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日本の仏教についてのノート(10)

  道元の生涯
 道元は、1200年(正治2年)、内大臣久我通親と前摂政関白松殿基房の娘の間に生まれたといわれているが、はっきりしていない。生地についてもはっきりしないが、京都の宇治の木幡の母方の実家の松殿氏の山荘か久我水閣(現在の伏見区桂川近くで曹洞宗の誕生寺が建てられている)ともいわれている。幼くして父母を失った道元は9歳にして世親の『倶舎論』を読んだといわれる。1212年(建暦2年)、13歳で、比叡山の良顕法眼を訪ね、延暦寺に入って、出家した。翌年、得度を受け、大乗律による菩薩戒を授けられ、仏法房道元と名乗る天台僧となった。この頃、法然は大谷で称名念仏を布教し、親鸞は関東での布教を始めていた。

 この頃、比叡山は、教学においては、天台本覚思想が広まっており、僧たちは、修行をおろそかにし、僧兵を組織して、園城寺(寺門派)や奈良の諸大寺との争いにあけくれ、妻帯し、金貸しにはげみ、密教化して加持祈祷ばかりを行っていた。1214年(健保2年)、道元は比叡山を下りて、園城寺の長吏公胤を訪ね、入宋を勧められた。その後、京都の建仁寺を訪ね、1217年から栄西の高弟の明全について学ぶことになった。1219年の承久の乱の混乱もあり、なかなか入宋の機会が訪れなかったが、ようやく、1223年(貞応2年)明全らと共に入宋した。

 一行は、3月に博多を出発し、4月初旬に、南宋の明州(寧波)に着いた。しかし、延暦寺の大乗戒しか持たなかった道元は、上陸を認められず、三ヶ月後にようやく中国の五山の天童寺に入った。なお、一緒に入宋した明全は、中国公認の東大寺の小乗戒を持っていた。

 この船に中国五山の阿育山利禅寺の老典座(寺の炊事係)が日本の椎茸を求めて訪れた時の会話を後に『典座教訓』に書き記した。それが大陸禅に触れた最初であった。まず、道元が最初に学んだのは、天童寺の無際了派である、彼は、当時の全盛を誇っていた大恵派を代表する人物であった。

 この時、道元は、新参者の扱いを受けたことに抗議して、すでに延暦寺の大乗戒を受けて何年もたつのでその年次にあった扱いをするように求めて、ついには認められたといわれている。その後、各地の寺を回って、修行を進め、天童山の如浄の下で、ついに悟りを開き、1227年(安貞元年)、嗣書その他をいただいて、帰国する。

 帰国した道元は、まず京都の建仁寺に身を寄せ、『普勧座禅儀』を著した。比叡山の衆徒は大集会を開いて、道元を追放することを決議した。その難をさけるため、深草極楽寺跡の安養院に移った。1233年(天福元年)、観音導利興聖寺を建てた。ここに臨済宗大恵派の大日派の一派が入門してくる。道元教団は活況をていするが、延暦寺からの圧迫はより強まった。1243年(寛元元年)、地頭の波多野義重の招きで、越前志比庄に移った。翌年、志比庄の大仏寺に移り、1246年(寛元4年)、大仏寺を永平寺と改名した。

 1247年(宝治元年)、執権北条時頼の招きで、鎌倉に行く。時頼らに禅を教え、大乗戒を与えるなどしたが、翌年永平寺に帰った。1253年(建長7年)7月、病が重くなった道元は、永平寺を懐弉に譲り、京都の信徒の宿で、8月28日、永眠した。

 京都深草時代から書きついできた教えは『正法眼蔵』として残された。

 道元の死後、三世を継いだ徹通義介と宝慶寺派の間で路線対立が生まれ、徹通義介が1272年(文永9年)加賀の大乗寺に移り、永平寺四世を宝慶寺派の義円が継ぐと、代々この系統の人が永平寺を継ぐようになった。この争いは「三代争論」と呼ばれている。その後、加賀大乗寺の一派は、大きく発展し、室町時代には、永平寺派と再統合した。

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