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日本の仏教についてのノート(3)

 鎌倉仏教

 平安末期
 日本では1052年(永承7年)に末法時代に入ったという考えが有力となった*1。この年、藤原摂関政治の時代の黄金期を築いた関白藤原道長の子の関白藤原頼道の建てた宇治平等院は、末法の教えとされた浄土信仰の寺である。当初は、密教の本尊大日如来を安置していたが、後に阿弥陀堂(鳳凰堂)がつくられ、本尊に阿弥陀如来を安置した。鳳凰堂の壁面には、西方極楽浄土から死者を多くの眷属を従えて迎えに来る弥陀来迎図が描かれた。

 *1余談だが、現在、釈迦の生きていた時代は、だいたい紀元前5世紀と言われており、日本式に正像末の期間を計算すると、おおよそ1500年あたりが、末法に入る時期となる。この頃日本では、室町時代から戦国時代であって、戦乱が続く混迷した時代であり、末法にふさわしい五濁悪世といえるかもかもしれない。

 藤原摂関体制の経済的基盤をなしていたのは、不輸不入権*2を求めて、中央貴族とりわけ藤原氏に土地の寄進が相次いだことによる寄進系荘園である。この頃は、藤原氏をはじめとする中央有力貴族や有力寺社の寄進系荘園が拡大し、公領と荘園が並立する時代だった。それに対して、律令制を回復させるためとして、たびたび荘園整理令が出されるが、藤原氏には、それによって、荘園寄進が集中するようなった。その力で、藤原氏は、他氏の有力貴族をけ落としていったのである。藤原氏の官位・要職・寄進系荘園の独占が進み、藤原専制体制ができあがると、当然、それにつれて、藤原氏の氏寺である奈良興福寺の勢力も増大した。

 *2不輸は、免税権。不入は、国衙の派遣する検田使などの立ち入りを拒否できる権利。

 かくして橘氏などの有力貴族が没落し、藤原氏の庇護を受けるか、都市民へ転化するか、地方へ転出していった。石母田正氏は、こうした貴族の没落、とりわけ下級貴族の没落が、かれらを個人化し、個人の内面的救済に相応した浄土信仰への帰依をもたらしたものと見ている。成仏に貴賤・身分・地位・男女・大人子供・悪人を問わない平等観は、「法華経」に説かれているところであるが、浄土信仰においては、称名念仏のみが、西方極楽浄土への輪廻転生の手段であり、この世での阿弥陀如来の庇護を受ける道であった。それ以外のことは、末法においては、成仏にはなんの関係もないのである。ただ一人一人が、念仏を唱えることが、末法の救いの道とされた。そこには、石母田氏が指摘するように、すでに没落して、他の都市民と変わりのない生活に落ちた没落貴族のこの世への無常観や平等観と相応するものがあったといえよう。氏は、それが、『平家物語』の中に流れているというのである。石母田氏は、名著『中世的世界の形成』に書いている。

 「浄土信仰の本質は、個々人の煩悩と罪悪の自覚を基礎とする体験的反省的な点にあるが、かかる体験と反省の契機となったものは平安京の現実に外ならなかったと思う。浄土教はいうまでもなく現実を五濁の悪世と理解する末法思想に基づいているが、その場合体験的に理解された現実とは具体的には都市的現実であった。・・・空也が市屋或いは四条の辻で直接庶民を対象として布教し、「市聖」と呼ばれたと伝えられるのも、都市との切離し得ない連関を示すものであるし、法然が生涯都市を離れなかったことも想起しなければならぬ。自己を一切衆生とともに罪深く頑魯なものと反省するその無差別性は、勿論教義の内容から理解されなければならないが、しかしあらゆる階級と生業の者が聚り、古い伝統と出自がその根拠を喪う都市という場においてもっとも生々と体験されることも事実であろう。浄土宗が旧仏教の側から伝統的な神祇に対する崇敬に欠けることを痛烈に非難されたことも、浄土教の都市的生活を衝いたものと見られるのであって、集団の守護神に対する信仰の喪失こそ平安時代の都市人の特質であった。・・・これらの新しいものに共通するものは、古い貴族的秩序から解体されようとしている個人の反省と内面化であり、また往生思想が身分的差別を無視する点に見られる如く貴族的世界観の否定である。それは古代的秩序がもはや貴族にとっても絶対的なものではなくなったことが意識されたことを示すものである。還言すれば貴族社会内部における自己批判の進行であるが、その主体となったものは上層の宮廷貴族ではなくして下級貴族出身の知識人であった」。

 この古代律令制の解体と中世への転換期において、一方では下級没落貴族の都市民化・個人化が起き、地方において領主制の発展の中から、古代的村落秩序から自立した個人としての武士が育ってくることによって、個人を主体とする国民が広く誕生してきたと石母田氏は言う。この国民意識が、中世文学の基調をなすようになるというのである。少々引っかかるところなのだが、このへんについては、機会があれば検討することにしたい。

 ただ、浄土宗をはじめとしてその後に誕生する新仏教宗派が、新興勢力によって支持されたという氏の指摘は重要で、中世を通じて、旧仏教派と新仏教派の対立は、荘園をめぐる武士と大寺社の寺社領をめぐる利害争いが繰り返される中で、例えば加賀の一向一揆のように、大きな意味を持つのである。

 後三条天皇は、1069年に延久の荘園整理令を発し、荘園整理事務処理するための記録荘園券契所を設置し、摂関家領に対しても、厳重な審査が行われた。この荘園整理事務の中心的役割を果たしていた院に対する寄進が増え、院政の経済的基盤となった。院領の荘園が増加して、さらに寄進による荘園制が平安末に、最盛期を迎えるのである。それによって、寺領が拡大し、寺院が大荘園領主となったことはいうまでもない。それに対して、在地の農民層の中から、武士が登場し、その武士団の総領を巡る争いの激化、武家同士の源平の争い、平氏の勝利と没落をへて、源頼朝による鎌倉幕府が成立し、守護地頭の設置とそれらによる荘園の侵略をめぐる対立が激化する中世に入るのである。

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