日本の仏教についてのノート(20)
近代の日本仏教(3)
日露戦争の勝利後、欧米各国は、日本との不平等条約を改める。1913年(大正2)年6月、内務省の宗教局を文部省に移した。神社局が内務局に残されたのは、神道は宗教ではないとされたからである。1940年(昭和15)11月には、内務省の神社局は神祇院になり、また形の上では復古体制になる。
1912年1月1日、南京で孫文を臨時大統領とする中華民国が建国された。1914年8月、第一次世界大戦が勃発する。日本は、連合国側について、ドイツに宣戦布告し、青島、山東半島を攻撃した。1915年1月18日、日本政府は、中華民国政府に対して、21カ条の要求を提出した。その狙いは、日本が満州に持っていた権益の期限が切れるのを防ぐことにあった。1917年には、山東半島のドイツの租借地と経済的利権を日本に認める秘密協定を英・仏・露・伊と結び、さらに後には日本の満州・蒙古に関する秘密協定を結んだ。
1919年戦後処理のためのパリ平講和会議が開かれると、同じ連合国側であった中華民国政府は、21カ条要求を暴露して、中国の主権回復を訴えたが、認められなかった。中華民国は、ヴェルサイユ条約の調印を拒否した。すでに、上のような秘密協定が結ばれていたのである。パリ講和会議の結果を知った北京の学生3,000人ほどが、5月4日、山東の権利回復を叫んで、デモを行った。その後、この運動は、全国に拡大した。1917年10月、ロシアで、「社会主義」政権が誕生した。
パリ講和会議で結ばれたヴェルサイユ条約には、戦争責任に関する文章が含まれ、また、国際連盟規約になる文章が入っていた。国際連盟は、アメリカ大統領ウィルソンの14カ条の原則を下敷きにしていた。そこには、ヨーロッパにおける民族自決権の擁護、軍縮、秘密条約の禁止、などがうたわれていた。しかし、国際連盟には、アメリカが参加しなかった。
日本はこの第一次世界大戦の戦場にならなかったこともあり、また新たに中国での利権を拡大できたし、そして戦時特需もあって、戦後しばらくは、経済は順調であり、それまでの輸入国から輸出国に転換した。さらに軍備増強した。パリ講和会議と並行して、日本・フランス・イギリスの間で秘密交渉が進められ、以下の秘密の分割協定が結ばれた。イギリスがインド・ペルシャ・アラビア・チベット・ビルマ・タイ西部・中国四川省・広東省沿岸地方・揚子江流域の商業の機会均等。フランスが、インドシナとトンキン(ベトナム)、タイ東部、中国雲南省・広西省。日本が、東シベリア、英仏勢力圏をのぞく中国全土。これは、中国全土からアメリカを排除する狙いを持っていた。
アメリカは、こうした日米仏の中国からの排除の狙いに対抗して、軍備拡大を続けたが、シベリア出兵での各国の敗北や戦後恐慌を契機とする戦後経済の低調は、軍拡競争を重荷にした。さらに、英仏などの戦時国債を引き受けたアメリカがそれら諸国の債権国となったため、アメリカの立場が強まった。1921年ワシントン軍縮会議が開かれ、軍縮と同時にシベリア撤退、中国への山東省の主権返還が決められた。その後、日英同盟も解消される。
日本の国内政治では、1918年米騒動が勃発し、寺内正毅内閣が倒れた後、原敬政友会内閣が誕生し、以後、護憲三派によって、政党による内閣が組織され続け、吉野作造の民本主義や普通選挙要求、美濃部達吉の天皇機関説が唱えられるなど、言論の自由などが定着したかに見えた大正デモクラシーと呼ばれる情況が生まれた。労働運動や社会運動が活発になり、在野の学者や知識人の言論活動・表現活動も活発に行われるようになった。
1920年、戦後恐慌が起きると、小作争議はいよいよ活発となり、拡大した。日本初の、農民の全国組合の日農が、キリスト教社会主義者の賀川豊彦・杉山元次郎らによって組織された。1912年には労働団体の「友愛会」が誕生した。1921年には、友愛会は、日本労働総同盟になる。さらに翌22年には、全国水平社が結成された。この年、7月、非合法の日本共産党が結成され、11月にはコミンテルン支部に認められた。1914年には、日露戦費の負担のための諸増税に対する反対運動を組織する中で、小経営者たちが全国組織の実業組合や商工会などを基盤に団結して、増税反対運動に立ち上がった。1923年関東大震災。1925年、男子普通選挙法と合わせて「国体」の変革と私有財産の否定を目的とする結社を禁止する治安維持法が成立した。適用第一号は、朝鮮共産党だといわれている。しかし、当時、日本の共産主義者はそれほどおらず、やがて、その適用を受けるようになるのは、大本教などの宗教団体や右翼団体である。
1924年頃には、20年恐慌の打撃からある程度回復して、相対的安定期に入った。ところが、1927年(昭和2)、台湾銀行の倒産を契機に、金融恐慌が襲い、中小銀行が次々と倒産した。1929年(昭和4)秋、アメリカで恐慌が勃発した。その頃、日本政府は、1930年(昭和5)1月11日、金解禁を実施した。
その頃、満州では、関東軍が、1928年に軍閥の張作霖を暗殺したことから、その子供の張学良が、南満州鉄道に並行する鉄道を敷くなどして、満鉄の経営を脅かした。そこで、関東軍の石原完爾や板垣征四郎らの関東軍将校は、謀略を練って、作戦計画を秘密に作成した上で、1931年9月18日、南満州鉄道の一部を爆破して、それを口実に、中国東北部の各地を武力占領した。いわゆる「柳条湖事件」である。これに対して閣議で、南陸軍大臣は関東軍の自衛行為だと主張したが、外務大臣幣原喜重郎は関東軍の謀略説を主張した。9月24日の閣議で、「事態を拡大しない」ことを決定する。ところが、関東軍は、戦線を拡大した。それが国際的非難を浴びると、今度は、1932年3月1日清朝末裔の溥儀を皇帝に担いで、傀儡政権の満州国を建国した。なお、石原完爾は、日蓮主義の国柱会のメンバーだった。その構想は、満蒙に「五族協和」の「王道楽土」を建設するというものだったが、その中身は、日本人を上層指導民族として、中国人・満州族などを労働者や商人とする民族別の差別的分業を敷くというものであった。日本人が支配民族で、それ以外が被支配民族という民族差別的なプランである。
この時、日本の新聞は、関東軍の行動を支持する主張を掲げ、「満蒙=帝国の生命線」などを叫んだ。
政府は、神社神道を非宗教の国家の宗祀として、他の宗教団体を別枠で管理するようにした。さらに政府は、1913年(大正2)年6月、内務省の宗教局を文部省に移した。そして、この時、始めて、キリスト教が、その対象として公認されたのである。1899年(明治32)月、第二次山県有朋内閣のとき、はじめて宗教法案が貴族院に提出されたが、仏教界の反対で廃案となる。翌1900(明治33)年、国家の宗教統制に反対して「仏教懇話会」が作られ、さらに、それは「大日本仏教会」「日本仏教連合会」になる(現「全日本仏教会」)。
浄土真宗においては、すでに江戸時代には、「真俗二諦論」を唱えて、俗世の権力や支配秩序に対して、迎合していく姿勢が理論づけられていた。それは、明らかに宗祖親鸞の教えにないものであった。しかしそれは、明治期以降も受け継がれ、1886年(明治18)に政府の監督の下で定められた宗則では、「一宗の教旨は、仏号を聞信し大悲を念報する、之を真諦と云ひ、人道を履行し王法を遵守する、之を俗諦と云ふ。是即ち他力の安心に住し報恩の経営をなすものなれば、是を二諦相資の妙旨とす」と規定している。ここではまだ、真諦=仏法、俗諦=王法とはまだ区別されているが、やがて、阿弥陀仏と天皇を重ね合わせるようになり、それが神道側から不敬と批判されると、今度は、神道の一部として仏法を崇めるなどと云うようになり、ついに、1938年(昭和13)には、それまでの神祇不拝の指導をくつがえして、伊勢神宮の大麻を受け奉安する。「真俗二諦論」が、王法と仏法を同等にとらえるかのようだと非難の声が起こると、ついには、仏法はいらない、皇国の道を遵守すべき、仏教の名前は国体に返す、などと、真宗の自己否定というべきところまで、行ってしまった。
曹洞宗は、廃仏毀釈やその後の国家神道による圧迫に危機感を強め、大内居士がつくった『修証義』の草案を總持寺の畔上楳仙禅師、永平寺の滝谷琢宗禅師が校訂した上で、それを宗門布教の標準として1891年(明治23)に公布した。それは、曹洞宗の教えをわかりやすくコンパクトにまとめたもので、在家の化導に大いに役立ったという。『修証義』は、現在でも檀家などに配られている。座禅=悟りとする沢木興道禅師が出て、駒沢大学で教鞭を執るなどして、弟子を育成した。
西田幾多郎は、臨済禅の体験や思想を西洋哲学と結びつける思索を続け、鈴木大拙は、鎌倉期の禅と念仏に日本的霊性の誕生を見た。
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