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日本の仏教についてのノート(18)

 近代の日本仏教(1)
 王政復古の大号令により、古代律令制の、太政官制がしかれた。1868年(明治元)までに、一連の太政官布告、太政官達、神祇官事務局達により「神仏分離」が行われる。同年4月には、太政官の下に神祇官が正式に復興された。1869年(明治2年)6月には、神祇官は太政官から独立して、行政機関の筆頭に置かれた。

 「神仏分離令」によって、例えば、宇治山田では、1869年(明治2)正月までに、109ヵ寺が廃寺となり、さらにその後残ったのは、15ヵ寺になった(『お伊勢まいり』岩波新書)。17世紀中頃には、宇治に57ヵ寺、山田に371ヵ寺があったから、壊滅状態である。同時に、これは祭政一致への復古を目指すものであったので、神社神道の改革や伊勢神宮自体の改革でもあった。それまで檀家寺請制度によって、全員が仏教徒とされた体制を神道国教化に急転換しようとしたのである。それは、檀家寺請制度が、キリシタン禁圧から発生したように、やはりキリシタン禁圧を今度は神道国教化で強化しようとするものであった。この時、国学派の神官や民衆が加わって、廃仏毀釈が行われ、寺の破壊、仏具・仏像その他の寺宝が破壊・略奪され、貴重な歴史的文化遺産が多く失われた。

 神仏分離と廃仏毀釈は、1868年(明治元)から、1869年(明治2)6月27日の函館五稜郭での戦闘終結まで続いた戊辰戦争という内戦の一環ともいえる。幕府によって統制されると同時にその末端行政機能を担うことで、幕藩体制の支柱と見なされ、反幕府と反仏教が重ね合わされたという面があり、神仏分離令は廃仏毀釈を命令したものではないが、各地で大衆が進んで廃仏毀釈に参加したのである。しかし他方では、急進的な神仏分離は、神仏習合的信仰と感情の中に長く生きてきた人々を不安に陥れ、人々を行者などの講に走らせることになった(後藤総一郎・宮田登)。

 神仏分離令の基礎にあるのは、キリシタン禁止令をあくまで維持するためにキリシタン禁圧策を徹底するということであった。そのことを示しているのが、1869年(明治2)5月17日の東京の姫路藩邸での各藩代表の公会議の内容である。その中に、「妖教(キリスト教)を培撃するは、別に我国の教法を設け、伊勢大神祠を東西両京(東京・京都)の地へ建立し、我国の宗門とし、主上(天皇)をはじめ奉りその門に入り、神儒の教を簡約せる一部の書を、俗文に作り、衆に示すべし」(『お伊勢まいり』岩波新書)というものがあった。神道と儒教を合わせた神儒思想が基調にある点で、幕藩体制の保守思想が現れているのだが、同時にここには、キリスト教排撃のために、伊勢神宮を中心とする神道と儒教を合わせた国家神道の教えを創作し、国教化して、国民に布教して、キリスト教の浸透を防ごうとする姿勢が現れている。

 明治元年には、古代の官制である神祇官が復興され、その下に、宣教使が置かれたのには、国家神道の布教によって、キリスト教の浸透を防ぐという目的があった。しかし、明治2年に長崎浦上で、隠れキリシタンが宣教師によって発見されると、明治政府は、キリシタンを弾圧したが、これが列強の反発を買い、英米仏独4ヵ国公使と岩倉具視・三条実美ら政府首脳が会談した。この会談でイギリス公使は、戦争になるかもしれないと脅かしたという。この時の会談について、日本側の記録は少ないという。結局、1873年(明治6)、キリスト教は解禁される。とはいえ、公式には、キリシタン禁止の高札を撤去しただけであり、キリスト教が葬儀を行うことを禁止した(後に解禁される)。

 1871年(明治4)に神祇官は神祇省となり、翌年3月には教部省になる。当初、神祇官は諸官職の筆頭とされたが、徐々に、格下げされていった。この間に、神社の社格の格付けが行われ、さらに1872年4月には、教導職を設け、神官・僧侶を教導職14級に組み込み、「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴」の三条教則による国民教化活動が推進される。また仏教各宗の提唱により、 同年8月、 神仏合併大教院が設置され、 教化活動と教導職養成が行われた。 同年10月、日蓮宗・天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗・時宗・真宗の七宗に、 一宗一管長制を定める通達が出された。

 薩長藩閥政府は、1871年12月23日(明治4)11月12日から1873年(明治6)9月13日まで、欧米に岩倉使節団を派遣して、欧米の制度などを学び、これを取り入れる姿勢を取る。文明開化が進められるようになるのである。岩倉使節団の中に長州出身の西本願寺派の島地黙雷がいた。彼は、「政教分離」を求める建白書をもって、帰国し、神道や仏教宗派が属していた教部省大教院からの西本願寺派の離脱を働きかけ、結局、真宗4派が離脱する。浄土真宗東西本願寺派は、政府の政策に合わせて、北海道や海外布教などに力を入れる。教団組織では、檀家寺請制度が、解体されると共に、改革が行われた。

 日蓮宗では、1872年に日蓮宗として一宗に合同したが、1874年に勝劣派と一致派に分裂、さらに、1876年(明治9)、日興門流の日蓮宗興門派(日蓮本門宗、さらに後に日蓮正宗)、日什門流の日蓮宗妙満寺派(顕本法華宗)、日陣門流の日蓮宗本成寺派(法華宗)、日隆門流の日蓮宗八品派(本門法華宗)が分裂した。
 
 1870年(明治3)諸藩に対して、すべての人を戸籍に入れ,産土(うぶすな)社に名簿を納め,神社から印証を受けて所持するよう命じた。さらに政府は、1871年に「郷社定則」と「大小神社氏子調規則」の太政官布告を発した。檀家寺請制度に代わるキリシタン禁制と戸籍の整備をはかるとともに,国民教化の単位にしようとしたのである。しかし,1878年の戸籍法整備で、これらは廃止された。
 
 明治政府初期の宗教政策には、国学派・後期水戸学派・復古神道派などの影響が強かったが、やがて、その祭政一致の復古主義は、欧米制度の導入の開明派・近代派が、政府内で強まると共に影響力を低下させられた。西欧的な政教分離や信教の自由が認められるようになり、政府の宗教政策は、神社の整理統合・官による統制・国民動員への利用へと変化する。

 西本願寺派においては島地黙雷らによる教団改革が進められるが、他方では、保守的な体質も強く残されていて、さらに、明治政府の海外拡張政策に乗って、海外布教を進めたり、戦地慰問活動に積極的にかかわるなど、「真俗二諦論」的な体制迎合の姿勢を持っていた。

 この間に、明治政府は、版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正、封建的身分制度の廃止、等々と近代化政策を次々と導入した。宗教政策も、近代化の流れに合わせて、近代的な国家神道化をはかることになる。神道は宗教ではないとして、政教分離・信教の自由の立場から、表向きは世俗国家として、しかし実際には、国幣官幣神社の国家神道の体系をつくり、公費をもってこれらを養い、戦争動員の道具としていくのである。

 他方では、幕末以来の農村における一揆は、明治に入ってもおさまることなく続いており、明治政府は徹底弾圧した。新政府の政策によって、窮乏におとしこめられた旧藩士たちは、各地で反乱を起こす。その最大のものが、明治10年西郷隆盛を担いで蜂起した西南戦争であった。さらに、民選議会設立を求める自由民権運動が各地に起こるなど新体制は内部から脅かされていた。

 さらに、西欧列強との不平等条約の改正交渉や南下政策で朝鮮半島に地歩を築きつつあったロシアの脅威に対して、李氏朝鮮との開国交渉が難航する中で起きた征韓論の勃興やその後の江華島事件を引き起こしての日鮮修好条規の締結で朝鮮半島への進出の足がかりをつくったために激化した清やロシアとの外交的軍事的緊張などの外交的な難事への対応が、政府内での権力闘争を激化させるなど、明治の新体制はなかなか安定しなかった。

 宗教政策についても、当初の祭政一致の神道国教化の神仏分離策・廃仏毀釈、キリスト教禁止策の維持等から、廃仏毀釈の否定・緩和、キリスト教の限定的解禁から後の完全解禁、神道・仏教合わせた国民教化から政教分離・信教の自由容認へと揺れながら変化していく。

 戊辰戦争の最中に王政復古がなされ、幕末から続く「ええじゃないか」の大流行、「世直し大明神」を奉じる一揆や騒動・打ちこわしなどが続き、1869年(明治2)には高山騒動をはじめとする一揆・打ちこわしが信州(十数万人)、越中の世直し)(2万人)などでも発生し、1873年(明治6)徴兵令反対の血税一揆、地租改正・小学校設置反対の一揆が全国で起きた。

 翌年(明治7)には、江藤新平・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣らによる「民権議院設立建白書」の提出をもって自由民権運動が始まった。1876年(明治9)10月24日に熊本県で「神風連の乱」、27日に福岡県で「秋月の乱」、28日に山口県で「萩の乱」と士族の反乱が続き、ついには、1877年(明治10)最大の士族反乱の西郷隆盛を首魁とする「西南戦争」が起きた。1882年8月、福島県で、県会議長河野広中と三島県令対立し、農民数千人が蜂起して、警官隊と衝突する福島事件が起きる。1884年には、群馬事件、加波山事件、秩父事件(1万人)が起きた。その後、1889年(明治22)大日本帝国憲法が発布され、1890年(明治23)に帝国議会が開かれる。1894年(明治27年)8月には、日清戦争が起きた。こうしてみると、明治時代は、戦争や内乱の続いた時代であったことがわかる。

  この過程で、官軍犠牲者が次々と出たので、そのための慰霊施設が国家にとって必要となった。元々は勤王の志士を京都東山に祀っていた京都招魂社を、東京に移して、東京招魂社とし、後に、それを靖国神社とするようになった。戊辰戦争・西南戦争で賊軍とされた会津兵・白虎隊戦死者や西郷隆盛などの西南戦争の薩摩側の戦死者は、靖国神社に合祀されていないのである。

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