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日本の仏教についてのノート(1)

 仏教の渡来・奈良仏教
 
 日本に仏教が伝来したのは、538年頃、欽明天皇の時代、百済の聖明王から金銅仏と経典が送られたのが最初だと云われている*1。その後、朝鮮半島や中国からの渡来人・帰化人が広めたようで、特に渡来人といわれる蘇我氏が仏教を保護し、蘇我氏と血縁のある聖徳太子は、各地に寺を造ったと伝えられている。なお、聖徳太子は実在しなかったと主張する学者もいる。

*1『日本書紀』には、「欽明天皇十三年十月◆冬十月。百濟聖明王〈更名聖王。〉遣西部姫氏達率怒■斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷」とある。仏教伝来の正確な年はわからないが、だいたいこの頃であったといわれている。

 6世紀以降、仏教の移入が進み、仏典が入り、仏典研究が盛んになった。

 蘇我氏が、仏教を基に、国づくりを進めようとしたのに対して、物部氏をはじめとする反対勢力が表れ、寺院を焼くなど、排仏の動きを強め、ついに、蘇我氏と物部氏の間で、武力衝突が起き、物部氏が敗れた。飛鳥時代は、仏教が大きく興隆する時代となる。渡来系の秦氏の京都太秦広隆寺、大阪四天王寺などの大寺院が次々と建立される。

 朝鮮半島や中国から、次々と僧が渡来し、あるいは遣隋使として学僧を中国に送り、仏教を学んだ日本の僧が、経典を持ち帰るなどした。

 奈良時代に入ると、国家鎮護のための大寺院(興福寺・薬師寺・東大寺・唐招提寺等)が奈良平城京に次々と建てられる。そこで、三論・成実・倶舎・法相・華厳・律の南都六宗が兼学されるようになった。それらは、龍樹(ナーガールジュナ、2~3世紀の人と言われる)を代表とする「中観」派や世親(ヴィスバンドゥ、4世紀頃)の「唯識」派*の経典を学ぶものだった。

 *中央公論社『世界の名著 大乗仏典』の訳者の一人の長尾雅人氏の「仏教の思想と歴史」によれば、修行実践・行を重視したので、瑜伽行学派と呼ぶのがふさわしいという。また、その説の根本は、三性説、すなわち、すべてのことは他から起きる縁起とする「依他起性」、我執などの人間の執着によってそれがにごるとする「遍計所執性」、それを除去して「他による」あり方にもどって涅槃にいたる「円成実性」の三性論を基礎にしているから、三性学派と呼ぶのがふさわしいという。

 奈良仏教は基本的には官僧による官学であって、行基のように民衆に直接広布するものは例外であった。ただ、NHKの「その時歴史が動いた」では、聖武天皇が、律令制の税負担に苦しむ民衆の逃亡が相次ぐ中で、民心を掴むための公共事業として東大寺の造営・大仏の建設が行われ、それを行基に託したとして、民衆は自発的に協力したのだと解釈している。東大寺大仏開眼法要には、インドからも僧が招かれたという。

 この頃、律令制の負担に耐えかねた人民が、免税などの特権を朝廷から認められていた僧侶に勝手になることが多かった。

 再三の日本側からの要請もあって、唐の鑑真は、何度も失敗しながら、ついに、渡来に成功し、754年(天平勝宝6)平城京を訪れた。聖武上皇の歓待を受けた鑑真は、孝謙天皇の勅を受け、東大寺に戒壇を設けて、聖武上皇をはじめ多くの僧に戒を授けて、正式の僧の資格を認定するようにした。戒を受けた僧には、戒牒を授けた。鑑真は、戒律を中心とする仏教学説の律宗を伝えたのであるのが、これによって、僧侶をめぐる上のような混乱は収まるようになる。しかし後には、受戒をめぐって天台宗との関係などで、新たな混乱を引き起こすようになる**。

  **最澄は、大乗菩薩戒の戒壇設置の許可を桓武天皇に求めたが、それは遅れ、ついに生前には間に合わなかった。しかし、天台宗の受戒は、鎌倉時代になっても中国の寺院で公認されていた東大寺の戒牒を持たなかった道元が、比叡山での戒牒しかもっていなかったために、新参者扱いをされたのに抗議したということがあったように、東大寺の戒牒は、中国で僧侶が修行修学するために重要であったのである。

 鑑真の唐招提寺建立も、土地は貴族から寄進されたものだが、建物は廃材などを利用するなどして長い期間をかけて建設されており、それには民衆の信者の力が預かっていたものと思われる。

 奈良時代に入ると、律令体制の危機が強まり、723年(養老7年)三世一身法、聖武天皇による743年(天平15年)墾田永年私財法、を利用して、奈良の大寺院は、所領を増やしていき、やがて荘園経営を積極化し、政治にも深く介入するようになる。とくに藤原氏の氏寺として権勢を誇った興福寺の発展は著しかった。

 また聖武天皇は、全国に国分寺・国分尼寺を建てた。なお『続日本紀』には、唐・新羅・渤海との頻繁な交流が記録されているが、その中には仏典や仏具の類もあったに相違ない。

 奈良仏教は、基本的には、官学であり、学僧としての研究活動を主とし、朝廷貴族向けの儀式や祈祷を行うもので、鎮護国家の仏教であった。行基のように民衆にじかに布教することは禁じられており、反逆と見なされたのだが、他方では、聖武天皇は、朝廷の禁を犯す民間僧であった行基を、抜擢して、大仏(毘盧遮那仏)建立を指揮させている。そこになにがあったのかはわかっていない。

 この頃、それまでの律令体制のほころびが目立つようになってきて、改革を実行しなければ、体制そのものが危ないと感じたのか、墾田永年私財法をはじめ、改革が行われた。仏教による国づくりというのもその一つで、聖武天皇自身が出家するのである。それは、聖武天皇の后の藤原不比等の娘の光明皇后が仏教に深く帰依した影響もあったようだが、その娘の孝謙天皇が即位し、聖武上皇亡き後、光明皇后と甥の藤原仲麻呂とが摂政体制をしいてからは、さらに、新薬師寺の建立などを行った。かれらは、手を結んで、聖武上皇の遺言で、次の天皇に指名されていた道祖王ではなく、大炊王を天皇にした。

 孝謙上皇は、光明皇后死後、僧の道鏡を重んじ、少僧都に任じた。その後、藤原仲麻呂(恵美押勝)を滅ぼし、淳仁天皇を廃して、ふたたび、称徳天皇として即位した。

 この頃、他に長屋王の乱や藤原冬嗣の乱など、朝廷を揺るがす事件が相次いでおり、聖武天皇は、紫香楽宮や難波などに遷都(恭仁京を造営したりした)するなどして、危難の多かっただけに、余計に、仏教に頼ろうとしたのかもしれない。

  かくして、奈良仏教の勢力は、宮廷政治に介入する力を増大させていったのであり、それは同時に、律令体制下の諸特権を利用しつつ、寺奴の開発の成果をも寺領化するなどして、公地を浸食しつつ、荘園領主化していく過程でもあった。

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