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マルクスから学んだカレツキの経済理論

  『「ケインズ革命」の群像』の第四章は、ほぼポーランドのミハウ・カレツキの経済理論の説明にあてられている。根井氏によれば、カレツキは、ケインズとは関係なく、ケインズの『一般理論』が出る前に、1933年の『景気循環理論概説』で、ほぼケインズ革命の本質をつかんでいた。

 カレツキの利潤理論は、それを示している。

 政府部門のない閉鎖体系で、労働者がその所得をすべて消費する(賃金=労働者の消費)とすれば、
 
       利潤P=投資(I)+資本家の消費(C)      (1)
 
が成り立つ。

  Cが固定的部分B0と利潤に比例する部分をλP(0<λ<1)とすると、
 
         C=B0+λP              (2)
 
(1)と(2)から、

     P=B0+1/1-λ     (3)
 
   「さらに、利潤Pの国民所得Yに占める割合をπとすると(P=πY、0<π<1)、次の式が得られる」。
   
    Y=1/(1-λ)π×(B0+1)  (4)
   
 この(4)式の1/(1-λ)πが、カレツキの乗数である。「注意すべきは、それが資本家の消費性向λばかりでなく、利潤分配率πにも依存していることである」。
 
  カレツキは、これをマルクスの再生産表式から導き出した。

 経済体系を、投資財生産部門Ⅰと資本家の消費手段生産部門Ⅱと賃金財生産部門Ⅲに分かれているとする。各部門の産出量の価値Vは、利潤Pと賃金Wの和に等しい。
 
  V1=P1+W1

 第三部門の産出量は、一部はそれを生産した労働者によって消費され、残りは他の生産部門の労働者によって消費される。したがって、
 
    P3=W1+W2           (5)
 
 第Ⅰ部門と第Ⅱ部門の産出量の価値を合計すると、
 
    V1+V2=P1+P2+W1+W2   (6)
 
 (5)式を(6)式に代入すると、
 
    V1+V2=P1+P2+P3       (7)
 
となる。

 「(7)式は、経済全体の利潤が、投資財の産出量の価値と資本家の消費財の産出量の価値の和に等しいことを示している」。
 
 このもとになっているマルクスの再生産表式を確かめておこう。

 社会の総生産物は、二つの部類に分かれる。

   Ⅰ 生産手段―生産的消費に入るべき、または入りうる形態をもつ諸商品

   Ⅱ 消費手段―資本家階級と労働者階級の個人的消費に入る形態をもつ諸商品。

 各部類で、資本は、二つの構成部分に分かれる。
 
 (1)可変資本―価値から見れば、労賃の総額で、素材から見れば、この資本価値によって運動させられる生きた労働からなる。
 
 (2)不変資本―生産に充用されるいっさいの生産手段の価値、それはさらに、固定資本(機械、労働用具、建物、役畜等々)と流動不変資本(原料、補助材料、半製品等のような生産材料)に分かれる。
 
 蓄積がない単純再生産の場合を想定して、cを不変資本、vを可変資本、mを剰余価値、価値増殖率m/vを100%と仮定する。マルクスが例にあげている数字をそのまま使う。

 Ⅰ 生産手段の生産

   資本・・・・・・・・4000c+1000v=5000
     商品生産物・・・・・4000c+1000v+1000m=6000
     生産物は生産手段として存在する
    
  Ⅱ 消費手段の生産
 
    資本・・・・・・・2000c+500v=2500
      商品生産物・・・・2000c+500v+500m=3000
      生産物は消費手段として存在する
      
 年商品生産物は、
 
  Ⅰ 4000c+1000v+1000m=6000生産手段

  Ⅱ 2000c+ 500v+ 500m=3000消費手段

となる。

 第Ⅱ部類の労働者の賃金(可変資本v)と資本家の収入(剰余価値m)は、この部類の生産物である消費手段に支出されなければならない。Ⅱの500v+500m=1000が、それによって消える。第Ⅱ部類の資本家の収入である剰余価値1000mと労賃1000vも、第Ⅱ部類が生産した消費手段に支出される。これは第Ⅱ部類に残された2000cと交換される。第Ⅱ部類は、その代わりに、1000vと1000m分の第Ⅰ部類の生産物である生産手段を受け取る。かくして、第Ⅱ部類の2000cと第Ⅰ部類の1000v+1000mが計算から消える。残った第Ⅰ部類の4000cは、第Ⅰ部類のみで使う生産手段だから、この部類の資本家間の交換で処理される。
 
  カレツキの再生産表式は、マルクスの再生産表式の価値部分のみを表現しているもので、現物部分の存在を無視している。資本家の利潤は、資本家個人の消費に回る分と再投資される分(蓄積)に分かれるが、それに賃金財生産部門を独立した部門としているのが、カレツキの独創的なところである。

 マルクスの単純再生産表式では、資本家と労働者は、第Ⅱ部門の生産する消費手段を共に自己の消費手段として分け合うということが想定されている。カレツキは、資本家向けの消費手段生産部門Ⅱを賃金財生産部門Ⅲと区別しているのである。賃金財、例えば、穀物は、資本家と労働者のどちらにとっても消費手段である。しかし、奢侈品となるとほぼ資本家や地主などの富裕層に限定された消費手段である。それは、賃金財ではない。それについては、マルクスは、後に、Ⅱ消費手段生産の亜部類として、考察される。
 
 根井氏は、次に、ケインズの有効需要の原理を数式とグラフを示して、説明する。それについては、ヒックスのIS―LM分析やサミュエルソンのインフレ・デフレギャップ論などが経済学の教科書などの類に載っているので、省略し、次に進もう。「とにかく、ここでは、ケインズが、『一般理論』において、完全競争と収穫逓減の法則の仮定から出発して価格=限界費用という利潤極大条件をもとめ、さらにそこから産業全体としての総供給金額と雇用の関係(総供給関数)を導出したという事実のみを再確認しておきたい」。
 
 1930年代には、ケインズが『一般理論』で前提とした完全競争などはほとんど存在しなかった。J・ロビンソンが、『不完全競争の経済学』を著して、不完全競争の現実を理論に取り入れようと試みるなどの動きが、経済学者の間に広まりつつあったが、ケインズは、そうしなかった。カルドアは、次のように、ケインズを批判した。

 「ケインズは、不完全競争が彼の理論にとってもつ重要性に気づいていなかったように思われる―彼は、マーシャルとともに、各生産者は市場価格を限界費用と均等化させることによって彼の利潤を極大化するということを仮定することで満足しており、この条件が個々の企業の設備の『完全利用』を暗に意味しているのという事実、および過剰設備が存在しなければ、生産は、完全雇用が存在しようと存在しまいと、供給制約的になるであろうという事実を無視した。
 なぜなら、生産が需要決定的となるためには、失業した労働とともに過剰設備が存在しなければならないからである」。
 
 カレツキは、最初から、不完全競争の現実に着目していた。不完全競争下では、「大部分の企業の産出量が完全操業以下であり、しかも完全操業以下の産出量水準では、大部分の企業にとって、短期限界費用がほとんど一定である」。カレツキは、「独占度が国民所得の分配を決定するような世界は、自由競争のパターンからかけ離れた世界である。独占は、資本主義体制の本質に深く根ざしているように思われる。すなわち、仮定としての自由競争は、ある研究の最初の段階においては有用かもしれないが、資本主義経済の正常状態の描写としては、それは単なる神話にすぎない」と書いた。

  そして、根井氏は、J・ロビンソンの不完全競争下の産業均衡の条件は、限界収入(産出量を一単位増加することによって得られる収入の増加分)と限界費用(産出量を一単位増加するごとに必要とされる費用の増加分)の均等と価格と平均費用(正常利潤を含む)との均等の二つあるという指摘を説明し、「注意しなければならないのは、完全均衡点Pにおける産出量が、平均費用の最小点Qにおける産出量よりも小さいということである。この意味で、点Pは「過剰設備」(excess capacity)をともなった上での均衡点であると言われる」という。「ということは、産出量が削減されて不況になるのは、企業家が不完全競争の下で利潤極大化行動をとっているからだということになる」。

  そうすると、平成不況からの脱出策として、もっと利潤極大化を追求しろとはっぱをかけた政府や経済学者や財界は、かえって、不況を長引かせることをやっていたということになるわけだ。
 
 根井氏は、ケインズが、不況の責任を、活動階級たる企業者階級に負わせたくなくて、あえて、完全競争の仮定に固執したのではないか、不況を投資者(金利生活者)の貨幣愛に帰するために、流動性選好説を唱えたのではないか、と厳しく指摘する。そして、宮崎義一氏の以下のケインズ批判を引用する。
 
 「ケインズ体系において労資の対立を素どおりして、労働者の失業の原因を、主として金利生活者の行動に帰せしめることができたのは、この完全競争の仮定によるところが大きいというのが私の考えです。生産物市場における完全競争という仮定は、いいかえますと企業の生産設備能力は、つねにフル稼働されているという仮定にほかならない。完全競争の仮定のもとでは、どの企業もみなオプティマス・サイズ以上の水準で生産しているということでなければ利潤はプラスじゃない。ということは操業短縮をしていないということでなければならない。しかし実際は、二九年恐慌以後の不況期には、莫大な滞貨もあり操短も行われていたはずです。でも理論上は、完全競争の仮定をかくれみのにして、それを反映させなかった。なぜか? もし理論上操業短縮を容認すると、失業の原因はたんに相対的な高い金利だけでなく、むしろ主要な原因は、企業の利潤追求による操短にあることがうかび上がってくる。・・・ところが完全競争の仮定を採用すると、あらゆる企業は設備能力いっぱいを稼働していることになって、失業の責任をうまく金利生活者に肩代わりさせることができるわけです」。
 
 次に、カレツキの比較経済体制論が取り上げられる。カレツキは、独占度を入れた経済体系の研究を行う。カレツキの「分配要因によって彫琢された乗数関係」は、パスして、資本主義経済と社会主義経済の比較に移る。

 利潤の現象が起きると、「資本主義経済は、与えられた所得分配のパターンに対して産出量と雇用を調整することによってそれに対応しようとするのに対して、社会主義経済は、産出量と雇用のキャパシティ水準に対して所得分配を調整することによってそれに対応するであろう」。

  カレツキは、資本主義経済では、「価格―費用関係が維持されるため、産出量と雇用量の低下を通じて、利潤は投資プラス資本家消費と同額だけ減少する」が、社会主義経済では、「費用に対する価格の低下を通じて、完全雇用が維持される」という。そして、「資本主義の弁護者たちは、よく『価格メカニズム』が資本主義体制の大きい長所であると考えているが、逆説的なことに、価格屈伸性price flexibilityは明らかに社会主義経済に特徴的な性質なのである」という。
 
 カレツキは、短期の価格変動には、主に生産費(費用)の変動によって決まるものと需要の変動によって決まるものの二種類があるという。

  「短期価格変動には、大きく分けてつぎの二つの種類があると考えられる。主として生産費の変動によって決定されるもの、および主として需要の変動によって決定されるものである、一般的にいうならば、完成財の価格変動は『費用で決定され』、主要食料品を含む原料の価格の変動は『需要で決定される』。完成財の価格は、もちろん、『需要で決定される』原料の価格変動によっても影響を受けるのであるけれども、この影響が伝えられるのは費用の経路を通してである。
 これら二つの価格形成の型は、供給条件の相違に由来するものであることは明らかである。完成財の生産は、生産能力に予備があるために弾力的である。需要の増大は、主として、生産量の増大を伴うだけであって、価格は同一水準にとどまる傾向がある。価格変動が起こるのは、主として生産費における変動の結果である。
 原料については、事情がちがっている。農業生産物の供給増加には、かなり多くの時間を必要とする。このことは、同じ程度ではないにしても、鉱業について妥当する。供給は、短期的には非弾力的なので、需要の増大は、在庫品の減少にしたがって価格の上昇をひきおこす。この最初の価格のうごきは、通常、標準化されていて、商品取引所で相場がたてられる。最初の需要増加は価格を上昇せしめ、しばしば第二次的な投機的需要を伴う。このことが、また、短期において、生産を一そう需要に追いつきにくくしているのである」。
 
 ずいぶん、われわれが今目の前で見ていることの像に近くなっている。初夏以来の天候不順で起きた生鮮野菜の生産不足による値上がりは、ようやく最近になって値下がりに転じてきた。自動車産業では、海外への生産や部品生産の移転などで、生産費が下がって、自動車価格が下がった。平成不況以来、リストラ・パート・アルバイト化などによって、多くの企業が、主に人件費・可変資本を削り、費用を下げることで、デフレ下で価格を低め、あるいは抑えてきた。等々。
 
 ヒックスは1965年の『資本と成長』以来、カレツキにならって、市場を「伸縮的価格市場」と「固定価格市場」の二つに分類するようになった。ヒックスによれば、「伸縮的価格市場」は、歴史的に「特定の取引における利潤機会の変化に応じて価格を上下させる仲介者としての商人の存在に依存していた」が、規模の経済の発展、品質と価格の標準化が進んで、「固定価格市場」の「伸縮的価格市場」に対する優位が確立した。

 ヒックスは、「品質と価格の標準化とは、相互に強め合う傾向がある。なぜなら、値下げ商品は、劣った品質をもつものと疑われるからである。商人の役割が低下するのは、標準化の結果である。商人は、生産者の商品の単なる販路にすぎなくなり、その先行者がもっていた主導性を失った。このことは、社会的あるいは政治的な理由で生じたのではなく、技術的な理由で生じたことは注意すべきである。したがって、政治的には社会主義であろうとなかろうと、工業化した、あるいは工業化しつつある国ではどこでも生じやすいのである」という。
 
  カレツキは、社会的・政治的要因が、完全雇用の維持を掘り崩すと述べている。以下のカレツキの引用は興味深い。まるで、小泉改革のことを言っているようだからである。
 
  「不況になると、大衆の圧力のもとで、あるいはそれがなくても、いずれにせよ大規模な失業を防止するために借入れによって調達された公共投資が企てられるだろう。しかしこの方法をその後の好況のさいに達成された高雇用水準を維持するためにまで適用しようとすると、『実業の主導者』の強い反対に会いそうである。すでに論じたように、永続する完全雇用というものはまったく彼らの好むところではない。労働者は『手に余る』だろうし、『産業の統率者』はしきりに『彼らに訓戒を垂れ』ようとするであろう。さらに、上向運動時の物価上昇は大小いずれの金利生活者にとっても不利になり、ために彼らは、『好況にうんざり』してしまう。
 このような状態においては大企業と金利生活者との利害との間に強力な同盟が形成されそうであり、またそのような状態は明らかに不健全だと言明する経済学者をおそらく一人ならず彼らは見出すことであろう。これらすべての勢力の圧力、とりわけ大企業の圧力によって、政府は、十中八九、財政赤字の削減という伝統的な政策に後戻りしようとするだろう。不況がそれに続き、政府の支出政策は再び彼らの権利を回復することになる」。
 
  やはり、マルクスの経済理論を学んでいると、視野が広くなるし、歴史・社会・文化その他もろもろとの関連を含めた経済の運動をリアルに捉えられるようになるものだ。       

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