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日本の仏教についてのノート(4)

 平安末から鎌倉初期その他
 天台系の仏教者の間では、末法の仏教はどうあるべきかということが大問題となるが、その時期はちょうど貴族の没落の過程にあった。それに対して、まず、『往生要集』を著した源信、空也、そして法然(1133~1212)の浄土宗が、末法の救済策として、阿弥陀仏を本尊とし、称名念仏の教えを広める。それに対して、旧仏教からの弾圧が起きる。しかし興福寺内から、浄土宗に帰依し、その教えを広める寺院が出るなど、浄土宗は、都市部の下級貴族などから広まりはじめ、やがて地方の武士などの間にも信者を拡大していく。

 中央政治の世界では、摂関家・天皇・院・武士の三者が二つに分かれて、争うようになり、1156年に保元の乱と1159年の平治の乱が起こり、源氏が敗れ、平氏が勝利して、栄華を極めた。この時、平氏が基礎としたのは在地領主を地頭とする在地武士団であった。それを受け継いで、守護地頭制として全国的に定着せしめたのが、鎌倉幕府であった。しかし、まず平氏が、中央貴族化して、院政と対立し、後白河上皇の皇子の比人王が平家追討の令旨を源氏に発し、それに応じて全国で源氏が平氏に対する戦を起こした。勝利した源頼朝は、征夷大将軍となって、鎌倉幕府を開くが、その後、朝廷・院政との確執が続く。

 1202年頃から、後鳥羽上皇の院政が強まり、鎌倉幕府に対する対決姿勢を強めた。源頼朝死後、実朝暗殺、公暁の北条氏による謀殺によって、源氏の正統は絶えた。1221年、後鳥羽上皇は、執権北条義時追討の院宣を下し、承久の乱が勃発する。尼将軍と呼ばれた北条政子は、御家人たちに、頼朝の恩に報いるべしと切々と説き、京都進撃に向かわせ、後鳥羽上皇の軍勢をうち破った。後鳥羽上皇は、隠岐、順徳上皇は、佐渡へ、土御門上皇は土佐へ、流された。再発防止策として、京都に六波羅探題がつくられた。この時、北条政子は、御家人・武家の頭領としての尼将軍そのものであったといえる。

 この頃、戦乱はもちろん、天変地異の続発、大飢饉と疫病の流行、によって、人々は困窮し、人身売買が行われたりした。京都でも市中に餓死者の死体が累々と重なり、死臭が満ちたという。まさに、末法の濁世を実感させる悲惨な様相であったのである。

 奈良の大寺院や真言宗・天台宗の大寺院は、荘園の利権などをめぐって、対立し、僧兵を備えて、武力衝突を繰り返した。それは延暦寺のように、寺門派(園城寺)対山門派(延暦寺)の対立のような内部対立も絡んだ複雑なものであった。禁を犯して、妻帯したり金貸し業にはげむ僧が増殖し、寺の上層をしめる貴族出身の僧たちに、それを解決する力はなかった。また、寺領内部での領主の台頭に対して、預所を設置して、管理を強めるようになり、在地領主層への抑圧を強めたが、それに力を取られて、勢力が衰える寺院もあった。領主層は、新仏教派に帰依して、宗教的にも旧仏教派と対立するようになる。

 源頼朝は、奈良の大寺院に対して、融和的態度を取った。源平の合戦で、平重衡によって焼かれた奈良東大寺の修復にも便宜を図っている。しかし、御家人の間では、臨済宗や念仏宗・日蓮宗などの新興仏教に帰依する者が出て、幕府も臨済宗を保護するようになった。いわゆる鎌倉五山をはじめ、臨済宗の寺院を建立した。幕府の後ろ盾を得た臨済宗系の寺院は、荘園領主と化す。浄土宗も、旧仏教や幕府の禁圧措置を受けたりするが、後には、幕府の保護を受けるようになる。

 それに対して、浄土真宗や日蓮宗や曹洞宗は、旧仏教派から排撃され、親鸞・日蓮は流刑にされ、道元は、京都深草の道場から越前の永平寺に下りながら、布教していくのである。しかし、鎌倉時代には、これらの宗派の勢力は、それほど多くなく、荘園もないので、それぞれ領主層や地頭などの寄進や信者からの寄付・寄進などで支えられつつ細々と教えを伝えていったのである。

 鎌倉仏教の祖たちは、腐敗堕落した比叡山から下りて、新仏教の布教を行うのである。

 平清盛が、日宋貿易を再開し、それによって、入宋して、当時、宋で広まっていた禅宗を学んだ天台僧の一人が明庵栄西(1141~1215)であった。宋で黄竜派の禅を学んだ栄西は、帰朝後、源頼家が京都六波羅に建立した建仁2年(1202年)建仁寺の開山に迎えられた。建仁寺は、延暦寺の末寺で、天台・真言・禅の三宗兼学であった。1216年比叡山を下りた道元は、建仁寺で、栄西の高弟の明全について学び、1223年に明全と共に念願の入宋を果たす。

 栄西は、天台宗の中に禅宗を持ち込み広めることで、天台宗の内部改革を進めると考えたと言われている。宋からの帰朝後まずは九州博多で禅宗を広めた。その後、延暦寺などの旧仏教側が朝廷を動かして1194年に禅宗を禁止したことから、鎌倉幕府に近づき、まず鎌倉に源頼家・北条政子に寿福寺を建立させ、続いて京都に建仁寺を建立させて、開山となって、布教の基礎を築いた。後に、法師号を幕府に願い出て、生前の授与は前例がないとして却下されると非難の声が起きた。代わりに、幕府は、権の僧正を与えた。終生、天台僧としてあり、禅宗臨済宗という独立一派を建てなかった。

 建仁寺は、1265年に宋僧蘭渓道隆が鎌倉の建長寺から移ってきてから、禅寺となったのものである。建仁寺は、多数の荘園を持ち、地頭職に任じられるなど、幕府と結びついて、後に京都五山の一角を占める臨済宗の大寺院として栄えるのである。なお、栄西は、宋から茶を持ち帰り、初めて、茶の栽培と喫茶の普及を行った。

 最澄没後、比叡山では、いちじるしく密教化が進んだ。そして、律令制の公地公民制が形骸化する中で、特権を認められた南都の仏教宗派や天台宗は、荘園領主としての経営を全国に展開し、武装しつつ、権益を伸ばしていき、朝廷に対して実力を背景に政治介入を強めていき、世俗勢力と化していった。真言・天台の密教による加持祈祷中心の仏教に対して、末法思想から、旧仏教派の小乗主義や仏塔・読経・戒律主義・荒行・密教儀式などによる解脱の不可能なことを導き、「法華経」にある一切衆生・「地涌の菩薩」の解脱の法を、日蓮は、南無妙法蓮華経の題目に、浄土宗浄土真宗では、南無阿弥陀仏の称名念仏に、道元は、末法思想を方便として採用せず、一向座禅による悟りの境地である「身心脱落」による成仏を説いた。
 
 旧仏教派は、あくまで国家鎮護、氏族制を基礎とする貴族社会の仏教であり、古代的身分制の上層集団に適合した仏教であった。信仰の単位は、氏であり、その集合体である朝廷であり律令国家である。そこには個々人としての選択としての信仰というものは基本的にはあり得なかった。それが、平安末には、氏族的結合が弛緩し、解体する中から、都市の没落貴族に都市民化・個人化が生じる。他方で、武家の、ご恩と奉公の、個対個の主従関係という結合形態が生まれてくる。氏の長者の下に、血縁を基礎に結びついてきた同族的結合が弱まり、所領安堵を媒介とする地縁的結合が強まるのである。源頼朝が、異母弟の義経の院政・貴族政治への過度の接近を警戒し、血縁の義経よりも、北条氏などの関東御家人を重んじ、ついには義経を滅ぼしたのも、古代貴族的結合原理ではなく、新たな所領の利害を通じた地縁的結合関係に、鎌倉新政権の基礎を置いていた現れである。もっとも、頼朝は、旧勢力に妥協しがちであったが。

 荘園領主化した貴族政治を打倒して、守護地頭制をしいて、武家の支配下に置いていった源頼朝も、仏教勢力に対して妥協した。南都寺院の中世の荘園経営の歴史を研究し、在地領主層=武士団の形成との関連を追及したのが石母田正の有名な『中世的世界の形成』である。それに対して、アナール学派の影響もある網野善彦などは、海人、芸能民、商人、職人などの農民以外の中世世界と寺院の関わりを押し出した。それに、国民史学運動を提唱した石母田の内発性重視の姿勢に対して、海外との交流関係をも重視する歴史研究も近年では盛んである。例えば、網野は、中世前期鎌倉期に、宋人=唐人が次々と渡来して、職人として、石工、商人などとして全国を渡り歩いて活動していたことを指摘している。かれらは、例えば、平重衡によって焼失した東大寺の再建のために、渡ってきた陳和卿が宋人の鋳物師をともなっていた。その他、寺社や貴族・皇族に奉仕する職人として唐人が集団として移住して活動していたのである。

 渡来人が、特殊技能をもって、天皇や貴族に使えることは、秦氏をはじめ古代より見られるもので、かれらは、耕作を認められ、普段は本拠地において農業を営みながら、宮廷に仕えていたといわれている。

 それに対して、中世前期の渡来人の職人集団は、税・賦役などの免除とともに、諸国往来の自由を認められ、全国を渡り歩いて商売や仕事に務めたようで、こちらをほぼ専業としていたようである。

 網野氏は、塚本史氏が15~6世紀の五島列島、済州島、舟山列島を包括する「倭寇支配地域」の存在を指摘した研究などを紹介しつつ、当時の海の民の朝鮮半島から中国大陸にかけての交流の広がりも相当あったと指摘しているが、それ以前、中世前期においても、日宋貿易や唐人の渡来や高麗からの仏僧の渡来や訪問などがあった。その際に、従来の北九州からのルートだけでではなく、越前などの日本海ルートでの行き来もかなりあったようである。渡来ばかりではなく逆に朝鮮半島や中国大陸に移住する日本人もあった。

 時代は下りるが、それを示しているのが、現在NHKで放送されている韓国ドラマ『チャングムの誓い』の中宗の時代の1510年に、対馬の宋氏日本人居留民4万5千人が反乱を起こした三浦の乱が起きているように、かなりの数の日本人が朝鮮半島に住んでいた。逆に、日本列島にも、唐人をはじめとする異民族が集団で暮らしていたことは明らかである。それから、渤海(7世紀末から926年)との交流が以外に大きかったことが、この間あきらかになっている。

 それに対して前掲石母田の著作に出てくる寺奴は、あくまで、寺院の修理のための森林伐採などで奉仕するために朝廷から認められた寺院の奉公人・寺奴であって、それが生計のために田畑を耕作しているのである。氏が研究した東大寺の理屈では、中世においても、あくまでも古代律令制の身分制が貫徹されているのであり、それを根拠に、寺奴の開発による新田は当然、東大寺の不輸不入の特権を与えられた寺領として荘園に組み入れられるべきものとされたのである。このような古代的なものが、中世において、長く残存した原因を、石母田氏は、長きにわたる寺家進止の寺奴としての習性を自己変革しえなかったという精神的要因に求めている。それによって、本来は在地として領民の利害を広く代表して古代的論理をもって支配する東大寺に対して土一揆的に対決すべき地侍が、「悪党」という形態しか持ち得なかったというのである。

 このような中世における古代的なものの残存については網野善彦氏も強調しており、その基礎を村落共同体の諸関係に見ている。この頃、村落共同体の信仰の中心は神社であったと氏は指摘している。ただ信仰としては、三輪山信仰や沖ノ島の岩信仰の跡から、自然信仰が、7世紀と見られる神社の創建以前の信仰だったようである。また、氏神が同族団体の信仰対象となっていた時代から、地縁的団体の信仰対象へ変化していった。旧仏教は、国家鎮護の朝廷や貴族向けの加持祈祷などを行うもので、それ以外の人々には信仰されてはいなかった。そこに本格的に布教していったのは、鎌倉新仏教であった。

 なお、仏教における「一切衆生、悉有仏性」は、衆生は有情・無情を含むので、結局、「山川草木、悉皆成仏」、すなわち生物・無生物を含む一切の世界が仏性であるという一種の汎神論でもあり、その点で、自然信仰との共通性を持っている。

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