画期的な「日の丸・君が代」問題の東京地裁判決
原告団の「画期的判決」などの評価が出ている東京都の「日の丸・君が代」強制違憲判決に対して、大手4紙が、社説で、取り上げている。
社説の立場は、2紙対2紙にはっきりと分かれた。『産経』『読売』が、判決を批判し、『朝日』『東京』が、判決を評価した。『産経』『読売』の地裁判決批判は激烈なもので、両紙のショックの大きさを物語っている。
『産経』「君が代訴訟 公教育が成り立たぬ判決」は、「「国歌と国旗は強制ではなく、自然に国民に定着させるのが国旗国歌法や学習指導要領の趣旨だ」としたうえで、「それを強制する都教委の通達や校長への職務命令は、思想良心の自由を侵害する」とした。さらに「都教委はいかなる処分もしてはならない」とまで言い切った」と地裁判決をまとめている。その上で、7年前の広島県での校長自殺事件を、国歌斉唱に反対する教職員組合の抵抗に悩んだせいだと、独断を下す。この事件での自殺の原因は、未だに判然としておらず、教職員組合のせいにしているのは、『産経』の私見にすぎない。指導要領は、教師が指導するように書いてあるが、教師自身が式の際にどうしろとは書いていない。
なによりも重要な点は、この地裁判決が、日本国憲法で保障されている思想良心の自由の理念は、都教委通達などの行政命令に優越するという当たり前のことを再確認したことである。通達・行政指導や行政処分は、法の枠を超えてならないということだ。ましてやそれが、最高法規の憲法を超えるようなものであってはならないのである。今回の地裁判決は、そんな行政の遵法義務を改めて指摘したもので、教育行政権に対する厳しい警告である。
『産経』は、「もちろん思想良心の自由は憲法で保障された大切な理念であるが、教育現場においては、教師は指導要領などに定められたルールを守らなければならない。その行動は一定の制約を受けるのである」という。もちろん、教師はルールを守らなければならない。しかし、そのルールは、憲法に則ったルールである限りは、守らねばらならないのであって、違法なルールを守る義務はないし、その場合には、積極的にそれを改めるのが、道徳的にも正しい行為である。例えば、会社内で不正が行われていることを知った社員が、守秘という会社内ルールを守らないで、外部に告発することをもっと奨励し、告発者を法的に保護するようにすべきだという意見が広まっている。都教委通達に、憲法違反の疑いがあると考える教育関係者などが、それを告発したのは、当然の行為であった。
それに対して、憲法よりも都教委の行政命令を優先し、「都教委が行った処分は当然」とする『産経』の主張は、順法精神をないがしろにしかねない主張といえよう。確かに、かつて、学習指導要領の法的位置を確認する判決が下されたことがある。しかしそれは、こうした行政命令が、法を超越していいというお墨付きを与えたわけではない。『産経』は、改憲を主張し、現憲法を批判している。それは思想良心の自由に属することだが、現憲法が最高法規として生きていることを忘れてはならない。
つぎに、裁判長が、「日の丸・君が代」を、第二次大戦終了まで、軍国主義思想の精神的支柱だったとして、それに反対する権利を公共の福祉に反しない限り保護されるべきだとしたことに、「裁判所がここまで国旗・国歌を冒涜していいのか、極めて疑問である」と批判する。「日の丸・君が代」は、戦前には、軍国主義思想の精神的支柱だったことは、一部の過激な教師集団の考えではなく、歴史事実である。そういう事実認識を言うことが冒涜だという方が極めて疑問である。そして、この社説は、露骨に、安倍政権の「公教育の再生」路線に、この判決が水を差したのは残念だと、安倍路線支持を公言する。そして、民主主義の基本とされている三権分立を否定して、「各学校はこの判決に惑わされず、毅然とした指導を続けてほしい」と行政権の司法権に対する優越を扇動する。これが、自称民主主義者の執行権独裁支持の本当の顔である。
『読売』社説、[国旗・国歌訴訟]「認識も論理もおかしな地裁判決」は、もっとでたらめで、低レベルである。この社説は、問題を「指導」一般があるべきかどうかにすり替えている。この社説は、「不起立で自らの主義、主張を体言していた原告教師らは、指導と全く相反する行為をしていたと言えるだろう」というが、判決は、原告教師たちの行為は違法な行為どころか、憲法遵守の合法行為だと指摘したのである。
「日の丸・君が代」についての考え方についても、「宗教的、政治的にみて中立的価値のものとは認められない」という地裁の判断に、世論調査での多数支持という結果で反論している。世論調査自身の中立性や正確さに、この間、大きな疑惑が持ち上がっているというのに、それを無視しているのである。ましてや、スポーツの場でのマナーの問題と法的・歴史的・政治的な問題としての「日の丸・君が代」問題を混同するのは、低レベルすぎる。スポーツの政治利用や国家を背負うことの弊害などが、サッカーのワールドカップのあり方についての反省の中などで出ているというのに、『読売』は、なんともアナクロだ。
ましてや、判決を、「少数者の思想・良心の自由」の過大評価だと揶揄したり、「都教委通達や校長の職務命令の「行き過ぎ」が強調され、原告教師らの行動が生徒らに与える影響が過小に評価されている」などという力学主義的な判断で、問題を矮小化することで、読者の判断力を低めるようなことをしていることは、許し難いことだ。読者は、ばかにするなと怒って当然だ。「今後の入学式、卒業式運営にも影響の出かねない、おかしな判決だ」というのは、正反対で、行政命令よりも憲法が優越するし、現場における創意を引き出すべく都教委などの上意下達の行政命令を出来るだけ排除し、現場が生き生きと動け、学校が、より地域・保護者・教師・生徒などのイニシアティブで動けるようにすること、それが求められている教育改革であり、それが、この地裁判決でやりやすくなったのである。
現場を暗黒に描くことにイデオロギー的価値を見いだしている『産経』『読売』は、教育改革を言う資格を欠いている。教育現場が抱える諸問題を解決するために、教育に関わる多くの人々の創意と力の結集が必要なときに、儀式での旗がどうだの歌がどうだのとつまらない官僚主義的なことで、神経をすり減らしている場合ではない。『産経』『読売』は、現場の混乱を拡大するような余計な干渉や誘導やちゃちゃ入れをしたり、教育官僚の代弁者として振る舞うべきではない。
「愛国心」は、私人のエゴイズムであり、それを行政が強制することは、間違いである。小泉首相は、靖国参拝を正当化して、参拝は私人の心の問題で、外から干渉すべきではないと言った。それが、首相という公人ではなく、私人になってから言ったのであれば、たいした問題ではなかった。公立学校教師は、私人か公人か? あるいは西部邁の言うような公民=市民(私人)ということか? この国で、もっとも公人性の強い職務である首相の私的参拝を支持して、それほど公人性が強くない現場教員に強い公人性を求めるという『産経』『読売』は、完全に価値転倒している。
判決そのものは、考えてみれば、ごく当たり前のものにすぎない。その当たり前のことが、これまで、なかなか通らなかったので、この間、原告団の人々の苦労や心配もひとしおだったと思うが、とりあえず、勝訴が勝ち取れたことは素晴らしいことだ。さらに、都教委を追いつめ、全国の同様の闘いの勝利のさきがけとなってもらいたい。もちろん、これから、高裁・最高裁と続くだろうから、そこで逆転判決という可能性もあるので、油断はならないのであるが。
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コメント
先生達は毎朝校門に立って、やれスカートが短いだの髪が茶色いだの
なんだこのピアスは!だの靴下の色は白だろ白!だのとおっしゃってましたっけ。
ええ、校則違反なんですけどね。
スカートの長さも髪の色も靴下の色もピアスもよくよく考えてみれば
思想・良心の自由なんですよね。違いますか?
ええ、校則違反はわかってますよ。
だからその校則が『憲法違反』なら従わなくても構わないんですよね?
先生方は例えそれが、国歌斉唱や国旗掲揚に従わない事が
法律違反でも条例違反でも『違憲』ならば従わなくても構わないと。
いや、正確には『違憲』だと自分が信じ、確信していれば構わないんだと。
そう、先生達はおっしゃって実行してるんですもんね。
日の丸や君が代が軍国主義の象徴だから?
スカートの長さとは話のレベルが違いますか?
じゃあ運動会で私達を整列させて歩かせたのはどうしてですか?
あれ、徴兵されて訓練される兵隊さんみたいだから整列するのよしましょうよ。
日本は自由な国なんだから自由にバラバラに。
列に入るも入らないも自由ですよね。
音楽で皆で声を合わせて歌うのもおかしくないですか?
皆で起立して並んで歌を歌うなんて、軍歌の合唱を思い起こさせます。
好きな歌を好きな時に好きなように歌うのが一番楽しいに決まってます。
合唱したい人だけ合唱すれば良いんじゃないですか?
したくない人に強制しないで下さい。
そういや制服ウザいですね。皆で同じ服着るなんて丸で軍服みたいです。
日本は自由の国。思想と良心の自由が保障されてるんですから
戦前の悪しき皇民化教育を思い起こさせるようなものは徹底的に排除しないと。
制服は着たければ着る、着たくなければ着ない、で問題ないですね。
スカートの長さや靴下の色レベルの話じゃないですよ。
そんな事を子供達に強制するのはやめて下さい。軍国主義みたいですから。
大変です先生。
これじゃあ、学校が崩壊しちゃいませんか。
大事な教育、成り立ちますか。
でも先生、思想や良心は自由なんですから、
学校生活の中の出来事や物、何をもって何を連想するかなんて分かりませんよね。
軍国主義軍国主義って言いますけど、それって何も
日の丸と君が代に限った事じゃ無いでしょう?
ええ、こじつけですよね屁理屈ですよね充分承知しています。
だけどじゃあ、先生達が君が代や日の丸をピンポイントで嫌うのと
何処がどう違うんですか。
別に日の丸や君が代の説明は要りません。
日帝の軍国主義の説明も結構です。
それらは、先生方が国旗と国歌を嫌っている単なる『個人的な理由』、
単なる『個人的な言い訳』に過ぎないんだし、
そう思う事を否定してるわけじゃないです。ご自由にどうぞ。
問題は、
『個人的に嫌いなモノを受け入れなければならないルール』が出来た時に、
それが、例え国家が決めた法律であっても都が作った条例であっても
『嫌いなら守らなくても構わない』と言い、実行し、
裁判に訴えてまで我を通そうとしたのが単なる一個人ではなく、
公務員である401人もの現役の先生達だったって事だと思うんです。
校則ってただ、学校の体裁を整える為だけにあるわけじゃないでしょう。
社会に出る前の子供達に、社会には校則=ルール=法律というものが存在し、
そのルールを全員が守る事で秩序が保たれ、安心して生活が出来るのだという事、
ルールを破れば罰が与えられるのだという事、
誰も彼もがただ自由だ自由だと好き勝手にやりたい放題に生活していたら、
社会なんて成り立たないんだという事を学んでもらう為にも、
校則というのは学校において必ず必要になってくるモノなんじゃないんですか?
どうしてもおかしい、このルールは絶対にありえないと思うんだったら、
ルール自体を「改正」させてから「実行」すべきです。
個人ならともかく、
子供がルールを犯したら罰則を与える立場の教師なんだから、当然です。
自分達が住んでいる日本という国の国旗と国歌。
愛するか愛せないか、好きか嫌いかは確かに自由です。
強制されるいわれは無いんでしょう。本来は。
自分の住んでいる国を、自分のルーツである国を愛するようになれば
自然と国旗も国歌も愛せるようになるんでしょう。本来は。
本来なら、貴方達みたいな、ずーっと税金で食べて暮らしてる公務員のくせに
日本の事が大っ嫌いで、
日本の事が大っ嫌いな子供を作ろうと必死になってる教師達さえいなければ、
こんな子供じみた押し付けがましい条例なんか存在しないんですよ。
つまり、こんな条例作らせた原因は先生、貴方達であり、
自業自得って事だと思いますよ先生。
投稿: トマト畑さんからの引用です。 | 2006年9月22日 (金) 23時12分
「社会には校則=ルール=法律」という等式は抽象的です。
これらには優先順位があります。それから、立法権が最高権力で、法がその他に優越するのが、今の日本の法治主義のあり方で、立法権>行政権です。そして、最高法が憲法です。それが戦前と違うところで、戦前は、立法府が否定するまでは、行政命令は有効とされていましたが、戦後は、そもそも行政命令は、法の枠を超えてはならないことが、法に明記されています。それを司法であらそわざるを得なかったために、今回は、違法な行政命令=通達が有効なまま放置されていたことになるわけです。
もちろん、東京都は、都教委通達が、憲法を超えているとは考えていなかったのですが、今回の判決は、それを否定しました。
なお、校則については、生徒会による改正要求や親の働きかけや教職員組合などによって、自由化が進められてきており、東京都でもかつては、制服が撤廃されていました。私立の方が制服を採用しているところが多かったようです。つい最近、法政大学付属の高校で、生徒たちの校則に反対するストライキがありました。
自分たちが間違いだと思うルールを変えるための抵抗権が認められています。抵抗手段はいろいろとあり、法的に認められているものから、慣習的に容認されているものから、様々な形のものがあります。スト権もその一つで、法的に認められた抵抗手段の一つです。公務員にはスト権が法的に認められていませんが、今、公務員にスト権を容認することが、政府でも検討されているところです。フランスでは、警官にもスト権が与えられていて、時々、警官のストが実際に行われています。
また、公的か否かは、税金によって雇用されているかどうかが基本的な基準ではなく、職務の内容によります。国鉄からJRという私鉄になったからといって、JRの仕事が、公共性を失ったわけではなく、JRが公共交通機関であることは今も変わりはありません。「公」=国家ではないことは、日本史の過去の「公」概念の使われ方を見ても明らかです。網野善彦氏の「公事」についての論を見てみてください。公人=私人という西部邁の論も、古代ギリシャの話から抽象されたもので、まったく日本的ではありません。日本の場合は、「公」にはもっと公有とか共有とか共同とかそういう意味が込められています。それから、現在の「公」の使われ方も、公開性という意味が強まっているということがあります。
投稿: ぴゅうぴゅう | 2006年9月23日 (土) 01時17分
どんな国の国旗であれ国歌であれ、敬意を表さなければいけないのは国際的にも一般的なものだから、それを生徒に教えるのは教育として成り立っていると思います。
先生たちが「思想・良心」に反するから日の丸君が代反対を叫ぶのは構いませんが、生徒には最低限「国旗国歌は尊重しましょう」と教育していただくことを望みます。その上で、「私たち教師はこういう理由で日の丸君が代の強制には従いません」と主張すべきです。
生徒がどの後どう判断するかは生徒の「思想・良心」にまかせましょう。一方的な押し付けに反対するというのなら、教師は生徒に多面的にものごとを教えるべきです。日の丸君が代に反対する教師に、このような多面的指導を行っている方がどの程度おられるのか心配でなりません。
投稿: | 2006年9月25日 (月) 16時36分