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2006年9月

安倍総理「所信表明」の教育対策について

 9月29日の国会での所信表明演説で、安倍総理は、教育問題について、次のように語った。

  「私が目指す「美しい国、日本」を実現するためには、次代を背負って立つ子どもや若者の育成が不可欠です。ところが、近年、子どものモラルや学ぶ意欲が低下しており、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下も指摘されています。

 教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくることです。吉田松陰は、わずか3年ほどの間に、若い長州藩士に志を持たせる教育を行い、有為な人材を多数輩出しました。小さな松下村塾が「明治維新胎動の地」となったのです。家族、地域、国、そして命を大切にする、豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成に向け、教育再生に直ちに取り組みます。

 まず、教育基本法案の早期成立を期します。

 すべての子どもに高い学力と規範意識を身につける機会を保障するため、公教育を再生します。学力の向上については、必要な授業時間数を十分に確保するとともに、基礎学力強化プログラムを推進します。教員の質の向上に向けて、教員免許の更新制度の導入を図るとともに、学校同士が切磋琢磨(せっさたくま)して、質の高い教育を提供できるよう、外部評価を導入します。

 こうした施策を推進するため、わが国の叡智(えいち)を結集して、内閣に「教育再生会議」を早急に発足させます」。

 まず、安倍総理は、「近年、子どものモラルや学ぶ意欲が低下しており、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下も指摘されている」と、問題点をあげている。しかし、子どものモラル低下というが、過去と比較してどれほど、またどのように低下したかを明らかにしていない。いろいろと、子どもが関わる犯罪や学級崩壊などの現象について、マスコミなどが、大きく報道するが、それは過去より事態が悪化したことを意味しているのだろうか? これは疑問で、かつての報道は、事件についての事実を淡々と伝えるというスタイルのものが多かったのに、最近は、報道でも視聴率競争が激しくなって、下請けの番組制作会社がセンセーショナルに脚色を加えている場合が多いので、そうした印象の強烈化があって、なんとなく事態が悪化しているような気になっている人が多いのではないだろうか。
 
 学習意欲の低下は、明らかに、小泉改革による勝ち組と負け組の二極化・格差固定社会化の結果の一つである。負け組の方は、早い時期から、勝負そのものをあきらめざるを得なくなっているからだ。勝ち組は、子どもを塾に通わせ、地域から離れた私立進学校などに通わせたりしている。それに対して、負け組は、最初から勝ち目のない勝負に挑むという無駄な努力を捨てて、それなりの負け組ルートに乗るほかないとあきらめさせられているのだ。小泉改革の基本思想である「優勝劣敗」主義が、こうした現実をもたらした原因だ。それを根本から改めないで、どうやって、子どもたちの学習意欲を回復できるというのか。平等への希望こそが、やる気を失った子どもたちの学習意欲を広く回復させるインセンティブになるのである。
 
 「子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下」は、そもそも家庭や地域の結合関係が、希薄になってきたことから、生じているので、それは教育力だけの問題ではない。これは、家庭・地域の結合を再生するための、人々の意識的活動が必要で、そのための時間と労力を、そこに向けなければ、無理である。地域活動に参加するための時間を持たねばならないわけで、それには、労働時間の短縮、職場での消耗の軽減、等々が必要である。
 
 安倍氏は、教育の目的を、「志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくること」と語る。それに対して、教育基本法は、教育の目的を、「第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と記している。そして、故郷長州の先達である幕末の吉田松陰の開いた松下村塾を、そうした教育の先例として紹介し、「家族、地域、国、そして命を大切にする、豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成に向け、教育再生に直ちに取り組みます」と述べている。まあ、一般的に無難な概念を並べた感じである。
 
 そして、まずは、先の国会で継続審議となった与党の教育基本法案の採択を目指すとしている。そして内閣に「教育再生会議」をつくるという。
 
 学力主義と規範主義を身につけるため、公教育を再生するとしている。学力向上のために、「必要な授業時間数を十分に確保するとともに、基礎学力強化プログラムを推進します」と、「ゆとり教育」の見直しを明言した。そして、教員の質の向上に向けて、教員免許の更新制度の導入を図るとともに、学校同士が切磋琢磨して、質の高い教育を提供できるよう、外部評価を導入します」と二つの新制度の創設を掲げた。前者については、今でも、教員の研修制度があり、それを充実させることでおそらく対応が可能である。あえて、新制度をもうけるのは、天下りの多い文部科学省が、例えば、「教員免許更新センター」みたいな新機関をもうけて、新たな天下り先をつくる狙いがあるのではないだろうか? 外部評価制度といっても、評価基準が何かということがはっきりしないと評価しようがない。当初、安倍氏が主張していた教育バウチャー制度については、この所信表明からは消えている。教育バウチャー制度は、格差を固定・拡大するおそれがあり、さらに、地域と教育を切り離してしまって、地域の教育力の再生という所信表明の考えと矛盾しているのである。

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転載 9・27弾圧救援会(釜ヶ崎)

 抗 議 声 明

 昨日午前6時ごろ、私たちの仲間が4名、大阪府警により令状逮捕され、さらに午後9時ごろ、1名が逮捕されました。
 釜ヶ崎地域合同労組の稲垣さん、西成公園に住む二人、西成公園よろず相談所の仲間、釜ヶ崎パトロールの会の仲間一人です。4名についての被疑事実は2件の「威力業務妨害」と「暴力行為等処罰に関する法律違反」。釜パトの1名についてはまだ詳細はわかっていません。

 私たちは即日、野宿者運動団体、支援団体、共闘してきた労働組合などで集まって話し合い、「9・27弾圧救援会」を立ち上げました。救援会では今回の弾圧を「西成公園などでの強制排除を織り込んだ、計画的な運動つぶし」とみています。
 私たちは、人間としての尊厳を守り「生き抜く」ための闘いとして貧困と排除と抗し闘ってきた野宿の仲間たちと、これからも一緒に闘い続けるという決意を強くしています。そして、あからさまな運動つぶしによってその非人間性をさらけだした大阪市・大阪府警をけっして許さず、5名の仲間の奪還と運動の前進を勝ち取りたいと思います。

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 稲垣さんは、定期的に大阪市が清掃・消毒に入る汐見橋(大阪市浪速区)周辺に住む仲間の小屋で、清掃作業の際に不当な嫌がらせがないように監視する行動に継続的に取り組んでいます。4月27日(木)の同作業の際、市職員(大阪市建設局)が当人の許可無くビデオ撮影しているのを稲垣さんが抗議したことをもって、「威力業務妨害」と「暴行」としているものです。報道されたような手首をつかんだとか胸を小突いたという事実はありません。
 稲垣さんは数年来、西成暑の警察官による釜ヶ崎労働者への暴行を糾弾する取り組みを続けていました。また、最近では「あいりん職安」を糾弾する取り組みに活発に取り組み、さらに汐見橋の現場では、市職員が仲間の小屋に「撤去告知ビラ」をべたべた貼り付ける行為を大阪弁護士会に人権救済の申し立てをして、弁護士会から市に対する「勧告」を引き出しました。今回はそうした一連の闘争への報復的弾圧という見方もあります。

 もう1件の被疑事実は、6月12日、西成公園の排除を巡る攻防のなかでのことです。西成公園では、近所の公園で強制的に排除され仲間を受け入れて新規に小屋を建てています。排除の際、大阪市は代替居住地も示さず、将来展望の見えない自立支援センターへの入所を勧めるだけでした。住処を失った仲間に、西成公園の労働者が「じゃあうちにおいでよ」と声をかけたのでした。このように西成公園では、排除に抵抗して生き抜くため、仲間の暮らしを仲間で支えようと、新たな仲間を迎え入れてきました。ですが大阪市はここでも「新規建設は許さない」と圧力をかけてきました。この日も「撤去勧告」に来ていた公園事務所職員(大阪市ゆとりとみどり振興局)に対する抗議行動を行っていました。
 西成公園の3人は、稲垣さんや釜パトメンバーとともに数年来の反排除の取り組みに参加してきた仲間です。昨年夏、西成公園に強制排除の危機が迫ったときも、うつぼ・大阪城公園の行政代執行の時も、私たちは一緒に闘いました。

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 救援会では、大阪市はこの冬にも強制排除を再び強行してくる可能性があると見ています。そのための事前弾圧として5名を逮捕したのだと考えています。
 西成公園だけのことではなく、来年IAAF世界陸上が開催されるうえ、08年には「指定管理者制度」が導入される長居公園、08年に日本で開催されるG8サミットの開催候補地になっている大阪城公園、総合的な観光化をすすめようとしている中之島一帯でも、強制排除の可能性があると考えています。
 大阪市はいま、「行政改革」の名のもとに「経済再生」を推し進めています。野宿者とブルーシートのテント、それを支える運動を「経済再生」のための「阻害要因」とみなして徹底的に排除しようとする、大阪市の強い決意を感じます。富める者のための「改革」や「経済」のために、野宿労働者をはじめ貧しい者たちが排除される社会状況に、強く抗議します。

 私たちは逮捕された仲間を支え続け、貧困と排除とどこまでも闘い続けます。
 今後ともご注目、ご支援をよろしくお願いします。

 2006年9月28日
9・27弾圧救援会
  連絡先:NPO法人釜ヶ崎医療連絡会議
(TEL/FAX 06-6647-8278 E-Mail:iryouren@air.ocn.ne.jp)

**********

【お願い】
●5名の仲間の同時逮捕、しかも3件別個の被疑事実ということで、救援会では弁護士費用や訴訟費用が不足しています。たいへん恐縮ですが、みなさまのご支援におすがりするほかない状況です。どうかよろしくお願いします。

 カンパ振込先
郵便振替口座 00940-5-79726(加入者名:釜ヶ崎医療連絡会議)
通信欄に9・27弾圧救援と書いてください。

●以下の連絡先に抗議の電話・FAXをお願いします。

大阪市経営企画室             06-6208-9720 
大阪市ゆとりとみどり振興局 総務部 庶務課 TEL06-6615-0614 FAX06-6615-0659
大阪市建設局 管理部 路政課        06-6615-6675
大阪市市民局 市民部
広聴相談課      TEL:06-6208-7333 FAX:06-6206-9999
大阪府警察本部              TEL 06(6943)1234(代表)
西成警察署                06-6648-1234

(以上です)

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トヨティズムの克服

 山田鋭夫氏は、『レギュラシオン・アプローチ』の最後「新しい市民的連帯」で、トヨディズム日本の問題点を克服する方向を、「交渉内容を自由時間、社会福祉へと拡大していくとともに、交渉レベルを企業から地域、全国へと広げていくこと」だと述べる。
 
 それは、「交渉レベルが企業レベルに固定されているからこそ、優良企業と劣等企業の差別にもとづく労働者の分断が生ずる一方、その分断における底辺に落ちたくないという競争意識が、労働者の高い参加(「会社人間」「サービス残業」「過労死」)にもかかわらず、妥協内容を貧しくしている」からである。
 
 そして、氏は、日本では、個人があまりにも無防備に企業に包み込まれて、資本の論理さらされているという。かつては、大家族的連帯や共同体的連帯があったが、これが解体し、それに代わるものが作られなかったのが、こうした事態を招いたとして、職業や企業を超えた人間関係や社交関係の組織が形成され市民権を得ることが必要だという。企業は、たんなる労働組織や営利組織ではなく、連帯組織(「家族」的組織、互助組織、社交組織)としての役割をも果たすようになった。
 
 「企業がまるがかえ的組織にまで成長し、ここに企業タコツボ社会が形成されたのが、トヨティズム日本である」。
 
 問題解決のためには、「民間の自主的コミュニケーションのルート」、新しい市民的連帯のネットワークをつくりあげる以外にないという。
 
 「銘記すべきは、この非企業主義的な自発的連帯のネットワークこそ「市民社会」とよばれるものだということである」。
 
 そして氏は、「市民社会は西欧において、一方では資本主義を発達させた基盤であり、他方では資本原理のストレートな貫徹を防止する市民的共同の基盤でもあった。個人や家族は資本のロジックのもとに丸裸で投げだされているのでなく、この市民社会という緩衝装置をもっているのが、西欧資本主義である。逆に個人・家族が企業のロジックのもとに丸呑みにされ、資本の原理が過剰に貫徹しているのが、現代の日本である。「家族―市民社会―国家」のヘーゲル体系をもじっていえば、日本にあるのは「家族―企業社会―国家」なのである。その結果があの競争にもとづく参加であり、民主主義なき経済効率であった。日本において「勤労者民主制」を語ることは「市民社会」を語ることと別物ではない」という。
   
 これで、山田氏の同書は終わりである。なるほど、氏が言うように、西欧資本主義下では、自由時間の確保(時短)、ゆたかな家族サービス、バカンスなどの確保など、自由時間を多く確保して、家族生活、住民交流、趣味的交流、交友などの社交を、日本よりは、多く行っているようである。しかし、アメリカはそうでもない。やはり、日本のように、アメリカでは、長時間労働である。しかし、日本の場合、企業主義も、かつてのような、個人・家族を包む共同体的なものではなくなってきている。もっとも、アメリカには、植民地時代からのコミュニティーがあり、最近はキリスト教の宗教コミュニティーが拡大している。
 
 小泉改革は、そうしたものを壊すことを促進した。山田氏の主張では、こうしたものを壊して、代わりに、西欧的な「市民社会」を創造すべきだということになる。ところが、「市民社会」は創造されず、ただむき出しの資本のロジックのみが、ストレートに貫徹するようになった。自由時間の拡大どころか、労働時間は増え、賃上げという代償もなく、医療・社会保障費の負担は増えている。企業は、保養・社員へのサービス施設などをお荷物として売り払って、福利厚生の水準を切り下げている。代償なき、長時間労働、企業への長時間拘束が、行われている。それもこれも、国際競争に勝つためだといい、企業が生き残るためだと言っている。それは人間的生活の切り下げ競争の様相を呈している。
 
  昨日までのこの国際競争の勝者アメリカの多くの人々の生活実態たるや、とうてい勝者の豊かさを感じさせないほど低水準であり、昨年夏のニューオーリンズなどを襲ったハリケーン被害の状況は、そのことを否応なく世界に明らかにした。その一方で、ここ数年、世界一の億万長者になっているビル・ゲイツは、世間から批判を浴びるまで、寄付もしていなかったように、金持ち減税などの金持ち優遇策を施されても、社会問題を積極的に解決しようとしない大金持ちがいる。エンロンは、停電で、どれだけの人が困り、場合によっては人が死にかねないことに思いをいたすどころか、それを利用して、短期的に多く儲けるということしか考えず、カリフォルニア州で人為的な停電を起こした。
 
 山田氏は、西欧的な「市民社会」というが、日本でも、惣村・町衆自治などの地域自治の歴史がある。それは、中世に堺などの自治都市や加賀の一揆勢の統治などにまで発展したことがある。それが、織田信長による加賀支配・堺支配などを経て、破壊され、幕藩体制の成立以後、村三役・町三役などの末端行政の整備、5人組・檀家寺請け制などの統治体制の下で、窒息させられる。しかしながら、村役を代表とする一揆や強訴なども行われるなど、村役も村落共同体の自治の代表的な位置もある程度は残されていたところもあった。しかし、村役が同時に大農・大地主として、小作人との対立を深めていく江戸後期においては、村役も、打ち壊し、一揆の対象となっていく。
 
 企業主義的共同体は、戦後復興期の経済成長を支えてきた。それには、企業が、社宅などの福利厚生を整備し、労働者と家族を丸抱えにしたということがあった。政府の社会福祉制度は、貧弱であったから、企業の福利厚生が、社会福祉的な役割を担ったのである。労働者の多くが、職場に近い社宅で、隣り合って似たような生活状況で暮らしていた。そのことが、60年三井三池炭坑争議の際に、総評高野路線の「ぐるみ闘争」の基盤になった。職住近接の共同の地域生活が、闘争を支えた。企業丸抱えは、一方では、企業主義に労働者とその家族を包摂するものであったが、他方でそれは、労働者・家族を団結させ、抵抗を頑強にする条件にもなった。しかし、今、労働者は、分散して暮らしていて、日常的にはお互いに無縁の生活をしていることが多いので、高野路線型の労働運動が成立する条件は小さい。
 
 1960年代には、高度成長のひずみや矛盾が多く出てきて、公害問題や過疎・過密や社会福祉の貧弱さも問題化された。そこで、70年代に田中内閣が、これらの諸問題などを解決するために、大規模な公的介入へと転換を図るのである。均衡ある国土の総合的発展を図るとする国土庁が成立し、全国総合開発計画が作られるようになるのがこのころである。環境庁もこのころだ。

 市民社会的連帯のネットワークとしての「市民社会」は、トヨティズム克服の基本となると山田氏は展望するが、そこには、西欧「市民社会」という歴史的文化的に異なる社会形成のモデルからの偏りをただすという西欧を理想化しすぎる面があるように思われる。一方で、総評高野路線は、家族ぐるみ地域ぐるみの労働運動によって、企業主義に対抗したということもあり、そして新自由主義が大企業のイデオロギーとなっている現在では、地域・共同体を再生するなり、連帯を構築し直すなり、ということの中に、人間関係・社会関係の変革の基礎を据え直すことや職住接近型の都市形成や地域形成などが、資本のむき出しのロジックの緩衝地帯を作ることにつながるのではないだろうか? 要するに、トータルに、社会生活の生産・再生産の条件を、作り上げる連帯という方向が必要なのではないだろうか。

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トヨティズム日本について

   山田氏は、「トヨティズム」を公正なき効率と特徴づけた。氏は、基本的な分析視点を、労働編成(生産性確保)と労使妥協(生産性分配)、そして、それらを規定する労使交渉の独自性に置く。

 「トヨティズム」は、どのようなものか。
   
 まず、生産性確保の点で、中心部労働者・大企業正社員労働者については、 
 
 (1)企業内教育やジョブ・ローテーションをとおして、高熟練で多能工的な労働者(内的フレキシビリティーをそなえた労働者)を育成し、いわば構想と実行を統合するような労働と労働編成を開発し(OJT、ラーニング・バイ・ドゥーニング、多行程もち)、

 (2)労働者の参加意識・参加意欲を高め(QCサークル、提案制度)、

  (3)小型汎用機械など技術革新を導入するにさいして労働組合からの反発も少なく(ME化、ロボット化)、
   
 (4)垂直的な情報・部品流通と調整にかえて水平的なそれをつくりあげた(JIT、カンバン)。

 「つまりは労働者の内的フレキシビリティーとインポルブメントを高める戦略であった」。
 
 それに対して、労使交渉の妥結内容(生産性分配の内容)は何か。

 それは、雇用保証・「終身雇用制」「年功序列賃金」だというのである。そして、それは、「自由時間の増大(労働時間の短縮)や社会福祉の拡充といった妥協にはとうてい至っていないのである」。したがって、日本の大企業正社員労働者は、「年功序列賃金」「終身雇用制」に支えられて、定年までの人生の大部分を一企業で労働して暮らしを立てている。人生設計も、それに合わせて構想され、計画がくまれている。だから、低レベルの社会福祉よりも、退職金や貯蓄に頼って、老後の生活設計をしてきたのである。それに対して、高福祉の北欧諸国では、老後に備えて、多額の貯蓄をする意味がないので、お金を消費や投資に回すのである。

 ケインズ主義者、例えば、『毎日新聞』経済コラムの三連星氏は、「個人が金を使わないなら国、地方が公共投資するよりない」と主張する(9月26日『毎日新聞』「経済観測」)。しかし、それには、レギュラシオン派のように、労働編成や生産性分配などの視点が欠けており、マクロな経済指標とその間の関連しか見ていないものでしかない。ケインズ主義政策が好循環を達成できる場合の諸条件が今存在するのかどうかなどの検討が必要である。レギュラシオン派は、それをフォード主義的蓄積体制と調整様式が整っている場合だと主張し、その構造はすでに危機に陥っており、したがって、フォード主義を条件とするケインズ政策は、好循環を実現できる条件がないと主張する。
 
 山田氏は、こうしたトヨティズムの底に、「現代日本に特殊な社会形成の問題」「すべてが企業単位に収斂していくという形での社会形成」の問題があるという。それは、外的組織・規則・協定といった次元で作用しているのではなく、より根底的に人々の価値体系や表象体系の次元にまで食い込んでいるというのである。「企業主義は現代日本人のハビトゥスとなり、ゲームのルールとなっているのであり、つまりは調整様式なのだ」。
 
 ポワイエによれば、制度諸形態の作用は、①法律・規制・条例、②協定・妥協、③価値体系・表象体系、の三つである。トヨディズム日本を支えているのは、「表象体系という暗黙の共同体」主義としての企業主義であり、その調整様式は、企業主義的調整であろうという。
 
 トヨティズムの第2の問題点は、「二重社会」「分断社会」だという。
 
 「現代日本はもう一つの日本を抱えている。というよりも大企業の日本(中心部労働者の日本)は、中小企業・女性・パートタイマーなどの周辺部労働者があってこそ成立しているのである。例えば中心部労働者の雇用保証(安定雇用)は、裏側に周辺部労働者に対する自由な雇用調整(不安定雇用)なしにはありえない。こうした構造のうちに見られるものは、中心部労働者と周辺部労働者との分断社会であり、二重社会である。そしてこのことは交渉レベルが企業単位であることと深く関係する。大企業の企業別組合や自社中心主義は、中小企業労働者や未組織労働者には無関心なのである」。
 
 ただ、大労組の組織率低下や不安定雇用労働者が全雇用労働者の3分の1にまで増えてくると、大企業の企業別組合でも、無関心のまま放置できない問題になってきている。「連合」のユニオン組合の組織化があるし、全労協、全労連などのナショナルセンターはもちろん、その他のユニオン型労組が、不安定雇用層の組織化に今、取り組んでいる。アメリカでも、AFL―CIO内で、労組組織率低下をくい止めるために、移民労働者などへの組織拡大をはかる動きが活発化し、ついには中央との路線対立が起きて、大労組がいくつも抜けるということがあった。日本では、まだ移民労働者が多くないので、二重化が、移民問題と絡むことはそう多くはないのだが、不安定雇用層の問題は、格差社会についての議論の浮上などを通して、前よりは少しは政治問題化しつつあるところである。

 公共投資しかない=三連星

 景気対策にはお国柄がある。米国ではまず減税、日本では財政による公共投資だ。

 清教徒のころはいざ知らず、20世紀の米国経済は旺盛な個人消費がバックボーンとなっていた。過剰生産におびえるより「消費は美徳」。現金がなければローンもクレジットもあるではないか。

 こんな状態で減税になれば、その分は確実に消費に回るし、ポンプの呼び水のようにプラスアルファの働きをするだろう。

 費用・効果の面では申し分ないが、減税分は即歳入減である。その分、歳出に大ナタをふるうつもりもないまま財政慢性出血の土台となる。

 いずれ景気が回復すれば歳入が増えて赤字を消却できると言うのだが、それはいつのことか。少なくともブッシュ時代は期待しない方がよい。

 日本でも減税は、一応項目としては上るけれど「まあ毒にはならぬから」程度で米国のような特効性はアテにしていない。

 考えてみれば高度成長期は減税の連続であった。ただメリハリもなく自然増収分を気前よく(恩にきせて)減税した。あの壮麗なシャウプ税体系を虫食い同然にしてしまった。それでいて減税はどれだけ景気に役立ったのか。学者によると「ほとんどソックリ貯蓄に回った」と言う向きもある。

 マクロ的にはともかく、家計から見るとコマギレ減税ではどこへ消えたのか、わからない。そこへ旺盛な貯蓄。

 個人がカネを使わないのなら国、地方が公共投資をするよりない。「まだやるところがあるのか」と一般の評判はよくないが、気をつけてみれば社会インフラはまだまだ未整備だ。小泉時代の効率主義のアフターケアだけでも大変だ。なにより地域格差を埋めるのに他に手段があるか。(三連星)(『毎日新聞』2006年9月26日)

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日本型フォーディズム

  レギュラシオン派の各国比較において、日本の高度成長期の日本のフォード主義は、(1)高い生産性上昇率、(2)賃金の低い生産性シェアリング、(3)大きな賃金格差、(4)社会的再分配支出の低さ(福祉国家の貧困)という四大支柱の上に立っていたという(山田鋭夫氏)。それは、「いわば公正なき効率のフォード主義であった」。

  (1)は、旺盛な技術導入・設備投資と豊富で高質な労働力の協力的参加に由来する。
  (2)は、戦後日本資本主義を考える場合の決定的ポイントである。これについては、「消費需要主導型でなく設備投資主導型の成長をみるもの(伊藤誠)」、農村領域や家族的連帯の強力な残存をみるもの(遠山弘樹)」、「賃上げよりも雇用保証を優先した日本的労使妥協をみるもの(篠田武司)」、などいろいろな見方があるという。山田氏は、これらはどれも妥当性があるという。
  (3)は、大企業/中小企業、本工/臨時工、男/女の賃金格差や連結交渉の弱さをあらわしている。
  (4)は、戦後日本の国家がより多く、「企業国家」「成長国家」としてあったこと、したがって福祉や連帯は国家・自治体でなくすぐれて家族・共同体、企業共同体によって、担われてきたことを示している。
 
 「要するに高度成長期日本は、資本は高い生産性を独占しつつ国家を自己に従え、労働者の力は弱くかつ不平等に分断されており、その弱さは家族的連帯によってカバーされていた」。
 
 日本の場合は、「ハイブリッド・フォード主義」であったと言われるが、1970年代以降は、「トヨディズム」と呼ばれる「ポスト・フォーディズム」の一モデルを開拓しているといわれる。ただし、この点については、議論があるという。山田氏の要約をそのまま引用して、M・ケニー/R・フロリダと加藤哲郎/R・スティーブンスの間のこの点をめぐる議論を見てみる。
 
 「われわれは、日本における生産の社会組織がポスト・フォーディズムの発展段階に到達したと断言する。そしてわれわれは、この新しくユニークな生産の社会組織を「ポスト・フォーディズム日本」とよぶ。ポスト・フォーディズムの生産は、断片的作業、機能的専門化、機械化、アセンブリーラインというフォード主義の諸原則を、チーム政策作業単位、ジョブ・ローテーション、ラーニング・バイ・ドゥーイング、フレキシブル生産、統合された生産コンプレックスにもとづく生産の社会組織に置きかえる。・・・日本は現在、テクノロジー的・経済的再編成の遠大なプロセスの中心にある。このプロセスは、資本主義発展のつぎの段階における労働者の役割と幸福だけでなく、世界経済の将来的軌道とそのなかでの諸国民国家の地位にも影響をあたえるであろう」(ケニー/フロリダ)。
   
 「私とスティーブンスの共同論文は、前述ケニー/フロリダ論文を主要な論敵に設定し、欧米左翼にみられる「日本・ポスト・フォード主義段階」論の実践的危険を、強く訴えた。そして、労使関係において「フォード主義」から「ポスト・フォード主義」への移行の措置とされる、①大量生産から少量多品種生産へ、②半熟練工から多能工へ、③階層制的経営から「労働者参加」へ、④職能賃金から属人賃金へ、⑤大量消費から「ジャスト・イン・タイム」の需要管理へ、⑥ショップ・フロアの抵抗から終身雇用による労資協調へ、のそれぞれの論点に即して、日本の「企業社会」の実態を対置し、「日本的経営」は、「ポスト・フォード主義」どころか「プレ・フォード主義」ないし「ウルトラ・フォード主義」である。この新帝国主義的労働再編を世界の労働者は許してはならない」。(加藤哲郎)
 
  前者の議論は、1980年代のバブルに至る「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと言われた頃の、日本企業の状態を、「労働編成を中心とした生産性確保メカニズムの斬新性であり効率性」に着目して評価したものである。アメリカ企業では、日本型システムの研究や導入が進められ、東南アジア諸国では、「ルック・イースト」「日本を見習え」という時代だった。
 
  しかし、その繁栄も、バブル崩壊と共に崩れ、日本経済は長期不況に入る。
 
 後者の①~⑥の条件は、経済回復を妨げるものとして、それらを清算する「改革」主義が、1980年代に台頭する。①は無駄とされ、部品共通化などで、大量生産体制が再構築され、②は、ロボット化等の機械化の一層の推進によって、労働者の機械への従属が強まり、③は、経営の合理化・効率化を妨げるものとして、経営権の独裁、リーダーシップ、上意下達、が再強化され、④は、雇用形態の多様化により、非正規化が進められ、賃金体系が複数化され、あるいは、能力主義・成果主義賃金が導入された。その点では、属人賃金化は進んだ。⑤は、大量消費化とそうでない部分への二極化が進められ、⑥は、終身雇用の解体が進められたが、それは、労働者の階層化・非正規化によって、やはり二極化してきた。

 こうした二極化は、日本的な特徴をもって進んできたが、また同時に、欧米や韓国・台湾でも二極化が進んでおり、それとの共通性も持っている。確かに、日本の場合、構想と実行の分離と単能工化の「テーラー主義」「ネオ・テーラー主義」は、極端には進んでいない。多能工化が最近、導入された工場もある。こうした歴史的制度的慣習的に形成されてきた日本的特徴を無視して、英米型の新自由主義的「改革」を上から導入しようとした小泉構造改革路線は、混乱をもたらしただけに終わったのは当然であった。同時に、先進資本主義諸国との共通するものもあるのであって、それを無視することができないのは当然のことである。

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アフター・フォーディズムの危機

  フォード主義は、70年代には構造的危機に陥った。そこからの脱出策として、マネタリズムが提唱したのは、「競争というルールが尊重されさえすれば、市場を自由放任にすることによって、「見えざる手」が有益な効果を生んでくれるだろう」(『現代の経済危機 レギュラシオン理論による総括』ドゥニ・クレール、アラン・リピエッツ、ジョエル・サートル=ビュイソン)ということである。かれらは、規制を減らし、減税し、社会保障を減らすこと等を主張した。

 マネタリストは、「アメとムチの古き良き原則にたち帰るべきだと主張した」。それは、かれらが、「賃金とは他商品の価格と同様、市場の需給関係に応じて上がりも下がりもする価格にすぎない。失業が増大するということは、労働者の要求する賃金が高すぎることを意味している。したがって、再び均衡が達成されるまで賃金を引き下げなくてはならない。賃金率が下がれば、企業は以前より多くの労働者を雇おうとするだろうし、労働市場に押し寄せる就業希望者の数も減るだろう」と考えたからである。
 
 これは、まるで小泉政権下に行われてきたことの描写である。小泉政権下では、大企業正社員雇用者では、所得低下はそれほどでもないが、不安定雇用層が、全雇用者の3分の1に増えることで、企業の賃金コストの低下がはかられて消費需要を減少させ、したがって、第Ⅱ部門(消費手段生産部門)の縮小を促し、もちろん、デフレになって、失業率は上がりこそすれ、下がらなかった、という形であった。
 
 マネタリストは、貨幣の創出は、生産の伸びより速く購買力を増大させてしまうので、インフレ効果しかもちえないと考える。「したがって、財政赤字をなくし(少なくとも大幅に削減し)、金利を引き上げることによって、貨幣創出の源泉である信用に頼ろうとする民間経済主体の気をそぐべきなのだ」。
 
 マネタリストは、「規制緩和」(公的介入の縮小、社会給付の削減、さらには労働市場の競争に基づいた賃金決定の確立)と「ディスインフレーション」(信用量と貨幣量の成長を抑制すること)だけが経済を正常化する」と考える。

 「ケインズ主義的政策が債務者を優遇し(相対的高金利―インフレ率はしばしば公定歩合よりも高かった)、したがって生産資本の蓄積を促進するのに対して、マネタリズム政策は高い利子率と低いインフレ率によって貸し手(すなわち債権者)を優遇する。利益を得るのは資本所有者である」。
 
 規制緩和の旗振り役の先頭に立ったのは、カード会社オリックスの宮内であり、小泉政権が真っ先にやったのは、銀行救済であった。この点でも、小泉政権がマネタリズムの日本版をやろうとしたことは明らかである。しかし、公定歩合は低いままで、低金利であった。日銀は、他国に例のない「量的金融緩和策」を導入し、貨幣量を増やし続けた。貨幣数量説が正しければ、これによって、インフレが起きるはずだが、デフレのままだった。もっとも、日銀のこの政策による量的緩和の規模では、デフレの進行がもっと進んだはずなのをある程度くい止めたたのだという理屈は考えられるが。
 
 英米でマネタリズムは以下の帰結をもたらした。
 
 (1)アメリカでは、1981年7月から1982年11月までに工業生産が11・9%低下した(レーガンが大統領に選ばれたのは1980年11月だが、職務の開始は翌年の1月からである)。イギリスでは1979年4月から1982年12月までに工業生産が18%下落した(サッチャー夫人が政権に就いたのは1979年である)。 
  (2)労働人口に占める失業者の割合はアメリカでは、7%(1981年7月)から10・8%(1982年12月)に増加し、イギリスでは5%(1979年7月)から13・1%(1982年12月)に増加した。
   
 生産性停滞・低落、平均購買力低下、縮小する販路と増大する金融負担(高金利)で、巨大産業資本(インターナショナル・ハーベスター、マッシー・ファーガソン、ブラニフ等)が倒産していった。これには、これらの政権も耐えきれず、公共支出の抑制策を放棄し、利子率を引き下げた。ここに、マネタリズムは、歴史的失敗に帰したのである。
   
 そして、アメリカでは、奇妙なケインズ主義に回帰したという。それは、①巨額の財政赤字が(貨幣創出ではなく)主として対外借入でまかなわれ、②経済活動を刺激する公共支出が、主として軍事方面に向かっている、という2点で、奇妙だという。

 この時代の、申し子たちが、現ブッシュ政権の中枢を占めているチェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官やネオコンたちであり、現政権の下で、クリントン政権が成長率を引き上げたその体制を、再び、財政赤字と貿易赤字と軍需産業のセットに引き戻したのである。もちろん、そのきっかけは、9・11事件であり、それまでは、クリントン政権の経済政策を基本的には受け継ぐとしていたのであるが、9・11事件を境に、公共支出の多くがアフガン・イラク戦争につぎ込まれるようになった。チェイニーが、それに多くの利害を持っているのは確かである。
 
 1990年代には、冷戦終了による過剰な軍事力の縮小にともなう「平和の配当」をどう分配するかが議論されていたのに、今では、終わりなき「対テロ戦争」に突入したとして、軍事力の増強・整備が長期的な課題であるとされ、軍事支出は、ふたたび、増大してきた。しかし、その「対テロ戦争」も、非対称型戦争とされながら、実際には、「テロ支援」国家との国家間戦争にすり替えられてしまった。貧弱な武装しかない小規模テロ・グループとの闘いは、軍隊よりも、諜報機関の仕事であり、それでは軍の活躍する余地が少ないからである。チェイニー・ラムズフェルドのコンビは、CIAを「対テロ戦争」から遠ざけ、軍主導で行う体制を築いていった。この間、このコンビが行ったCIAに対する謀略の数々は、すでに一部が暴露されているが、11月中間選挙で、民主党が議会多数を制すれば、より明らかにされることだろう。
 
 アメリカでは、低金利政策による住宅需要の増加が、インフレ傾向を強めているとして、景気過熱を抑えるための、金利引き上げが段階的に行われてきた。このところは、景気減速が行きすぎているのではないかとして、金利は据え置かれている。成長率上昇分の分配は、金持ち減税によって、高所得者層に厚くなっている。それ以外の多くの層の消費は増えようがないから、そこにウォルマートに代表される低価格大量販売の大型スーパーが、縮小した需要に対応した小売り業として、進出した。需要が小さいのだから、それを取り合う競争は激しく、したがって、労働コストを抑えるために、従業員の福利厚生は低く抑えられ、不法移民をも雇用していた。労組の結成も認めなかった。

 また、中国などからの安い消費財が大量に入ってきている。それによって、国内の第Ⅱ部門内での競争が激しくなる。さらに、貿易赤字が拡大する。
 
 経常収支の赤字は、クリントン時代に一度、黒字化したのだが、ブッシュ政権は、それを赤字にして、それを増やして、海外からの投資で補っている。これが、レーガン政権時代の双子の赤字の構図なのだが、ブッシュ政権もそれをまねしているようだ。相対的に金利の高い米国財務省証券を海外の投資家や政府が買い続けているのである。しかし、海外の投資家に、高い金利を支払い続けていくためには、成長し続け、税収を上げていくことが必要で、そうでなければ、連邦予算内の利払い費の割合が増えていくことになる。

 企業は、金融資本化・投機家化していき、例えば、エネルギー会社だったエンロンは、短期利益を引き上げるべく、カリフォルニア州で意図的に電力不足を起こし、電力価格を引き上げた。また、エンロンは、株価を高く見せる操作を行って、不当な利益を上げ、不正が次々と発覚する中で、倒産した。フォードの大量企画生産による安売り路線に対して、高級化・高品質化で差別化を図って、世界一の自動車メーカーとなったGM(ジェネラル・モーターズ)は、本業よりも、ローン部門に力を入れて、金融化を進め、ついには本業で、販売不振に陥り、今、経営再建に取り組んでいる。フォーディズムの本家のフォードも、不振にあえぎ、大規模なリストラに乗り出している。

 アフター・フォーディズムの時代は、まだ、フォーディズムに変わる新たな蓄積様式には到達していないのである。そうすると、時代は、レギュラシオン派のいう第五水準の危機に近づいていると見てよいのかもしれない。

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フォード主義

  レギュラシオン派が規定するフォード主義のマクロ的骨格は、「生産性と連動して実質賃金が上昇し消費を引き上げ、消費は投資を刺激するから結局は総需要(さしあたり消費需要と投資需要)を喚起し、こうして拡大した投資と需要(生産)が―技術革新とともに―ふたたび生産性を上昇させるという構図である」(山田鋭夫氏)という。

 これは、生産性上昇が、分配を通じて、需要形成(経済成長)に結びついていき、拡大した需要(生産)が、そのこと自体で、生産性を上昇させるという収穫逓増効果(アダム・スミス「分業(生産性)は市場の広さ[需要]によって制限される」、A・ヤング、P・J・フェルドーンらの「規模の経済性」「規模にかんする収穫逓増」、ポスト・ケインジアンのN・カルドアの仕事)があり、さらにそれに新古典派の資本深化効果(投資効果)、シュンペーター的な技術革新効果、などが相まって、フォード主義の生産性確保メカニズムが確保され、生産性上昇が起きた。
 
 これは、ポワイエのモデルであり、賃金主導型であり、山田氏は、それに対して、利潤率に焦点をあてたリピエッツのモデルを紹介する。
 
 定義

 ①利潤率は搾取率と資本の有機的構成に分解しうる

 ②搾取率は、付加価値にしめる剰余価値の割合(利潤シェアないし利潤分配率)としてあらわし、有機的構成は、生きた労働(付加価値)に対する不変資本の比率、つまり資本/産出比率としてあらわされる

 ③有機的構成は資本の技術構成と第Ⅰ部門(生産手段生産部門)の生産性によって規定される

 ④賃金シェア(付加価値に対する可変資本の割合)は実質賃金率(単位労働者の実質消費)と第Ⅱ部門(消費手段生産部門)の生産性に依存する
 
 フォード主義の黄金時代には、再生産表式が次の二つの条件を満たしていたという。
 
 1、資本の技術的構成の成長率と第Ⅰ部門の生産性上昇率がひとしいこと。つまり機械化によって技術的構成は上昇するのだが、それと同じ程度に機械を生産する部門の生産性も上昇すれば、価値構成は上昇しない。つまり技術的構成が上昇しても、有機的構成は不変にとどまる。
 
  2、労働者一人当たり実質消費成長率(実質賃金率成長率)と第Ⅱ部門の生産性上昇率がひとしいこと。つまり実質賃金が上昇しても消費財を生産する第Ⅱ部門の生産性がそれだけ上昇すれば、搾取率は不変でありうる。
 
 フォード主義の黄金期には、これらが成り立ち、搾取率も有機的構成も、したがって利潤率も変化がなかったというのである。
 
 「フォード主義のマクロ的・表式的な好循環は、決定的に重要なことだが、けっして一朝一夕にしてなったのでもなければ、市場競争の結果として自然成立したのでもない。逆に国家の経済介入のみによって形成されたのでもない。この循環を支える特定の制度諸形態/調整様式の歴史的形成ぬきにはありえなかったし、各種制度に帰結する階級闘争なしにはありえなかった」。
 
 山田氏は、調整様式の成立について、賃労働関係に関わる変化だけを説明している。すなわち、賃金上昇を生産性上昇に比例させるといういわゆる生産性基準原理による賃金決定である。「労使間の交渉と妥協を媒介としつつ、実質賃は生産性にスライドされ、名目賃金はさらに物価にスライド化させられた」。
 
 フォード主義的蓄積体制は、このような賃労働関係における妥協を軸として、寡占的大企業体制によるマークアップ・ブライシング(競争形態)、管理通貨制度や消費者信用制度(貨幣制約)、挿入国家によるケインズ的景気調節政策や社会保障政策(国家)、ブレトン・ウッズ体制をはじめとするアメリカ的世界秩序(国際体制)などの調整諸制度(独占的調整様式)に操縦される。
 
 しかし、フォード主義は、1960年代末ないし70年代初頭以降、長期の構造的危機に入る。このころから、経済成長率、生産性上昇率、利潤率、失業率、物価上昇率(スタグフレーション)など、あらゆる経済指標がいっせいに悪化し、なかなか回復しなくなった。その原因を、山田氏は、フォード主義的テクノロジー、労働編成にあると述べている。テーラー原理による労働の非人間化が、労働者の披露(病気)、労働意欲の喪失(アブセンティイズム、サボタージュ)、労働者の抵抗(スト、山猫スト)が激化した。「怠惰」な労働者を監視するために直接生産に関わらない監督者が増員される。こうしてテーラー原理は、反生産的なものに転化した。大規模化した巨大工場は、行程の有機的結合を困難にし、需要構造の変動に機敏に対応できなくなった。
 
 テーラー主義は、「機械の怠惰」「労働過程の怠惰」(資本/産出比率の増大、固定資本生産性の低下)に帰着した。
 
 レーガン、サッチャーなどの新自由主義が、このような構造的危機の根本的解決策にはならなかったのは、言うまでもない。19世紀資本主義とは構造が違うのに、19世紀に戻そうとしても、混乱を持ち込むにすぎなかったのである。

 こうした「新自由主義」は、生産性の分配(団体交渉、インデックス賃金、安定雇用、社会保障)なきテーラー主義の強制という「ネオ・テーラー主義」であるという。それは、結局、産業空洞化、対外赤字、低生産性、社会的分極化等々の結果に終わり、成功しなかった。 

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19世紀資本主義と20世紀資本主義

  レギュラシオン派は、大きな蓄積体制と調整様式の歴史的形態として、19世紀イギリス型と20世紀のアメリカ型があるという。

  19世紀イギリスの場合は、労働編成は、工場制度(機械制大工業)をとおして高い生産ノルムがある部門とマニファクチャー的非資本主義的部門が並存していた。そこでは熟練労働が広く存在し、労働過程の自律性が残っていた。賃金は労働者の生活ぎりぎりの低水準で、非商品的非資本主義的諸関係と接合し、依存していた。労働者の消費財市場は、資本蓄積にとってはあまり大きな意味をもっていなかった。言い換えれば、第Ⅰ部門が、第Ⅱ部門を置き去りにして発展し、マクロ的な生産性上昇も相対的に低い。このような蓄積体制を「外延的(粗放的)蓄積体制」と規定する。

  外延的蓄積体制に固有の調整諸制度は、①賃金の競争的・個別的契約制度(賃労働関係)、②金本位制的な商品貨幣(貨幣制約)、③自由競争(競争形態)、⑤「限定国家」(国家形態)、⑥パックス・ブリタニカ(国際体制)、などである。これを「競争的調整様式」と名付ける。
   
 これに対して、20世紀資本主義は、内包的蓄積体制と独占的調整様式ないし管理された調整の資本主義である。20世紀資本主義は、テーラーが、労働者の熟練と自律性を奪うために、まず、構想(精神労働)と実行(肉体労働)を分離し、工場に労働のヒエラルキーをつくり、労働を単純諸作業に分解するという労働編成方式をとり、出来高賃金を適用して、労働強化したもので、全体としての生産ノルムを高め、生産性を上昇させた。テーラーは、これを「科学的管理法」と名付けた。これはテーラー主義と呼ばれる。
 
 さらに、テーラー主義をベルトコンベアや専用機械と結びつけたのが、自動車王のヘンリー・フォードであり、それは1910年代のことだった。そして、このテーラー主義プラス機械化の労働編成が、フォード・システムと呼ばれるものである。フォード主義は、高い生産性を誇る大量生産に大量消費の体制を必要とした。高賃金が必要になり、労働者消費財市場が蓄積領域になった。かくして、フォード主義下では、「第Ⅰ部門と第Ⅱ部門は同時的・相互的に発展し、総じて高率かつ不断の生産性上昇が実現されもし、またそれが必要条件ともなる」。これは、政策的には「ケインズ政策」、社会学的には「大衆消費社会」といわれ、あるいは、「ゆたかな社会」(ガルブレイス)、「アメリカ的生活様式」、「奇跡の復興」(旧西ドイツ)、「高度成長」(日本)・・・のことである。
 
 内包的蓄積体制・フォード主義の調整諸制度は、①競争的賃金制度にかわる労働組合の承認・結成、団体交渉制度、生産性および物価へのスライド制賃金、そして間接賃金の比重増加(賃労働関係)、②商品貨幣にかわる信用貨幣、各種信用制度、管理通貨制度(貨幣制約)、③寡占的対企業体制(競争形態)、④ケインズ型の「挿入国家」(国家形態)、⑤パックス・アメリカーナ(国際体制)など、である。これを「独占的調整様式」ないし「管理された調整」とよぶのである。

 レギュラシオン理論は、19世紀以来の構造的危機が、三度あったという。19世紀末大不況、1930年代恐慌、20世紀末不況の三つである。19世紀末大不況は、外延的蓄積様式、イギリス的発展様式の第四類型の危機であったという。1930年代恐慌は、内包的蓄積様式と競争的調整様式の間のミスマッチによって起きたという。それからの脱出策であったニューディールとケインズ政策は、独占的調整の妥協と制度の創設であったのだという。これは調整様式の危機だったので、第三類型の危機である。1960年代末ないし1973年に始まる20世紀末不況は、フォード主義の危機であり、第四類型の危機にあたる。
 
 20世紀末不況は、生産性上昇の鈍化、収益性の低下が特徴であり、蓄積体制の危機だという。したがって、今は、アフター(ポスト)・フォーディズムの時代にあることになる。
 

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画期的な「日の丸・君が代」問題の東京地裁判決

  原告団の「画期的判決」などの評価が出ている東京都の「日の丸・君が代」強制違憲判決に対して、大手4紙が、社説で、取り上げている。

 社説の立場は、2紙対2紙にはっきりと分かれた。『産経』『読売』が、判決を批判し、『朝日』『東京』が、判決を評価した。『産経』『読売』の地裁判決批判は激烈なもので、両紙のショックの大きさを物語っている。
 
 『産経』「君が代訴訟 公教育が成り立たぬ判決」は、「「国歌と国旗は強制ではなく、自然に国民に定着させるのが国旗国歌法や学習指導要領の趣旨だ」としたうえで、「それを強制する都教委の通達や校長への職務命令は、思想良心の自由を侵害する」とした。さらに「都教委はいかなる処分もしてはならない」とまで言い切った」と地裁判決をまとめている。その上で、7年前の広島県での校長自殺事件を、国歌斉唱に反対する教職員組合の抵抗に悩んだせいだと、独断を下す。この事件での自殺の原因は、未だに判然としておらず、教職員組合のせいにしているのは、『産経』の私見にすぎない。指導要領は、教師が指導するように書いてあるが、教師自身が式の際にどうしろとは書いていない。

  なによりも重要な点は、この地裁判決が、日本国憲法で保障されている思想良心の自由の理念は、都教委通達などの行政命令に優越するという当たり前のことを再確認したことである。通達・行政指導や行政処分は、法の枠を超えてならないということだ。ましてやそれが、最高法規の憲法を超えるようなものであってはならないのである。今回の地裁判決は、そんな行政の遵法義務を改めて指摘したもので、教育行政権に対する厳しい警告である。
 
  『産経』は、「もちろん思想良心の自由は憲法で保障された大切な理念であるが、教育現場においては、教師は指導要領などに定められたルールを守らなければならない。その行動は一定の制約を受けるのである」という。もちろん、教師はルールを守らなければならない。しかし、そのルールは、憲法に則ったルールである限りは、守らねばらならないのであって、違法なルールを守る義務はないし、その場合には、積極的にそれを改めるのが、道徳的にも正しい行為である。例えば、会社内で不正が行われていることを知った社員が、守秘という会社内ルールを守らないで、外部に告発することをもっと奨励し、告発者を法的に保護するようにすべきだという意見が広まっている。都教委通達に、憲法違反の疑いがあると考える教育関係者などが、それを告発したのは、当然の行為であった。
 
 それに対して、憲法よりも都教委の行政命令を優先し、「都教委が行った処分は当然」とする『産経』の主張は、順法精神をないがしろにしかねない主張といえよう。確かに、かつて、学習指導要領の法的位置を確認する判決が下されたことがある。しかしそれは、こうした行政命令が、法を超越していいというお墨付きを与えたわけではない。『産経』は、改憲を主張し、現憲法を批判している。それは思想良心の自由に属することだが、現憲法が最高法規として生きていることを忘れてはならない。
 
 つぎに、裁判長が、「日の丸・君が代」を、第二次大戦終了まで、軍国主義思想の精神的支柱だったとして、それに反対する権利を公共の福祉に反しない限り保護されるべきだとしたことに、「裁判所がここまで国旗・国歌を冒涜していいのか、極めて疑問である」と批判する。「日の丸・君が代」は、戦前には、軍国主義思想の精神的支柱だったことは、一部の過激な教師集団の考えではなく、歴史事実である。そういう事実認識を言うことが冒涜だという方が極めて疑問である。そして、この社説は、露骨に、安倍政権の「公教育の再生」路線に、この判決が水を差したのは残念だと、安倍路線支持を公言する。そして、民主主義の基本とされている三権分立を否定して、「各学校はこの判決に惑わされず、毅然とした指導を続けてほしい」と行政権の司法権に対する優越を扇動する。これが、自称民主主義者の執行権独裁支持の本当の顔である。
 
 『読売』社説、[国旗・国歌訴訟]「認識も論理もおかしな地裁判決」は、もっとでたらめで、低レベルである。この社説は、問題を「指導」一般があるべきかどうかにすり替えている。この社説は、「不起立で自らの主義、主張を体言していた原告教師らは、指導と全く相反する行為をしていたと言えるだろう」というが、判決は、原告教師たちの行為は違法な行為どころか、憲法遵守の合法行為だと指摘したのである。
 
 「日の丸・君が代」についての考え方についても、「宗教的、政治的にみて中立的価値のものとは認められない」という地裁の判断に、世論調査での多数支持という結果で反論している。世論調査自身の中立性や正確さに、この間、大きな疑惑が持ち上がっているというのに、それを無視しているのである。ましてや、スポーツの場でのマナーの問題と法的・歴史的・政治的な問題としての「日の丸・君が代」問題を混同するのは、低レベルすぎる。スポーツの政治利用や国家を背負うことの弊害などが、サッカーのワールドカップのあり方についての反省の中などで出ているというのに、『読売』は、なんともアナクロだ。

  ましてや、判決を、「少数者の思想・良心の自由」の過大評価だと揶揄したり、「都教委通達や校長の職務命令の「行き過ぎ」が強調され、原告教師らの行動が生徒らに与える影響が過小に評価されている」などという力学主義的な判断で、問題を矮小化することで、読者の判断力を低めるようなことをしていることは、許し難いことだ。読者は、ばかにするなと怒って当然だ。「今後の入学式、卒業式運営にも影響の出かねない、おかしな判決だ」というのは、正反対で、行政命令よりも憲法が優越するし、現場における創意を引き出すべく都教委などの上意下達の行政命令を出来るだけ排除し、現場が生き生きと動け、学校が、より地域・保護者・教師・生徒などのイニシアティブで動けるようにすること、それが求められている教育改革であり、それが、この地裁判決でやりやすくなったのである。
   
 現場を暗黒に描くことにイデオロギー的価値を見いだしている『産経』『読売』は、教育改革を言う資格を欠いている。教育現場が抱える諸問題を解決するために、教育に関わる多くの人々の創意と力の結集が必要なときに、儀式での旗がどうだの歌がどうだのとつまらない官僚主義的なことで、神経をすり減らしている場合ではない。『産経』『読売』は、現場の混乱を拡大するような余計な干渉や誘導やちゃちゃ入れをしたり、教育官僚の代弁者として振る舞うべきではない。

 「愛国心」は、私人のエゴイズムであり、それを行政が強制することは、間違いである。小泉首相は、靖国参拝を正当化して、参拝は私人の心の問題で、外から干渉すべきではないと言った。それが、首相という公人ではなく、私人になってから言ったのであれば、たいした問題ではなかった。公立学校教師は、私人か公人か? あるいは西部邁の言うような公民=市民(私人)ということか? この国で、もっとも公人性の強い職務である首相の私的参拝を支持して、それほど公人性が強くない現場教員に強い公人性を求めるという『産経』『読売』は、完全に価値転倒している。
 
  判決そのものは、考えてみれば、ごく当たり前のものにすぎない。その当たり前のことが、これまで、なかなか通らなかったので、この間、原告団の人々の苦労や心配もひとしおだったと思うが、とりあえず、勝訴が勝ち取れたことは素晴らしいことだ。さらに、都教委を追いつめ、全国の同様の闘いの勝利のさきがけとなってもらいたい。もちろん、これから、高裁・最高裁と続くだろうから、そこで逆転判決という可能性もあるので、油断はならないのであるが。            

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蓄積体制と調整様式

  レギュラシオン派の「蓄積体制」とは、「各経済社会における特定の型の蓄積があるていど長期的に持続する場合、それを規定している主要なマクロ表式的な個性を指示するため」(山田鋭夫氏)の媒介概念である。

 マクロ表式とは、マルクスのいう第Ⅰ部門(生産手段生産部門)と第Ⅱ部門(消費手段生産部門)の結合の仕方などを表す式のことである。

 蓄積体制は、特定の資本主義社会が、矛盾やゆがみを吸収し解消し回路づけつつ、長期間にわたってその再生産=蓄積を規則的に遂行していくあり方の総体のことである。その規則性の核心は、

  1. 労働過程の編成様式(あるいは供給条件・生産ノルム)と労働者生活過程の編成様式(あるいは需要条件・消費ノルム)の関連
  2. 第Ⅰ部門と第Ⅱ部門の関連
  3. 生産性上昇の大小。

である。

 「調整様式」は、「個人のであれ集団のであれ、その諸行動や手続きの全総体を、調整様式とよぼう。その特性はつぎの三点にある。/(1)歴史的に規定された制度諸形態の結合をとおして、基本的社会諸関係を再生産すること。/(2)現行の蓄積体制を維持し「操縦する」こと。/(3)経済のアクターたちがシステム総体の調節原理を内面化する必要性がなくても、あれこその分散的意志決定の総体が動的に両立するように保証すること」である。「調整様式とは、諸個人の相互に矛盾した対立的な諸行動を蓄積体制の全体的原理に適合させるように作用するさまざまなメカニズムの組合せである。簡単にいえば、これらの調節諸形態は、第一に、企業や賃労働者がこの全体的原理に自らを適応させていくような習慣や順応性である。というのは、かれらは全体的原理を(嫌々であっても)、有効なものないし必然的なものとして承認するからである。そして第二に、とりわけ、市場のルール、労働・社会立法、貨幣、金融ネットワークといった制度化された諸形態がある。これらの制度化された諸形態には、国家的形態(法律、通達、国家予算)、私的形態(労使の労働協約)、準公共的形態(フランス的な社会保障制度)がある」。
 
 そして資本主義理解に重要な制度諸形態として、

  1. 金本位か管理通貨制かといった貨幣制約の形態。
  2. 労働力の使用(労働編成)と再生産(賃金決定・消費生活)を規定する諸条件の総体としての賃労働関係の形態。
  3. 自由競争か寡占的競争かといった競争の形態。
  4. 「安価な政府」か介入国家かといった国家の形態。
  5. パックス・ブリタニカやパックス・アメリカーナといった国際体制のありかたやそれへの各国の編入形態。

の5点があるという。

 つぎに、危機の四つの水準があるとして、

  1. 外的攪乱としての危機。経済外的要因による経済攪乱。
  2. 調整様式内部の危機。ジュグラー波的な循環性危機、すなわち好況期のアンバランスの清算で、調整を表現するもの。
  3. 調整そのもの、調整様式の危機。新しい蓄積体制にマッチしないための危機。例、1930年代恐慌。
  4. 蓄積体制そのものの危機。構造的危機。例、19世紀末不況、20世紀末不況。

をあげる。

 さらに、第五の危機として、「支配的生産様式の最終的危機」という資本主義下で、新しい蓄積様式と調整様式をいっさい創出されなくなって、資本主義が死滅するという危機があるという。
 
 この第五の危機をも織り込んで、経済学の動学化を試みたのが、シュンペーターである。蓄積・再生産表式をめぐる議論は、マルクス主義者の間でも20世紀初頭に行われた。有名なローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』が出た。資本主義は、農民国のロシアでどのようにして資本を蓄積していくのか? 植民地化は、資本蓄積にどうかかわっているのか? 等々をめぐって、国際的な議論がなされた。
 
 構造的危機に対する対応が、いろいろと試みられたが、小泉構造改革というのもその一つである。似たようなやり方が、英米で試みられたが、失敗した。どうして失敗したのかについて、レギュラシオン派の説明があるが、後述する。

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転載 第二次インティファーダ6周年記念集会のお報せ JAPAC

第二次インティファーダ6周年記念集会のお報せ JAPAC
パレスチナ連帯の集い
時:9月30日(土)18:15-21:15 
所:文京区民センター3階
プログラム:
第一部:映画18:15-19:30
 「イブダーの子供達」2002年/パレスチナ/30分
 「蜘蛛の巣の間から」2004年/パレスチナ/45分
第二部:講演
 「素顔のパレスチナ」長沼恭佳(看護師)1999・03年ガザ滞在
 「イスラエルのレバノン侵攻とパレスチナ」高橋正則(レバノン  
 最新報告)
第三部:質疑 討論
主催:JAPAC 日本パレスチナプロジェクトセンター
協賛:「地球の子供新聞」セーブ・ザ・オリーブ 情況出版
参加費:1000円

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レギュラシオン派の均衡論・構造主義批判

  山田鋭夫氏は、『レギュラシオン・アプローチ』の1 レギュラシオン理論の生誕 で、新古典派を批判する。

 「経済学の正統をなす新古典派は、均衡と成長の概念を中軸としたエレガントな体系美に酔いしれ、危機なるものは市場による自動均衡作用を攪乱する外的諸力のせいだといってすませる。外的諸力とは、あるいは「アラブの横暴」(OPEC)であり、あるいは「政府の横暴」(企業課税・規制・福祉)であったり、あるいはまた「労働組合の横暴(賃上げ)であったりする。こうしてこれらの「横暴」がひとえに非難の的にされ、それらが排除されさえすれば市場の力が自由に作用し、均衡と成長という本来の姿が回復するであろうというわけである。そこにはしかし、一九世紀とは異質なものとなった二〇世紀資本主義に対する歴史意識もなければ、貨幣や労働力は一般の商品市場のロジックでは割りきれない固有な制度形態だという制度意識もない」。
 
 なかなか厳しい批判である。9月18日付『日経新聞』社説を読むと、新古典派のこうした幻想が、今の大新聞に脈々と生き続けているのがわかる。
 
 この社説の「分権で競争と自律性を」という提言は、分権と競争というものをセットにしているが、分権は、権力の分散であって、競争とは直接関係のない話である。もちろん、自律性もである。この社説子は、どうしても、市場均衡のエレガントな表象の魅力から逃れられないのである。指導要領の簡素化や現場の創意を生み出すなど、評価すべき点があるが、それは、競争と無理矢理関連させる必要のないものだ。第一、この社説は、今日の教育の主目的を、「世界を相手にした人材育成競争に立ち遅れない」ことに置いている。国際競争に負けない人材育成競争で勝つためにはどういう教育が必要か? という問題意識である。つまりは、競争での勝利が教育の目的なのである。分権や自律性やコミュニティーや学力もすべては、競争という目的に従属させるというものなのである。
 
  「現場任せでは学力向上などおぼつかなく、規律も乱れるという指摘もあるが、果たしてそうだろうか」というが、社員のモラル崩壊という規律の乱れを引き起こした当事者が、こういうことを主張しても、説得力が弱い。現場に権限を移す分権と国際競争戦の話を別次元のことだと区別できないところに、強いイデオロギー性を感じるが、そのもとには、新古典派的な均衡概念の信奉があるように思われる。経済主義的機械的な人間観を新古典派と共有しているように思われる。
 
 山田氏は、レギュラシオン・アプローチが可変性の経済学であろうとする時、アルチュセールの構造主義批判があるという。アルチュセール構造主義とは、「第一に、社会諸関係を構成する諸要素に対する全体(関係、構造)の優位性を提起し、第二に、社会諸関係は相対的に自立した諸水準によって接合され、それらによって重層決定されるものであることを明らかにした」というものである。その認識論的地平はしっかりと受け止めた上で、アルチュセールの「矛盾」把握が「統一」優位の相に還元されていると批判する。
 
 「アルチュセール派が「構造化された複合的な統一体」なるものを押しだすことによって、いわば「構造化された構造」「調整された調整」という静的な社会=歴史認識へと至ったのに対して、レギュラシオン派の積極的視点は「構造化する構造」「調整する調整」として社会=歴史を解明することにある」。
 
 こうした点で、レギュラシオン派は、P・ブルデューの「ハビトゥス」論を取り入れているという。それは、「個人はコギト的主体(デカルト)でも効用計算的主体(新古典派)でもないし、人間の行為は、主体的合理計算の産物としてあるのでもなく(新古典派批判)、構造にすべて規定されたたんなる付帯現象としてあるのでもない(構造主義批判)」。
 
 「個人の行為はいわばハビトゥス的なものであって、つまりは「身体化された社会的なもの」「社会的に獲得された性向」として、かつまた「ゲームのセンスのような実践的感覚」「状況への即興的対処のなかにはっきりと見られる生成的自発性」として、とらえられなければならない。ひとは構造のうちなる社会的ゲームにおける行為者として、ゲームの規則に拘束されていると同時に、自由な戦略的対応をするのである」。
 
 このハビトゥス概念は、「個人の諸戦略が一定の自律性をもっている」ことを認めたうえで、「いかにして制度諸形態の結合が個人的諸行動を形成し、誘導し、ある場合には拘束するか」と問題設定するレギュラシオン理論に通底するものだという。

 ハビトゥス概念は、ゲーム理論に似ているように見える。違うのは、ゲーム理論が、合理的期待形成論になって、独占大資本の巨頭同士の談合を正当化したのに対して、個人の自律性からゲームのルールそのものが変化するような動態(構造的変化)を導き出すことである。ゲーム理論の場合は、既存のゲームとルールからは抜け出せないのであり、ゲームそのものを取り替えることは想定されていないのである。市場というゲームは、永遠化されているのである。

 新古典派経済学は、「「均衡」「合理性」の概念を軸にして数学化と計量化にいそしんできたのであるが、そういった経済学がなしえたこととは、結局、経済を長期歴史的な不変性と規則性においてとらえることでしかなかった」し、それは構造主義も同じだと山田氏は批判する。この観点から見ると、以下の『日経新聞』社説も、教育を動態化する主張のように見えて、実は、「均衡」神話にとらわれた静態的なものにすぎない。

 自由化は、学外からの教員登用、学校選択、6・3・3制にとらわれない学校や地域に合った「コミュニティースクール」、学校教員の外部評価、について言われ、小泉改革の規制緩和によって、構造改革特区などで、「文科省の思惑を離れた地方や経済界の柔軟な発想があった」と評価する。いうまでもなく、教育の結果は、短期間ではかれるものではない。トヨタなどが愛知に開校した全寮制の私立学校は、まるでアダム・スミスの教育論をよみがえらしたようなものである。

 この問題は、独占価格と自由価格の二つの価格機構・市場の並存などの、独占資本主義下における制度・システムの二重化などの重層化が、背景にあって、はじめて成り立つ話である。もし私学を完全自由競争化して、私学助成金を廃止すると、競争によって、多くの私学が倒産するのは疑いない。今起きていることは、公立を含めて、上層を再生産するための学校とそうでない学校への二極化が起きているということである。そこで、麻生は、その二極化を正当なものと認めて、芸術家になりたい者は早くから芸術家養成のコースに行くべきだし、大工になりたい者もそうすべきであるという。旧ソ連などでは、そうやって、スポーツ・エリートなどを育ててきたのだが、そういうのがいいのだそうだ。

 いづれにしても、『日経』の人間観や社会観は、奇妙なものであり、なにかのイデオロギーや神話を信奉している信者のものである。脱カルト化をいっぺんやった上で、歴史・現実をよくよく具体的に観察し、分析・評価し直すことが必要であろうと思う。

 社説 柔軟な発想で公教育の再生を図れ(9/18)

 東京都心の区立小学校では、地元の公立中学校に進学する児童が6割ほどしかいない。実に4割前後が私立の中高一貫校などに流出する事態だ。都内の小学校全体の平均でも約17%が私立校に進む。都市部で顕著な現象だが、受け皿さえあれば公立を避ける保護者がいかに多いかを示している。背景には大学進学に有利という親の計算はあろう。しかし、それだけが原因ではない。

 曲がり角の学校5日制

 「地元の公立中学は荒れている」「先生にやる気がない」「授業が遅れている」。こんな不安が保護者の間に広がり、しばしば実態を映している。私学の収容力には限りがあり、子供を私学に進学させるには家計に負担もかかる。世界を相手にした人材育成競争に立ち遅れるという強い危機感だ本来、公教育に替わるものはないはずだ。なのにこれほどの不信感が漂っている。

 自民党総裁選の立候補者3人が教育改革を政権構想の柱に据えたのは、こうした状況を踏まえてのことだろう。新政権では教育基本法改正案の処理を含め、公教育の再生が大きな課題になるのは間違いない。

 政権構想をみると、まず安倍晋三官房長官は「高い学力と規範意識を身につける機会の保障」を掲げ、「数学、理科、語学など基礎学力の再強化プログラム」づくりを明記した。学校や教師への評価制度導入や、社会体験活動充実なども挙げている。谷垣禎一財務相は「読み書きソロバン世界一プロジェクト」として、徹底した反復学習を義務教育全体で実施して子供の基礎的能力を引き上げると約束。麻生太郎外相は就学年齢を1、2年前倒しして基礎教育を徹底、義務教育終了後は職人や芸術など多様な道も用意するとした。

 各候補に共通するのは、義務教育段階で身につけるべき基礎的な学力が「ゆとり教育」の下でないがしろにされ、世界を相手にした人材育成競争に立ち遅れるという強い危機感だ。もはや小中学校での学力水準向上なくして公教育への信頼回復はないと言ってもよい。

 問題は具体策である。文部科学省は今年度末までに学習指導要領を改訂し、国語や算数・数学、理科を充実させる方針だ。総授業時間数は約30年ぶりに増加、「ゆとり教育」の修正は鮮明になる。これ自体は各候補の公約を先取りしている。

 しかし授業時間数の増加も、学校5日制で土曜日が休みでは限界がある。「ゆとり」路線で教育内容は3割も削減されたが、5日制を続けながらこれを元に戻すのは簡単ではない。加えて文科省は「総合的学習」を存続させ、小学校での英語必修化も導入する意向だ。5日制そのものを見直すのか、5日制の下で対策を探るのか。新政権にはこの問題を真剣に検討してもらいたい。

 教育改革をめぐるもう一つの大きな論点は、国が責任を持つ部分と現場の裁量に任せる部分をどう切り分けるかである。

 戦後、文科省は学習指導要領で教育内容を事細かに拘束し、教員養成も一元化してきた。この結果、教育界には画一主義がはびこり、地域や学校の創意工夫を阻害している。私たちはこうした認識から、指導要領の簡素化・大綱化などにより現場での競い合いを促すべきだと提唱してきた。どんな教育改革を進めるにせよ、分権の方向性は時代の要請であることを強調しておきたい。

 分権で競争と自律性を

 現場任せでは学力向上などおぼつかなく、規律も乱れるという指摘もあるが、果たしてそうだろうか。

 指導要領は基礎学力習得のための最低基準とし、現場での多様な上積みを促す。免許を持たなくとも実社会で知見を積んだ人材を幅広く教員に登用する。学校選択も教育利用券(バウチャー)制度などと組み合わせ自由化を進める。6・3・3制にとらわれない学校や地域に合った「コミュニティースクール」を認める。学校や教員の外部評価制度を確立する。こうしたなかでこそ学校間、教師間に競争と自律性が生まれ、教育現場が活気づくのではないか。

 小泉政権は規制緩和の立場から構造改革特区などでユニークな教育内容を認めた。そこには文科省の思惑を離れた地方や経済界の柔軟な発想があった。その芽を全国に広げ、教育委員会の設置義務撤廃など積み残したテーマに決着をつけることも新政権には問われよう。不適格教員排除について玉虫色のまま導入へ動いている教員免許更新制も、制度設計を再検討する必要がある。

 安倍氏は教育改革を議論する首相直属の諮問会議を新設する構想を表明しているが、かつての臨時教育審議会や教育改革国民会議は文科省が審議をコントロールして抜本改革には至らなかった。新たな取り組みが同じ道を歩まないよう望みたい。

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山田鋭夫氏の国独資論批判

 レギュラシオン派の山田鋭夫氏は『レギュラシオン・アプローチ』の 2 国家独占資本主義と宇野理論で、マルクス経済学が、一般理論(『資本論』)―独占資本主義論(レーニン『帝国主義論』など―国家独占資本主義論なるシェーマや原理論―段階論―現状分析のトリアーデからなる宇野理論体系を、三層論理の積みかさね方法論と呼んで、批判する。

 「日本におけるほぼ通説的な国独資論は、全資本主義に妥当する資本主義の一般理論は『資本論』であたえられ、独占段階の理論はレーニン『帝国主義論』などを基礎にしてこれをより体系的に整備し、その上に立って国独資(独占段階中の小段階ないし一形態規定として位置づけられることが多い)たる現代資本主義の分析を積みあげていくという構図、すなわち積みかさね方法論をとってきた」。
 
 この方法論だと、新段階の必然的生成論=本質論が中心になって、機構論・運動メカニズム論が弱くなると山田氏は指摘する。二つに、氏は、『資本論』を資本主義の一般理論として20世紀の現実を了解しようとするので、現代の一般法則を、もっぱら変形・歪曲として発展しているのだという歪曲史観に陥ることになるという。氏は、そうならないためには、『資本論』を全体系まるごと下敷きにする理論構成をやめ、マルクスの直観から出発して、それと現代をつなぐ媒介概念を設定することだという。
 
 積みかさね主義は、『資本論』が対象とした19世紀資本主義を正常な資本主義とする先入観に陥るという危険がある。氏は、19世紀=自由競争=本来的資本主義という三位一体は、間違いだという。
 
  それは、第一に、19世紀資本主義は自由競争ですべてが処理されていたわけではなく、非資本主義的・共同体的関係が強力に残存していて、資本主義領域はこれを前提しこれと絡み合っていたからである。「第二に経済学観として、そこには市場中心的な誤った考えがある。自由競争が「正常」だという背後には、経済なるものをすぐれて市場と等置し、非市場的関係や社会的制度を捨象してしまう経済学観が潜んでいる」からである。
 
 第一の点について言えば、日本のマルクス学者の二大潮流として、講座派と労農派が戦前からあるのだが、山田氏の批判しているのは、どちらかといえば労農派系統の理論である。例えば、講座派は、明治維新を封建勢力内のクーデター的に位置づけ、ブルジョア革命運動を自由民権運動に見て、その挫折をもって、ブルジョア革命は未遂に終わったとし、明治の体制を絶対主義体制とした。それに対して、労農派は、明治維新をブルジョア革命と規定した。しかし、明治期を通して、非資本主義的共同体的関係が強力に残存していたことは歴史的事実であり、その点を捨象すると、リアリティが薄くなってしまう。親方―子方、丁稚奉公、ご恩と奉公という封建的関係などが、明治期に色濃く残されていたことなど、慣習的制度や因習、風土、文化などの経済への影響を過小評価することになるからである。大藪龍彦氏が、最近、明治維新=ブルジョア革命説を掲げて、議論をしようとしているのであるが、私見では、それはあまりにも抽象的図式的であって、かつての大内力氏の議論の抽象性と似ている。
 
 山田氏は、19世紀も20世紀もそれぞれ特定の資本主義のあり方であって、それぞれに歴史的個性をもった特定の体制(レジーム)であり、一方が正常(典型)、他方が異常(変速)といったものでもないし、まして市場調整のありかた(自由競争か独占か)のみをもってその判別基準とすることはできないという。「資本主義の解読のためには、市場以外の経済的・社会的制度のもつ重要な意義がもっと経済学のうちに導入されなければならないだろう」と山田氏は言うが、もっともである。『資本論』を読めば、まさにそのことをマルクスは行っているのである。もっとも、山田氏は、日本の国独資論者を相手にしているのであって、『帝国主義論』は、なにも市場調整のあり方のみをもって、独占資本主義の段階を規定しているのではないことは、読んでみれば、誰の目にも明らかである。
 
 さらに、山田氏は、マルクス経済学が、独占=停滞とする見方を批判する。それは、資本主義の適応性・可変性を低く見過ぎているというのである。マルクス経済学が、独占の問題を価格支配力に見て、価格機構(競争機構)の変容、独占価格・独占利潤論をもって始めることを批判する。というのは、マルクスの資本主義分析の機軸的視点は、資本―賃労働関係にあるのに、そうしないのは間違いだというのである。
 
 「賃労働関係を基準にして資本主義を見るということは、資本主義の時期区分にさいしてもこれを基準にするということであって、自由競争段階から独占段階へという競争論的時期区分をとらないということでもある」。
 
 もっとも、独占は、金融資本と産業資本の融合による独占資本の誕生ということが先であり、競争形態の問題が中心というわけではない。大内国独資論においても、競争形態というよりも、蓄積機構の強化のために国家が介入することで国独資が成立すると言われている。
 
 続いて、氏は、宇野派の問題を指摘する。宇野派の資本主義の純粋化傾向は商品経済的純化とイコールではないし、それは、塩沢由典が指摘するように19世紀的な自由競争的資本主義の特権化でしかないという。その後は、その「典型」からの「逆転」「歪曲」「不純化」でしかなくなる。それは、新古典派的世界に近似してくる。市場の一律的支配と市場における需給の価格調整という資本主義観である。
 
 積みかさね式議論の問題は、むしろ、レギュラシオン派が歴史分析で用いているように、二極化、あるいは二重構造などの名で呼ばれるような、現代資本主義の重層的構造の理解のために生かされるべきだろう。確かに、歴史的に、段階的変化があったのであるが、それが宇野派の言うように、『資本論』=19世紀イギリスに典型的な資本主義段階の理論、『帝国主義論』 =19世紀末から20世紀初頭の独占資本主義の段階の理論、第一次世界大戦後の現状分析の段階というように、切り分けてしまってよいのだろうか、ということだ。むしろ、現代経済において、それらは同時に、重層構造の内で、生き続け、あるいはそれらが構造的に関係している運動メカニズムがあると言えるのではないだろうか? 山田氏も、以下のように提言しているのである。
 
 「宇野理論を蘇生させるため、例えばレギュラシオン理論を宇野的現状分析のうちに取りこむことも一つの方途かもしれないが、そのさい忘れてならないことは、現代資本主義論(資本主義の時間的・空間的変化の認識)という経済学の主戦場(「究極目標」)において、宇野方法論とレギュラシオニスト方法論とを全面的に突き合わせてみることであろう。積みかさね方法論を拒否し、純粋大理論の構築を拒否し(BOYER R [1986b]訳三六頁)、理論と歴史(あるいは現実)の近接化を志向し、成長と危機を同時に説明する中理論を志向する、レギュラシオン理論と、である」         

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レギュラシオン派

 レギュラシオン派は、近代経済学における動学的アプローチを目指した。レギュラシオン派は、1970年代後期から、アグリエッタを中心に、ポワイエ、リピエッツ、ベルトランらのパリ学派を形成した。山田鋭夫氏によれば、レギュラシオン・アプローチの核心的課題は、「資本主義をすぐれてその動態性と多様性において把握することであり、またいわゆる経済主義と手を切って、制度機構などの社会的動態を有機的に包摂した理論構築と現実認識を志向することである」。それは、

  1. 資本主義経済が成長(持続的成長)から危機(構造的危機)へと移行し、あるいは逆に停滞から躍進へと移行するのは、なぜ、いかにしてか。
  2. 同時代のなかで成長や危機が各国別に異なる形態をとるのは、なぜ、いかにしてか。
  3. 危機(構造的危機)が歴史過程のなかで異なる形態をとるのは、なぜ、いかにしてか。

の三つになるという。これらが、マルクスのアプローチやマーシャルやケインズが意図はしたが実現できなかったアプローチ、そして、シュンペーターのアプローチを引き継ぐものであることは明白である。

 レギュラシオン派の基本概念は、「蓄積体制」と「調整様式」である。このうちの調整という概念は、新古典派の均衡と構造主義の再生産という概念に対立するレギュラシオン派の基本概念だという。蓄積体制は、自己調節的な市場のロジックのみで存在するのでも、自動的に再生産される構造でもなく、相互に独立した諸力間の闘争によって、統一性・整合性・規則性がもたらされるのであり、それらの諸力・諸過程の総体が「調整」であり、「調整様式」なのである。

 この調整の概念によって、例えば、年功序列・終身雇用などの日本型賃金・雇用制度が、蓄積体制の特殊な調整様式として具体的に機能している姿を、一般的な普遍的な構造からの逸脱とか、均衡の攪乱要因の一つや不合理な存在として切り捨てることなく、描き、説明することができるようになる。

 なお、構造主義と新古典派の均衡論に関連があることを指摘するものがあるが、確かに、一般均衡論のワルラスはスイスのローザンヌ学派であり、構造主義の祖と言われる言語学者のソシュールは、スイスのジュネーヴ大学にいたのである。

 レギュラシオン派は、蓄積体制と調整様式の特徴から、20世紀後半の資本主義をフォード主義と名付ける。それは、大量生産/大量消費、高生産性/高賃金、内包的蓄積/独占的調整などの特徴を持っている。このような諸特徴を持つ経済が、高度経済成長時代の日本の場合にあった。フォード主義は、第二次世界大戦後に成立し、1970年代に危機に陥り、その後、ポスト・フォーディズムの時代に入った。ポスト・フォーディズムの時代になって、新自由主義のサッチャー・レーガン改革というのが試みられたが、無惨な失敗に終わった。レギュラシオン派がそれをどう説明したかについては、稿を改める。

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校内暴力についての朝日・読売社説

 校内暴力に関する文部科学省の調査結果に対して、『読売新聞』と『朝日新聞』が、社説で取り上げている。

  『読売新聞』の方は、「限界を超えれば“強制退席”も」とあるように、原因の追及などよりも、とにかく、強制・懲罰を強化して、校内暴力を止めるべきだという主張である。担任任せにせず、学校全体で取り組む、親・保護者が理解する、親が暴力は許されないことを諭す、等々を行いながら、指導の限界を超える場合には、強制措置を取れという。しかし、暴力は許されないことだぐらいのことは、親も本人もわかりきっていることだろう。頭ではわかっていながら、そうなってしまうのは、なぜかということが解明されないと、有効な対処はできないだろう。
 
  『朝日新聞』は、暴力に走りがちな子どもには、①ストレスや不満をため込んでいる、②ストレスの暴発を自制する力が弱い、という二点の共通点があると指摘している。そして、「どんな不満があるのか。なぜ自制する力が弱いのか。子どもの内面や生活習慣にまで踏み込まなければ、原因を探ることはできない。それには、学校だけでなく、家庭との連携が欠かせない」という。
 
 そこには、食事・栄養バランスの問題や親の精神状態やゲームの普及で、外で上下の年齢の子供と遊ばなくなった、などの環境変化が影響しているという。

 社説は、「小学生の暴力を学校だけの問題に終わらせず、社会を見つめ直すきっかけにしたい」と最後にいう。確かに、それは一般的に言えば、そうだろうし、そうすべきだろう。

 しかし、なぜ、今、突然、子供の暴力が急増したのかは、これではわからない。ここ数年の子供や学校・家庭・社会の変化ということで言えば、いろいろと「ぶっ壊す」と叫んできたこの国のトップ・リーダーの影響ということも考えてみなければならないだろう。なにかというと、「キレて」は、どこが悪いのかと開き直り、敵を作りだしては、徹底的に排撃する、そんな総理の姿勢が、親を通じて、子供に影響していないのかどうか、考えてみる必要があろう。弱肉強食の競争主義を煽り、周りはすべてライバルで、敵のように見なして、個の殻に閉じこもって、孤立化する中で、ストレスをかかえこむ。それは、今の大人たちの姿と似ているのではないだろうか?

 そして、この間、文部科学省が、教育現場にしてきたことと言えば、儀式における「日の丸・君が代」強制であり、校長権限の強化であり、教師管理の強化であり、国家主義的官僚主義的な統制の強化であった。それは、国家に対して学校教育を受動的にすることであり、現場における能動性や自発性や活気や創意などを押しつぶすものであった。それは、『読売新聞』の主張に表れているような、管理・懲罰の強化という方向である。それは、スターリニズムの国権主義と似ている。上からストレスをかけて、別のストレスに対応するというやり方である。

 そのようなやり方が一時的にしか成功しないということは、歴史的に明らかになったはずだが、自称民主国家の日本で、こうした国権主義的やり方が生き続けているのである。国権主義と官僚主義は類縁性を持っているのだろうが、いづれにしても、国権主義は一時的にしかうまくいかないということは確かである。

 食事が、人の精神状態にいろいろと影響を与えるのは確かである。それが最近の校内暴力の原因だとすると、ここ数年の内に、子供たちの食事の内容が、急激に、しかも広範に、悪化したことになる。そういう同時的な食内容の変化があったかどうかはわからない。

 最近の大きな社会的変化というと、小泉改革というのは、破壊のスローガンで、社会的攪乱を起こしたのは確かであるから、なんらかの関係がありそうに思われる。それが親や教育関係者などの価値観に動揺を与えるなり、攪乱するなりしたことが、影響しているのではないだろうか? 

 [キレる小学生]「限界を超えれば“強制退席”も」

 授業中に漫画を取り上げられた小学6年男児が、突然「キレて」女性教師の腹をけった。

 けんかの仲裁に入った男性教師が小4男児から「何で止めるんだ」と怒鳴られ、体当たりされてツメで腕をひっかかれた。

 “被害教師”たちの悲鳴が聞こえてくる。子どもから暴力を受けても、大人の力で押さえ込むわけにいかない。「体罰を振るえばクビ。どう対応すればいいのか……」。現場の悩みは深刻だ。

 小学生の暴力が止まらない。昨年度、公立小学校児童の校内暴力は3年連続で増えて2018件、過去最悪だった。文部科学省が統計を取り始めた1997年度(1304件)に比べ5割増だ。

 とりわけ教師に対する暴力は464件と、前年度の336件から38・1%も増えた。児童間の暴力(951件)や器物損壊(582件)も相変わらず多い。

 文科省は「特定の児童が繰り返し暴力を振るう傾向が強い」と説明する。「教師の叱責(しっせき)を受け止められない、心の切り替えができない」。そんな児童が、勝手な行動を教師から注意されたり、制約されたりすると、突然キレてしまう。

 早期に、学校全体で対応すべき問題だろう。だが、実際は「担任に任せきり」という小学校がほとんどだ。

 保護者の理解、協力を得ることが何より大切だ。問題児童の親も含め、保護者が毎日交代で荒れた教室の授業参観を続けた結果、徐々に学級崩壊から立ち直り、正常化していった例もある。

 だが、中には学校からの呼び出しに、「うちの子を悪者にするのか」などと、くってかかる親もいる。暴力は許されない、ということを、真っ先に子どもに諭すのは、親の務めではないだろうか。

 学校側も、指導の限界を超えた児童には、毅然(きぜん)とした態度をとるべきだ。

 昨年度、校内暴力で警察に補導された小学生は11人にとどまっている。

 学校教育法に基づく「出席停止」処分を受けたのも、中国地方の小5男児だけだった。校内の備品を壊す。授業中に他の児童を外へ連れ出そうとする。転入してきて5か月、繰り返し指導したが改まらないため、厳しい措置をとった。

 最も多いのは「訓告」(20人)だが、それを含めても何らかの処分を受けた児童は27人にすぎない。ほとんどは単なる叱責、注意で終わっている。

 これで「反省」が望めるだろうか。特定の児童が暴力を繰り返すのも、この甘い対応に原因があるのではないか。

 過度の暴力や、他の児童の学習権まで奪うようなケースなら、教室からの“強制退席”もやむを得ないだろう。(2006年9月15日『読売新聞』)

 子どもの暴力 学校だけの問題ではない

 担任の先生を殴ったり、けったりする。同級生に暴力を振るう。学校の窓ガラスや備品を壊す。児童や生徒のそうした暴力行為が収まらない。

 05年度に全国の公立小中高校で起きた校内暴力が2年ぶりに増加に転じたことが、文部科学省の調査でわかった。子どもが減り続けているのに、逆に暴力事件が増えていることは、深刻に受け止めなければならない。 暴力に走りがちな子どもについて、二つの共通点が指摘されてきた。一つはストレスや不満をため込んでいることだ。もう一つはストレスの暴発を自制する力が弱いことだ。

 どんな不満があるのか。なぜ自制する力が弱いのか。子どもの内面や生活習慣にまで踏み込まなければ、原因を探ることはできない。それには、学校だけでなく、家庭との連携が欠かせない。

 とくに増え方が目立つのが小学校だ。校内暴力は2千件を超えた。そのうち教師への暴力は3年続けて増加率が30%を超えるという異様な増え方である。

 この調査から浮かび上がるのは、カッとなって手や足を出してしまう子どもたちの姿だ。いらいらや暴発の気分を表す「ムカつく」「キレる」という言葉は以前から広がっていた。暴力を振るわないまでも、暴力に共鳴する子どもは多い。

 荒れた小学生は、中学校でさらにひどくなる恐れがある。いまのうちに芽を摘んでおく必要がある。

 暴力に走りがちな子どもについて、二つの共通点が指摘されてきた。一つはストレスや不満をため込んでいることだ。もう一つはストレスの暴発を自制する力が弱いことだ。

 どんな不満があるのか。なぜ自制する力が弱いのか。子どもの内面や生活習慣にまで踏み込まなければ、原因を探ることはできない。それには、学校だけでなく、家庭との連携が欠かせない。

 親の責任は重い。子どもが不満をため込み、それを抑えきれないというのは、その家庭に問題があると考えざるをえない。親が自分の気持ちをきちんとコントロールできないから、子どもが暴発してしまうのではないか。

 最近は朝食をとらせないまま、子どもを学校へ送り出す家庭も少なくない。こんなことでは、学校へ行っても子どもの気持ちが落ち着くはずがない。

 学校と家庭が手を携えて、それぞれの場で改善すべき点を改善していく。そうした努力を積み重ねるしかない。

 昨年度、暴力を振るった児童が1人出席停止になった。小学校での出席停止は7年ぶりのことだ。悪いことをしたと反省させるための措置としては、やむをえまい。ただし、その場合でも、暴力の原因を探り、再教育するために、家庭との連携がいっそう大切になる。

 子どもの暴力を詳しく分析し、成功した指導の例を各学校に伝える。そうしたことを文科省は考えた方がいい。

 子どもが置かれた環境は、親や祖父母の時代とはすっかり変わってしまった。
 ゲーム機が広がり、外で遊ばなくなった。体をぶつけあうような遊びもやらない。学校でも塾でも、周りは同じ年齢の子どもばかりだ。

 そうしたさまざまな変化も、子どもにストレスを加え、自制する力を弱めてきたのではないか。小学生の暴力を学校だけの問題に終わらせず、社会を見つめ直すきっかけにしたい。(06年9月15日『朝日新聞』)

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9月14日の気になったこと2つ

 一つは、公立小学校での校内暴力が昨年、急増したという記事である。今小学生と言えば、90年代後期に生まれた子供である。関係はないかもしれないが、この時期は、ちょうど、「新しい歴史教科書をつくる会」が出来て、教科書批判や自虐史観批判、教師批判の一大キャンペーンを行っていた頃である。特に、教師に対する暴力が繰り返されていることには、親の価値観が反映されている可能性もある。「つくる会」は、自虐批判をすると当時に、プライドを強調した。それもやりすぎれば、他者の尊重という態度を損なうものになりかねないのではないだろうか? 無論、これは推測にすぎない。暴れる子供たちに、なんらかのストレスはないのか? 社会的経済的原因はないのか? 等々、具体的データから明らかにしていかなければならないことがいろいろある。「つくる会」は、これも、自虐的な教科書のせいにするのだろうか? 

 次は、パレスチナの危機についてである。レバノン戦争は、国連やEU諸国・アメリカなどの外交の動きの中で、停戦にこぎつけ、今のところ、ほぼそれは守られている。イスラエルは、レバノン空域・海域の封鎖解除を行う。復興資金の提供を、各国が表明しており、後は、それらを実行し、国連レバノン暫定軍とレバノン国軍の南部への展開と同時に撤退することになっている。かくしてレバノンでは平和と復興に向かって動いている。

 それに対して、パレスチナは、相変わらず、イスラエルによる封鎖と暗殺、軍事攻撃、政治家・活動家・政府要因の拉致が行われている。国連貿易開発会議は、パレスチナの危機は深刻であり、各国が援助を再開しなければ、危険な状態になると警告を発した。ハマスとファタハは、連立政府の樹立で合意したが、この状態をなんとか改善することが必要である。それには、イスラエルが行っている懲罰行為を止め、パレスチナの封鎖を解除し、インフラの破壊を中止し、再建のための人材を解放することだ。

  校内暴力:公立小、初めて2000件突破 05年度

  小学校の校内暴力 公立小学校の児童が05年度に起こした校内暴力は2018件(前年度比6.8%増)で3年連続で増加し、過去最多となったことが、文部科学省の「生徒指導上の諸問題の現状」の調査で分かった。このうち、児童が言動を注意され逆上して足をけるなど、教師への暴力は過去最多の464件で、前年度比38.1%増と急増ぶりが目立った。

 05年度の小中高生全体の校内暴力件数は3万283件(0.86%増)で、そのうち中学生は2万3115件(0.02%増)、高校生は5150件(2.5%増)。

 増加の目立つ小学生の校内暴力のうち、最も多いのは児童間暴力の951件(4.1%減)で、他に器物損壊の582件(7.0%増)など。校内暴力で11人が警察に補導された(学校外15人を含めると計26人)。

 また、小5の男児1人が器物損壊で10日間の出席停止となった。問題行動を繰り返す児童生徒がいる場合、他の子どもの学習権を保障するため市町村教委が保護者に命じる制度で、出席停止の用件を明確化するなど適用しやすくした学校教育法改正(02年1月施行)以来、小学生では初めて。

 同省は教師への暴力の増加傾向について、「259人で464件と、中高生に比べて1人の児童が暴力を繰り返すのが特徴。しかられた後に気持ちの切り替えができなかったり、注意を聞けないケースもある」と分析。「保護者の協力不足や担任任せな実態もある」と保護者との連携や校内での一致した対応を求めている。【長尾真輔】(毎日新聞 2006年9月13日)

 パレスチナ、米欧などの援助打ち切りで破たん危機

 【ジュネーブ=渡辺覚】国連貿易開発会議(UNCTAD)は12日、パレスチナ情勢に関する報告書を発表し、パレスチナ自治区が米欧などの援助打ち切りで経済破たんの危機にあると指摘した。 それによると、2006年の住民1人当たりの所得は約1080ドル(約12万6000円)と、2000年の約半分にまで落ち込む可能性がある。過去約20年間の最低水準という。

 報告書は、援助停止による今後3年間の経済損失が総額54億ドル(約6300億円)に達し、2007年の失業率は最大で約52%にのぼる恐れがあると指摘している。日本、米国、欧州連合(EU)などは今年3月、パレスチナでイスラム原理主義組織ハマスが主導する内閣が発足したことを受け、自治政府に対する直接援助を停止している。(2006年9月13日『読売新聞』)

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安倍官房長官の教育再生論について

 トラックバックありがとうございます。

 『うつ病を克服しストレスフリーな生活を手に入れる方法』ブログのhito-Aさんからトラックバックをいただき、安倍官房長官の教育再生政策への意見を聞いてみたいということでしたので、簡単に、私見を述べてみたいと思います。ただ、教育問題は、きわめて広い領域の問題ですので、それについては、時々、一部の問題を取り上げてはいますが、もっといろいろあることは言うまでもありません。

 貴意見を拝見すると、まず、安倍官房長官の教育再生策について、手際よくまとめられていると思いますし、それらはその通りだと思います。貴方の結論としては、子供の心が病んでいる原因を突き止め、その対策がないと教育再生は絵に描いた餅だということですね。子供の心の問題は、確かに重要な問題ですが、これは、学校教育だけが原因というわけではなく、社会や家族なども関わってくる問題で、それらを広く見渡して考えていかなければならない問題です。

 それに対して、安倍氏の教育再生策は、答えていません。それは、氏の教育再生論とよく似ている教育再生機構設立準備室の主張を見ても明らかで、基本にあるのは、合理主義的人間像であり、それを仮構した上での、教育論です。自虐史観批判もそうですが、自虐か否かを合理的に判断できるという想定の上で、誇りを持てる日本人の育成などということを言っているのです。このやり方は、いみじくも、日本教育再生機構代表の八木秀次氏が、語っているように、黒書運動、すなわち政敵を暗黒勢力として描くプロパガンダ運動を通じて、政治権力を保守派・右派が握ろうという政治運動なのです。

 それは教育を通じて、保守派・右派の支持者を増やそうという政治運動なのです。これまでは、左派が教育現場支配を通じて、その支持者を増やしていたというのが、彼らの見方であり、それに取って代わりたいのです。私は、日教組が教育現場を牛耳っているなどというのは、明らかな誇張だと思いますが、事実よりも、政敵を暗黒に描くことが目的の彼らは、平気でそういうことをします。これは、冷戦時代に、CIAなどが行っていたことと同じで、CIAはソ連などについてのでたらめ情報をマスコミを通じて流していたことを認めています。でたらめ本の出版ももちろんやっていますし、NGOを通じて、政治家や運動体を買収したり、運動体に資金援助したりしています。最近だと、ウクライナの大統領選挙の際に、反体制派に金を出したり、運動の仕方などについてのアドバイスを行ったりしています。

 自民党は、岸時代などにそういうアメリカからの工作資金を受け取っています。それから、民社党結党時にもそういう対日工作資金がこの党に流れています。こういう薄汚れた連中が、教育再生を叫ぶのですから、貴方のように、まじめに教育再生を考えている人を馬鹿にした話もないのです。今度の自民党総裁選も、真面目に努力した者が報われるなら、それなりに分厚い政策集を作って努力した谷垣・麻生の方が当選するのが当然で、薄っぺらな政策パンフでお茶を濁して、森派という最大派閥の数を背景に、優位に立つ安倍氏が当選するのはおかしいのですが、現実は、ポストを目当てに、政策の違うグループまで、安倍支持に雪崩をうつ有様です。こんな有様を見て、政治不信に陥らない方が、心理的に不健全であり、それが、子供たちの心に悪影響を及ぼさないわけがないと思います。

 子供には、道徳だ愛国心だと強制して、自分たちは、勝ち馬に乗るとか広報戦略で見かけだけのイメージを売り込み、ポストなどの利権を目当てに、政策も裏切り、一部の日本人だけは、必死になって守るといい、「負け組」は自己責任だと言って、うち捨てられる。これは子供の心にとっていいことでしょうか?

 貴方の言うごとく、道徳だ、愛国心だ、自虐史観がどうだ、官邸がどうだ、日教組がどうだ、教科書がどうだ、等々、と立派なご託を並べるよりも、子供の心が生き生きとするような教育や社会を実現することが必要で、そのためには、上のような政治家たちが、先に立派に生まれ変わることが必要だし、いろいろと陰謀めいたことをやっていた八木秀次氏のような反道徳的な人物を代表に担ぐような日本教育再生機構のようなところに、教育政策に影響力を強めさせてはならないと思います。大昔の共同体には、精神分析は不可能だという人がいます。それは、子供の心を生き生きとさせる社会のあり方のヒントになるのではないでしょうか?

 私見を思いつくままに並べてみました。しかし、教育をめぐっては、いろいろなものが関係していて、今後も拙ブログでも取り上げることになると思いますので、TB、コメントなどありましたら、どうぞお寄せください。 

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井上義郎氏『市場経済学の源流』について

 井上義郎氏の『市場経済学の源流 マーシャル、ケインズ、ヒックス』(1993年 中公新書)は、これまで一般的だった新古典派経済学の静態的市場観をくつがえして、「自発的動態性としての市場経済」観を、アダム・スミス、ミル、マーシャル、ケインズのイギリス経験論の系譜に見いだそうという試みである。

 井上氏は、ワルラス、パレートの一般均衡理論に代表される新古典派の静態的市場経済観に対して、イギリス経験論の系譜の市場経済観に動態的なものを見ているのだが、その問題意識の出発点に、シュンペーターの動学を置いている。シュンペーターは、新結合(イノベーション)として、①新しい財貨の生産、②新しい生産方法、すなわち事実上未知の生産方法の導入、③新しい販路の開拓、④新しい原料供給源の獲得、⑤新しい組織の実現、をあげている。井上氏によれば、これらは「市場メカニズムを定義するさいの与件条件とされているものだ」という。したがって、これは、「経済主体の自発的な行動=新結合によって、したがって経済の「内」的努力によってもたらされる、その意味で経済は内発的に動態的なものになる―というのがシュンペーターの議論の骨子である」。しかし、この新結合は、市場メカニズムの定義の与件というよりも、経済変動のメカニズムの与件というべきものであろう。

 井上氏は、企業者が新結合なる一種の賭けを行うのは、「さらなる利潤を求める、資本主義的企業家の通常心理以外の何物でもない。ただし、それは多くの貨幣を手に入れてぜいたくな暮らしをしようという自覚的な目標を目ざしたものというよりはむしろ、人よりも少しでも多くの貨幣を持っていないと、自分の存続が危うくなるのではないかという漠然とした不安につき動かされた、一種強迫観念に近い心理であろう。一般均衡の実現した状態では、利潤=0であるから、与件を崩してしまう以外に利潤獲得のチャンスはもはや残されていないのである」からだという。

 しかし、シュンペーター自身は、企業者の新結合の動機として、①私的帝国を建設したいという夢想と意志、支配意志、②勝利者意志、③創造の喜び、の三つをあげている。シュンペーターのこのような積極的な冒険者的意志で新結合に向かう企業者像と自己の存続の危機(利潤=0)への不安につきうごかされた強迫観念から新結合に向かわざるをえないという企業家像は、全然別人だ。それは、井上氏が、シュンペーターが、企業者を市場外部からの均衡攪乱要因者ととらえる解釈に対して、「市場の原理そのものが、生産に携わる経済主体を新結合を決意せざるを得ないところまで連れて行ってしまう、そういう機能を市場は実は持っているのだ、ということをシュンペーターは本当はいいたかったはずなのである。だからこそ、彼の議論は動態性の議論になりうるのである」という解釈を持っているからなのである。

 井上氏は、市場メカニズムを、その与件を変革していく自発的動態性を持つシステムだとしている。そういう市場経済のヴィジョンの問い直しは、「不均衡動学、スラッファの再生産論を基礎とし技術革新を技術選択として内生的に把握しようとする構造動学、市場を均衡状態としてではなく絶えざる調整・創造の「過程」として把握し直そうとする新オーストリア学派の議論、さらに近代経済学とマルクス経済学の垣根を取り払い資本蓄積と調整制度の歴史的変化を理論的に読み取ろうとするレギュラシオン学派の議論、その他、制度学派を母体とする進化論的経済学、構造動学とはまた違った観点から技術革新の内生性を主張する議論(これは、シュンペーターに限らず、本書におけるマーシャルの議論と大いに関係してこよう)など、思いつくままに挙げていっても、かなりの広がりを持ち始めていることに気付かされる」という。

 氏の自発的動態性を持つ市場経済観からは、自由放任主義的なメッセージが読みとれるような感じがするが、本人は、それをきっぱりと否定する。「市場経済は、放って置けば自発的に次々と技術革新を生み出してくれるのであるから、いたずらに介入せず放って置いたほうがよいということを、マーシャルの名を借りていいたかったのではない。・・・マーシャルのそもそもの問題意識は、市場では調整できない分配関係の是正にあったのである。これを、長い時間を要する生産力強化のみによらず、周知の課税・補助金を使った市場介入政策によっても解決してゆこうとしたのがマーシャルの基本姿勢であったことを、学説史上の事実として、われわれは看過するべきではない」。

 さらに、カール・ポランニーが「市場経済は、貨幣・労働・自然という、市場「外」の要素に支えられて、いいかえると、それらのいわゆる本源的要素を「内」に取り込んでゆく「過程」として、初めて成り立つシステムであることを見抜いた」ことが、重要になっているという。

 氏は、人間観・社会観その他の幅広い経験から得られる帰納的データのモデル化が必要だし、永久の未来を約束されたわけでもない市場について、動態化機構として捉え直しすことで、「市場制御のありかた、経済政策のありかた」にも見直しが必要だが、その具体的議論がないので、「この方向で何をどこまで探求できるかの、これからの経済学に課せられた大きな課題ではないだろうか」と問題提起をしている。

 井上氏は、結局のところは、イギリス経験論を再評価して、帰納的方法を使って、新しい市場像や人間像をモデル化して、自発的動態化機構としての市場を具体的に裏打ちする課題があって、それを解決していくことで、市場制御や経済政策などの見直しが可能となるだろうというのであろう。現実には、1990年代後期から今日まで、ほぼ自由放任主義に近いような議論や新古典派的な議論ばかりが、日本の経済議論を支配した。これは、氏自身が言うように、問題提起の書であって、人間観・歴史観・社会観等々の広がりの中で、経済や市場を見ていかなければならないという氏の問題意識は正しい。そして、氏は、イギリスの古典派経済学の伝統である経済理論と政策論を結びつけようとしている。それは経済学=「経世済民」学であるとするイギリス古典派の伝統である。とはいえ、氏は、この書では、問題整理と問題提起に止まっている。 

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マルクスから学んだカレツキの経済理論

  『「ケインズ革命」の群像』の第四章は、ほぼポーランドのミハウ・カレツキの経済理論の説明にあてられている。根井氏によれば、カレツキは、ケインズとは関係なく、ケインズの『一般理論』が出る前に、1933年の『景気循環理論概説』で、ほぼケインズ革命の本質をつかんでいた。

 カレツキの利潤理論は、それを示している。

 政府部門のない閉鎖体系で、労働者がその所得をすべて消費する(賃金=労働者の消費)とすれば、
 
       利潤P=投資(I)+資本家の消費(C)      (1)
 
が成り立つ。

  Cが固定的部分B0と利潤に比例する部分をλP(0<λ<1)とすると、
 
         C=B0+λP              (2)
 
(1)と(2)から、

     P=B0+1/1-λ     (3)
 
   「さらに、利潤Pの国民所得Yに占める割合をπとすると(P=πY、0<π<1)、次の式が得られる」。
   
    Y=1/(1-λ)π×(B0+1)  (4)
   
 この(4)式の1/(1-λ)πが、カレツキの乗数である。「注意すべきは、それが資本家の消費性向λばかりでなく、利潤分配率πにも依存していることである」。
 
  カレツキは、これをマルクスの再生産表式から導き出した。

 経済体系を、投資財生産部門Ⅰと資本家の消費手段生産部門Ⅱと賃金財生産部門Ⅲに分かれているとする。各部門の産出量の価値Vは、利潤Pと賃金Wの和に等しい。
 
  V1=P1+W1

 第三部門の産出量は、一部はそれを生産した労働者によって消費され、残りは他の生産部門の労働者によって消費される。したがって、
 
    P3=W1+W2           (5)
 
 第Ⅰ部門と第Ⅱ部門の産出量の価値を合計すると、
 
    V1+V2=P1+P2+W1+W2   (6)
 
 (5)式を(6)式に代入すると、
 
    V1+V2=P1+P2+P3       (7)
 
となる。

 「(7)式は、経済全体の利潤が、投資財の産出量の価値と資本家の消費財の産出量の価値の和に等しいことを示している」。
 
 このもとになっているマルクスの再生産表式を確かめておこう。

 社会の総生産物は、二つの部類に分かれる。

   Ⅰ 生産手段―生産的消費に入るべき、または入りうる形態をもつ諸商品

   Ⅱ 消費手段―資本家階級と労働者階級の個人的消費に入る形態をもつ諸商品。

 各部類で、資本は、二つの構成部分に分かれる。
 
 (1)可変資本―価値から見れば、労賃の総額で、素材から見れば、この資本価値によって運動させられる生きた労働からなる。
 
 (2)不変資本―生産に充用されるいっさいの生産手段の価値、それはさらに、固定資本(機械、労働用具、建物、役畜等々)と流動不変資本(原料、補助材料、半製品等のような生産材料)に分かれる。
 
 蓄積がない単純再生産の場合を想定して、cを不変資本、vを可変資本、mを剰余価値、価値増殖率m/vを100%と仮定する。マルクスが例にあげている数字をそのまま使う。

 Ⅰ 生産手段の生産

   資本・・・・・・・・4000c+1000v=5000
     商品生産物・・・・・4000c+1000v+1000m=6000
     生産物は生産手段として存在する
    
  Ⅱ 消費手段の生産
 
    資本・・・・・・・2000c+500v=2500
      商品生産物・・・・2000c+500v+500m=3000
      生産物は消費手段として存在する
      
 年商品生産物は、
 
  Ⅰ 4000c+1000v+1000m=6000生産手段

  Ⅱ 2000c+ 500v+ 500m=3000消費手段

となる。

 第Ⅱ部類の労働者の賃金(可変資本v)と資本家の収入(剰余価値m)は、この部類の生産物である消費手段に支出されなければならない。Ⅱの500v+500m=1000が、それによって消える。第Ⅱ部類の資本家の収入である剰余価値1000mと労賃1000vも、第Ⅱ部類が生産した消費手段に支出される。これは第Ⅱ部類に残された2000cと交換される。第Ⅱ部類は、その代わりに、1000vと1000m分の第Ⅰ部類の生産物である生産手段を受け取る。かくして、第Ⅱ部類の2000cと第Ⅰ部類の1000v+1000mが計算から消える。残った第Ⅰ部類の4000cは、第Ⅰ部類のみで使う生産手段だから、この部類の資本家間の交換で処理される。
 
  カレツキの再生産表式は、マルクスの再生産表式の価値部分のみを表現しているもので、現物部分の存在を無視している。資本家の利潤は、資本家個人の消費に回る分と再投資される分(蓄積)に分かれるが、それに賃金財生産部門を独立した部門としているのが、カレツキの独創的なところである。

 マルクスの単純再生産表式では、資本家と労働者は、第Ⅱ部門の生産する消費手段を共に自己の消費手段として分け合うということが想定されている。カレツキは、資本家向けの消費手段生産部門Ⅱを賃金財生産部門Ⅲと区別しているのである。賃金財、例えば、穀物は、資本家と労働者のどちらにとっても消費手段である。しかし、奢侈品となるとほぼ資本家や地主などの富裕層に限定された消費手段である。それは、賃金財ではない。それについては、マルクスは、後に、Ⅱ消費手段生産の亜部類として、考察される。
 
 根井氏は、次に、ケインズの有効需要の原理を数式とグラフを示して、説明する。それについては、ヒックスのIS―LM分析やサミュエルソンのインフレ・デフレギャップ論などが経済学の教科書などの類に載っているので、省略し、次に進もう。「とにかく、ここでは、ケインズが、『一般理論』において、完全競争と収穫逓減の法則の仮定から出発して価格=限界費用という利潤極大条件をもとめ、さらにそこから産業全体としての総供給金額と雇用の関係(総供給関数)を導出したという事実のみを再確認しておきたい」。
 
 1930年代には、ケインズが『一般理論』で前提とした完全競争などはほとんど存在しなかった。J・ロビンソンが、『不完全競争の経済学』を著して、不完全競争の現実を理論に取り入れようと試みるなどの動きが、経済学者の間に広まりつつあったが、ケインズは、そうしなかった。カルドアは、次のように、ケインズを批判した。

 「ケインズは、不完全競争が彼の理論にとってもつ重要性に気づいていなかったように思われる―彼は、マーシャルとともに、各生産者は市場価格を限界費用と均等化させることによって彼の利潤を極大化するということを仮定することで満足しており、この条件が個々の企業の設備の『完全利用』を暗に意味しているのという事実、および過剰設備が存在しなければ、生産は、完全雇用が存在しようと存在しまいと、供給制約的になるであろうという事実を無視した。
 なぜなら、生産が需要決定的となるためには、失業した労働とともに過剰設備が存在しなければならないからである」。
 
 カレツキは、最初から、不完全競争の現実に着目していた。不完全競争下では、「大部分の企業の産出量が完全操業以下であり、しかも完全操業以下の産出量水準では、大部分の企業にとって、短期限界費用がほとんど一定である」。カレツキは、「独占度が国民所得の分配を決定するような世界は、自由競争のパターンからかけ離れた世界である。独占は、資本主義体制の本質に深く根ざしているように思われる。すなわち、仮定としての自由競争は、ある研究の最初の段階においては有用かもしれないが、資本主義経済の正常状態の描写としては、それは単なる神話にすぎない」と書いた。

  そして、根井氏は、J・ロビンソンの不完全競争下の産業均衡の条件は、限界収入(産出量を一単位増加することによって得られる収入の増加分)と限界費用(産出量を一単位増加するごとに必要とされる費用の増加分)の均等と価格と平均費用(正常利潤を含む)との均等の二つあるという指摘を説明し、「注意しなければならないのは、完全均衡点Pにおける産出量が、平均費用の最小点Qにおける産出量よりも小さいということである。この意味で、点Pは「過剰設備」(excess capacity)をともなった上での均衡点であると言われる」という。「ということは、産出量が削減されて不況になるのは、企業家が不完全競争の下で利潤極大化行動をとっているからだということになる」。

  そうすると、平成不況からの脱出策として、もっと利潤極大化を追求しろとはっぱをかけた政府や経済学者や財界は、かえって、不況を長引かせることをやっていたということになるわけだ。
 
 根井氏は、ケインズが、不況の責任を、活動階級たる企業者階級に負わせたくなくて、あえて、完全競争の仮定に固執したのではないか、不況を投資者(金利生活者)の貨幣愛に帰するために、流動性選好説を唱えたのではないか、と厳しく指摘する。そして、宮崎義一氏の以下のケインズ批判を引用する。
 
 「ケインズ体系において労資の対立を素どおりして、労働者の失業の原因を、主として金利生活者の行動に帰せしめることができたのは、この完全競争の仮定によるところが大きいというのが私の考えです。生産物市場における完全競争という仮定は、いいかえますと企業の生産設備能力は、つねにフル稼働されているという仮定にほかならない。完全競争の仮定のもとでは、どの企業もみなオプティマス・サイズ以上の水準で生産しているということでなければ利潤はプラスじゃない。ということは操業短縮をしていないということでなければならない。しかし実際は、二九年恐慌以後の不況期には、莫大な滞貨もあり操短も行われていたはずです。でも理論上は、完全競争の仮定をかくれみのにして、それを反映させなかった。なぜか? もし理論上操業短縮を容認すると、失業の原因はたんに相対的な高い金利だけでなく、むしろ主要な原因は、企業の利潤追求による操短にあることがうかび上がってくる。・・・ところが完全競争の仮定を採用すると、あらゆる企業は設備能力いっぱいを稼働していることになって、失業の責任をうまく金利生活者に肩代わりさせることができるわけです」。
 
 次に、カレツキの比較経済体制論が取り上げられる。カレツキは、独占度を入れた経済体系の研究を行う。カレツキの「分配要因によって彫琢された乗数関係」は、パスして、資本主義経済と社会主義経済の比較に移る。

 利潤の現象が起きると、「資本主義経済は、与えられた所得分配のパターンに対して産出量と雇用を調整することによってそれに対応しようとするのに対して、社会主義経済は、産出量と雇用のキャパシティ水準に対して所得分配を調整することによってそれに対応するであろう」。

  カレツキは、資本主義経済では、「価格―費用関係が維持されるため、産出量と雇用量の低下を通じて、利潤は投資プラス資本家消費と同額だけ減少する」が、社会主義経済では、「費用に対する価格の低下を通じて、完全雇用が維持される」という。そして、「資本主義の弁護者たちは、よく『価格メカニズム』が資本主義体制の大きい長所であると考えているが、逆説的なことに、価格屈伸性price flexibilityは明らかに社会主義経済に特徴的な性質なのである」という。
 
 カレツキは、短期の価格変動には、主に生産費(費用)の変動によって決まるものと需要の変動によって決まるものの二種類があるという。

  「短期価格変動には、大きく分けてつぎの二つの種類があると考えられる。主として生産費の変動によって決定されるもの、および主として需要の変動によって決定されるものである、一般的にいうならば、完成財の価格変動は『費用で決定され』、主要食料品を含む原料の価格の変動は『需要で決定される』。完成財の価格は、もちろん、『需要で決定される』原料の価格変動によっても影響を受けるのであるけれども、この影響が伝えられるのは費用の経路を通してである。
 これら二つの価格形成の型は、供給条件の相違に由来するものであることは明らかである。完成財の生産は、生産能力に予備があるために弾力的である。需要の増大は、主として、生産量の増大を伴うだけであって、価格は同一水準にとどまる傾向がある。価格変動が起こるのは、主として生産費における変動の結果である。
 原料については、事情がちがっている。農業生産物の供給増加には、かなり多くの時間を必要とする。このことは、同じ程度ではないにしても、鉱業について妥当する。供給は、短期的には非弾力的なので、需要の増大は、在庫品の減少にしたがって価格の上昇をひきおこす。この最初の価格のうごきは、通常、標準化されていて、商品取引所で相場がたてられる。最初の需要増加は価格を上昇せしめ、しばしば第二次的な投機的需要を伴う。このことが、また、短期において、生産を一そう需要に追いつきにくくしているのである」。
 
 ずいぶん、われわれが今目の前で見ていることの像に近くなっている。初夏以来の天候不順で起きた生鮮野菜の生産不足による値上がりは、ようやく最近になって値下がりに転じてきた。自動車産業では、海外への生産や部品生産の移転などで、生産費が下がって、自動車価格が下がった。平成不況以来、リストラ・パート・アルバイト化などによって、多くの企業が、主に人件費・可変資本を削り、費用を下げることで、デフレ下で価格を低め、あるいは抑えてきた。等々。
 
 ヒックスは1965年の『資本と成長』以来、カレツキにならって、市場を「伸縮的価格市場」と「固定価格市場」の二つに分類するようになった。ヒックスによれば、「伸縮的価格市場」は、歴史的に「特定の取引における利潤機会の変化に応じて価格を上下させる仲介者としての商人の存在に依存していた」が、規模の経済の発展、品質と価格の標準化が進んで、「固定価格市場」の「伸縮的価格市場」に対する優位が確立した。

 ヒックスは、「品質と価格の標準化とは、相互に強め合う傾向がある。なぜなら、値下げ商品は、劣った品質をもつものと疑われるからである。商人の役割が低下するのは、標準化の結果である。商人は、生産者の商品の単なる販路にすぎなくなり、その先行者がもっていた主導性を失った。このことは、社会的あるいは政治的な理由で生じたのではなく、技術的な理由で生じたことは注意すべきである。したがって、政治的には社会主義であろうとなかろうと、工業化した、あるいは工業化しつつある国ではどこでも生じやすいのである」という。
 
  カレツキは、社会的・政治的要因が、完全雇用の維持を掘り崩すと述べている。以下のカレツキの引用は興味深い。まるで、小泉改革のことを言っているようだからである。
 
  「不況になると、大衆の圧力のもとで、あるいはそれがなくても、いずれにせよ大規模な失業を防止するために借入れによって調達された公共投資が企てられるだろう。しかしこの方法をその後の好況のさいに達成された高雇用水準を維持するためにまで適用しようとすると、『実業の主導者』の強い反対に会いそうである。すでに論じたように、永続する完全雇用というものはまったく彼らの好むところではない。労働者は『手に余る』だろうし、『産業の統率者』はしきりに『彼らに訓戒を垂れ』ようとするであろう。さらに、上向運動時の物価上昇は大小いずれの金利生活者にとっても不利になり、ために彼らは、『好況にうんざり』してしまう。
 このような状態においては大企業と金利生活者との利害との間に強力な同盟が形成されそうであり、またそのような状態は明らかに不健全だと言明する経済学者をおそらく一人ならず彼らは見出すことであろう。これらすべての勢力の圧力、とりわけ大企業の圧力によって、政府は、十中八九、財政赤字の削減という伝統的な政策に後戻りしようとするだろう。不況がそれに続き、政府の支出政策は再び彼らの権利を回復することになる」。
 
  やはり、マルクスの経済理論を学んでいると、視野が広くなるし、歴史・社会・文化その他もろもろとの関連を含めた経済の運動をリアルに捉えられるようになるものだ。       

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自由経済から独占経済へ

根井雅弘氏の『「ケインズ革命」の群像 現代経済学の課題』は、「ケインズ革命」の説明とそれに対する批判や弟子たちの態度やその他の経済学者の関わりについて書かれたものである。

 この本では、ケインズが、リカードやマーシャルの古典派経済学からの断絶と同時に継承する面も併せ持っていたことや、ケンブリッジ学派の自由な論議の風土の中で、弟子たちからも学んでいたことなども指摘されている。そして、ケインズ革命を引き起こした『雇用・利子および貨幣の一般理論』が、1930年代の大不況の対策としての政策的議論が含まれていることをケインズ自身が認めていたことが明らかにされている。この『一般理論』で明らかにされたケインズ理論については、短期静学であるという批判が、昔からあった。さらに、シュンペーターによって見いだされたアメリカのマルクス経済学者のP・スウィージーの批判を、根井氏は引用している。

 「この伝統の暗黙の前提は、資本主義こそ文明社会における唯一可能な形態であるということだ。したがってケインズは、かれ自身が批判した経済学者たちとまったく同じに、決してこの制度を一つの総体として問題にしたこともないし、経済をその歴史的背景において考察したこともないし、また経済現象と技術的・政治的・文化的現象とのあいだの相互関連を正しく評価することもしなかった。その上かれは、かれ自身がそのなかで育ってきた教義と同じように古典派と密接な関係をもっているれっきとした経済思想で、しかもいま述べたような点を果たそうとしたものがあったという事実は、まったく知らずにいたようだ。ケインズの眼には、マルクスは、シルヴィオ・ゲゼルやダグラス少佐といった種類のあやしげな人物とともに理論の下層社会に住むものとしてしか映じなかったし、マルクスの信奉者はもともと宣伝屋かアジテーター以外のなにものでもないと、かれは考えていたのである」。

 「資本主義的なゲームの規則どおりに行動している人間という役者が逃れようのないかにみえる窮地におちいるたびに、この『神』が舞台に登場するのである。オリンピア劇におけるこのとり成しの神は、著者とそしておそらくは見物人にも満足のゆくようなやり方で、万事を解決してしまう。ただ一つここで困ったことには―マルクス主義者なら誰でも知っているように―国家は神ではなくて、他のすべての役者たちと同じように舞台で一役を演ずる役者仲間の一人にすぎないのである」

 1930年代において、すでに、独占や寡占などの現象は顕著になっており、経済学も、そうした現実を反映したものにならねばならなかったが、ケインズはそうしなかった。独占資本や帝国主義に関する経済的議論は、ホブソンやヒルファディングの『金融資本論』(1909年)などをもとに、マルクス主義者の間で、活発に行われていた。『一般理論』は、1936年に出版されたが、それはちょうど、1929年恐慌後の世界大不況下のことであり、イギリスでも、金本位制停止、ポンド圏確立、ブロック化して、保護貿易策を取った時期である。カルテル・トラストなどが成立し、市場独占、寡占化が進んだ時期だった。しかし、それが存在しないかのように、自由市場を前提にした経済議論が、古典派や新古典派では進められていたのである。

 しかし、後期ヒックスやカレツキなどは、固定価格や寡占市場下での経済についての研究を開始しているし、ケインズの弟子のJ・ロビンソンは、不完全競争状態での経済についての研究を行った。ガルブレイスは、需要主導・消費者主権を批判して、供給側の主体的な消費喚起行動(宣伝・広告など)が消費を規定する力が強いことを示した。これは、フランクフルト学派系のマルクーゼやフランス現代思想のボードリヤールなどの議論につながるものといえよう。

 マルクス主義者たちが、独占資本の問題について真剣に議論していた時に、近代経済学派が、19世紀的な経済議論の基本をそのまま受け継いで、経済学を論じていたのはうかつにすぎる話である。例えば、ハイエクは、経済次元で、この問題を扱えずに、政治的次元で、大国による小国の抑圧を批判する程度に止まっている。その代わりに、全体主義なる概念をこさえて、独占の弊害を説いているのである。それでは、現代の日本で、独占禁止法があるが、企業買収や資本提携などを通じて、大企業の独占化が進んでいくのはなぜだろうか? 自由競争から独占が生まれるのはなぜか? そして、その独占の結果、なにが起きるのか? これらの点についてハイエクの理論は何も教えてはくれない。経済的独占の弊害は、政治的独占の弊害に比べれば、たいしたことはないからだと彼はいう。しかし、経済的独占の政治的表現が、政治的独占に他ならない。それはハイエクの故郷のドイツで実際に起きたことではないか? 経済的独占が高じたから、アメリカで、政治的独占のニューディール連合が成立したのではないか? 1930年代不況下の日本では、この時期に、カルテル化などの独占化が進んだからこそ、政治の独占化である大政翼賛会化が進んだのではないか?

 独占価格や寡占価格が生まれてくると、経済の姿は、古典派や新古典派が描く画像とはずいぶん違ってくるのである。

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日本教育再生機構設立準備会について

 日本教育再生機構設立準備会のホームページには、安倍官房長官の教育再生政策に期待するという主張が載っている。「新しい歴史教科書をつくる会」から、ほとんど追い出される形で、やめた八木秀次氏が、この機構の代表になっているのだが、彼は、この機構を広範な人々を結集するゆるやかな教育改善運動体にしたいというようなことを述べている。しかし、安倍支持が、この機構の団体意志だとすると、非安倍支持者にはすでに門戸は閉じられたことになる。

 代表発起人の一人の屋山太郎という政治評論家のあいさつが載っているのだが、これが全く無内容で下らないものだ。代表にはカリスマ性が必要だが、すそ野は広い方がよいという。それから、全日教連委員長、TOSS代表、イエローハット相談役のあいさつが続いて、櫻井よし子、岡崎邦彦の激励、そして、武部自民党幹事長、安倍官房長官、山谷えり子自民党議員、祝電・メッセージが読み上げられたという。

 最後に、八木秀次会長のあいさつがある。それによると、彼は、レーガン、サッチャーの教育改革を、今の日本で実現しなければならないという考えのようだ。そして、五つの目標を掲げている。

 ①伝統文化を継承し、世界に発信します。
 わが国の優れた伝統文化を継承し、諸団体と連携して歴史、公民、国語、音楽などさまざまな教科書や副教材を作成し普及させます。教材の作成については一部着手しております。
 ②心を重視する道徳教育を充実させます。
 道徳教育の教材開発とともに、鍵山先生の「日本を美しくする会」などとも連携しながら、実践的な青少年育成活動を行います。教育基本法の改正に先立ち、宗教的情操心を涵養するための教材を作成致します。
 ③男女の違いを尊重し、家族を再興します。
 ジェンダーフリー教育や過激な性教育を排し、将来の家庭人にふさわしい教育のあり方を具体的に示します。地域の教育力を高めるべく、さまざまな団体と連携いたします。
 ④教師力を向上させ、学力を取り戻します。
 優れた実践活動をしている教員団体と連携し、教育現場から政治イデオロギーを排します。教育者が尊敬される社会の確立を目指します。ゆとり教育の見直しを求め、国が国民の教育に責任を持つシステムの構築を提案致します。
 ⑤教育再生を願う志と志をつなぎます。

 とくに、この⑤が、この機構設立の眼目であり、「志と志をつなぐこと。つまり、これまでつながりのなかった団体が相互に連携することによって大きな動きを起こします。そしてネットワークの事務局にシンクタンクの機能も日本教育再生機構が持ちます。必要に応じて政府・文部科学省とも連携いたします。既に、政府関係機関から教育改革のあり方についての委託研究の話も頂いております」というのである。つまり、草の根の社会運動であり、中間団体的運動を目指しているというのである。

 「教育黒書運動がサッチャー政権を生んだように、また、基本に返れ運動がレーガン政権を生んだように、私たちのネットワークが次々に問題を提起し、来たるべき政権の教育政策をリードしたいと考えております」ということで、政治運動と思いきや、そうではなく、「私たちが行うのは政治運動ではありません。民間の立場から日本の教育を良くしたい、その思いを結集して大きな教育正常化運動を展開しようということであります」ということだという。紛らわしい話だ。要するに、アメリカの草の根保守運動みたいなイメージなのだろう。それにロビー活動のようでもあり、なんともはっきりしない団体だが、10月中旬には正式発足させたいらしい。英米のまねをしたいそうだ。

 代表発起人の一人の屋山太郎が、何が言いたいのかはっきりしない人物であるし、八木代表も、そういう人物で、そういう不明確さによって、これまで、まとまれなかった保守系教育運動諸団体を包摂していくつもりなのだろう。

 ④の目的についてだけ、批判しておけば、教育現場から政治イデオロギーを排するなどというのは、無政治イデオロギー化するということではなく、彼らが教育現場を支配しているとみている日教組の左派イデオロギーを、愛国主義・右派イデオロギーに取って変えようというだけの話である。それは、どちらのイデオロギーの方が、文明や文化の型を高める創造的で建設的な人間を生み出せるかという争いである。例えば、櫻井よし子氏は、そうした高度な型の文化と文明を創造する能力と人格をどれだけ備えているか? 屋山太郎はどうか? 八木秀次はどうか? かれらには、それは、ない。ちょっとわきにそれるが、山形の加藤議員の家を放火し、自殺を図った64歳の右翼はどうか? この行動は、新しい文明を創造するどころか、退歩的行動であった。

 この機構の①から⑤の目的は、文明の高度化や文化の向上を示すものではない。というのは、それが、サッチャーやレーガンという退歩的時代の模倣を意味しているからだ。これらの時代において、例えば、レーガン下に、どんなアメリカ文明・文化の高度化があったというのだ? サッチャーの暗黒時代に戻りたいというイギリス人はほとんどいないだろう。それでも、サッチャーやレーガンの教育改革を今の日本で模倣しなければならないのはなぜだろうか? イギリス病を克服するのに、なにもサッチャー改革という蛮行を行う必要などなかったというのが、森嶋氏やイギリスの経済学者カーン博士の批判である。それに、第一、サービス残業が問題化しているこの日本で、イギリス病が発生しているのか?

 どうも、現状認識も歴史認識もまったく現実離れしていて、わけがわからない。①から⑤の目的もさっぱりわからない。今のところ、ただ、群れているようにしか見えない。保守派は、「新しい教科書をつくる会」の内紛騒ぎに示されたように、内部分裂を強めているし、結局は、未来を切り開く新しい世界観を提示してないし、ただ、人々の目を過去に向けさせ、疲弊させているだけである。

 ただし、この団体の運動には、アメリカの草の根保守運動を支えた福音派原理主義のような大きな宗教運動がない。成長の家は左傾し、霊友会は分裂し、神社本庁は、弱体化している。

 この機構は、政権との接近を通じて、運動の拡大を狙っているのかもしれないが、仮に安倍政権が生まれても、多すぎる支持議員のすべてに見返りを与えることは不可能で、論功行賞をめぐって、対立が激化する可能性があり、強い政権にならないかもしれない。改憲だなんだと大風呂敷を広げているが、人気を頼りの政権では、選挙を強く意識して、思い通りには政権運営を進められない可能性が高い。それから、正式の総裁選が始まってもいないうちから、大量リードが続いて、圧勝してしまうと、小泉政権誕生時のような意外性やサプライズやドラマ性がなく、人々を沸き立たせるような熱狂的支持ではなく、「やっぱり」という程度の支持しか得られないだろう。そんな支持は、軽い支持で、人々を感情の次元で捉えた支持ではないから、簡単に動いてしまうだろう。

 いずれにしても、保守・右派は分解と後退を続けているが、ただ群れ集まってもどうしようもないのである。

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小泉改革の幻想―創造的破壊の僭称

  小泉首相は、その改革路線を、「創造的破壊」と呼ぶことがある。これがいかに人々をだますだけのペテン的スローガンであるかは、今や誰の目にも明らかである。現在の自民党総裁選でも有力三候補は、小泉改革の継承を掲げながら、その実質的な転換を主張し続けれていることでも、それは明らかだ。実際には、路線転換なのだが、表看板だけは路線継承というものだ。

 もっともひどいのは武部幹事長で、小泉改革で、古い自民党は壊れ、復活することはないと強調しながら、来年の参議院選で勝つために、「守旧派」のレッテルを貼って、党から追い出した古い元自民党議員を復党させるとのたまわった。彼らは、郵政民営化反対という一政策のみの違いで、除名などの処分を受けたのであり、その他の政策や政治思想は自民党と同じだというのである。小泉改革に反対するものは、すべて守旧派であり、古い自民党であり、それをぶっ壊すといって、かれらを公認せずに対抗馬をたてて、ついには自民党から追い出したのに、小泉改革を継承するという表看板を掲げている後継候補の誰が、新総裁になろうと、小泉改革に反対の「守旧派」議員を新生自民党に戻すことには、無理があるのではないか。

 例えば、岐阜県では、小泉チルドレンの佐藤ゆかり議員と野田聖子議員をコスタリカ方式で共存させればよいという。コスタリカ方式の狙いが、どこにあったかを白状したような話だが、これほど選挙民を馬鹿にした話もないだろう。

 グラムシは、『獄中ノート』に、「創造することなしに破壊することはできない」という文章を残している。

 「「創造することなしに破壊することはできない」という主張は、たいへん普及している。私はすでに1914年以前に『イデーア・ナツィオナーレ』〔『国民的理想』〕紙上で、読んだことがあるが、それはまったく月並で陳腐な骨董品であった。歴史的な新しさの担い手のつもりでいる(ところが世故にたけた爺さんだ)あらゆる集団または小集団が、自分は破壊者―創造者であると、もったいぶって断言する。月並になった断定から、月並性をとり除く必要がある。誰でも破壊しようと思いさえすれば「破壊できる」というのは本当ではない。破壊することはひどくむずかしい。創造するのとまったく同じくらいにむずかしい。物体を破壊しようというのではないから、物体にひそんでいるにせよ、目に見えず、さわることのできない「関係」を破壊することが問題なのである。「必然」になり、容赦なく歴史の入口におしよせた新しいものを明るみにだし、出現させるために、古いものを破壊するのが破壊者―創造者である。だから、創造するかぎりで破壊するのだと言って、よい。多くの自称破壊者は、「堕胎未遂の検察官」に外ならず、歴史の刑法の判決をうけることになる」

 グラムシという類い希な実践的思想家がいてくれて、よかったと思う。9月4日『毎日新聞』の「雑誌を読む8月小泉政権の総括」で、精神科医の斉藤環氏が、小泉政権の医療改革による弱者いじめの実態を指摘し、小泉政権は、「ただ「負け組」的疎外感と、シニシズムをのみ」を蔓延させたと批判しながら、「実は私の小泉評価は両価的である」として、「変人(と思われていた)ゆえにこそ、派閥や金脈などに絡め取られずに済み、半世紀近くにも及ぶ与党・自民の五五年体制を、その根本においてまさに破壊し得たのではなかったか」と「評価しておきたい」などという幻想にとらわれずにすんだからである。

 破壊するのは、同時に創造することに他ならず、そうでなければ、ただ諸関係を攪乱したにすぎない。創造によって、破壊したものに復帰できないようにするのでなければ、真の破壊ではないということだ。これはシュンペーターにおける創造的破壊が、新結合を創造することを意味していたことでも明らかである。新結合(イノベーション)のない破壊は、たんなる蛮行にすぎないとシュンペーターは考えたのである。安倍総裁候補は、なぜか、イノベーションを技術革新とほぼ同義に使っているが、そうするとそれはこれまでの科学技術立国のスローガンとちがわない。シュンペーター的意味でのイノベーションは、そういうことではない。

 創造のないたんなる破壊者というものは、確かに変人と呼ぶのがふさわしいだろうが、それは、真の意味での破壊者ではない。小泉政権の終わり間近になって、改革を支持してきた『毎日新聞』が、ようやく小泉がエセ破壊者でしかないことに気づいて、それを社説などで強調するようになったが、おそすぎた。小泉改革が真の破壊であったなら、次の政権は、もはや逆戻りできないだろう。しかし、総裁選レースの様子を見れば、すでに逆コースが始まっていることは明らかではないだろうか? 斉藤氏が、次の政権に真っ先に期待する弱者への救済策やコミュニカティブということは、この逆コースを強めることになるしかないだろう。すでに安倍支持へなだれを打っている自民党の多数は、ポスト狙いであり、つまりは権益獲得という動機で動いているのであり、それは権益配分でなり立ってきたこれまでの派閥の存在意義を強めるだろう。

 人事を首相が握るといっても、末期の小泉政権でもすでにそうなってきていたように、派閥間のバランスを取りながら組閣人事を決定すれば、元通りである。それに復党組が加わって、党役員などについたら、元の自民党が復元する。削除→復元だ。

 破壊することはむずかしいし、関係を破壊するのは、物体を破壊するのとはわけが違う。その意味で、小泉首相は、破壊も創造もしなかった。靖国問題でもそうだ。この問題は、麻生外相が指摘したとおり、やがて自然消滅してしまう問題である。つまり、過去化しつつある問題である。しかし、ゴラン高原などへ海外派遣されている自衛隊員が戦死した場合の公務死の扱いは、現在の問題であり、未来の問題である。こういう自衛隊員の戦死の扱いが、まだ未定なのである。つまり、この問題でも、小泉には創造がなかったのである。そして、安倍候補も創造的プランを明らかにしていない。

 先日、朝鮮戦争での犠牲者は、合祀の対象にならないという靖国の判断が示されたことが報じられた。改憲によって、自衛隊を国軍と位置づけた場合には、この基準はどうなるのか? 大日本帝国軍と自衛隊の間には、断絶があり、それは、靖国と自衛隊戦死者との間にも存在するということになるのか? 自衛隊の海外派遣が増えるにつれて、この問題が強く問われることになるのである。

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『物語 現代経済学』の紹介記事に寄せて

 9月3日『毎日新聞』の本の紹介欄で、経済学者根井雅弘氏の『物語 現代経済学』(中公新書)が紹介されている。

 「今、日本の大学でごく一般的に行われている経済学教育は、アメリカ流の教科書(例えば、スティグリッツのそれ)をベースにしたものが圧倒的に多い。そこには、マルクスはもちろん、スミスやシュンペーターも登場することは希である。新古典派と総称されるようになった経済学が、ほぼ一元的に語られているといった按配。
 そんな状況に、著者は危機感を抱く。経済学は本来、異端派を含めてもっと多様なものであったはずで、多様な立場の拮抗・論争の中で発展してきたはずではなかったのか、と。学生も研究者も、教科書的な思考の中で自己満足することのないようにと、多様な立場を象徴する経済学者の問題提起を、実に手慣れた筆致で紹介した道案内書。(達)」

 根井雅弘氏は、同じ中公新書で、1991年に、『「ケインズ革命」の群像 現代経済学の課題』を出している。根井氏は、この中で、最後にスラッファの「標準純正産物」と不変の価値尺度についての議論を紹介している。

 標準体系の純正産物(標準純正産物)のうち賃金にふり当てられる割合をwとすれば、利潤率rとwの間には、価格から独立した線形の関係がなり立つ。すなわち、

 r=R(1-w)

 このことは、rかwが外生的に決定されるならば、価格は経済体系の投入産出構造(生産方法)に規定されて決まることを意味する。「それは、価格が需要の力と供給の力のシンメトリーで決まると考える新古典派理論と著しく対照的であり、むしろ生産または供給が価格を規定すると考えた古典派の視点を現代に復活させたものと言えるだろう」。

 しかし、「古典派の復活といっても、それはスラッファ体系が「セイの法則」を採用したということを意味しないということである。スラッファによれば、経済体系において雇用される労働量は、諸商品の所与の生産水準を維持するために必要な投入産出構造に規定されて決まるのであって、これが労働市場における需給均衡に対応しているとは限らない、すなわち、『商品による商品の生産』の著者スラッファも、ケインズ革命以後の経済学者であることには変わりはないのである」。

 ところで、スラッファといえば、リカードの全集を刊行したことで有名な学者である。彼は、トリーノ大学の同窓で、イタリアのムッソリーニ政権による弾圧によって1926年から獄中にあったイタリア共産党の指導者で思想家のグラムシに何度も面会し、外部との連絡役を務め、彼の待遇改善や釈放のために、尽力した。しかし、その努力もむなしくグラムシは、1937年4月、ろくな手当も施されないまま病状が悪化し、獄中から移された病院で46歳で、亡くなった。

 前記、森嶋通夫氏にしても、スラッファにしても、新古典派と違って、市場を単なる価格機構一般として捉えるのではなく、投入産出構造(生産方法)や制度・文化・歴史・社会と密接な関係を持つものとして捉えた。それは、カール・ポランニーにおいてもそうだし、森嶋氏が高く評価する高田保馬氏もそうである。

 森嶋氏は、新古典派が典型とする市場像を「中東型」と呼んでいる。バザールでは、売り手と買い手が「まけろ。まけない」と駆け引きを行った上で、価格が決まるからである。しかし、それは、イスラム教のモスクの門前市バザールで行われ、バザールの商人は、一日の売り上げの幾ばくかをモスクに納める。この価格には、この分が含まれており、さらに、イスラム教徒には、喜捨の義務があり、それも価格に含まれている。つまり、バザール市場も、純粋な商品市場ではなく、歴史的宗教的文化的社会的価値を含んだ制度なのである。

 こうした面を市場から一掃し、純粋市場なるものを想定し、それに向かうことが進歩とするのが、新古典派的な市場観である。こういう進歩の抵抗物は、破壊すべきとされる。しかし、森嶋氏の議論で明らかなように、純粋市場においても、「耐久財のジレンマ」が起こり、一般的需給均衡は例外的にしか起きえない。常態は、不完全競争の不均衡状態である。そこにケインズの非自発的失業が常に存在することになる。労働需給における均衡が、好況の最盛期の転換点近くでしか実現しないことは、マルクスが、『資本論』で明らかにしている。好況時には、過剰信用が起きていて、過剰投資・過剰生産が生じている。だから、一時的に完全雇用が実現するが、なんらかの原因で、過剰信用・過剰生産が明らかになると、崩壊が始まり、失業があふれることになる。

 いずれにしても、今日の新古典派は、すっかり現実離れしたものとなり、例えば、格差を説明することも、解決することもできない衒学になった。経済学論争がほぼ絶えてしまったとなると新古典派の没落が進んでいるのかもしれない。エネルギー、活気、を失い、ただアカデミズムの象牙の塔の中で、ひからびた教科書の記述として生きているというのだから、どうしようもない。

 根井氏が『「ケインズ革命」の群像』で描いたような、20世紀前期のケインズが起こした「ケインズ革命」とそれに対するハイエクやマーシャル学派やロビンズたちの熱気のある緊張した経済学の議論、冒険家としての企業家が新結合を遂行して経済を革新していくという動的な資本主義的経済運動の過程を解明しようとしたシュンペーター、土地国有化を中心にした社会主義の実現の夢を抱き続けたワルラス、男女同権などの急進的な自由主義と平等主義を信奉したヴィクセル、社会主義者を自称したパレート、等々、経済学は、きら星のごとき異端の登場によって、発展してきたのである。それが、今日の支配エリートは、新古典派経済学の教科書をもって、経済運営の官僚的仕事の手引き書としているわけである。根井氏が嘆くのも無理はない。

 今日の自民党総裁選が、この新古典派の官学の枠内での小選択肢をめぐる争いになって、つまらなくなっている。後はただ、広報戦略によって、イベント的な盛り上げによって、人気取りゲームが儀式的に行われるだけのようである。森嶋氏によれば、経済的には、資本主義・社会主義は、どちらも計画経済の一種であり、どちらも経済としてなり立つのだから、現実的選択肢たりうることになる。ただし、どちらの場合にも、意識的に改革しなければならない課題が存在する。森嶋氏の考えでは、資本主義の場合には、政府の治安部門と福祉部門の間のバランスが崩れると、どちらに傾いても体制の危機が生じる。その上、「耐久財のジレンマ」などによって、一般均衡状態が普通は成立しないので、「非自発的失業」問題が発生する。また、過剰生産や過剰信用が発生しているのが常態である。これらやその他の不均衡が様々なところで発生しているので、それを人為的に手当てしなければ、やがて、景気現象の波の中で、累積した不均衡が一気に吹き出し、恐慌が生じることになる。

 失業その他の諸矛盾が吹き出してくるのに直面したエリートの中から、福祉部門に移行するものが多く出るようになる。歴史的に見ると、社会主義思想の推進者が、エリート出身や企業家であることは珍しいことではない。冒険家である企業家が、利潤や自己利益を度外視してまで、精神的な価値を得ようとすることから、かれらが、全く新しい別の社会のヴィジョンに賭けようとする動機を持つようになっても、不思議ではない。新古典派が描く、利潤極大化を基準に判断し行動するという合理的経済人や効用最大化を目的に消費行動をするという合理的消費者像は、そうあるべきという理想型であって、現実離れした人間像にすぎない。人はそんな風に日常的に行動していないし、もっと多様であるし、利他行動をとることも多々ある。経済学がもっとそうした多様性に注目し、それを取り入れていかなければならないという根井氏の主張はもっともである。

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過大な生産力のディレンマについて

 森嶋通夫氏の『思想としての近代経済学』は、学ぶところが豊富な本である。その基本になっているのは、セーの法則が成立する場合としない場合では、経済のあり方が決定的に異なるということである。その例として、同書には、「耐久財のジレンマ」があげられている。

 耐久財とは、数回ないし数年にわたって繰り返し使える財のことである。これには、生産機械などの生産財もあれば、テレビのような消費財もある。耐久財は、少なくとも二つの市場を持っている。氏は、自動車のレンタルの例をあげている。

 自動車は買うこともできるし、レンタルで借りることもできる。それぞれの市場があって、自動車には、価格Pとレンタル料金pが存在する。レンタカー業者が、P円の新車をレンタルして一年使用した後返却されたとすると、この時、自動車の価値が0.1P減少しているとする。レンタル業者には、レンタル料pの収入がある。するとレンタカー一台あたりの純収入は、p-0.1p、純収入率は(p-0.1P)/Pである。

 ある人が、現金を持っていて、P円で、レンタカー業を始めるか、銀行に預けるかを考えていたとして、利子率iがレンタル業の純収入率より高ければ、預金するだろうし、逆ならば、レンタル業を始めるだろう。したがって、レンタル業と銀行業が共存する条件は、

 i=(p-0.1P)/P

である。これは、

 p=(i+0.1)P

と書き換えられる。「この式は、利子率iが与えられるならば、レンタル価格pは自動車の価格Pに比例しなければならないことを示している」。

 ここから、レンタル市場の需給を均衡させる価格と自動車そのものの需給を均衡させる価格は必ずしも一致しないことがわかる。「このように耐久財市場の場合には、特別の場合の他は、二つの市場が同時に均衡することはありえない。こうして耐久財がが生じると共に、価格の市場調節機構は重大な障害を蒙ることになる」。

 途中の議論を省けば、こうした場合の需給調整は、価格ではなく、数量的に生産量を調整することで行われることになる。重要なのは、自由経済の下で、価格機構は全均衡条件が成立するように機能はしないということである。それは、「供給はそれ自身の需要をつくる」というセーの法則が成立しないことを意味している。

 これは、「耐久財の持つ比重が、近代社会では大きくなったことと、生産力が増大したために耐久財について容易に生産過剰が起こりうるようになったから、生じた」のである。したがって、この問題は、市場を自由化して価格機構がスムーズに働くようにしても解決しない。こういう生産過剰ゆえに起こる諸問題を解決するためには、政府の介入が必要である。それがケインズの提唱した有効需要送出策である。しかし、「この道ですら、雇用を充分拡大するには、政府事業の経済的効率はよくないという批判に甘んじなければならない。すべては過大な生産力がもたらしたディレンマである」

 このディレンマは、社会主義と資本主義に共通するというのが森嶋氏の結論である。氏は、社会主義経済ではセーの法則が働いて、貯蓄がすべて効率を無視して投資されたために、無駄な生産が膨大に行われ、ケインズ型失業が起きなかったが、過去の投資の失敗のツケがたまり、行き詰まったというのである。

 小泉改革の破壊に代わって、安倍総裁候補は、インタビューで、「破壊よりも、なるべく多くの人たちが参加して国をつくっていくというスタイルで政治に取り組んでいきたい」と語っており、さらに、経済政策では、成長戦略を取ることを明言している。しかし、「過大な生産力がもたらしたディレンマ」は、成長戦略では、かえって、悪化すること、その規模が拡大することは明らかである。EUがそのディレンマに長く直面し続けているし、アメリカもまた現在、そのディレンマに陥って苦しんでいる。日本でも、低成長時代への突入ということが言われてきた。あるいは安定成長ということも言われた。いずれにしても、彼の言うことは、一般的すぎて、具体性がなく、さっぱりわからない。成長さえすれば、財政問題も解決し、福祉問題も格差問題も、すべてがうまくいくような言いようだが、過剰生産力問題の解決のためには、より意識性・計画性が必要なことは、上記の議論で明らかである。もっときちんとした具体的な解決策の策定が求められている時に、美しいかどうかなどという審美的な基準で政治をやられてはたまったものではない。

 森嶋氏が指摘する「過大な生産力のディレンマ」の解決こそ、今日の社会に強く求められている主要課題であるということを強調しておきたい。

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「北海道と日本の将来」なる経済画像の批判

 以下の、『毎日新聞』の経済コラムは、政府・財界などが、景気回復を喧伝し、小泉改革の成果を強調している中で、異質な視点から書かれている。明治以来の一世紀にわたって進められてきた北海道開拓の歴史が終焉しようとしていることを冷徹に見つめるとともにそれを日本の将来の姿の先取りであると主張しているのである。

 経済アナウンスと実態の乖離は、性懲りもなく繰り返されていることであるが、その原因を真剣に探ることも、その責任が取られることもまれである。日銀は、ゼロ金利解除を実施したばかりだが、その判断根拠は、インフレ予想にあった。そこで、経済界は、こぞって、7月頃の日銀の短期金利(コール市場金利)の引き上げを予想していたのだが、先日発表された物価上昇率は小幅に止まった。したがって、当面の利上げはないとして、長期金利が低下し、住宅金融公庫の貸出金利は低下した。このことは、長期投資需要が低いことを意味しており、したがって政府がいう景気回復にそれほどの力強さがないことを表している。

  さらに日本の低金利が続いている間に、欧州での金利が上昇しており、アメリカも金利引き上げが中断したとはいえ、日本よりはずっと高金利で、為替水準も、ドル・ユーロ高に対して、円だけが独歩安となるということになっている。この円安によって、輸入物価上昇・輸出物価下落、したがって、輸出産業に有利な状況が生じている。

 北海道開拓は、ロシアの南下に備える国防と武士の失業対策の狙いがあった。したがって、北海道に送り込まれたのは、屯田兵であった。この開拓は、私有制度を知らなかったアイヌを耕作適地から追い出し、シャケなどの天然の恵みを与えてくれる川や海での漁業権を奪いながら進められた。耕作適地を占領した開拓者たちは、故郷に由来する名前を町に付けたりした。

 米ソ冷戦時代には、北方でソ連と対峙する最前線であり、北方領土問題もあって、政治的軍事的に重要だったために、国による特別の扱いがなされた。自衛隊の最大の駐屯地であった。しかし、冷戦は終わった。朝鮮半島・台湾海峡に近い沖縄が、安保上の最大の前線となりつつある。

 耳順氏は、「明治以来の北海道開拓は、今になって見ると、多くが無駄だった」と厳しい見方をしている。とはいえ、「人口560万人、国土の22%を占める北海道をどうするのか」ということは現在の課題としてある。すでに国策としての北海道開拓の意味はなくなった。拓銀は破綻し、北海道開発局は事実上消滅、ということは北海道沖縄開発庁の北海道はもはや意味がないということである。そこで、耳順氏は、道路・港湾・河川などの公共事業を停止し、競争力のない分野を切り捨て、原野・森林に戻し、競争力のある分野だけを残すべきだという。そうしても、北海道の人口は、数十年で半減するだろうという。

 しかし、それは北海道に止まらず、日本全体の動きを誇張して反映しているだけだという。耳順氏は、ここで日本の将来を真剣に考えた方がいいと提言する。

 これには、しかし、経済的現象だけを意味あるものと見なすという経済主義が色濃く表れている。耳順氏は、例えば、道路・港湾・河川を、輸送手段という面だけを取り出し抽象しているのである。森林はなぜか経済的に無価値であるかのように描かれている。しかし、そこには、木材産業が発生するかもしれない。結局のところは、競争力があるかどうかが、産業選択の基準になっている。氏がいう競争力とは、輸送コストが低いかどうかであって、要するに軽いものは輸送費が高くないだろうということらしい。人件費はどうなるか? あるいは電子産業は水を多く使うから、水費用はどうか? とか、費用にもいろいろある。なぜ氏は輸送費だけを費用として取り上げたのだろうか? つまり、北海道経済に不利となるような費用のみをことさらに選んだのだろうか?

  それは氏が、産業振興策として、「思い切った税制優遇措置」をあげていることで明らかなように、公共事業を否定したいからである。おそらくは、氏は、アメリカではやりの新古典派のゲーム理論とか合理的期待形成学などの経済学の信奉者なのである。ゲーム理論にしても、合理的期待形成学派にしても、その基本的前提がお粗末であり、非現実的な人間像に基礎をおいていることを、今ではいろいろな人、その学派内の学者さえも認めているのだが、耳順氏はそれを取り入れていないのだ。氏は、自己の信ずる経済的イデオロギーに沿って、都合のいい部分だけを選んで、こういう悲観的な画像を創作して、それをあたかも現実的であるかのように構成し、経済学的に描いたのである。

 氏には自己の価値観への反省が欠けているが、それは小泉改革派も同様である。前者が悲観的で、後者が楽観的という違いはあるが、いずれも、現実離れした空想的価値観を基本に置いているという点では共通している。それは、「美しい国」などという夢物語を政治の価値の中心に置く安倍氏にも共通していると言えるだろう。

  『経済観測』

 北海道と日本の将来=耳順

 明治に始まった北海道開拓の歴史が終えんしようとしている。この10年間に起こったさまざまの事件(北海道拓殖銀行の破たん、北海道開発局の事実上の消滅、北海道庁の超緊縮財政、夕張市の財政破たんなど)は、その原因を個々にたどるより、日本の人口増が止まる中で北海道の経済価値が縮小していった過程として見た方が理解しやすい。

 北海道経済は小泉内閣による公共事業削減の影響をもろに受けたといわれるが、内閣が変わっても公共事業を増やせるわけがない。財政が許さないだけでなく、北海道で山林を切り開き、交通を整備して農業や鉱工業を興す意味がないからである。明治以来の北海道開拓は、今になって見ると、多くが無駄だった。だが、人口560万人、国土の22%を占める北海道をどうするのか。

 第一に、道路、港湾、河川などの整備は完全にやめなければならない。既存の施設の改修なども選択的にすべきだ。農業も競争力のない分野からは撤退し、その農地は元の森に戻した方がよい。漁業は水揚げを東京など消費地ですれば生き残れるだろう。

 第二に、競争力の発揮できる産業に特化しなければならない。雑穀や果物など一部の農業、遠洋漁業、電子機器や製薬のような輸送コストの低い製造業、ITを活用した各種サービス業、観光業などが思い浮かぶが、その振興のためには、思い切った税制優遇措置も考えるべきだろう。

 第三に、こうした努力によっても北海道人口は、数十年で半減するのではないか。一方、土地の大半は緑あふれる森林に戻っているだろう。それは日本全体の動きを誇張した形で反映した姿でもある。北海道から真剣に日本の将来を考えてみる必要があろう。(耳順)(『毎日新聞』2006年9月1日) 

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森嶋通夫氏の社会主義経済論など

 森嶋通夫氏は、『思想としての近代経済学』のⅢ‐15フォン・ミーゼス(1)―自由放任の予定調和 で、ミーゼスの自由放任主義を批判し、ミーゼスが想定する無制限の自由経済などというものは、現実に存在したことがない全く架空の構想物であるし、完全な自由放任経済ではパレート最適状態が実現されると考えるなどというのは、全くのドグマでしかないと批判する。

 ミーゼスが『社会主義』を著した当時、ソ連はまだ戦時共産主義の段階を脱していなかった。ミーゼスの批判は、今日でも、社会主義批判の決まり文句として繰り返されているものである。いわく、社会主義社会においては、生産手段、企業はすべて国有企業で、そこには官僚主義がはびこり、不効率である。賃金は労働者の限界生産力に等しくなく、雇用は不効率である、企業長の俸給が低く、効率化への意欲が低い。等々。

 しかし、森嶋氏は、官僚制的企業といえども、効率のよいものと悪いものがあるので、官僚制が非効率になるのはどういう場合かが明らかにされない限り、問題解決にならないという。このことは、小泉構造改革で明らかになったように、経営形態の問題ではないことは明らかである。これまでの郵便事業自体は、郵政公社で十分に効率的であり、効率性は、民営化の理由としては薄弱なものである。むしろ、この事業が開かれていないということが主要な理由であり、それこそがアメリカ政府が日本に提出した『年次改革要望書』の狙いと一致する小泉政権の最大の狙いである。同じことは、国鉄改革の際にもあって、1980年代末頃には、国鉄経営はうまくいっていたのである。

 森嶋氏は、教育方法が改良されるならば、官僚も意気旺盛になり、労働英雄や企業庁英雄が続出して、社会主義経済の不効率は解消するかもしれないという。今の中国やベトナムを見れば、なるほどと思わせる主張である。「いずれにせよ国営企業は官僚的だから駄目だという議論は、一般受けはするけれども、まだ問題を窮極的に解明してはいないのである」というのは、全くその通りで、だからこそ、小泉改革というものが生まれることになったわけである。資本主義国にも官僚制があり、また大企業にも官僚制の問題があるからである。

 そして、森嶋氏は、組織された自由企業では、労働者はチームを組んで働いているので、一人一人の限界生産力は測ることができないという。このことは一人あたり生産性などという測定不可能な尺度を持ち出して、モチベーションを引き上げようとして、結局は、全然うまくいかなかったという最近の経験によっても証明されている。

 そして、社会主義経済をめぐる最大の論点である社会主義に経済計算が可能かどうかであるが、この点について、森嶋氏は、「社会主義の下でも経済計算は可能であり、その他の点(官僚制支配の経済である等の点)でも、社会主義経済が致命的な欠陥を不可避的に持っていたわけではない。私自身は、社会主義は基礎構造(経済)が行き詰まってお崩壊したのではないと考える」という。

 氏は、社会主義における搾取には三つの形態があるという。

 まず第一に、不必要な剰余生産物を生産するという形での搾取。過度な軍備や党幹部のための贅沢品の生産など。第二に、人民の厚生や公共財の選択を誤ることによる搾取。不必要な公共財の過度の生産、不必要な厚生施設の建設。そのための人民の過度の労働。第三に、計画の失敗によって、必要以上に働かされることによる人民の労働の浪費。

 すべての意志決定には誤謬がつきまとうのであり、それをすぐに訂正することが必要である。それが中央政府の権威主義のために、長期間妨げられることで、人民の搾取に対する憤激が蓄積されて、ついには党と政府と計画機関が見捨てられ、社会主義は上から崩壊したというのである。

 計画当局がメンツにこだわらず、敏速に価格修正する努力を惜しまないなら、社会主義経済でも、一般均衡価格は見つけられるのである。ところが、さらに事態は一変して、「自由経済も一種の経済計画と解釈できることがわかり、その市場機構は計算価格の分権的な計算機構だと見られるに至った」という。

 「このように考えるならば、われわれの経済観は全く逆転する。基本的なのは計画経済であって、資本主義経済はその一種となる」。驚くべきことではあるが、しかし、マルクスが、貨幣の計算貨幣機能を過渡期における分配のための基本機能としていることからはうなづける話である。

 途中の議論は省くが、要するに、社会主義計画経済では、資本主義経済と同じくワルラスの均衡条件がなり立つのであり、効率的であるということになる。ミーゼス以前に、パレートやバローネが同趣旨の議論をしており、ミーゼスはそれを読まずに、「社会主義は間違っている」と断定した。「彼がそういう早合点の独断をしたのは、それが彼の価値観に合致していたからであることは明らかであり、ミーゼスのこの失敗は、価値観に基づく直感的議論がどんなに危険であるかを示している。価値観ないし思想は社会科学的研究の原動力になるものだが、それに基づく議論は必ず鋭利なロジック―その最高のものは数学的分析である―によって厳重にチェックされねばならない」。

 ここまでで明らかなように、「社会主義経済で最も重要な概念は「計算価格」であり、それを求めるにはスーパーコンピューターを必要とする。それゆえ社会主義経済に最も重要な産業部門は電子工業部門である」。計画局が目標を誤り、人民が不必要に労働させられ、搾取される。ゴルバチョフのグラスノスチによって、西側に比べて、電子工業部門などの必要部門で遅れていることが知られると、人民の批判によって上部構造が混乱し、基礎構造(経済)が壊滅し、改革派と保守派のエリートの権力闘争が激化し、上部構造に決定的な打撃を与えた。「この事実は、脱論理的行動の理論に基づいたパレートの「エリートの周流」理論の方が、マルクスの唯物史観よりも、より一層よくソ連の崩壊を説明することを示している」と森嶋氏はいう。

 「「資本家」(すなわち金銭的に貪欲で、それゆえに富み栄えている人たち)を防衛するための上部構造活動に、次の二種類がある。第一は、法律、警察、護衛のように直接彼らを守る行為であり、第二は彼ら以外の人たちの福祉、厚生を増進することによって、彼らに対する反感を慰撫して、間接的に彼らを防衛する行為である。社会政策ないし厚生政策と呼ばれるものが、後者に属するが、これらの政策を伴わない場合の純粋「資本主義」は、非常に脆弱である、それゆえ、近代的な資本主義は、狭い意味の「資本主義」部門と福祉、教育部門の複合体であり、両者は必ず対をなして存在していなければならない。一方を欠く場合には、他方は長期にわたって独り歩きすることは難しい。近代資本主義は両者のバランスの上に初めて存在できる(viable)のである。このような経済は通常、混合経済といわれるが、混合経済こそが永続可能な資本主義経済であり、純粋「資本主義」経済は欠陥体制である」。

 「明らかに福祉部門は、上部構造に所属している。それゆえ、資本主義を維持させ延命させるものは上部構造であり、上部構造が崩れたときに、資本主義は崩壊する。こういう考え方は、資本主義は基礎構造から崩壊すると考えるマルクス理論に反する。同時にこういう考えは、エリートが「資本主義」部門から福祉部門に転進することによって資本主義社会が社会主義社会に転化してしまうとするシュンペーター理論を修正。補強する上に必要である」

 これらの両部門のバランスが大きく崩れた時、資本主義は、破滅するか安楽死する。サッチャーは、福祉部門を縮小しすぎて、資本主義部門への人々の怨嗟を受けて没落した。そしてブレア労働党政権がそのバランスを多少修正した。福祉部門が拡大しすぎると、体制は安楽死し、産業部門は衰亡する。

 周知のように、現在の日本での政府を巡る議論は、ほぼ、政府機能を治安・外交・防衛に特化するという新自由主義的なものになっている。上部構造としての福祉部門が、資本主義体制を維持するために不可欠であるという主張はあまり見られない。これまで、政府資金は、基本構造(経済)を強化するために集中的に使われたが、福祉部門はその肥大化だけが問題にされている。首相候補者の有力三者の福祉部門に対する認識では、当面、歳出削減をして、増税議論はその後だとする安倍・麻生と消費税率を10%に引き上げ、福祉目的税とするという谷垣には、違いがある。安倍・麻生は、これまでの主張からして、上部構造の第一部門である治安・防衛などを基本にする国家観を持っており、谷垣は、第二部門を重視する国家観を持っている。

 いづれにしても、森嶋氏の議論を見ると、社会主義は、経済学的には完全に生きているということがわかる。そして、現代の社会主義批判者の多くが、とっくに破産したドグマをただ繰り返しているだけだということも。

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