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格差容認は議会制自滅の兆候

 格差社会の問題が、国会などでも取り上げられるようになってくる中で、格差があるのは当たり前で、その是正を訴える平等主義は共産主義だというものもある。自由主義的男女同権論の一種の「ジェンダーフリー」すら、共産主義だと決めつけられる。

 こうしたことを見ていると、マルクスの以下の言葉を思い起こす。

  きわめて単純なブルジョア的財政改革、きわめてふつうの自由主義、きわめて形式的な共和主義、きわめて平凡な民主主義、これらのもののどの要求でさえ同時に、「社会に対する暗殺計画」として罰せられ、「社会主義」のやき印をおされる(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』岩波文庫)。

  問題になるのが、請願権だろうとぶどう酒税だろうと、出版の自由だろうと通商の自由だろうと、クラブだろうと地方自治制度だろうと、人身の自由の保護だろうと国家財政の調節だろうと、いつもおなじ合言葉がくりかえされ、主旨はいつもおなじ、判決は、いつでもちゃんとできあがっていて、いつもかわらずこうである。「社会主義だ!」。ブルジョア的な自由主義ですら社会主義だといわれる。ブルジョア的啓蒙も社会主義、ブルジョア的財政改革も社会主義。すでに運河のあるところに鉄道をひくことも社会主義なら、刀で切ってかかられたとき棒っきれでふせぐのも社会主義であった(同前)。

 これは、七月王政(ブルジョア王政)を打倒して1847年の二月革命で成立した臨時政府が、プロレタリアートが押しつけた共和制を採用し、同年の六月事件で、プロレタリアートを敗北させたが、ブルジョア共和派が没落し、ついには、議会を死滅させるにいたる渦中のことである。

 〔一切のブルジョア的自由等々がすでに「社会主義」になってしまったことをブルジョアは理解はしてはいたが〕しかしかれらにわからなかったのは、〔そうしたことから当然でてくる〕帰結、つまり、けっきょくはかれらじしんの議会政体、一般にかれらの政治支配までもこれまた社会主義だとして全般的な有罪宣告に処せられねばならなくなるということ、であった(同前)。

 これは、謀議の段階で処罰できるとする共謀罪新設に表れているものと似ているように見える。

 ブルジョアジーは、封建制にたいしてかれらのきたえたすべての武器がかれらじしんにほこさきをむけてきたこと、かれらのつくりだしたすべての教育手段がかれらじしんの文明にはむかってきたこと、かれらが創造したすべての神々がすでにかれらからそむきさったことを、ただしく見抜いていた。いわゆるブルジョア的自由のすべて、進歩のためのブルジョア的機関のすべてが、かれらの階級支配を社会的な土台においても政治的な頂点においても同時におびやかしていること、だからそれらが「社会主義的」になってしまったことを、かれらは理解した(同前)。

 その後、フランスは、選挙皇帝のナポレオン三世の帝政にいきつく。

 日本の現状は、まだ議会政党レベルでは、ここまではいっていない。一部の右派・保守派知識人や右派宗教や一部の人がこういうことを言っているだけである。しかし、共謀罪新設策動や改憲策動や教育基本法改悪策動などの動きの中で、近いことを言う政治家もいるし、テロ対策が反共や反自由・反民主主義に転化するかもしれない。共謀罪の与党案が対象を広くしていることは、そうした疑念を生じさせる。

 教育基本法改悪策動でも、教育の国家の主導性を確保するための公共の精神の強調が明記されている。こうして外堀を埋めて、改憲にもっていこうとしているのは明らかだ。今や「護憲」は、「社会主義」なのだろう。被支配者は、支配者がつくった武器を逆にかれらにつきつけて闘いの武器にする。強者は、昨日まで自分のための武器だったものが、弱者の武器になって自分に対してむかってくるのを目にすることになる。

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コメント

ジェンダーフリーが自由主義だって?
わけのわからない理論の押し付けじゃないか。強制は共産主義の特徴ですよ。

格差をなくすには政府が経済について強力な権限をもつしかない。すなわち社会主義です。

投稿: 雄介 | 2008年11月13日 (木) 13時31分

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