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日本の仏教についてのノート(19)

 近代の日本仏教(2)
 明治新政府の徴兵令・学制・地租改正に対する一揆が、各地で相次ぎ、1876年(明治7)には、三重・愛知・岐阜・奈良にまたがって、受刑者5万7千人を出した伊勢暴動が起きた。自由民権運動の拡大、1874年、佐賀士族の乱、琉球人殺害を口実にした台湾出兵、1875年、江華島事件が起きて、朝鮮半島に軍隊を派遣、英米の支持の下、李氏朝鮮を開国させる不平等条約の「日鮮修好条規」を締結した。1876年、熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などの士族反乱が続発、1877年西南戦争・・とこの頃の明治政府は内外から脅かされた。

  自由民権運動も、福島事件の活動家の宇田成一や「世直し」一揆の秩父事件を起こした秩父困民党などは、「天長様」に反対することを明言したという。天皇親政としての古代律令制の復古体制によって、その頂点の天皇が民衆反乱の標的とされるようになったのである。自由民権運動の影響は軍隊内にまで広がる気配をみせたために、軍隊内の思想統制を強めるために、1882年に「軍人勅諭」を定めた。清に対抗するための軍備拡張費用調達のため、この年、酒税・たばこ税・醤油税・所得税などの増税や新税の創設を決定した。しかし、1884年(明治17)、国家の大衆収奪は極めて重くなり、それに対して、全国各地で負担軽減・借金棒引き・小作料減免などを求める農民らの一揆が相次いだ。福沢諭吉は、このような内憂をおさめるに、人々の目を外に向ける「内安外競」の戦略を説き、開化派の金玉均を支援していた。この年12月、金玉均と朝鮮駐在公使竹添が組んで日本軍を使って親日政権を建ててすぐに敗れるという甲申事変が起きた。1889年(明治22)「大日本帝国憲法」が発布された。この草案作成には、ドイツ人の外務顧問だったロエスエルの指導・助言があった。1890年(明治23)帝国議会が発足する。

 こうした時代に、仏教諸派は、神仏分離・廃仏毀釈・祭政一致・神道国教化そしてキリスト教布教解禁に対して、危機感を抱き、西本願寺教団は、洋行帰りの島地黙雷たち改革派の政教分離の建言などを取り入れつつ、教団改革を行ったが、しかし基本的には保守的で、ことに教学の面では、東本願寺系の現大谷大学の初代学長となった清沢満之などの信仰はあくまで主観的事実であって、内面においてはかられるべきものだという精神主義の提唱などには、江戸期の宗祖への復古や教学の成果を保守して、受け付けなかった。西本願寺派でも、親鸞の実証的研究が始まったのは明治末頃で、教学面は、江戸期そのままであったという。

 西本願寺派が、もともと勤王派を支援し、長州では僧侶隊を組織してその後の倒幕運動に大きく貢献したこともあって、新政府内に一定のつながりがあったのに対して、一連の「神仏分離令」の中で、御本尊に天照大御神や八幡大菩薩などが描かれていることを不敬と指摘するなどの名指しで批判を浴びた日蓮宗は、強い危機感を持った。そこで、日蓮宗諸派を統合する動きが活発となり、一致派を中心として、身延山久遠寺を中心とする統一日蓮宗がつくられた。その上で、神道とも組んで、キリスト教排撃の国民教化を積極的に担うことにして、新政府に自らの存在意義をアピールした。しかし、前記のように、一致派と勝劣派の対立は激化し、勝劣派が日蓮宗から離脱する。残った一致派の日蓮宗は、一宗としてまとまっているというよりも、連合体的な緩やかな宗派をなしているルーズな組織である。

 在家の日蓮信徒からは、1884年(明治17)、元日蓮宗僧侶の田中智学が、純正日蓮主義を唱え、勅許による国立戒壇の建立を訴えて、後の国柱会の前身である立正安国会を設立する。国柱会は、作家の高山樗牛や宮沢賢治、石原完爾などの有名な信徒を抱えたことや「八紘一宇」というスローガンを唱えたことなどでも有名で、現在でも活動を続けている。その他、日蓮宗系からは新興宗教団体が多く出た。それらはいずれも日蓮宗・日蓮正宗の正式の信徒組織ではない。その後、日蓮主義の霊友会が生まれ、そこから、立正校成会・仏所護念会などの分派が分裂していった。現在は霊友会自体も二つに分かれている。

 教派神道系では、金光教・天理教・黒住教など13派が、明治政府から神道教派として公認され、はじめは大教院のちに神道事務局に属して、国家神道の布教にあたった。この中で、黒住教は、教祖を生き神としている。明治の中頃、金光教の信者が教派神道の大本教を起こした。大本教からは、後に生長の家や世界救世教などが分かれた。

 キリスト教は、明治20年代までは順調に信者と教会の数を増やした。しかし、1890年(明治23)に儒学者の永田永孚と井上毅が起草した「教育勅語」*の発布などによって、国家神道が強まると、頭打ちになった。まず明治初期に入ったプロテスタントは、カルヴァン派の長老派であり、その後、組合派が入った。これらのキリスト教派は、日本では宗派を形成しないことを合意していたが、信者数の増大が頭打ちになったことから、合同の動きが強まった。この時、同志社大学の創始者である新島襄は、合同に反対した。

 この頃、まずキリスト教徒になったのは、旧下級武士が多く、札幌農学校(後北海道大学)のクラーク学長下で学んだ者からは、新渡戸稲造や内村鑑三などの有名なキリスト者が出ている。いずれも旧下級武士の出身である。内村自身は、キリスト教徒になった動機を個人の救いを求めたわけではなく、国のためであると言っている。これは、新渡戸稲造もそうだが、キリスト教を通じて、西欧列強と日本との架け橋となって、平和を実現するという意味なのだろう。今でもその傾向はあるが、キリスト教の布教が行き詰まったのは、旧下級武士出身者などのインテリ層にしか理解されず、そういう薄い層しか獲得できなかったからであろう。キリスト教は、明治の知識層を中心に影響を与えた。北村透谷・島崎藤村・木下尚江・賀川豊彦などの文学者、社会運動家などを出した。

 *朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
 我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我ガ國軆ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣ノ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラズ又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ挙挙服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
   御名御璽

 1879年(明治12)、東京招魂社を靖国神社に改称し別格官幣社としていた。靖国神社は、陸軍省および海軍省の共同管理であった。

 1900年(明治33)に内務省社寺局が宗教局と神社局に分離し、後者は内務省の最高の局とされた。それは、大日本帝国憲法が制定されたことにともなって、政教分離を実行する措置とされ、それを機構上明確にするためであった。神社は行政機構の一部となり、その祭祀は、国家行事とされたのである。すでに官幣社の神官は廃止され、官僚化されていた。

 しかし、同時に、神道側の神祇官復活の運動が執拗に続いており、さらに、日露戦争時には神社での必勝祈願が盛んに行われた。1906年(明治39)4月7日に、法律第24号「官国幣社経費ニ関スル件」が、それ以外には、4月30日に勅令第96号「府県社以下神社ノ神饌幣帛料供進ニ関スル件」が出され、神社に国費が出されることになったのである。なお大日本帝国憲法下では、勅令と法令は同格であり、国会が後で取り消さない限りは法令と同じであった。

 こうして神社に国費が投入されることが決まると同時に、神社行政を統括する内務省は、神社の合理化に着手した。内務省は、1906年(明治39)12月、「神社合祀令」を出し、一町村一社を原則に統廃合を進めた。同年から数年かけて神社の整理事業を行なった。明治39年に19万を数えた全国の神社は、3年の間に14万7千まで減少した。1913年頃に事業はほぼ完了し、社数は19万社から12万社に激減した。これに対して、生物学者の南方熊楠が反対運動を起こし、中央政府の役人であった民俗学者の柳田国男にも働きかけを行った。同時に、民間信仰の一部を禁止した。それまで地域でそれぞれ決まっていた祭神を変更し、記紀から作り上げた神々の体系(格付け)に合わせて、取り替えていった。こうして、人々の信仰とは関係なく、国家神道の体系に合わせた神社の体系が作られていったのである。神社は戦争祈願の場としても利用されることとなり、国家が直接関与する行政機関のようなものとなった。人々が現世利益などを求めたのは、教派神道系や日蓮主義系の新興宗教などであった。

 1894年(明治27)7月から1895年4月の日清戦争では、勝利した日本は、多額の賠償金を取り、それを原資にして殖産興業を起こすことができた。ところが、1904年(明治37)2月6日に始まり、1905年(明治38)9月5日に終結した日露戦争は、犠牲が大きかったが、賠償金も取れず、戦費の負担はイギリスでの戦時国債の売却による借金でまかなわれた。賠償金を取れなかったことに怒った大衆は、日比谷焼き討ち事件を起こす。これには自由民権運動の元活動家も参加していた。

 しかし、1904年8月の第一次日韓協約の締結から、1905年11月の第二次日韓協約で、韓国の外交権を掌握し、英米の支持を受けながら、朝鮮支配を強めていき、日露戦後のポーツマス条約で、ロシアに韓国での日本の政治・軍事・経済上の卓越を認めさせ、ついには、1907年7月の第三次日韓条約では、日本の統監の指導権を確立する。韓国皇帝は、1907年6月のハーグの万国平和会議に密使を送って、韓国独立を訴えたが、米英が拒否した。米英に、日本の朝鮮半島・大陸進出に便乗して、権益獲得の分け前にあずかろうという魂胆があったからである。米英は、日本の日露戦争と朝鮮半島の支配の拡大を、米英の利権獲得競争の露払いのように見なしていたのである。もともと、中国への進出が遅れたアメリカは、門戸開放政策をとっていた。当時の日本の指導部がお人好しで利用されただけなのか、それとも米英の意図を知りながら、それを利用しようとしたのか、ここでは問わないが、日本に恩を売ったアメリカは、当然の見返りだと言わんばかりに、半島・大陸権益への参入の権利を主張するようになる。1909年に、アメリカは、門戸開放策として、日本の中国権益独占を防ぐために、日本による中国の鉄道建設資金の借款を工面するための日本・米・英・仏四カ国からなる銀行団の形成をリードした。

 いずれにしても、朝鮮市場は、欧米製品に押されていた日本の軽工業品の輸出先となったし、その先には、石炭・鉄鉱などの重工業向けの原材料がある満州があったし、さらに広大な市場の中国大陸があったのである。その利権を巡って、そこへの参入を求めるアメリカの門戸開放要求が強まり、日米の利害対立が拡大・深化していくようになるのである。

 国内では、産業の発達とともに、都市において、労働者大衆の労働争議が本格化し、キリスト教社会主義や無産政党が結成されるなど、新しい大衆の運動が拡大してくる。

 明治期において、宗教諸宗派は、非宗教とされた国家神道の下で、とくに戦争体制づくりへの協力など、国家鎮護の宗教としての存在価値を示すことによって、生き延びようとしていたように見える。それは最終的には、、宗祖の教えを改ざんしてまで戦時教学を創作し、宗教者としての自滅行為を行うまでにいってしまう。

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