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日本の仏教についてのノート(5)

  親鸞の生涯
 鎌倉仏教の祖の一人である親鸞は、1173年(承安3年)京都の日野で生まれたとされる。1181年(治承5年)9歳の時、慈円のもとで出家の後、比叡山延暦寺で修行した。

 1201年(建仁元年)、29歳のとき、京都の六角堂で救世観音に祈念し、95日目の暁に、聖徳太子(救世観音)の夢告があり、それから、法然門下となったという。

 1207年(建永2年)、興福寺の訴えにより、専修念仏の停止、住蓮・安楽など4名が死罪、法然・親鸞ら8名が流罪となった。法然は土佐に、親鸞は僧籍を剥奪され、越後に流された。越後で恵信尼との間に子をもうけている。1211年(建暦元年)、法然とともに罪をゆるされた。法然は翌年、京都で80歳で亡くなる。親鸞は、京都に帰らず越後にとどまった。

 1214年(建保2年)、親鸞は、常陸へ向かい関東での布教活動を展開した。この頃、親鸞は、寺などの目立つ本拠を構えずに、在家の信徒の家などを転々としながら、布教を続けたという。この間、常陸や下野などの直弟子24人が開山した。20年あまり関東で布教した後、62歳頃、京都に戻った。1247年(寛元5年)頃、関東時代に草稿をしたためていた『教行信証』完成した。その後、『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を完成した。

 親鸞が帰京してのちの関東では、信者の動揺が起きていた。そこで親鸞は息子の善鸞を説得のため東国に派遣した。しかし善鸞は、かえって、信徒たちとの間の対立を拡大し、邪説を説くようにまでなったと言われている。そのため、1256年、親鸞は、手紙で、善鸞と義絶した。

 1262年(弘長2年)、親鸞は、弟の尋有僧都の住坊「善法坊」において90歳で亡くなった。臨終は、尋有や末娘覚信尼が見とり、鳥辺山南辺で火葬され、遺骨は鳥辺野の「大谷」に納められた。

 その後、法を嗣ぐ弟子たちが高田専修寺派や仏光寺派を組織して、親鸞の教えを布教していった。それに対して、この京都大谷の廟所あたりに曾孫の覚如によって本願寺が建てられ、覚如は本願寺3世と名乗ったが、信者も少なく、長く、貧窮したままであった。室町時代に本願寺8世の蓮如によって、講が組織されるようになってから、信者が増えていき、後の本願寺大教団が誕生するのである。

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