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第1章弁証法と形而上学(1)

 『マルクス主義と現代』第1章「弁証法と形而上学」で、最初に、ポール・スウィージーは、自らの経歴について述べている。
 
 彼は、1920年代後半に、ハーヴァード大学経済学部で、社会科学・経済学を初めて学んだ。当時、そこには、制度学派のウィリアムズ・Z・リプレイ、マーシャル派のフランク・W・タウシッグ、保守主義派のトーマス・ニクソン・カーバー、チャールズ・J・バロックなどがいたという。当時のハーヴァード大学には、教授・学生の中に、マルクス主義者はいなかった。1932年に、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスの大学院に行って、初めて、マルクス主義に接した。1932年と33年は、歴史的転換期にあって、満州事変が起き、大恐慌の底に達し、アメリカで自由主義的ニューディール政策が始まり、ドイツで、ファシスト・ヒトラー政権が誕生した。ソビエトでは、最初の第一次五カ年計画が経済的に一定の成功をおさめつつあった。
 
 当時のロンドン大学では、オーストリー学派とスウェーデン学派を混合させた独特の経済学が生み出されていた。社会科学には、ハロルド・ラスキがいて、マルクス主義的な考えを学生サークルなどを通じて、広めていた。「私がはじめてマルクス主義や、当時西側で主な代表をなす左翼社会民主主義者、正統派共産主義者、そしてトロツキストたちと接したのは、こうした刺激に満ちた雰囲気のなかにあって、主に同僚の大学生たちを通じてであった」。
 
 こうした学生たちとの接触を通じて、彼は、「それまで、目前の説明もつかない不幸な事態の混在だけと見ていたものが、実は資本主義や帝国主義が本来の姿で動いた結果、必然的に、そしてまことに不可避的にもたらされたものであると分かってきた。ロシア・ボルシェビキが先頭に立って切り拓き、他の世界の同士たちの全面的支持を必要としていた革命や社会主義の道を通してこそ、はじめてこうした危機から脱出しうるという命題を、多くの新しい友人たちと同様、私は容易に受け入れることができた」。1933年にアメリカに帰ると、労働者の4分の1の失業者、銀行制度の崩壊、ニューディール政策の開始という現実の変化が起きていた。このような事態に対して、ハーヴァード大学をはじめとして、マルクス主義が急速に広まり、積極的に関心を示し始めた。公式の講座も生まれた。スウィージーは、運動に参加する。
 
 1942年まで、比較的自由に活動できたが、第二次世界大戦後、約20年に渡って、反動の嵐が吹き荒れ、大学もマルクス主義に門戸を閉ざした。1960年代、ベトナム反戦や公民権運動が激しくなると、ようやく革新的な運動がよみがえった。学問の自由とか言論の自由がようやく回復された。
 
 レオ・ヒューバーマンとスウィージーは、1949年5月、数千ドルの寄付と、約400人の購読者をもとに、『マンスリー・レビュー』を創刊した。これは現在でも続いており、そのホームページでいくつかの文章が読めるようになっている。この雑誌は、数カ国語で出版されている。後に、ポール・バラン、ハリー・ブレイヴァマン、ハリー・マグドフ、などが参加した。
 
 こうした経歴のスケッチの後、彼は、講義の出発点、「さまざまな理念、理論および一定の理論だてを解釈し批評するための一連の指針として、議論の枠組みを整理しておくことが必要」だとして、「マルクスとエンゲルスが弁証法的思考様式とよんだもの」を提示するという。対照的なのが形而上学的思考様式であるが、これは、現代科学の方法とその成功によって、最高水準にまだ発展したという。そして、唯物論のマルクス主義的意味と考えるところのものを、いくつかあげる。              

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