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日本の仏教についてのノート(13)

 中世後期の仏教諸派(1)
 南都大寺院や延暦寺・真言宗寺院などの古代仏教諸派は、荘園領主としての荘園支配に対する在地領主層や地頭などの信仰武士勢力による荘園浸食との闘争やそれとも関連した他寺院勢力との争いを繰り返すようになる。

 寺院系荘園での在地領主層との争いについては、石母田正の『中世的世界の形成』に詳しい。例えば、興福寺は、寺領の支配をはかるために、用水支配を強化しようとしたが、かえって、在地領主層が子弟を興福寺の僧として送り込み、興福寺の支配を内側から掘り崩してしまう。

 また、在地領主層の中からは、武装して、荘園領主に反抗する「悪党」が生まれた。かくして、荘園制は、内部から脅かされ、次第に衰微していくようになる。

 さらに、鎌倉末期から、在地の有力農民や領主層が、加地子(利子)を取得する加地子領主に転化するとともに自営的農民層が台頭し、宮座(講)を中心に、惣を形成し、有力者を中心に代表者を選んで、「おとな」の寄り合い(合議)による惣村運営を行い、村の掟を決め、警察権を断行する検断権を行使するなど、自治村が、近畿圏などから生まれてくる。惣村は、それまでの荘園国衙の範囲を超えて、肥料を取る共有の入会地を持ち、共有財産を貯え、その管理運営の共同事務を共同で執り行った。

 宮座は、村の氏神などの祭りを執り行うための代表者である「おとな」の集会であるが、宮座入りにあたって、神水(御神酒)を飲み交わして、職務の遂行を誓うことから、「一味神水」と言われた。惣は、守護地頭などの検断権を制約して、惣村が武装してそれを執り行うなど、自治的な力が強かった。さらに、地下請けで、年貢の上納を惣村が請け負った。さらに、いくつかの惣村が連合した惣郷・惣庄も生まれた。当初から、広範な地域に成立した東国や東北などでは、郷村と言った。

 こうした農村の自治と対応するかのように、都市でも、商人・職人などの町衆の自治が発展する。とくに京都では、応仁の乱で焼けた町の復興の時代に、下京の町衆が、法華宗12寺を中心にして結集し、町衆による自治を強めていった。京都の町衆は、祇園祭を復興させ、後には、武装して、法華一揆を起こす。

 農村においては、宮座を中心とする自治が形成されたように、地域の氏神信仰や田の神や自然神の信仰が主であった。また、末寺にあたる地元の寺も、惣村の手中にあった。この頃は、寺の宗派がよく変わったのである。本願寺8世の蓮如は、この惣の仕組みを利用して、宮座(講)と寺の住職を本願寺派に引き入れることで、村ごとを真宗組織に取り込み始めた。それによって、講単位つまりは惣村単位で、信徒が獲得されて、それまで、高田専修寺派や仏光寺派などの親鸞の弟子たちの開いた宗派が圧倒的に優勢だったのを、ひっくり返し始める。『栄玄記』には、蓮如が、「坊主と年寄りと長(おとな)を信者にすれば、仏法は栄えるだろう」と語ったとされている。

 1465年(寛正6年)1月9日、本願寺派の勢いを恐れた延暦寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却した。同年3月21日、再度これを破却・破壊した。1264年(応仁元年)1月、応仁の乱が勃発する。同年11月、難を逃れて、蓮如は、一時、三井寺園城寺に身を寄せ、近江での布教を強める。この時、近江の堅田衆の庇護を受ける。しかし、叡山の衆徒が堅田衆を襲撃した。1471年(文明3年)4月上旬 、当時興福寺大乗院の荘園の河口庄の越前吉崎に赴き、7月下旬同所に吉崎御坊を建立する。吉崎での布教が本格化し、大勢の門徒が集まるようになると、守護富樫氏との間に軋轢を生じた。
 
 蓮如は、惣村ごと本願寺教団に組織していった。そのことによって、荘園領主たちはもちろん、守護との軋轢も強まっていった。当時、越前の守護富樫幸千代は、高田専修寺派組んで、応仁の乱の西軍に味方し、東軍に味方した同族の富樫政親を支援したのが本願寺派である。1474年(文明6)年7月ついに両派は激突した。政親方に白山権現の宗徒が味方して、政親方が勝利し、守護となった。1475年(文明7年)8月、蓮如は、危険を避けるため、吉崎を退去し、大阪の河内に移った。しかし、後に守護富樫政親とも対立した一向一揆勢は、1488年には政親をも倒し、以後100年に渡って、一揆勢による自治がしかれた。1580年(天正8年)柴田勝家によって制圧される。

 鎌倉新仏教派の祖たちは、教団を作らなかった。祖師の死後、その弟子たちは、それぞれ自らの教団をつくるようになり、自由に独立して活動したので、浄土真宗では、高田専修寺派や仏光寺派などの諸教団が本願寺派をはるかに凌駕する勢力を長く持っていたし、法華宗でも、6人の高弟がそれぞれの本拠地を持って活動した。永平寺も三世が加賀に移って、後の総持寺派のもとをつくった。ただ永平寺は、後に、総持寺派と統合したので、統一が保たれた方である。

 本願寺派は、蓮如の時代には、名号下付という名号の本尊を掛け軸にしたものを門徒に下して、寺と門徒との関係を密にすると同時にそのお礼として門徒から寄せられる資金をもって、石山本願寺の建設費にあてるなど、経済的にも大きな勢力となってきた。その辺は、室町期の生産力の上昇ということがあって、それによって豊かになってきた商人・農民・運送業者・職人などの古代仏教諸派が相手にしてこなかった人々が信徒になるようになってきたことがあるのだろう。それに対して、荘園領主化した古代仏教諸派は、このころの荘園内の諸関係の変化や相次ぐ動乱・地頭による浸食や悪党や一揆に悩まされるなどして、荘園経営が行き詰まってきていた。

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