« 日本の仏教についてのノート(15) | トップページ | 日本の仏教についてのノート(17) »

日本の仏教についてのノート(16)

  近世の仏教(2)
 江戸時代初期の1654年(承応3年)に明朝の中国から中国臨済宗の隠元禅師が来日し、後に、後水尾天皇や4代将軍家綱の帰依を受けて、宇治に黄檗山万福寺が開かれ、臨済正宗黄檗派が出来た。明治9年に臨済宗から独立して、黄檗宗となる。

 黄檗宗は、人は皆仏性があり、心の中に阿弥陀仏の極楽浄土があるとして、念仏禅を行とした。明代仏教の様式を伝え、しばらくは中国から来日した僧が住職を務めた。隠元は、インゲンマメをもたらしたことで有名であるが、同時に、「黄檗清規」を作成し、江戸時代に入って廃れていた集団修行を広めたことで、臨済宗・曹洞宗の両禅宗に対して大きなインパクトを与えた。江戸初期に集団禅が廃れたのは、幕府が、人が集団をなす事を嫌って、統制しようとしたからだという。これは徳川幕府の封建制が、基本的に農民搾取に依拠する体制であって、中世の一揆が、村落祭祀の機関である「宮座(講)」の集会を基盤にし、あるいは本願寺門徒の一向一揆もそうした場を団結の根拠にしていたことから、宗教の場での集会そのものを危険視し、警戒していたことの現れであろう。

 しかし、各宗派も幕府の統制による宗門の危機に対して、教団改革の動きが起きるようになる。臨済宗の中で、黄檗宗の影響が浸透する中で、開宗への復古が妙心寺派に起きる。

 また、1627年(寛永4年)、後水尾天皇が、「禁中並びに公家諸法度」で規制した紫衣勅許の決まりに反して、幕府にはからず、慣例通りに、臨済宗の大徳寺・妙心寺の僧十数人に高僧に認められる紫衣着用の勅許を与えたことに対して、三代将軍家光がこの勅許を取り消し、京都所司代板倉重宗に紫衣をとりあげさせるという「紫衣事件」が起きた。これに反発した大徳寺住職沢庵や妙心寺の東源慧らが朝廷を支持して、幕府に抗弁書を出したが、1629年(寛永6年)、幕府は、沢庵らを出羽国や陸奥国に流罪にした。この背景には、臨済宗内の京都五山派と大徳寺・妙心寺派の対立があったとも言われる。「禁中並びに公家諸法度」や「寺院諸法度」の作成に、五山の一角の南禅寺の元住職の金地院崇伝が関わっていたからである。この幕府の処分を決定する議論にも崇伝は参加して、天海が穏便な措置を主張したのに対して、厳しい処分を主張した。

 出羽に流された沢庵和尚であったが、預けられた上の山の土岐山城守頼行の帰依を受け、庵を与えられるなど厚遇を受けた。後、許されて江戸に入り、家光の帰依を受けて、江戸品川に東海寺を与えられる。なお、「紫衣事件」後、2代将軍秀忠の娘の和子が入内した後水尾天皇は、家光の乳母福(後の春日局)が、無位無冠のまま朝廷に参内したことなどの幕府のやり方に抗議して、二女の興子内親王に譲位した。それが女帝の明正天皇である。

 臨済宗は、幕府の統制策もあり、またもともと時の政権や朝廷と結ぶことで、勢力を拡大したので、信徒は上級武士層が中心で、農民や職人・商人などの庶民層には浸透していなかった。後者の層には、浄土真宗と曹洞宗・日蓮宗(法華宗)が浸透しており、臨済宗は衰微の危機にあった。しかし、江戸中期に、白隠禅師が出て、平等主義的な教えに立つ改革の動きが起きた。白隠禅師は、今日の臨済宗全ての宗派が一致して中興の祖と位置づけるほどの臨済宗の大改革者となったのである。その姿勢は、民衆教化であると同時に衆生即仏であることから、大衆迎合でもあるというような感じではある。しかしそれによって、それまでのもっぱら権力者のための仏法であった臨済宗のあり方を、民衆布教の方向へ変えることになったことは確かなようである。

 浄土宗は、徳川家の家の宗派であったから、知恩院・増上寺をはじめ、大伽藍の建設を支援された。しかしそれと同時に、「浄土系信者の中で特に信仰に厚く徳行に富んでいる」(鈴木大拙『日本的霊性』)妙好人という念仏者が生まれた。徳川家の菩提寺の増上寺は同時に浄土宗の教学の中心地となった。その大伽藍と寺地は、今の芝公園をも含む広大なものであった。

 日蓮宗(法華宗)は、様々な教団に分かれ、その中には、加持祈祷、神祇勧請などを行うようになったものもあった。やはり他宗派同様、江戸時代中期には、宗祖日蓮への復古、『日蓮遺文』などの編集・発行などの教学研究が盛んになった。映画『男はつらいよ』シリーズで有名な葛飾柴又の帝釈天(経栄山題経寺)も、日蓮宗の寺院である。江戸末期には、形骸化した宗派のあり方に反発して、在家からの改革運動が起き、講が生まれたりした。

 曹洞宗では、加賀国大乗寺の住職の月舟宋胡の改革運動が起き、その弟子で大乗寺を継いだ卍山道白らは、寺を継ぐことによる法統の継承を非とし、師から弟子に直接法統を伝える一師印証の面授嗣法のみを正統な法統の継承法とした。さらに卍山道白は、大乗寺に、黄檗宗の隠元が作った「黄檗清規」を取り入れて、寺の規律を整えた。彼は、道元の遺文の整理・研究に務め、『正法眼蔵』の卍山本をまとめた。しかし、かれが黄檗宗の清規を取り入れたことを、天桂伝尊らに批判され、論争が生じた。面山瑞方という学僧も出た。

 浄土真宗本願寺派は、門主の教義解釈・権限を絶対化したため、相矛盾する教義を抱えたまま重畳的な構造をつくり、幕府の封建体制へも適応してきた。西本願寺系の龍谷大学の元学長の信楽峻麿氏は、「真俗二諦論」による真は内心、俗は、仁・義・礼・智・信の儒教道徳という形での世俗権力への適応の仕方は、近世の浄土真宗の形骸化をもたらしたと述べている。無論、本願寺教団でも、教育・研究機関を設けて、子弟の教育に力を入れたのだが、内部の論争に京都二条奉行が介入し、論争自体を禁止し、双方を処罰するなど、自由な議論すら幕府の介入を受けて弾圧され、さらに教義解釈権が、世襲門主に独占されている状態では、次第に、葬式仏教化していくのを止めることができなかった。それでも信徒の中には、仏壇の位牌を取り除く者も出るところもあり、信仰の真宗への一元化を実現したところも多少はあった。

|

« 日本の仏教についてのノート(15) | トップページ | 日本の仏教についてのノート(17) »

歴史」カテゴリの記事

思想」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日本の仏教についてのノート(16):

» 女帝 春日局 [DVD Check]
女帝 春日局 [続きを読む]

受信: 2007年1月17日 (水) 20時56分

« 日本の仏教についてのノート(15) | トップページ | 日本の仏教についてのノート(17) »