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日本の仏教についてのノート(6)

 親鸞の思想
 親鸞は、幕府の念仏禁令と弾圧によって、僧籍を剥奪されて、越後国府に流され、したがって、公式には一生、在家の仏教者であった。空海は、正式の戒を授からないまま、唐に渡って、真言宗の法嗣を得たが、その後、鎮護国家の宗派として朝廷の公認をも得た。それに対して、親鸞は、自らの寺を持たないまま、亡くなった。その後、大谷の霊廟を末娘の覚信尼が守り、二代如信は、関東から奥州で布教してそのまま亡くなり、三代覚如は、ようやく大谷の地に本願寺を建立するものの、弟子たちの起こした高田専修寺派や仏光寺派の勢力の方が、信者を増やしていくのである。

 親鸞は、藤原一族の日野氏の生まれだとする説があるが、この点はまだはっきりしていないようである。たとえそうだとしても、没落貴族であったのではないだろうか。当時、比叡山で堂僧というのは地位が低かったようであるし、貧しい家の子供が口減らしのために寺に預けられるということもあったようである。今でも、チベット仏教を神秘化して、子供たちが修行する姿を純真無垢であるかのように持ち上げるような狭い見方があるが、貧困から口減らしで子供が寺に預けられることが多いのであり、だいたいが、児童労働といっていいような雑用の類を修行と称してやらされているように見える。

 親鸞の思想については、戦前から様々な知識人がいろいろなことを書いてきた。例えば、倉田百三の戯曲『出家とその弟子』や鈴木大拙の『日本的霊性』等々がある。倉田の親鸞観では、彼は一種のヒューマニストであり、その思想の核心は念仏による愛の成就であるとしている。彼は、この場合の「愛」を、「信」と同義のように語っていて、現在の価値観を過去に当てはめるという過ちを犯している。

 やはり、親鸞の思想は、弥陀の本願、かの如来の名をあまねく広めるまで、成仏しないという誓願を立て、大きな慈悲心を起こして、衆生を救うという言葉を、信じることであり、ただただ称名念仏によって、他力による往生を信じるという「信」の思想である。その「信」は、あくまでも阿弥陀如来と親鸞個人との間に成り立つ「信」であって、血縁などを離れた「信」であるところが、それまでの仏教とも神道とも異なる独自なところである。
 
 親鸞の「親鸞は、父母の孝養のためとて、一辺にても念仏まうしたること、いまださふらはず」「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」という『歎異抄』における言葉は、そのことを示している。親鸞はその理由を前者については「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれも順次生に佛になりてたすけさふらふべきなり」、後者については、「わがはからひにて、ひとに念佛をまさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて念佛まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはけたる荒涼のことなり」とあくまで念仏は、他力であって、「如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんとまうすにや、かへすがえすもあるべからざること」なのである。

 それでは、その如来からたまわる信心は、どうしたらえられるのか? それは南無阿弥陀仏というその如来の弥名を聞くことによってである。十方あまねくその名が満ちることによって、衆生がその名を聞くのであり、それを通じて、信心が与えられるのである。

 そして、弥陀の名号を唱えるだけの行を易行、学問などをする行を難行として、一切衆生を救うということは、難行では救えない「われらがごとく、下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法」であるからである。

 親鸞は、他力の立場から、「煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと、この条、もてのほかのことにさふらふ。即身成佛は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり」と、真言宗・法華宗を批判している。煩悩から逃れられないこの世で、悟りを開き、成仏することは不可能である。なぜなら、それなら、成仏の印として、三十二相、八十随形好を具足できなければならない。それは煩悩のあるこの世では不可能である。この世ではなく、弥陀の本願にすがり、信じて、名号を唱え、浄土に生まれ変わる他はないというのである。

  極楽往生を観想し、それを美しく描いて、そこへの死後の転生を願ったのが、平安末までの浄土宗の教えであった。そしてその対極に地獄の恐怖を描いたのである。親鸞はそれを否定する。

 親鸞は、極楽往生を願って、称名念仏をしたからといって、浄土に生まれ変われるか地獄に落ちるかは、わからないのであり、「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念佛して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」という「信」に生き、謝恩報謝し、歓喜する他にないというのである。「とても地獄は一定すみかぞかし」なのである。しかもそれは、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり」という弥陀と親鸞一人が対する関係においての「信」なのである。このような「親鸞一人」という個我意識あるいは個の自覚を、大地性を持つ日本的霊性の自覚と呼んだのは、『日本的霊性』*の鈴木大拙であった。

 *この本は、昭和19年(1944年)の戦時中に発表された。解説によると、鈴木大拙は開戦当初より敗戦の必至なることを信じて、敗戦後の日本の精神文化のあり方を考えて、「日本的霊性」なる概念を初めて用いたのだという。この本は、神道のたんなる肯定に止まる幼児性、大地性のない貴族文化の「もののあはれ」の脆弱性、仮名文字文化の弱さなどに対して、主に、浄土信仰の霊性として大地性・農民性・武士性・地方性・田舎性・生活性・現実否定をくぐった上での肯定性などとの関係を強調して対置した。これは無謀な戦争に導いた国家神道への批判であり、その敗北を見越した新時代への洞察の書を目指したものなのだろう。その際に、鈴木大拙は、地方の農業の再建からはじめなければならないと考えたのだろう。鈴木は、霊性という基準として、一般に親鸞の主著といわれる『教行信証』ではなく、『歎異抄』や和讃の方を、高く評価している。

 上根の仏教諸派は、それが可能な貴族などの上層に主に支持される旧仏教派と重なり、それに対して彼は、下根の易行を凡夫という下層の人々の称名念仏を真実の法として対置している。いわば庶民こそが真実の法、称名念仏によって救われるのであり、それ以外の法を説く諸仏教宗派とそれの主な帰依者である貴族や上層の人々は、救われないというのである。

 親鸞の思想には、「親鸞一人」という個我としての自覚が現れており、しかも、ご恩と奉公という武士的主従関係に似たものが現れている。しかもそれは、「親鸞は弟子一人ももたず」という言葉に表れているように、他力の信を基準に、あらゆる人々が「父母兄弟」であるという平等観、氏族的貴族社会の血縁原理の否定があり、信のみを結合原理とする信者の集団としての僧伽の思想、等々が見られる。それが信を基準にした実子の善鸞との義絶(親子関係の断絶・勘当)にあらわれたものであろう。

 親鸞の教えの信者は、長いあいだ増えなかったのであり、鎌倉期は埋もれた存在であった。ご恩ー奉公の関係は、まだ一般的な社会諸関係としては完全に広まってはいなかったのである。公領荘園制の中世から封建制に移行するにはさらに約400年の歴史をへなければならなかったのである。それから、「親鸞一人」という「一人」を「一人」たらしめる社会関係が十分な発展を遂げるまでにはまだ歴史的変化の過程が長く続いたのである。それは、親鸞の後継者たちにとっては、信を軸にした講を組織化して本願寺教団の発展の基礎を築いた室町期の八代蓮如の時代まで待たなければならなかったのである。

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