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第2章資本主義をめぐる諸矛盾(1)

 スウィージーは、第1章で、弁証法的唯物論・史的唯物論の基本的な考え方を整理した。それが必要だったのは、なによりも、経済学が形而上学的思考方式に陥っているのに対して、マルクス主義経済学の弁証法的思考方式を対置することが重要だからである。しかも、形而上学的思考方式が、マルクス主義の中にも浸透してきたという危機感があったからだろう。80年代にはまだ構造主義の影響力は圧倒的であったが、90年代にはポスト構造主義が台頭し、スウィージーが強調した「交互作用」の原則については、「常識化」しつつある。構造・関係に対する決定論的な見方は、ずいぶん後退している。運動する構造、変化する関係、等々といった動学的見方が、取り戻されつつある。ブルジョア経済学者たちが、経済動学の祖と認めているマルクスの弁証法的思考方式が、形而上学的思考方式にうちかちつつあるのである。新古典派経済学もケインズ経済学も、なんとか静態的な体系から脱して、経済学の動学化に取り組んできたのだが、どうしてもうまくいかないのである。
 
 こうした基本中の基本を確認した上で、第2章資本主義の危機をめぐる諸矛盾に入る。
 
 まずは、基本のおさらいである。商品とは何か? 「商品とは、―財であれサービスであれ―使用するためではなく、販売するために生産されるものである」。資本主義のもとでのみ、商品生産が支配的になり、労働力も一般的商品になる。「生産者たち、とりわけ農民たちは、生産したり、生計の道を得るための伝統的な生産手段から根こそぎ切り離されてきた」。農民は、生きるために労働力を売らざるをえなくなる。それを買うのが、生産手段と貨幣すなわち資本を持つ資本家階級である。こうして、資本家階級と労働者階級が形成される。この過程に、強力な国家権力が関わる。
 
 「階級形成をめぐるこの対をなす過程こそ、マルクスが「本源的蓄積」とよんだものである」。
 
 マルクスは、「本源的蓄積」の過程を西ヨーロッパの歴史から描いたが、それは、資本主義の一般的な「前史」をなす。
 
 単純商品生産は、生産者が商品Cを市場で貨幣Mと交換し、それを必要な商品Cと交換する。今日でも、第三世界などでは、こうした単純商品生産と商品交換が普通に見られる。例えば、アンデスの山間部の農民は、自分が生産した農産物を持って、市場にきて、それを売って、その市場・商店から、必要な商品を購入して帰る。すなわち、C―M―C。これは、消費・使用のための生産体系である。「そこでは、生産者は自分の生産物を(少なくともその全部を)自らは消費しないにせよ、その生産目的はみな自分たちの必要性を満たすためであって、その富を増大させるためではない」。
 
 それに対して、資本主義では、直接に生産にあたる人々は、生産手段を所有していないので、「生産過程を開始したり管理したりできない」。生産手段の所有・管理者の資本家に労働力を売らねばならないのである。そこで、過程の出発点が、貨幣Mとなり、過程は、M―C―Mとなる。
 
 「資本主義のもとでは、資本家が購入する労働力という商品は、資本家がつくりだすものではなく、むしろ労働者階級の家族生活のなかからつくりだされ、労働者たちによって使用価値として所有されているものである」。
 
 だから、資本家たちは、絶えず、家族・教育についての不平不満をこぼすのである。これは、なかなか資本家の自由にならないのである。
 
 単純商品生産C―M―Cにおいては、最初のCと最後のCの交換価値は等しい。いずれも交換価値量は、Mである。この交換の生産者の目的は、使用価値の増大であって、交換価値の増殖が目的ではない。例えば、アンデスの農民が、自分たちが消費する以上のトウモロコシを生産したが、肉を生産していないので、肉が必要なら、余分なトウモロコシを市場で貨幣にいったん換えて、それで肉を買えば、使用価値を増大したことになる。必要でないもの=使用価値の小さいものを欲しいもの=使用価値の大きいものに変えたのだから。したがって、ここで媒介にMという貨幣が介在しているが、これは単なる交換手段であって、物々交換でもこの過程に本質的な変化はない。
 
 それに対して、M―C―Mの場合は、貨幣を出発点として、貨幣で過程が終わる。「最初と最後の項は、ともに貨幣であり、質的には同一であって、それ自身の使用価値はなくなる」。二つのMが量的に等しいなら、こうした経済活動を行わない。そこで、循環形態を、M―C―M’、M'=M+ΔMと書き直すことができる。ΔMは、増殖した貨幣、剰余価値である。この剰余価値の取得こそ、資本主義生産の動機であり、目的である。
 
 では、この剰余価値はどこから得られるのか? 「労働日の一部が労働者が消費する価値と置き換えられ、残りの労働日が剰余価値を生んでいる」のである。ここでマルクスは、リカードの労働価値説を踏襲している。
 
 労働日のうちで、労働者が消費に必要な分の物質を生産するのに必要な時間の労働を「必要労働」、それを超えた資本家のための時間の労働を「剰余労働」とよぶ。必要労働に対する剰余労働の比率を、「搾取率」、あるいは価値として表現して「剰余価値率」とよぶ。

 他の条件が等しければ、労働時間の延長は、剰余価値を生み、剰余価値率が上昇する。これを「絶対的剰余価値」の創出とよぶ。
 
 「これとは反対に、同じく他の条件が等しいとするならば、労働者が生産性(機械の導入、労働過程の再編成、スピード・アップなどにより)が上昇すれば、そしてまたそれにより労働者の最低生活を生産するのに要する労働時間が短縮されれば、労働日のうち必要労働に当てる比率は下がり、剰余価値創出に当てる比率が上昇することとなる。このような場合にもまた、剰余価値率は上昇する。マルクスは、これを「相対的剰余価値」の創出とよんだ」。

 ここで、スウィージーは、剰余価値、剰余価値率、絶対的剰余価値および相対的剰余価値について、本論から離れて論じる。これらの概念は、古典派経済学の労働価値説をもとに導き出されている。「マルクスは、資本主義を考察する枠組みを、新古典派経済理論の手法のように交換価値の静態的な体系としてではなく、歴史的な過程として捉えている」。マルクスは、初期資本主義の強奪と暴力の単なる大混乱の中に、独自の資本主義的生産様式が出現する過程を見るのである。資本主義的生産様式は、封建領主=農奴関係にとってかわる賃労働=資本関係という新たな形の搾取関係と階級社会を生み出したのである。
 
 「どの階級社会も、必要労働と剰余労働の対抗関係、したがって表面に出なくとも搾取率、によって特徴づけられるが、資本主義のもとでのみ、それは価値形態をとり、搾取率は剰余価値率としてあらわれる」。
 
 利潤率ではなく、剰余価値率が、一番中心の鍵となっているのであり、「これによってマルクスも資本主義の歴史をしっかり解明することができたのである」。『資本論』第一部第一章が、価値形態論で始まるのは、こういうわけである。そこから、交換価値の静態的体系を引き出すという構造主義的な試みが、行われたし、今もそうしたことを繰り返す人がいるが、それは、マルクスの方法や問題把握の仕方と異なる。資本主義は、交換価値の静態的体系ではなく、剰余価値獲得のための歴史的過程なのであり、交換関係も、その一部としてあり、その目的に従属させられているのである。交換が目的ではなく、剰余価値の取得が目的なのであり、交換はその実現に関わる過程なのである。それについては後に、市場を論じた部分でスウィージーが取り上げているので、そこで再び取り上げよう。
 
 「剰余価値を二つの部分(絶対的剰余価値と相対的剰余価値―剰余価値率の概念がなければ、このどちらも無意味となってしまうのだが)に分けることによって、マルクスは、資本主義発展のそもそも当初からその心臓部分をなしてきた構造を暴露することができた。しかし、また、まさにそのために、新古典派経済学から無視または拒否されたのである」。
 
 マルクスは、『資本論』第一章第三篇で、労働日をめぐる闘いを分析し、相対的剰余価値を扱う第四章で、労働過程における組織の問題や、機械の導入・改善の跡をたどる。「これは、経済誌研究にすべての文献を通じて、間違いなく最高傑作となるものである」。
 
 これは、二つの理由で重要だという。第一に、理論の目的は現実の分析、社会科学では歴史の分析、を導くというマルクス主義の最重要な原則を、完璧に説明しているから。第二に、ジョーン・ロビンソンやイアン・スティードマンなどのように、価値論を資本主義分析に本質的ではなく、剰余価値率よりも利潤率を中心に分析すべきだという考えを論破しているから。         

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