条改憲を煽る4月4日『読売』社説批判

 4月4日の『読売新聞』社説「憲法世論調査 『改正』を迫る安全保障意識の変化」は、「揺れ動く国際情勢や日本の安全保障環境が、有権者の意識の大きな変容を促しているのだろう」と、まるで国際情勢や日本の安保環境の変化が、自然に有権者の意識変化をもたらしたというような書き方をしている。

 よくいうよ。『読売新聞』は、80年代に新憲法案を誌面で公表するなど、改憲を繰り返し訴えて世論を変えようと務めて宣伝してきたんじゃないか!

 「読売新聞の憲法世論調査で、56%の人が「改正する方がよい」と答え、1998年以来、9年連続で過半数を上回った。憲法改正が必要な理由は、「国際貢献など今の憲法では対応出来ない新たな問題が生じている」が93年以来、常にトップだ」。

 でも、過半数にはなっていないだろう。

 「89年の冷戦終了後、国際秩序は大きく流動化した。2001年の9・11米同時テロ後は「新たな脅威」が出現した。国際情勢が不安定化する中で、国際社会の平和と安定のために、日本も応分の責任と役割を果たしていく必要がある、という認識が年々、定着しているようだ」。

 改憲しなくても、国際貢献活動をいろいろとやってきた。その実績はどう評価しているの? 無駄だったのかな。

 「自衛隊の存在を憲法で明確にすることには有権者の7割以上が「そう思う」とした。集団的自衛権の行使を半数が容認した。憲法改正に賛成する人のうち64%が、「9条を改正する」としている」

 これも過半数はいかないでしょう。今、国民投票をやったら、否決の可能性大。

 「国際情勢の流動化は、近年、東アジアでも顕著になっている。北朝鮮の核・ミサイル開発、中国の急速な軍事力増強などによって、日本の安全保障環境は、不安定かつ不透明の度を増している」。

 単純なパワーバランス論で、安保を語ることはできない。総合力。

 「国際貢献のみならず、日本自身の安全のためにも、国際情勢の歴史的な変化を踏まえて、憲法の安全保障条項を整備すべきだという考えが、有権者の共通認識となってきたのだろう」。

 『読売新聞』がそういう宣伝煽動を繰り返したのでしょうが。                                                    

 「その際、自衛隊を憲法に明確に位置づけ、その役割などを明記するのは、「普通の国」として当たり前のことだ」。

 「普通の国」などといういい加減なことを言っても仕方ない。「普通の国」でないまま何十年もやってきたのだから、それはすでに伝統の一部であり、そういう歴史的特殊性が歴史から消えるわけでもないし、それによって世界に迷惑をかけてるわけでもない。なんでそんなに目くじら立てるの。普通かどうかなんて、たいしたことじゃないでしょう。

 「自衛隊が、国際平和協力や、日本および地域の安全保障のために円滑に機能するには、日米同盟に立脚して、米国との協力関係を強化しなければならない。在日米軍の再編は、一層、機動的な日米の連携を迫る」「集団的自衛権の行使が出来ないというのでは、同盟は大きな制約を受ける」。

 要するに日米同盟強化のために9条改憲が必要だという話だ。さすが、GHQのスパイだっただけのことはある。

 「無論、軍国主義の復活など有り得ない。世論調査では、憲法で強調すべき理念として、7割近い人が「平和の大切さ」を挙げた。この「平和主義」は、かつての自衛隊を否定する“護憲平和主義”ではあるまい。有権者の多くは、自衛隊を活用し、平和の創出に貢献する能動的な平和主義を求めているのではないか」。

 それなら、過半数の人々が、イラクからの自衛隊撤退を望んでいるのはなぜだ? 勝手に護憲平和主義対能動的平和主義などという対立図式を作り上げて、小泉首相のまねをして、守旧か改革か、あるいはブッシュのまねで、「敵か味方か」のような単純な二項対立図式をでっち上げて、無理やり、人々を脅かして、選択を迫るつもりか?

 「自民党は昨秋、「自衛軍保持」などを明記した新憲法草案を策定した。民主党も憲法提言で、国連多国籍軍などで条件付きながら「武力行使」を容認した」「国民意識の変化に遅れることなく、時代の要請に応える新憲法を制定することは、政治の極めて重要な課題だ」。

 繰り返しになるが、国民意識を9条改憲に誘導することに務めているのは、『読売新聞』という一民間新聞だ。お気の毒だが、9条改憲反対運動は、草の根的に、リベラルな穏健保守の人々にまで広がりつつある。時代や人々の意識変化に鈍感なのは、『読売新聞』の方である。

 この間の『読売新聞』社説は、やたらと時代を正しく読んでいるという自負をあらわにしているが、そういううぬぼれにおちいると、実際には時代を見誤り、思わぬ失敗や足下をすくわれやすいというのが、歴史的な教訓である。反面教師として自戒したい。

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『産経新聞』と教科書問題

 4月3日の『産経新聞』の「【主張】高校教科書 領土の明記は評価したい」は、高校教科書検定結果にふれて、検定の役割を一定評価しつつも、まだ教科書は良くなっていないと不満を表明している。

 評価しているのは、竹島・独島と尖閣諸島を「日本固有の領土」と明記するように指導した点である。「尖閣諸島は日本が実効支配し、竹島は韓国に不法占拠されているが、歴史的にも法的にも、まぎれもない日本固有の領土である。日本の教科書にそのことを明記するのは当然である」からだというのが『産経新聞』の言い分だ。しかしこの点について、異論や議論が続いている。

 ジェンダー(社会・文化的性差)についての表現はおおむね妥当なものとなったと評価する。他方で、ジェンダーフリーという和製英語も削除されたことも評価している。なぜか、ジェンダーフリーを性差否定と訳している。しかし、フリーは英語では、解放とか自由とかいう意味である。素直に訳せば、性差解放とか性差自由とかになろう。

 日本のジェンダーフリー派というのは、ブルジョア自由主義派の女性解放論者であって、それを政府内で代表した官僚が手を結んで進めたものである。そこで、性差を能力に還元したりして、無用の混乱を引き起こしたのである。

 それと上野千鶴子さんなどの女性解放思想は違うもので、彼女は、男女共同参画社会基本法を批判していた。ジェンダーフリーを男女平等と言い換えても、別に現実が変わるわけではない。景気回復にともなう労働力需要の拡大によって、女性労働力は企業に引っ張り出されるわけで、少子化もあって、なおさらそうなるのである。

 子育ては大変だから、女性がそれに専念すべきだということを言う者もあるようだが、大体、昔は、地域共同体と家族全員が子育てや教育に関わっていたので、共同作業だったのである。それを女性個人だけに押しつけるなどとはひどい話だ。それに現在でも、子育て教育に公的な支援のないところなどどこにもない。

 『産経新聞』も、小泉政権の構造改革路線を支持して、景気回復を訴えてきたのだから、その結果、ますます女性が外で働くことになるのは、誰が考えても当然のことなのだから、ジェンダーフリーという言葉を消したからといって、男が外で働き、女は家庭内で子育てに専念するなどという男女の固定的役割分業に戻れるわけがないことぐらいわかっているはずだ。『産経新聞』も、男女平等を否定しているわけではないのだ。

 南京事件については、ひたすら犠牲者数の曖昧さをつくというこの間の、右派保守派の戦術を踏襲して、「「二十万人以上とする説が有力」とする記述が検定をパスしたことは、極めて問題である」と批判している。「最近の実証的な研究」で、「三十万人虐殺」説や「十万ー二十万人虐殺」説は、「ほとんど否定されている」としているが、その「最近の実証的な研究」は、なぜか数の少ない方を事実に近いとするもので、信頼に足る研究とは言い難いものである。歴史偽造の汚名を着ることは、歴史研究者にとって恥であろうから、慎重を期さなければならない。

 「沖縄戦で旧日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする誤った記述には、今回も検定意見が付かなかった。NHKの教育テレビで放映され、問題になった「女性国際戦犯法廷」は、昭和天皇を弁護人抜きで一方的に裁いた政治集会に過ぎないが、来春からの教科書に初めて登場する」と問題を指摘して、「全体として、高校教科書の近現代史の部分は検定を重ねるたびに、問題記述が増えているように思える。検定は「こう書け」とまでは言えない。教科書の執筆者は少なくとも、日本の過去を正確に記述すべきだ」と主張する。

 「新しい歴史教科書をつくる会」のゴタゴタ騒ぎに絡んで『産経新聞』の渡辺という記者が西尾幹二や北海道支部からねつ造記事を書いたとして抗議されるということがあった。それについて「西尾幹二のインターネット日録」でいろいろと書かれている。『産経新聞』は、このゴタゴタの渦中で、政治的に動いていたことが暴露されたわけで、教科書問題について、このようなキレイごとを並べる資格がないことは明らかだ。

 それというのも、そもそも、西尾氏は旧版の記述に「つくる会」としての思想・歴史観を反映させたと考えており、新版は、とにかく採択率を上げるために、やむを得ず、採択されやすいように記述を書き直した(リライト)にも関わらず、採択目標を達成できず、大幅にそれを下回ったので、このようなリライト戦術について、責任を誰かが取らねばならず、それが宮崎事務局長解任であったようだが、それを不満とする扶桑社側の意向を受け、あくまで採択率アップを目指す新版路線を支持する『産経』側の本音を書いて、「つくる会」という独立組織の人事に政治介入しようとしたのが、渡辺記者の先の記事であるということになり、言うまでもなく、これは「つくる会」内の西尾支持派の怒りに火をつけ、「つくる会」内紛は、分裂・解体の動きを促進するものとなった。北海道支部の動きはその現れだろう。

 西尾元名誉会長は、「つくる会」からの完全脱退を宣言しており、さらに、持てる資料を出していって反撃し、名誉毀損と闘うと宣言している。西尾派が後を追い、旧版を押すグループが新しい動きを始めるかも知れない。『産経新聞』は、このゴタゴタの当事者であり、政治的に動いていたのが暴露されたのであるから、ゴタゴタが続けば続くほど、傷を負うことになるだろう。

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『日経』は、核燃サイクルには慎重

  4月3日の『日経新聞』社説「核燃料サイクルに求められる透明性」は、同じ核燃料サイクル問題についても、積極推進の『産経新聞』『読売新聞』と違って、慎重な立場を表明している。

 この社説は、「非核保有国が大規模な再処理事業を進めるのは日本が初めてであり、国内外から一挙手一投足に厳しい目が向けられる。プルトニウムを扱う以上、特に重要なのは透明性であり、疑念が生じないよう説明責任を果たしていかなければならない」と主張している。「国策とはいえ、再処理を国営企業でなく純然たる民間企業が手がけるのは世界でも同社が初めてである。安全確保は当然だし、事故が起きないよう一瞬たりとて心の緩みは許されないが、民間の事業である限り経済性が要求される。電力料金への安直なつけ回しはできないし、経済性もないのに再処理を進めれば国際社会から意図を疑われてしまう」。

  「米国は先に発表した原子力政策で原子力利用国を「単なる原子力発電国」と「核燃料サイクル国」に分け、日本を後者に位置づけて再処理容認を明確にした。日本の関係者は非核保有国での特別扱いに浮かれているが、問題はそんなに単純ではない」。

 なるほど、アメリカが日本を特別扱いして「核燃料サイクル国」に入れてくれたので、アメリカの広報誌『産経』や『読売』が、浮かれて、積極推進の旗を振っているわけか。

 「核拡散防止条約は非核保有国に原子力平和利用の権利を認めている。イランのように隠密裏にウラン濃縮を進めてきた核開発疑惑国はともかく、ある程度の基数の原発を持つ国が再処理の権利を言い出したら、日本はどんな態度をとるのか。非核保有国を二つに分けて権利を限定する考えには不満が予想される。ウラン濃縮・再処理の国際管理も視野に入れて、日本の考え方を詰めておくべきだろう」

 インドはアメリカによって核兵器保有を容認された。インドが核兵器を持てるのに、どうして他の国が持ってはならないのか、という不満がくすぶっている。それと似たようなことが起きたらどうするか? 特別扱いに浮かれている場合ではないということだ。

 「再処理が動き出せば、次の課題はプルトニウム利用になる。電力業界は2010年度までに16―18基の原発でプルトニウム燃料を燃やす、いわゆるプルサーマルを計画、地元の理解を得る努力が続いている。一方、プルトニウム利用の中心と目される高速増殖炉については議論や国民の理解が不十分なのに先を急ぐ姿勢が政府に目立ってきている」

 「原子力委員会は昨年10月にまとめた原子力政策大綱で高速増殖炉の実用化時期を2050年ごろとしながら、実証炉建設など実用化に至る道筋を意図的にあいまいにした。しかし、総合資源エネルギー調査会の部会は2030年をメドにした実証炉建設や官民分担を議論、総合科学技術会議は2006年度からの第三期科学基本計画で高速増殖炉を「国家基幹技術」と位置づけて重点開発課題にした」。

 そういうことか。いつの間にか、政府は、高速増殖炉開発を決定していたんだ。
 
 「原子力政策のかじ取り役が口をつぐみ、ほかの場でなし崩しで方向が固まっていく。これでは政策決定プロセスが不透明になっていないか疑問も生じよう。高速増殖炉は原型炉「もんじゅ」の事故のほとぼりがまだ冷めたとは言えない。国民には必要性、安全性、経済性への疑問がまだわだかまっているはずだ」。

 まったくそのとおりだ。「もんじゅ」事故の映像はあまりにも衝撃的であり、東海村のJOC事故、関西電力での死亡事故、等々、の記憶も生々しい。

 「プルトニウムの需給見通しから、いつごろにどんな対応が必要なのか。その選択肢は何か。こうした全体像を示して高速増殖炉開発の必要性、あり方を原子力委が中心になって議論しなくてよいのか。原子炉のタイプも含め、様々な選択肢のなかでどの方向を取るべきなのか。国民的議論がないまま関係者だけで決めてよいはずはない。原子力ではかつて敷いた路線をいちずに守る傾向があるが、節目ごとに選択肢を議論し、国民の理解を深めるのは重要だ」。

 同感、同感。選択肢の議論がなくてはだめだ。『産経』『読売』にないのがそれだ。そんなんじゃだめ。

 「高速増殖炉を巡っては、国際的には米国が開発路線に復帰。実証炉「スーパーフェニックス」を放棄したフランスもシラク大統領が今年初めに実証炉の設計開始を指示した。日本の関係者は米仏の開発再開で勢いづいているが、それで「もんじゅ」事故のマイナスイメージが払拭(ふっしょく)されるわけではない。知らぬ間に開発路線を決め、既成事実化する旧来手法は感心しない」。

 そうそう。時代遅れだ。

 「国際エネルギー情勢を考えれば、原子力の重要性は増す。ウラン資源の有効利用には高速増殖炉が重要だが、メドの立たない高レベル放射性廃棄物の処分場問題の打開は急務だし、次世代軽水炉の開発にも力を入れるべきだろう。原子力開発には長期的視点が必要だが、国民とともに将来の方向を考えていかないと、不信が芽生えた時に見放される」。

 電力需要の全体構造をまずはしっかりと総合的に検討して、代替エネルギー、効率化(送電ロスなどのロスの解消その他の技術等々)、経済性、安全性、等々をよくよく考えて、それから選択肢を出して、それをみんなの議論にかけること・・・。結論はともかく、プロセスに関しては、まあまあまともである。『産経』『読売』よりはましだ。

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世界水フォーラムと水問題

 以前に、今年の第4回世界水フォーラムについて少し書いた。

 マスコミでは、皇太子が参加したということで少し報道されただけで、そもそもそれが何であるのかを伝えたものはなかった。これと合わせて、メキシコの貧困者やインディオなどの安全な水を求めるデモを報道したものも少しあった。しかし、全体として無関心であったといえよう。

 それについて第三世界の問題に詳しい北沢洋子さんの「世界の底流」というホームページhttp://www.jca.apc.org/~kitazawa/に、3月25日付けの「メキシコシティの世界水フォーラム」という記事がある(「阿修羅掲示板戦争版http://asyura2.com/index.htmlに引用あり)。

 それによると、3年ごとに開かれる世界水フォーラム(WWF)の主催団体世界水評議会(WWC)はマルセイユに本部をおくNGOで、国連と連携して世界の水政策を作成しているという。

 ところが、WWCの会長は世界三大水会社の一つのスエズ社の社長であり、WWFは、世界銀行、コカコーラ社などの多国籍企業との共催であり、今回の会議を主催したメキシコ水道庁は、腐敗と資金疑惑で有名だという。     
   
 北沢さんは、「実際には、WWFは、自由貿易フェアであり、企業エキスポであり、水関連企業が向こう3年間のアジェンダを決めるプラットフォームである。/ベネズエラの環境省の高官であるSantiago Arconada がWWFのことを「水のダボス」と呼んだのは正しい」と書いている。

 WWFに対抗して、オルターナティブ水フォーラムがメキシコシティで開催された。『ワシントン・ポスト』は、3月17日「水戦争は・・すでに始まっている」と書いているという。

 メキシコでは、リゾート地アカプルコに水道を供給するためにダムを建設し、パパガヨ川を干上がらせようとしているとしているとしてダム建設反対運動があり、「メキシコで、水問題で闘っている人びとは、・・・メキシコシティの低所得地帯の住民である。彼らはトラックで運ばれる水を得ようと体で闘っている人びと、とくに主婦たちであり、家の周りが汚物の下水で溢れていることにもはや耐えられなくなった人びとである。またメキシコシティに水を供給するために水路を変えられた結果、穀物を栽培できなくなった先住民たちがいる。彼らの子どもたちは安全な水を飲めなくなっている。また、川にダムを建設されたために水を失った農民や漁民がいる。彼らは村が開発され、何千もの新しい家が建っていくのを手を拱いて見ていなければならない」。

 「メキシコシティの市会議員Almeida Alavez Ruizは「メキシコシティの水紛争は激化するだろう。なぜならここの洪水、水不足、都市のスプロール化、公害、ごみ問題などが、世界の都市の水問題の典型であるからだ。もしこの問題を今認識しなければ、次の乾期には紛争がさらに激化するだろう。彼女の選挙区では住民が、水道が止まって、トラックで運ばれる水に頼らざるをえない。住民は長い列をつくって水の供給を受けるのだが、列を乱すものが出てくると争いになる。
 水をめぐる争いの激化については関心が高まっている。WWFの主催団体であるWWCのLoic Fauchon会長は世界中で起こる水をめぐる争いにそなえて平和維持部隊の創設を呼びかけた。これは国連の平和維持部隊“ブルー・ヘルメット”をモデルにしている」

 これを見ると、NAFTA締結以来のメキシコの経済成長の歪みが水問題でも深刻化していることがわかる。アメリカなどからの大量投資による急開発・都市化が、水供給の偏りをうみ、そのしわよせを貧困層や先住民がこうむっている。等々。

 比較的に水に恵まれている日本にいると、こういう水戦争問題は、他人事に見える。ところが、例えば、アメリカ中西部での大量地下水の枯渇危機問題では、アイダホ州で栽培されるジャガイモで作られるフライド・ポテト(フレンチフライ)の最大の輸入先は日本であり、今BSE問題で輸入停止中の米国産牛の飼料用トウモロコシなどもこの地域で多く栽培されており、食糧輸入を通して、他国の水を消費しているわけで、食糧の多くを外国からの輸入に依存している日本にとって他人事ではない。

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『読売』も核燃サイクルにこだわる

4月2日の読売社説は、青森県六ヶ所村の日本原燃が建設した使用済み核燃料の再処理工場での最終試運転(アクティブ試験)開始について書いている。

 「日本は、「核燃料サイクル」の実現を国策として掲げてきた」が、その目的は、「使用済み核燃料中のプルトニウムを無駄にせず、エネルギー資源として有効活用する」「三村申吾・青森県知事は、試験を了承するに当たって、この工場が、日本のエネルギー安全保障と、地球温暖化防止に貢献する、と強調した。的確な認識だ。回収されたプルトニウムは、準国産の貴重なエネルギー源になる。地球温暖化ガスをほとんど出さない原子力発電の発展にもつながる」というものだという。

 前に書いたように、今後の電力需要の伸びは低いことが予想されている。今のペースで節電化と人口減少が進めば、電力需要がマイナスになるということもありうる。電力会社は、夏場の電力使用量のピーク時に対応できる発電能力を確保しており、それ以外の時期には、それは過剰能力になっている。だから、時々、原子力発電所で、冷却水漏れが起きていくつかの発電機が止まることがあるが、それでも電力供給不足は起きないのである。

 すでに多めに電力供給能力を備えているのに、大規模投資を必要とする核燃料サイクルを推進する目的は、プルトニウムの有効利用、エネルギー資源の有効利用、エネルギー安全保障、地球温暖化防止への貢献、というのだが、地球環境問題、不効率な公共投資の削減、代替エネルギー開発、等々を総合的に考えると、「ただ、試験だけに、事故やトラブルがないとは言い切れない。なにせ巨大な化学工場だ。配管を全部つなぐと、約1300キロ・メートルに達する。配管の継ぎ目は約2万6000か所に上る」というような巨大で複雑で技術的に困難性が高くリスクの高い再処理などをあえて行う意義が、どれだけあるのか疑問である。計画を見直し、再計算してみる必要があると思う。

 「トラブルが起きても、安全性を損なわないよう適切に対応すると同時に、情報を公開しなくてはならない。地域と、国民の信頼を裏切らないことが大切だ」とはいうものの、トラブル処理にも事故後の処理にも費用がかかるし、何よりも人命に関わるようなことが起きれば取り返しがつかない。150メートルの煙突から放射能を飛ばし、拡散するようだが、その影響もはっきりしていないという。

 当面、再処理でできるプルトニウムをウラン燃料と混ぜて、原子力発電所で燃やすプルサーマルで処理するが、それでも、高速増殖炉で使用しなければ、プルトニウムは残り、蓄積し続ける。しかしその高速増殖炉は、「もんじゅ」でのナトリウム漏れ事故で開発は頓挫したままである。

 そして、「試験入りを巡っては、海外の一部に批判的な見方もある。プルトニウム回収は核拡散上の懸念がある」こともある。「日本のように核兵器を持たない国で再処理工場を建設、運転している例がないことも、批判の理由になっている」。それに対して、社説は、「大きな誤解だ。日本の原子力利用は平和目的に徹している。国際的な核査察にも一貫して積極的に協力してきた。こうした長年の実績を踏まえ、国際原子力機関(IAEA)は一昨年、日本を対象とする査察を一部、簡素化した」と弁明し、「国際的に築いてきた信頼を、今後も損なわないことを目指したい」と政府に代わって答えている。

 なぜ、民間の一新聞が、政府を代弁して、国策の弁明に務めているのかは、まあいいとしよう。しかし、エネルギー問題を、このように狭くとらえる視野狭さくに陥って、読者に対して不完全で誤った見方を伝えていることには問題があると思う。電力需要、代替エネルギーを含め、もっと様々な面から問題を考えられるようにすべきだろう。このような巨大投資を要する巨大事業によるエネルギー開発は、時代遅れだと思う。

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教科書検定問題から徒然なるままに考えた

 先日終わった教科書検定の結果がさっそく外交問題になっている。一つは、竹島・独島と尖閣諸島を日本の領土と明記するように修正意見がつき、そのように修正されたことに、韓国政府と中国政府が抗議を表明したというものである。

 バブル崩壊で土地神話が崩れ、土地は利用してこそ価値があるという考えが広まったと言われているが、未だに、領土そのものに高い価値を置いている者が、文部科学省にも生き残っているらしい。領土にはそれにともなう権益があるからこそ、領土争いは、時に激しいものとなる。歴史観の問題は、それを観念的に反映しているのである。土地所有がもともと不合理なように、領土という概念も、不条理な観念にすぎない。

 日本史においても、土地所有観念は曖昧なものであり、封建制の徳川時代でも、もともとの国主は天皇であり、土地と人民はすべて天朝様のものという考えが根強く残っていた。歴代の武家政権は、朝廷から征夷大将軍に任命された臣下という形をとっていた。明治維新にしても、王政復古というスローガンが掲げられ、古代天皇制国家の公地公民制への復古が唱えられたりした。だから、藩籍奉還は、本来の持ち主である天皇に返すという理屈で行われたのである。しかし、名目はどうあれ、実際には、土地私有制が導入されるのであり、それを西欧から取り入れたのだ。

 竹島・独島、尖閣諸島の場合、そこに住民がある程度の人数住んでいれば、住民投票での民主的な帰属の決定も可能だが、どちらも無人島であり、それは不可能だ。島は、人が快適に長く住めそうな環境ではない。したがって、漁業資源や周辺の海底資源の権益争いということが、これらの場合の主要な問題である。

 これらの問題で、メンツがどうのこうのとこだわっている人間は、官僚に無意識に操られているお人好しにすぎない。文部官僚が、外交問題に口を出しているのは、たんなる学術文化の発展役ではなく、国家のイデオロギー部門担当として働いているのだ。そうでなければ、教科書の記述では、学問的な正確さを優先した書き方を指導するはずだ。教科書は、知識や教養や文化の普及のためにあるはずなのに、国家のイデオロギー注入装置の性格を強められているのである。

 他方で、南京事件の記述では、学問的な正確さを求めており、いくつかの数字を並べるという書き方を容認している。右派が、数字の曖昧さにこだわって、そこから南京虐殺はなかったと結論しているのは飛躍である。同時に、ナチスによるホロコースト(ユダヤ人虐殺)600万人とか文化大革命の犠牲者1千万人とかいう数字を正確な事実でもあるかのように主張しているのも、イデオロギー的すぎる。ホロコーストの犠牲者数も、政治的に操作された疑いがあり、ソ連での犠牲者数も事実資料による裏付けが十分にあるように見えないし、文革についてはもちろん信頼できる正確な統計資料などはまだない。

 かれらもいいかげんだ。それに気がついて、離れる者もいる。なんとなくハマってしまったのを後悔していると言う人もある。

 それに、韓国の反共軍事政権下の虐殺もあれば、米軍がイラクで行ったファルージャなどでの虐殺もあるわけで、今現在の虐殺をどうするかということが重要である。ホロコーストの犠牲者に対しては、謝罪と補償が行われ、しかも今やイスラエルは、中近東の核武装した軍事大国であり、パレスチナ人を抑圧・虐殺している加害者であり、民族抑圧者で、強国である。かつてのような抑圧された被差別民族ではないし、そういう過去の弱者のイメージは、現在のかれらの真実の姿とはかけ離れている。

 とんでしまったけれども、教科書検定などというのは、領土などという不条理なものを不条理なものとして露わにしてしまうだけだ。日の丸・君が代強制もそうである。それらが、国旗国歌になったのはなぜか? ある時政府がそう決めたからである。それまでは、例えば、戦の時は武士は家紋の旗を掲げたりしていた等々。日の丸は神聖なものでみだりに庶民が掲げてはならないと禁止されていた時期もあった。今では、汗まみれの体にまとってもOK、落書きしてもOKだ。君が代は、スポーツ試合で、高額ギャラの歌手が歌うようになった。

  これらの文部官僚の暇なお役所仕事などできるだけ少なくした方がいい。

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