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日本の仏教についてのノート(2)

 平安仏教

 称徳天皇*1没後、藤原氏の手で、天智天皇の孫の白壁王が光仁天皇として即位し、次に、皇太子他戸親王の異母弟の桓武天皇は、陰謀事件によって廃された他戸親王に代わって皇太子となり、781年に即位する。生母は、『続日本紀』によれば、高野新笠(たかののにいかさ)で、百済系渡来人である。なお、京都の地に遷都した理由の一つには、渡来系の秦氏の根拠地であり、その経済的技術的支援があったからだという説もある。

 *1称徳天皇(淳仁天皇に皇位を譲って上皇になり、後に再び天皇となった)については、井上光貞氏の女帝論で、例外として扱っているが、この場合は、聖武天皇の娘が即位する直系で皇位が継承されたのである。その後、天武系から、天智天皇の孫の光仁天皇から天智系に皇統が移った。そもそも天智天皇と天武天皇は実の兄弟だというのは怪しいとする説がある。

 桓武天皇は、奈良を捨てて、長岡京建設をへて、新たに京都に平安京を建設し、入唐し、天台山などで天台宗などを修学した最澄を重んじ、平安京の鬼門に当たる比叡山延暦寺を開かせ、鎮護国家の寺とする。ここに日本の天台宗が開かれるのであるが、最澄は、法華経を根本経典としてに座禅・念仏・密教の兼学道場とした。比叡山延暦寺も、南都大寺同様、全国に荘園を経営する大荘園領主となる。なお、最澄は渡来人とも言われている。蝦夷征伐を行った坂上田村麻呂も渡来人と言われ、桓武治世の中で渡来人が重要な地位を占めていたのは明らかである。

 他方で、空海の真言密教の勢力も、山岳信仰と結合しつつ、広まったが、「大日経」(「大毘盧遮那成仏神変加持経」)と「金剛頂経」(「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王教」)を根本教典としているが、教学というよりも、加持祈祷、山岳修行、即身成仏などの行を重視しているように見える。

 それに対して、天台宗では、行と同時に経典の研究・議論が盛んに行われた。最澄は、奈良仏教に対して、天台宗の優れていることを示すために、繰り返し法論を挑んでいる。最澄側が勝利したというふうに一般に言われているのは、天台宗側の立てた理屈が広まったからである。もともと、南都大寺は、国家鎮護の寺であり、東大寺の戒壇は、小乗の具足戒の戒壇であり、一般民衆に布教しなかったために、寺の数も増えず、その後衰退したのに対して、延暦寺は、全国に荘園を所有し、末寺を増やし、さらに鎌倉仏教諸派が、天台宗から出て、民衆布教をして広まっていったことから、最澄の奈良仏教に対する法論の勝利ということが、広まったのだろう。もちろん、法論で、最澄側に軍配を上げたのは、桓武天皇であり、時の権力の庇護によって、天台宗が発展したこともある。

 ところが、それでも南都諸大寺の勢いも強く、最澄が強く望んだ比叡山延暦寺の大乗戒壇設置の許可は、最澄死後7日後にようやく下りたのである。また、桓武天皇が崩御し、嵯峨天皇が即位すると、この天皇は、空海を重んじはじめ、今度は、朝廷の庇護の下に、真言密教の力が強まる。

 天台宗は、法華経・念仏・座禅・密教の四宗兼学であったが、真言密教の興隆に押されて、衰退していった。その後、円仁(慈覚大師、794-864)と円珍(智証大師、814-891)が、密教化を進めた。後に、山門派(円仁派、延暦寺)と寺門派(円珍派、園城寺)に別れて相争うようになる。この天台宗の密教化は、真言密教の広がりと同様、山岳信仰・修験道との融合を後押しするものになったのではないだろうか。なお、奈良時代には、山伏の祖といわれる役の行者(役の小角)は、朝廷から排撃された*2

 *2「(699年)文武天皇三年  五月廿四日,(699),文武天皇三年,五月,廿四日,丁丑。《廿四》役君小角流于伊豆嶋。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。後害其能。讒以妖惑。故配遠處。世相傳云。小角能役使鬼神。汲水採薪。若不用命。即以咒縛之」(『続日本紀』)。他方では、養老令の僧尼令によって、僧についての規定が設けられ、外出が規制されたりすると同時に特権をも与えられ、国家鎮護に務めるようにされた。

 越前では、後に、白山信仰の山岳修行の寺院が延暦寺の末寺や別院になり、白山天台と呼ばれる一派が形成されることになる。

 平安時代は、律令制の古代から、荘園制の中世への転換期にあたり、平安末から戦国時代にいたる中世への移行期にあたる時代である。桓武天皇の平安遷都は、律令制の再建を一つの大目標にしていたのだろうが、解釈が乱れてきた令の解釈の統一をはかるために養老令の官選解釈書「令義解」がつくられ、律令の改廃=格と律令格の施行細目=式(弘仁格、弘仁式、貞観格、貞観式、延喜格、延喜式)を次々定めたが、班田収受・造籍の不可能化、貴族・大寺院・地方豪族による大土地所有の発展、等々により、その基礎が崩れていった。11~12世紀には、それらの荘園は次々と不輸不入権を獲得していったため、朝廷の財政は著しく減じた。

 奈良時代に始まった南都大寺院による大土地所有は、墾田私有地の買い取りによって進められたようである。他に、国衙の強力の下に原野を占定し、自力開発するという方法でも、寺領を拡大していった。

 ちょうど、平安末は、「法華経」でも説かれている末法に入る時期と信じられ*3、古代律令制から、中世に入る転換期で、社会不安が広がっていた時期であった。都は荒れ果てて、羅生門も崩れても再建されることもなく、蝦夷地でのアテルイの反乱や東国での平将門の乱や西国での藤原純友の乱が起きたが、朝廷の力ではそれらを解決することができず、平氏・源氏の武士を頼るしかなかった。

 *3ただ釈迦の没年は、今でもはっきりしておらず、正法・像法・末法の期間も経典によって異なっていた。ただ、日本では、平安時代中期より,釈迦の入滅時を前949年,正法・像法1千年と考え、1052年(永承7)が末法に入る年だとする説が広まったのである。しかし、末法入りは、鎌倉仏教諸派の中で、日蓮宗と浄土宗、浄土真宗、時宗の成立にとって決定的な意味を持つことであった。曹洞宗の開祖の道元は、これを方便にすぎないとした。

 そうした白法隠没・仏教が衰退し、悪がはびこるとされた末法の世で、どうしたら救いが得られるかということが、大問題になった時、まず、末法の教えは浄土教しかないとする源信などの唐の道釈・善導に影響された源信などの浄土信仰の教えが、没落期に向かっていた藤原氏などの貴族や公家などに広まった。実際に、藤原一族は没落してしまうが、平安末に法然が現れて、民衆救済のための念仏の教えを広める。

 その弟子から親鸞が浄土真宗を起こす。さらに、浄土信仰では、踊り念仏の一遍上人が出てくる。法然もそうだが、とくに一遍の場合は、遊行僧として、網野善彦氏が中世前期の自由民となづけた層の人々、天皇や寺社や有力貴族などから許しを得て、全国を自由に移動できた職人・商人・遊行僧・芸能民、などの間で、全国を歩いて布教を行った。そうした人々が集まる市などで踊り念仏を行ったことが、「一遍上人絵巻」に描かれている。

 天台宗から、鎌倉仏教の諸宗派が生まれてくるが、これらの諸宗派は、いずれも天台宗の根本教典である「法華経」を根本経典にしている。

 「法華経」については、成立の経緯などについて謎のある経典で、主流からはずれた異端的な一派がつくったものではないかと言われている。しかし、「法華経」は、インドからチベット・ウイグルなど周辺まで広く流布した経典であり、天台宗が根本経典にしたのは、中国の5世紀の鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』である。

 最澄は、法華経の28品を前半14品を迹門、後半14品を本門とした。「法華経」では、正像末の仏教時代を区別し、自分の時代を像法末期とした、その後、釈迦の入滅時を前949年,正法・像法各1,000年とし,1052年(永承7)末法を迎えるとの説が広まった。法華経には、末法に入ると、釈迦の教えだけが残り、白法隠滅し、仏教が迫害が強まる悪い時代になると説かれている。この法華経を固く信じて、広めることだと書いているのである。さらに、この経典は、女人、悪人、子供の成仏を説いており、「一切衆生、悉有仏性」(『涅槃経』)という平等思想を持ち、小乗を極めて厳しく批判している。

 延暦寺も、南都大寺同様に、一大荘園領主となり、全国に寺領を持ち、武装した僧兵を養い、領地経営をはかり、さらに、坂本の比叡山守護の日吉神社の御輿を担いで、たびたび、京の都に繰り出しては強訴に及ぶなど、政治に介入する実力を備えるようになる。

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