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2006年6月

近代日蓮主義の敗北の原因について

  日蓮宗の僧侶で宗教学者の丸山照雄氏の『象徴天皇制とは何か』(河出書房新社)の8章「近代日蓮主義と超国家主義思想」は、頭山満、井上日召、田中智学、宮沢賢治、北一輝、高山樗牛、本多日生などの日蓮主義者たちを分類し、分析したものであるが、その中でも、田中智学の国柱会を、近代主義的日蓮主義であり、体制迎合的で、日蓮の宗教とは違う方向にいったものだと批判している。

 丸山氏は、第二次大戦中の『日蓮遺文』中の、政府に不敬箇所の削除を求められたことを指摘し、さらに身延山久遠寺において起きた類似の事件を取り上げている。

 「たびたび私事にわたることを記して恐縮であるが、田中智学のようなプラグマティックな「日蓮主義」が近代日蓮門下のすべてを覆っていたというのは早計である。また明治期の日蓮門下の信仰のあり方をトータルに集約したのが田中の「日蓮主義」でもなかった。たしかに彼の影響は広く及び、田中の「日蓮主義」は一世を風靡したにはちがいないが、その影響下にあり、彼を尊敬していた私の父などは、こと宗教的価値観において「国家=天皇」と「法華経=日蓮」の関係を逆転させるようなことはできなかった。まことに無智で凡愚な僧ではあったが、だからこそ父は明治の僧の基本的な姿勢を代表し得るものではないかと思うのである。

 例えば、大戦中、日蓮の「御真骨」(遺骨)について、身延へ参詣した某宮家の発言が契機となって問題が起こった。日蓮の廟所には遺骨の一部が埋骨されており、大部分は身延山久遠寺の「御真骨」に奉安されているのであるが、その事を見聞した某宮は、「墓に骨が入っていないというのはおかしいじゃないか」というような言辞を吐いた。当時のことであるからこの発言が寺側の正式の会議でとりあげられ、「宮さまのお言葉だから廟所へご真骨を遷座しなければなるまい」ということがはかられた。その時父は「宮様がなんといおうが天皇さまがなんといおうが、身延山には伝統があってそう軽々しくものごとを処理することはできない。例えば、深草の元政上人が身延へ参拝し、ご真骨を拝して、どのような感慨をもたれたか・・・」と元政上人の歌一首を読みあげて反論を行なった。発言の内容よりも、「宮さまがなんといおうと、天皇さまがなんといおうと」という言辞はまさに不敬罪に問われる内容であった。父は抵抗や批判の意識でそう言ったのではなく、明治の僧の「常識」で自然にそう言ったまでであったのである。(父は明治十二年生まれで十九年に寺の小僧となった)だが、昭和十六(一九四一)年頃のことであるから問題はそう簡単にはおさまらなかった。時代状況を見はからってものを言う才覚のない父は、まずここでつまずいた。次は大戦も末期、銅製品の回収が行なわれたのであるが、この時寺からは多量の仏具・仏像・鐘などが供出されていった。父は「寺に国家が何か奉納でもして戦勝を祈願するというのならわかるが、寺のものを持ち出していって弾丸をつくるようでは勝てるわけがないじゃないか」というふらちなことを言ってしまった。これもまた警察ざたになった。

 明治育ちの父のメンタリティーを見ていると、私など昭和ひとけた代生まれの者がうけた天皇制イデオロギーの教育などというものは、ずっと後代になってつくられていったものであることをつくずくと思い知らされるのであった。父親のことを「この非国民め!」と子供ながら正直思っていたのである」 

 田中智学は、近代という観念に取り憑かれ、文明開化を内面化したような人だったようだ。それに対して、丸山氏の父親は、いわば、「田舎坊主」であって、ただひたすら日蓮信仰の伝統に生きていたために、時代の最先端の超宗教主義と無意識にぶつかってしまったのである。

 近代科学の世界と仏教的な宇宙観が、混じり合った宮沢賢治の文学世界は、農民的世界・大地と格闘する中で、そこに学び、根ざすという思想的転回をとげた。近代農法を遅れた農民に啓蒙するという立場で出発した宮沢賢治の姿勢は、やがて、農民から学ぶという姿勢に転化した。国柱会の日蓮主義者といっても、いろいろだったのである。

 今でも、宗教を近代主義と結びあわそうというモダニズム宗派があって、なんとかの科学だの心霊を科学するだのということを強調したりしている。しかし、例えば、キリスト教では、近代主義的神学の一種の自由主義神学が、ナチズムに対して無力であったことを批判したカール・バルトの弁証法神学が生まれ、戦後の世界のキリスト教(主にプロテスタント)に大きな影響を与えているが、その主張は、キリスト教共同体と市民共同体をはっきりと区別して、前者を霊による共同体、霊の指導する共同体であり、国家・市民社会とは明確に区別して、何よりも霊的共同体を目指すことを説いた。

 それに対して、体制にぶら下がり、体制の庇護によって、宗派の発展をはかるというような自堕落な宗派は、内部腐敗していくに違いない。そうではなく、丸山氏の父親のような人が多くいる宗派は、腐敗にうちかつ力が大きいに違いない。

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「つくる会」は終わったのでは?

 「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝副会長のブログが久しぶりに更新された。新記事のタイトルは、「八木氏の「第2つくる会」の正体」で、前半は、「日本の教育の一部となった『新しい歴史教科書』」として、 同歴史教科書を採択した千葉県柏市の広池学園麗澤中学校での研究授業の報告である。

 記事によると、中学2年生に「神話」の授業を行い、ギリシャ神話・ローマ神話・モンゴル神話などの世界の建国神話を比較した上で、『古事記』のあらすじを神武天皇までさかのぼったというのである。それを60分近くまで延長して行ったというので、藤岡氏は感心している。建国神話の前の高天ヶ原の話はどうしたのか気になるところだが、それは神代の話だから省略してもいいということか? 『記紀』の中には、飯豊皇女の話も出てくるし、いったん皇嗣がとぎれて、5代さかのぼって、北陸にいた遠縁を天皇にたてたという話もある。まあそういう話はたいした話ではない。インターネットなどで調べれば、いろんなことがわかって、こういう授業での知識も相対化されてしまう時代だから。

 問題は、藤岡氏が、この程度のことを、「麗澤中学校の授業研究会が示していることは、全国の心ある方々のお力添えで、10年がかりで進めてきた「新しい歴史教科書をつくる会」の運動がやっと芽を出し、『新しい歴史教科書』が確実に日本の教育の一部になったこと、そのことである。教科書が出来たからこそ、このような事実を作り出すことが可能になったのである。その大きな意味を確認し、今後の前進につなげる糧としたい」と過大評価していることだ。彼のこういう主観性が、「つくる会」の内紛の原因の一つではないだろうか。彼は、自国に誇りを持たせる歴史教科書が必要だとして、大騒ぎをしたのだが、昔の歴史教科書で教育された人々は、別に自虐的になどならなかった。だから、藤岡氏が、1991年の湾岸戦争の時に、なぜ、大ショックを受けて動揺したのか理解に苦しむのである。アメリカがどうだろうと日本には日本の生き方がある。それでよかったのではないか。

 *なお、この麗澤中学は、麗澤大学・高校の系列校で、「日本会議」のメンバーの「モラロジー」というグループの作った学校である。「モラロジー」は、道徳を科学することを目的として創設されたという。儒教道徳と近代主義をミックスしたような疑似宗教のようだ。それにしても、儒教の一派の陽明学者の安岡正篤の影響を受けたという細木数子がマスコミで担がれたりと、儒教主義はなかなかしぶといものだ。

 後半は、「「朝日新聞に批判され」ない歴史教科書づくりを宣言」という「第2つくる会」すなわち、新田均氏・八木氏らの新しいグループに対する批判である。これは、6月26日付の朝日新聞系の雑誌『アエラ』の「つくる会」分裂に関する記事に載っている新田グループのコメントなどへの批判である。

 彼は、まず、『アエラ』の記事は、「つくる会」が、「離脱組」「居残り組」「立ち上げ組」の3グループに分かれたとして、「離脱組」として、西尾幹二・高橋史朗・西部邁・小林よしのり、「居残り組」として、藤岡信勝、「立ち上げ組」として、八木秀次・中西輝政の写真を載せているのに対して、「居残り組」の写真を一人しか載せないのは、大量離脱、「立ち上げ組」多数、「居残り組」を少数のように見せる印象操作だと批判する。その可能性がゼロとはいわないが、「居残り組」が、事実上、藤岡派だという印象は、この間の内紛劇を見れば、誰でも自然に抱くのではないだろうか? 「居残り組」の他の幹部たちは、この間、この問題でこれといった公の意見を発したともきかないし、ほぼ、藤岡氏だけが、「居残り組」を代表するような感じで、ブログなどで発言を行ってきたのだから、「居残り組」を藤岡氏一人の写真で代表させたとしても、別に不思議はない。

 藤岡氏は、物事をいろいろな側面から、客観的に考え、分析し、検討することができない人のようだ。

 藤岡氏は、もっとも重要なところだという記事の最後に載っている八木氏のコメントに噛みつく。八木氏は、記者の質問に、「南京事件や慰安婦など論争的な問題にこだわるのではなく、もっと歴史を大局的に見たものにしたい。朝日新聞に批判されるようなものにはならないはずですよ」と答えたという。それに対して、藤岡氏は、「八木氏がつくる歴史教科書には、慰安婦を書くつもりなのだろうか。南京事件はどう書くのか。これらの論争的テーマに日本と日本人の誇りがかかっており、だからこそ血の滲むような努力によって、まだ不十分とはいえ、やっと今日の状態にまで正常化したという歴史を、八木氏は何と心得ているのか。この分野で何も苦労をしていない八木氏が軽口をたたくのは、軽薄そのものである」と悪罵を投げつけている。これこそ、藤岡氏が、知識人でなく、政治家であることの現れである。

 慰安婦問題については教科書に書くこと自体に、そして、南京事件についてはその書き方に、日本人の誇りがかかっているというのである。どうしてこの2点の論争的テーマが特別扱いされるかというと、前者は、韓国との関係で、そして後者は中国との関係で、謝罪外交の原因になっていると考えているからである。「だからこそ血の滲むような努力によって、まだ不十分とはいえ、やっと今日の状態にまで正常化したという歴史を、八木氏は何と心得ているのか。この分野で何も苦労をしていない八木氏が軽口をたたくのは、軽薄そのものである」ということになり、したがって、八木氏らの「中国詣」は、許し難い行為だということになるわけだ。以下の文章を読めば、藤岡氏が、中国による日本支配の陰謀を信じて、それに負けないために、「つくる会」で、日本人の誇りを子供たちに注入する運動を起こしたことがはっきりとわかる。

  「「第2つくる会」の正体見たりである。氏は一体、何のために教科書運動に参加したのか。朝日新聞が『新しい歴史教科書』を批判するのは、『AERA』の記事が言うように、内容が「過激」だからではない。理由があるのだ。それが理解できないとしたら、八木氏は知識人として痴呆化しているのか、それともすでに魂を朝日流リベラル左翼に売り渡してしまったかのどちらかである。私は前者の可能性が高いと見ているが、後者の可能性も否定できないと思う。なにしろ、朝日新聞のご主人格に当たる中国共産党とすでに「調整」がすんでいるのかも知れないのだから」。

 それにしても、藤岡氏は、徳とか思想的深さ、あるいは哲学的なものを感じさせない人だ。知識人の仕事とは、中国が、朝日新聞を使って、日本に対するなんらかの陰謀を仕組んでいることを見抜くことだとは、藤岡氏流の知識人論には恐れ入る。宗教教団の中には、中国が日本侵略を狙っていると強調しているところがあるが、それはあくまでも、宗教的な理由でいっているので、別に愛国心という世俗的な意味で云っているわけではない。そういうことを強調して、信者を増やすのが目的なのである。ところが、藤岡氏は、すでに、日本はアメリカの下僕であるという現実の方よりも、未来にあるかもしれない可能性の方に重点を置いているのである。新田均氏のブログを読む限りでは、彼の方が、日本の歴史に関する理解と知識は藤岡氏よりもましである。もっとも、一揆と「五カ条のご誓文」を短絡的・非歴史的に結びつけるといったような無理をやったりしていて、トンデモ話も多いのだが。ただ、新田氏は、宗教についての理解抜きに、日本の伝統や文化や歴史を見ることは出来ないという意味で、そういう歴史知識と一定の理解をもっていると思う。

   もう一つ、新田氏は、「進歩史観」を批判し、藤岡氏や西尾幹二氏らがそれを払拭していないと指摘している。それは、「つくる会」副会長の福地淳氏の文章に現れていることを先日拙稿でも指摘したとおり、正しい。それは、駐日大使を務めたライシャワーの近代化論といわれる歴史観もそうである。それに、『歴史の終わり』を書いたF・フクヤマもそうである。歴史というのは近代に向かって進歩するもので、その最先端に欧米がいて、残りの世界は、それに近づく進歩の過程にあるという歴史観である。ただ、フクヤマは多少軌道修正しているが。しかし、イスラム世界の現実を見れば、それが誤りであることは歴然としている。湾岸戦争からイラク戦争までの歴史の現実をしっかり分析し、深く理解した人は、このような西欧的な「進歩史観」が、誤りであることを見抜くはずである。例えば、日本での平等思想は、すでに理念としてだけなら、中世には、仏教思想から発生していた。西欧の人権思想に当たるものとして、「一切衆生、悉有仏性」という思想も仏教から生まれていたのである。もちろん、現実はまた別なのであるが。

 藤岡氏には、そういうのはまったくないし、共同体や生活や信仰生活や社会のこととか、そういうところをすっとばして、国際政治での陰謀話だの万世一系だのという抽象的な次元の方にいってしまう。そんなのに、普通の人はついていけない。藤岡氏が、足腰となる重要な部分を失ったことの大きさを知らないとしたら、それこそ、知識人として恥ずかしいことだ。もし、一部でいわれているように、扶桑社が、新田氏らのグループ側に回ったら、「つくる会」はおしまいになる可能性が高い。というか、この間の内紛の経過を見る限りでは、もう終わっているといってもいいと思うのだが。  

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「つくる会」分裂によせて

 「新しい歴史教科書をつくる会」の第92回理事会(2006年6月20日)報告が、会のHPに載っている。その副会長に名を連ねている福地淳という人の「『昭和の戦争』について」という文章が、「西尾幹二のインターネット日録」に載っている。トンデモ話が多いが、それは、基本的なところでの主観主義・主意主義・観念論が原因となっているように思われる。

 「支那事変は、有色人種の優等生大日本帝国の擡頭に我慢できない米英と世界の共産革命を先ず弱い部分である東アジアで成し遂げようとしていた共産ロシア(ソ連)が、支那の軍事独裁者蒋介石を背後から軍事的・政治的・財政的に支援・指導し、さらに支那共産党を介在させて闘わせた言わば代理戦争であった。・・・これらは、謀略情報戦に不得手で、「信義」や「誠実」をモットーとする我々日本人には中々理解できない醜い世界の出来事だった」。 

 米英は、自由や民主主義や平和をモットーとした。しかしそれはただの表看板にすぎなかった。だから、ヴェルサイユ条約という表の看板とは別に、英・仏・日は、中国・アジアなどの利権分割の秘密協定を結んだのである。「信義」と「誠実」のモットーには、顕密という表と裏の二種類がある。秘密協定や真実を知らされていない「信義」と「誠実」をモットーとしていた多くの一般の日本人は、顕教ばかりを教え込まれていたから、英米その他の世界の醜い出来事が理解できなかったのは当然である。

 1910年日韓併合は、韓国側から合併してくれと頼まれたから合併してやったのに、独立運動が起きるのは、誰かが邪悪な意図を持って、裏で陰謀を仕組んでいるに違いない。満州鉄道を爆破して謀略を仕掛けてくるとは、けしからん。満州国は、もともと満州人の故地で、満州人を助けて、満州人を皇帝にして、独立させた民族解放の事業を助けた英雄的行為であったのに、米英や国際連盟が、それを侵略だなどというのは、満州から日本を追い出したい米英の陰謀だ。等々。

 しかし、日韓併合は、朝鮮人組織である「一進会」の対等合邦論を裏切る日本による韓国の併合であったし、張作霖暗殺から、満鉄爆破事件にはじまる満州事変も、関東軍の計画的陰謀事件であった。それを証明したのは、一時「つくる会」にも関わった秦邦彦である。

 「最後にもう一度言おう。満洲事変から支那事変、そして大東亜戦争に関して我が国は侵略戦争の計画は何ももたなかったのである。だから、これらの戦争は我が日本にとっては「独立自衛」を求める以外の目的はなく、侵略戦争との意識は何もない戦争だったのである。モノの見事に誤解に基づく理想世界の拡大を欲した米国と、共産ロシアの二つの謀略勢力に支那大陸の戦場に引き込まれて、結局は押し潰されたと言える」。

 侵略の計画はなかった。だから、これらの戦争は、日本にとっては「独立自衛」という目的しかもっていない。侵略戦争の意識は何もない戦争だった。彼は、侵略戦争かどうかを、その意識があるかどうかではかる。これが福地の主観主義的戦争観の基準である。福地の考えでは、大日本帝国は、大東亜共栄圏・八紘一宇という理想世界の実現・拡大を欲したのだが、それも、「独立自存」意識の一部だったのであろう。これは、「大東亜戦争」を積極的なアジアの民族解放戦争であったとする靖国神社の「遊就館」や小林よしのりの戦争観とは異なっている。

 全体を通して、欧米に対する弁解、抗弁、申し開き、言い訳になっていて、結局は、この人こそ、欧米コンプレックスの自虐史観に陥っているようだ。明治憲法が世界で一番進んだイギリス流の立憲君主制の原理を導入したなどと誇っているのは、彼が価値評価の基準をイギリスに置いているということを意味している。彼は、君主無問責という西欧の歴史的基準のことを云っているのである。無問責な天皇にはそもそも戦争責任自体が存在しないということを云いたいわけであろう。それを、まるで、自分が東京裁判の被告側弁護人として、連合国に向かって、弁明しているといった感じだ。

 それから、彼の見方には、朱子学的な、政治を個人道徳に還元するというような感じもある。統治者の「善なる意志・意識」が、政治の善し悪しを決めるというような。英米の大衆は、真珠湾攻撃で宣戦布告前に卑怯な闇討ちを仕掛けてきた「悪」の帝国日本に報復するという「善なる意識」をもって、対日戦争を戦ったのである。それが、米国の誤解から起きたというのもおかしな話で、米英は、大陸から日本を追い出して、利権を求めていたのに、他方では、理想世界を追求したとするのは、どっちが本当なのか。アメリカは、理想世界を作ることが目的で戦争するつもりだったのか、それとも利権獲得が目的で戦争をするつもりだったのか? 

 結局、福地の文章を見ると、アメリカは、大陸から日本を追い落とした後、蒋介石政府を通じて、利権を追求し続けたので、今度は、その利権追求のじゃまにならないように、日本を完全非武装化し、弱体化することにしたということになる。ところが、まんまと中国共産党とソ連によって、蒋介石政府は大陸から追い出されてしまった。そこで、今度は、日本を再武装化して、朝鮮半島と台湾・日本を、中国・ソ連の南下を防ぐ防波堤とすることにしたということだ。それなら、占領軍の対日政策には、アメリカの理想世界の実現という「善なる意識」はあまり関係ないということになろう。また、自衛隊は、アメリカの利権追求のために作られたアメリカの道具だということになる。

 「つくる会」は、分裂し、新田均グループは別組織をつくった。そして、「つくる会」は、会長に、元日教組の転向組小林正をすえた。小林は、霊感商法・合同結婚式などで、被害者を生んでいる統一協会とつきあいのある人物である。策におぼれたのか、それともそこまで追いつめられたのか、「つくる会」は、金正日と手を結んでいるといわれる統一協会=文鮮明という禁断の木の実に手を出してしまったようである。「つくる会」三重支部は、解散してしまったという。「つくる会」の会員は激減しているという。残りの幹部は、親米色が濃いように見える。副会長福地の東京裁判批判も、見たように、英米の誤解を正すという程度のものにすぎない。敗北主義がその正体である。そんな敗北主義者の幹部を抱えて、「つくる会」を再建するのは難しいだろう。

 なお、「日本会議」の実働部隊の「生長の家」「霊友会」などは、分裂やスキャンダルや内部改革派の登場などで、力が弱りつつある。「生長の家」の現教主は、「左傾化」したともいわれている。保守・右派知識人の間での対立・抗争も激しくなっている。右派・保守派の混迷は続き、混乱は拡大している。

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日本の仏教についてのノート(21)

 近代の日本仏教(4)
 満州事変は、ちょうど、金解禁もあって、1929年に始まる世界恐慌が、日本に急速に波及し、とりわけ農業の受けたダメージが深刻化する過程で起きた。マスコミが煽ったこともあって、軍部に対する支持や期待が拡大し、政党への批判が人々の間に広まった。経済恐慌が深刻さを増すのに対して、浜口雄幸内閣は、緊縮財政・外債整理・金解禁準備をはかり、陸海軍予算を大幅削減しようとことが、軍部の反発を買い、1931年3月に軍部の倒閣クーデター計画が発覚した(3月事件)。さらに、同じようなクーデター未遂事件が10月にも発覚した(10月事件)。

 1932年2月9日、民政党の前蔵相井上順之助が、3月5日には、三井の理事長の団琢磨が、暗殺された。その捜査の過程で、財界暗殺を計画していた「血盟団」が摘発され、井上日生(日蓮主義者)ら14名が逮捕された。5月15日には、軍人らが、首相官邸などを襲って、犬養首相を暗殺する5・15事件が起きた。この後、元老の西園寺公望が海軍大将の斉藤実を首班にした官僚・軍部からなる「挙国一致内閣」が成立し、政党内閣制が崩壊する。1935年(昭和10)、美濃部達吉の「天皇機関説」排撃運動が起き、内務省は、出版法の「安寧秩序の妨害」を理由に、彼の著作の発禁と訂正を実施した。文部大臣は、「国体明徴」の訓令を発し、学校長にそれを徹底するよう指示した。1936年(昭和11)2月26日、皇道派将校に率いられた約1400人の兵士が、首相官邸などを襲い、斉藤内大臣・渡辺錠太郎教育総監・高橋是清蔵相を暗殺、一時、永田町などを占拠する2・26事件が起きた。

 1937年(昭和12)7月7日の盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が勃発する。 1938年4月には国民総動員法が公布された。1940年、大政翼賛会が結成された。1941年12月8日、日米戦争が勃発する。そして、1945年8月15日の敗戦を迎えるのである。

 仏教界は、国家が仏教団体を統制しようとする宗教団体法案に抵抗してきたが、政府文部省は、何度も廃案になりながらも、ついに、国民総動員法が成立した翌年の1939年(昭和14)4月、宗教団体法を成立させた。宗教団体法は、それまでの教派神道の教派と仏教宗派に、新たにキリスト教を対象とする教団という規定を設けた。教団は、カトリックの日本天主公教とプロテスタントの日本基督教団(約30の団体の集まり)の二つだけであった。また、宗教団体の内部規則には文部大臣の認可が必要とされた。文部省は、宗派・教派の統合を指導し、仏教宗派は、それまでの56から28になった。教派は、13のままであった。文部省の宗教務課は、1942年(昭和17)11月、教化局宗務課になった。その狙いは、教化という言葉に明らかであろう。行政上は、新興宗教は、類似宗教と呼ばれ、宗教とは見なされていなかった。

 この過程で、1930年(昭和5)11月18日、牧口常三郎会長,戸田城聖理事長体制の「創価教育学会」が創立された。牧口会長が、日蓮正宗の信徒であったことから、宗教色が強いものとなった。その教義は、「美・利・善」を中心価値とし、その中で善を最高とするものだった。牧口は、柳田国男・新渡戸稲造などに支持された。牧口は、宗教の国家統制が強まる中で、日蓮正宗側から神札を祀るように指示されたのを拒否したといわれている。日蓮は、謗法ゆえに諸天善神は日本を離れていると書いているが、こうして、神道を一切拒否した「創価教育学会」会長の牧口は、1943年7月6日、治安維持法と不敬罪の容疑で逮捕され、さらに戸田以下20数名が逮捕・投獄され、1924年に、牧口は獄死した。

 大本教は「皇道大本」と名乗り、出口王仁三郎が教祖となって、神社神道を偽物とし、「皇道大本」こそ真の神道であると主張し、信者の浅野和三郎などが「大正維新」「大正十年立て替え説」を唱えるようになる。これらの動きを危険視した政府は、1921年(大正10)2月12日、不敬罪と新聞法違反の罪で、出口王仁三郎を逮捕した。第一次大本事件である。事件の審理は難航した上に、大正天皇の崩御によって1927年(昭和2)5月17日、免訴となった。この間に、出口は、『霊界物語』を口述筆記させている。この事件後、浅野和三郎・谷口雅春らの有力幹部が「皇道大本」を去って、それぞれ「心霊科学協会」、「生長の家」をつくった。釈放された出口は、内田良平・頭山満ら右翼と「昭和維新」を目指すようになる。

 1935年(昭和10)12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の教団施設を急襲し、それを破壊した。出口教祖は、不敬罪と治安維持法違反容疑で逮捕された。「大本」のホームページには、この大本第二次弾圧で、「信徒3000余人を検挙。激しい拷問で16人が死亡している」と書いている。さらに、同ホームページには、1945年(昭和20)12月30日の「大阪朝日新聞」の鳥取県吉岡温泉での王仁三郎による談話が載っている。

 「自分は支那事変前から第二次世界大戦の終わるまで囚われの身となり、綾部の本部をはじめ全国4000にのぼった教会を全部たたき壊されてしまった。しかし信徒は教義を信じつづけて来たので、すでに大本教は再建せずして再建されている。……自分はただ全宇宙の統一和平を願うばかりだ。日本の今日あることはすでに幾回も予言したが、そのために弾圧をうけた。……これからは神道の考え方が変わってくるだろう。国教としての神道がやかましくいわれているが、これは今までの解釈が間違っていたもので、民主主義でも神に変わりがあるわけはない。ただほんとうの存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化して、これを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた。……日本敗戦の苦しみはこれからで、年ごとに困難が加わり、寅年の昭和25年までは駄目だ。いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃したときにはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。」(「吉岡談話」)

 「大本」は、戦争中、ちょうどこのような弾圧下にあったために、戦争協力しなかった、あるいはできなかった唯一の宗教だったといわれている。同ホームページは、絶対に日本国憲法を守ろうと主張している。出口王仁三郎の唱えた「万教帰一」の教えは、「成長の家」にも取り入れられている。出口はエスペランチストでもあった。

 「大本」を出て、「生長の家」を興した谷口雅春は、アメリカのニューソートの影響も受けつつ、1930年(昭和5)、「生長の家」を創立し、「善一元」「万教帰一(同根)」などの教義を唱える。彼は、明治憲法復興、天皇信仰などを唱え、その点で、国家神道を拒否した出口王仁三郎とは違っている。二代の谷口清超の代になると、徐々に変化しはじめ、三代目の次男谷口雅宣は、初代の教えを否定し、教義・教団改革を進めたために、それに反発する古参信者との間で、対立が現在続いている。基本的な教義を「大本」に負っている「生長の家」が、天皇信仰を接ぎ木する形で、当時の国家神道や戦前国家に迎合して、教団を拡大しようとしたことが、戦後半世紀以上立った現在において、無理が出たということだろうか。70年代には、「生長の家」学生連合、反憲法学連などがあった。新右翼だった現左翼の鈴木邦男や高橋史朗、日本会議の事務局長、元「新しい歴史教科書をつくる会」の新田均らのグループなど、がそれらの出身である。しかし彼らは、現在の「生長の家」の路線からははずれている。

 これらの唯心論的ニューソート思想などの受容の前提として、アメリカにおけるキリスト教のスピリチュアリズムと神智学の大正時代頃の流行があり、それと科学とを融合させた「大正生命主義」があったと云われている。スピリチュアリズムは、降霊術の流行に見られるような霊界と現実界の交通を目的とする科学であり、神智学もそうした傾向を持つ心霊研究である。ドイツのシュティルナーが有名。生命主義は、ヘッケルやデューイやジェイムソンやベルグソンなどの生命を基本とする思想やそれと仏教などを取り混ぜたような当時の流行思想であったという。ニューソートは、宇宙を生命とし、すべては心の現れとする唯心論である。谷口雅春は、物質はなく、心しかないと唱え、全ては元々は善なる心のあり方次第で決まると主張した。本来善なる心を汚すのも心であるから、心を元の状態に戻すことが必要で、それをするのはもっぱら言葉であるとした。ニューソートは、例えば、マーフィーの法則などの成功哲学や人生成功論で、意志しだいで人生が決まるとする主観主義を唱えている。これを生死即涅槃などの天台本覚思想と似ているとする人もいる。谷口雅春は、病気も心で治すと主張するという徹底した唯心論者である。「大本」を出た浅野和三郎は、心霊を科学するとして「心霊科学協会」を設立する。

 現在のPL教団の前身である「扶桑教ひとのみち教団」が1931年(昭和6)に出来た。この教団は、冨士講から生まれたものである。信徒数は一時期は信徒総数約100万人にまで増えた。1936年(昭和11)、不敬罪で開祖御木徳一とその息子・御木徳近が逮捕・投獄され、1937年(昭和12)には解散命令がだされ、開祖は獄中で病死した。「ひとのみち教団」は、現世利益主義で、二代御木徳一は、平和主義を強調した。

 「霊友会」は、久保角太郎らによって、1924年(大正14)に設立された。法華経による先祖供養などという日蓮主義と儒教を接合した教義をつくったが、次々と分派ができて、分裂していく。1938年(昭和13)には、元幹部の庭野日敬らが「立正校成会」を設立する。戦時中は、子爵の娘を総裁に迎え、毎月1日に教団行事として伊勢神宮に参拝するなど政府に迎合した。戦後、教団拡大に成功するが、脱税事件などのスキャンダルが相次ぎ、さらに、「仏所護念会」などが次々と分裂していった。久保角太郎の次男の久保継成が教団を継いで、インナートリップ運動を起こして、若者などに信者を広げたが、女性スキャンダルで失脚し、新たに「いんなーとりっぷの霊友会」を作って分裂した。

 「立正校成会」は、1938年(昭和13)、庭野日敬・長沼妙佼によって、設立されたが、1943年(昭和18)、二人とも逮捕された。基本的には「霊友会」の教義を受け継いだが、教義と本尊は次々と変わり、信者を統一教会に派遣して、入信させた。「お導き」と呼ばれる信者拡大に力を入れているようだが、それは、「万教同根」論を取り入れて、他宗教とだぶることを容認しているからである。したがって、信者といっても、信仰心が固くない者が多いようである。

 満州事変以降の戦時体制強化の中で、本願寺派をはじめ、仏教諸宗派は戦時教学化を進めた。「落在舎」のホームページに、元龍谷大学学長の信楽峻麿氏の『真宗における聖典削除問題』があり、「西本願寺教団における聖典削除」問題についての文書がある。

 「西本願寺当局は、1940(昭和15)年4月5日、宗祖親鸞の著作『教行信証』と『高僧和讃』および『正像末和讃』の中の一部、そして本願寺第三代覚如によって記述された親鸞の伝記『御伝鈔』のなどの一部の文言が、日本の国体観念に矛盾し、天皇神聖の原理に抵触すると認めて、国家への忠誠を表するために、それらの文を拝読し引用するについては、削除ないしは改訂すべきであると決定した。そして、その趣旨を示した『聖教の拝読ならびに引用の心得』というプリントを作成して、教団の下部組織である全国の教区管事および輪番あてに通達配布した」。

 当然、それに対して、僧侶や信者から反対の声が起き、全国運動に発展した。しかし、西本願寺当局はこれを無視した。この聖典削除問題の前史として、「1939(昭和14)年6月には文部大臣の名によって、龍谷大学の予科(旧制大学入学前の段階で旧制高等学校に相当する課程。東京商科大学、北海道帝国大学、私立大学などに設けられた)において使用されていた真宗学の教科書『真宗要義』の内容について厳重な注意を受けるということがあった。その中の「勅命」「教勅」「仏勅」という語は、すべて天皇に対する不敬の用語であって、その使用は許されないということであった」(同)という思想弾圧事件が起きたが、この時も西本願寺当局は、文部大臣の指示通り、それらの削除や訂正に応じていた。ついには、西本願寺当局は、「1945(昭和20)年5月21日(降誕会)には、「宗門決戦綱領」というまことに壮烈な方針を決定したのである。それは法主が一千万信徒の陣頭に立ち、住職を支隊長にみたてて戦力補給につとめ、坊守は皇国婦道(女の守るべき道)の堅塁(とりで)を死守し、親鸞の説いた念仏の教えは奉公に帰すると語り、念仏を捧げて皇国を護持するというものである」(同)というところまで、堕ちてしまったのである。

 1931年に結成された「新興仏教青年同盟」は、既存仏教を批判して、「仏陀への帰一,資本主義社会改造,大衆生活の利福をはかる仏教社会建設を目的に」「仏教界改造・社会改革の実践運動に取り組んだ.機関誌《新興仏教の旗の下に》(のち《新興仏教》さらに《新興仏教新聞》に).1933年頃から労働争議支援・水平運動との連帯・反ファッショ運動参加など無産運動(とくに合法左翼)との結びつきが深まり,同盟委員長妹尾義郎は《労働雑誌》編集発行人にもなった。1939年11月以降,治安維持法違反容疑で大弾圧を受けた」(法政大学大原社会問題研究所HPより)。

 1943年(昭和18)、「戦時国民思想確立ニ関スル文教措置要項」*が閣議決定される。

 *戦時国民思想確立ニ関スル文教措置要綱
     昭和18年12月10日 閣議決定
第一 方針
 国民思想ヲ国策遂行ニ凝集セシメ戦力増強ヲ阻碍スル一切ノ思想的原因ヲ根絶シテ必勝ノ信念尽忠報国精神ノ昂揚、戦時国民道義ノ確立ヲ図ル為全面的ニ教学ノ刷新振作ヲ行フト共ニ国民ノ思想指導ヲ強力ニ実施スルモノトス

第二 措置
 一 国体・日本精神ニ基ク学問、思想ノ創造発展ヲ図リ教学ノ全面ニ之ヲ浸透セシメ戦意ノ昂揚、戦力増強ノ根本ニ培フ為教育内容ノ検討刷新、訓育体制ノ強化、日本諸学振興委員会ノ拡充等ニ付必要ナル措置ヲ講ズ
 二 国民思想ヲ混乱セシメ戦力増強ヲ阻碍スル虞アル学者ノ思想・学説ヲ究明是正シ及国民ノ思想、生活ヲ紊ル社会事象ニ付思想的究明ヲ行フ為文部省ニ所要ノ機関ヲ設クル等ノ措置ヲ講ズ
 三 学徒並ニ勤労青年ニ対シテ戦時思想指導ヲ強化スル為地方思想対策研究会ノ機能拡充、学校ニ於ケル思想指導体制ノ整備等必要ナル措置ヲ講ズ
四 宗教及宗教活動ノ醇化昂揚ヲ図ルト共ニ宗教団体及宗教教師ニ対スル指導ヲ強化シソノ活発ナル活動ヲ促ス
 五 教育団体、教化団体、文化団体等ノ活動ニ対シ真ニ日本的ナル思想、文化ノ根源ヲ確把セシメ之ヲ昂揚振作セシムル如ク関係官庁協力ノ上積極協力ナル指導ヲ行フ
 六 家風ヲ振起シテ我ガ国固有ノ家ノ本義ニ徹セシメ以テ戦時国民道義ノ確立、戦意昂揚ノ源泉タラシム
 七 本要綱実施ニ要スル経費ニ付テハ速カニ必要ナル予算的措置ヲ講ズ

 不敬罪・治安維持法などの弾圧を受けたのは、最初は、社会主義者などが多かったのだが、後には、国体明徴運動などの思想統合の動きが拡大するにつれて、宗教者・宗教団体がその対象とされて、大弾圧を受けることになった。他方では、既成仏教宗派は、国家統制が強まったとはいえ、戦争協力を強めていった。しかし、その中でも、教義をめぐる政府の削除・訂正圧力に対して、僧侶や信徒の間に、あくまで宗派としての教義を守ろうとする動きもあったのであり、それを押さえつけながら、内部統制をしつつ、戦時を乗り切ろうとしたのである。

 それらのことは、戦後にそれぞれの宗派内の反省が始まり、それが何十年にわたる改革運動の成果として明らかにされてきたことであり、それは今でも続けられているのである。東西本願寺派の基幹運動・同朋運動・門信徒運動と呼ばれる改革運動では、直接には、人権問題という差別の解決・人間解放ということがきっかけであったが、それは平和の問題をも含めて、「苦」からの解放としての念仏というところまで進み、戦争「苦」の問題にも向き合っている。その中で、戦時教学や戦前の浄土真宗のあり方についての批判的な見直しなどが進められたのである。曹洞宗においても、平和と人権は宗派としての大きなテーマとして取り上げられている。その他、全仏教寺院の9割を組織する「全日本仏教会」も、それらのテーマへの取り組みを掲げている。

 とりわけ、戦時教学などの反省にたった東西本願寺派では、同朋運動・基幹運動・門信徒運動などの教団改革の運動が起き、部落差別、人権、平和などの社会的課題を、「信仰の社会性」の視点からとらえ、これらの課題の解決を、浄土真宗再生の一環として取り組んでいる。2006年度から2011年度までの「基幹運動総合基本計画」は、以下の通りである(「坊さんの小箱」というホームページより)。

「基幹運動総合基本計画」
Ⅰ.目標 : 御同朋の社会をめざして

「御同朋の社会」とは、いのちの尊さにめざめる一人ひとりが、それぞれのちがいを尊重し、ともにかがやくことのできる社会です。
 
Ⅱ.スローガン : ともにいのちかがやく世界へ
 
Ⅲ.基幹運動の願い
 
 【基幹運動とは】
 浄土真宗は、あらゆるいのちをすくいたいとの阿弥陀如来の願いをよりどころとし、南無阿弥陀仏のはたらきによって信心をめぐまれ、お念仏の人生をあゆみ、私が浄土で仏に成る教えです。そして、いのちあるものが、如来の智慧と慈悲とに照らされ包まれた御同朋であることを知らされることです。そこから、如来のみこころにかなう生き方を志す私の新しい人生が生まれ、混迷する現代社会の課題に向きあい、乗り越えてゆく原動力となるのです。
 私たちの教団は、浄土真宗のみ教えのもと、基幹運動を推進しています。
 基幹運動は、門信徒会運動と同朋運動をその内容として展開してきました。
 門信徒会運動は、親鸞聖人700回大遠忌を契機として、形骸化した教団の状況に対する危機感から、「全員聞法・全員伝道」を願いに、自らが教えを聞き、教えに生きる門信徒・僧侶になることをめざしてきました。
 同朋運動は、部落差別を受けてきた門信徒や僧侶などが、差別からの解放を求めて自ら立ちあがったことにはじまります。そして、私と教団の差別の現実を課題とし、差別・被差別からの解放をめざしてきました。
 基幹運動は、教団に所属するすべての人びとが、私と教団のあり方を見直し、一人ひとりの苦悩に共感し、社会の現実に向きあって歩むことで、御同朋の社会の実現をめざす運動です。
 
 【社会の現状と教団の課題】
 今日の社会は、人間中心・自己中心の考えがいよいよ強まり、「環境破壊」「人権抑圧」など、多くの問題を引き起こしています。その結果、戦火の絶える日のない現実となり、多くの尊いいのちが傷つき失われています。科学技術の発展は、いままでの生命観を揺るがし、「生命倫理」という新たな課題を生み出しています。
 また、「少子・高齢化」「過疎・過密」といった社会構造の急激な変化は、私たちの生活に大きな影響をあたえています。さらに、「青少年を取り巻く問題」「虐待」など、さまざまな問題も抱えています。自らのいのちを絶つ人が増加していることも見過ごすことはできません。まさに、混迷する社会といえます。
 仏教は、老病死に代表される人間の苦悩の解決にかかわるものです。だからこそ、お念仏のみ教えをよりどころとする私たちは、このような社会の現実に向きあい、取り組んでいくことが大切な責務なのです。
 これまで、私たちの教団は、教団と社会のあるべき姿を実現するために基幹運動を進めてきました。しかし、いまだに差別事件が起こり、一人ひとりの苦悩や混迷する社会の課題にも十分には応えることができていません。これらの現状を踏まえ、さらに強力に取り組みをすすめることが大切です。
 2006年度から2011年度までの基幹運動は、これまでの運動の成果と課題をふまえ、次のことを基本方針として、重点項目で課題を具体化し推進します。

 【基本方針】
   基幹運動は、人びとの苦悩や差別・被差別の現実からの問いを課題とし、その課題を、み教えをよりどころとして、問い、聞き、語りあうなかで展開されなければなりません。教団の現状を克服するために、

○男女共同参画をさらに進め、 「門信徒と僧侶の課題の共有」をめざす。
○「御同朋の願いに応える教学(御同朋の教学)の構築」をめざす。

 この二つの点を重要なポイントとして位置づけ、わかりやすく広がりのある運動とし、学んだことを行動・実践していくことで、「同朋教団」としてのあるべき姿をめざします。

【重点項目】

① 親鸞聖人のみ教えに学び、全員聞法・全員伝道の門信徒会運動を推進しよう。
 
  「話し合い法座」中心の「門徒推進員養成連続研修会(連研)」「中央教修」を修了して、6500人あまりの「門徒推進員」が誕生しました。今後、連研を全組で実施し、より多くの門徒推進員の育成と、門徒推進員の活動が進展するための環境づくりをすすめます。 また、お寺に集うさまざまな立場の人が話し合う「門信徒会運動研修協議会」を継続します。門信徒と僧侶が運動を共有し、お寺や組の現状をふまえ、「開かれたお寺」にするための具体的な方法をみんなで話しあいましょう。
 さらに、各教化団体の活性化や、布教伝道のあり方、情報の共有・発信のあり方を課題とし、み教えをよりどころに、問い・聞き・語り、伝えていく活動を推進しましょう。
 また、『本願寺新報』『大乗』などの購読を広げていきます。

②過去の過ちと現実を直視し、差別と戦争のない社会をめざして同朋運動を推進しよう。

 部落差別を中心に「差別・被差別からの解放」をめざして取り組んできた「僧侶研修会」や「差別法名・過去帳調査」などから、差別を肯定してきた私と教団の現実の克服こそが課題であることを学びました。さらに、その学びを門信徒と共有するため、「第Ⅳ期同朋運動推進僧侶研修会」の内容を深めます。そして、ハンセン病差別、性差別、民族差別、障害者差別などへの取り組みも進めます。いのちの共感をさまたげているものを見抜き、「差別をしない・させない・許さない」ための取り組みを実践します。
 教団の戦争協力の歴史と事実を顧み、慚愧の思いをもって、過ちを繰り返さないため、「非戦・平和」の課題、信教の自由・政教分離の原則などの所謂「ヤスクニ」の課題への取り組みを進めます。また、仏教における、「仏の歩み行かれるところ…… 武器を取って争うこともなくなる」という「兵父無用」の願いを内外に発信します。
 差別と戦争のない心豊かに安らげる世界を築くため、差別の現実の克服と平和を尊ぶ社会の実現をめざして取り組みましょう。

③いのちの尊厳と平等をもとに、一人ひとりの苦悩に共感できる開  かれたお寺・教団にしよう。

 あらゆるちがいを尊重することができ、すべての人にやさしくあたたかな社会をめざして、一人ひとりの苦悩を共感できる開かれたお寺・教団となることが求められています。したがって、み教えをよりどころとして、さまざまな社会の問題に積極的に関わり、何ができるかを考え、具体的に実践して行かなければなりません。世界各地でおこる戦争や環境破壊の問題を自らの課題とすることや、ビハーラ活動など社会福祉や医療の現場での活動もそのひとつです。
 いのちの尊厳と平等をもとに、地域社会に根ざした幅広い活動を展開し、社会に貢献することのできるぬくもりと動きのあるお寺・教団をめざして取り組みましょう。

  【次代に向けて】
  2011(平成23)年には、親鸞聖人750回大遠忌法要をお迎えいたします。親鸞聖人は、混迷した世の中にあって、お念仏をとなえつつ「世の中安穏なれ、仏法ひろまれ」と、苦悩する民衆とともに生き抜かれました。そのご遺徳を仰ぐことは、現代のさまざまな問題を自らのことと考え、また、み教えをわかりやすい言葉で現代社会に語りかけるなど、広く人びとと課題を共有できる私と教団になることにほかなりません。
 「ともにいのちかがやく世界へ」とのスローガンのもと、次代に向けて、門信徒と僧侶、男性と女性、大人と子ども、また、民族や国籍など、それぞれのちがいを尊重しあうことのできる私と教団となります。
 そして、教団内外のさまざまな課題に向きあい、すべての人びとが如来に願われたお互い(御同朋)として、支えあい、かがやきあいながら共にあゆむことのできる、活力ある教団を築くため、さらには御同朋の社会の実現をめざして適進してゆきましょう。

 さらに、曹洞宗でも1992年(平成4)11月20日、「懺謝文」を出して、曹洞宗の戦前の戦争責任を自己批判した。また、調査により差別戒名が続々と発見されると、同和問題への取り組み、人権問題への取り組みを人権擁護推進委員会をつくって、宗派として押し進めるようになった。環境問題にも取り組み始めている。そして、イラク問題の武力解決に反対する決議をあげた。以下は曹洞宗のホームページにある。

曹 洞 宗
わたしたちは平和的解決を強く求めます

イラクにおける大量破壊兵器問題の
平和的解決を求める決議文

 イラクにおける大量破壊兵器問題は、いまやアメリカ及びその立場に賛同する国々による武力行使が行われる情勢にある。
 武力行使によるこの問題の解決は、何をもたらすのか。人間として生きる権利や尊い人命を奪い、その地域の環境を微塵もなく破壊するだけのものである。
 過去の戦争や紛争は、何の罪もない人々が犠牲になり、貴重な財産が失われ、国土は荒野と化している。我々は、こうした過去の過ちを懺謝し、再び同じ過ちを犯さないことを誓願し、広く社会に向けて表明したのである。
 我々は、一佛両祖のみ教えにしたがい、争いのない慈悲と寛容に満ちた世界を構築すべく、また宗門の取り組む「人権・平和・環境」の実現のため、仏教徒として、かけがえのない生命を奪い、人権を著しく踏みにじる暴挙である戦争の廃止なくして真の平和はあり得ないことを主張し、いかなる目的のもとにおいても、尊い生命を失う武力行使には反対するものであり、平和的解決を強く求め、これを決議するものである。
 
2003(平成15)年2月28日

曹洞宗宗議会・曹洞宗宗務庁

趣 旨 文

 我が宗門は、1992(平成4)年11月20日、懺謝文を宗内並びに広く国内外に発して、懺悔と謝罪を表明いたしました。すなわち、20世紀初頭の不幸な時代にあって、時の政治権力に荷担迎合し、アジア地域の人びとの人権を侵害し、民族の誇りと尊厳を損なった、誠に恥ずべき行為を自省し、海外伝道の歴史のうえで犯してきた重大な過ちを率直に告白し、アジア世界の人びとに対し心からなる謝罪を行い、そのうえで、1945(昭和20)年の敗戦直後に当然なされるべき「戦争責任」への自己批判を行ったのであります。
 また、あるひとつの思想が、あるひとつの信仰が、たとえ、いかような美しい装いをこらし、たとえどのように完璧な理論で武装して登場してこようとも、それが他の尊厳性を侵害し、他との共生を否定するとするならば、我々はそれに組みせず、むしろ、そのような思想と信仰を拒否する道を選ぶことを表明したのであります。なぜならば、人のいのちの尊厳性は思想、信仰や理論を越えて、まさしく犯すべからざる厳粛なものであるからであります。しかして、こうした懺悔と謝罪に基づき、二度と同じ過ちを犯さないことを誓願したのであります。
 さて、現今の世界情勢において憂慮すべき、イラクにおける大量破壊兵器にかかわる問題は、極めて重大な危機といわざるを得ません。現在、国連による査察が続けられている一方で、いまやアメリカ及びその立場に賛同する国々による武力行使が行われる情勢にあり、その緊迫度は、日増しに高まり、いまや一刻の猶予もない極めて厳しい情勢にあると認識するものであります。こうした武力行使によるこの問題の解決は、何をもたらすのか。疑問の念しか抱くことができないのであります。それはただ、人間として生きる権利や尊い人命を奪い、その地域の環境を微塵もなく破壊するだけであるからであります。
 こうしたときにこそ、我々は、釈尊のみ教えにしたがい、争いのない慈悲と寛容に満ちた世界を構築すべく、また宗門の取り組む「人権・平和・環境」の実現のため、教団としての時代的、社会的責務を果たさなければならないのであります。
 よって、ここに仏教徒として、いかなる社会においても、かけがえのない生命を奪い、人権を著しく踏みにじる暴挙である戦争の廃止なくして真の平和はあり得ないことを主張し、いかなる目的のもとにおいても、尊い生命を失う武力行使には反対するものであり、平和的解決を強く求める決意を表明するものであります。

 こうした人権・平和・環境問題への取り組みは、「全日本仏教会」に共通する基本姿勢のようである。新興宗教団体の方は、「大本」、「金光教」、「PL」、「天理教」などは、だいたいこれと同じような姿勢であり、「大本」は、現憲法擁護をはっきりと掲げている。

 「生長の家」内の谷口雅春を支持するグループや「モラロジー」などの上の教派神道から分かれた教団や「霊友会」、「国柱会」、「仏所護念会」などの日蓮主義系の新興宗教団体などは、「日本会議」に入るなどして、教育基本法改正、靖国公式参拝推進、反ジェンダーフリー、憲法改正などの右派運動の一翼を担っている。しかしそれは上記のことから明らかなように、宗派間の対立を反映してるともいえる。とはいえ、後者のグループはそれぞれ、内部対立や内部からの改革運動などにさらされており、さらにスキャンダルも起き、分裂を繰り返しているところが多い。分裂した「霊友会」は、「お導き」と呼ばれる信者拡大策に、内部で批判が多いらしく、実際には、名前だけの信者も多いという。教義はデタラメである。法華経と先祖供養は関係ない。「生長の家」三代目は、禅宗の不立文字という言葉を取り入れて、初代谷口雅春の教えを消し去ろうとしている。それぞれ内紛・危機を抱えていて、実際には、「日本会議」どころではないというのが実情だろう。その中心的存在である「神社本庁」(内務省の外局だった神祇院の事務を戦後引き継いだ組織で、民間間の神社関係団体であった皇典講究所・大日本神祇会・神宮奉斎会の3団体が合同して結成され、現在全国約8万社が属している)でも、最近、最大の資金源であった明治神宮が離脱して、打撃を受けた。

 現在の宗教・宗派の動きの底には、戦争や差別などの歴史に対する姿勢や態度の違いが現れていて、それは、宗教的には、一つは、国家神道に対する認識と態度の違いである。あくまでも神道の本宗を伊勢神道におく国家神道に対する態度の違いである。諸宗の上に立つ超宗教の下に立つことを宗派として許容できるかどうかということである。浄土真宗の同朋運動・基幹運動・門信徒運動の巨大な運動が、静かだが確実に真宗再生の動きとして広まっており、曹洞宗においても、国際化と合わせて、人権・平和・環境などの価値を仏法と結びつけて、宗門の一大運動として展開しつつある。曹洞宗国際ボランティアの活動も続いている。それは新興宗教教団にも影響を与えることになるだろう。

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日本の仏教についてのノート(20)

  近代の日本仏教(3)
 日露戦争の勝利後、欧米各国は、日本との不平等条約を改める。1913年(大正2)年6月、内務省の宗教局を文部省に移した。神社局が内務局に残されたのは、神道は宗教ではないとされたからである。1940年(昭和15)11月には、内務省の神社局は神祇院になり、また形の上では復古体制になる。

 1912年1月1日、南京で孫文を臨時大統領とする中華民国が建国された。1914年8月、第一次世界大戦が勃発する。日本は、連合国側について、ドイツに宣戦布告し、青島、山東半島を攻撃した。1915年1月18日、日本政府は、中華民国政府に対して、21カ条の要求を提出した。その狙いは、日本が満州に持っていた権益の期限が切れるのを防ぐことにあった。1917年には、山東半島のドイツの租借地と経済的利権を日本に認める秘密協定を英・仏・露・伊と結び、さらに後には日本の満州・蒙古に関する秘密協定を結んだ。
 
 1919年戦後処理のためのパリ平講和会議が開かれると、同じ連合国側であった中華民国政府は、21カ条要求を暴露して、中国の主権回復を訴えたが、認められなかった。中華民国は、ヴェルサイユ条約の調印を拒否した。すでに、上のような秘密協定が結ばれていたのである。パリ講和会議の結果を知った北京の学生3,000人ほどが、5月4日、山東の権利回復を叫んで、デモを行った。その後、この運動は、全国に拡大した。1917年10月、ロシアで、「社会主義」政権が誕生した。

 パリ講和会議で結ばれたヴェルサイユ条約には、戦争責任に関する文章が含まれ、また、国際連盟規約になる文章が入っていた。国際連盟は、アメリカ大統領ウィルソンの14カ条の原則を下敷きにしていた。そこには、ヨーロッパにおける民族自決権の擁護、軍縮、秘密条約の禁止、などがうたわれていた。しかし、国際連盟には、アメリカが参加しなかった。

 日本はこの第一次世界大戦の戦場にならなかったこともあり、また新たに中国での利権を拡大できたし、そして戦時特需もあって、戦後しばらくは、経済は順調であり、それまでの輸入国から輸出国に転換した。さらに軍備増強した。パリ講和会議と並行して、日本・フランス・イギリスの間で秘密交渉が進められ、以下の秘密の分割協定が結ばれた。イギリスがインド・ペルシャ・アラビア・チベット・ビルマ・タイ西部・中国四川省・広東省沿岸地方・揚子江流域の商業の機会均等。フランスが、インドシナとトンキン(ベトナム)、タイ東部、中国雲南省・広西省。日本が、東シベリア、英仏勢力圏をのぞく中国全土。これは、中国全土からアメリカを排除する狙いを持っていた。

 アメリカは、こうした日米仏の中国からの排除の狙いに対抗して、軍備拡大を続けたが、シベリア出兵での各国の敗北や戦後恐慌を契機とする戦後経済の低調は、軍拡競争を重荷にした。さらに、英仏などの戦時国債を引き受けたアメリカがそれら諸国の債権国となったため、アメリカの立場が強まった。1921年ワシントン軍縮会議が開かれ、軍縮と同時にシベリア撤退、中国への山東省の主権返還が決められた。その後、日英同盟も解消される。

 日本の国内政治では、1918年米騒動が勃発し、寺内正毅内閣が倒れた後、原敬政友会内閣が誕生し、以後、護憲三派によって、政党による内閣が組織され続け、吉野作造の民本主義や普通選挙要求、美濃部達吉の天皇機関説が唱えられるなど、言論の自由などが定着したかに見えた大正デモクラシーと呼ばれる情況が生まれた。労働運動や社会運動が活発になり、在野の学者や知識人の言論活動・表現活動も活発に行われるようになった。

 1920年、戦後恐慌が起きると、小作争議はいよいよ活発となり、拡大した。日本初の、農民の全国組合の日農が、キリスト教社会主義者の賀川豊彦・杉山元次郎らによって組織された。1912年には労働団体の「友愛会」が誕生した。1921年には、友愛会は、日本労働総同盟になる。さらに翌22年には、全国水平社が結成された。この年、7月、非合法の日本共産党が結成され、11月にはコミンテルン支部に認められた。1914年には、日露戦費の負担のための諸増税に対する反対運動を組織する中で、小経営者たちが全国組織の実業組合や商工会などを基盤に団結して、増税反対運動に立ち上がった。1923年関東大震災。1925年、男子普通選挙法と合わせて「国体」の変革と私有財産の否定を目的とする結社を禁止する治安維持法が成立した。適用第一号は、朝鮮共産党だといわれている。しかし、当時、日本の共産主義者はそれほどおらず、やがて、その適用を受けるようになるのは、大本教などの宗教団体や右翼団体である。

 1924年頃には、20年恐慌の打撃からある程度回復して、相対的安定期に入った。ところが、1927年(昭和2)、台湾銀行の倒産を契機に、金融恐慌が襲い、中小銀行が次々と倒産した。1929年(昭和4)秋、アメリカで恐慌が勃発した。その頃、日本政府は、1930年(昭和5)1月11日、金解禁を実施した。

 その頃、満州では、関東軍が、1928年に軍閥の張作霖を暗殺したことから、その子供の張学良が、南満州鉄道に並行する鉄道を敷くなどして、満鉄の経営を脅かした。そこで、関東軍の石原完爾や板垣征四郎らの関東軍将校は、謀略を練って、作戦計画を秘密に作成した上で、1931年9月18日、南満州鉄道の一部を爆破して、それを口実に、中国東北部の各地を武力占領した。いわゆる「柳条湖事件」である。これに対して閣議で、南陸軍大臣は関東軍の自衛行為だと主張したが、外務大臣幣原喜重郎は関東軍の謀略説を主張した。9月24日の閣議で、「事態を拡大しない」ことを決定する。ところが、関東軍は、戦線を拡大した。それが国際的非難を浴びると、今度は、1932年3月1日清朝末裔の溥儀を皇帝に担いで、傀儡政権の満州国を建国した。なお、石原完爾は、日蓮主義の国柱会のメンバーだった。その構想は、満蒙に「五族協和」の「王道楽土」を建設するというものだったが、その中身は、日本人を上層指導民族として、中国人・満州族などを労働者や商人とする民族別の差別的分業を敷くというものであった。日本人が支配民族で、それ以外が被支配民族という民族差別的なプランである。

 この時、日本の新聞は、関東軍の行動を支持する主張を掲げ、「満蒙=帝国の生命線」などを叫んだ。

 政府は、神社神道を非宗教の国家の宗祀として、他の宗教団体を別枠で管理するようにした。さらに政府は、1913年(大正2)年6月、内務省の宗教局を文部省に移した。そして、この時、始めて、キリスト教が、その対象として公認されたのである。1899年(明治32)月、第二次山県有朋内閣のとき、はじめて宗教法案が貴族院に提出されたが、仏教界の反対で廃案となる。翌1900(明治33)年、国家の宗教統制に反対して「仏教懇話会」が作られ、さらに、それは「大日本仏教会」「日本仏教連合会」になる(現「全日本仏教会」)。

 浄土真宗においては、すでに江戸時代には、「真俗二諦論」を唱えて、俗世の権力や支配秩序に対して、迎合していく姿勢が理論づけられていた。それは、明らかに宗祖親鸞の教えにないものであった。しかしそれは、明治期以降も受け継がれ、1886年(明治18)に政府の監督の下で定められた宗則では、「一宗の教旨は、仏号を聞信し大悲を念報する、之を真諦と云ひ、人道を履行し王法を遵守する、之を俗諦と云ふ。是即ち他力の安心に住し報恩の経営をなすものなれば、是を二諦相資の妙旨とす」と規定している。ここではまだ、真諦=仏法、俗諦=王法とはまだ区別されているが、やがて、阿弥陀仏と天皇を重ね合わせるようになり、それが神道側から不敬と批判されると、今度は、神道の一部として仏法を崇めるなどと云うようになり、ついに、1938年(昭和13)には、それまでの神祇不拝の指導をくつがえして、伊勢神宮の大麻を受け奉安する。「真俗二諦論」が、王法と仏法を同等にとらえるかのようだと非難の声が起こると、ついには、仏法はいらない、皇国の道を遵守すべき、仏教の名前は国体に返す、などと、真宗の自己否定というべきところまで、行ってしまった。

   曹洞宗は、廃仏毀釈やその後の国家神道による圧迫に危機感を強め、大内居士がつくった『修証義』の草案を總持寺の畔上楳仙禅師、永平寺の滝谷琢宗禅師が校訂した上で、それを宗門布教の標準として1891年(明治23)に公布した。それは、曹洞宗の教えをわかりやすくコンパクトにまとめたもので、在家の化導に大いに役立ったという。『修証義』は、現在でも檀家などに配られている。座禅=悟りとする沢木興道禅師が出て、駒沢大学で教鞭を執るなどして、弟子を育成した。

 西田幾多郎は、臨済禅の体験や思想を西洋哲学と結びつける思索を続け、鈴木大拙は、鎌倉期の禅と念仏に日本的霊性の誕生を見た。

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日本の仏教についてのノート(19)

 近代の日本仏教(2)
 明治新政府の徴兵令・学制・地租改正に対する一揆が、各地で相次ぎ、1876年(明治7)には、三重・愛知・岐阜・奈良にまたがって、受刑者5万7千人を出した伊勢暴動が起きた。自由民権運動の拡大、1874年、佐賀士族の乱、琉球人殺害を口実にした台湾出兵、1875年、江華島事件が起きて、朝鮮半島に軍隊を派遣、英米の支持の下、李氏朝鮮を開国させる不平等条約の「日鮮修好条規」を締結した。1876年、熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱などの士族反乱が続発、1877年西南戦争・・とこの頃の明治政府は内外から脅かされた。

  自由民権運動も、福島事件の活動家の宇田成一や「世直し」一揆の秩父事件を起こした秩父困民党などは、「天長様」に反対することを明言したという。天皇親政としての古代律令制の復古体制によって、その頂点の天皇が民衆反乱の標的とされるようになったのである。自由民権運動の影響は軍隊内にまで広がる気配をみせたために、軍隊内の思想統制を強めるために、1882年に「軍人勅諭」を定めた。清に対抗するための軍備拡張費用調達のため、この年、酒税・たばこ税・醤油税・所得税などの増税や新税の創設を決定した。しかし、1884年(明治17)、国家の大衆収奪は極めて重くなり、それに対して、全国各地で負担軽減・借金棒引き・小作料減免などを求める農民らの一揆が相次いだ。福沢諭吉は、このような内憂をおさめるに、人々の目を外に向ける「内安外競」の戦略を説き、開化派の金玉均を支援していた。この年12月、金玉均と朝鮮駐在公使竹添が組んで日本軍を使って親日政権を建ててすぐに敗れるという甲申事変が起きた。1889年(明治22)「大日本帝国憲法」が発布された。この草案作成には、ドイツ人の外務顧問だったロエスエルの指導・助言があった。1890年(明治23)帝国議会が発足する。

 こうした時代に、仏教諸派は、神仏分離・廃仏毀釈・祭政一致・神道国教化そしてキリスト教布教解禁に対して、危機感を抱き、西本願寺教団は、洋行帰りの島地黙雷たち改革派の政教分離の建言などを取り入れつつ、教団改革を行ったが、しかし基本的には保守的で、ことに教学の面では、東本願寺系の現大谷大学の初代学長となった清沢満之などの信仰はあくまで主観的事実であって、内面においてはかられるべきものだという精神主義の提唱などには、江戸期の宗祖への復古や教学の成果を保守して、受け付けなかった。西本願寺派でも、親鸞の実証的研究が始まったのは明治末頃で、教学面は、江戸期そのままであったという。

 西本願寺派が、もともと勤王派を支援し、長州では僧侶隊を組織してその後の倒幕運動に大きく貢献したこともあって、新政府内に一定のつながりがあったのに対して、一連の「神仏分離令」の中で、御本尊に天照大御神や八幡大菩薩などが描かれていることを不敬と指摘するなどの名指しで批判を浴びた日蓮宗は、強い危機感を持った。そこで、日蓮宗諸派を統合する動きが活発となり、一致派を中心として、身延山久遠寺を中心とする統一日蓮宗がつくられた。その上で、神道とも組んで、キリスト教排撃の国民教化を積極的に担うことにして、新政府に自らの存在意義をアピールした。しかし、前記のように、一致派と勝劣派の対立は激化し、勝劣派が日蓮宗から離脱する。残った一致派の日蓮宗は、一宗としてまとまっているというよりも、連合体的な緩やかな宗派をなしているルーズな組織である。

 在家の日蓮信徒からは、1884年(明治17)、元日蓮宗僧侶の田中智学が、純正日蓮主義を唱え、勅許による国立戒壇の建立を訴えて、後の国柱会の前身である立正安国会を設立する。国柱会は、作家の高山樗牛や宮沢賢治、石原完爾などの有名な信徒を抱えたことや「八紘一宇」というスローガンを唱えたことなどでも有名で、現在でも活動を続けている。その他、日蓮宗系からは新興宗教団体が多く出た。それらはいずれも日蓮宗・日蓮正宗の正式の信徒組織ではない。その後、日蓮主義の霊友会が生まれ、そこから、立正校成会・仏所護念会などの分派が分裂していった。現在は霊友会自体も二つに分かれている。

 教派神道系では、金光教・天理教・黒住教など13派が、明治政府から神道教派として公認され、はじめは大教院のちに神道事務局に属して、国家神道の布教にあたった。この中で、黒住教は、教祖を生き神としている。明治の中頃、金光教の信者が教派神道の大本教を起こした。大本教からは、後に生長の家や世界救世教などが分かれた。

 キリスト教は、明治20年代までは順調に信者と教会の数を増やした。しかし、1890年(明治23)に儒学者の永田永孚と井上毅が起草した「教育勅語」*の発布などによって、国家神道が強まると、頭打ちになった。まず明治初期に入ったプロテスタントは、カルヴァン派の長老派であり、その後、組合派が入った。これらのキリスト教派は、日本では宗派を形成しないことを合意していたが、信者数の増大が頭打ちになったことから、合同の動きが強まった。この時、同志社大学の創始者である新島襄は、合同に反対した。

 この頃、まずキリスト教徒になったのは、旧下級武士が多く、札幌農学校(後北海道大学)のクラーク学長下で学んだ者からは、新渡戸稲造や内村鑑三などの有名なキリスト者が出ている。いずれも旧下級武士の出身である。内村自身は、キリスト教徒になった動機を個人の救いを求めたわけではなく、国のためであると言っている。これは、新渡戸稲造もそうだが、キリスト教を通じて、西欧列強と日本との架け橋となって、平和を実現するという意味なのだろう。今でもその傾向はあるが、キリスト教の布教が行き詰まったのは、旧下級武士出身者などのインテリ層にしか理解されず、そういう薄い層しか獲得できなかったからであろう。キリスト教は、明治の知識層を中心に影響を与えた。北村透谷・島崎藤村・木下尚江・賀川豊彦などの文学者、社会運動家などを出した。

 *朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
 我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我ガ國軆ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣ノ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラズ又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ挙挙服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
   御名御璽

 1879年(明治12)、東京招魂社を靖国神社に改称し別格官幣社としていた。靖国神社は、陸軍省および海軍省の共同管理であった。

 1900年(明治33)に内務省社寺局が宗教局と神社局に分離し、後者は内務省の最高の局とされた。それは、大日本帝国憲法が制定されたことにともなって、政教分離を実行する措置とされ、それを機構上明確にするためであった。神社は行政機構の一部となり、その祭祀は、国家行事とされたのである。すでに官幣社の神官は廃止され、官僚化されていた。

 しかし、同時に、神道側の神祇官復活の運動が執拗に続いており、さらに、日露戦争時には神社での必勝祈願が盛んに行われた。1906年(明治39)4月7日に、法律第24号「官国幣社経費ニ関スル件」が、それ以外には、4月30日に勅令第96号「府県社以下神社ノ神饌幣帛料供進ニ関スル件」が出され、神社に国費が出されることになったのである。なお大日本帝国憲法下では、勅令と法令は同格であり、国会が後で取り消さない限りは法令と同じであった。

 こうして神社に国費が投入されることが決まると同時に、神社行政を統括する内務省は、神社の合理化に着手した。内務省は、1906年(明治39)12月、「神社合祀令」を出し、一町村一社を原則に統廃合を進めた。同年から数年かけて神社の整理事業を行なった。明治39年に19万を数えた全国の神社は、3年の間に14万7千まで減少した。1913年頃に事業はほぼ完了し、社数は19万社から12万社に激減した。これに対して、生物学者の南方熊楠が反対運動を起こし、中央政府の役人であった民俗学者の柳田国男にも働きかけを行った。同時に、民間信仰の一部を禁止した。それまで地域でそれぞれ決まっていた祭神を変更し、記紀から作り上げた神々の体系(格付け)に合わせて、取り替えていった。こうして、人々の信仰とは関係なく、国家神道の体系に合わせた神社の体系が作られていったのである。神社は戦争祈願の場としても利用されることとなり、国家が直接関与する行政機関のようなものとなった。人々が現世利益などを求めたのは、教派神道系や日蓮主義系の新興宗教などであった。

 1894年(明治27)7月から1895年4月の日清戦争では、勝利した日本は、多額の賠償金を取り、それを原資にして殖産興業を起こすことができた。ところが、1904年(明治37)2月6日に始まり、1905年(明治38)9月5日に終結した日露戦争は、犠牲が大きかったが、賠償金も取れず、戦費の負担はイギリスでの戦時国債の売却による借金でまかなわれた。賠償金を取れなかったことに怒った大衆は、日比谷焼き討ち事件を起こす。これには自由民権運動の元活動家も参加していた。

 しかし、1904年8月の第一次日韓協約の締結から、1905年11月の第二次日韓協約で、韓国の外交権を掌握し、英米の支持を受けながら、朝鮮支配を強めていき、日露戦後のポーツマス条約で、ロシアに韓国での日本の政治・軍事・経済上の卓越を認めさせ、ついには、1907年7月の第三次日韓条約では、日本の統監の指導権を確立する。韓国皇帝は、1907年6月のハーグの万国平和会議に密使を送って、韓国独立を訴えたが、米英が拒否した。米英に、日本の朝鮮半島・大陸進出に便乗して、権益獲得の分け前にあずかろうという魂胆があったからである。米英は、日本の日露戦争と朝鮮半島の支配の拡大を、米英の利権獲得競争の露払いのように見なしていたのである。もともと、中国への進出が遅れたアメリカは、門戸開放政策をとっていた。当時の日本の指導部がお人好しで利用されただけなのか、それとも米英の意図を知りながら、それを利用しようとしたのか、ここでは問わないが、日本に恩を売ったアメリカは、当然の見返りだと言わんばかりに、半島・大陸権益への参入の権利を主張するようになる。1909年に、アメリカは、門戸開放策として、日本の中国権益独占を防ぐために、日本による中国の鉄道建設資金の借款を工面するための日本・米・英・仏四カ国からなる銀行団の形成をリードした。

 いずれにしても、朝鮮市場は、欧米製品に押されていた日本の軽工業品の輸出先となったし、その先には、石炭・鉄鉱などの重工業向けの原材料がある満州があったし、さらに広大な市場の中国大陸があったのである。その利権を巡って、そこへの参入を求めるアメリカの門戸開放要求が強まり、日米の利害対立が拡大・深化していくようになるのである。

 国内では、産業の発達とともに、都市において、労働者大衆の労働争議が本格化し、キリスト教社会主義や無産政党が結成されるなど、新しい大衆の運動が拡大してくる。

 明治期において、宗教諸宗派は、非宗教とされた国家神道の下で、とくに戦争体制づくりへの協力など、国家鎮護の宗教としての存在価値を示すことによって、生き延びようとしていたように見える。それは最終的には、、宗祖の教えを改ざんしてまで戦時教学を創作し、宗教者としての自滅行為を行うまでにいってしまう。

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日本の仏教についてのノート(18)

 近代の日本仏教(1)
 王政復古の大号令により、古代律令制の、太政官制がしかれた。1868年(明治元)までに、一連の太政官布告、太政官達、神祇官事務局達により「神仏分離」が行われる。同年4月には、太政官の下に神祇官が正式に復興された。1869年(明治2年)6月には、神祇官は太政官から独立して、行政機関の筆頭に置かれた。

 「神仏分離令」によって、例えば、宇治山田では、1869年(明治2)正月までに、109ヵ寺が廃寺となり、さらにその後残ったのは、15ヵ寺になった(『お伊勢まいり』岩波新書)。17世紀中頃には、宇治に57ヵ寺、山田に371ヵ寺があったから、壊滅状態である。同時に、これは祭政一致への復古を目指すものであったので、神社神道の改革や伊勢神宮自体の改革でもあった。それまで檀家寺請制度によって、全員が仏教徒とされた体制を神道国教化に急転換しようとしたのである。それは、檀家寺請制度が、キリシタン禁圧から発生したように、やはりキリシタン禁圧を今度は神道国教化で強化しようとするものであった。この時、国学派の神官や民衆が加わって、廃仏毀釈が行われ、寺の破壊、仏具・仏像その他の寺宝が破壊・略奪され、貴重な歴史的文化遺産が多く失われた。

 神仏分離と廃仏毀釈は、1868年(明治元)から、1869年(明治2)6月27日の函館五稜郭での戦闘終結まで続いた戊辰戦争という内戦の一環ともいえる。幕府によって統制されると同時にその末端行政機能を担うことで、幕藩体制の支柱と見なされ、反幕府と反仏教が重ね合わされたという面があり、神仏分離令は廃仏毀釈を命令したものではないが、各地で大衆が進んで廃仏毀釈に参加したのである。しかし他方では、急進的な神仏分離は、神仏習合的信仰と感情の中に長く生きてきた人々を不安に陥れ、人々を行者などの講に走らせることになった(後藤総一郎・宮田登)。

 神仏分離令の基礎にあるのは、キリシタン禁止令をあくまで維持するためにキリシタン禁圧策を徹底するということであった。そのことを示しているのが、1869年(明治2)5月17日の東京の姫路藩邸での各藩代表の公会議の内容である。その中に、「妖教(キリスト教)を培撃するは、別に我国の教法を設け、伊勢大神祠を東西両京(東京・京都)の地へ建立し、我国の宗門とし、主上(天皇)をはじめ奉りその門に入り、神儒の教を簡約せる一部の書を、俗文に作り、衆に示すべし」(『お伊勢まいり』岩波新書)というものがあった。神道と儒教を合わせた神儒思想が基調にある点で、幕藩体制の保守思想が現れているのだが、同時にここには、キリスト教排撃のために、伊勢神宮を中心とする神道と儒教を合わせた国家神道の教えを創作し、国教化して、国民に布教して、キリスト教の浸透を防ごうとする姿勢が現れている。

 明治元年には、古代の官制である神祇官が復興され、その下に、宣教使が置かれたのには、国家神道の布教によって、キリスト教の浸透を防ぐという目的があった。しかし、明治2年に長崎浦上で、隠れキリシタンが宣教師によって発見されると、明治政府は、キリシタンを弾圧したが、これが列強の反発を買い、英米仏独4ヵ国公使と岩倉具視・三条実美ら政府首脳が会談した。この会談でイギリス公使は、戦争になるかもしれないと脅かしたという。この時の会談について、日本側の記録は少ないという。結局、1873年(明治6)、キリスト教は解禁される。とはいえ、公式には、キリシタン禁止の高札を撤去しただけであり、キリスト教が葬儀を行うことを禁止した(後に解禁される)。

 1871年(明治4)に神祇官は神祇省となり、翌年3月には教部省になる。当初、神祇官は諸官職の筆頭とされたが、徐々に、格下げされていった。この間に、神社の社格の格付けが行われ、さらに1872年4月には、教導職を設け、神官・僧侶を教導職14級に組み込み、「敬神愛国・天理人道・皇上奉戴」の三条教則による国民教化活動が推進される。また仏教各宗の提唱により、 同年8月、 神仏合併大教院が設置され、 教化活動と教導職養成が行われた。 同年10月、日蓮宗・天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗・時宗・真宗の七宗に、 一宗一管長制を定める通達が出された。

 薩長藩閥政府は、1871年12月23日(明治4)11月12日から1873年(明治6)9月13日まで、欧米に岩倉使節団を派遣して、欧米の制度などを学び、これを取り入れる姿勢を取る。文明開化が進められるようになるのである。岩倉使節団の中に長州出身の西本願寺派の島地黙雷がいた。彼は、「政教分離」を求める建白書をもって、帰国し、神道や仏教宗派が属していた教部省大教院からの西本願寺派の離脱を働きかけ、結局、真宗4派が離脱する。浄土真宗東西本願寺派は、政府の政策に合わせて、北海道や海外布教などに力を入れる。教団組織では、檀家寺請制度が、解体されると共に、改革が行われた。

 日蓮宗では、1872年に日蓮宗として一宗に合同したが、1874年に勝劣派と一致派に分裂、さらに、1876年(明治9)、日興門流の日蓮宗興門派(日蓮本門宗、さらに後に日蓮正宗)、日什門流の日蓮宗妙満寺派(顕本法華宗)、日陣門流の日蓮宗本成寺派(法華宗)、日隆門流の日蓮宗八品派(本門法華宗)が分裂した。
 
 1870年(明治3)諸藩に対して、すべての人を戸籍に入れ,産土(うぶすな)社に名簿を納め,神社から印証を受けて所持するよう命じた。さらに政府は、1871年に「郷社定則」と「大小神社氏子調規則」の太政官布告を発した。檀家寺請制度に代わるキリシタン禁制と戸籍の整備をはかるとともに,国民教化の単位にしようとしたのである。しかし,1878年の戸籍法整備で、これらは廃止された。
 
 明治政府初期の宗教政策には、国学派・後期水戸学派・復古神道派などの影響が強かったが、やがて、その祭政一致の復古主義は、欧米制度の導入の開明派・近代派が、政府内で強まると共に影響力を低下させられた。西欧的な政教分離や信教の自由が認められるようになり、政府の宗教政策は、神社の整理統合・官による統制・国民動員への利用へと変化する。

 西本願寺派においては島地黙雷らによる教団改革が進められるが、他方では、保守的な体質も強く残されていて、さらに、明治政府の海外拡張政策に乗って、海外布教を進めたり、戦地慰問活動に積極的にかかわるなど、「真俗二諦論」的な体制迎合の姿勢を持っていた。

 この間に、明治政府は、版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正、封建的身分制度の廃止、等々と近代化政策を次々と導入した。宗教政策も、近代化の流れに合わせて、近代的な国家神道化をはかることになる。神道は宗教ではないとして、政教分離・信教の自由の立場から、表向きは世俗国家として、しかし実際には、国幣官幣神社の国家神道の体系をつくり、公費をもってこれらを養い、戦争動員の道具としていくのである。

 他方では、幕末以来の農村における一揆は、明治に入ってもおさまることなく続いており、明治政府は徹底弾圧した。新政府の政策によって、窮乏におとしこめられた旧藩士たちは、各地で反乱を起こす。その最大のものが、明治10年西郷隆盛を担いで蜂起した西南戦争であった。さらに、民選議会設立を求める自由民権運動が各地に起こるなど新体制は内部から脅かされていた。

 さらに、西欧列強との不平等条約の改正交渉や南下政策で朝鮮半島に地歩を築きつつあったロシアの脅威に対して、李氏朝鮮との開国交渉が難航する中で起きた征韓論の勃興やその後の江華島事件を引き起こしての日鮮修好条規の締結で朝鮮半島への進出の足がかりをつくったために激化した清やロシアとの外交的軍事的緊張などの外交的な難事への対応が、政府内での権力闘争を激化させるなど、明治の新体制はなかなか安定しなかった。

 宗教政策についても、当初の祭政一致の神道国教化の神仏分離策・廃仏毀釈、キリスト教禁止策の維持等から、廃仏毀釈の否定・緩和、キリスト教の限定的解禁から後の完全解禁、神道・仏教合わせた国民教化から政教分離・信教の自由容認へと揺れながら変化していく。

 戊辰戦争の最中に王政復古がなされ、幕末から続く「ええじゃないか」の大流行、「世直し大明神」を奉じる一揆や騒動・打ちこわしなどが続き、1869年(明治2)には高山騒動をはじめとする一揆・打ちこわしが信州(十数万人)、越中の世直し)(2万人)などでも発生し、1873年(明治6)徴兵令反対の血税一揆、地租改正・小学校設置反対の一揆が全国で起きた。

 翌年(明治7)には、江藤新平・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣らによる「民権議院設立建白書」の提出をもって自由民権運動が始まった。1876年(明治9)10月24日に熊本県で「神風連の乱」、27日に福岡県で「秋月の乱」、28日に山口県で「萩の乱」と士族の反乱が続き、ついには、1877年(明治10)最大の士族反乱の西郷隆盛を首魁とする「西南戦争」が起きた。1882年8月、福島県で、県会議長河野広中と三島県令対立し、農民数千人が蜂起して、警官隊と衝突する福島事件が起きる。1884年には、群馬事件、加波山事件、秩父事件(1万人)が起きた。その後、1889年(明治22)大日本帝国憲法が発布され、1890年(明治23)に帝国議会が開かれる。1894年(明治27年)8月には、日清戦争が起きた。こうしてみると、明治時代は、戦争や内乱の続いた時代であったことがわかる。

  この過程で、官軍犠牲者が次々と出たので、そのための慰霊施設が国家にとって必要となった。元々は勤王の志士を京都東山に祀っていた京都招魂社を、東京に移して、東京招魂社とし、後に、それを靖国神社とするようになった。戊辰戦争・西南戦争で賊軍とされた会津兵・白虎隊戦死者や西郷隆盛などの西南戦争の薩摩側の戦死者は、靖国神社に合祀されていないのである。

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日本の仏教についてのノート(17)

 近世の仏教(3)
 江戸幕府の築いた封建体制にも、様々な矛盾が噴き出してくるようになった。とりわけ、その支配の基礎である農村で、幕府の禁令を犯して、地主層の土地拡大が進み、本百姓から小作に転化する者が相次ぎ、農民一揆が繰り返し起きるようになったことは、土地に本百姓を中心として縛り付け、確実に年貢収入を確保する体制を揺るがす事態である。しかし、同時に、大名たちも多くが、発達してきた貨幣・商品経済に組み込まれていて、大商人層に、多額の借金をして、財政が厳しくなっていた。幕府自体が財政危機に陥っていった。そこで幕府は、享保の改革をはじめとする三大改革などで、なんとか建て直しを計ろうとしたが、長続きしなかった。

 江戸時代には、飢饉や不作のたびに、間引きが行われ、逃散などが相次ぎ、江戸などの都市部に流入したのである。それに対して、朱子学は個人道徳を説くだけで、具体的な施策など持ち合わせていないから、対処しようがなかった。ただ、仏教批判などのイデオロギー的な性格が強かった。それに対して、同じ儒教でも、陽明学は、「知行合一」を唱えて、具体的な行動を強調した。陽明学派からは、大塩平八郎の乱を起こした大塩平八郎、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山らの幕末の志士たちが出た。備前岡山藩主池田光政のブレーンとなった熊沢藩山も陽明学派の学者である。

 他方で、儒学から伊藤仁斎らの孔子に返れという古学派、諸仏教宗派の開祖への回帰、僧契沖から本居宣長・平田厚胤らの国学の『古事記』などの古代への復古、などの復古の動きが起きている。それらは官学と化した朱子学を批判した。

 農村での階層分化の進展によって、地主・小作・本百姓・水呑百姓などの間の複雑な対立関係が生まれ、それが、宗教的観念を伴った運動を呼び起こすようになる。その一つが「世直し」と呼ばれる運動である。もともと、日本の宗教観念は、多神的であり、仏教も本地垂迹説をとって、神仏習合の状態であったから、天台宗の比叡山の守り神である日吉神社の山王一実神道のような姿が一般的であり、さらに、御霊信仰や山岳信仰や稲荷のような田の神信仰や虫送り、お盆といった虫送り(除霊)と祖霊信仰が集合した信仰や生き神信仰や本地垂迹の権現信仰や明神信仰や竈の神から火伏の神から蛇神や境神の道祖神と集合した地蔵信仰・・・・と、種々雑多な信仰があって、雑然と混じり合っていたのである。

 もともと、神は日常はどこか遠くにいて、時々、飛んできて、岩や木などの「よりしろ」や祭りの日の仮屋に一時的に宿るもので、神社などに常にいるとは考えられていなかった。山自体が信仰対象であった奈良の三輪山信仰では、神社の建物はない。江戸時代でも、伊勢の神が「飛び神」「今木」となって、光りながら飛んできたという伝承が各地にある。さらに、それを祀る「飛神明」「今神明」などと呼ばれる社が建立されて、信仰された。一揆の首謀者を祀る神社も建てられた。国学者の平田篤胤は、霊は偏在し、人々の身近なところにあるものだと主張した。いづれにしても、多様で雑多な信仰世界があったのであり、仏教・道教・儒教・神道も混ざり合っているのである。民俗学者の柳田国男は、いわゆる常民が、もともと外来の神を排除せずに祀ってきたように、神仏習合は、仏教側のイニシアティブではなく、常民側の自主性・主体性をもって、起きたものだと述べている。

 西垣晴垣氏の『お伊勢まいり』(岩波新書)には、琵琶湖北東の山村の下丹生村の1792年(寛政4)の記録に、当時の村の宗教関係の支出の内訳が紹介されている。この頃、下丹生村は65戸からなり、人口285人、石高203石余り、牛40頭をもっていた。この年、この村の公的費用を家割りで、年に390匁(もんめ)あまりであった。その内、約4割が宗教関係の支出であった。その内訳は、まず、氏神と氏寺への供料が、3匁5分。愛宕の威徳院が村にきて祈祷して、村の四隅や入り口にはる愛宕の札に、8匁4分。村の真言宗の阿弥陀寺に、大般若経転読の費用、火祭りの祈祷の費用として、12匁3分。これで、宗教関係費用の2割で、残り八割は、村外の社寺への代参の費用である。この代参の内、伊勢神宮への代参は、正月と9月の2回で、計49匁8分。ただし伊勢参りは、伊勢掛銭24文を出す本家の者に限られ、12文を出す半家には資格がなかった。その他、愛宕と祇園(八坂神社)で、正月と9月に代参を行っている。この資料から、村の行事における宗教の占める割合が高かったことがわかる。

 また、興味深いのは、1861年(文久元)7月28日に、伊勢の御師松田左近太夫が下丹生村の役人に送った手紙の内容である。それは、「孝明天皇が5月に伊勢に臨時奉幣した際の勅使が「五穀成就、蚕桑等万民快楽」を祈ったのに合わせて、村のことを祈った。この時、孝明天皇は、「醜類(外国人)が神州を汚しているが、この禍いを払うこと、攘夷を第一にあげ、ついで妹和宮の東武(将軍)との縁談について述べて、兄弟親和、公武合体を第二にあげ、最後に慣用句として「一天泰平、万民娯楽」が記されている。「五穀成就、蚕桑等万民快楽」の文言はない。おそらくこれは、左近太夫の檀那村にたいする宣伝のための創作であろう」というものである。ようするに、伊勢の御師は、孝明天皇の攘夷と公武合体成功祈願に便乗して、村に、自分を売り込んだのである。それと、ここで村の伊勢信仰の中心が、五穀豊穣などの農作に関する豊作祈願であったことがわかる。孝明天皇の攘夷だの公武合体だのという政治的な祈願とは別のところに村の人々の伊勢信仰があったので、これらの異質な祈願が習合されている様子が伝わる話である。

 江戸時代も後期になると、いよいよ百姓一揆や打ちこわしなどが頻発するようになり、さらには1792年には北海道の根室にロシア人ラクスマンが訪れて開国を要求したり、日本近海には異国船が現れるようになり、徳川幕藩体制の城内平和も崩れてきた。1825年に幕府は、「外国船打ち払い令」をだしてあくまで鎖国を貫こうとしたが、1842年にはアメリカ船に対して「天保の外国船薪水給与令」をだして、水や食料を供給するようにした。

 攘夷論、尊王攘夷論、世直し大明神、「ええじゃないか」の流行、等々、世の中は騒然としてきた。寄生地主に土地が集中し、小作化が進んだ農村では、年貢負担の増大もあって、天保年間から一揆が続発し、規模も大きくなった。その際に、一揆の掲げる旗に、「南無阿弥陀仏」や「世直し大明神」などと書いたものが現れた。他方で、岡山から黒住教・金光教、天理教などの後の教派神道のいくつかの宗派が生まれる。また、神道系・山岳信仰系の講が成長し、これらから後に教派神道の宗派がいくつか生まれる。

 幕末までに窮乏した下級武士の間には、尊皇攘夷などの思想が浸透した。彼らの間では、陽明学や国学・後期水戸学などが影響をもった。しかし彼らの多くは、封建制度や身分制度をうち破るという考えはなく、むしろそれらを再確立するための藩政・幕政改革を求める考えが、主流であった。アヘン戦争(1840~42)での清のイギリスへの敗北は江戸幕府や諸藩に大きなショックを与え、攘夷論の台頭、海防論の勃興のきっかけとなった。  

 1862年(文久2)、横浜郊外の生麦村で、薩摩藩の行列を乱したとして、薩摩藩士が、イギリス人3名を殺傷するという「生麦事件」が発生。それに対して幕府は1863年(文久3)賠償金10万ポンドを支払った。その後、イギリスは、薩摩に艦隊を派遣し、生麦事件犯人の逮捕と処罰と遺族への賠償金2万5,000ポンドを要求したが、薩摩藩はこれを拒否、砲撃戦となり、薩摩側は、汽船・砲台・集成館(工場)を失った。1863年(文久3)冬、薩摩藩はイギリスと講和し、薩摩藩は2万5,000ポンド(6万300両)を幕府から借りて支払った。さらに、攘夷派の急先鋒だった長州藩は、1863年、幕府の攘夷の命令を実行して、外国船を次々と砲撃した。それに対して、1864年(元治元)8月、四ヵ国連合艦隊17隻が、下関を砲撃し、禁門の変で打撃を受けていた長州側があっけなく敗北するという下関事件が起きた。それによって、長州藩の攘夷派は失脚し、開国派が台頭する。

 結局のところ、尊皇攘夷論は敗れ、開国開明派が勝つことになり、大政奉還、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争での薩長を中心とする「官軍」が勝利し、明治政府を組織することになる。この維新の過程において、仏教勢力の姿はあまり見えない。ただ、長州では浄土真宗西本願寺派の僧が武装して戦いに加わって、島地黙雷や赤松連城などの後の教団改革派が活躍した。また、西本願寺は勤王の志士の側に立ったが、逆に京都守護職会津藩によって、新撰組の詰め所を置かれた。また日蓮宗では本門仏立宗が、在家の講を組織して、宗派から独立した。

 明治維新の当初で、宗教政策においては、まずは、復古が行われ、一連の神仏分離令が出される。それと同時に廃仏毀釈が起きる。危機感を抱いた仏教各宗派では、教団改革が始まる。

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日本の仏教についてのノート(16)

  近世の仏教(2)
 江戸時代初期の1654年(承応3年)に明朝の中国から中国臨済宗の隠元禅師が来日し、後に、後水尾天皇や4代将軍家綱の帰依を受けて、宇治に黄檗山万福寺が開かれ、臨済正宗黄檗派が出来た。明治9年に臨済宗から独立して、黄檗宗となる。

 黄檗宗は、人は皆仏性があり、心の中に阿弥陀仏の極楽浄土があるとして、念仏禅を行とした。明代仏教の様式を伝え、しばらくは中国から来日した僧が住職を務めた。隠元は、インゲンマメをもたらしたことで有名であるが、同時に、「黄檗清規」を作成し、江戸時代に入って廃れていた集団修行を広めたことで、臨済宗・曹洞宗の両禅宗に対して大きなインパクトを与えた。江戸初期に集団禅が廃れたのは、幕府が、人が集団をなす事を嫌って、統制しようとしたからだという。これは徳川幕府の封建制が、基本的に農民搾取に依拠する体制であって、中世の一揆が、村落祭祀の機関である「宮座(講)」の集会を基盤にし、あるいは本願寺門徒の一向一揆もそうした場を団結の根拠にしていたことから、宗教の場での集会そのものを危険視し、警戒していたことの現れであろう。

 しかし、各宗派も幕府の統制による宗門の危機に対して、教団改革の動きが起きるようになる。臨済宗の中で、黄檗宗の影響が浸透する中で、開宗への復古が妙心寺派に起きる。

 また、1627年(寛永4年)、後水尾天皇が、「禁中並びに公家諸法度」で規制した紫衣勅許の決まりに反して、幕府にはからず、慣例通りに、臨済宗の大徳寺・妙心寺の僧十数人に高僧に認められる紫衣着用の勅許を与えたことに対して、三代将軍家光がこの勅許を取り消し、京都所司代板倉重宗に紫衣をとりあげさせるという「紫衣事件」が起きた。これに反発した大徳寺住職沢庵や妙心寺の東源慧らが朝廷を支持して、幕府に抗弁書を出したが、1629年(寛永6年)、幕府は、沢庵らを出羽国や陸奥国に流罪にした。この背景には、臨済宗内の京都五山派と大徳寺・妙心寺派の対立があったとも言われる。「禁中並びに公家諸法度」や「寺院諸法度」の作成に、五山の一角の南禅寺の元住職の金地院崇伝が関わっていたからである。この幕府の処分を決定する議論にも崇伝は参加して、天海が穏便な措置を主張したのに対して、厳しい処分を主張した。

 出羽に流された沢庵和尚であったが、預けられた上の山の土岐山城守頼行の帰依を受け、庵を与えられるなど厚遇を受けた。後、許されて江戸に入り、家光の帰依を受けて、江戸品川に東海寺を与えられる。なお、「紫衣事件」後、2代将軍秀忠の娘の和子が入内した後水尾天皇は、家光の乳母福(後の春日局)が、無位無冠のまま朝廷に参内したことなどの幕府のやり方に抗議して、二女の興子内親王に譲位した。それが女帝の明正天皇である。

 臨済宗は、幕府の統制策もあり、またもともと時の政権や朝廷と結ぶことで、勢力を拡大したので、信徒は上級武士層が中心で、農民や職人・商人などの庶民層には浸透していなかった。後者の層には、浄土真宗と曹洞宗・日蓮宗(法華宗)が浸透しており、臨済宗は衰微の危機にあった。しかし、江戸中期に、白隠禅師が出て、平等主義的な教えに立つ改革の動きが起きた。白隠禅師は、今日の臨済宗全ての宗派が一致して中興の祖と位置づけるほどの臨済宗の大改革者となったのである。その姿勢は、民衆教化であると同時に衆生即仏であることから、大衆迎合でもあるというような感じではある。しかしそれによって、それまでのもっぱら権力者のための仏法であった臨済宗のあり方を、民衆布教の方向へ変えることになったことは確かなようである。

 浄土宗は、徳川家の家の宗派であったから、知恩院・増上寺をはじめ、大伽藍の建設を支援された。しかしそれと同時に、「浄土系信者の中で特に信仰に厚く徳行に富んでいる」(鈴木大拙『日本的霊性』)妙好人という念仏者が生まれた。徳川家の菩提寺の増上寺は同時に浄土宗の教学の中心地となった。その大伽藍と寺地は、今の芝公園をも含む広大なものであった。

 日蓮宗(法華宗)は、様々な教団に分かれ、その中には、加持祈祷、神祇勧請などを行うようになったものもあった。やはり他宗派同様、江戸時代中期には、宗祖日蓮への復古、『日蓮遺文』などの編集・発行などの教学研究が盛んになった。映画『男はつらいよ』シリーズで有名な葛飾柴又の帝釈天(経栄山題経寺)も、日蓮宗の寺院である。江戸末期には、形骸化した宗派のあり方に反発して、在家からの改革運動が起き、講が生まれたりした。

 曹洞宗では、加賀国大乗寺の住職の月舟宋胡の改革運動が起き、その弟子で大乗寺を継いだ卍山道白らは、寺を継ぐことによる法統の継承を非とし、師から弟子に直接法統を伝える一師印証の面授嗣法のみを正統な法統の継承法とした。さらに卍山道白は、大乗寺に、黄檗宗の隠元が作った「黄檗清規」を取り入れて、寺の規律を整えた。彼は、道元の遺文の整理・研究に務め、『正法眼蔵』の卍山本をまとめた。しかし、かれが黄檗宗の清規を取り入れたことを、天桂伝尊らに批判され、論争が生じた。面山瑞方という学僧も出た。

 浄土真宗本願寺派は、門主の教義解釈・権限を絶対化したため、相矛盾する教義を抱えたまま重畳的な構造をつくり、幕府の封建体制へも適応してきた。西本願寺系の龍谷大学の元学長の信楽峻麿氏は、「真俗二諦論」による真は内心、俗は、仁・義・礼・智・信の儒教道徳という形での世俗権力への適応の仕方は、近世の浄土真宗の形骸化をもたらしたと述べている。無論、本願寺教団でも、教育・研究機関を設けて、子弟の教育に力を入れたのだが、内部の論争に京都二条奉行が介入し、論争自体を禁止し、双方を処罰するなど、自由な議論すら幕府の介入を受けて弾圧され、さらに教義解釈権が、世襲門主に独占されている状態では、次第に、葬式仏教化していくのを止めることができなかった。それでも信徒の中には、仏壇の位牌を取り除く者も出るところもあり、信仰の真宗への一元化を実現したところも多少はあった。

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日本の仏教についてのノート(15)

 近世の仏教(1)
 織田信長・豊臣秀吉は、中世的制度を一掃すると共に、検地による本百姓を中心とする農民の土地への緊縛と武装解除、身分の固定化を行った。身分移動、職業移動、居住地の移動は、厳しく制限された。1643年(寛永20)には、田畑の売り買い、本田でのたばこ・木綿・菜種の栽培を禁止する。1722年(享保7)には、田畑の分配を禁止する。また、年貢納入・犯罪取り締まり・相互扶助・連帯責任制の5人組制度をつくった。5人組制度は、浪人・キリシタン取り締まりのためにつくられたものを応用したものである。それは、檀家寺請制度と同じである。豊臣秀吉のキリシタン禁止後、徳川家康は、1612年(慶長17)禁教令を出し、1633年(寛永10)から1639年(寛永12)にかけて一連の鎖国令をもって鎖国体制は完成した。1637年(寛永14)には、天草地方のキリシタンたちが蜂起した島原の乱が起きて、幕府軍によって鎮圧されている。この時、キリシタンから改宗し仏教徒となった者から、証文を取ったことを一般化して、檀家寺請制度を全国で実施した。

 寺請制度は、あらゆる人が、いずれかの仏教寺院の檀家として登録され、それを村の三役などが保証して、幕府に提出するというものである。それには、家族の名前と続柄まで記載された。さらに、当初はキリシタン対策として行われた檀家寺請制度は、拡充され、宗門改めから作られた寺の檀家の証明書は、宗門人別帳となり、家毎に出生日や死亡日が記録され、やがて、寺が出す寺請証文が、移動の際に必要とされるようになる。それと同時に、過去帳が作られるようになった。これらの寺の記録は、戸籍のようなものである。かくして、このような事務を通じて、寺院は、幕府封建支配の末端行政機構化するのである。そして、宗旨替えが禁止されたため、信仰と関わりなく、代々、特定の宗派の寺の檀家された。

 並行して、幕府は、本山制を導入させ、それによって、本寺末寺関係が形成され、宗派として中央集権化と複数本山化して集中を分散させると同時に、宗派の行政事務を関東などに複数で担当させた。ただ、当初は、1601~1616年(慶長六~元和二年)各宗毎に制定された。1665年(寛文5)には、各宗共通の「諸宗寺院法度」が定められた。それは、「一、諸宗法式、あいみだすべからず、もし、不行儀の輩これあるにおいては、きっと沙汰に及ぶべき事。二、一宗法式をぞんぜざる僧侶、寺院住持なすべからざる事。つけたり新儀を立て、奇怪の法説くべからざる事」等々9カ条からなるもので、各宗派は、教学・儀礼に務め、争いごとを慎み、僧侶の管理・監督をし、本寺末寺関係を形成する、などの内容である。あわせて、「禁中並びに公家諸法度」を発して、天皇に学問に励むようにして、政治などに関わらないようにくぎをさすと共に、僧に紫衣を授けるなどの寺院に対する権限をも抑えようとした。将軍直属で譜代大名数名で務めさせる格の高い寺社奉行を置いて、寺社を管轄させた。仏教宗派では、法華宗(日蓮宗)不受不施派を禁止した。薩摩では、浄土真宗が禁止された。

 徳川家康は、南禅寺住職だった金地院崇伝をブレーンとして、禁教令、寺社政策、武家諸法度、禁中並びに公家諸法度などの徳川幕府の重要政策を作成した。崇伝は、江戸に金地院を建てた。もう一人、家康から三代将軍家光までブレーンとして活動した天台僧天海は、無量寿寺北院(現在、埼玉県川越市の喜多院)を関東の天台宗の拠点とし、家光の時、江戸の鬼門にあたる上野に東叡山寛永寺を建てた。天海は、家康の死後、日光東照宮を造る際に、家康の神号を山王一実神道の「権現」とすることを主張し、「明神」として吉田神道で祀るべきとする金地院崇伝らと議論になったが、結局、天海の主張が採用された。なお、徳川家は浄土宗の信徒であったことから、江戸の裏鬼門にあたる芝の増上寺や京都の東山の知恩院などの浄土宗の寺院の整備に務めた。

 徳川幕府の神道政策は、1665年(寛文5)、「諸宗寺院法度」と同時に「諸社禰宜神主御法度」を制定し、それに慶長八年の「伊勢法度」を加えて、完成した。それによって、吉田神道が神職の認証の権限を独占するようになるが、それに対抗した白川家が巻き返して、神道における二大勢力が形成された。幕府の政策の基本は、仏教宗派に対するのと同じで、吉田家を本山、その他の神社を末寺のような形で組織して、本山(あるいは家元といった方が近いか)を統制することで、末端まで統制するということである。

 他方で、幕府の学問として、儒教(朱子学)を採用し、昌平坂学問所をつくって、武士の教育を行うと共に林羅山の子孫に大学の頭を世襲させた。やがて、朱子学は、神道に結びついて、尊皇攘夷思想を生み出すもとになる。水戸光圀の編纂した『大日本史』は、朱子学の「大義名分論」に基づいて、日本を王道の歴史を記録しようとしたのである。さらに、光圀は、1666年(寛文6年)に寺院整理を断行し、藩内の2,377寺のうち、1,098寺を取りつぶし、990寺に整理した。また一村一鎮守に神社も整理すると共に、神社の本体を本地仏から御幣や鏡などに代え、神社を僧侶ではなく神官が管理するようにした。これは明治維新の神仏分離令・廃仏毀釈の先例といってもいい。同じように、儒学者熊沢藩山をブレーンとして、儒教を信奉した岡山藩主池田光政は、神儒一致思想から、神仏分離、寺請制度の廃止、神請制度の創設、神社合祀、廃仏毀釈を行った。会津藩保科正之は、朱子学者山崎闇斉をブレーンとして、寺社を整理し、神仏習合を排斥した。山崎闇斉派からは、後に神儒一致の垂下神道思想が生まれる。

 徳川幕藩体制の下で、仏教寺院は、檀家寺請制によって、その末端行政機構と化すと共に、葬儀・法事などに関わる収入を確保するようになった。檀家は家を単位として、基本的には当時人口の大部分を占める農民は、土地に縛られ、移動・移転することはないので、個人の信仰心とは関わりなく、宗派の檀家とされ、それが代々続くようになったのである。幕府は、もっぱら教学に専念することを奨励したためか、江戸中期になると、例えば、曹洞宗では、道元の教えの研究や復古が盛んになる。

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日本の仏教についてのノート(14)

 中世後期の仏教諸派(2)
 1333年、鎌倉幕府は、新田義貞らによって滅ぼされると、後醍醐天皇が親政を敷いて、「建武の新政」を開始した。鎌倉末の後嵯峨天皇後、皇位は大覚寺統と持明院統が交代でつくことになっていた。1336年、足利尊氏は、京都に入り、持明院統の光明天皇をたて、ここに、「建武の新政」はわずか2年半で崩壊する。その後、吉野に後醍醐天皇の南朝が京都の北朝と対立する南北朝時代が続く。後醍醐天皇の肖像画は、金剛杵という密教の法具を持っている姿で描かれている。南朝は、全国各地との連絡を山伏・修験道のルートで取っていたと言われるし、各地の山岳信仰の聖地を拠点として北朝との戦いを行ったように、それらの勢力と密接なつながりがあった。

 足利幕府は、三代義満の時に最盛期となって、一時安定し、6代義教の時には、彼は元天台座主であったのに、叡山の僧兵の乱行に対して、1435年(永享7年)2月に比叡山の根本中道を焼失させるなど、旧仏教勢力を幕府の下に屈服させた。

 その後、8代将軍足利義政の時、1467年(応仁元年)が勃発し、1477年(文明9年)まで続く。この応仁の乱の直接のきっかけは、将軍家の後継者争いであったが、有力守護が、あいわかれて、全国で戦いが繰り広げられ、それによって中世荘園公領制は完全に崩壊するようになったと言われている。それはいうまでもなく、荘園領主化していた仏教諸派の経済的物的基礎を崩壊させるものであった。それと同時に、惣村・郷村や町衆の自治などを基盤とする鎌倉新仏教諸派が台頭し、実力をつけてくるのに対する守護領国制そして後には大名領国制との対立が激化してくるのである。それに、さらに、大航海時代を迎えた西欧諸国から、ポルトガルをはじめ来日する者が現れ、イエズス会系のキリスト教が布教されるようになった。後には戦国大名の中に信者が増え、長崎などに領地まで得るようになる。

  臨済宗系の禅宗諸派は、幕府や有力御家人の庇護をうけ、荘園も与えられて、鎌倉時代には鎌倉五山、室町時代には京都五山を開き、やがて、建築・絵画(墨絵など)・庭園・精進料理などの文化を花開かせるようになる。室町時代には、義満の山荘として後の金閣寺、足利義満の山荘の銀閣寺が建てられ、禅宗の影響の強い北山文化・東山文化を象徴する禅寺が将軍自身によって建てられた。しかしそれらの多くが応仁の乱などの相次ぐ争乱によって、焼失したりする。 

 応仁の乱後の京都では、下京を中心に、法華宗12ヵ寺の信徒を中心に、商人・職人、土倉(金貸し)などが町衆として自治を実現し、やがて町に塀をめぐらすなどして自衛武装し、祇園会の祭りを自分たちで執り行うなどするようになった。町衆の自治共同体が、堺や博多など全国の商業都市に出来るようになる。

 京都の町衆は、法華一揆*を組み、さらに自治を強め、1532年(天文1),一向宗徒が京都の日蓮宗寺院を襲撃するという噂が流れた時、先制攻撃として、細川晴元と組んで、山科の一向宗の寺院を攻撃・破壊した。この後、京都市中の警護を法華一揆が担当したり、地子銭の納入を拒否するなどして、5年ほど完全自治を実現した。1536年(天文5年)7月、天台宗比叡山の僧兵約6万が、京都の法華宗寺院21本山をことごとく焼き払った天文法華の乱によって、法華一揆は壊滅した。その後、大阪堺に難を逃れた21ヵ寺の内、15ヵ寺は帰山が許され、その後、豊臣秀吉の京洛建設計画によって、今の寺町に集められた。

  こうして、一向一揆や法華一揆は、それぞれ守護大名と結びついて、戦い、この戦乱にまきこまれ、あるいは戦乱の主となる。また、京都の法華宗では、他宗派の人の布施を受けない、他宗派の人に布施をしないという排他的な不受不施の考えが広まり、法華一揆は純化した宗教共同体になっていったことで、戦闘性が強まっていったと言われている。やがて、町衆は、上層の商人が、御用商人として分化して、武家政権と結びつくようになり、残った町衆は、五人組などの徳川幕府の末端の管理機構と化して、町衆自治はなくなる。なお、法華宗の不受不施派は、一派として残り、江戸時代には禁圧される。

 *中世の一揆というのは、共同の目的のために盟約を結んで同盟した政治的共同体のことであり、武力反乱を指すものではなかった。

 鎌倉時代、荘園内への地頭の浸食を進めるのに、下地中分という方法がとられた。これは、荘園を領家分と地頭分へ分けるもので、一円領主化と言われるものである。一円とは、土地そのものを完全支配するもので、従来、一つの土地に、重層的にかけられていた諸権限を一元化するというものである。下地中分によって、領家・地頭は、それぞれ一円領主化する。また、領家の年貢の徴収を請け負う地頭請けが行われるようになった。さらに、室町時代には守護が、守護請け、半済などを通じて、一円領主化して、守護領国制を確立すると共にやがて守護大名へと転化する。荘園領主は、地方に散在する荘園を管理することが困難となって、土地売り買いによっても荘園を集中して一円化を進めた。

 惣村・郷村から地侍層が国人層化して分離し、守護の一円領主化の下で、その従者となり、惣村の農民と対立するようになり、その対立に、一向一揆、法華一揆などの一揆、そしてそれに守護同士の対立が絡んで、複雑な地域紛争が次々と起きた。一向一揆と法華一揆の戦いも行われるなど、宗教勢力同士の戦いも激しく戦われた。とりわけ、一向一揆は、加賀ばかりではなく北陸全体に広がったし、近江でも守護の朝倉勢との闘いを繰り返し、さらに、1532年、畿内、 1563年、三河、1567年、伊勢長島、と一向一揆が起きた。

 本願寺11代門主顕如は、石山本願寺に寺内町をつくり、紀伊雑賀衆や伊勢水軍や甲斐武田や周防毛利(将軍足利義昭)と同盟し、織田信長と1570年から石山戦争に突入する。顕如は、伊勢長島など全国の門徒に、「信長と戦わなければ破門する」という厳しい檄を飛ばし、各地で、一向一揆が蜂起した。しかし同盟した朝倉・浅井などの有力大名が織田勢に敗れ、籠城戦による疲弊も深まったこともあり、朝廷の仲介で、織田信長と和睦し、顕如は紀伊国鷺森に移った。織田信長が本能寺の変で死ぬと豊臣秀吉と和睦し、大阪そして京都堀川に寺地を与えられて、移った。顕如の死後、三男准如が第12代門主にたてられると長男教如が東本願寺を起こして、1592年本願寺は分裂した。戦国時代、本願寺はほとんど戦国大名といってよく、世俗権力と化したのである。本願寺教団だけが、僧の妻帯を許し、門主に子供があったために政略結婚を通じて、公家や有力守護などと親戚関係を結ぶなどのことができた。他の仏教諸派は、当時は僧の妻帯を禁止していたから、そういうまねはできなかった。

 仏教勢力は、織田信長による比叡山焼き討ち、石山本願寺の屈服、などによって、勢力を大きく落としたのであるが、諸大名の間にはキリスト教徒となるものもあり、キリスト教勢力も力を伸ばしつつあった。しかし織田信長の時代には、まだキリシタンは自由に活動していた。織田信長について宣教師のルイス・フロイスは書簡で、「神仏其の他偶像を軽視し、教物一切の卜を信ぜず。宇宙に造主なく、霊法不滅なることなく、死後何物も存せざることを明らかに説けり」と、無神論者だと書いている。司馬遼太郎氏も、『国盗り物語』で、信長は、無神論者で合理主義者だと書いている。信長は、寺社地をいろいろと理由を付けては、徹底的に破壊・収奪したが、それは、領地の没収と共にそれが一揆の中心であり拠点となることが多かったためだろう。

 豊臣秀吉は、寺社や公家・朝廷と妥協し、その復興を助けたが、1587年(天正15)6月19日に、「一 日本国ハ神国たる処、キリシタン国より邪法を授くるの儀、太だ以って然かるべからず候事云々」という「宣教師追放令」を出し、キリスト教を禁止した。その狙いは、信長同様、領地の没収にあったようである。

 織田信長・豊臣秀吉は、相次いで検地を断行したが、検地帳には、土地の所在地・田畠屋敷の別、品位、面積・石高・耕作者を記載した。耕作者を明記することで、土地と人が結びつけられ、さらに身分統制令と刀狩りで、農民と武士の区別がはっきりし、また農民が商人や職人になることも禁止され、身分が固定化された上に、農民は土地に縛り付けられた。封建制は、さらに徳川幕府によって固められることとなる。そのことが、檀家寺請制度による寺院の人々の末端管理機構化に関係するのだが、それは近世の問題である。

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日本の仏教についてのノート(13)

 中世後期の仏教諸派(1)
 南都大寺院や延暦寺・真言宗寺院などの古代仏教諸派は、荘園領主としての荘園支配に対する在地領主層や地頭などの信仰武士勢力による荘園浸食との闘争やそれとも関連した他寺院勢力との争いを繰り返すようになる。

 寺院系荘園での在地領主層との争いについては、石母田正の『中世的世界の形成』に詳しい。例えば、興福寺は、寺領の支配をはかるために、用水支配を強化しようとしたが、かえって、在地領主層が子弟を興福寺の僧として送り込み、興福寺の支配を内側から掘り崩してしまう。

 また、在地領主層の中からは、武装して、荘園領主に反抗する「悪党」が生まれた。かくして、荘園制は、内部から脅かされ、次第に衰微していくようになる。

 さらに、鎌倉末期から、在地の有力農民や領主層が、加地子(利子)を取得する加地子領主に転化するとともに自営的農民層が台頭し、宮座(講)を中心に、惣を形成し、有力者を中心に代表者を選んで、「おとな」の寄り合い(合議)による惣村運営を行い、村の掟を決め、警察権を断行する検断権を行使するなど、自治村が、近畿圏などから生まれてくる。惣村は、それまでの荘園国衙の範囲を超えて、肥料を取る共有の入会地を持ち、共有財産を貯え、その管理運営の共同事務を共同で執り行った。

 宮座は、村の氏神などの祭りを執り行うための代表者である「おとな」の集会であるが、宮座入りにあたって、神水(御神酒)を飲み交わして、職務の遂行を誓うことから、「一味神水」と言われた。惣は、守護地頭などの検断権を制約して、惣村が武装してそれを執り行うなど、自治的な力が強かった。さらに、地下請けで、年貢の上納を惣村が請け負った。さらに、いくつかの惣村が連合した惣郷・惣庄も生まれた。当初から、広範な地域に成立した東国や東北などでは、郷村と言った。

 こうした農村の自治と対応するかのように、都市でも、商人・職人などの町衆の自治が発展する。とくに京都では、応仁の乱で焼けた町の復興の時代に、下京の町衆が、法華宗12寺を中心にして結集し、町衆による自治を強めていった。京都の町衆は、祇園祭を復興させ、後には、武装して、法華一揆を起こす。

 農村においては、宮座を中心とする自治が形成されたように、地域の氏神信仰や田の神や自然神の信仰が主であった。また、末寺にあたる地元の寺も、惣村の手中にあった。この頃は、寺の宗派がよく変わったのである。本願寺8世の蓮如は、この惣の仕組みを利用して、宮座(講)と寺の住職を本願寺派に引き入れることで、村ごとを真宗組織に取り込み始めた。それによって、講単位つまりは惣村単位で、信徒が獲得されて、それまで、高田専修寺派や仏光寺派などの親鸞の弟子たちの開いた宗派が圧倒的に優勢だったのを、ひっくり返し始める。『栄玄記』には、蓮如が、「坊主と年寄りと長(おとな)を信者にすれば、仏法は栄えるだろう」と語ったとされている。

 1465年(寛正6年)1月9日、本願寺派の勢いを恐れた延暦寺西塔の衆徒は大谷本願寺を破却した。同年3月21日、再度これを破却・破壊した。1264年(応仁元年)1月、応仁の乱が勃発する。同年11月、難を逃れて、蓮如は、一時、三井寺園城寺に身を寄せ、近江での布教を強める。この時、近江の堅田衆の庇護を受ける。しかし、叡山の衆徒が堅田衆を襲撃した。1471年(文明3年)4月上旬 、当時興福寺大乗院の荘園の河口庄の越前吉崎に赴き、7月下旬同所に吉崎御坊を建立する。吉崎での布教が本格化し、大勢の門徒が集まるようになると、守護富樫氏との間に軋轢を生じた。
 
 蓮如は、惣村ごと本願寺教団に組織していった。そのことによって、荘園領主たちはもちろん、守護との軋轢も強まっていった。当時、越前の守護富樫幸千代は、高田専修寺派組んで、応仁の乱の西軍に味方し、東軍に味方した同族の富樫政親を支援したのが本願寺派である。1474年(文明6)年7月ついに両派は激突した。政親方に白山権現の宗徒が味方して、政親方が勝利し、守護となった。1475年(文明7年)8月、蓮如は、危険を避けるため、吉崎を退去し、大阪の河内に移った。しかし、後に守護富樫政親とも対立した一向一揆勢は、1488年には政親をも倒し、以後100年に渡って、一揆勢による自治がしかれた。1580年(天正8年)柴田勝家によって制圧される。

 鎌倉新仏教派の祖たちは、教団を作らなかった。祖師の死後、その弟子たちは、それぞれ自らの教団をつくるようになり、自由に独立して活動したので、浄土真宗では、高田専修寺派や仏光寺派などの諸教団が本願寺派をはるかに凌駕する勢力を長く持っていたし、法華宗でも、6人の高弟がそれぞれの本拠地を持って活動した。永平寺も三世が加賀に移って、後の総持寺派のもとをつくった。ただ永平寺は、後に、総持寺派と統合したので、統一が保たれた方である。

 本願寺派は、蓮如の時代には、名号下付という名号の本尊を掛け軸にしたものを門徒に下して、寺と門徒との関係を密にすると同時にそのお礼として門徒から寄せられる資金をもって、石山本願寺の建設費にあてるなど、経済的にも大きな勢力となってきた。その辺は、室町期の生産力の上昇ということがあって、それによって豊かになってきた商人・農民・運送業者・職人などの古代仏教諸派が相手にしてこなかった人々が信徒になるようになってきたことがあるのだろう。それに対して、荘園領主化した古代仏教諸派は、このころの荘園内の諸関係の変化や相次ぐ動乱・地頭による浸食や悪党や一揆に悩まされるなどして、荘園経営が行き詰まってきていた。

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日本の仏教についてのノート(12)

  小括
 ここまで、鎌倉新仏教の三人の祖を見てきた。いずれも、それまでの古代仏教の鎮護国家的・荘園領主的性格に対して強い批判意識を持ち、旧仏教勢力によって、排撃・弾圧された。共通して、個人の救い・成仏を基本とし、信徒も個人単位であり、その細々した物の布施によって宗教活動を行い、その範囲で生活した。荘園領主としての俗世的権力行使に関わらないことで、信を基本にした行に集中しようとした。その際に、古い昔の仏教への復古・復帰を行っている。親鸞の場合も、大陸の過去の念仏僧への崇敬の念が強い。

 平安末期から鎌倉初期は、中世への入り口に当たり、公領荘園制の中で、自由農が成立すると同時に村落共同体的な惣村制が生まれ、さらには農村の階層分化の中で、富裕な農民が主の年寄りによる合議制が生まれ、土地売り買いに対する規制を設けたりするようになる。武士・御家人にも、惣領制の分割相続制から一子相続制への移行が始まる。しかし、まだ中世前期では、商品経済の発展・貨幣の流通拡大、土地の売り買い自由、海路の発展、日宗貿易の活況、など、まだ封建制の要素は小さかった。相続に関しても、女性の相続権が認められ、行われていた。

 こうした時代の中で、三者は共通に、女人成仏などの平等主義、特別な修行や資格を必要としない易行を採用する。市の発展に沿って、布教活動を行った一遍などの遊行僧の活動もあった。道元は、日宋貿易船に同乗したと思われる。停泊中の船に、天童寺の典座が、日本産しいたけを求めにきたというのは、日宋貿易の活発なことをうかがわせるエピソードである。さらに、日本の中世の遺跡などからは、宋銭がいっぱい見つかるという。この時代、宋銭は広くまた多く、日本で流通していた証拠である。

 農村においては、在地領主層が形成され、古代奴隷を伴う古代的族長制家族が解体し、それにかわって、本家―分家という家を単位としながらも、そこに個人というものが成立し始め、個人間の契約的な関係であるご恩と奉公のような血縁原理に代わる結合関係が生まれてくる。鎌倉新仏教はそれぞれ、仏と自分「一人」との関係で、信行を立てており、共通して、ご恩に対する報謝の関係を強調している。親鸞は、はっきりと仏恩に対する報謝と述べ、日蓮・道元は功徳ということを言うが、それは基本的には、一人一人に対してあるものだという観念を表明している。

 この時期は、成立したばかりの鎌倉幕府も不安定な状態であって、頼朝死後三代で源頼朝直系の将軍が消えるや承久の乱が起き、朝廷勢力の巻き返しの動きが露呈した。これは北条政子が御家人をまとめて対処して撃退できたが、その後の北条執権体制下でも、三浦一族の乱が起きるなど、内紛も繰り返されるなどその体制も不安定なものであった。地震や疫病・飢饉が繰り返されたことも、政情不安を増幅した。そして、分割相続によって、貧窮化した御家人たちは、文永・弘安の役の元との戦いによって、さらに困窮した。幕府は、徳政令を出して、困窮していた御家人たちを救おうとした。

 日蓮・親鸞・道元は、いずれも領主にはならず、信徒による寄付・布施によって、つつましく、貧しい生活をおくった。道元の場合は、それも、行の一部であって、「学道の人は最も貧なるべし」(『正法眼蔵随聞記』)なのである。日蓮・道元には、地頭の信徒がいて、寺を与えられたりしているが、親鸞は、自らの寺を持たず、最後まで在家のままであった。しかし、教祖の死後、教団の発展にともって、様々な俗的な問題が発生してくるのであるが、それはかれらの知るところではもちろんない。

 親鸞・道元が、仏道に集中して、俗世のことについて、無関心であったのに対して、日蓮は、王仏冥合の立場から、政治や歴史についてあれこれと論じている。もちろん、それは仏法の立場からする現証としての見方で言っていることである。それは現世利益についての教えではなく、日蓮自身も貧なるままに生涯を閉じたのである。道元については、鎌倉に行った際に、執権北条時頼が寺を与えるというのを断り、越前永平寺に帰ってから、さらに、領地を与えるという書状が時頼から送られてきた時も、それを断ったといわれている。本願寺が建ったのはようやく3世の親鸞の孫の代であった。

 なお、道元の唯物論は、宋で最初に出会った阿育山の老典座との対話で、その老僧が答えたという「全世界すべての現象が、そのまま真理そのものであって、みな学問・修行の対象でないものはない」(今枝愛眞氏『道元』(NHKブックス)という言葉を学んでいることにも現れている。今枝氏は、それを「人類万物に共通の真理を見究めるのが禅の悟りであると教えられたのである」と取っている。道元は、この老典座から教えられたことに感謝している。懐疑論者は、現象を自我の作った映像としかとらえないのであるが、それに対して、唯物論は、この老典座の言うとおり、自我の外に実在する現象の客観的真理を見究める態度を取るのである。 

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日本の仏教についてのノート(11)

  道元の思想
 道元は、比叡山での修学の中で、「本来本仏性、天然自性身」という天台本覚思想に対する疑問を抱いたという。今枝愛真氏は『道元』(NHKブックス)の中で、「もともと一切の人間は、誰でも仏性、つまり仏の本性をそなえ持っている。このような意味で、本覚思想ともいわれ、天台宗の最も根本的な考え方なのである。この考え方に対し、道元の心にいろいろな疑問が湧いてきた。たとえば、もしそのように、人そのものにすでに仏性がそなわっているならば、なぜわれわれは苦しい修行を実践しなければならないのであろうか。また、すでに諸仏や祖師が菩提心(悟りを求めて仏道を行じようと心)を起こして修行を続ける必要があると説いたのは、どういう訳か。それにはそれだけの理由がなければならないが、果たしてそれは何なのか。道元は、こうした学問と修業に関する根本的な疑問を懐くにいたったのである」。この頃のことについて、道元は、『弁道話』に、「予、発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき」と書いている。

 このような「発心求法」の結果、道元は、「仏祖の大道、かならず無上の行持あり。道環して断絶せず、発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。このゆえに、みづからの強為にあらず、他の強為にあらず、不會染汚の行持なり」(『行持』)という結論に達する。すなわち、悟りの状態を純粋に保ち続けるために、座禅という行を続けなければならないのである。つまり「修証一如」である。この時、悟るのは一人であるが、それは自力での悟りというのではない。「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」(『現成公案』)。また、それは「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(同)なのである。つまり、「依他起性」を貫いているのである。

 道元の思想には、唯物論的なものがある。例えば、「嘗観すべし、身心一如のむねは、仏法のつねの談ずるところなり。しかあるに、なんぞ、この身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて、生滅せざらむ」(同)。これは、「身心一如」論からきているもので、「この一法に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらむや」(同)というものである。心と身は分けられない「一如」なので、身が滅すれば、心も滅するというのである。

 道元は、正像末の三時の区別を方便として否定する。「教家に名相をこととせるに、なほ大乗実教には、正像末法をわくことなし」(同)。「仏教に正像末を立ること暫く一途の方便なり」(『正法眼蔵随聞記』)。

 また彼は、「仏法を会すること、男女貴賤をえらぶべからず」(同)と述べて、仏法の立場からの平等論を説いている。

 道元は、戒律を重んずると共に、僧院の生活全般を修行として、典座(炊事係)をも重視し、『示庫院文』『庫院規式』で、食生活の規律や礼節を明らかにし、『赴粥飯法』で、食事作法を規定した。それは、「「食は諸法の法なり」という考えから、一切の食事作法が仏道修行と密接不可分の関係にある、いや修行そのものである」(今枝氏前掲書)からである。この点でも、道元は唯物論的であり、「身心一如」論から、身についての具体的な知識を持って、まず食べることを基本に据えているのである*。

 *「無前提的であるドイツ人のもとでは、われわれはあらゆる人間的存在の、したがってまたあらゆる歴史の第一の前提を確認することからはじめなければならない。すなわち人間は、『歴史をつくり』(Geschichte machen)うるためには、生きてゆくことができなければならぬという前提である。ところで生きるのに必要なのはなによりもまず食うことと飲むこと、住むこと、着ること、そのほかなおいくつかのことである。したがって第一の歴史的行為はこれらの欲望をみたすための物質的生活そのものの生産である。しかもこれは、ただ人間の生命をつなぐためにも、今日なお数千年まえとおなじく日々刻々やりとげられなければならない歴史的行為であり、あらゆる歴史の根本条件なのである」(『ドイツ・イデオロギー』)。

 道元の思想では、身体的物質的なものを具体的に規定するものとしての「行」が基礎になっていて、それは例えば、永平寺の規律を定めた『衆寮箴規』にも見られる。今枝氏の前掲書によれば、それは、「衆寮内で大声を出して読経したり、詩を吟じたりしないこと、客を招いて談笑したり、商人・医者・占師などと無用な問答をしないこと、他人の机のところへ行って覗いたりしないこと、世間の名利や国内の政情などを話し合ったり、修行者仲間の噂話などしないこと、書画や仏像などを掛けないこと、横になって物に寄りかかって脚を投げ出したりしないこと、金銭などを貯えてはならないこと、俗書や詩歌の本を置かないこと、武具などを持ち込む者は寮から追い出すこと、楽器や酒類を置かないことなど、修行の妨げになるもの一切を禁じたのである」というものであった。

 ここに書いてあることは、僧兵をたくわえ、荘園領主化し、金貸しを行い、京都の朝廷に強訴を繰り返して、政治に介入していた当時の比叡山などの大寺院の姿とは正反対の内容である。もちろん、大声で、称名念仏する浄土宗や題目を唱える法華宗などとも正反対である。また、あくまでも具体的である。

 道元にとって、我執こそが悟りの妨げであり、身心脱落の状態を保つことが、「生死即涅槃」であった。彼は、天台本覚思想に、我を仏性とするかのような誤りがあると見て、釈尊と同じく、我を離れるための座禅の行を実践すべしと説いたのである。道元の思想は、男女上下の別なく平等に悟れるという平等主義や具体的な生活規範を持った教えであったことなどから、武士層や農民層に受け入れられていったのであろう。

 なお、道元思想について、『正法眼蔵随聞記』から、道元が公案禅を否定したというような解釈が生まれたということがあったという。しかし、『正法眼蔵』には、そうしたことは見えず、今枝氏も両者の間には矛盾があることを指摘している。

 永平寺・総持寺の両本山は、江戸時代には、末寺1万数千寺を数えるにいたった。ただ、教えに乱れが目立つようになったため、江戸期には、月舟宗胡(1618―96)、卍山道白(1636―1714)による道元への回帰・復古運動が起き、江戸の吉祥寺の栴檀林や芝の青松寺の獅子窟などの学寮での研究活動が盛んになった(今枝氏前掲書)。さらに托鉢僧の良寛(1757―1831)などを輩出した。

 今枝氏は参考文献に、ユニークな現代の道元思想の研究として、寺田透『道元の言語宇宙』(岩波書店)と森本和夫『道元とサルトル』(現代新書)をあげている。道元の思想はなお現代において、読み直される価値があるものといえよう。

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日本の仏教についてのノート(10)

  道元の生涯
 道元は、1200年(正治2年)、内大臣久我通親と前摂政関白松殿基房の娘の間に生まれたといわれているが、はっきりしていない。生地についてもはっきりしないが、京都の宇治の木幡の母方の実家の松殿氏の山荘か久我水閣(現在の伏見区桂川近くで曹洞宗の誕生寺が建てられている)ともいわれている。幼くして父母を失った道元は9歳にして世親の『倶舎論』を読んだといわれる。1212年(建暦2年)、13歳で、比叡山の良顕法眼を訪ね、延暦寺に入って、出家した。翌年、得度を受け、大乗律による菩薩戒を授けられ、仏法房道元と名乗る天台僧となった。この頃、法然は大谷で称名念仏を布教し、親鸞は関東での布教を始めていた。

 この頃、比叡山は、教学においては、天台本覚思想が広まっており、僧たちは、修行をおろそかにし、僧兵を組織して、園城寺(寺門派)や奈良の諸大寺との争いにあけくれ、妻帯し、金貸しにはげみ、密教化して加持祈祷ばかりを行っていた。1214年(健保2年)、道元は比叡山を下りて、園城寺の長吏公胤を訪ね、入宋を勧められた。その後、京都の建仁寺を訪ね、1217年から栄西の高弟の明全について学ぶことになった。1219年の承久の乱の混乱もあり、なかなか入宋の機会が訪れなかったが、ようやく、1223年(貞応2年)明全らと共に入宋した。

 一行は、3月に博多を出発し、4月初旬に、南宋の明州(寧波)に着いた。しかし、延暦寺の大乗戒しか持たなかった道元は、上陸を認められず、三ヶ月後にようやく中国の五山の天童寺に入った。なお、一緒に入宋した明全は、中国公認の東大寺の小乗戒を持っていた。

 この船に中国五山の阿育山利禅寺の老典座(寺の炊事係)が日本の椎茸を求めて訪れた時の会話を後に『典座教訓』に書き記した。それが大陸禅に触れた最初であった。まず、道元が最初に学んだのは、天童寺の無際了派である、彼は、当時の全盛を誇っていた大恵派を代表する人物であった。

 この時、道元は、新参者の扱いを受けたことに抗議して、すでに延暦寺の大乗戒を受けて何年もたつのでその年次にあった扱いをするように求めて、ついには認められたといわれている。その後、各地の寺を回って、修行を進め、天童山の如浄の下で、ついに悟りを開き、1227年(安貞元年)、嗣書その他をいただいて、帰国する。

 帰国した道元は、まず京都の建仁寺に身を寄せ、『普勧座禅儀』を著した。比叡山の衆徒は大集会を開いて、道元を追放することを決議した。その難をさけるため、深草極楽寺跡の安養院に移った。1233年(天福元年)、観音導利興聖寺を建てた。ここに臨済宗大恵派の大日派の一派が入門してくる。道元教団は活況をていするが、延暦寺からの圧迫はより強まった。1243年(寛元元年)、地頭の波多野義重の招きで、越前志比庄に移った。翌年、志比庄の大仏寺に移り、1246年(寛元4年)、大仏寺を永平寺と改名した。

 1247年(宝治元年)、執権北条時頼の招きで、鎌倉に行く。時頼らに禅を教え、大乗戒を与えるなどしたが、翌年永平寺に帰った。1253年(建長7年)7月、病が重くなった道元は、永平寺を懐弉に譲り、京都の信徒の宿で、8月28日、永眠した。

 京都深草時代から書きついできた教えは『正法眼蔵』として残された。

 道元の死後、三世を継いだ徹通義介と宝慶寺派の間で路線対立が生まれ、徹通義介が1272年(文永9年)加賀の大乗寺に移り、永平寺四世を宝慶寺派の義円が継ぐと、代々この系統の人が永平寺を継ぐようになった。この争いは「三代争論」と呼ばれている。その後、加賀大乗寺の一派は、大きく発展し、室町時代には、永平寺派と再統合した。

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日本の仏教についてのノート(9)

 日蓮の思想
 日蓮は、比叡山・高野山などでの教学研究の末に、「法華経」をあらゆる経典の中で最勝とした。そのことから、最澄の天台教学に原点回帰するという姿勢を取った。正像末の三時における法と行の区別を立てて、末法の正法を「法華経」から導き出した。「今末法に入って二百二十余年」(『曾谷入道等許御書』)であり、末法のはじめの500年の内に、釈迦仏(大覚仏)が、末法の正法の弘通を託した「地涌の菩薩」の上首(指導者)たる上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩が再誕するとしている。この「地涌の菩薩」は、「法華経」従地涌出品には、「身皆金色。三十二相。無量光明」と、如来の相をもっていると書かれている。すでに仏である菩薩は、釈迦如来の分身の諸仏だと説かれている。「地涌の菩薩の中の上首唱道・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし」(『諸法実相抄』)。

 「法華経」が説く「地涌の菩薩」「釈迦如来の分身仏」が、末法のおいてどこに現れるかということを、日蓮は、他のインドや中国の経文などに東(東北)の小国とあることなどから、日本であるとしている。日蓮を上行菩薩とするのは、日興門下の大石寺派であるが、日蓮自身は、「日蓮・末法に生まれて上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立ちて粗ひろめ、つくりあらはし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時・涌出し給う多宝仏・涌出品の時・出現し給ふ地涌の菩薩等を先作り顕はし奉る事、予が分斉にはいみじき事なり」(同)として、上行菩薩ではないと書いている。であれば、末法から500年のうちに、上行をはじめとする四菩薩は、すでに日本に現れたのだろうか? 日興の言うように、日蓮が上行菩薩だとしても、その他の三菩薩は現れたのか? 日蓮が書いたものからは、彼が、上行菩薩ら四菩薩が出現する末法入りから500年に入ったので、その露払いをするものと考えていたようである。 

 それから、日蓮の思想の特徴としては、現証を重視するということがある。末法入りの現証として、地震・飢饉・疫病・争い、などの五濁の世相や謗法の現れとして、「他国侵逼の難・自界叛逆の難」をあげる。

 そして、日蓮の「愛国心」である。それは、まず天照大神の開いたという神国日本という意識であり、それは、故郷の東条が、源頼朝によって、伊勢神宮の御厨となり、その地に天照大神が住むようになり、日本の中心となったと書いているように、郷土愛から「愛国心」が発展したというような感じである。その背景にあるのは、網野氏が指摘した平安末あたりからの、海の道の発達による各地間の交通によって、全国の情報が交錯したことによる空間意識の拡張であろう。そこには、全国を巡る職人・商人などの往来活動があったろう。しかし、日蓮の神国意識と「愛国心」は、謗法ゆえに諸天善神がこの国を離れてしまっており、その守護を失ってしまったという認識から、正法への帰依によって諸天善神を守護神として呼び戻すことによって、回復されるべきものなのであり、現状に対する根本からの否定の意識である。

 日蓮の神国意識は、天照大神をはじめとする太陽信仰を基礎にしているようで、始めて、故郷の海で、朝日に向かって、南無妙法蓮華経と唱えたという開宗宣言の逸話は、それを表しているようである。彼は、富士山を大日蓮華山と呼んで、本門の事の戒壇をもうけた寺を建てるように指示している。さらに、謗法ゆえの亡国という危機意識、蒙古による日本侵略の預言、等々に見られる「憂国」の想い、等々、日蓮には、石母田正氏がいう、中世における国民意識の成立の一端が見えるといえるのかもしれない。

 それは、一方では、金による圧迫から、続く、蒙古からの圧迫の中で、内部的にも、商業が発展し、地主であると同時に科挙による文人官僚でもある士大夫層による統治体制が、内部腐敗や武力の弱体化などによって、弱まっていたことを、知っていたからかもしれない。科挙は広く門戸が開かれていたために、一代で士大夫入りして地主となる者もあり、その逆のこともあったように、階層移動をすることができたという。日蓮は、宋に入っていないが、宋の現状についても、情報は得ていただろう。当時、儒教を元に朱子が朱子学を作り上げ、北方からの脅威の強まりのなかで、「愛国」的になっていた中で、「大義名分論」を主張して、宋の正統性を強調していた。入宋した道元は、宋の仏教界の堕落した姿に不満を抱いて、唐代の禅者に共感を寄せるようになった。

 国主=朝廷とする神国とする日蓮の考えの大本は、彼の郷土愛にあるように思われる。日蓮の文章にはたびたび故郷のことが出てくるし、また、先に引用したように、その生まれを誇る言葉も度々出てくるからである。日蓮の出自の身分の低いことをとやかくいい、難じる者もあったようで、それに対して他に並ぶものなき「法華経」の行者としての誇りを持って対していたようである。

 しかし、それは、あくまでも思想としては、やはり、信を基礎とし、それを基準にすえた上でのことであり、正法に帰依しない謗法にたいする現証としての「他国侵逼の難・自界叛逆の難」としての亡国への危機感なのである。実際の歴史は、執権北条時宗の下、1274年10月(文永11年)の文永の役と1275年(建治元年)の二度の蒙古の来襲を、御家人・武士の戦いで、退けた。その様子について、対馬・壱岐での蒙古軍の残虐行為などの記述が、日蓮の書に見られるが、『立正安国論』を用いなければ、やがて日本全体が同じような目にあうだろうというようなことを書いている。しかし、それも、後にはあまり言われなくなる。蒙古襲来の撃退という結果の評価については、述べていない。朝廷の命によって、調伏・儀式を行った神社や大寺院は、こぞって、それを自らの手柄と主張しあったという。

 御家人たちは、それまでに、御家人・武士たちの多くは、総領制下の分割相続によって貧窮していて、それに弘安・文永の役による負担によって、さらに貧窮の度を強めた。それに対して、幕府からの十分な恩賞がなかったことで、御家人たちの幕府に対する不満が強まる。小なりといえども、土地を分割相続した庶子たちは、独立した小世界を持ち、独立心を持つようになったことだろう。もちろんそれは、総領の指揮の下に、一族・郎党が従わねばならないものであった。女性への相続も行われた。このことが、日蓮が女人成仏を積極的に主張することの背景にあったのかもしれない。なお、日蓮は、神后皇后を天皇に数えている。しかしこうした土地の分割相続は、同時に、貧窮化を引き起こす。この頃、土地の売り買いは原則的に自由だったようだが、次第に、土地売り買いに制限がなされるようになり、分割相続から、やがて一子相続に変わっていく。

 日蓮は、「山川草木、悉皆有仏性」すなわち一切が心という唯心論の立場に立つ。「衆生の心けがれるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(『一生成仏抄』)。また、「凡夫即仏なり・仏即凡夫なり・一念三千我実成仏これなり」(『船守弥三郎許御書』)。人々が迷うことが衆生であり、悟ること、信によって心に迷いがないということが仏であり、それが本尊がすなわち心そのものとして映し合うということなのである。日蓮は、衆生としての迷いを脱し、信にいたる行としての南無妙法蓮華教の唱題によって、悟り・即身成仏があるとしたのである。この状態そのものが生死即涅槃の姿なのであり、この行を続けることが必要なのである。こうして日蓮は、天台本覚思想から完全に離れたのである。

 日蓮の手紙には、白米や油や着物などを寄贈されたことを記しているものが多くあって、延暦寺のように荘園領主化して、領地からの租・課役などによる生活とは無縁で、こうした食糧から日用品の細々したものまで、檀那衆の施しでまかなっていたことがわかる。
 
 日蓮没後、六老僧と呼ばれる高弟たちの中で、日興が、他の5人を、日蓮の教えに反したとして義絶する旨を記した文書を書いている。その中には、日蓮を天台宗の末流として、上行菩薩の再誕ではないと否定したという理由も挙げられている。日興は身延山を出て、新たに大石寺を建て、日蓮の正統を継ぐ者と主張する。その後、大きくは二つに分かれた日蓮宗は、明治維新後、明治政府の宗教管理政策によって、無理やり合併させられたが、後に、富士大石寺派は、日蓮正宗として分離する。

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日本の仏教についてのノート(8)

 日蓮の生涯
 日蓮は、1222年(貞応元年)、安房の国東条郷小湊(現在の千葉県鴨川市天津小湊町)の漁師の家に生まれた。そのことを日蓮は後に、自らはっきりと記している。「日蓮は安房の国・東条片海の石中の賤民が子なり」(『善無畏三蔵抄』)、「日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり」(『佐渡御勘気抄』)。ただ、網野氏の主張では、この中世前期までは、かかる海人―職人は、賤視されてはいなかったのかもしれない。ただ、彼は、自分が「法華経」で末法の法を依嘱される「地涌の菩薩」「凡夫」としての自覚を強調したかったのかもしれない。しかし、このような低い身分の自覚には、貴族や武士などの上層身分が主に信仰した天台宗・真言宗・浄土宗・臨済宗・南都仏教諸宗派に対する対抗心も込められていたとも思われる。

 また、「安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし、其の故は天照大神・跡を垂れ給へり」(『新尼御前御返事』)と語っていることは、この頃、東国のこのあたりが、伊勢神社との関係を深めていたことを言っているのかもしれない。この頃、伊勢神宮の御厨(神領)が、12世紀に東国に急激に増えるということがあったのと関係があるのであろう。1181年(治承5年)右将軍源頼朝によって、伊豆国の走湯山五堂燈油料船50艘の東国の自由往来を保証されている。日蓮は、右将軍が、天照大神を東条に移したと書いているのは、このことと関係があるのかも知れない。網野氏は、石井進氏の「中世都市鎌倉の研究」で、『日蓮遺文』から、「筑紫―鎌倉―陸奥」という海路の重要性を強調していることを指摘して、活発な海の道とそれにのって海民や職人などが活躍していたことを明らかにしている(いずれも、網野氏『日本中世の民衆像』による)。

 12歳のとき、彼は、地元の天台宗の清澄寺へ入る。16歳前後のとき出家得度し、「是生房蓮長」という天台僧になった。その後、鎌倉での2年の修学をへて、18歳の時、比叡山延暦寺に入った。さらに、高野山その他の諸寺で修行を重ねた。この修学によって、「法華経」が最勝最高の経典だという結論に達し、1253年(建長5年)清澄寺で、立宗を宣言し、親族や清澄寺関係者などの折伏を行ったが、地頭の東条景信によって追放され、鎌倉に入った。

  1255年(建長7年)『念仏無間地獄鈔』を書いて、念仏宗を攻撃した。例えば、後堀河院の嘉禄3年に法然の選択集などを焚書にし、「法然房が墓所をば犬神人に仰せ付けて之を掘り出して鴨河に流され」たことを記して想起させた上で、「院旨・院宣・関白殿下の御教書を五畿・七道に成し下されて、六十六箇国に念仏の行者・一日片時もなく之を置く可からず対馬の島に追い遣る可きの旨諸国の国司に仰せ付けられ畢んぬ」と院の命令によって念仏者を弾圧し、ことごとく対馬に流すよう求めている。

 そして、1260年(文応元年7月)、念仏宗など他宗を排撃し、日蓮の主張する正法に帰依しなければ、「他国侵逼の難・自界叛逆の難」に見舞われるなどと主張した『立正安国論』を北条時頼に送るが、採用されなかった。北条時頼は、禅宗に帰依し、宋からも禅僧を招いたり、保護した。1247年(宝治元年)、道元は、時頼の求めに応じて、鎌倉に入って彼に禅を指導した。

 この頃、モンゴル帝国の南下などの情報を、幕府も、聞いていたに違いない。1127年、宋は、金によって滅ぼされ、江南に逃れた部分が新たに宋を名乗る(南宋)が、弱体化していた。さらに、1234年、金は元に滅ぼされ、1259年には高麗が元に服属させられる。1279年の南宋の滅亡は、もうすぐであった。

 日蓮の幕府に対する働きかけは、像法の鎮護国家の比叡山延暦寺の天台宗に対して、末法の日蓮宗が鎮護国家の法となるということから、繰り返された。日蓮の「王仏冥合」思想は、幕府の動勢や歴史・蒙古の動向など海外情勢などの現実的な関心につながっているようである。時期が重なる親鸞や道元は、政治などには関心を示さず、ひたすら教行に没頭していたのとは、違うのである。日蓮の真言・天台密教批判も、それらの加持祈祷・調伏も効果がなかったとして、それを法華本門による調伏ではなかったからだというような言い方もしている。だから、『立正安国論』では、法華本門による調伏を幕府に勧めているのである。

 こうした国際情勢は、幕府や御家人や武士や僧には伝わっていたはずであり、日蓮は、それを念仏宗・禅宗・真言宗などの謗法によるものとして、法華本門の正法に帰依することを、幕府に迫ったのである。しかし、それは幕府に受け入れられず、その後、念仏宗信徒らによる鎌倉の草庵の襲撃1260年(文応元年)の「松葉ヶ谷法難」にあい、翌年(弘長元年)には、幕府によって伊豆の伊東に流される(「伊豆法難」)。1264年(文永元年)、赦免されてから住んだ小湊で、地頭らに襲撃され、負傷する(「小松原法難」)。さらに、佐渡に流罪になる途中で、首を切られそうになる(「龍口法難」)。

 佐渡流罪の間に、1273年(文永10年)『観心本尊抄』を書き、大曼陀羅御本尊を書いたと言われる。1274年(文永11年)赦免され、鎌倉に返った後、地頭の波木井実長の寄進した身延山に移った。1281年(弘安4年)身延山久遠寺を創建。1282年(弘安5年)、常陸に湯治に向かう途中、10月13日、武蔵国池上の波木井氏の屋敷で60歳で入滅する。

 その後、六老僧と呼ばれる6人の高弟が順番で身延山久遠寺の墓所を守ったが、やがて、日興が、他の5人や波木井実長らを、日蓮の正しい教えから離れ、謗法を重ねるようになったと非難して、身延を去り、富士大石寺に移って、大石寺派を開いた。日蓮宗の最初の信徒は、東国下級武士が多かったようだ。

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日本の仏教についてのノート(7)

 天台本覚思想
 鎌倉新仏教の開祖、親鸞、道元、日蓮、はいずれも天台宗比叡山延暦寺で学習・修行を行っている。彼らの学んだ頃の天台教学は、平安後期から発達した密教化とも関係し、中世から天台宗の基本思想となった天台本覚思想であった。これは、「山川草木悉皆成仏(悉皆有仏性)」に示されているような、あらゆるものに仏性が宿っており、それは「煩悩即菩提」「生死即涅槃」として、今あるがままの姿が、成仏の姿だというような思想で、結局、今そのままの姿がすなわち成仏で本覚(悟り)しているなら、修行などは一切いらないということになり、現実そのものが仏の世界そのものなので、現実をそのまま肯定するということになる。それとともに、体験・経験が悟りそのもののとなるから、師のそれを秘伝として口授することが、法統の伝承ということになる(口伝相承)。

 鈴木大拙は『禅と日本文化』(岩波新書)の中で、「一即多」「空即是色、色即是空」というような『即非の論理』について書いているが、それは、天台本覚思想への批判を表しているものといえよう。彼は、「般若経に『諸心皆為非心、是名為心』(taccittam accittam yaccittam)というので、要約して『即非の論理』としておく。つまり『心は心に非らざるが故に心なり』で、否定がすなわち肯定で、否定と肯定とは相互に『非』の立場にある、絶対に相向い立っているが、この『非』の立場が、ただちに『即』である。自分はこれを禅の論理というのである。『即非』はまた『無分別の分別』、『無意識の意識』でもある」と述べている。これは、天台本格思想への批判になっている。否定即肯定であるとしても、それらが両極として相互に絶対的に「非」の立場にあるという絶対的矛盾が「即」なのである。これが「絶対矛盾の自己同一」という西田幾多郎の立場と同じなのは容易に見て取れる。「即」は運動であり、転化であるということになれば、弁証法である。道元は、禅の境地をそのようなものとして語っているし、親鸞も、それを歓喜として語っている。

 なお、鈴木大拙は、この本の中で、「一即多」が、汎神論というのは誤解である、なぜなら、汎神論は万物に神性が宿るというが、それは「空」として退けられるからであると言っている。否定を含むところが汎神論とは違うというのである。しかし、汎神論は、スピノザのように、無神論への転化を含んでいた。それらは自然信仰を含みつつ、それを止揚したものである。仏教は汎神論と同じではないが、それを含むのである。

 天台本覚思想は、その後、天台宗の世俗化を正当化するものとなった。というよりも、荘園領主化した延暦寺の現実が、そういう思想を生みだしたのであり、それに反発して山を下りた親鸞・日蓮・道元らが、天台本覚思想を批判して、新たな仏教を起こしていくのである。天台本覚思想の行の否定に対して、親鸞における他力本願の易行たる称名念仏、日蓮の仏性を開く南無妙法蓮華教の唱題の行、道元の悟り即座禅の行、等々をそれぞれ立てたのである。そうはいっても、比叡山で学問・修行した三者とも、なんらかの形で、天台本覚思想を継承しているところもある。その上で、密教化した本覚思想に対しては、きびしく批判しているのである。

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日本の仏教についてのノート(6)

 親鸞の思想
 親鸞は、幕府の念仏禁令と弾圧によって、僧籍を剥奪されて、越後国府に流され、したがって、公式には一生、在家の仏教者であった。空海は、正式の戒を授からないまま、唐に渡って、真言宗の法嗣を得たが、その後、鎮護国家の宗派として朝廷の公認をも得た。それに対して、親鸞は、自らの寺を持たないまま、亡くなった。その後、大谷の霊廟を末娘の覚信尼が守り、二代如信は、関東から奥州で布教してそのまま亡くなり、三代覚如は、ようやく大谷の地に本願寺を建立するものの、弟子たちの起こした高田専修寺派や仏光寺派の勢力の方が、信者を増やしていくのである。

 親鸞は、藤原一族の日野氏の生まれだとする説があるが、この点はまだはっきりしていないようである。たとえそうだとしても、没落貴族であったのではないだろうか。当時、比叡山で堂僧というのは地位が低かったようであるし、貧しい家の子供が口減らしのために寺に預けられるということもあったようである。今でも、チベット仏教を神秘化して、子供たちが修行する姿を純真無垢であるかのように持ち上げるような狭い見方があるが、貧困から口減らしで子供が寺に預けられることが多いのであり、だいたいが、児童労働といっていいような雑用の類を修行と称してやらされているように見える。

 親鸞の思想については、戦前から様々な知識人がいろいろなことを書いてきた。例えば、倉田百三の戯曲『出家とその弟子』や鈴木大拙の『日本的霊性』等々がある。倉田の親鸞観では、彼は一種のヒューマニストであり、その思想の核心は念仏による愛の成就であるとしている。彼は、この場合の「愛」を、「信」と同義のように語っていて、現在の価値観を過去に当てはめるという過ちを犯している。

 やはり、親鸞の思想は、弥陀の本願、かの如来の名をあまねく広めるまで、成仏しないという誓願を立て、大きな慈悲心を起こして、衆生を救うという言葉を、信じることであり、ただただ称名念仏によって、他力による往生を信じるという「信」の思想である。その「信」は、あくまでも阿弥陀如来と親鸞個人との間に成り立つ「信」であって、血縁などを離れた「信」であるところが、それまでの仏教とも神道とも異なる独自なところである。
 
 親鸞の「親鸞は、父母の孝養のためとて、一辺にても念仏まうしたること、いまださふらはず」「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」という『歎異抄』における言葉は、そのことを示している。親鸞はその理由を前者については「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれも順次生に佛になりてたすけさふらふべきなり」、後者については、「わがはからひにて、ひとに念佛をまさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづかりて念佛まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはけたる荒涼のことなり」とあくまで念仏は、他力であって、「如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんとまうすにや、かへすがえすもあるべからざること」なのである。

 それでは、その如来からたまわる信心は、どうしたらえられるのか? それは南無阿弥陀仏というその如来の弥名を聞くことによってである。十方あまねくその名が満ちることによって、衆生がその名を聞くのであり、それを通じて、信心が与えられるのである。

 そして、弥陀の名号を唱えるだけの行を易行、学問などをする行を難行として、一切衆生を救うということは、難行では救えない「われらがごとく、下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じさふらへば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法」であるからである。

 親鸞は、他力の立場から、「煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと、この条、もてのほかのことにさふらふ。即身成佛は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり」と、真言宗・法華宗を批判している。煩悩から逃れられないこの世で、悟りを開き、成仏することは不可能である。なぜなら、それなら、成仏の印として、三十二相、八十随形好を具足できなければならない。それは煩悩のあるこの世では不可能である。この世ではなく、弥陀の本願にすがり、信じて、名号を唱え、浄土に生まれ変わる他はないというのである。

  極楽往生を観想し、それを美しく描いて、そこへの死後の転生を願ったのが、平安末までの浄土宗の教えであった。そしてその対極に地獄の恐怖を描いたのである。親鸞はそれを否定する。

 親鸞は、極楽往生を願って、称名念仏をしたからといって、浄土に生まれ変われるか地獄に落ちるかは、わからないのであり、「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念佛して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」という「信」に生き、謝恩報謝し、歓喜する他にないというのである。「とても地獄は一定すみかぞかし」なのである。しかもそれは、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり」という弥陀と親鸞一人が対する関係においての「信」なのである。このような「親鸞一人」という個我意識あるいは個の自覚を、大地性を持つ日本的霊性の自覚と呼んだのは、『日本的霊性』*の鈴木大拙であった。

 *この本は、昭和19年(1944年)の戦時中に発表された。解説によると、鈴木大拙は開戦当初より敗戦の必至なることを信じて、敗戦後の日本の精神文化のあり方を考えて、「日本的霊性」なる概念を初めて用いたのだという。この本は、神道のたんなる肯定に止まる幼児性、大地性のない貴族文化の「もののあはれ」の脆弱性、仮名文字文化の弱さなどに対して、主に、浄土信仰の霊性として大地性・農民性・武士性・地方性・田舎性・生活性・現実否定をくぐった上での肯定性などとの関係を強調して対置した。これは無謀な戦争に導いた国家神道への批判であり、その敗北を見越した新時代への洞察の書を目指したものなのだろう。その際に、鈴木大拙は、地方の農業の再建からはじめなければならないと考えたのだろう。鈴木は、霊性という基準として、一般に親鸞の主著といわれる『教行信証』ではなく、『歎異抄』や和讃の方を、高く評価している。

 上根の仏教諸派は、それが可能な貴族などの上層に主に支持される旧仏教派と重なり、それに対して彼は、下根の易行を凡夫という下層の人々の称名念仏を真実の法として対置している。いわば庶民こそが真実の法、称名念仏によって救われるのであり、それ以外の法を説く諸仏教宗派とそれの主な帰依者である貴族や上層の人々は、救われないというのである。

 親鸞の思想には、「親鸞一人」という個我としての自覚が現れており、しかも、ご恩と奉公という武士的主従関係に似たものが現れている。しかもそれは、「親鸞は弟子一人ももたず」という言葉に表れているように、他力の信を基準に、あらゆる人々が「父母兄弟」であるという平等観、氏族的貴族社会の血縁原理の否定があり、信のみを結合原理とする信者の集団としての僧伽の思想、等々が見られる。それが信を基準にした実子の善鸞との義絶(親子関係の断絶・勘当)にあらわれたものであろう。

 親鸞の教えの信者は、長いあいだ増えなかったのであり、鎌倉期は埋もれた存在であった。ご恩ー奉公の関係は、まだ一般的な社会諸関係としては完全に広まってはいなかったのである。公領荘園制の中世から封建制に移行するにはさらに約400年の歴史をへなければならなかったのである。それから、「親鸞一人」という「一人」を「一人」たらしめる社会関係が十分な発展を遂げるまでにはまだ歴史的変化の過程が長く続いたのである。それは、親鸞の後継者たちにとっては、信を軸にした講を組織化して本願寺教団の発展の基礎を築いた室町期の八代蓮如の時代まで待たなければならなかったのである。

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日本の仏教についてのノート(5)

  親鸞の生涯
 鎌倉仏教の祖の一人である親鸞は、1173年(承安3年)京都の日野で生まれたとされる。1181年(治承5年)9歳の時、慈円のもとで出家の後、比叡山延暦寺で修行した。

 1201年(建仁元年)、29歳のとき、京都の六角堂で救世観音に祈念し、95日目の暁に、聖徳太子(救世観音)の夢告があり、それから、法然門下となったという。

 1207年(建永2年)、興福寺の訴えにより、専修念仏の停止、住蓮・安楽など4名が死罪、法然・親鸞ら8名が流罪となった。法然は土佐に、親鸞は僧籍を剥奪され、越後に流された。越後で恵信尼との間に子をもうけている。1211年(建暦元年)、法然とともに罪をゆるされた。法然は翌年、京都で80歳で亡くなる。親鸞は、京都に帰らず越後にとどまった。

 1214年(建保2年)、親鸞は、常陸へ向かい関東での布教活動を展開した。この頃、親鸞は、寺などの目立つ本拠を構えずに、在家の信徒の家などを転々としながら、布教を続けたという。この間、常陸や下野などの直弟子24人が開山した。20年あまり関東で布教した後、62歳頃、京都に戻った。1247年(寛元5年)頃、関東時代に草稿をしたためていた『教行信証』完成した。その後、『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を完成した。

 親鸞が帰京してのちの関東では、信者の動揺が起きていた。そこで親鸞は息子の善鸞を説得のため東国に派遣した。しかし善鸞は、かえって、信徒たちとの間の対立を拡大し、邪説を説くようにまでなったと言われている。そのため、1256年、親鸞は、手紙で、善鸞と義絶した。

 1262年(弘長2年)、親鸞は、弟の尋有僧都の住坊「善法坊」において90歳で亡くなった。臨終は、尋有や末娘覚信尼が見とり、鳥辺山南辺で火葬され、遺骨は鳥辺野の「大谷」に納められた。

 その後、法を嗣ぐ弟子たちが高田専修寺派や仏光寺派を組織して、親鸞の教えを布教していった。それに対して、この京都大谷の廟所あたりに曾孫の覚如によって本願寺が建てられ、覚如は本願寺3世と名乗ったが、信者も少なく、長く、貧窮したままであった。室町時代に本願寺8世の蓮如によって、講が組織されるようになってから、信者が増えていき、後の本願寺大教団が誕生するのである。

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日本の仏教についてのノート(4)

 平安末から鎌倉初期その他
 天台系の仏教者の間では、末法の仏教はどうあるべきかということが大問題となるが、その時期はちょうど貴族の没落の過程にあった。それに対して、まず、『往生要集』を著した源信、空也、そして法然(1133~1212)の浄土宗が、末法の救済策として、阿弥陀仏を本尊とし、称名念仏の教えを広める。それに対して、旧仏教からの弾圧が起きる。しかし興福寺内から、浄土宗に帰依し、その教えを広める寺院が出るなど、浄土宗は、都市部の下級貴族などから広まりはじめ、やがて地方の武士などの間にも信者を拡大していく。

 中央政治の世界では、摂関家・天皇・院・武士の三者が二つに分かれて、争うようになり、1156年に保元の乱と1159年の平治の乱が起こり、源氏が敗れ、平氏が勝利して、栄華を極めた。この時、平氏が基礎としたのは在地領主を地頭とする在地武士団であった。それを受け継いで、守護地頭制として全国的に定着せしめたのが、鎌倉幕府であった。しかし、まず平氏が、中央貴族化して、院政と対立し、後白河上皇の皇子の比人王が平家追討の令旨を源氏に発し、それに応じて全国で源氏が平氏に対する戦を起こした。勝利した源頼朝は、征夷大将軍となって、鎌倉幕府を開くが、その後、朝廷・院政との確執が続く。

 1202年頃から、後鳥羽上皇の院政が強まり、鎌倉幕府に対する対決姿勢を強めた。源頼朝死後、実朝暗殺、公暁の北条氏による謀殺によって、源氏の正統は絶えた。1221年、後鳥羽上皇は、執権北条義時追討の院宣を下し、承久の乱が勃発する。尼将軍と呼ばれた北条政子は、御家人たちに、頼朝の恩に報いるべしと切々と説き、京都進撃に向かわせ、後鳥羽上皇の軍勢をうち破った。後鳥羽上皇は、隠岐、順徳上皇は、佐渡へ、土御門上皇は土佐へ、流された。再発防止策として、京都に六波羅探題がつくられた。この時、北条政子は、御家人・武家の頭領としての尼将軍そのものであったといえる。

 この頃、戦乱はもちろん、天変地異の続発、大飢饉と疫病の流行、によって、人々は困窮し、人身売買が行われたりした。京都でも市中に餓死者の死体が累々と重なり、死臭が満ちたという。まさに、末法の濁世を実感させる悲惨な様相であったのである。

 奈良の大寺院や真言宗・天台宗の大寺院は、荘園の利権などをめぐって、対立し、僧兵を備えて、武力衝突を繰り返した。それは延暦寺のように、寺門派(園城寺)対山門派(延暦寺)の対立のような内部対立も絡んだ複雑なものであった。禁を犯して、妻帯したり金貸し業にはげむ僧が増殖し、寺の上層をしめる貴族出身の僧たちに、それを解決する力はなかった。また、寺領内部での領主の台頭に対して、預所を設置して、管理を強めるようになり、在地領主層への抑圧を強めたが、それに力を取られて、勢力が衰える寺院もあった。領主層は、新仏教派に帰依して、宗教的にも旧仏教派と対立するようになる。

 源頼朝は、奈良の大寺院に対して、融和的態度を取った。源平の合戦で、平重衡によって焼かれた奈良東大寺の修復にも便宜を図っている。しかし、御家人の間では、臨済宗や念仏宗・日蓮宗などの新興仏教に帰依する者が出て、幕府も臨済宗を保護するようになった。いわゆる鎌倉五山をはじめ、臨済宗の寺院を建立した。幕府の後ろ盾を得た臨済宗系の寺院は、荘園領主と化す。浄土宗も、旧仏教や幕府の禁圧措置を受けたりするが、後には、幕府の保護を受けるようになる。

 それに対して、浄土真宗や日蓮宗や曹洞宗は、旧仏教派から排撃され、親鸞・日蓮は流刑にされ、道元は、京都深草の道場から越前の永平寺に下りながら、布教していくのである。しかし、鎌倉時代には、これらの宗派の勢力は、それほど多くなく、荘園もないので、それぞれ領主層や地頭などの寄進や信者からの寄付・寄進などで支えられつつ細々と教えを伝えていったのである。

 鎌倉仏教の祖たちは、腐敗堕落した比叡山から下りて、新仏教の布教を行うのである。

 平清盛が、日宋貿易を再開し、それによって、入宋して、当時、宋で広まっていた禅宗を学んだ天台僧の一人が明庵栄西(1141~1215)であった。宋で黄竜派の禅を学んだ栄西は、帰朝後、源頼家が京都六波羅に建立した建仁2年(1202年)建仁寺の開山に迎えられた。建仁寺は、延暦寺の末寺で、天台・真言・禅の三宗兼学であった。1216年比叡山を下りた道元は、建仁寺で、栄西の高弟の明全について学び、1223年に明全と共に念願の入宋を果たす。

 栄西は、天台宗の中に禅宗を持ち込み広めることで、天台宗の内部改革を進めると考えたと言われている。宋からの帰朝後まずは九州博多で禅宗を広めた。その後、延暦寺などの旧仏教側が朝廷を動かして1194年に禅宗を禁止したことから、鎌倉幕府に近づき、まず鎌倉に源頼家・北条政子に寿福寺を建立させ、続いて京都に建仁寺を建立させて、開山となって、布教の基礎を築いた。後に、法師号を幕府に願い出て、生前の授与は前例がないとして却下されると非難の声が起きた。代わりに、幕府は、権の僧正を与えた。終生、天台僧としてあり、禅宗臨済宗という独立一派を建てなかった。

 建仁寺は、1265年に宋僧蘭渓道隆が鎌倉の建長寺から移ってきてから、禅寺となったのものである。建仁寺は、多数の荘園を持ち、地頭職に任じられるなど、幕府と結びついて、後に京都五山の一角を占める臨済宗の大寺院として栄えるのである。なお、栄西は、宋から茶を持ち帰り、初めて、茶の栽培と喫茶の普及を行った。

 最澄没後、比叡山では、いちじるしく密教化が進んだ。そして、律令制の公地公民制が形骸化する中で、特権を認められた南都の仏教宗派や天台宗は、荘園領主としての経営を全国に展開し、武装しつつ、権益を伸ばしていき、朝廷に対して実力を背景に政治介入を強めていき、世俗勢力と化していった。真言・天台の密教による加持祈祷中心の仏教に対して、末法思想から、旧仏教派の小乗主義や仏塔・読経・戒律主義・荒行・密教儀式などによる解脱の不可能なことを導き、「法華経」にある一切衆生・「地涌の菩薩」の解脱の法を、日蓮は、南無妙法蓮華経の題目に、浄土宗浄土真宗では、南無阿弥陀仏の称名念仏に、道元は、末法思想を方便として採用せず、一向座禅による悟りの境地である「身心脱落」による成仏を説いた。
 
 旧仏教派は、あくまで国家鎮護、氏族制を基礎とする貴族社会の仏教であり、古代的身分制の上層集団に適合した仏教であった。信仰の単位は、氏であり、その集合体である朝廷であり律令国家である。そこには個々人としての選択としての信仰というものは基本的にはあり得なかった。それが、平安末には、氏族的結合が弛緩し、解体する中から、都市の没落貴族に都市民化・個人化が生じる。他方で、武家の、ご恩と奉公の、個対個の主従関係という結合形態が生まれてくる。氏の長者の下に、血縁を基礎に結びついてきた同族的結合が弱まり、所領安堵を媒介とする地縁的結合が強まるのである。源頼朝が、異母弟の義経の院政・貴族政治への過度の接近を警戒し、血縁の義経よりも、北条氏などの関東御家人を重んじ、ついには義経を滅ぼしたのも、古代貴族的結合原理ではなく、新たな所領の利害を通じた地縁的結合関係に、鎌倉新政権の基礎を置いていた現れである。もっとも、頼朝は、旧勢力に妥協しがちであったが。

 荘園領主化した貴族政治を打倒して、守護地頭制をしいて、武家の支配下に置いていった源頼朝も、仏教勢力に対して妥協した。南都寺院の中世の荘園経営の歴史を研究し、在地領主層=武士団の形成との関連を追及したのが石母田正の有名な『中世的世界の形成』である。それに対して、アナール学派の影響もある網野善彦などは、海人、芸能民、商人、職人などの農民以外の中世世界と寺院の関わりを押し出した。それに、国民史学運動を提唱した石母田の内発性重視の姿勢に対して、海外との交流関係をも重視する歴史研究も近年では盛んである。例えば、網野は、中世前期鎌倉期に、宋人=唐人が次々と渡来して、職人として、石工、商人などとして全国を渡り歩いて活動していたことを指摘している。かれらは、例えば、平重衡によって焼失した東大寺の再建のために、渡ってきた陳和卿が宋人の鋳物師をともなっていた。その他、寺社や貴族・皇族に奉仕する職人として唐人が集団として移住して活動していたのである。

 渡来人が、特殊技能をもって、天皇や貴族に使えることは、秦氏をはじめ古代より見られるもので、かれらは、耕作を認められ、普段は本拠地において農業を営みながら、宮廷に仕えていたといわれている。

 それに対して、中世前期の渡来人の職人集団は、税・賦役などの免除とともに、諸国往来の自由を認められ、全国を渡り歩いて商売や仕事に務めたようで、こちらをほぼ専業としていたようである。

 網野氏は、塚本史氏が15~6世紀の五島列島、済州島、舟山列島を包括する「倭寇支配地域」の存在を指摘した研究などを紹介しつつ、当時の海の民の朝鮮半島から中国大陸にかけての交流の広がりも相当あったと指摘しているが、それ以前、中世前期においても、日宋貿易や唐人の渡来や高麗からの仏僧の渡来や訪問などがあった。その際に、従来の北九州からのルートだけでではなく、越前などの日本海ルートでの行き来もかなりあったようである。渡来ばかりではなく逆に朝鮮半島や中国大陸に移住する日本人もあった。

 時代は下りるが、それを示しているのが、現在NHKで放送されている韓国ドラマ『チャングムの誓い』の中宗の時代の1510年に、対馬の宋氏日本人居留民4万5千人が反乱を起こした三浦の乱が起きているように、かなりの数の日本人が朝鮮半島に住んでいた。逆に、日本列島にも、唐人をはじめとする異民族が集団で暮らしていたことは明らかである。それから、渤海(7世紀末から926年)との交流が以外に大きかったことが、この間あきらかになっている。

 それに対して前掲石母田の著作に出てくる寺奴は、あくまで、寺院の修理のための森林伐採などで奉仕するために朝廷から認められた寺院の奉公人・寺奴であって、それが生計のために田畑を耕作しているのである。氏が研究した東大寺の理屈では、中世においても、あくまでも古代律令制の身分制が貫徹されているのであり、それを根拠に、寺奴の開発による新田は当然、東大寺の不輸不入の特権を与えられた寺領として荘園に組み入れられるべきものとされたのである。このような古代的なものが、中世において、長く残存した原因を、石母田氏は、長きにわたる寺家進止の寺奴としての習性を自己変革しえなかったという精神的要因に求めている。それによって、本来は在地として領民の利害を広く代表して古代的論理をもって支配する東大寺に対して土一揆的に対決すべき地侍が、「悪党」という形態しか持ち得なかったというのである。

 このような中世における古代的なものの残存については網野善彦氏も強調しており、その基礎を村落共同体の諸関係に見ている。この頃、村落共同体の信仰の中心は神社であったと氏は指摘している。ただ信仰としては、三輪山信仰や沖ノ島の岩信仰の跡から、自然信仰が、7世紀と見られる神社の創建以前の信仰だったようである。また、氏神が同族団体の信仰対象となっていた時代から、地縁的団体の信仰対象へ変化していった。旧仏教は、国家鎮護の朝廷や貴族向けの加持祈祷などを行うもので、それ以外の人々には信仰されてはいなかった。そこに本格的に布教していったのは、鎌倉新仏教であった。

 なお、仏教における「一切衆生、悉有仏性」は、衆生は有情・無情を含むので、結局、「山川草木、悉皆成仏」、すなわち生物・無生物を含む一切の世界が仏性であるという一種の汎神論でもあり、その点で、自然信仰との共通性を持っている。

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日本の仏教についてのノート(3)

 鎌倉仏教

 平安末期
 日本では1052年(永承7年)に末法時代に入ったという考えが有力となった*1。この年、藤原摂関政治の時代の黄金期を築いた関白藤原道長の子の関白藤原頼道の建てた宇治平等院は、末法の教えとされた浄土信仰の寺である。当初は、密教の本尊大日如来を安置していたが、後に阿弥陀堂(鳳凰堂)がつくられ、本尊に阿弥陀如来を安置した。鳳凰堂の壁面には、西方極楽浄土から死者を多くの眷属を従えて迎えに来る弥陀来迎図が描かれた。

 *1余談だが、現在、釈迦の生きていた時代は、だいたい紀元前5世紀と言われており、日本式に正像末の期間を計算すると、おおよそ1500年あたりが、末法に入る時期となる。この頃日本では、室町時代から戦国時代であって、戦乱が続く混迷した時代であり、末法にふさわしい五濁悪世といえるかもかもしれない。

 藤原摂関体制の経済的基盤をなしていたのは、不輸不入権*2を求めて、中央貴族とりわけ藤原氏に土地の寄進が相次いだことによる寄進系荘園である。この頃は、藤原氏をはじめとする中央有力貴族や有力寺社の寄進系荘園が拡大し、公領と荘園が並立する時代だった。それに対して、律令制を回復させるためとして、たびたび荘園整理令が出されるが、藤原氏には、それによって、荘園寄進が集中するようなった。その力で、藤原氏は、他氏の有力貴族をけ落としていったのである。藤原氏の官位・要職・寄進系荘園の独占が進み、藤原専制体制ができあがると、当然、それにつれて、藤原氏の氏寺である奈良興福寺の勢力も増大した。

 *2不輸は、免税権。不入は、国衙の派遣する検田使などの立ち入りを拒否できる権利。

 かくして橘氏などの有力貴族が没落し、藤原氏の庇護を受けるか、都市民へ転化するか、地方へ転出していった。石母田正氏は、こうした貴族の没落、とりわけ下級貴族の没落が、かれらを個人化し、個人の内面的救済に相応した浄土信仰への帰依をもたらしたものと見ている。成仏に貴賤・身分・地位・男女・大人子供・悪人を問わない平等観は、「法華経」に説かれているところであるが、浄土信仰においては、称名念仏のみが、西方極楽浄土への輪廻転生の手段であり、この世での阿弥陀如来の庇護を受ける道であった。それ以外のことは、末法においては、成仏にはなんの関係もないのである。ただ一人一人が、念仏を唱えることが、末法の救いの道とされた。そこには、石母田氏が指摘するように、すでに没落して、他の都市民と変わりのない生活に落ちた没落貴族のこの世への無常観や平等観と相応するものがあったといえよう。氏は、それが、『平家物語』の中に流れているというのである。石母田氏は、名著『中世的世界の形成』に書いている。

 「浄土信仰の本質は、個々人の煩悩と罪悪の自覚を基礎とする体験的反省的な点にあるが、かかる体験と反省の契機となったものは平安京の現実に外ならなかったと思う。浄土教はいうまでもなく現実を五濁の悪世と理解する末法思想に基づいているが、その場合体験的に理解された現実とは具体的には都市的現実であった。・・・空也が市屋或いは四条の辻で直接庶民を対象として布教し、「市聖」と呼ばれたと伝えられるのも、都市との切離し得ない連関を示すものであるし、法然が生涯都市を離れなかったことも想起しなければならぬ。自己を一切衆生とともに罪深く頑魯なものと反省するその無差別性は、勿論教義の内容から理解されなければならないが、しかしあらゆる階級と生業の者が聚り、古い伝統と出自がその根拠を喪う都市という場においてもっとも生々と体験されることも事実であろう。浄土宗が旧仏教の側から伝統的な神祇に対する崇敬に欠けることを痛烈に非難されたことも、浄土教の都市的生活を衝いたものと見られるのであって、集団の守護神に対する信仰の喪失こそ平安時代の都市人の特質であった。・・・これらの新しいものに共通するものは、古い貴族的秩序から解体されようとしている個人の反省と内面化であり、また往生思想が身分的差別を無視する点に見られる如く貴族的世界観の否定である。それは古代的秩序がもはや貴族にとっても絶対的なものではなくなったことが意識されたことを示すものである。還言すれば貴族社会内部における自己批判の進行であるが、その主体となったものは上層の宮廷貴族ではなくして下級貴族出身の知識人であった」。

 この古代律令制の解体と中世への転換期において、一方では下級没落貴族の都市民化・個人化が起き、地方において領主制の発展の中から、古代的村落秩序から自立した個人としての武士が育ってくることによって、個人を主体とする国民が広く誕生してきたと石母田氏は言う。この国民意識が、中世文学の基調をなすようになるというのである。少々引っかかるところなのだが、このへんについては、機会があれば検討することにしたい。

 ただ、浄土宗をはじめとしてその後に誕生する新仏教宗派が、新興勢力によって支持されたという氏の指摘は重要で、中世を通じて、旧仏教派と新仏教派の対立は、荘園をめぐる武士と大寺社の寺社領をめぐる利害争いが繰り返される中で、例えば加賀の一向一揆のように、大きな意味を持つのである。

 後三条天皇は、1069年に延久の荘園整理令を発し、荘園整理事務処理するための記録荘園券契所を設置し、摂関家領に対しても、厳重な審査が行われた。この荘園整理事務の中心的役割を果たしていた院に対する寄進が増え、院政の経済的基盤となった。院領の荘園が増加して、さらに寄進による荘園制が平安末に、最盛期を迎えるのである。それによって、寺領が拡大し、寺院が大荘園領主となったことはいうまでもない。それに対して、在地の農民層の中から、武士が登場し、その武士団の総領を巡る争いの激化、武家同士の源平の争い、平氏の勝利と没落をへて、源頼朝による鎌倉幕府が成立し、守護地頭の設置とそれらによる荘園の侵略をめぐる対立が激化する中世に入るのである。

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日本の仏教についてのノート(2)

 平安仏教

 称徳天皇*1没後、藤原氏の手で、天智天皇の孫の白壁王が光仁天皇として即位し、次に、皇太子他戸親王の異母弟の桓武天皇は、陰謀事件によって廃された他戸親王に代わって皇太子となり、781年に即位する。生母は、『続日本紀』によれば、高野新笠(たかののにいかさ)で、百済系渡来人である。なお、京都の地に遷都した理由の一つには、渡来系の秦氏の根拠地であり、その経済的技術的支援があったからだという説もある。

 *1称徳天皇(淳仁天皇に皇位を譲って上皇になり、後に再び天皇となった)については、井上光貞氏の女帝論で、例外として扱っているが、この場合は、聖武天皇の娘が即位する直系で皇位が継承されたのである。その後、天武系から、天智天皇の孫の光仁天皇から天智系に皇統が移った。そもそも天智天皇と天武天皇は実の兄弟だというのは怪しいとする説がある。

 桓武天皇は、奈良を捨てて、長岡京建設をへて、新たに京都に平安京を建設し、入唐し、天台山などで天台宗などを修学した最澄を重んじ、平安京の鬼門に当たる比叡山延暦寺を開かせ、鎮護国家の寺とする。ここに日本の天台宗が開かれるのであるが、最澄は、法華経を根本経典としてに座禅・念仏・密教の兼学道場とした。比叡山延暦寺も、南都大寺同様、全国に荘園を経営する大荘園領主となる。なお、最澄は渡来人とも言われている。蝦夷征伐を行った坂上田村麻呂も渡来人と言われ、桓武治世の中で渡来人が重要な地位を占めていたのは明らかである。

 他方で、空海の真言密教の勢力も、山岳信仰と結合しつつ、広まったが、「大日経」(「大毘盧遮那成仏神変加持経」)と「金剛頂経」(「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王教」)を根本教典としているが、教学というよりも、加持祈祷、山岳修行、即身成仏などの行を重視しているように見える。

 それに対して、天台宗では、行と同時に経典の研究・議論が盛んに行われた。最澄は、奈良仏教に対して、天台宗の優れていることを示すために、繰り返し法論を挑んでいる。最澄側が勝利したというふうに一般に言われているのは、天台宗側の立てた理屈が広まったからである。もともと、南都大寺は、国家鎮護の寺であり、東大寺の戒壇は、小乗の具足戒の戒壇であり、一般民衆に布教しなかったために、寺の数も増えず、その後衰退したのに対して、延暦寺は、全国に荘園を所有し、末寺を増やし、さらに鎌倉仏教諸派が、天台宗から出て、民衆布教をして広まっていったことから、最澄の奈良仏教に対する法論の勝利ということが、広まったのだろう。もちろん、法論で、最澄側に軍配を上げたのは、桓武天皇であり、時の権力の庇護によって、天台宗が発展したこともある。

 ところが、それでも南都諸大寺の勢いも強く、最澄が強く望んだ比叡山延暦寺の大乗戒壇設置の許可は、最澄死後7日後にようやく下りたのである。また、桓武天皇が崩御し、嵯峨天皇が即位すると、この天皇は、空海を重んじはじめ、今度は、朝廷の庇護の下に、真言密教の力が強まる。

 天台宗は、法華経・念仏・座禅・密教の四宗兼学であったが、真言密教の興隆に押されて、衰退していった。その後、円仁(慈覚大師、794-864)と円珍(智証大師、814-891)が、密教化を進めた。後に、山門派(円仁派、延暦寺)と寺門派(円珍派、園城寺)に別れて相争うようになる。この天台宗の密教化は、真言密教の広がりと同様、山岳信仰・修験道との融合を後押しするものになったのではないだろうか。なお、奈良時代には、山伏の祖といわれる役の行者(役の小角)は、朝廷から排撃された*2

 *2「(699年)文武天皇三年  五月廿四日,(699),文武天皇三年,五月,廿四日,丁丑。《廿四》役君小角流于伊豆嶋。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。世相傳云。小角能役使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒縛之」(『続日本紀』)。他方では、養老令の僧尼令によって、僧についての規定が設けられ、外出が規制されたりすると同時に特権をも与えられ、国家鎮護に務めるようにされた。

 越前では、後に、白山信仰の山岳修行の寺院が延暦寺の末寺や別院になり、白山天台と呼ばれる一派が形成されることになる。

 平安時代は、律令制の古代から、荘園制の中世への転換期にあたり、平安末から戦国時代にいたる中世への移行期にあたる時代である。桓武天皇の平安遷都は、律令制の再建を一つの大目標にしていたのだろうが、解釈が乱れてきた令の解釈の統一をはかるために養老令の官選解釈書「令義解」がつくられ、律令の改廃=格と律令格の施行細目=式(弘仁格、弘仁式、貞観格、貞観式、延喜格、延喜式)を次々定めたが、班田収受・造籍の不可能化、貴族・大寺院・地方豪族による大土地所有の発展、等々により、その基礎が崩れていった。11~12世紀には、それらの荘園は次々と不輸不入権を獲得していったため、朝廷の財政は著しく減じた。

 奈良時代に始まった南都大寺院による大土地所有は、墾田私有地の買い取りによって進められたようである。他に、国衙の強力の下に原野を占定し、自力開発するという方法でも、寺領を拡大していった。

 ちょうど、平安末は、「法華経」でも説かれている末法に入る時期と信じられ*3、古代律令制から、中世に入る転換期で、社会不安が広がっていた時期であった。都は荒れ果てて、羅生門も崩れても再建されることもなく、蝦夷地でのアテルイの反乱や東国での平将門の乱や西国での藤原純友の乱が起きたが、朝廷の力ではそれらを解決することができず、平氏・源氏の武士を頼るしかなかった。

 *3ただ釈迦の没年は、今でもはっきりしておらず、正法・像法・末法の期間も経典によって異なっていた。ただ、日本では、平安時代中期より,釈迦の入滅時を前949年,正法・像法1千年と考え、1052年(永承7)が末法に入る年だとする説が広まったのである。しかし、末法入りは、鎌倉仏教諸派の中で、日蓮宗と浄土宗、浄土真宗、時宗の成立にとって決定的な意味を持つことであった。曹洞宗の開祖の道元は、これを方便にすぎないとした。

 そうした白法隠没・仏教が衰退し、悪がはびこるとされた末法の世で、どうしたら救いが得られるかということが、大問題になった時、まず、末法の教えは浄土教しかないとする源信などの唐の道釈・善導に影響された源信などの浄土信仰の教えが、没落期に向かっていた藤原氏などの貴族や公家などに広まった。実際に、藤原一族は没落してしまうが、平安末に法然が現れて、民衆救済のための念仏の教えを広める。

 その弟子から親鸞が浄土真宗を起こす。さらに、浄土信仰では、踊り念仏の一遍上人が出てくる。法然もそうだが、とくに一遍の場合は、遊行僧として、網野善彦氏が中世前期の自由民となづけた層の人々、天皇や寺社や有力貴族などから許しを得て、全国を自由に移動できた職人・商人・遊行僧・芸能民、などの間で、全国を歩いて布教を行った。そうした人々が集まる市などで踊り念仏を行ったことが、「一遍上人絵巻」に描かれている。

 天台宗から、鎌倉仏教の諸宗派が生まれてくるが、これらの諸宗派は、いずれも天台宗の根本教典である「法華経」を根本経典にしている。

 「法華経」については、成立の経緯などについて謎のある経典で、主流からはずれた異端的な一派がつくったものではないかと言われている。しかし、「法華経」は、インドからチベット・ウイグルなど周辺まで広く流布した経典であり、天台宗が根本経典にしたのは、中国の5世紀の鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』である。

 最澄は、法華経の28品を前半14品を迹門、後半14品を本門とした。「法華経」では、正像末の仏教時代を区別し、自分の時代を像法末期とした、その後、釈迦の入滅時を前949年,正法・像法各1,000年とし,1052年(永承7)末法を迎えるとの説が広まった。法華経には、末法に入ると、釈迦の教えだけが残り、白法隠滅し、仏教が迫害が強まる悪い時代になると説かれている。この法華経を固く信じて、広めることだと書いているのである。さらに、この経典は、女人、悪人、子供の成仏を説いており、「一切衆生、悉有仏性」(『涅槃経』)という平等思想を持ち、小乗を極めて厳しく批判している。

 延暦寺も、南都大寺同様に、一大荘園領主となり、全国に寺領を持ち、武装した僧兵を養い、領地経営をはかり、さらに、坂本の比叡山守護の日吉神社の御輿を担いで、たびたび、京の都に繰り出しては強訴に及ぶなど、政治に介入する実力を備えるようになる。

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日本の仏教についてのノート(1)

 仏教の渡来・奈良仏教
 
 日本に仏教が伝来したのは、538年頃、欽明天皇の時代、百済の聖明王から金銅仏と経典が送られたのが最初だと云われている*1。その後、朝鮮半島や中国からの渡来人・帰化人が広めたようで、特に渡来人といわれる蘇我氏が仏教を保護し、蘇我氏と血縁のある聖徳太子は、各地に寺を造ったと伝えられている。なお、聖徳太子は実在しなかったと主張する学者もいる。

*1『日本書紀』には、「欽明天皇十三年十月◆冬十月。百濟聖明王〈更名聖王。〉遣西部姫氏達率怒■斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷」とある。仏教伝来の正確な年はわからないが、だいたいこの頃であったといわれている。

 6世紀以降、仏教の移入が進み、仏典が入り、仏典研究が盛んになった。

 蘇我氏が、仏教を基に、国づくりを進めようとしたのに対して、物部氏をはじめとする反対勢力が表れ、寺院を焼くなど、排仏の動きを強め、ついに、蘇我氏と物部氏の間で、武力衝突が起き、物部氏が敗れた。飛鳥時代は、仏教が大きく興隆する時代となる。渡来系の秦氏の京都太秦広隆寺、大阪四天王寺などの大寺院が次々と建立される。

 朝鮮半島や中国から、次々と僧が渡来し、あるいは遣隋使として学僧を中国に送り、仏教を学んだ日本の僧が、経典を持ち帰るなどした。

 奈良時代に入ると、国家鎮護のための大寺院(興福寺・薬師寺・東大寺・唐招提寺等)が奈良平城京に次々と建てられる。そこで、三論・成実・倶舎・法相・華厳・律の南都六宗が兼学されるようになった。それらは、龍樹(ナーガールジュナ、2~3世紀の人と言われる)を代表とする「中観」派や世親(ヴィスバンドゥ、4世紀頃)の「唯識」派*の経典を学ぶものだった。

 *中央公論社『世界の名著 大乗仏典』の訳者の一人の長尾雅人氏の「仏教の思想と歴史」によれば、修行実践・行を重視したので、瑜伽行学派と呼ぶのがふさわしいという。また、その説の根本は、三性説、すなわち、すべてのことは他から起きる縁起とする「依他起性」、我執などの人間の執着によってそれがにごるとする「遍計所執性」、それを除去して「他による」あり方にもどって涅槃にいたる「円成実性」の三性論を基礎にしているから、三性学派と呼ぶのがふさわしいという。

 奈良仏教は基本的には官僧による官学であって、行基のように民衆に直接広布するものは例外であった。ただ、NHKの「その時歴史が動いた」では、聖武天皇が、律令制の税負担に苦しむ民衆の逃亡が相次ぐ中で、民心を掴むための公共事業として東大寺の造営・大仏の建設が行われ、それを行基に託したとして、民衆は自発的に協力したのだと解釈している。東大寺大仏開眼法要には、インドからも僧が招かれたという。

 この頃、律令制の負担に耐えかねた人民が、免税などの特権を朝廷から認められていた僧侶に勝手になることが多かった。

 再三の日本側からの要請もあって、唐の鑑真は、何度も失敗しながら、ついに、渡来に成功し、754年(天平勝宝6)平城京を訪れた。聖武上皇の歓待を受けた鑑真は、孝謙天皇の勅を受け、東大寺に戒壇を設けて、聖武上皇をはじめ多くの僧に戒を授けて、正式の僧の資格を認定するようにした。戒を受けた僧には、戒牒を授けた。鑑真は、戒律を中心とする仏教学説の律宗を伝えたのであるのが、これによって、僧侶をめぐる上のような混乱は収まるようになる。しかし後には、受戒をめぐって天台宗との関係などで、新たな混乱を引き起こすようになる**。

  **最澄は、大乗菩薩戒の戒壇設置の許可を桓武天皇に求めたが、それは遅れ、ついに生前には間に合わなかった。しかし、天台宗の受戒は、鎌倉時代になっても中国の寺院で公認されていた東大寺の戒牒を持たなかった道元が、比叡山での戒牒しかもっていなかったために、新参者扱いをされたのに抗議したということがあったように、東大寺の戒牒は、中国で僧侶が修行修学するために重要であったのである。

 鑑真の唐招提寺建立も、土地は貴族から寄進されたものだが、建物は廃材などを利用するなどして長い期間をかけて建設されており、それには民衆の信者の力が預かっていたものと思われる。

 奈良時代に入ると、律令体制の危機が強まり、723年(養老7年)三世一身法、聖武天皇による743年(天平15年)墾田永年私財法、を利用して、奈良の大寺院は、所領を増やしていき、やがて荘園経営を積極化し、政治にも深く介入するようになる。とくに藤原氏の氏寺として権勢を誇った興福寺の発展は著しかった。

 また聖武天皇は、全国に国分寺・国分尼寺を建てた。なお『続日本紀』には、唐・新羅・渤海との頻繁な交流が記録されているが、その中には仏典や仏具の類もあったに相違ない。

 奈良仏教は、基本的には、官学であり、学僧としての研究活動を主とし、朝廷貴族向けの儀式や祈祷を行うもので、鎮護国家の仏教であった。行基のように民衆にじかに布教することは禁じられており、反逆と見なされたのだが、他方では、聖武天皇は、朝廷の禁を犯す民間僧であった行基を、抜擢して、大仏(毘盧遮那仏)建立を指揮させている。そこになにがあったのかはわかっていない。

 この頃、それまでの律令体制のほころびが目立つようになってきて、改革を実行しなければ、体制そのものが危ないと感じたのか、墾田永年私財法をはじめ、改革が行われた。仏教による国づくりというのもその一つで、聖武天皇自身が出家するのである。それは、聖武天皇の后の藤原不比等の娘の光明皇后が仏教に深く帰依した影響もあったようだが、その娘の孝謙天皇が即位し、聖武上皇亡き後、光明皇后と甥の藤原仲麻呂とが摂政体制をしいてからは、さらに、新薬師寺の建立などを行った。かれらは、手を結んで、聖武上皇の遺言で、次の天皇に指名されていた道祖王ではなく、大炊王を天皇にした。

 孝謙上皇は、光明皇后死後、僧の道鏡を重んじ、少僧都に任じた。その後、藤原仲麻呂(恵美押勝)を滅ぼし、淳仁天皇を廃して、ふたたび、称徳天皇として即位した。

 この頃、他に長屋王の乱や藤原冬嗣の乱など、朝廷を揺るがす事件が相次いでおり、聖武天皇は、紫香楽宮や難波などに遷都(恭仁京を造営したりした)するなどして、危難の多かっただけに、余計に、仏教に頼ろうとしたのかもしれない。

  かくして、奈良仏教の勢力は、宮廷政治に介入する力を増大させていったのであり、それは同時に、律令体制下の諸特権を利用しつつ、寺奴の開発の成果をも寺領化するなどして、公地を浸食しつつ、荘園領主化していく過程でもあった。

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教育基本法継続審議濃厚となって

 教育基本法改定問題で、「愛国心」をめぐる議論が起きているのは周知のとおりである。それと『産経新聞』や櫻井よし子氏などのアングロ・サクソン文化に染まっているエセ愛国主義者たちが、国旗国歌問題という次元の違うことを無理やりそれに絡ませて、議論を混乱させている。
 
 日本の長い歴史と伝統上、国歌国旗のない時代は圧倒的に長く、明治維新後に、西欧帝国主義列強にせかされて、あわてて作り上げたものにすぎない。外国がそんなものをありがたがっているからと物真似しなければならない理由はないし、遅れているわけでもなんでもない。そんなものをありがたがっている中国や韓国やアメリカなどが、別に進んでいるわけではない。アメリカは、移民国家だから、国旗国歌でも意識的に掲げ歌うなどして、人為的に国民意識を保たなければならないのである。

 アメリカは、そもそも先住民を大虐殺し、かれらの大地を奪って、建国された国である。そしてつい最近も、中南米において、何百万人もの人々の命を奪ってきたのであり、アフガニスタン、イラクで、多くの人々を虐殺し、拷問している国なのである。そうして血塗られたブッシュ大統領や政府高官の手を握ったのが小泉首相であり、ポスト小泉を狙う安倍などの政治家たちなのである。

 その後押しをしてきたのが、『諸君』『正論』フジ産経グループ、『読売新聞』などである。しかし、これらのメディアは、表向きは保守派を任じながらも、裏では財界や政権と手を握り、その意を受けたエージェントとして、世論操作を実行しているのである。以前にはあれほど、堂々と靖国に参拝せよと主張していた『産経新聞』は、財界が靖国参拝に反対の意向をはっきりと打ち出すと、すっかり靖国に関する主張を引っ込め、『諸君』『正論』は、そろって『朝日』たたきに力を入れて、『産経』『読売』の販売促進役を果たすというおきまりの道に戻る。商売優先は、これらのメディアも財界と同じである。

 おいてきぼりにされ、馬鹿を見るのは、お人好しばかりである。現に、政治家の中国詣の露払いを務めたのは、「つくる会」八木一派とフジ産経グループであったようだ。5月31日の藤岡信勝氏のブログには「八木秀次氏はすでに中共の対日工作の窓口だった」とする記事が載っている。「つくる会」の内紛は、すでに保守系雑誌を通して公然たる言論戦に突入している。なぜか、藤岡信勝氏は、櫻井よし子氏の、「中国を喜ばせる首相を選んではならない」という言葉にかけて、「つくる会」の会長にもそういう人を選んではならないと八木一派の中国詣批判を正当化している。こういうところが、政治的というか運動的発想で、それは共産党時代に身に付けたものなのだろうが、櫻井よし子氏が、サッチャーイズムの信奉者であって、まったくアングロ・サクソン流の自由主義者であるという思想的な部分まで立ち入って評価しないというかれの思想的浅さを自己暴露しているところである。「巧言令色少なし仁」である。

 彼女は全然日本的ではない。彼女の話は、サッチャーが日本人の仮面を被ってしゃべっていると思って聞いた方がいい。彼女が、教育基本法に「愛国心」を明記した方がいいというのは、その方が国際標準に近づくからで、それだけ、アメリカが日本統合を進めやすくなるからなのである。

 アメリカは、景気減速期に入っていて、最悪の場合には、世界恐慌の引き金を引きかねず、国家破産まで行く可能性すら懸念される情況なのである。ブッシュ政権の支持率は29%まで下がり、共和党や政権内の腐敗や汚職が次々と暴露され、CIAをめぐる権力闘争で長官交代を余儀なくされるなど、ぼろぼろなのである。

 そんなアメリカと一緒に沈むのが同盟国の義務というものだろうか? 自由と民主主義という共有する崇高な価値のために共に沈むべきだろうか? 利害を第一の財界が、そんな自己犠牲を払うとは思われない。かれらは、沈みかかった船からどうやって安全に逃げるかを考えているのだ。

 ブッシュは言った。家族の絆は尊いと、しかしイラクで米兵によって家族を殺された者が何人いるか? 自由は尊いとも言った。グアンタナモで不当に自由を奪われた者がいるのだが? 民主主義は尊いとも言った。令状もなくただアラブ人だという理由で身柄拘束された人が足下にいる。これは人権は平等だという民主主義を否定する差別ではないか? アメリカ人一人の命とアラブ人一人の命・人権の価値は同じではないのか?

 日本の財界は、在日米軍の軍事力を背景に、中国やアジアで、商売を拡大したいのであり、できるだけそれに利する条件・環境をつくりあげたいのである。

 いずれにしても、欧米に対する警戒感を持っている西尾幹二とは違って、「反日」がどうしたとか「サヨク」がどうだとかネットでオウム返しにしている者の多くは、保守系メディアや保守系知識人や政府与党などが操作しやすくだましやすい超お人好しのようだ。

 長い歴史と伝統、豊かな自然、などに日常的に接し触れている所では、自然にパトリシズムは生み出されるのであり、特定の旗を掲げたり特定の歌を歌わなければそれが育たないということはない。ただ都市化が行きすぎて、それらに接し触れる機会がなく、言語や映像などでしか学ばないから、それが自然に育たないので、それは別に、学校教育のせいでも、教師のせいでもない。

 都市の規模をもっと小さくし、歴史や文化にもっと直接触れられるようにし、自然に直接触れる機会を増やし、人々のコミュニケーションをもっと密にするようにしなければならないのである。今の小泉改革路線のままでは、経済の論理によって、経済的利益や利便性が優先されて、これとは正反対の都市への人口集中や自然破壊、歴史と伝統文化の破壊が進むのは明らかである。要するに、政治家が愛国心などというのは、実に抽象的な言葉で、真の狙いを隠していると見るべきなのである。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の内紛の中でも、種子島元会長やフジ産経グループとつながっていた八木一派は、「愛国心」の影に、経済的利害を隠し持っていたことが、暴露されている。財界の意向を背景に、種子島元会長の認めた中国詣が八木・宮崎元事務局長らによって行われたのだ。

 残ったのは、比較的に経済界の利害を気にしなくてもいい立場の学者たちが中心であり、原点回帰を掲げる原理主義的なイデオローグたちである。もっとも、藤岡信勝は、設立当初からこの会のトラブルメーカーであり、しかも、この間のゴタゴタの中で、右往左往して動揺を示したように、求心力を減じている。さらに、東京支部が、現執行部と距離を置いており、山形での評議員の辞任や中西輝正理事の辞任など、有力な幹部の離脱が続いていて、すでにこの会の力は落ちており、7月2日の大会までに、体制を立て直せるかどうかは未知数である。

 そもそも、藤岡信勝が組織した自由主義史観研究会の自由主義史観なる歴史観が、歴史観を自由主義イデオロギーを基礎にするという不条理の上に立っている。歴史観が、自虐的か自由主義的かなどというふうにわかれるはずがなく、実際にかれらがやっていることは、かつて日本政府がやったことを正当化するために、理屈を立て、そのような証拠を集めて過大評価し、時には史実を無視するということである。

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