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日本の仏教についてのノート(15)

 近世の仏教(1)
 織田信長・豊臣秀吉は、中世的制度を一掃すると共に、検地による本百姓を中心とする農民の土地への緊縛と武装解除、身分の固定化を行った。身分移動、職業移動、居住地の移動は、厳しく制限された。1643年(寛永20)には、田畑の売り買い、本田でのたばこ・木綿・菜種の栽培を禁止する。1722年(享保7)には、田畑の分配を禁止する。また、年貢納入・犯罪取り締まり・相互扶助・連帯責任制の5人組制度をつくった。5人組制度は、浪人・キリシタン取り締まりのためにつくられたものを応用したものである。それは、檀家寺請制度と同じである。豊臣秀吉のキリシタン禁止後、徳川家康は、1612年(慶長17)禁教令を出し、1633年(寛永10)から1639年(寛永12)にかけて一連の鎖国令をもって鎖国体制は完成した。1637年(寛永14)には、天草地方のキリシタンたちが蜂起した島原の乱が起きて、幕府軍によって鎮圧されている。この時、キリシタンから改宗し仏教徒となった者から、証文を取ったことを一般化して、檀家寺請制度を全国で実施した。

 寺請制度は、あらゆる人が、いずれかの仏教寺院の檀家として登録され、それを村の三役などが保証して、幕府に提出するというものである。それには、家族の名前と続柄まで記載された。さらに、当初はキリシタン対策として行われた檀家寺請制度は、拡充され、宗門改めから作られた寺の檀家の証明書は、宗門人別帳となり、家毎に出生日や死亡日が記録され、やがて、寺が出す寺請証文が、移動の際に必要とされるようになる。それと同時に、過去帳が作られるようになった。これらの寺の記録は、戸籍のようなものである。かくして、このような事務を通じて、寺院は、幕府封建支配の末端行政機構化するのである。そして、宗旨替えが禁止されたため、信仰と関わりなく、代々、特定の宗派の寺の檀家された。

 並行して、幕府は、本山制を導入させ、それによって、本寺末寺関係が形成され、宗派として中央集権化と複数本山化して集中を分散させると同時に、宗派の行政事務を関東などに複数で担当させた。ただ、当初は、1601~1616年(慶長六~元和二年)各宗毎に制定された。1665年(寛文5)には、各宗共通の「諸宗寺院法度」が定められた。それは、「一、諸宗法式、あいみだすべからず、もし、不行儀の輩これあるにおいては、きっと沙汰に及ぶべき事。二、一宗法式をぞんぜざる僧侶、寺院住持なすべからざる事。つけたり新儀を立て、奇怪の法説くべからざる事」等々9カ条からなるもので、各宗派は、教学・儀礼に務め、争いごとを慎み、僧侶の管理・監督をし、本寺末寺関係を形成する、などの内容である。あわせて、「禁中並びに公家諸法度」を発して、天皇に学問に励むようにして、政治などに関わらないようにくぎをさすと共に、僧に紫衣を授けるなどの寺院に対する権限をも抑えようとした。将軍直属で譜代大名数名で務めさせる格の高い寺社奉行を置いて、寺社を管轄させた。仏教宗派では、法華宗(日蓮宗)不受不施派を禁止した。薩摩では、浄土真宗が禁止された。

 徳川家康は、南禅寺住職だった金地院崇伝をブレーンとして、禁教令、寺社政策、武家諸法度、禁中並びに公家諸法度などの徳川幕府の重要政策を作成した。崇伝は、江戸に金地院を建てた。もう一人、家康から三代将軍家光までブレーンとして活動した天台僧天海は、無量寿寺北院(現在、埼玉県川越市の喜多院)を関東の天台宗の拠点とし、家光の時、江戸の鬼門にあたる上野に東叡山寛永寺を建てた。天海は、家康の死後、日光東照宮を造る際に、家康の神号を山王一実神道の「権現」とすることを主張し、「明神」として吉田神道で祀るべきとする金地院崇伝らと議論になったが、結局、天海の主張が採用された。なお、徳川家は浄土宗の信徒であったことから、江戸の裏鬼門にあたる芝の増上寺や京都の東山の知恩院などの浄土宗の寺院の整備に務めた。

 徳川幕府の神道政策は、1665年(寛文5)、「諸宗寺院法度」と同時に「諸社禰宜神主御法度」を制定し、それに慶長八年の「伊勢法度」を加えて、完成した。それによって、吉田神道が神職の認証の権限を独占するようになるが、それに対抗した白川家が巻き返して、神道における二大勢力が形成された。幕府の政策の基本は、仏教宗派に対するのと同じで、吉田家を本山、その他の神社を末寺のような形で組織して、本山(あるいは家元といった方が近いか)を統制することで、末端まで統制するということである。

 他方で、幕府の学問として、儒教(朱子学)を採用し、昌平坂学問所をつくって、武士の教育を行うと共に林羅山の子孫に大学の頭を世襲させた。やがて、朱子学は、神道に結びついて、尊皇攘夷思想を生み出すもとになる。水戸光圀の編纂した『大日本史』は、朱子学の「大義名分論」に基づいて、日本を王道の歴史を記録しようとしたのである。さらに、光圀は、1666年(寛文6年)に寺院整理を断行し、藩内の2,377寺のうち、1,098寺を取りつぶし、990寺に整理した。また一村一鎮守に神社も整理すると共に、神社の本体を本地仏から御幣や鏡などに代え、神社を僧侶ではなく神官が管理するようにした。これは明治維新の神仏分離令・廃仏毀釈の先例といってもいい。同じように、儒学者熊沢藩山をブレーンとして、儒教を信奉した岡山藩主池田光政は、神儒一致思想から、神仏分離、寺請制度の廃止、神請制度の創設、神社合祀、廃仏毀釈を行った。会津藩保科正之は、朱子学者山崎闇斉をブレーンとして、寺社を整理し、神仏習合を排斥した。山崎闇斉派からは、後に神儒一致の垂下神道思想が生まれる。

 徳川幕藩体制の下で、仏教寺院は、檀家寺請制によって、その末端行政機構と化すと共に、葬儀・法事などに関わる収入を確保するようになった。檀家は家を単位として、基本的には当時人口の大部分を占める農民は、土地に縛られ、移動・移転することはないので、個人の信仰心とは関わりなく、宗派の檀家とされ、それが代々続くようになったのである。幕府は、もっぱら教学に専念することを奨励したためか、江戸中期になると、例えば、曹洞宗では、道元の教えの研究や復古が盛んになる。

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