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日本の仏教についてのノート(8)

 日蓮の生涯
 日蓮は、1222年(貞応元年)、安房の国東条郷小湊(現在の千葉県鴨川市天津小湊町)の漁師の家に生まれた。そのことを日蓮は後に、自らはっきりと記している。「日蓮は安房の国・東条片海の石中の賤民が子なり」(『善無畏三蔵抄』)、「日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり」(『佐渡御勘気抄』)。ただ、網野氏の主張では、この中世前期までは、かかる海人―職人は、賤視されてはいなかったのかもしれない。ただ、彼は、自分が「法華経」で末法の法を依嘱される「地涌の菩薩」「凡夫」としての自覚を強調したかったのかもしれない。しかし、このような低い身分の自覚には、貴族や武士などの上層身分が主に信仰した天台宗・真言宗・浄土宗・臨済宗・南都仏教諸宗派に対する対抗心も込められていたとも思われる。

 また、「安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし、其の故は天照大神・跡を垂れ給へり」(『新尼御前御返事』)と語っていることは、この頃、東国のこのあたりが、伊勢神社との関係を深めていたことを言っているのかもしれない。この頃、伊勢神宮の御厨(神領)が、12世紀に東国に急激に増えるということがあったのと関係があるのであろう。1181年(治承5年)右将軍源頼朝によって、伊豆国の走湯山五堂燈油料船50艘の東国の自由往来を保証されている。日蓮は、右将軍が、天照大神を東条に移したと書いているのは、このことと関係があるのかも知れない。網野氏は、石井進氏の「中世都市鎌倉の研究」で、『日蓮遺文』から、「筑紫―鎌倉―陸奥」という海路の重要性を強調していることを指摘して、活発な海の道とそれにのって海民や職人などが活躍していたことを明らかにしている(いずれも、網野氏『日本中世の民衆像』による)。

 12歳のとき、彼は、地元の天台宗の清澄寺へ入る。16歳前後のとき出家得度し、「是生房蓮長」という天台僧になった。その後、鎌倉での2年の修学をへて、18歳の時、比叡山延暦寺に入った。さらに、高野山その他の諸寺で修行を重ねた。この修学によって、「法華経」が最勝最高の経典だという結論に達し、1253年(建長5年)清澄寺で、立宗を宣言し、親族や清澄寺関係者などの折伏を行ったが、地頭の東条景信によって追放され、鎌倉に入った。

  1255年(建長7年)『念仏無間地獄鈔』を書いて、念仏宗を攻撃した。例えば、後堀河院の嘉禄3年に法然の選択集などを焚書にし、「法然房が墓所をば犬神人に仰せ付けて之を掘り出して鴨河に流され」たことを記して想起させた上で、「院旨・院宣・関白殿下の御教書を五畿・七道に成し下されて、六十六箇国に念仏の行者・一日片時もなく之を置く可からず対馬の島に追い遣る可きの旨諸国の国司に仰せ付けられ畢んぬ」と院の命令によって念仏者を弾圧し、ことごとく対馬に流すよう求めている。

 そして、1260年(文応元年7月)、念仏宗など他宗を排撃し、日蓮の主張する正法に帰依しなければ、「他国侵逼の難・自界叛逆の難」に見舞われるなどと主張した『立正安国論』を北条時頼に送るが、採用されなかった。北条時頼は、禅宗に帰依し、宋からも禅僧を招いたり、保護した。1247年(宝治元年)、道元は、時頼の求めに応じて、鎌倉に入って彼に禅を指導した。

 この頃、モンゴル帝国の南下などの情報を、幕府も、聞いていたに違いない。1127年、宋は、金によって滅ぼされ、江南に逃れた部分が新たに宋を名乗る(南宋)が、弱体化していた。さらに、1234年、金は元に滅ぼされ、1259年には高麗が元に服属させられる。1279年の南宋の滅亡は、もうすぐであった。

 日蓮の幕府に対する働きかけは、像法の鎮護国家の比叡山延暦寺の天台宗に対して、末法の日蓮宗が鎮護国家の法となるということから、繰り返された。日蓮の「王仏冥合」思想は、幕府の動勢や歴史・蒙古の動向など海外情勢などの現実的な関心につながっているようである。時期が重なる親鸞や道元は、政治などには関心を示さず、ひたすら教行に没頭していたのとは、違うのである。日蓮の真言・天台密教批判も、それらの加持祈祷・調伏も効果がなかったとして、それを法華本門による調伏ではなかったからだというような言い方もしている。だから、『立正安国論』では、法華本門による調伏を幕府に勧めているのである。

 こうした国際情勢は、幕府や御家人や武士や僧には伝わっていたはずであり、日蓮は、それを念仏宗・禅宗・真言宗などの謗法によるものとして、法華本門の正法に帰依することを、幕府に迫ったのである。しかし、それは幕府に受け入れられず、その後、念仏宗信徒らによる鎌倉の草庵の襲撃1260年(文応元年)の「松葉ヶ谷法難」にあい、翌年(弘長元年)には、幕府によって伊豆の伊東に流される(「伊豆法難」)。1264年(文永元年)、赦免されてから住んだ小湊で、地頭らに襲撃され、負傷する(「小松原法難」)。さらに、佐渡に流罪になる途中で、首を切られそうになる(「龍口法難」)。

 佐渡流罪の間に、1273年(文永10年)『観心本尊抄』を書き、大曼陀羅御本尊を書いたと言われる。1274年(文永11年)赦免され、鎌倉に返った後、地頭の波木井実長の寄進した身延山に移った。1281年(弘安4年)身延山久遠寺を創建。1282年(弘安5年)、常陸に湯治に向かう途中、10月13日、武蔵国池上の波木井氏の屋敷で60歳で入滅する。

 その後、六老僧と呼ばれる6人の高弟が順番で身延山久遠寺の墓所を守ったが、やがて、日興が、他の5人や波木井実長らを、日蓮の正しい教えから離れ、謗法を重ねるようになったと非難して、身延を去り、富士大石寺に移って、大石寺派を開いた。日蓮宗の最初の信徒は、東国下級武士が多かったようだ。

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