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日本の仏教についてのノート(7)

 天台本覚思想
 鎌倉新仏教の開祖、親鸞、道元、日蓮、はいずれも天台宗比叡山延暦寺で学習・修行を行っている。彼らの学んだ頃の天台教学は、平安後期から発達した密教化とも関係し、中世から天台宗の基本思想となった天台本覚思想であった。これは、「山川草木悉皆成仏(悉皆有仏性)」に示されているような、あらゆるものに仏性が宿っており、それは「煩悩即菩提」「生死即涅槃」として、今あるがままの姿が、成仏の姿だというような思想で、結局、今そのままの姿がすなわち成仏で本覚(悟り)しているなら、修行などは一切いらないということになり、現実そのものが仏の世界そのものなので、現実をそのまま肯定するということになる。それとともに、体験・経験が悟りそのもののとなるから、師のそれを秘伝として口授することが、法統の伝承ということになる(口伝相承)。

 鈴木大拙は『禅と日本文化』(岩波新書)の中で、「一即多」「空即是色、色即是空」というような『即非の論理』について書いているが、それは、天台本覚思想への批判を表しているものといえよう。彼は、「般若経に『諸心皆為非心、是名為心』(taccittam accittam yaccittam)というので、要約して『即非の論理』としておく。つまり『心は心に非らざるが故に心なり』で、否定がすなわち肯定で、否定と肯定とは相互に『非』の立場にある、絶対に相向い立っているが、この『非』の立場が、ただちに『即』である。自分はこれを禅の論理というのである。『即非』はまた『無分別の分別』、『無意識の意識』でもある」と述べている。これは、天台本格思想への批判になっている。否定即肯定であるとしても、それらが両極として相互に絶対的に「非」の立場にあるという絶対的矛盾が「即」なのである。これが「絶対矛盾の自己同一」という西田幾多郎の立場と同じなのは容易に見て取れる。「即」は運動であり、転化であるということになれば、弁証法である。道元は、禅の境地をそのようなものとして語っているし、親鸞も、それを歓喜として語っている。

 なお、鈴木大拙は、この本の中で、「一即多」が、汎神論というのは誤解である、なぜなら、汎神論は万物に神性が宿るというが、それは「空」として退けられるからであると言っている。否定を含むところが汎神論とは違うというのである。しかし、汎神論は、スピノザのように、無神論への転化を含んでいた。それらは自然信仰を含みつつ、それを止揚したものである。仏教は汎神論と同じではないが、それを含むのである。

 天台本覚思想は、その後、天台宗の世俗化を正当化するものとなった。というよりも、荘園領主化した延暦寺の現実が、そういう思想を生みだしたのであり、それに反発して山を下りた親鸞・日蓮・道元らが、天台本覚思想を批判して、新たな仏教を起こしていくのである。天台本覚思想の行の否定に対して、親鸞における他力本願の易行たる称名念仏、日蓮の仏性を開く南無妙法蓮華教の唱題の行、道元の悟り即座禅の行、等々をそれぞれ立てたのである。そうはいっても、比叡山で学問・修行した三者とも、なんらかの形で、天台本覚思想を継承しているところもある。その上で、密教化した本覚思想に対しては、きびしく批判しているのである。

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