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第1章弁証法と形而上学(2)

 スウィージーが、取り上げるのは、マルクス・エンゲルスの唯物論である。そこで、彼は、『ドイツ・イデオロギー』から、彼らの唯物論を要約する。
 
 「観念はただ独立した第一次的な実在としてではなく、人間や社会から派生したものであり、さらにその人類や社会は、自然の欠くべからざる一部分をなすのである。その自然たるや、人間をふくむ(地球上の)生命が生まれる以前から存在していたし、またそれが死滅する以後も存在し続ける。こうしたわけで、物質対精神あるいは精神対肉体といった二元論は、問題の的を外すものである。自然の限りない変化は、宇宙の窮極的な構成要素をめぐる組織の異なる形状や段階を、さまざまに現したものである。(もしそうした窮極的な構成要素が実際にあるとしても、今日の最高の科学者でもあまりそれを明確にしていないところだし、またその解答が今後万一出たとしても、唯物論にたいするマルクス主義的概念の妥当性には、なんら影響するものではない。)このように自然と社会のあいだには深い関連があるし、したがってまた自然科学と社会科学とのあいだも同じである。あらゆる科学は、なんらかの角度から、現実を理解し説明するものでなければならない。しかし、現実のもつあらゆる面は、それぞれ特有の問題と性質をもっているため、それぞれの科学は、少くとも、それ独自の方法と手順を多少とも工夫しなければならない。そしてまた、信頼しうる知識が得られる容易さと範囲は、次から次へと大きく変わる。しかし、こうしたことがあるからといって、「科学」がこれ以上成功することはないとか、取り扱いにくい研究課題でそれが否定されるということにはならない」。
 
 唯物論は、自然・物質の第一次的な実在とするのであり、それらは、人類や社会がなくても存在することを認識する。観念は、人類や社会から発生したのである。自然と関係なしに、意識・観念が先にあって、それが自然や物質や人間を創ったいうのが創造説である。創造説論者は、そのような精神を神と名付けているのである。現在でも、宇宙の窮極的な構成要素の追求が行われているが、成功してはいない。様々な仮説が出され、実験が行われているところである。そのような自然科学の発展途上の理論が、社会理論の分野に持ち込まれることがある。例えば、宇宙理論の仮説のビッグバン説が、経済学に持ち込まれて、グローバリゼーションの説明に利用されたことがある。もちろん、それは正しくなかった。
 
 唯物論についての要約の次に、氏は、弁証法的思考様式について考察する。スウィージーは、エンゲルスの『反デューリング論』から引用する。この本は、事態を明らかにし、率直に示す傑作であるにもかかわらず、大衆向けに書かれたために、無視されてきたという。もっとも、それ以外に、1970年代以来、主に西欧で、エンゲルスを批判し、エンゲルスを否定する潮流が台頭したことがあり、その点でも、『反デューリング論』が無視されたということもある。エンゲルスに対しては、科学主義批判、生産力主義批判などが行われた。原典研究の過程で、マルクスとエンゲルスの執筆部分を厳密に区別するということも行われ、マルクスとエンゲルスの違いに焦点をあてる研究も進められてきた。そうした原典研究が進むのはいいことだが、細部に拘泥しすぎて、両者の共通部分の意義を軽視するということになってはいけない。マルクスが、エンゲルスに、自らの未完成原稿の完成を託したことなどからも、両者の基本的なところでの深い一致と信頼関係があったことは、明らかである。氏が引用するのは、序説の第一部第一章「総論」にある部分である。
 
 「われわれが自然や人類の歴史やわれわれ自身の精神的活動に考察を加える場合、まず第一にわれわれのまえに現れるのは、もろもろの連関と相互作用との限りなくからみあった姿である。そこでは、どんなものも、もとのままのもの、ところ、状態にとどまるものはなく、すべてが運動し、変化し、生成し、消滅する。この原始的で素朴ではあるが、しかし本質的には正しい世界観が、古代ギリシャ哲学の世界観であって、これを最初にはっきりと言いあらわした人はヘラクレイトスである。すなわち、万物は存在するとともに、また存在しない、なぜなら、万物は流転し、不断の変化、不断の生成と消滅のうちにあるからである、と。しかしながらこの見方は、たとい現象の全体としての姿の一般的な特質を正しくとらえているにしても、この全体としての姿を組みたてている個々の細かい点を説明するにはまだ不十分である。そしてこれが理解できないかぎり、全体としての姿もよく分からない。これら個々の要素を認識するためには、それらを自然または歴史の連関から切り離して、それぞれ別個にその性状、その特殊な原因や結果などを研究してゆかなければならない。これがなによりもまず第一に自然科学および歴史研究の任務である。この二つの研究部門は、材料を苦心して集めなければならなかったというまことにもっともな理由から、古典時代のギリシャ人のあいだでは、単に従属的な地位しかもちえなかった。精密な自然研究のはじまりは、やっとアレキサンドリア時代のギリシャ人によって開かれ、その後中世になってアラビア人によってさらに発展させられた。しかしほんとうの自然科学は、十五世紀の後半になってはじめておこったものであり、その時以来、それはたえず加速度的に進歩をとげてきた」。

 「自然をその個々の部分に分解すること、さまざまな自然過程や自然対象をきっぱりした部類に区分すること、生物体の解剖学的形態に従って研究すること、これが最近四百年のあいだに自然認識のうえでわれわれにもたらされたあの偉大な進歩の根本条件であった。しかし、この研究方法はまた同時に、自然物と自然過程とを個々ばらばらに、全体の大きな連関からひきはなし、したがって運動するものとしてではなく静止しているものとして、本質的に変化するものとしてではなく、固定して動かぬものとして、生きたかたちではなく、死んだかたちにおいてとらえるという習慣を残した。そしてベーコンとロックとによってなされたように、この考え方が自然科学から哲学に移されたために、最近の数世紀に特有な偏狭さ、すなわち形而上学的思考方法をつくりだしたのである」。
 
 「形而上学にとっては、諸事物とその思想の上での模写である諸概念とは、個々ばらばらな、一つ一つ他と関係なく考察すべき、固定し硬直化して、一度与えられたらそのまま変わらない研究対象である。こういう人は、ものごとをまったく媒介のない対立物によって考える。・・・。こういう人にとっては、一つの事物は存在するかしないかのいずれかであり、つまり、それ自身でありながら同時に他のものであるというようなこともありえない。肯定と否定とは絶対的に排斥しあう。同様に、原因と結果もたがいにこわばって動きのとれぬ対立をなしている。この考え方は、それがいわゆる常識の考え方であるだけに、われわれにとって一見きわめてもっともらしく思われる。ところが、この常識というものは、自分の家のなかの日常茶飯の事柄においては相当のしろものであるが、科学的研究という広い世界にのりだすやいなや、まことにとんでもない冒険をしでかす。形而上学的な考え方は、対象の性質に応じてそれぞれの範囲をもつところの、かなり広い諸領域においては、いかにも正当であり、また必要さえあるのだけれども、遅かれ速かれ必ず限界にぶつかって、そこからさきでは一面的な偏狭な抽象的なものになり、解決のできぬ矛盾に迷いこんでしまう。なぜなら、形而上学的な考え方は、個々の事物にとらわれてそれらの連関を忘れ、それらの存在にとらわれてそれらの生成と消滅を忘れ、それらの静止にとらわれてそれらの運動を忘れるからであり、木ばかり見て森を見ないからである」。
 
 「序文」より、「・・・和解も解決も不可能と考えられている両極的対立、無理やりに固定された境界線や種類の区別こそはまさに、近代の理論的自然科学によってその狭い形而上学的性格を付与した当のものなのである。こうした対立や区別が自然のうちに現れているのはもちろんであるが、しかしそれらは単に相対的な妥当性をもってあらわれるにすぎないのだということ、むしろそうした対立や区別のこわばった不動性や絶対的な妥当性として考えられているものは、われわれの考えによってはじめて自然のうちにもちこまれているにすぎないのだということの認識―こうした認識こそが、自然の弁証法的把握の核心をなしているのである」。
 
 ここで言われている弁証法的思考方式については、日本では、仏教が広まっているおかげで、理解しやすいかもしれない。例えば、鴨長明の『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし」(「無常のことわり」)というところ。もっと有名な『平家物語』の冒頭、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のことし。たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」という部分。仏典の中には、あるというのも間違い、ないというのも間違いという空論がある。これらには、エンゲルスが言う弁証法的思考方式がある。

 スウィージーは、これらを引用した理由を二点あげている。
 
 ①世界について思考し把握する基礎的方法にかんするマルクス・エンゲルスの諸説のうちで、これらの節はもっとも明快でありながら、同時にマルクスなりエンゲルスなりが一番省略してきたところと思われるから。
  ②エンゲルスによって非常に明快にその本質と限界を暴かれた形而上学的思考方法が、今日のマルクス主義にしのびこんできており、そのひろがりの程度に私がいささか困惑しているから。
 
 ②の理由について、彼は、「生産様式」概念が物神化されていることを指摘する。この概念は、慎重に用いられれば、歴史研究の役に立つのであるが、「単に相対的に妥当性」をもつものである。       

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