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日本の仏教についてのノート(17)

 近世の仏教(3)
 江戸幕府の築いた封建体制にも、様々な矛盾が噴き出してくるようになった。とりわけ、その支配の基礎である農村で、幕府の禁令を犯して、地主層の土地拡大が進み、本百姓から小作に転化する者が相次ぎ、農民一揆が繰り返し起きるようになったことは、土地に本百姓を中心として縛り付け、確実に年貢収入を確保する体制を揺るがす事態である。しかし、同時に、大名たちも多くが、発達してきた貨幣・商品経済に組み込まれていて、大商人層に、多額の借金をして、財政が厳しくなっていた。幕府自体が財政危機に陥っていった。そこで幕府は、享保の改革をはじめとする三大改革などで、なんとか建て直しを計ろうとしたが、長続きしなかった。

 江戸時代には、飢饉や不作のたびに、間引きが行われ、逃散などが相次ぎ、江戸などの都市部に流入したのである。それに対して、朱子学は個人道徳を説くだけで、具体的な施策など持ち合わせていないから、対処しようがなかった。ただ、仏教批判などのイデオロギー的な性格が強かった。それに対して、同じ儒教でも、陽明学は、「知行合一」を唱えて、具体的な行動を強調した。陽明学派からは、大塩平八郎の乱を起こした大塩平八郎、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山らの幕末の志士たちが出た。備前岡山藩主池田光政のブレーンとなった熊沢藩山も陽明学派の学者である。

 他方で、儒学から伊藤仁斎らの孔子に返れという古学派、諸仏教宗派の開祖への回帰、僧契沖から本居宣長・平田厚胤らの国学の『古事記』などの古代への復古、などの復古の動きが起きている。それらは官学と化した朱子学を批判した。

 農村での階層分化の進展によって、地主・小作・本百姓・水呑百姓などの間の複雑な対立関係が生まれ、それが、宗教的観念を伴った運動を呼び起こすようになる。その一つが「世直し」と呼ばれる運動である。もともと、日本の宗教観念は、多神的であり、仏教も本地垂迹説をとって、神仏習合の状態であったから、天台宗の比叡山の守り神である日吉神社の山王一実神道のような姿が一般的であり、さらに、御霊信仰や山岳信仰や稲荷のような田の神信仰や虫送り、お盆といった虫送り(除霊)と祖霊信仰が集合した信仰や生き神信仰や本地垂迹の権現信仰や明神信仰や竈の神から火伏の神から蛇神や境神の道祖神と集合した地蔵信仰・・・・と、種々雑多な信仰があって、雑然と混じり合っていたのである。

 もともと、神は日常はどこか遠くにいて、時々、飛んできて、岩や木などの「よりしろ」や祭りの日の仮屋に一時的に宿るもので、神社などに常にいるとは考えられていなかった。山自体が信仰対象であった奈良の三輪山信仰では、神社の建物はない。江戸時代でも、伊勢の神が「飛び神」「今木」となって、光りながら飛んできたという伝承が各地にある。さらに、それを祀る「飛神明」「今神明」などと呼ばれる社が建立されて、信仰された。一揆の首謀者を祀る神社も建てられた。国学者の平田篤胤は、霊は偏在し、人々の身近なところにあるものだと主張した。いづれにしても、多様で雑多な信仰世界があったのであり、仏教・道教・儒教・神道も混ざり合っているのである。民俗学者の柳田国男は、いわゆる常民が、もともと外来の神を排除せずに祀ってきたように、神仏習合は、仏教側のイニシアティブではなく、常民側の自主性・主体性をもって、起きたものだと述べている。

 西垣晴垣氏の『お伊勢まいり』(岩波新書)には、琵琶湖北東の山村の下丹生村の1792年(寛政4)の記録に、当時の村の宗教関係の支出の内訳が紹介されている。この頃、下丹生村は65戸からなり、人口285人、石高203石余り、牛40頭をもっていた。この年、この村の公的費用を家割りで、年に390匁(もんめ)あまりであった。その内、約4割が宗教関係の支出であった。その内訳は、まず、氏神と氏寺への供料が、3匁5分。愛宕の威徳院が村にきて祈祷して、村の四隅や入り口にはる愛宕の札に、8匁4分。村の真言宗の阿弥陀寺に、大般若経転読の費用、火祭りの祈祷の費用として、12匁3分。これで、宗教関係費用の2割で、残り八割は、村外の社寺への代参の費用である。この代参の内、伊勢神宮への代参は、正月と9月の2回で、計49匁8分。ただし伊勢参りは、伊勢掛銭24文を出す本家の者に限られ、12文を出す半家には資格がなかった。その他、愛宕と祇園(八坂神社)で、正月と9月に代参を行っている。この資料から、村の行事における宗教の占める割合が高かったことがわかる。

 また、興味深いのは、1861年(文久元)7月28日に、伊勢の御師松田左近太夫が下丹生村の役人に送った手紙の内容である。それは、「孝明天皇が5月に伊勢に臨時奉幣した際の勅使が「五穀成就、蚕桑等万民快楽」を祈ったのに合わせて、村のことを祈った。この時、孝明天皇は、「醜類(外国人)が神州を汚しているが、この禍いを払うこと、攘夷を第一にあげ、ついで妹和宮の東武(将軍)との縁談について述べて、兄弟親和、公武合体を第二にあげ、最後に慣用句として「一天泰平、万民娯楽」が記されている。「五穀成就、蚕桑等万民快楽」の文言はない。おそらくこれは、左近太夫の檀那村にたいする宣伝のための創作であろう」というものである。ようするに、伊勢の御師は、孝明天皇の攘夷と公武合体成功祈願に便乗して、村に、自分を売り込んだのである。それと、ここで村の伊勢信仰の中心が、五穀豊穣などの農作に関する豊作祈願であったことがわかる。孝明天皇の攘夷だの公武合体だのという政治的な祈願とは別のところに村の人々の伊勢信仰があったので、これらの異質な祈願が習合されている様子が伝わる話である。

 江戸時代も後期になると、いよいよ百姓一揆や打ちこわしなどが頻発するようになり、さらには1792年には北海道の根室にロシア人ラクスマンが訪れて開国を要求したり、日本近海には異国船が現れるようになり、徳川幕藩体制の城内平和も崩れてきた。1825年に幕府は、「外国船打ち払い令」をだしてあくまで鎖国を貫こうとしたが、1842年にはアメリカ船に対して「天保の外国船薪水給与令」をだして、水や食料を供給するようにした。

 攘夷論、尊王攘夷論、世直し大明神、「ええじゃないか」の流行、等々、世の中は騒然としてきた。寄生地主に土地が集中し、小作化が進んだ農村では、年貢負担の増大もあって、天保年間から一揆が続発し、規模も大きくなった。その際に、一揆の掲げる旗に、「南無阿弥陀仏」や「世直し大明神」などと書いたものが現れた。他方で、岡山から黒住教・金光教、天理教などの後の教派神道のいくつかの宗派が生まれる。また、神道系・山岳信仰系の講が成長し、これらから後に教派神道の宗派がいくつか生まれる。

 幕末までに窮乏した下級武士の間には、尊皇攘夷などの思想が浸透した。彼らの間では、陽明学や国学・後期水戸学などが影響をもった。しかし彼らの多くは、封建制度や身分制度をうち破るという考えはなく、むしろそれらを再確立するための藩政・幕政改革を求める考えが、主流であった。アヘン戦争(1840~42)での清のイギリスへの敗北は江戸幕府や諸藩に大きなショックを与え、攘夷論の台頭、海防論の勃興のきっかけとなった。  

 1862年(文久2)、横浜郊外の生麦村で、薩摩藩の行列を乱したとして、薩摩藩士が、イギリス人3名を殺傷するという「生麦事件」が発生。それに対して幕府は1863年(文久3)賠償金10万ポンドを支払った。その後、イギリスは、薩摩に艦隊を派遣し、生麦事件犯人の逮捕と処罰と遺族への賠償金2万5,000ポンドを要求したが、薩摩藩はこれを拒否、砲撃戦となり、薩摩側は、汽船・砲台・集成館(工場)を失った。1863年(文久3)冬、薩摩藩はイギリスと講和し、薩摩藩は2万5,000ポンド(6万300両)を幕府から借りて支払った。さらに、攘夷派の急先鋒だった長州藩は、1863年、幕府の攘夷の命令を実行して、外国船を次々と砲撃した。それに対して、1864年(元治元)8月、四ヵ国連合艦隊17隻が、下関を砲撃し、禁門の変で打撃を受けていた長州側があっけなく敗北するという下関事件が起きた。それによって、長州藩の攘夷派は失脚し、開国派が台頭する。

 結局のところ、尊皇攘夷論は敗れ、開国開明派が勝つことになり、大政奉還、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争での薩長を中心とする「官軍」が勝利し、明治政府を組織することになる。この維新の過程において、仏教勢力の姿はあまり見えない。ただ、長州では浄土真宗西本願寺派の僧が武装して戦いに加わって、島地黙雷や赤松連城などの後の教団改革派が活躍した。また、西本願寺は勤王の志士の側に立ったが、逆に京都守護職会津藩によって、新撰組の詰め所を置かれた。また日蓮宗では本門仏立宗が、在家の講を組織して、宗派から独立した。

 明治維新の当初で、宗教政策においては、まずは、復古が行われ、一連の神仏分離令が出される。それと同時に廃仏毀釈が起きる。危機感を抱いた仏教各宗派では、教団改革が始まる。

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