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西田幾多郎の宗教論から考える

  哲学者西田幾多郎が、1945年(昭和20)2月4日に書き始め、4月14日に完成した『第七哲学論文集』の最後の論文は、「場所的論理と宗教的世界観」であった。この完成の2ヶ月後に西田は亡くなる。大日本帝国敗戦の直前であった。

 この年の彼の日記には、4月6日「小磯数日前ガタルカナルまで取り返す自信ありと云ひ、舌根乾ざるに辞職、国民を欺くもの甚だし」とか、同8日、「鈴木総理日露戦争の時世界が日本の敗と思ったが勝った今度も勝つといふ。(国際関係が大分違う様だが。)日本の政治家は外交無視、あまり武力のみ見ていないか。判断あまりに抽象的」。5月10日、「徳富(蘇峰)は日清日露と違って今度の戦争には日本国民が気魂ない―つまり彼等の笛に踊らぬ―といふ。国民が徳富の如き指導者より頭が進んで居るのだ。グルーなど色々の実況をあげて日本の恐るべきを米国民に戒めている。徳富は敵を沖縄に撃破し尽くすは天与の神機だといふ」等々と、敗戦を確信しつつ、戦況を偽りながら戦争を煽る指導者たちを批判し皮肉りながら、彼等指導部より、国民の方が頭が進んでいるというのである。

 1911年(明治44)に、『善の研究』を出版し、大きな影響を与えた西田幾多郎だが、『善の研究』は、論理実証主義のマッハ批判を、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人があるのである」(序文)という思想によって行ったという。『善の研究』は4編からなり、第一編 純粋経験、第二編 実在、第三編 善 そして、最後の第四編は、「宗教」である。西田が、宗教を「哲学の終結」と考えていたから、第四編 宗教が、最後に置かれたのである。

 その後、絶対矛盾の自己同一や場所の論理などの独自の哲学的展開を遂げながら、しかし最晩年において、再び、宗教論がいわば遺稿(最後の「私の論理について」は短い草稿だけである)となったというのも、なにか因縁めいている。

 『善の研究』の宗教論は、「かく最深の宗教は神人同体の上に成立することができ、宗教の真意はこの神人合一の意義を獲得するにあるのである。即ち我々は意識の根底に於て自己の意識を破りて働く堂々たる宇宙的精神を実験するにあるのである」というのであるが、それを「ニュートンやケプレルが天体運行の整斉を見て敬虔の念に打たれたといふ様に我々は自然の現象を研究すればする程、其背後に一つの統一力を支配して居るのを知ることができる」という自然法則の統一力との合一、精神と自然の統一力としての神を根本にしたものであった。しかしながら、それを、この段階では、意識の統一に求めており、唯心論・観念論・唯識論的な宗教論だった。

 それが最晩年の「場所的論理と宗教的世界観」になると、「従来の日本精神は、島国的に、膚浅なる平常底に偏して、徒らに自負して居るに過ぎない。今日、世界史的立場に立つ日本精神としては、何処までも終末論的に、深刻に、ドストエフスキー的なるものをも含んで来なければならない」と、日本精神の批判や敗戦を見据えたかのような「終末論」的なものを含んだ日本精神の必要の強調が行われる。そして、最後は、国家論である。

 「国家とは、それぞれに自己自身の中に絶対者の自己表現を含んだ一つの世界である。故に私は民族的社会が自己自身に於て世界の自己表現を宿す時、即ち理性的となる時国家となると云うのである。此の如きもののみが国家である。かかる意味に於て国家は宗教的である。その成立の根底に於て宗教的なる、歴史的世界の自己形成の方式が国家的であるのである。歴史的世界は国家的に自己自身を実現するのである。併し斯く云ふことは、国家そのものが絶対者であると云うのではない。国家は、道徳の根源ではあるが、宗教の根源であるとは云われない。国家は絶対者の自己形成の方式として、我々の道徳的行為は国家的でなければならないが、国家は我々の心霊の救済者ではない。真の国家は、その根底に於て自ら宗教的でなければならない。而して真の宗教的回心の人は、その実践に於て、歴史形成的として、自ら国民的でなければならない。而も両者の立場は、何処までも区別せられねばならない。然らざれば、それは中世的として、却つて両者の純なる発展を妨げるものである。近代国家が信仰の自由を認めて来た所以である。君主的神のキリスト教と国家との結合は容易に考へられるが、仏教は、従来非国家的とも考へられて居た。併し鈴木大拙は大無量寿経の此会四衆、一時悉見、彼見此土、亦復如是という語を引いて、此土に於て釈尊を中心とした会衆が浄土を見るが如く、彼土の会衆によって此土が見られる。娑婆が浄土を映し、浄土が娑婆を映す、明鏡相照す、これが浄土と娑婆との聯貫性或は一如性を示唆するものであると云って居る(鈴木大拙著「浄土系思想論」一〇四頁)。私は此から浄土真宗的に国家と云ふものを考へ得るかと思ふ。国家とは、此土に於て浄土を映すというものでなければならない」。 

 西田幾多郎の「絶対矛盾の自己同一」とは仏教でいう生死即涅槃などという場合の「即」の論理のことである。国家と宗教は相互に絶対的に区別されたまま一如だというのは、それらが「即」という関係にあるからだというのである。そして、彼の国家論は、一見すると宗教国家論のようだが、そうではなく、政教分離によって、国家はあくまで歴史的世界の自己形成の方式であり、理性的でなければならないのである。つまり、絶対者の法則を表現しなければならないのである。それに対して、宗教は、あくまでも「親鸞一人のために」という個との関係において成立するのであり、それが同時に、歴史的世界という理性的な世界の形成者として、国民でなければならないというのである。

 鈴木大拙と直接意見が合致したのかどうかはわからないが、鈴木大拙が、開戦時より、日本の敗戦を必至と見て、戦況が刻々と悪化する中で、『日本的霊性』を著して、とくに、大地・農業に深く根づいた浄土宗・浄土真宗と禅宗に、日本的霊性を見出し、それを精神的基礎にして、戦後の日本精神の再生を展望したのと合わせるかのように、西田は、国家は浄土真宗的に「此土に於て浄土を映すというものでなければならない」と結論を下している。国家はあくまでも理性的で道徳的であるが、その宗教的根底からくるビジョンとしては、浄土を実現することだというのである。すなわち、苦から解放された平等な世界である。

 西田幾多郎は、原爆も敗戦も体験することなく、1940年6月7日、鎌倉の自宅で亡くなった。葬儀は、鈴木大拙が世話をして北鎌倉東慶寺で行われた。

 敗戦後、占領体制の下で、浄土真宗的な浄土国家ではなく、英米流の民主国家化が押し進められた。戦後に大きくなった宗派の多くは、現世利益を強調したところだった。西田哲学は、戦後左翼の中で、「主体性論」として継承された。矛盾を基礎に据えたその弁証法的な思考は、今こそ求められているのではないだろうか。もちろんそれはそのままでということではない。もともと、仏教発生時の思想は、無我無所有や平等主義などの原始共同体の原理を反映したものであった。自らの寺を持たず、在家のまま亡くなった親鸞は、いわば、釈迦の時代に回帰したようなものである。

 また、キリスト教は、確かに、君主的神のようなものに解釈されてしまったのだが、そういうものでもない。『旧約聖書』が、バビロン補囚からペルシャ支配時代に解放されてエルサレムに帰って、再建した時に、ユダヤ教の再構築を進めた改革派が、とりわけモーセの律法を中心に聖典編纂して作られたという事情が反映しているので、そうみえるということもあるかもしれない。この改革派は、エルサレムの街自体を建設しなければならなかったので、そこで、氏族別に住む地域や仕事を割り当てたり、ふたたび他民族によって脅かされないように、モーセ時代のように、異民族との結婚を禁止したりしなければならなかったので、似た状況の預言者であったモーセの律法を重視したのであろう。しかし、『旧約聖書』には、モーセの後、祭政一致の士師の時代というのがあって、それには、女預言者が士師としてイスラエルを率いたとか、共同体の時期があって、各部族が共同体を形成して、合議制をとっていたということが書かれている。その後、ダビデなどの王が立てられる王国時代になるのである。王国時代には、たびたび王が神に背き、他の神を信仰したり、他民族の女性を妻にしたりした。部族共同体的な時代があったのであるから、『旧約聖書』の神は君主的神というわけではない。

 『新訳聖書』の神は、ローマ・カトリックによって、三位一体の父なる神になったが、やはり初期の教会は、共同体的で、財産共有制をとって、ただ霊に導かれて伝道を行ったということになっている。イエス自身が、荒野で禁欲的な修行をする教団で修行をしたともいわれている。霊を唯心論的に我の外なる絶対唯一神から来るとするか、それともそれを我の内在的根底から来るとするかによって、違ってくるが、西田は汎神論的な後者の立場を取っている。どちらにしても、君主的神というようなイメージは、『新約聖書』からはうかがえない。バルト神学では、神の超越性が強調され、神と人間との同一性は否定されているという。『新約聖書』学者の田川健三は、「イエスは宗教家ではなく、とことんまで宗教を批判した人なのだ」(『批判的主体の形成』三一書房)と述べている。例えば、イエスは、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せと言ったのだが、それは通常言われているように、政教分離を主張したのではなく、神殿税などのユダヤ教が人々から取る宗教税を非難したというのである。

 西田の遺稿となった「場所的論理と宗教的世界」が、浄土国家論であったことは、すでに敗戦の必至なることを意識して、いかにして再生すべきかということの提言であったといえよう。日米戦争については、彼は、日本国民の力を思い知らせるというだけのものだと自覚していたようである。どうせ負けると思っていたが、ただでは負けないということだろう。そして、勝つぞ勝つぞと上から煽っている指導部に対しては、国民の方が頭が進んでいて、踊らされないことを冷静に見ていた。指導部と国民の間に信頼関係がなかったたわけである。これでは、指導部が、敗戦すれば、「国体」=自分たちが危ういと判断したのも当然である。もはや国民は、指導部が笛を吹いても踊らないまでに頭が進んでしまったのである。それもわからずに、徳富蘇峰などの指導部は、踊らぬ国民を非難し、沖縄で形勢逆転などと空語を叫び立てる。

 アメリカが「国体」護持を約束したというので自分たちの安全は確保されたと指導部が安心したのもつかの間、マッカーサーと米国様に頭を垂れたのに、「平和憲法」を採択させられ、東京裁判が始まる。近衛はまさかその被告になるとは思いもしなかったという。国民は、1946年5月の米よこせのデモで、宮城に押し寄せ、宮内省と交渉の末、皇族の台所に入った。冷蔵庫を開けると、中には、ブリやらヒラメやらのその頃一般では手に入らない高級食材が入っていた。国民の方が、頭が進んでいたのである。さらに、平和と民主主義、人格の形成を目的とする教育基本法が制定される。人格形成は西田の望むところであった。ただ、西田はやはり時代の人であり、天皇制への幻想を強く持っていた。しかし、国民はそれよりも頭が進んでいたのである。新しい情況に適応していくのである。

 それから60年、この国の指導部は、人格を形成する努力を忘れ、浄土の理念などとは反対の冷酷な競争主義を煽り、愛国心がないの道徳がないのと国民を責めながら、自らは毎日のように腐敗堕落者を出し続けている。指導部こそ道徳が欠けていることは明らかである。そして、福沢諭吉流の「内安外競」(国内を安らかにするために、外で争い、人々の目を外に向けること)という安易で危険な方法に頼っている。そういう時だからこそ、西田幾多郎を読み直し、根本から時代を考えてみた方がいいと思うのである。

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