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第3章中心=周辺関係と資本主義体制の危機(1)

 スウィージーは、資本主義の危機の意味を明らかにするために、資本主義体制全般の歴史を簡単に振り返る。
 
 まず、資本主義が継続的な存在となった始めは、イタリアの都市国家(city states)ベニスにあるという。ベニスは、アドリア海の奥に位置し、地中海貿易の戦略的中心地を占めていた。そのおかげで、本質的にブルジョア的で反封建的な社会を継続的に何世紀も発展させることができた。ベニスの富の源泉は、貿易、海賊行為、貢ぎ物であったが、社会に必要な造船業や武器産業は、資本主義的に組織され、多数の賃金労働者が雇われ、「その政治的・文化的な上部構造は、同時代の封建的な状況を映し出すよりも、むしろ来るべきブルジョアジー時代の前兆をなしていた」。中世後期には、イタリア各地にフローレンスを代表とするブルジョア的都市国家がいくつか生まれた。そこで、高度に発達した資本主義的繊維工業が発展した。それらは滅びたが、経済的な実務(複式簿記など)、政治制度、文化的業績、などの遺産を残した。 15世紀、16世紀のルネッサンスを経て、大西洋岸の資本家社会の発展に継承された。

 スウィージーは、ヨーロッパ以外でも資本主義の発展は可能だったろうという。資本主義経済に必要な交易関係や貨幣経済などの発達した地域が、ヨーロッパ以外にもあった。ただ、ヨーロッパは、時をえたにすぎないというのである。この考えは、資本主義の発展とキリスト教を関係づけたマックス・ウエーバーの考えを否定するものだ。これと似ているライシャワーの「近代化史観」をも否定するものである。室町時代の日本では、輸入された中国銭が広範囲に流通して、相当程度の貨幣経済の発展が見られたし、朱印船貿易や国内各地を結ぶ海の道が発達した。16世紀、ヨーロッパの大航海時代の頃、戦国時代には、日本人の航海先もタイ・フィリピンなどの東南アジア諸国に拡大していた。それ以前に、明は、南の海洋ルートを整備して、鄭和の例などのように、大艦隊を派遣するなどして、南の道が発展していた。
 
 ヨーロッパ人はさいさきがよかったし、航海術や火力が進歩して有利だった。ヨーロッパ人は、略奪と征服を通じて、膨大な富を母国に運び込み、ライバルの邪魔をし、場合によっては破壊した。「こうしてこれらの地域は、資本主義的発展の道をたどらずに、ヨーロッパを中心とした現在の資本主義体制に、植民地、属国、あるいはなんらかの形の従属者といった形で組み込まれたいったのである」。
 
 「資本主義がそもそもの最初からこれら二つの極―たとえば、独立と依存、支配と従属、開発と低開発、中心と周辺などというような用語でさまざまに表現できるが―を有していたという事実が、資本主義のあらゆる部分における展開のあらゆる段階で、決定的な役割を果たしてきた。資本主義の推進力になったのは、常に中心諸国における蓄積過程であり、周辺諸国の社会は、中心諸国の必要に答え、その要求に従うよう、抑圧の政治力と市場の経済力との双方によって形づくられていった」。
 
 海上輸送と海軍力の圧倒的な支配力を持った西ヨーロッパの国外進出は、最初は沿岸地域やその周辺の島々を侵すものだったが、鉄道の導入によって、内陸部に進出していった。その後には、三つのパターンがあるという。
 
 (1)前資本主義的な社会の力が弱く、人口がまばらな場合には、二つのうちの一つを選択した。
 
  (a)先住民と他の征服地から連れてきた人間の両方を強制労働させ、プランテーションや鉱山の労働者囲い込み地などの生産形態を確立する。その生産物(金・銀、熱帯作物など)は、中心諸国に輸出される。中心諸国からは、現地で生産できない労働者用生活必需品と現地在留ヨーロッパ人向けの贅沢品である。これは不公平な交換であり、その後の中心諸国と周辺諸国の間の不透過交換の原型となるものである。南アメリカ、中央アメリカ、南アジアと東南アジアの一部、アフリカの一部。

  (b) 先住民を一掃するか、追い出して、入植者によって、母国に似た社会をつくる。北アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド。
 
 (2)前資本主義的社会が比較的優勢で、より高度に発達したところでは、ヨーロッパ人たちは、その目的を達成するため、既存の秩序を破壊するのでなく、むしろその権力構造に入りこんだり、地域の指導者や有力者たちを互いに対立させたり、効果的な植民地の全面支配の体制を確立させたり、さらにまた地元の住民に直接経済的と間接政治的との両方の形の搾取を押しつけたりするようなことをした。英国統治下のインド、オランダ領のアジア諸国、フランス領のアジア諸国、アフリカの一部、中東。
 
 (3)ヨーロッパ拡張の最後の段階に日本への黒船来航があった。この頃には、欧米諸国は、帝国主義戦争を繰り返していたし、利害対立が深まっていた。「このため日本の支配者たちは、それ以前にヨーロッパの拡張の犠牲になった国々の運命を他山の石とすることにより、国の独立を保持するための巧妙な作戦をうまく工夫することができる。さらにそれと同時に、日本を一人前の資本主義勢力に変えるために必要な社会関係や制度を、欧米から学び、国内に定着させることもできたのである」。
 
 短期間のうちに、日本は、資本主義の中心に達した。日本が選び、あるいは強制された道は、歴史的に独特で、唯一の成功例である。
 
 では、中心における独立の発展と周辺における依存的な発展の違いは何か?
 
 第一の側面は、サミール・アミンによれば、「「産業革命」の前に「農業革命」が行われた中心の諸国と異なり、周辺の諸国に「農業革命」の段階にふみこむ前に「産業革命」を輸入してしまった」ことである。農業の生産性向上が、農業から労働者を解き放し、都市農村間の交易が栄え、問屋制度、マニファクチャーなどが発展し、その上で、資本主義への最終段階として、機械の導入がある。「工業化」は、経済発展の最終段階なのである。
 
 第二の側面は、搾取率が中心諸国に比べて、周辺諸国では大変高いということである。中心諸国における搾取率は、剰余価値率と同じである。周辺諸国では、資本主義的産業に雇用されている賃金労働者は少なく、遥かに多くの人が農村部で、地主や高利貸などの間接・直接に搾取されている。これらの働き手から奪われた剰余が市場に出されて、資本主義的産業が生産した剰余価値と見分けがつかないくらい混ざり合ってしまう。こうした状況の下では、社会的搾取率は、通常の意味の剰余価値率と混同するわけにはいかない。
 
 周辺諸国における搾取率が高いために、その地域の支配階級とエリートは、中心諸国のブルジョアジーと肩を並べるぐらいの生活ができ、剰余価値(利潤、利子、賃料、使用料等の金銭)を中心諸国に流入させることができる。
 
 他方で、労働者、小農、農村と都市のスラムの貧民層は、生活限界ぎりぎりかそれ以下のみじめな生活水準におかれている。この問題の根源は、高搾取率である。それによって、貧困が永続化させられていると同時に第Ⅱ部門(消費財生産部門)への投資を妨げているのである。そして高搾取率は、体制に組み込まれいて、強力な機構で保護されている。
 
 中心諸国で、それに対して、剰余価値率が低いのは、労働者階級が組織しやすく、闘争しやすいし、ブルジョアジーが、歴史的経験から、長い目で見て、労働者階級の生活向上が、剰余価値率の安定と生産性向上にとって、不可欠であることを知っているからである。そうでなければ、第Ⅱ部門の成長が妨げられ、第Ⅰ部門の需要が低められ、資本蓄積過程が進行するための重要な条件が失われる。個々の資本家の目では、剰余価値率を高めることが望ましいように見えても、中心諸国の資本主義体制全体から見れば、一つの惨事になってしまうのである。
 
 さらに、産業革命の当初は、反結社法などで労働者階級の組織化を妨害して、剰余価値率を上げようとしたが、それが労働者階級の革命的運動を激化させ、1847年革命を引き起こした。これにあわてた支配階級は、労働者たちの運動に柔軟な態度を取るようになった。改良主義的な近代的労働組合が結成されていた。中心諸国で、労働運動を一定の枠内に抑えつつ、利用するようになったのに対して、革命的なマルクス主義は、周辺諸国に「長征」することになる。

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