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日本の仏教についてのノート(14)

 中世後期の仏教諸派(2)
 1333年、鎌倉幕府は、新田義貞らによって滅ぼされると、後醍醐天皇が親政を敷いて、「建武の新政」を開始した。鎌倉末の後嵯峨天皇後、皇位は大覚寺統と持明院統が交代でつくことになっていた。1336年、足利尊氏は、京都に入り、持明院統の光明天皇をたて、ここに、「建武の新政」はわずか2年半で崩壊する。その後、吉野に後醍醐天皇の南朝が京都の北朝と対立する南北朝時代が続く。後醍醐天皇の肖像画は、金剛杵という密教の法具を持っている姿で描かれている。南朝は、全国各地との連絡を山伏・修験道のルートで取っていたと言われるし、各地の山岳信仰の聖地を拠点として北朝との戦いを行ったように、それらの勢力と密接なつながりがあった。

 足利幕府は、三代義満の時に最盛期となって、一時安定し、6代義教の時には、彼は元天台座主であったのに、叡山の僧兵の乱行に対して、1435年(永享7年)2月に比叡山の根本中道を焼失させるなど、旧仏教勢力を幕府の下に屈服させた。

 その後、8代将軍足利義政の時、1467年(応仁元年)が勃発し、1477年(文明9年)まで続く。この応仁の乱の直接のきっかけは、将軍家の後継者争いであったが、有力守護が、あいわかれて、全国で戦いが繰り広げられ、それによって中世荘園公領制は完全に崩壊するようになったと言われている。それはいうまでもなく、荘園領主化していた仏教諸派の経済的物的基礎を崩壊させるものであった。それと同時に、惣村・郷村や町衆の自治などを基盤とする鎌倉新仏教諸派が台頭し、実力をつけてくるのに対する守護領国制そして後には大名領国制との対立が激化してくるのである。それに、さらに、大航海時代を迎えた西欧諸国から、ポルトガルをはじめ来日する者が現れ、イエズス会系のキリスト教が布教されるようになった。後には戦国大名の中に信者が増え、長崎などに領地まで得るようになる。

  臨済宗系の禅宗諸派は、幕府や有力御家人の庇護をうけ、荘園も与えられて、鎌倉時代には鎌倉五山、室町時代には京都五山を開き、やがて、建築・絵画(墨絵など)・庭園・精進料理などの文化を花開かせるようになる。室町時代には、義満の山荘として後の金閣寺、足利義満の山荘の銀閣寺が建てられ、禅宗の影響の強い北山文化・東山文化を象徴する禅寺が将軍自身によって建てられた。しかしそれらの多くが応仁の乱などの相次ぐ争乱によって、焼失したりする。 

 応仁の乱後の京都では、下京を中心に、法華宗12ヵ寺の信徒を中心に、商人・職人、土倉(金貸し)などが町衆として自治を実現し、やがて町に塀をめぐらすなどして自衛武装し、祇園会の祭りを自分たちで執り行うなどするようになった。町衆の自治共同体が、堺や博多など全国の商業都市に出来るようになる。

 京都の町衆は、法華一揆*を組み、さらに自治を強め、1532年(天文1),一向宗徒が京都の日蓮宗寺院を襲撃するという噂が流れた時、先制攻撃として、細川晴元と組んで、山科の一向宗の寺院を攻撃・破壊した。この後、京都市中の警護を法華一揆が担当したり、地子銭の納入を拒否するなどして、5年ほど完全自治を実現した。1536年(天文5年)7月、天台宗比叡山の僧兵約6万が、京都の法華宗寺院21本山をことごとく焼き払った天文法華の乱によって、法華一揆は壊滅した。その後、大阪堺に難を逃れた21ヵ寺の内、15ヵ寺は帰山が許され、その後、豊臣秀吉の京洛建設計画によって、今の寺町に集められた。

  こうして、一向一揆や法華一揆は、それぞれ守護大名と結びついて、戦い、この戦乱にまきこまれ、あるいは戦乱の主となる。また、京都の法華宗では、他宗派の人の布施を受けない、他宗派の人に布施をしないという排他的な不受不施の考えが広まり、法華一揆は純化した宗教共同体になっていったことで、戦闘性が強まっていったと言われている。やがて、町衆は、上層の商人が、御用商人として分化して、武家政権と結びつくようになり、残った町衆は、五人組などの徳川幕府の末端の管理機構と化して、町衆自治はなくなる。なお、法華宗の不受不施派は、一派として残り、江戸時代には禁圧される。

 *中世の一揆というのは、共同の目的のために盟約を結んで同盟した政治的共同体のことであり、武力反乱を指すものではなかった。

 鎌倉時代、荘園内への地頭の浸食を進めるのに、下地中分という方法がとられた。これは、荘園を領家分と地頭分へ分けるもので、一円領主化と言われるものである。一円とは、土地そのものを完全支配するもので、従来、一つの土地に、重層的にかけられていた諸権限を一元化するというものである。下地中分によって、領家・地頭は、それぞれ一円領主化する。また、領家の年貢の徴収を請け負う地頭請けが行われるようになった。さらに、室町時代には守護が、守護請け、半済などを通じて、一円領主化して、守護領国制を確立すると共にやがて守護大名へと転化する。荘園領主は、地方に散在する荘園を管理することが困難となって、土地売り買いによっても荘園を集中して一円化を進めた。

 惣村・郷村から地侍層が国人層化して分離し、守護の一円領主化の下で、その従者となり、惣村の農民と対立するようになり、その対立に、一向一揆、法華一揆などの一揆、そしてそれに守護同士の対立が絡んで、複雑な地域紛争が次々と起きた。一向一揆と法華一揆の戦いも行われるなど、宗教勢力同士の戦いも激しく戦われた。とりわけ、一向一揆は、加賀ばかりではなく北陸全体に広がったし、近江でも守護の朝倉勢との闘いを繰り返し、さらに、1532年、畿内、 1563年、三河、1567年、伊勢長島、と一向一揆が起きた。

 本願寺11代門主顕如は、石山本願寺に寺内町をつくり、紀伊雑賀衆や伊勢水軍や甲斐武田や周防毛利(将軍足利義昭)と同盟し、織田信長と1570年から石山戦争に突入する。顕如は、伊勢長島など全国の門徒に、「信長と戦わなければ破門する」という厳しい檄を飛ばし、各地で、一向一揆が蜂起した。しかし同盟した朝倉・浅井などの有力大名が織田勢に敗れ、籠城戦による疲弊も深まったこともあり、朝廷の仲介で、織田信長と和睦し、顕如は紀伊国鷺森に移った。織田信長が本能寺の変で死ぬと豊臣秀吉と和睦し、大阪そして京都堀川に寺地を与えられて、移った。顕如の死後、三男准如が第12代門主にたてられると長男教如が東本願寺を起こして、1592年本願寺は分裂した。戦国時代、本願寺はほとんど戦国大名といってよく、世俗権力と化したのである。本願寺教団だけが、僧の妻帯を許し、門主に子供があったために政略結婚を通じて、公家や有力守護などと親戚関係を結ぶなどのことができた。他の仏教諸派は、当時は僧の妻帯を禁止していたから、そういうまねはできなかった。

 仏教勢力は、織田信長による比叡山焼き討ち、石山本願寺の屈服、などによって、勢力を大きく落としたのであるが、諸大名の間にはキリスト教徒となるものもあり、キリスト教勢力も力を伸ばしつつあった。しかし織田信長の時代には、まだキリシタンは自由に活動していた。織田信長について宣教師のルイス・フロイスは書簡で、「神仏其の他偶像を軽視し、教物一切の卜を信ぜず。宇宙に造主なく、霊法不滅なることなく、死後何物も存せざることを明らかに説けり」と、無神論者だと書いている。司馬遼太郎氏も、『国盗り物語』で、信長は、無神論者で合理主義者だと書いている。信長は、寺社地をいろいろと理由を付けては、徹底的に破壊・収奪したが、それは、領地の没収と共にそれが一揆の中心であり拠点となることが多かったためだろう。

 豊臣秀吉は、寺社や公家・朝廷と妥協し、その復興を助けたが、1587年(天正15)6月19日に、「一 日本国ハ神国たる処、キリシタン国より邪法を授くるの儀、太だ以って然かるべからず候事云々」という「宣教師追放令」を出し、キリスト教を禁止した。その狙いは、信長同様、領地の没収にあったようである。

 織田信長・豊臣秀吉は、相次いで検地を断行したが、検地帳には、土地の所在地・田畠屋敷の別、品位、面積・石高・耕作者を記載した。耕作者を明記することで、土地と人が結びつけられ、さらに身分統制令と刀狩りで、農民と武士の区別がはっきりし、また農民が商人や職人になることも禁止され、身分が固定化された上に、農民は土地に縛り付けられた。封建制は、さらに徳川幕府によって固められることとなる。そのことが、檀家寺請制度による寺院の人々の末端管理機構化に関係するのだが、それは近世の問題である。

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