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2006年11月

いじめ対策について

 いじめ問題が、教育問題の最大課題となっている中で、のんきにも参議院特別委員会では、教育基本法談義にふけっている。いや、談義もそこそこに早期成立を急いで、時間稼ぎをしている。教育再生を最重要課題として掲げた安倍政権は、教育問題に理解もなく、ただ権力闘争の手段として教育問題を利用しているにすぎないのである。また、どこかの時点で、審議時間は十分だ、採決をと言うだろう。見え見えである。北朝鮮問題で、あれほど毅然と制裁について述べた安倍総理が、すでにいじめ自殺が相次ぎ、子どもの生命が失われたというのに、明確で毅然としたメッセージを発しないのはなぜだろうか? 一方は、5人が生きて返ってきたが、自殺した子どもの命は永遠に戻らない。 
 
 そして、自民党復党問題である。こんなものは、後回しにしていい話である。また、教育再生会議が「緊急提言」という第一歩を踏み出すのに、こんなに時間がかかったのは、なぜだろうか? いじめ問題は、1980年代に問題が指摘されてから、すでに20数年に渡って、文科省、教育改革国民会議、などが、問題が深刻化していて、対策が必要だと繰り返し、いくつかの対応策を打ち出してきた問題だ。そして、学校・教育委員会から上がってくる報告では、文科省が期待したとおりに、いじめは解決の方向に向かっていることを示していた。ここ数年はいじめ自殺はゼロとなっており、文科省は、学力低下問題などに重点を移しつつあった。ところが、実際には、いじめ問題は深刻化していたのである。しかし、そのことを示す兆候的なデータがなかったわけではない。その一つが、昨年に、小学生の教師への暴力発生件数が急増したというデータである。そこで子どもたちの世界に何か大きな問題が発生しているかもしれないと考えるべきであった。こういう大きな変化は不自然であったのだから、もっとその背景や原因をしっかりと探るべきであったのである。
 
 いじめ問題は、日本だけではなく、諸外国でも大きな問題として、対策が行われている。今日の『毎日新聞』には、それが紹介されている。
 
 韓国では、ネットでのいじめが深刻だという。学校暴力対策国民協議会によると「小中高校生の少なくとも1割以上がいじめに苦しんでいる」。その他、「被害者は3割、加害者は5割」という調査もある。「多くの学校はいじめの予防教育に熱心でなく、実態を隠す傾向が強いとの批判は少なくない」。韓国の場合、ものすごい受験競争があって、学力中心主義が学校を支配していて、人権への配慮が後回しになっているのだろう。それと、学園暴力という不良型・非行型の問題もまだ根強いと思われる。徴兵制の問題も関係があるのかもしれない。
 
 アメリカでは、司法省調査で、過去6ヶ月間に、12~18歳の生徒がいじめを受けたケースは、1999年約5%、01年8%、03年7%、となっている。しかし、正確な実態は不明だという。政府がいじめ問題を深刻に受け止めたのは、99年のコロンバイン高校(コロラド州)乱射事件で、13人を射殺して自殺した犯人がいじめ被害者であったことからだという。「事件後の調査で、犯罪行為にかかわった生徒の71%が校内でいじめに遭っていたと判明した」。このコロンバイン高校銃乱射事件は、日本でも大きく報道されたが、事件がいじめと関係があることを指摘したメディアはなかったように思う。ただ事件の異常性だけが伝えられ、治安悪化・犯人の異常性などが強調されていたように記憶している。アメリカでは、いじめ被害者の自殺も相次いでいるという。州単位で、「いじめ防止法」制定が進められている。その方策は、いじめの実態報告と教員の訓練などだという。
 
  イギリスでは、今月20日から全国で「いじめ撲滅週間」キャンペーンが行われたばかりだという。信頼の厚い最上級生を「指導者」に選んで、教師と共同していじめを阻止する「良き指導者計画」を公表したという。これに約1億円の予算をつけるという。いじめ自殺も少ないとはいえあるようだ。レスターシャ州の調査では「一回以上いじめられた」が14%に達した。「いじめっ子を罰しないこれまでの英国流の限界」を指摘する声もある。
   
 エジプトのいじめは暴力をともなうものが多いという。イスラムでは、「弱い者いじめはハラーム(禁止)」という教えがあるようだが、そんな説教だけでは解決していないようだ。
 
 アフリカでは、地域全体や親戚で子育てするという習慣が強く残っていて、いじめは少ないという。

 教育再生会議のいじめ対策「緊急提言」が出たことを受けて、『産経』『毎日』『東京』各紙が社説で、いじめ対策について書いている。

 『産経』は、「いじめ緊急提言 問題児童に奉仕は良い薬」で、「緊急提言」が、「いじめをする側の児童生徒に対し、社会奉仕や別教室での授業など具体的な指導方法を明記した」点に特に注目しているという。社会奉仕(ボランティア)を懲罰や矯正手段と考えていることは、多くのボランティアから反発を受けるだろう。『産経』は、親が子どもに向かって、「お前たち、悪いことをするとボランティアさせるぞ」と注意するようなことをさせようというのだろうか? 阪神大震災や新潟県中部地震などで、全国から駆けつけたボランティアたちは、罰や矯正手段として、被災者を助け、復興を助けたとでもいうのだろうか? 失礼な話だ。こんな失礼なことを書いた『産経』社員には、罰として、ボランティアを課したいものだと皮肉の一つも言いたくなる。

 「いじめの事実が把握された場合、まず、いじめられている子といじめる側の子らを切り離す必要があるが、それだけでは解決にならない」。その通りだ。だから、「問題児童を立ち直らせるためには、社会奉仕などを通じて人々の役に立つことの大切さを実感させる必要があろう。/奉仕活動は、いじめ対策だけに有効なのではない。道徳の時間や総合学習で、ふだんから老人ホームや病院での介護実習、公園の清掃などを経験させておけば、おのずから弱者を思いやる心や公共心がはぐくまれよう」と『産経』はいう。しかし、弱者を思いやる心や公共心は、べつに、ボランティア体験だけから生まれてくるのではない。むしろ、重要なのは、地域・家庭での体験であって、そこで、親や地域の人々の姿から学び、身につけるものである。親が、職場の仲間への不当な解雇攻撃に対して仲間を守って闘う姿、自立支援法などの弱者いじめの法律に断固として反対して弱者を思いやる心を示すこと、あるいは、地域で、弱者をみんなで守る姿等々から公共心を学ぶのである。

 『産経』の問題は、いじめと非行を混同したまま、非行対策をいじめ対策としてやろうとしていることだ。これは、『産経』が言うように、加害者と被害者を隔離するだけではなんら解決にならないのであって、むしろ、集団性・社会性・共同性をどう育てるかというその中身の問題なのである。それにしても、この社説は、いじめ問題に対して浅い理解しかないことがまるわかりである。いじめっ子を隔離しても、残された生徒たちの間で、もしかしたら、今度はいじめられっ子がいじめっ子になっているかもしれないといういじめ問題の複雑さをスルーしているからである。次々とボランティア活動に送り込んで、解決と言えるのか? もちろん、そんなものは解決でも何でもない。また、『産経』は、いじめ問題が社会問題として教育領域を超える広がりのある問題であり、その中には、マスコミ問題も含まれていることに一言も触れず、自身の問題を棚上げにして、他者攻撃ばかりしていることを反省して欲しい。自らにも関わりのある問題として捉えるべき課題である。地域社会の問題を「緊急提言」が指摘していることを、『産経』自身が地域社会の一員として、どう受け止めるのか、自らの問題として、語るべきである。

 『毎日』の特集では、アフリカ諸国でいじめが少ないのは、学校は地域生活・家族親族生活の一部にすぎず、そこが子どもにとっての世界のすべてではないということがある。こういうことをどうしてわれわれが理解できるかというと、ある程度の年齢以上の人やそういうものが残っている地域に育った者は、似たようなことを体験してきているからである。社会規範やルールは、基本的には、地域や親族関係で決定され、教育されているのであり、学校は社会規範を習う場ではなかった。学校は、規律だの規範だのの教育の場などではないのである。もちろん、道徳なんぞも、学校で教わるようなものではなかった。学校で習っても、そんな紙の上の道徳は、一片の抽象的知識でしかない。

 『東京新聞』社説は、教育再生会議の「緊急提言」にはかなり批判的で、全面否定に近い。「緊急提言は現場の声をどれだけ反映しているか疑問だ」と現場の役に立たないというのは、要するに、使えない代物だと完全否定しているようなものだ。

 『毎日』社説は、「近年、競争原理導入の教育改革政策の流れで学校や教員への業績評価の目が強まり、それが問題隠蔽や先送りにつながりやすいという現実だ。その意味で、提言が「いじめが発生するのは悪い学校ではない。解決するのがいい学校という認識を徹底する」と明言したことは大きい」と述べている。学校や教員の成果主義的な評価が強めるに連れて、問題隠蔽や先送りになっているのではないかという指摘をしているのが重要だ。問題がないことを評価するのではなく、問題を解決したかどうかを評価しようと言うのである。しかし、この間は、解決して、なくなったかの如き、虚偽報告がなされていた。これは文科省が高校必修漏れを4年間知りながら放置してきたことと同根の問題のような感じがする。

 「いじめは、例えば、特定の患部に専門医が適当な処置をすれば、何事もなく回復する-というような単純な問題ではない。形態は複雑で、大人社会の有り様や病理も微妙に映す。/これに当たるには社会全体の知恵と継続的な努力が必要だ。「絶対許されない」という原点を再確認し力を合わせれば、連鎖現象は必ず断ち切れる」と『毎日』は言う。「社会全体の知恵と継続的な努力」。なかなか良い。これこそ、教育基本法改訂よりもはるかに重要で、最優先すべきことだ。

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教育再生会議「いじめ問題への緊急提言」決定

 教育再生会議は、「いじめ問題への緊急提言」を決定した。いじめに対して、毅然とした態度を取る。いじめた側への別学級での指導やボランティア活動の実施など、指導を強化するなどの対応が盛り込まれている。
 
 ヤンキー先生こと義家委員が強く主張した「出席停止措置」については、文科省大臣などの反対で、明記されなかった。「いじめをみて見ぬふりをする者も加害者」として、子どもたちの連帯責任を明記したのも特徴的だ。その他、教員処罰など、懲罰的な意味合いも強い。
 
 ボランティアの位置づけにしても、懲罰・矯正(更正)であって、これは、非行問題対応の基本を当てはめたものであるといえよう。フーコーは、『監獄の誕生』で、非行と監獄社会・監視・監禁装置との密接な関連を指摘したのであるが、いじめ問題は、非行問題とは違うように思われるが、あるいは関連があるのだろうか? この緊急提言が基本としているのは、非行問題対策と同様の対処の仕方であり、態度であるように思われる。
 
 文科省のいじめの定義では、集団化することによる子どもの強者化と孤立させられた子どもの弱者化という強弱関係が指摘されている。それが、流動的な関係であることは何人もが指摘している。集団化に成功しなければ、強者にはなれないからである。子どもたちの間での、あるいは教室内での流動的な力関係・権力関係の動きがあるのである。かつて、非行者は、非行の明確な印を誇示し、周りと自らを隔離していた。非行者の印は、学生服やカバン、髪型、言葉遣い、その他の一目でわかる外的なもので、表示されていた。その印を目印に、非行への対応が行われていたのである。
 
 ところが、いじめの方は、それらの非行の印を欠いている。いじめ側は、他の生徒から自らを明確に区別する印を示さない。髪型も、学生服も、言葉や態度も、いじめ加害者とわかる印を表示していない。いじめ被害者もそういう明確な印を示していない場合が多いようである。しかし、実際には、注意深く観察すれば、印は見つかるだろう。教員評価の基準が、学力中心になっていて、クラスのテストの成績向上ばかりに夢中で、そうしたサインを見逃しているということもあるのかもしれない。
 
 それに、各学校現場では、まだ過去の非行問題のイメージで、いじめを見ているのではないだろうか。1995年以後の、教育改革国民会議などのいじめ対策も、非行対策から多くを取っている。教育再生会議の緊急提言もそうである。緊急対策が必要であることは言うまでもない。一方で、少子化対策に力を入れているのに、平行して子どもがどんどんいじめで自殺していくなどというのは、どう考えても異常である。しかし、基本的な対策をねるにあたっては、非行といじめの違いなど考えるべきことが多々ある。
 
 不正確な比喩だが、鬼ごっこという遊びは、ちょっといじめと表面的に似ているところがあるような気がする。鬼は大抵一人であり、鬼になるとその他すべてに対して、弱い立場になる。そこから脱出するために、別の人を鬼にしなければならない。鬼ごっこの場合は、鬼は入れ替わって、固定することはない。しかし、このような遊びの集団では、年長者やリーダー格の子どもには、全員の無事を保証する暗黙の義務があり、責任があった。自分がやったことでなくとも、メンバーの誰かが悪いことをしたら、リーダー格の子どもは、一緒にあやまりに行った。
 
 いじめではそういうことがなく、いじめ集団の集団としてのあり方やリーダーのあり方に、大きな問題がある。それが、リーダー格を隔離しただけで、直せるようなものではないことは言われているとおりである。教育においては、集団行動・集団生活を行わせているし、教育の主目的の一つは、人格形成とされているわけだから、そのやり方として、どうすればいいのかということが、いじめ問題を通じて問われているわけで、それは緊急避難的措置とは別にしっかりと考えなければならないのである。どのように集団生活の仕方や集団形成や共同活動を教育の中で、身につけさせればいいのか? 人格形成をどうしていったらよいのか? 等々のことである。
 
 いじめ問題でわかるのは、おかしな集団形成・共同性・社会性・人格性が生まれていることである。それを反社会的と規定するのは、正―社会的というものを基準にする場合である。それは教育という領域を超えて、社会そのもののあり方を問うという広がりを持つのは当然であって、教育再生会議が担当範囲を超える社会的課題を提起したということだ。地域社会の問題が提起されているのも、そういうことだ。文科省大臣が語ったように、共稼ぎで帰宅が遅い親と子どもの会話やコミュニケーションを増やすのは難しい。それは、働き方や企業のあり方を含めた問題であり、したがって、教育基本法改定などではカバーできない話である。そういう包括的な議論なしに、教育基本法改定議論をしたところで、たいして意味がない。むしろ、包括的な議論の結果を受けて、教育をどうするかを決めていくのが筋というものである。
 
 教育再生会議が、これまで、文科省寄りの教育制度改革路線で、論点を打ち出してきたのに対して、今度の緊急提言は、家庭での子どもとの対話やしつけ重視、地域の役割重視などの世論の多数意見に配慮したと見られる文言が取り入れられている。このところ、教育論議は、世論を無視した教育基本法改正論議ばかりであったことを多少は気にしているのかもしれない。世論は、圧倒的に、いじめ問題への対策、いじめ自殺問題の解決を求めており、そこに関心を強く抱いている。これは、義家委員が語ったように、一歩を踏み出したにすぎない。解決が必要だと教育改革国民会議などが強調していたにも関わらず、解決の方向に向かわなかったいじめ問題に真正面から取り組まないといけない。日本では、いじめ被害者は自殺するケースが多いが、アメリカの学校での銃乱射事件の犯人の多くが、いじめ被害者だという話もある。

教育再生会議:「いじめ問題への緊急提言」を決定

第3回教育再生会議にのぞむ(左から)安倍晋三首相、野依良治座長、池田守男座長代理、山谷えり子首相補佐官、義家弘介室長=首相官邸で29日午前9時3分、藤井太郎写す 政府の教育再生会議(野依良治座長)は29日午前、首相官邸で第3回全体会合を開き「いじめ問題への緊急提言」を決定、公表した。相次ぐいじめによる自殺を受け、いじめをした子どもに対する指導、懲戒の基準を明確にし、学校に対し「毅然とした対応」を求めた・「いじめを見て見ぬふりをする者も加害者」との指導を学校が子どもに徹底するよう促した。また、いじめに加担するだけでなく、放置・助長した教員も懲戒処分の対象とすることを明記。「いじめを解決するのがいい学校」との認識を強調し、学校による隠ぺいの排除を図った。

 再生会議は10月25日に「いじめ防止の緊急アピール」を発表している。その後も同様の事件が続き、重視姿勢を示す必要があると判断した。

 提言ではまず「いじめは反社会的な行為として絶対許されない」との指導を学校が子どもに徹底するよう要請した。いじめた子どもへの懲戒は出席停止を念頭に置いたもの。明記することも検討したが、「事態を複雑化しかねない」(伊吹文明文部科学相)との慎重論も強く、見送られた。

 教員への処分については、児童・生徒をいじめた場合の処分を規定した東京都教委などを例に、全国の教委に同様の規定の導入を呼びかけた。

 また、学校や教育委員会、保護者が連携していじめ撲滅に全力を挙げることや、教委が学校支援のためのサポートチームを結成するよう求めた。いじめを理由とする転校が認められていることを生徒や保護者にしっかり伝えるよう、注意を喚起。「いじめの解決を図るには、家庭の責任も重大」と言及した。

 再生会議は、緊急提言を文科省や都道府県教委を通じて学校、保護者に呼びかける。安倍晋三首相は会合であいさつし、提言について「即実行できるものは実行させていただく」と述べ、いじめ自殺対策を急ぐ考えを示した。池田守男座長代理(資生堂相談役)は終了後の記者会見で、緊急提言を「社会全体に対する再生会議の(いじめ撲滅の)決意表明だ」と強調。出席停止の明記には委員の意見が分かれたことを明らかにした上で、いじめた子どもへの懲戒基準に「(出席停止も)一つの選択肢としてあっていい」との認識を示した。【平元英治】

 ◆政府の教育再生会議が29日まとめた緊急提言は次の通り。

 「いじめ問題への緊急提言」

 すべての子どもにとって学校は安心、安全で楽しい場所でなければなりません。保護者にとっても、大切な子どもを預ける学校で、子どもの心身が守られ、笑顔で子どもが学校から帰宅することが、何より重要なことです。学校でいじめが起こらないようにすること、いじめが起こった場合に速やかに解消することの第1次的責任は校長、教頭、教員にあります。さらに、各家庭や地域の一人一人が当事者意識を持ち、いじめを解決していく環境を整える責任を負っています。教育再生会議有識者委員一同は、いじめを生む素地をつくらず、いじめを受け、苦しんでいる子どもを救い、さらに、いじめによって子どもが命を絶つという痛ましい事件を何としても食い止めるため、学校のみに任せず、教育委員会の関係者、保護者、地域を含むすべての人々が「社会総がかり」で早急に取り組む必要があると考え、美しい国づくりのために、緊急に以下のことを提言します。

(1)学校は、子どもに対し、いじめは反社会的な行為として絶対許されないことであり、かつ、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する。<学校に、いじめを訴えやすい場所や仕組みを設けるなどの工夫を><徹底的に調査を行い、いじめを絶対に許さない姿勢を学校全体に示す>

(2)学校は、問題を起こす子どもに対して、指導、懲戒の基準を明確にし、毅然とした対応をとる。<例えば、社会奉仕、個別指導、別教室での教育など、規律を確保するため校内で全教員が一致した対応をとる>

(3)教員は、いじめられている子どもには、守ってくれる人、その子を必要としている人が必ずいるとの指導を徹底する。日ごろから、家庭・地域と連携して、子どもを見守り、子どもと触れ合い、子どもに声をかけ、どんな小さなサインも見逃さないようコミュニケーションを図る。いじめ発生時には、子ども、保護者に、学校がとる解決策を伝える。いじめの問題解決に全力で取り組む中、子どもや保護者が希望する場合には、いじめを理由とする転校制度が認められることも周知する。

(4)教育委員会は、いじめにかかわったり、いじめを放置・助長した教員に、懲戒処分を適用する。<東京都、神奈川県にならい、全国の教育委員会で検討し、教員の責任を明確に>

(5)学校は、いじめ問題があった場合、事態に応じ、個々の教員のみに委ねるのではなく、校長、教頭、生徒指導担当教員、養護教諭などでチームを作り、学校として解決に当たる。生徒間での話し合いも実施する。教員もクラス・マネジメントを見直し、一人一人の子どもとの人間関係を築き直す。教育委員会も、いじめ解決のサポートチームを結成し、学校を支援する。教育委員会は、学校をサポートするスキルを高める。

(6)学校は、いじめがあった場合、それを隠すことなく、いじめを受けている当事者のプライバシーや二次被害の防止に配慮しつつ、必ず、学校評議員、学校運営協議会、保護者に報告し、家庭や地域と一体となって、解決に取り組む。学校と保護者との信頼が重要である。また、問題は小さなうち(泣いていたり、寂しそうにしていたり、けんかをしていたりなど)に芽を摘み、悪化するのを未然に防ぐ。<いじめが発生するのは悪い学校ではない。いじめを解決するのがいい学校との認識を徹底する。いじめやクラス・マネジメントへの取り組みを学校評価、教員評価にも盛り込む>

(7)いじめを生まない素地をつくり、いじめの解決を図るには、家庭の責任も重大である。保護者は、子どもにしっかりと向き合わなければならない。日々の生活の中で、ほめる、励ます、しかるなど親としての責任を果たす。おじいちゃんやおばあちゃん、地域の人たちも子どもに声をかけ、子どもの表情や変化を見逃さず、気付いた点を学校に知らせるなどサポートを積極的に行う。子供たちには「いじめはいけない」「いじめに負けない」というメッセージを伝えよう。

(8)いじめ問題については、一過性の対応で終わらせず、教育再生会議としてもさらに真剣に取り組むとともに政府が一丸となって取り組む。(『毎日新聞』 2006年11月29日)

 教育再生会議:いじめ緊急提言 自殺連鎖は止められるのか

 教育再生会議を終え、記者の質問に答える義家弘介室長=首相官邸で29日午前11時7分、藤井太郎写す 続発するいじめ事件を受け、対策を検討していた政府の教育再生会議は、いじめをした児童・生徒に対して、学校が「毅然とした対応をとる」ことを柱の一つとした緊急提言をまとめた。提言には、いじめに加担するなどした教員の懲戒処分もある。緊急提言をどう受け止めるのか。いじめ自殺の連鎖は止められるのか。【高山純二、佐藤敬一、吉永磨美】

 緊急提言に記された「毅然とした対応」は、「出席停止」を念頭に置き、例として「社会奉仕、個別指導、別教室での授業」などを示した。

 会議後、義家弘介・同会議担当室長は「出席停止という文言は提言に含まれていないが、別教室での授業も出席停止と同じだ。(指導、懲戒の)基準を国が明確にし、学校現場を応援していかないといけない」と説明した。

 総合学習の取り組みで全国に知られる東京都内の区立小学校の善元幸夫教諭は「(出席停止は)教育の場から子どもの学ぶ権利を奪う措置であり、たやすく抜いてはならない伝家の宝刀だ。実際、いじめに適用するのは非常に困難で、また、本質的な解決にはならない」と否定的な見方を示す。

 都内の別の小学校教諭も「子どもが教室に戻ってきた後はどうするのか。一時的に切り捨てても、さらに悪くなるだけかもしれない」と危惧(きぐ)する。

 一方、いじめに関する著書がある作家で弁護士の中嶋博行さんは「これまではいじめられた側が不登校になったり、転校を余儀なくされてきたが、本末転倒な話だ。目に見える形で処分すれば、いじめグループは崩壊する可能性が高い」と語る。

 首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」のメンバーを務めた藤田英典・国際基督教大教授(教育社会学)は「00年の国民会議の提言などを受け、出席停止や指導力不足教員の処分は制度上は既に実施可能となっている」と言う。

 そのうえで、藤田教授は、教員の懲戒処分に関し、「本当にひどい場合はやむを得ないが、適切な対応を取れなかったケースでの厳しい処分はあり得ない。どのような場合にどう処分するかの認定や判断は難しい。懲戒処分が不必要だとは言わないが、それ以前にやるべきことがあるはずだ」と語った。

 ◇「毅然とした対応」10年以上繰り返された提唱

 教育再生会議の緊急提言は、いじめた子への学校のとるべき姿勢として、「毅然(きぜん)とした対応」を掲げた。最も厳しい処置としては「出席停止」が該当する。会議終了後、池田守男座長代理は会見し、出席停止の文言を入れるかで委員間で激論があったことを明かした。

 「毅然とした対応」を学校に求めるのはこれが初めてではない。愛知県西尾市で94年11月起きた大河内清輝君いじめ自殺を受けて、旧文部省の「いじめ対策緊急会議」は95年3月、出席停止措置など厳しい対応が必要とする報告書をまとめた。これまで、文科省は国会答弁で、出席停止をいじめ対策として公言してきたが、実際の学校現場では、ほとんど適用されて来なかった。

 そもそも小中学生には義務教育が保障されている。結局、提言では出席停止の文言を避け、別教室授業や社会奉仕活動への参加を「毅然対応策」に掲げた。

 だが、さまざまな態様のあるいじめの中で、より一般的で深刻化しているとされる集団での無視、嫌がらせなどは、いじめる側といじめられる側がしばしば逆転する。こうした場合、別教室授業も含め、やはり強権的な対策を取るのは困難だろう。

 また、今回、再生会議が打ち出した「いじめを放置・助長した教師の懲戒処分」も、どんな基準で、どう判断するか、極めてデリケートな問題だ。いじめ解決ではなく、学校あげての犯人探しにならないだろうか。

 このほかにも、いじめへの取り組みを学校・教員評価に反映させる--など今回の提言には新たな部分もある。一方、いじめは絶対許されない▽傍観する行為も許されない▽相談体制の充実▽家庭の責任--など95年の報告書と重なる部分も多い。10年たって同じことを言わざるを得ないことに、いじめ対策の難しさが現れている。【竹中拓実】(『毎日新聞』 2006年11月29日)

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教育問題もろもろ

 すでに触れたように、いじめ問題での教育再生会議の緊急提言がほぼまとまったようだ。数日後には、総会にかけて、正式な提言となるようだ。

 この(2)は、とりあえず、いじめられた側を学校外に避難させるのではなく、いじめた側をいったん出席停止にした上で、もどせるようにしてからもどすということである。それは緊急措置以上ではないし、そうしなければならない。いじめた側といじめられた側が入れ替わったりするなど、複雑な問題はあるが、被害者側が学校を離れなければならないというのは、あまりにも不条理である。被害者が堂々と通学できるようにするのは当然である。これは、そのための緊急避難的措置であって、それによって、学校がいじめれらた側に立っていることを示すことができる方策である。しかし、緊急措置はあくまでもいじめられた側に不測の事態が起きないようにするための緊急措置であって、もっと大事なのは、いじめた側の病理を解明し、治して、いじめをなくしていくことである。出席停止をしなくても、いじめた側の子どものいじめをさせないようにできるなら、べつにそれでいいのである。これは、これまであった制度の運用の問題であって、新制度ではなく、緊急にできることである。今の制度でも、こういう運用の改善で対処できる余地があるのだから、まずはそれを実行していくのが先である。その上で、いじめ問題解決のための教育的諸方策を練り上げ、実行していなければならない。
 
 そういうことをやらないまま、一緒に教育基本法を改定するような大きな変革はすべきではない。これは「ゆとり教育」導入が、現場にもたらした混乱を反省するなら、なおさらである。へたなことをするとかえって現場を攪乱させてしまうからである。緊急対策の効果をできるだけ正確に確認しなければならないときに、基本的な基準が変化すると、混乱しかねないのである。
 
 教員免許更新制については、競争導入論者からも、そもそも教員免許はいらないという極論すら出ているぐらいである。教員免許更新制を唯一導入しているアメリカでは、地方で、教員確保が困難だった時代に、教員の学力を見るためのものであって、学力的に問題の少ない日本の教員免許制がある国では、必要のないものである。すでに、教員研修制度があるし、それを改善すればすむ話である。新制度導入にかかる費用や労力を考えると、あまり合理性のない制度である。バウチャー制度については、すでに、イギリスの例で明らかなように、学校間・地域間格差が拡大・固定化すること、私学が上層・中層の一部、公立が中・下層で、さらにそれが地域別になることがすでにわかっている。

 また、いじめの発生件数について、調査をやり直したところ、これまで公表されていた件数をはるかに上回る件数になったという。いじめの文科省調査の定義は、「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が苦痛に感じているもの」などである。ただ、文科省は「個々のいじめの当否は、児童・生徒の立場に立って行う」などの留意点も示していたが、この点を重視してこなかったようだ。学校側のいじめ認識と生徒側のいじめ認識が食い違っていることについては、いくつもの証言が出ていて、こういうことも、いじめ問題に対する学校への生徒側の不信を買う理由になっていたのだろう。
 
 そして、教育再生会議についても、いろいろと問題点を指摘する声があがっている。ある分科会で、「主要国の教育改革の動向」として、米英の教育改革に関する資料だけが配布されたという。それに対して、「当の委員から「なぜ英国や米国流ばかり参考にするのか」「これから話し合う資料が全く提示されていない。どう考えているのか」と異論が続出した」という。また、「安倍首相や山谷えり子首相補佐官がサッチャー元英首相の教育改革を模範としているのは知られている。一方、高水準の学力を維持している北欧諸国の例は示されず、議論の方向性に「結論ありき」の雰囲気がにじむ。委員は「高い教育水準を持つ日本が英国をまねる必要はない」と内部批判をした」という。
 
 サッチャー教育改革は失敗に終わり、その後始末と修正にブレア労働党が苦労していて、それでもまだダメージから回復していない。学力テストでは、一部私学が常に上位を占めていて、格差はなくなっていない。それに対して、日本では、まだ地方などの公立がふんばっている。学力水準も、日本は比較的に高く、イギリスのようには低下していない。いじめ問題でも、イギリスは統計上は、日本の何倍も発生している。そんな国の過去のサッチャー政権の教育政策をどうして、今、早急に導入しなければならないのかわからない。
 
 教育再生会議や安倍総理などと人々の間の教育をめぐる意識ギャップがあることは明らかだが、それはいじめ問題への対応にも現れている。28日の『毎日新聞』の「いじめ原因世論調査」結果によると、「しつけに問題がある」とする回答が、54%。いじめをなくすためには、「家庭での会話を増やす」42%、「地域で子どもを育てる環境をつくる」22%が上位を占めた。それに対して、「教師の指導力を強化する」10%、「少人数学級を導入する」9%、「いじめた子に厳しい罰を与える」7%となっている。『毎日』は、「教育制度や教師の指導よりもいじめる側の保護者のしつけに問題があると答えた人が5割を超えた。いじめをなくすために家庭・地域の役割を重視する回答も計6割を超え、学校の役割や教育改革に限界を感じているとみられる回答内容になった」と分析している。なお、「教育基本法改正案には、新たに家庭教育の項目が盛り込まれているが、いじめをなくすには64%が「役立たない」と答えた」。
 
 地域・家庭の教育力をつくるためには、これらそのものの再建が必要であり、それには、まず、家庭や地域に働き手を返す必要がある。労働時間の短縮や労働負担の軽減である。ところが、自民党などではそれと逆行する「ホワイトカラー・エグゼンプション」導入を図ろうとしている。アメリカでは、週70時間労働のホワイトカラーが増えているというが、まず、そうした非人間的な競争を導入する意味がわからない。家庭教育は、妻に任せきりであり、子どもと会話する時間などほとんどなく、もちろん地域活動などに参加することもない。家はただのねぐらで、地域は単なる通過点にすぎない。働く機械である。その姿には、ゾッとする。そうしたことを求めていない、人間的な感情がしっかりと多くの人にあることにほっとする。機械のような非人間的な教育改革論者たちは、もっと自らの奥深くにある根源的感情や人々とのつながりをじっくりと見つめ直すがいい。

 いじめ加担教師の懲戒厳格化も 教育再生会議緊急提言へ

 安倍首相直属の「教育再生会議」(野依良治座長)は今週中にいじめ対策の緊急提言を出す。(1)いじめに加担したか、故意に見過ごした教員への懲戒制度を現在より幅広く適用する(2)いじめた側の子どもの出席停止を積極的に行う(3)問題が起きた学校を支援するチームの派遣の仕組みをつくる――などが柱となる方向だ。最終的に10項目程度の提言になる予定で、今週、断続的に開かれる教育再生会議の三つの分科会で詰める。

 防止策では、各学校にスクールカウンセラーなど専門職を配置したり、相談窓口を置いたりして、いじめが起こったり、陰湿化する前に芽をつみ取る方策を提言する方向だ。

 いじめが起きた後の対応では、東京都が導入した、いじめに加担した教員への免職を含む懲戒制度を全国的に広げることを提案。学校教育法にある「出席停止」の規定についても、「いじめた子」に対しては実際にはほとんど適用されていないため、積極的な活用を求める方向で調整している。

 また、有識者メンバーの陰山英男・立命館小副校長らの主張に沿い、文部科学省や教育委員会から事実関係の調査、親への説明や報道対応などで、問題が起きた学校を支援するチームを派遣する仕組みも提言する考えだ。

 提言作成の過程で、一部の有識者メンバーから、体罰の一部容認論も出されたが、現段階では提言に盛り込まない方向だ。

 教育再生会議:高まる「不透明」批判 首相肝いりも非公開

移転した「教育再生会議担当室」の看板をかける山谷えり子首相補佐官(右)と義家弘介担当室長(中央)ら=東京都港区で13日午後4時、平元英治写す いじめ自殺や高校の履修単位不足など教育問題に国民の注目が集まる中、安倍晋三首相肝いりの「教育再生会議」の初会合から1カ月が過ぎた。これまでに総会2回と第1分科会(学校再生)、第2分科会(規範意識・家族・地域教育再生)が各1回開催され、27日は第3分科会(教育再生)も東京都内でようやく開かれた。議論にスピード感があるとはいえず、非公開のまま進められる会議のあり方に「不透明」との批判が高まっている。【高山純二、平元英治、佐藤敬一】

■非公開が原則

 教育再生会議は、運営委員会で議題などを確認した上、分科会で具体的な議論を進めるが、非公開が原則で、運営委は開催日時・場所さえ非公表だ。分科会、総会の内容は最低1週間以内に議事要旨、1カ月以内に議事録が公開される。

 運営委は中間報告(来年1月予定)に反映させる7項目の「基本的な考え方」を決定したが、公式発表はしていない。27日の第3分科会終了後の会見でも、川勝平太委員(国際日本文化研究センター教授)の試案が「完成稿でない」と公表されず、「議論の内容が分からない」など記者団から批判を浴びた。

■なぜ英米だけ?

 同日の分科会では「主要国の教育改革の動向」として、米英の教育改革に関する資料が配布された。しかし、当の委員から「なぜ英国や米国流ばかり参考にするのか」「これから話し合う資料が全く提示されていない。どう考えているのか」と異論が続出した。

 安倍首相や山谷えり子首相補佐官がサッチャー元英首相の教育改革を模範としているのは知られている。一方、高水準の学力を維持している北欧諸国の例は示されず、議論の方向性に「結論ありき」の雰囲気がにじむ。委員は「高い教育水準を持つ日本が英国をまねる必要はない」と内部批判をした。

■記者懇で説明?

 山谷補佐官は27日の会見で、「(記者団が)丁寧な説明をしてほしいと思っていると感じた。記者懇(談会)など、もう少しよい形で理解を深めるような形も検討させていただきたい」と述べ、記者団に議論の過程などを公表することに含みを持たせた。しかし、一般市民や教職員への公開には触れなかった。

■議事録すぐ公開を

 NPO法人「情報公開クリアリングハウス」の三木由希子室長の話 会議後の記者会見は伝えたいことだけを伝え、聞かれたことに答えるだけのもので、それで足りるというのはおかしい。また、会議後の議事録ではリアルタイムで議論の過程が分からない。途中経過が伝えられると混乱するというのは国民の理解力に疑問を呈しているのと同じことだ。教育は私たちの生活にかかわる問題であり、きちんと公開すべきだ。(毎日新聞 2006年11月28日) 

 脱いじめ宣言:いじめ、昨年度比2.3倍に「柔軟解釈で急増」--大阪府教委緊急調査
 ◇1804件

 ◇国の定義って何ですか

 大阪府教委は27日、府内の公立小中学校(大阪、堺両市を除く)、府立高校など1109校を対象に実施したいじめに関する緊急実態調査の結果を発表した。件数は今年4~10月末の7カ月間で、昨年度の2・3倍に当たる1804件に上っている。府教委は「国の定義を柔軟に適用したため急増した」と説明。他の自治体教委の調査でも同様の傾向が出ており、いじめの定義や調査方法が実態を反映していないことが浮き彫りになった。【大場弘行】

 府教委によると、内訳は、▽小学校728件(昨年度143件)▽中学校813件(同547件)▽高校261件(同90件)▽盲・聾(ろう)・養護2件(同3件)。約6割の657校(同327校)でいじめがあった。内容は「冷やかし・からかい」が49・6%で最も多く、「言葉での脅し」「暴力」「仲間外れ」が続いた。転校・退学した児童、生徒が36人いることも判明した。

 いじめの定義について文部科学省は「自分より弱い者に対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が苦痛に感じているもの」などと規定。これに基づき毎年全国調査を実施しており、府教委は昨年度783件と報告した。

 文科省は「個々のいじめの当否は、児童・生徒の立場に立って行う」などの留意点も示していたが、これまで重視されていなかったとみられ、99~05年度の7年間で、いじめ自殺の報告は1件もなかった。

 府教委は今回の調査で、この留意点を重視するよう通知。今月、富田林市で女子中学生が自殺したケースが含まれていなかったことも受けて、調査期間を延長して精査した。その結果、いじめの兆候とみられる単発的なケースなども積極的に報告された。

 府教委は「今回の結果で判明したいじめは、すべて支援すべきものと認識している」と説明。近く各市町村教委に聞き取り調査を行う。また、「子ども支援チーム」を設置したほか、いじめ防止に役立つ教育プログラム作成にも着手する。

 ◇各地でも軒並み

 文科省基準より幅広くいじめをとらえた独自調査で、件数が大幅に増加するケースは全国の教育委員会で相次いでいる。

 三重県教委の調査では、10月分の小中学校からのいじめ報告が計199件に上り、4~9月の計151件を大幅に上回った。福岡市の緊急点検でも、10月だけで91件が確認され、過去5年で最悪だった01年の年間54件を大きく上回った。

 また、青森県五所川原市教委も市立の小中学校で7月22日~10月24日に調査。独自基準では文科省基準の3倍近い計68件に達した。「子ども自身が『いじめ』と認識したもの」などの“緩和基準”で今月調査した教委では、長野県松本市47件(文科省基準2件)▽東京都府中市29件(同1件)など、軒並み文科省基準をもとに報告された件数を上回った。(毎日新聞 2006年11月28日) 

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『朝日』社説「中南米「選挙の年」の教訓」によせて

 11月26日付『朝日』社説「中南米「選挙の年」の教訓」は、このところ続いている中南米での左派・中道左派政権の誕生について書いている。

 今年は、中南米諸国では、チリを皮切りに、コスタリカ、ペルー、コロンビア、メキシコ、ブラジル、ニカラグアと大統領選挙が続き、12月3日のベネズエラで終わる。アルゼンチン、ウルグアイ、ボリビア、ブラジル、キューバが左派政権で、右派政権は、メキシコとコロンビアなど少数である。ベネズエラでも、現職のチャベス大統領の再選が確実と言われている。メキシコの先の選挙では、票差がわずかだったために、敗れた左派候補陣営は、不正選挙疑惑を追及している。さらに、新政権は、オアハカ住民の決起に対して、武力弾圧に乗り出している。メキシコは、北部と南部の分裂が拡大しており、右派政権は、北部を代表しているにすぎない。

 こうした左派政権続出の中南米で、「左派といっても、冷戦時代のように社会主義を目指す政権は少ない」と社説はいう。確かに、社会主義を目指している政権は少ない。「中南米に共通する悩みは、市場経済を重視する「新自由主義」で貧富の差が拡大したり、外資導入への反発から排外的な経済ナショナリズムが強まったりしていることだ」というのもそのとおりだろう。90年代、中南米の右派政権の多くは、新自由主義路線をとって、貧富の格差が拡大したり、外資が主要な産業をコントロールする事態に陥った。そのことが、今の左派政権続出の背景にある。

 それに対して、『朝日』は、「この地域の繁栄のカギを握るのは、まず農村の安定だろう。競争力の弱い農業を抱えるメキシコやペルー、ボリビアなどでは、農村の貧困を背景に急進的な政治闘争が強まり、都市部では流民のスラムが深刻な社会問題になっている」という。確かに、この地域の農村は、多国籍資本に従属させられている。市場支配力を握っているのは、多国籍農業資本(アグリビジネス)である。農産物の巨大消費市場である欧米諸国は、農業補助金、輸出奨励政策などで、国内農業の保護を行っていて、第三世界の農産物を自由に流通させないようにしている。EUの場合には、さらに環境・安全問題に絡めて、農産物の質に高い制限を設けている。それだけの農産物の質を高めるためには、農業投資が多く必要になるが、そんな余裕のある第三世界農民は少ない。EUでは、農産物輸出国に、EUの課した基準が守られているかどうか、産地に検査官を派遣して、厳しくチェックしている。

 「競争力の弱い農業を抱えるメキシコやペルー、ボリビアなどでは、農村の貧困を背景に急進的な政治闘争が強まり、都市部では流民のスラムが深刻な社会問題になっている」。 また、「改革の一つのモデルはブラジルだ。外資導入で工業製品の輸出を伸ばす一方で、貧困層には補助金を出して、不満をやわらげている」のだが、この場合も、大規模産業は、外資に握られていて、政策選択の幅がかれらの意向によって限られている。

 そして、『朝日』は、「貿易自由化の押しつけと映る米州自由貿易地域(FTAA)構想、農村の実態とかけ離れたコカ栽培の撲滅作戦、キューバに対する過度な禁輸措置など、米国の強引な政策が地域からの反発を招いているのは明らかだ」とアメリカの中南米政策を批判する。確かに、アメリカは、中東対策で手一杯で、中南米を忘れていたような感じである。90年代にこの地域に新自由主義を押しつけたのは、アメリカだったのだが。

 「「選挙の年」の教訓は、農村の実情と市場経済とを調和させる政策の重要性だ。そして、米国には従来のような押しつけではなく、地域の安定や繁栄につながる現実的な政策へ転換を求めたい」というのが『朝日』の教訓だ。「農村の実情と市場経済を調和させる」のだそうだ。『朝日』は、目の前の日本の農村の実情と市場経済の関係を教訓にできたはずだが、そうしない。日本では、市場経済と農村の実情は、調和できたのだろうか? できたと答えたら、日本の農民から失笑を買うだろう。欧米は、農業対策にいくらつぎ込んでいると思っているのか? 多額の予算を使ってまで、域内農業を保護しているのは、世界市場の支配権を握り続けるためであり、また、資本主義体制を維持し続けるためである。古典派経済学が、収穫逓減の法則による資本制経済崩壊におびえ続けていたことを思い起こすといい。かれらが、自由市場経済を野放しにしていおけば、やがて資本主義自体が崩壊してしまうという理論的結論に達してから、市場外に、幾重にもセーフティーネットを張らなければ、大変なことになるとして、中には、社会主義者まで出たことを。

 最近の新自由主義経済学者の中には、収穫逓減の法則はないと否定する者もいるようだ。それなら、完全市場経済化をやってみるがいい。実験はしたが、みんな途中でそれを放棄したではないか。ニュージーランドも、イギリスも、そして中南米諸国も。日本は、一周遅れで、市場経済の進歩性などということを言っているが、これこそ「井の中の蛙 大海を知らず」である。それとも、『朝日』は、中南米は遅れていて、こういう過去の政策で間に合うとでもいうのだろうか。メキシコでは、サパティスタが、共同体復権と協同組合経済の建設を進めている。ベネズエラのチャベス政権は、豊富な石油からの収入を貧困対策にあてている。ボリビアの新大統領は、コカ栽培を主に行っている先住民共同体を破壊するアメリカのコカ撲滅策に抵抗を続けている。要するに、これらは、農村共同体を破壊する市場経済化ではなく、共同体を再生し、共同労働・共同消費の組織化によって、農村の建て直しをしようとしているのである。それが、本来の共産主義である(共同体主義、コミュニズム)。

 それに対して、『朝日』は、リベラルであり左翼であっても、資本主義内左派・改良派であって、反共ではないだろうが、非共産主義なのである。そのことは、西尾幹二氏のような保守思想家でもわかる人にはわかる。

 11月24日「西尾幹二のインターネット日録」「日本の良さ 競争主義によって崩壊する」 は、冒頭で、「日本では「保守」といえば「反共」と思われがちだが、本来は違う」と述べている。

 氏の考える保守とは、「簡単に言えば「昨日までの暮らしを変えたくない」という「暮らしへの守り」のようなものだ。「保守的態度」というものはあるが、「保守主義」というものはない。「保守思想」というものがあっては逆にいけない。思想になった途端、保守は「反動」になる」という。そして、「公平の観念とマーケット至上主義は、完全に逆の位置にある。日本が地域の文化を大事にするのは欧州と似ている。米国のような極端な平等主義、観念的な競争主義がないのも欧州と似ていた。米国は保守ではない」という。この基準からすれば、「日本の保守はこの十数年で崩れ、今後はもっと崩れてしまう恐れがある。私たちの文化、暮らし、歴史を守ることと「アメリカニズム」は両立しないのだが、安倍首相は分かっていないのではないか」ということになる。

 日本の保守化という人がいるが、それは間違いで、実は、ここ十数年で保守は崩れていっているというのである。確かに、例えば、日本教育再生機構のHPには、「改革」の文字が踊っている。「新しい歴史教科書をつくる会」もまた、西尾氏が止められなかったほど、変化を強く打ち出している。経済界はこぞって、「ぶっ壊す」ことに夢中である。どこが保守なのか疑問である。むしろ、戦後60年のシステムを守れと言っている革新側の方が、保守的に見える。

 「改革病」は、左右を問わず感染していて、その点では『朝日』だろうと『産経』だろうと変わりがない。アメリカに対して、『朝日』がつきつけているのは、アメリカのリベラル派・アメリカ民主党が、共和党政権につきつけている要求のレベルとたいして変わらない。しかし、中南米の深部で起きていることは、はるかに根源的で、共産主義的なものであることを、メキシコのサパティスタの存在が示していることを、見逃してはならない。

 なお、西尾氏は、与党政府の教育基本法改「正」に反対だそうだ。理由は、良いことばかりが書かれていて、悪が書かれていないからだという氏独特の価値観によるものだ。 

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教育再生会議いじめ対策緊急提言によせて

 なんでこの程度のことを決めるのに、こんなに時間がかかるのか、と思うが、しかし、とにかく、具体的な対策が開始されたという点では、一歩前進と評価できよう。

 小渕政権時代に発足した教育改革国民会議は、2000年の提言で、いじめが深刻化していると述べていて、それからもう6年もたつというのに、いじめ対策があまり進んでいないことが、この間明らかになっているのだから、早く対策を講じる必要がある。いじめは、ヨーロッパ諸国では、日本よりはるかに認知件数が多く、イギリスでは、いじめ対策のための法律まで制定されているのだから、それら諸国の事例を参考にすることもできよう。ただ、日本の場合、学校がいじめをなかなか認めず、統計データが過小になっている可能性が高い。
 
 一学級あたり年に複数回のいじめ事件が発生しているので、年に全体で数十万から百万単位でいじめがあるという人もいる。だとすれば、教育改革国民会議が出した提言で、いじめが深刻化しているとした認識は、正確であったことになる。問題は、その後の文科省・学校・教育委員会の対策が、なぜ強力に取られなかったか。逆に、データが、いじめ問題解決の傾向を示すという現実と逆のベクトルを向いていたのか、である。この問題の解明が急がれる。
 
 教育改革論議は、周知の通り、この間、「ゆとり教育」批判、学力主義の高まりという形で、論じられてきた。学校間競争などの競争の導入、全国学力テスト復活、学校週休五日制の見直し、教員評価での能力主義・成果主義の導入などである。それと、国家の教育介入を強く打ち出し、「愛国心」教育をうたった教育基本法改定問題などがある。しかし、今、生命がかかる深刻な問題として、いじめ自殺の連鎖が続いている中で、教育基本法がどうしたのこうしたのとのんきな議論をしている場合ではない。これこそ、総理のリーダーシップが発揮されなければならない事態であり、それを他人事のように、文科大臣に丸投げしているようでは、総理失格である。議会は、ただちに教育基本法論議を中止して、緊急にいじめ対策に集中すべきである。
 
 ここは、社会正義の復活に向かうか否かの重大な岐路である。財界の進める能力中心で、モラル崩壊の社会に向かうのか、それとも「ゆとり教育」路線に示された社会再生に向かうのかの選択肢が問われているのである。現行の「ゆとり教育」が、その立派な理念とはかけ離れている実態は当然否定されなければならないが、言葉でそこに示されている共同のもの、社会的なものの重視という社会理念まで、捨て去ることはない。開かれたコミュニティーを形成し、そこで、子どもたちを守らなければならないし、いじめを悪として許さない共同規範を実現していく必要があるからである。
 
 本日の『毎日新聞』では、いじめ問題について、三人の人のいじめ解決への提言が載っている。作家立松和平氏は、「いじめはつまらないと言いつづけよう 標的になった子を絶対に孤立させるな」として、いじめを社会問題し、いじめなどつまらないことだといいつづけるべき」だと述べている。さらに、氏は、いじめられた子どもを孤立させないために、大人が手を結ぶことが必要だと述べている。作家の大道玉貫氏は、「一人では私に向かってこれない連中 考えていたら自分が面白くなってきた」と自らのいじめ体験をもとに、いじめ対処法を述べている。「人間として生まれてきたんだから、私だけが特別なんじゃなく、仲間というか同種の人間たちがこの世のどこかにいると期待した。また、相手側と同種にならないために、仕返しはしない、別の誰かをいじめたりしない、自分で終わらす、と決めた」という。確かに自身が言うとおり、「かっこいいなあ」。なかなかこうかっこよくいかないのだが、こういう対処の仕方があるということを知るだけでも、ためになる。
 
 精神科医の斉藤環氏は、「親の虐待など被虐体験が別のいじめに いじめはしばしば大人の営みの戯画だ」と、いじめ問題の根の深さや複雑さを書いている。この間の、いじめ報道の中で、いじめられた側のことはいろいろと取り上げられるが、いじめた側のことはあまり取り上げられない。氏は、これまで見過ごされてきた論点として「一つはいじめ被害者の長期的なケアの問題、も一つは加害者への具体的な対応プログラム整備という問題」をあげる。加害者が、親の虐待の被害者やいじめ被害者であったという場合があって、単に加害側を罰するだけでは問題は解決しないという。そこで、氏は、「いじめ行為に対しては、毅然とした態度とルール、また時には罰をもってのぞむ姿勢が必要だ。しかしその際、いじめの加害者に対しても家族を巻き込んで話し合いを重ね、彼らの心理的背景や家庭環境への配慮も十分になされなければならない。配慮ある処罰によって加害者の自尊心を回復することこそが、真のいじめ再発予防となるであろう」という。加害者が再び加害者にならないようにするというのが、必要であるのは、そのとおりである。それから、氏が、大人の世界でのいじめが、子どもの世界に反射しているのもなくさねばならないという。「陰口、差別、えこひいき、レッテル張り、正論めいた誹謗中傷などは、いずれもいじめに通ずる心理を底に秘めている。そこには攻撃性の発散と、他者の排除にもとづく連帯があるからだ。こうした「快感」と無縁な大人はほとんどいない」。だから、いじめは実は大人の問題だというのである。なるほど。
 
 立松氏が言うとおり、いじめを社会問題化して、そのつまらなさを知らしむることは確かに大切だ。それが社会正義というものだ。そこに、それを支える共同体(ただし、すでに過去の共同体は、明治以来の近代化で多く壊れてしまったから、新しい共同体であり、未来の共同体である)の再生が必要である。
 
 いじめた生徒は出席停止に…教育再生会議が緊急提言へ

 学校でいじめによる自殺が相次いでいる事態を受け、安倍首相直属の教育再生会議(野依良治座長)は25日、いじめ問題に対する緊急提言を来週にもまとめ、公表する方針を固めた。

 都道府県や市町村の教育委員会に対し、〈1〉いじめた児童・生徒に出席停止など厳しい対応を取る〈2〉深刻ないじめ問題が起きた場合に備え、緊急に学校を支援する態勢をつくる――ことなどを求める。

 同会議は来年1月に中間報告を作成する予定だが、自殺問題を重く見て、法改正などが不要の緊急対策を早急に打ち出すことにした。文部科学省も速やかに対策を講じる考えだ。

 学校教育法では、「児童の性行不良で、他の児童の教育に妨げがある時」は、市町村教委は保護者に対し、その児童の出席停止を命じることができると定めている。具体例として、傷害、心身の苦痛、財産上の損失などを与える場合を挙げている。(『読売新聞』11月25日)

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民主党長島議員の駄論を破す

 民主党内の獅子身中の虫、長島衆院議員は、沖縄県知事選とアメリカ中間選挙の評価で、まったくおかしなことを言っている。現実を正確かつ客観的に評価できない党員が幅を利かせていたら、そんな政党は有権者の信頼をそれだけ失う。
 
 まず、沖縄県知事選挙での野党共同候補の惜敗についてである。これについて、長島議員は、反基地だけでは、有権者の気持ちをつかめないと述べている。確かに、今回の沖縄県知事選では、経済・雇用問題が有権者の最大の関心事であったことが、選挙結果を見ても、各種世論調査を見ても明らかだ。与党系の仲井真候補が、基地問題を争点から外して、中央とのパイプを強調して、経済振興を訴えて、有権者の支持を集めた。それに対して、野党候補は、観光振興による経済発展を訴えたが、支持をのばせなかった。それでは、長島議員と民主党の沖縄経済政策はどのようなものなのか? まったく、聞こえてこなかった。普天間基地県内移設賛成で、辺野古V字滑走路建設に、長島議員は賛成なのか反対なのか、そして、基地と引き替えの中央からの沖縄経済振興策に賛成なのか反対なのか? 賛成なら自民党と変わらない。与党候補仲井真氏は、V字滑走路に反対である。沖縄県は、稲嶺県政時代に、沖合移設案を出し、しかも、使用期限をつけた。仲井真氏は、稲嶺県政を基本的に継承すると言っている。長島議員は、一体どの案を支持しているのか? それとも、別に妙案を持っているのか?
 
 長島氏は、自身のブログ『飛ぶが如く』で、「沖縄で「反基地」を掲げて6派連合を組んで、左のエースといわれた糸数女史を立てて戦った。それで、敗れたのだ」ということから、いきなり、「つまり、野党共闘路線は破綻したといわねばなるまい」と結論する。驚くべき飛躍である。前記の事実と結論の間に、まだまだ検討・考察が必要なのに、それを省略している。省略は、まだあって、それは、「驚くなかれ。ほとんど(※)の市町村で野党候補は与党候補に負けている。/しかも、基地の抱える宜野湾市や嘉手納町では票差が拡大しているのだ。/もはや、現実から乖離した「反基地」一辺倒では、沖縄の民意は動かない。/それが証拠に、与党候補は無党派の4割に食い込んだ」という部分にもある。この「ほとんどの市町村で野党候補は与党候補に負けている」という部分で、当初は、「ほとんど」が「すべて」となっていて、読者からの指摘で、実際には、「41市町村のうち10市町村で野党候補が辛勝しています」ということが判明し、注を付けて、「不正確な記述をお詫びします」と訂正している。およそ4分の1、約25%が、「ほとんど」というのは、この言葉の常識的使い方としては、おかしい。しかし、長島氏は、野党統一候補の敗北を、惜敗ではあったが負けは負けだと自ら言っているのだから、辛勝でも勝ちは勝ちである。
 
 ブログ名の『飛ぶが如く』は、司馬遼太郎氏の同名小説からとられたものであろうし、長島氏が、司馬ファンであることを表しているのだろうが、この小説の主人公の西郷隆盛は、明治政府に逆らって、武装決起した故郷の薩摩の桐野らが、西郷の決起・参加を促した時、「この身はおはんらにくれてやる」と言って、勝ち負けを超えた境地から、絶望的な戦いに打って出た。勝ち負けは、天の采配というのが、西郷らの基本的考え方で、ちっぽけな勝ち負けの利害計算でこせこせと動くのは、恥であった。西南戦争でいよいよ最後の戦いになって敗戦が確実になった時、西郷は、少しもあわてず、「これでよかろう」といって、自害した。司馬氏の小説では、西郷を、包容力の極めて大きな人物として描いており、大誠意の人としても描いている。
 
 長島氏は、「かくて、私たちに残された選択肢は方向転換しかない、と思う」と、選挙と関係ない持論に強引に持っていく。民主党が、滋賀県知事選挙で、与党候補に相乗りして、社民党支持の嘉田候補に敗れたのを都合良く忘れているらしい。氏は、もともと、野党共闘路線には反対であって、中道化が持論なのである。そして、今度は、アメリカ中間選挙から、中道化が必要だという教訓を引き出そうとする。
 
 氏によれば、アメリカでの民主党大勝の原因は、民主党が中道路線を取ったからだという。それなら、ブッシュとほとんど言うことが変わらなかった中道のケリー氏が民主党の大統領候補だった2004年の大統領選挙で、なぜ敗れたのか? 説明がつかないではないか。次期大統領候補として、保守的な中道候補の名前が挙がっているというのだが、なんといってもリベラルのヒラリー氏が一番手に名前が挙がっていることは広く知られている。下院女性民主党ナンシー議長は、有名なリベラル左派である。イラクからの米軍撤退問題にしても、即時撤退論のリベラルと駐留継続論の保守の極端があって、その間の段階的撤退というのが中道だというのは、完全に中道の意味を誤用している。というのは、段階的撤退は、両方の妥協であって、両極があるから成り立つ結果なのである。この両極間の闘争過程なしに、妥協はありえない。つまり、単独の中道はあり得ないのである。最初から中道というのは存在しないのだ。長島氏は、そんなことも理解できないのか? そういうごまかしを続けてきたのが、公明党である。そういわなければ、創価学会の宗教政党たる公明党の存在意義がないからである。民主党を、与党ではなく、そういう中間政党に押しとどめるのが、中道政党論なのである。
 
 考えても見よ。中道政党だけしかないとしたら、共和党と民主党は、一つの党派だということになり、アメリカでは一党独裁が続いていたことになるではないか。見ようによってはそう言えないこともないが、それは皮相な見方である。長島氏は、政権交代で、あまりにも大きく政策変化が起きると有権者が反発すると有権者のことを心配する。ご心配なく、1970年代には、東京都をはじめ革新自治体はありふれているが、それはすべて有権者が望んだことである。石原東京都では、「日の丸君が代」強制をはじめとして、極めて大きな変化が次々と起きており、イギリスでは、サッチャー保守党政権下で、革命とまで呼ばれるほどの大変化が起きている。それでも、サッチャー政権は、長く続いた。長島氏は、何を恐れているだろうか? 保守的であろうと革新的であろうと、その時々で、大変化を求める有権者が多数存在してきたというのに、なぜ、有権者は、基本政策の大きな変化を望まないはずだなどと言うのか?
 
 他方では、長島氏は、「核論議をすべき」が多数だという世論調査を根拠に、核議論をすべきだという。非核三原則という政府の基本政策を完全否定する大変化をもたらすことは、平気で肯定する。どっちやねん! 基本政策の急激な大変化は、与党や与党を目指す政党はすべきではないのか、それともすべきなのか? 結局、長島氏は、あっちにふらふら、こっちにふらふらと考えが飛んでいって、ひとつもまとまらず、固まらず、落ち着かず、自分が混乱して、周りを混乱させているだけである。
 
 自民党は、今や、前言を翻し、解散総選挙の大義名分も投げ捨てて、来年の選挙に勝つために、なりふり構わず、郵政造反組の復党を急いでいる。民主党がそのまねをすべきだとはもちろん言わない。こういうモラル・ハザードを徹底的に追及しろということだ。大新聞で、野党共闘路線を批判したのは、『産経』『読売』だけである。この二紙が、すべてのマスコミを代表しているわけではもちろんないし、ましてや世論の多数を代表しているわけではない。これから、和歌山、来年には東京を始め、知事選が目白押しで、夏の参議院選挙まで、大きな選挙戦が続くのである。民主党は、地方自治体選挙でも、原則的に、すべて候補を立てると決めたのだから、これらの一連の戦いをすべて制する覚悟で行くしかない。幸い、地方自治体では自民・公明が与党となっていることが多い。その自公与党知事などの汚職・腐敗が次々と暴露されている。長島氏は、つまらないことをいちいち気にしていないで、今の路線で、全力を尽くせ。審議拒否を批判している者など、一握りである。それから、無党派層は、この前まで、小泉支持多数だったが、今、安倍支持は少ないことをお忘れなく。

 それから、沖縄知事選では、投票日前投票が異常に増えていて、それで、当日投票での順位がひっくり返ったのであり、それが意味するのは、創価学会と自民党支持団体が、組織的に投票日前投票を進めて、福島では固められなかった与党組織票を固めたということだ。これは、沖縄だからできたことである。そして、そもそも無党派層の数自体が少なかったのである。民主党の沖縄の組織が弱かったのである。無党派が大きく結果を左右する都市型選挙と直接比較するのは無理であることも。逆に、福岡市長選挙という都市型選挙で勝ったのだから、無党派層の変化などということを沖縄県知事選挙から引き出すのは誤りである。

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いじめ、教育基本法、その他

 先日、山形県の高校で、女子生徒が校舎から飛び降り自殺した。携帯電話の記録や母親にいじめの相談をしていたということから、いじめ自殺の可能性が高い。政府は、補正予算で、緊急のいじめ対策費を計上した。
 
 他方で、参議院の特別委員会では、戦後の見直しがどうとか愛国心がどうとかののんきな議論を続けている。それに対して、今日の『産経』は、共通性が多いのだから、与野党で修正協議をしろとのたまわっている。他方で、この社説では、これまで与党案と民主党案の共通性ばかりを強調したのに対して、両案の違いにも言及している。この違いが、意外に大きいことは、誰の目にも明らかで、民主党が、その点にこだわり続ければ、どっちにしても、与党と対決し続けるほかはない。

 しかし、『産経』は、そうは考えない。「民主党は現行の教育基本法を見直すべきだという認識では、与党と一致している。現行法には、愛国心や宗教的情操の規定がなく、親の責任も不明確だ。与党と知恵を出し合うのが責任野党のあるべき姿であろう」と責任野党なる造語で、与野党が仲むつまじく修正協議を行うことを求める。そして、「かつての社会党を彷彿(ほうふつ)とさせる「徹底抗戦」戦術を民主党が1週間で放棄したのは、もはや国民の理解を得られないと考えたためだろう」と、違う会社だというのに、『読売』と同じことを繰り返す。この「長老」は、わずか一週間ばかりの審議拒否を見ると、昔のことをついつい思い出してしまう。民主党は、「長老」に、もっと、思い出させてやるべきだったろう、社会党衆議院議員百数十人、与野党逆転かと言われた80年代末頃のことを。フランスでは、社会党ミッテラン大統領が誕生してミッテラン・ブームが起き、日本では、土井社会党のマドンナ旋風が吹いた。今、フランス社会党では大統領候補として、女性のロワイヤル氏が選ばれた。フランスでは、ミッテラン・ブームが再来しているという。

 あの頃は良かったのではないか? 郵政造反組を選挙目当ての党利党略で復党させるようなふざけたことを与党がやったら、たちまち、抗議の声が議場を埋め、有権者の怒りを代弁してくれる野党があった。それを聞いただけで、胸がすっとしたのではないか? 今のように、おかしなことが起きても、なんとなく曖昧、なし崩しになっていって、もやもやした気持ちが晴れないまま、事が進んでいくようなことは少なかった。そうではないか?
 
 『産経』が、与党案と野党案の修正を言うのは、「愛国心」表記では、民主党案を入れるとか、宗教的情操教育や家庭の第一義的責任とかを入れたいからである。しかし、教育委員会の廃止や地方自治体への教育行政権限の集中などの点で、まったく与党案とは異なる。来年夏の参議院選挙で勝利して、政局にもちこみ、解散総選挙、政権奪取すれば、今度は、民主党案が与党案になり、自民党案が野党対案になるので、中東半端に妥協しても仕方がない。小沢党首の戦略は、明快であり、わかりやすい。それに対して、内部でふらついている者が多いのが、民主党への有権者の信頼感を弱めている原因である。だから、そういう動揺を見透かされて、『産経』『読売』が揺さぶりをかけるスキができるのである。

 『産経』は、「選挙における野党共闘路線を重視するあまり、政策論を置き去りにしたことが問題なのである」という。それに対して、民主党は、選挙で野党が勝ちきらなければ、政権交代はなく、政権交代がなければ、長期政権の腐敗・利権を一掃する政治改革は、実現できないという。政策は、絵に描いた餅ではなく、それが実現できる手段や方法、システム、等々と関連している。いっぺんの文章の文言だけではなく、制度全体との関連で、実効性や効果が違ってくる。例えば、個人情報保護法が、制定の目的にない政治家や公人の過度のプライバシー隠しに利用されている実態は、それを表している。教育基本法問題で言えば、この次には、学校教育法、教育委員会法その他の関連する諸法案や制度変更が当然あるわけで、それを含めた包括的な議論が必要なのである。それに、たった百時間審議したぐらいで、十分審議を尽くしたことになるわけがない。子供だましは止めた方がいい。
 
 「選挙における野党共闘路線を重視するあまり、政策論を置き去りにしたこと」が問題なのではまったくない。逆である。政党は、政策製造マシーンではないのである。それは官僚である。政党を官僚の基準ではかるのが、おかしいのだ。それなら、選挙はいらないのである。もっとも、『産経』の本音は、そういうことかもしれないのだが。政党は、議論によって生きるものであり、党派闘争によって、命が与えられるものである。違いがないなら、合流するだけだ。違いがある以上は、議論し続けていくしかなく、どれがいいかを人々の判断に委ねるしかない。選挙に生き、議論に生き、党派闘争に生きる。つまり、『毎日』が言うように、「抵抗も対案も」である。
 
 いじめ問題では、このところ、教師に対するPTAからの苦情や抗議や干渉が激しくなっていることが、いじめ解決にマイナスの影響を与えているという記事があった。これを見て、教育サービス論という90年代から流行った理論があったことを想起した。行政サービス論というのと同じようなものだが、それは行政活動の一面を引っ張り出して拡大した極論にすぎない。

 教育サービス論によると、学校教育は、サービス業であって、教師は、子どもという消費者への教育サービス提供者だという。親は、サービス受給者として、消費者主権の立場に立って、サービスについて、注文をつけ、購入するかしないかを含めた消費選択を行うことができるようにすべきだというのである。すると、消費者に認められないサービス提供者側の学校は、サービスを改善して、消費者の信用を取り戻すか、それができなければ、市場からの退場を余儀なくされることになろう。消費者=親と子どもは、別のサービス業者=学校に移る。一見すると、企業で可能なことが、学校でできないわけがないと思われるだろう。ところが、実際には、無理である。なぜかというと、これは強制消費である義務教育と合わないからである。義務教育がないなら、ある程度は、可能であろう。しかし、その場合には、学校に行く者が激減するだろうから、学校問題は、一部の金持ちなどの話になるだけである。
 
 義務教育のままでは、教育サービス主義で、店(学校)や店員(教員)に厳しい注文をつけるうるさい(賢い?)消費者としての家庭という関係は、両立しないだろう。そして、教育基本法に家庭に教育の第一義的責任を負わせると明記するというのは、自己責任論の教育版であろう。

 下の記事では、学校と家庭が、お互いに責任をなすりつけあう神経質で緊張した関係にあることがうかがえる。他方で、登下校時の児童の安全確保のために、通学路の見張りに、PTA・地域・学校の三者が協力する関係がつくられているケースもある。しかし、いじめのように、子どもの中に加害・被害の関係が発生し、その責任問題が、学校・教員、家庭、子どもに問われるようなケースでは、それぞれ責任逃れが先に立って、肝心の被害の回復のために迅速に対応することが難しいことがわかる。裁判沙汰を恐れて、いじめ認定をしぶる学校、自分の子どもの加害性をなかなか認めない加害者の親、周りにいじめ被害を訴えられず、時には自殺して真相を闇に消してしまういじめ被害者、等々。いじめの事件化がまず必要である。顕在化させ、事件として認定することだ。早くそうするべきであり、それによって、潜在化している多くのいじめを浮上させて、地下に蓄積されるのを防ぐことだ。それが、後の多くのいじめを事前にくい止めることになる。

 そうしないと、イギリスのように、いじめ発生件数が飛躍的に増大していくだろうということをうかがわせる記事である。しかし、他方で滋賀のように、学校がいじめ自殺を認める前に、親たちが子どもからの聞き取りで、いじめた事実を確認して、自殺した子どもの親に謝罪したケースもある。まず、実態を正確に把握する必要があり、政府が調査費用を補正予算で緊急に計上したのは、当然である。
 
 いじめ:加害者からの相談も急増

 いじめ自殺が社会問題化する中、各種機関への子どもたちや親からの相談が急増している。「どうしたら抜け出せるのか」など被害者からだけでなく、加害者側からの相談も目立ってきたという。電話やメールで子どもたちの世界に接してきた担当者からは「被害者と加害者が簡単に入れ替わる環境の中で子どもたちはストレスを抱えている」との指摘が出ている。【長野宏美】

 ◇「本当はいじめをやめたい」…苦しい胸の内も

 79年にトヨタ自動車の協力で開設された「トヨタ子ども110番」(東京都港区)では、この数カ月、いじめる子どもからの悩み相談が増えているという。

 いじめる理由は「悪いと思うがやめられない」「相手が自分より弱いと思うと安心する」「以前いじめられた仕返し」など。「仲直りの仕方が分からない」と関係修復の方法を尋ねるケースもあるという。

 相談業務をまとめる米沢琴江さんは「いじめている子は、怒られるのが怖くてなかなか誰にも相談しない」と話す。「じっくり話を聴き、自分を見つめさせること」を心掛けているという。

 NPO法人「チャイルドライン支援センター」(東京都港区)では、いじめている子が「本当はいじめをやめたい」などと苦しい胸の内を訴える声がこの1、2年目立つという。

 かつての「不幸の手紙」と似た「チェーンメール」で、いじめへの加担を強いられたという悩みも届いた。「あいつウザイ」とメールが回り、メールを次の子に送らないと、自分が攻撃対象になる。同センターの徳丸のり子常務理事は「子どもの世界では、いじめるかいじめられるか流動的な面がある。標的になりたくないという理由で、いじめに加わるケースも少なくない」と話す。

 相談機関への訴えは急増中だ。法務省が急きょ「いじめ問題相談強化週間」とした10月23~29日、同省の「子どもの人権110番」には8月の強化週間の約9倍の647件の相談が寄せられた。うち49件については「学校や教師の対応が不適切」との意見を受け、学校に対する聴き取り調査を始めた。

 東京弁護士会の「子どもの人権110番」でもいじめに関する相談は昨年度は月平均17件だったが、10月ひと月で33件あった。相談に応じている川村百合弁護士は「学校側が適切な対応ができず、かえっていじめを陰湿化させることもあり、保護者は学校だけに問題解決を任せられないと感じている」と語った。

■いじめに関する主な相談窓口

◇法務省 子どもの人権110番

 0570・070・110

(平日8時半~17時15分)

◇東京都教育相談センター

 03・3493・8008

(平日9~21時、土日祝9~17時。メール相談受付あり)

◇東京弁護士会 子どもの人権110番

 03・3503・0110

(平日13時半~16時半、17~20時、土13~16時)

◇警視庁 ヤング・テレホン・コーナー

 03・3580・4970

(平日8時半~20時、土日祝8時半~17時。メール相談受付あり)

◇チャイルドライン

 0120・7・26266

(地域により番号と開設時間は異なる。詳細はホームページ参照)

◇トヨタ子ども110番

 03・3470・0110

(月~土17~21時)

※国立教育政策研究所のホームページから、いじめ問題などを相談できる公的機関を見ることができる。(http://www.nicer.go.jp/integration/user/map.php)
(『毎日新聞』2006年11月21日)

 いじめ:実態認めぬ教師たち 「ママメール」恐れ遠慮も

 いじめを苦にした子どもたちの自殺が続く中、いじめを認めない学校のあり方が問題となっている。「いじめはどこの学校にもある」との指摘の一方、なぜ教師は認めないのか。保護者への遠慮、指導力不足……。一線の教師たちが口を開いた。【吉永磨美】

 「『いじめ』という言葉を使うのは最終手段」。東京都内の小学校に勤務する30代の女性教師はそう言い切る。いじめを確認しても保護者に「加害者」とはなかなか言えない。なぜか。「対応の仕方を間違えたら(自分が)たたかれる」と漏らす。「先生はうちの子を悪く見ている」。そんな保護者の反発は容易に想像できる。さらに恐ろしいのは母親たちのメール。教師は「ママメール」と呼ぶ。「『あの先生がうちの子をいじめた、うちの子が良くないと言った』などの悪いうわさをママメールで回される」と心配する。

 そのため、いじめと疑われる行為があっても、「相手の気持ちを考えて」と穏便な言葉遣いにとどめ、「いじめをやめて」と強い指導はなかなかできない。

 神奈川県の公立高校の男性教頭も「いじめは裁判ざたになることがある。だから学校はピリピリしている。対応には慎重にならざるを得ない」と語る。まずいじめを確認した時、保護者へ連絡する前に、教師たちが調べたことを逐一記録する。それを加害側の保護者に見せ「この事実で間違いありませんね」と念を押す。保護者が「間違いありません」と答えて初めて本格的な指導に入る。

 いじめた生徒とは対話を重ね、本人がいじめを認めたところで「事実」を文章に書かせる。いずれも「(加害者側の)保護者がどんな反論をするか分からない」ためだ。

 また、教師には「1人で(問題事案を)抱え込まないで」と指導している。しかし「自分のクラスは任せてください」と公言し、報告や連携を怠る教師もいる。「対応は教師間の連携が大切だが、他の教師に迷惑をかけたくないのか」といぶかる。いじめを見つける前に、そうした教師への指導が必要になることもあるという。

 教頭の高校では、年に数回調査し、いじめや暴力防止に努めているという。「子どもたちのために何ができるのか、議論することが大切。だが現実はそうなっていない」とため息をつく。(『毎日新聞』2006年11月23日)

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『日経』『毎日』教基法問題を語る

   これまで、教育基本法改「正」問題で、他の大手新聞が社説で何度も取り上げているのに、沈黙していた『日経』社説が、ようやくこの問題を取り上げた。「教育基本法改正は参院でも審議尽くせ」である。「参院でも」という表現は、あたかも衆議院で審議が尽くされたかのような書き方であるが、本文を見ると、そうではない。

 『日経』は、衆院の特別委員会審議審議時間は100時間を超えたが、「改正案の論点がはっきり浮かび上がったとはいえない」として、法案審議は「生煮え」だというのである。その原因は、いじめ自殺や履修漏れ問題などに審議時間が多く当てられてしまったからだというのだが、それも事態の深刻さ、緊急性からしてやむをえないと述べている。衆院では審議が不十分であり、参院では法案そのものの審議に努力すべきだという。ただ、与党が、衆議院で与党単独強行採決しないで、もっとじっくりと議論を深めるべきであったことを責めるべきだということが前提であろう。

 社説は、教育基本法改正の「重要なポイントの一つは、教育行政への国の関与のあり方をどう考えるかである」と書いている。また、「「教育振興基本計画」の策定を政府に義務付けている」ことをあげている。そして、「問題は、こうした条文が文科省による画一的な教育内容の押し付けを強め、地域や学校の創意工夫を阻むことにつながらないかどうかである。公教育の水準を底上げすることは大切だが、同時に地方分権や規制緩和を進め、現場での裁量の範囲を大きくしてこそ学校は活性化するという声は少なくない。国が責任を持つ部分と地方や学校に委ねる部分の切り分けをよく考える必要がある」と国と地方と学校の責任分担について、議論が必要だと述べている。
 
 このあたりは、1988年の教育改革法以来のイギリスの教育改革を模倣しているものでる。それを部分修正したブレア労働党の教育政策の模倣色が濃いのが、民主党案である。小泉構造改革は、経済関係法ではアメリカ型を多く取り入れたが、教育政策では、イギリス型を多く取り入れようとしているのである。そのイギリスでは、いじめ問題は、日本よりも規模では深刻で、報道によると、約6万人の不登校者のうちで、いじめを原因とする者が、約2万人もいる。それに対して、イギリスでは、政府が、いじめを犯罪として取り締まる法律を制定すると共に各学校に対して、具体的な対策・改善計画を出すように義務づけている。しかし、それでも、日本よりはるかに多いいじめが発生しているのである。もちろん、日本の場合、データのごまかしがあって、もっといじめは多く発生しているのではないかという疑惑があるし、また、日本の場合、不登校ではなく、自殺してしまうケースが多く、命にかかわるだけ、この点では、イギリスよりも事態が深刻だとも言える。
 
 日本でもそうだが、法律的解決、国家強制力による解決に頼らざるを得なくなるのは、一つには社会正義の衰退によるところが大きい。正義感に則った行動が抑制されているわけで、いじめを見て見ぬふりをする、明らかな悪に対して、それを止める行動ができない、等々によって、いじめが止まらないのである。そのことは、最近、いじめ側から、いじめ電話相談などで、「悪いのはわかっているのに自分で止められない、どうしたらよいか」という相談が増えているという報道にも現れている。悪を、頭で認識できても、それが、行動・実践と切り離されているのである。こういう問題に直面した時に、問題を解決する力を育てるということが、現行学習指導要領の目的の一つとして書かれているのだが、現場ではそれが育っていないのである。それが教育基本法を変えればなんとかなると思っている人はまずいないだろう。
 
 ところが、今日始まった参議院特別委員会で、安倍総理は、教育基本法改正の理由をその成立の過程に求め、伊吹文科大臣は、文科省の権限強化を主張した。完全に、頭がずれている。いっぺんの法律改訂問題よりも、いじめ自殺をとにかく止めることが何よりも大事である。だから、自ずと、教育論議は、その方向に向かざるをえないのであり、そうなるべきだと多くの人々が思っているはずである。そういう人々が、今の国会論議の有様を見たら、政治に失望するのは明らかである。現行法でできることを全力でやって、緊急事態をなんとかして、それから教育基本法論議をやることだ。中川自民党幹事長は、沖縄知事選で辛勝しただけなのに、何を勘違いしたのか、早くも油断して、おごり高ぶっているようだが、「傲る平家は久しからず」である。
 
 沖縄県知事選挙に対する大新聞の誤った評価が続出し、混乱しているのを率直に表しているのが、今日の『毎日』社説「筋の通らぬ「対決型」では・・」である。『毎日』は、野党の国会審議参加への方針転換は当然だとしつつ、民主党が沖縄知事選敗北の原因追求をしていないのは残念だと述べている。しかし、この社説が、沖縄知事選敗北をもって、国会審議拒否戦術がアピールしなかったと断言するには、票差があまり開かなかったので、無理がある。
 
 やはり敗因の一番は、沖縄経済問題、とりわけ高失業率の解決策として、基地と引き替えの本土からの資金・事業の獲得という選択を迫られたことであろう。『毎日』が指摘するとおり、民主党内は、安保政策をめぐる大きな対立を抱えていて、糸数氏の基地政策に反対の勢力が多くいる。それは、政権交代を優先する小沢代表の路線のブレーキになっていて、その足並みの乱れは、米軍再編成に賛成する前原前代表の直近の発言にも現れていた。それは、候補者調整のごたごたに現れた。ただ、糸数候補が、参議院選挙で、与党候補を敗った実績があり、知名度が高かったことなどで、民主党の推した候補を引っ込めて、野党統一候補実現に転換したのである。沖縄の民主党は、この選挙で、果たして全力を出しきって闘ったのかという点が気になるところである。
 
 与党側は、早々と稲嶺県政の築いた基盤を引き継ぐ、元副知事の仲井真候補を立てて、選挙戦で野党に先行した。「沖縄の有権者は基地問題の解決とともに、経済振興策にも大きな関心と期待を寄せていた」のであり、沖縄県民の多くが政策の実効性に期待したことは明らかである。つまり、もともと野党不利の情勢にあったのである。もっと大敗してもおかしくない状況だったのである。それを多少とも押し返したのが、国会での教育基本法問題での審議拒否であった。これがなければ、もっと大差で破れていただろう。
 
 『毎日』は、民主党の国会対応もちぐはぐだと言う。民主党は、「改正の必要なし」で、徹底抗戦というならまだしも、「改正の必要あり」として対案を出したのに、対案審議まで拒否したのは筋が通らないのではないかと疑問を呈する。
 
 『毎日』は、与党案と共通点が多い民主党案が成立しても、いじめ自殺や履修不足問題が解決すると言い切れるような代物ではないという。そして、筋が通らない「対決型」は有権者に見透かされるという。また、民主党が政権奪取すれば、自・公政権とこう違うという明確なビジョンが必要なのだという。したがって、「対決」も「対案」も、であって、まずは、オープンな選挙総括議論をすべきだと提言する。
 
 『毎日』は、社民党のような「対決型」も必要だと認めつつ、それと「対案」をセットにして、政権交代を目指せと言っているわけである。これは、民主党の政権奪取があり得るというリアリティを踏まえて、それに相応しい政党としてのあり方、そこに向かうために必要なことを指摘しているものである。基地はいらないが、経済を何とかして欲しいという県民の願いにリアリティをもって応えられなかったことについて、反省することは確かに野党には必要なことであろう。

 これは、『産経』『読売』のような自民・民主一体化の責任政党論などよりは、よほどいいものである。沖縄県知事選挙は確かに、日米同盟再編問題が絡む重要な選挙であったが、このところの全国的な状況を見ると、滋賀での社民党支持候補の県知事選挙勝利や東大阪市での共産党首長の誕生など、革新復活の動きが大きくなっている。この社説は、そういう現実を見ているという感じはする。人々の多くが、抵抗型政党を好み、支持する時と場合があるということを考えている。アメリカ中間選挙での与野党の劇的な逆転を見て、日本の人々が、政権交代に期待する気持ちが強まっているかもしれない。郵政復党組を党利党略で復党させようとしている自民党の復古に嫌気がさした人々が、安倍政権支持から不支持へと多く移っていったのかもしれない。

 社説1 教育基本法改正は参院でも審議尽くせ(『日経新聞』11/22)

 参院の特別委員会で教育基本法改正案の実質審議が始まる。衆院での与党単独採決に反発して欠席していた民主党などが戦術を転換、審議が正常化することになった。教育への社会的関心がかつてないほど高まっているだけに、与野党は改正案の核心に迫る論戦を展開してほしい。

 衆院の特別委では審議時間が100時間を超えたが、改正案の論点がはっきり浮かび上がったとはいえない。多くの時間はいじめ自殺や履修漏れ問題にあてられ、肝心の法案に関する審議は生煮えの印象が残った。いじめ問題などへの注目度の高さを考えればやむを得ない面もあったが、参院では法案そのものをいま一度吟味するよう努力すべきである。

 その際の重要なポイントの一つは、教育行政への国の関与のあり方をどう考えるかである。改正案は「国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」との条文を設けた。「教育は、この法律及び他の法律に定めるところにより行われるべきもの」ともうたっている。

 「教育振興基本計画」の策定を政府に義務付けているのも特徴だ。文部科学省はこれを「教基法の理念を実現するための総合的なプラン」と位置付けている。同省によると計画期間は5年間を想定、「いじめや校内暴力を半減させる」といった具体的な政策目標を掲げるという。国の方針に沿って地方自治体も個別の基本計画を定めることになる。

 問題は、こうした条文が文科省による画一的な教育内容の押し付けを強め、地域や学校の創意工夫を阻むことにつながらないかどうかである。公教育の水準を底上げすることは大切だが、同時に地方分権や規制緩和を進め、現場での裁量の範囲を大きくしてこそ学校は活性化するという声は少なくない。国が責任を持つ部分と地方や学校に委ねる部分の切り分けをよく考える必要がある。

 参院では、こうした点も踏まえたやり取りを期待したい。民主党は、教育行政は自治体首長が責任を持ち、公立学校運営に地域住民や保護者が関与することなどを明記した対案を提出している。国の関与のあり方について論議を戦わせる材料は十分に整っているはずである。

 政府の改正案は、このほかにも生涯学習や家庭教育、幼児教育などの条文を新設し、義務教育期間を9年と定めた規定も削除している。「愛国心」の記述ばかりが注目を集めてきたが、見直し部分は多岐にわたっていることを忘れてはならない

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教基法審議再開 『読売』も「恥ずかしくなった?」

 11月21日付『読売』社説[審議復帰へ]「民主党も恥ずかしくなった?」は、この間の『読売』の与党機関誌ぶりを露骨に表している。
 
 こんな書き出しだ。「「審議を尽くせ」と言いながら、審議を拒否する―国会を空転させてばかりいたかつての社会党のような姿に、民主党もさすがに恥ずかしいと思ったのだろう」。教育基本法問題特別委員会で、野党が「審議を尽くせ」と与党単独の強行採決に反対したのを無視して、「審議を尽くした」として審議をうち切ったのは、与党の方である。『読売』は、この与党の言い分をそのまま垂れ流して、与党単独強行採決を支持した。野党の側からすれば、衆議院での審議はまったく不十分で、そのまま参議院で審議入りすることに抗議するのは当然のことである。審議拒否は、その一つの手段である。
 
 かつて、社会党は、審議拒否を繰り返して、国会を空転させてばかりいたということを持ち出すのは、前にも書いたが、完全な時代錯誤である。社会党時代を直接知るものは、どんどん減少している。今回の審議拒否は、年に何日もない特別な事態であり、教育基本法改「正」という重要な法案の審議だから、その審議には慎重であるべきなのに、党内議論の行き詰まりによって、法案をとりまとめた当人たちが、ベターなもので、ベストではないという段階で、衆議院で圧倒的多数を握っているうちに、早く通してしまえと、採択を急いだだけで、政治的思惑につきうごかされたものなのである。
 
 それに対する民主党対案も、自民党の動きに合わせて、対案を出さないとまずいとして、党内議論もそこそこにあわててまとめられたてきとうな法案なのである。自民党案、民主党案の双方が、基本的政策である教育基本法改「正」案を政争の具としているわけで、野党だけが、責められる筋合いはない。何でも反対ではなく、何でも対案で、対案の粗製濫造の愚に陥っているのだ。

 こんなものなら、変えない方がいい。現行教育基本法の枠内で、やれることをやりきるべきだ。その知恵を急いで絞らないと現場で起きている諸事件は、歯止めを失って、暴発する危険性があるのだ。そういう切迫した危機感が、『読売』に欠けている。巨人人気に頼り切ってきた『読売』経営の失敗も、こうした危機意識の欠如、判断力のなさ、と同根なのだろう。『読売』転落の匂いが濃厚に香ってくる。「勝って兜の緒を締めよ」だ。
   
 つづいて、『読売』は、民主党の国会審議すべての拒否は、「旧社会党が常套(じょうとう)手段とした抵抗戦術そのものだった」と書く。その社会党が、野党第一党として、衆議院で百数十議席を持っていた時代があったことを、都合良く忘れたようだ。そんな社会党が好きな人々が、有権者の3分の一程度いたことがあったのである。もちろん、『読売』は、沖縄県知事選挙で、革新系の野党統一候補糸数氏が、革新退潮が続いていた沖縄で、自民・公明の与党が支持する仲井真候補に、約3万7千票差にまで迫ったことが示した革新復調の流れがはっきり見えたことに危機感を抱いたから、わざわざ昔の社会党のことを持ち出して、野党の分断を目論んでいるわけである。

 昔、民主党小沢代表は、全審議拒否の戦術は、「少数者の横暴」「少数のダダッ子のやり口」と批判したではないか、自らの前言を翻すのか、と釘を差す。しかし、「誤りを正すのにはばかることなかれ」である。前言を翻すことのは、与党の得意技であった。それを人々が忘れているとでも思っているのだろうか。郵政造反組の復党問題は、まさしくそれであり、公明党が、改憲論議を行っているのも、そうである。
 
 『読売』は、民主党は教育基本法改正に賛成なのだから、対案を出して審議すればいいという。しかし、社民・共産も現行教育基本法という対案を出している。それに、よほどの妥協をしないでは、与党案と民主党案は対立したままで、与党案が採択されたとしても政権交代後にまた大幅改「正」せざるをえなくなる。『読売』には、そこまで考え抜く思考力、「考える力」がない。
 
 そして今度は、それみろ、沖縄県知事選は敗北したではないか、と民主党を諭す。しかし、『読売』は、防衛庁同様、地方自治体選挙は、防衛政策とは無関係で、淡々と政策を進めればよいという考えを強調してきた。防衛政策・安保政策が、地方自治体選挙の争点になじまないというのであるから、安保政策で対立する政党が地方自治体選挙で手を組むことにはなんの問題もない。『読売』のこれまでの主張から出てくるのは、そういう結論である。『読売』が、「政策抜きの“野合”を優先したことも、敗因の一つではないか」というのは、問いかけ以上ではない。それは、防衛政策が沖縄県知事選の争点であってはならないという縛りを自らにかけたために、それ以上の明確な表現ができなくなっていることを示している。
 
 『読売』は、「基本政策で相いれない党との共闘は、かえって党内の混乱を誘うだけだ」という。裏返せば、基本政策で共通点が多い自民・公明党と組むべきだということだ。そして、またしても、責任政党なる汚い造語を繰り返して、むしろ、教育基本法改正や防衛「省」昇格などの国の基本にかかわる法案審議で、建設的な論戦をリードすべきだと言う。

  『読売』なりの危機感を表し始めているのは、やはり、この間の、安倍内閣支持率の急落やアメリカ中間選挙での共和党惨敗や沖縄県知事選挙での革新系野党統一候補の善戦が、政権与党に不利に働くことを認識し始めているからだろう。参議院選での与党敗北、政局化、衆院解散総選挙、民主党政権の誕生、の可能性が高まっていて、そうなった場合に備えて、民主党の与党としての資格を問題にしているのだろう。しかし、そんな『読売』の思惑を超えた流動化が始まっていることを沖縄県知事選挙結果は示している。国会を連日取り巻く、教育基本法改悪反対派数千人は、その背後に大きな拡がりをもち始めていて、けっして孤立していない。

 なお、沖縄県知事選挙結果の分析では、与党候補が自民党支持者の多くを固めたこと、公明党=創価学会の組織選挙が功を奏したことが指摘されている。知事与党だった自民党が動きがとれずに、内部を固められなかった福島県知事選挙と違うのはそこである。逆に、糸数陣営では、候補者調整が難航して出遅れたのが響いたらしい。これから、和歌山県知事選挙に、もしかすると宮崎県知事選挙もあるかもしれず、いずれも福島型の与党に厳しい選挙が続きそうである。野党が攻勢を止める理由はない。教育基本法改悪には徹底抗戦すべきである。与党議員・与党系首長の不正・腐敗が暴かれ続けているのも追い風だ。

  『読売』は、他人に建設的であることを求める前に、寅さんのように少しは「反省の日々」を送った方がいい。そうでないと『読売』も「恥ずかしくなった?」と思われるばかりだ。それほど、この社説では、人々から嫌われる傲慢さが強まりすぎている。

 『読売新聞』11月21日社説[審議復帰へ]「民主党も恥ずかしくなった?」
 
 「審議を尽くせ」と言いながら、審議を拒否する―。国会を空転させてばかりいたかつての社会党のような姿に、民主党もさすがに恥ずかしいと思ったのだろう。

 衆院での与党による教育基本法改正案の採決を不服として国会審議を全面的に拒否していた民主党など野党各党が、きょうにも国会の正常化に応じる見通しとなった。

 この間の民主党の国会対応は、参院特別委員会への委員推薦を拒み、教育とは何の関係もない法案の審議にも応じないなど、旧社会党が常套(じょうとう)手段とした抵抗戦術そのものだった。

 小沢代表はかつて自著の「日本改造計画」で、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと批判していた。

 小沢代表としても、まさに「少数のダダっ子」としか形容しようがない国会戦術を、いつまでも続けるのは難しかったということではないか。

 そもそも民主党は、教育基本法の改正に賛成の立場だ。現に独自の改正案を国会に提出している。それなのに、改正そのものに反対の共産、社民両党と一緒に審議拒否戦術をとってきた。

 「来年夏の参院選をにらんで、与党との対決色を強めていく。政局に利用できるものは何でも利用する」――。こんな発想で野党共闘を重視したのだろう。

 だが、野党統一候補を擁立して臨んだ沖縄県知事選は敗北に終わった。党内にも、基地反対を掲げる候補を支援することに、「我々の安全保障政策への重大な疑念を招くことになる」と危惧(きぐ)する声が出ていた。政策抜きの“野合”を優先したことも、敗因の一つではないか。

 民主党の若手から「抵抗野党からの脱却」を基本とする本来の姿に戻るべきだとの声が強まったことも、国会正常化への方針転換を促したのだろう。

 民主党は、防衛庁の「省」昇格関連法案でも、いまだに法案への賛否をはっきりさせていない。これも、法案に絶対反対の共産、社民両党との関係にヒビが入ることを恐れてのことだろうが、民主党内には「法案が採決されれば賛成する」と広言する議員は数多くいる。

 基本政策で相いれない党との共闘は、かえって党内の混乱を誘うだけだ。

 教育基本法の改正や防衛「省」昇格のような国の基本にかかわる法案こそ、民主党が建設的な論戦をリードすべきではないか。それこそ、真の責任政党の取るべき態度である。

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沖縄知事選挙は安倍政権をあまり助けない

 11月19日に投開票された沖縄県知事選挙で、自民・公明が推す仲井真候補が、野党統一候補の糸数候補を約3万7千票差で破った。この選挙結果について新聞各紙が社説などで、取り上げている。そのタイトルを見ると、『朝日』「沖縄知事選挙 県民の苦渋がにじみ出た」、『日経』「沖縄新知事は米軍再編の解決策探れ」、『産経』「沖縄・与党勝利 現実的対応を期待したい」、『読売』「普天間飛行場移設へ前進をはかれ」、『東京』「沖縄は自公 県民の悩ましい選択」である。

 『産経』『読売』は、仲井真候補支持がにじみ出ているのだが、それでも、それほどこの結果を評価しているわけではない。それは、日本の国家的最重要事の一つである米軍再編にともなう普天間基地移設問題について、仲井真候補が、争点はずしをした上に、名護市辺野古沿岸移設に反対した稲嶺県政を基本的に継承することを表明しているからである。この選挙結果で、普天間基地移設問題が早期解決する見通しがついたわけではないのである。稲嶺前県知事は、国との話し合いには応じるとしていたが、沿岸移設案にはあくまで反対だと述べてきた。それを基本的に継承するというのだから、仲井真県知事になっても、普天間移設問題がすぐに前進することは考えにくい。

 おまけに、前回の知事選挙では、与党稲嶺前知事は、野党候補に大差で圧勝しているのに対して、今回の野党統一候補が、基地問題を最大の争点にして、3万7千票差にまで迫ったことは大きい。仲井真候補は、経済振興を中心に支持を訴え、基地問題を背後に追いやったことで、全国一高い失業率に悩む沖縄県民とりわけ那覇などの都市部で多く支持されたわけで、基地問題では、稲嶺路線を引き継ぐということだ。もともと、革新系の太田知事が誕生した時もそうだったように、沖縄経済は、中央政府の沖縄振興策による公共事業などに強く依存しており、中央とのパイプが、経済的に重要なので、中央の与党よりの人脈によって、県政が占められる傾向が強くあった。太田知事誕生の時は、中央政府与党は、自民・社会・「さきがけ」の連立政権で、知事選挙でも、与党候補太田氏の圧勝であった。そして、稲嶺前知事がその副知事だったのである。仲井真氏も、元副知事である。

 『産経』『読売』は、国政レベルの重要政策については、地方自治体選挙では問われない、関係ないのだと強調してきたために、仲井真氏の勝利を公然と手放しで評価することができず、自縄自縛に陥ったのである。『産経』は、現実的対応をして欲しいと、仲井真氏にお願いするしかなく、『読売』は、普天間基地問題解決を前進させろ、稲嶺県政の轍を踏んではならないと述べ、稲嶺県政の継承を掲げる仲井真新知事に対して注文をつけている。結局、『読売』の基本にあるのは、「日米同盟関係に傷をつけないこと」であり、日米同盟強化最優先ということである。それにつながるかどうかがはっきりしない仲井真候補の勝利は、『読売』としては、素直に喜べないのである。

 他方で、『朝日』、『東京』、そして『沖縄タイムズ』は、今回の選挙結果を、苦渋の選択、苦悩の現れとする社説を掲げた。基地か経済かという二者択一の構図が、沖縄県民を縛っていることが、この県知事選でも繰り返されたからである。糸数氏は、基地なき経済自立、観光による経済振興を対置したが、中央からの投資を呼び込んで経済振興をはかり、それによって雇用を拡大するとする仲井真候補の経済優先路線に負けてしまった。しかし、糸数氏支持者は、普天間基地の国外移設を求めたが、その数が、投票者の半分に迫ったことは大きい。『朝日』によると、「米軍再編の合意内容については、「反対」が50%にのぼり、「賛成」の20%を大きく上回った」ということで、結局、基地問題を選挙争点から外し、経済問題に絞った仲井真新知事は、このような県民世論も考慮せざるをえない。問題が先送りになったというにすぎない。

 したがって、これは、連敗を免れたという点では、安倍政権にとって、一息つけた結果ではあるが、それほどでもない。同時に政令指定都市の福岡市・尼崎市長選挙で、敗北していることを合わせて考えれば、なおさらある。これで、安倍政権が、国会運営で、強気に出てくるだろうという見方を示す新聞もあるが、そうはいかないだろう。そうなるためには、仲井真候補が、もっと大差をつけて、勝つ必要があった。それは、福岡・尼崎市長選挙の与党候補の敗北と相殺されてしまっているし、安倍政権の支持率は急落中だし、各種世論調査で、半数近くが反対している「郵政造反組」復党問題があり、談合問題で知事が辞職した和歌山県知事選挙などの与党に不利な大きな選挙が次にひかえている、等々のことがあるからである。もちろん、アメリカのブッシュ与党の共和党の中間選挙での惨敗によるブッシュ政権の力の低下も、安倍政権にイナスの影響を与えるだろう。

 それに、参議院で教育基本法問題で、強硬姿勢を続ければ、さらに安倍政権を弱めることになろう。それなのに、民主党は、早くも、審議再開に向けて動いているという。もちろん、仮に与党が修正に賛成したとすれば、法案を再度衆議院に送らねばならず、そうなれば、今国会中の成立は不可能となる。しかし、次期国会では、確実に、早期成立することになる。安倍政権が、確実な成立をはかるために、そのような妥協をすることもあり得る。しかし、てきとうな妥協は、民主党のイメージを損なう。なによりも、国会を取り囲んだ反対派5000人をはじめとする教育基本法改悪反対世論に逆らうことになる。そうした人々の意志に逆らって、安易に妥協をすると、こうした人々を、社民党や共産党に近づけることになろう。

 糸数候補が、3万7千票差にまで迫った沖縄県知事選挙結果は、運動側にはそれほどのダメージは与えず、安倍政権には小さな浮揚力しか与えなかったと思う。なお、基地全面撤去を訴えた琉球独立党候補の屋良候補の約6千2百票が、普天間基地県外移設派に加わる。

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教育基本法改悪を阻止するために 『産経』『読売』批判

  15日の教育基本法改「正」与党案の衆議院特別委員会での与党単独強行採決を受けて、『日経』を除く大手新聞各紙が、社説で取り上げている。『産経』『読売』が支持、『朝日』『毎日』『東京新聞』が不支持に分かれている。

  『読売』[「教育」衆院採決]「野党の反対理由はこじつけだ」は、野党が、タウンミーティングの「やらせ質問」を口実にして審議拒否するのは、こじつけだと非難している。『読売』は、「やらせ質問」はやりすぎだと一応批判するが、それほど深刻な問題だとは思っていないようだ。そして、教育基本法改「正」与党案と民主党の対案は、共通点が多いことをあげて、「法案の中身が似通うのは、子どもの規範意識を高め、家庭の役割を重視することが、いじめなど学校現場が抱える課題の改善にも資する、との思いを共有するからだろう」と述べている。しかし、与党案と民主党案を読み比べるとかなりの違いがあることがわかる。民主党案は、教育における民主主義や自律性の強調が目立ち、国の教育への介入よりも、現場に近い地方や地域・家庭・社会の関与が拡大するように書かれている。愛国心表記や家庭の役割や宗教的感性の涵養など、一部が与党案に似通っているだけである。未整理で混乱した表現ではあるが、与党案が国家教育権を強く印象づけるのに対して、民主党案は、国民教育権の立場を強く出しているように見える。

 民主党案なら、現行教育基本法の改訂版と言えようが、与党案の方は、現行基本法とはまったく別物であり、完全に別の精神で書かれている。それなのに、十分審議できただの、残りの短い参議院の審議で修正すればいいというのは、暴論もいいところである。これらを一致させるには、民主党側がかなり大幅な譲歩をせざるを得ず、多くの時間がかかる。これだけ大きな違いがあるのだから、完全対立したのは当然である。

 『読売』は、一部の語句の共通点を拾い上げて、修正案での歩み寄りが可能だと思っているようだが、それにはどちらかが基本的な部分で大幅に譲歩することが必要なのである。

 『産経』は、なぜか政府与党案で、国民に教育を取り戻せると書いているのだが、どこの部分がそれに当たるのかを具体的に指摘していない。たぶん、教育基本法成立の経緯の問題で、それが基本的にGHQによってつくられたことで、アメリカに教育が支配されてきたを日本国民の手に取り戻せるという意味なのだろう。そのことは、『産経』が、「現行の教育基本法は昭和22年3月、GHQ(連合国軍総司令部)の圧力や干渉を受けながら成立した。とくに現行法の「教育は、不当な支配に服することなく」の規定は、文部科学省や教育委員会の教育内容への関与を排除する根拠とされ、問題となっていた。 /これに対し、政府案は「不当な支配に服することなく」との文言を残しているが、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」とするくだりが加わった。このため、国旗国歌法や学習指導要領などを無視した一部の過激な教師らによる“不当な支配”は許されなくなる」と書いていることでうかがえる。

 しかし、成立過程にアメリカが深く関与したとはいえ、現行教育基本法下の教育は、その後、戦前の「教育勅語」や国家教育権下の教育よりもよいものだと多くの人々から評価されることで、定着していったのであり、この与党案は、それ以上の高い水準のよいものではないのである。文部科学省や教育委員会の教育内容への関与を排除する根拠とされているのは、教育基本法の「不当な支配に服することなく」という文言だけではない。ここは、先の東京都の「日の丸・君が代」強制・処分に対する東京地裁の違憲判決を意識しているのだろうが、この判決は、思想信条の自由という憲法規定に違反するという判断を下したのであって、教育行政・教育関係において、憲法が貫かれるという法治主義の原則を適応したのである。それに対して、文部科学省は、学習指導要領が、立法なしで、官報への公示によって、法的拘束力があると主張してきたのである。だから、この文言に、「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と付け加わったからといって、ただちに「過激な教師」の「日の丸・君が代」強制反対行動が止められる根拠とはならないだろう。そもそも国歌国旗法は、なんらの罰則や強制を規定していないので、それを根拠にして、教育現場に押しつけることはできないのである。現場に押しつけている根拠は、法律に基づかない強制力・権力関係の職務関係上の「職務命令」であり、官報公示の学習指導要領である。

 さて、これらの論点は、今のところ、国会審議では取り上げられていないと思うが、戦後教育を問うというのであれば、一応議論しておかなければならない論点である。この点でも審議はまったく十分ではない。

 そして『産経』は、「政府案は家庭教育について「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と規定している。いじめや学級崩壊、不登校などの問題で、家庭の責任を問う内容になっている」ことを改めて指摘してくれている。いじめ、学級崩壊、不登校などの問題の責任を第一義的に家庭に負わせるという法案であることを再喚起しているのである。それらの問題は、家庭のしつけ・教育が悪いせいだというわけである。だから、国家が家庭教育にまで介入しようと言うのである。「やらせ」で世論操作をしたり、天下り先確保に懸命になっていたり、高校必修未履修を把握しながら4年も放置してきたモラル破綻者続出の文科省が、立派な家庭教育だのしつけだのを指導しようというのだから、あきれる話だ。いじめや学級崩壊、不登校は、家庭教育だけが原因で起きたのか? そんな単純なことではないことは、人々の方がよくわかっているのではないか? 等々。

 とにかく、この教育基本法改「正」与党案は、問題だらけ、論点だらけで、自民党結党50年などという自民党の都合などどうでもいいし、拙速に、ましてや単独強行採決などという強引なやり方で、成立を急ぐべきものではない。

 それにしても、安倍総理だけが、強行採決を喜んでいて、他の自民党議員たちが、困惑した表情、内側に葛藤を抱えたさえない表情だったのが印象的だ。安倍政権は、支持率急落途上で、当然、これは、沖縄県知事選挙にも悪影響を与えたに違いない。『沖縄タイムズ』は、16日の社説「与党単独は数の暴力だ」で、この強行採決を厳しく非難している。『琉球新報』も社説「教育基本法可決・数頼り単独採決でいいのか」で、同じく、これを非難している。地方選挙では、創価学会員が少ないので、先の大阪・神奈川の衆議院補欠選挙のような都市部の選挙ほどには、学会の組織票や組織力は大きくない。そもそも、去年の郵政選挙での地方自民党は分裂したりしてずいぶん弱っているのだから、地方党員をやりにくいように追い込んだら、選挙で十分な力が発揮できない。与党支持でも、教育基本法の早期改「正」に慎重な人が多い現状では、この与党単独強行採決は、与党支持者の力を削ぐ方に多く働くことだろう。

 民主党小沢代表が、そこまで計算して、審議拒否をやったのなら、なかなかの策士であろうし、それを知って知らずか、一か八かの危険な賭けに出た安倍総理は、やはり判断力に問題があることになろう。その結果は、沖縄県知事選挙で出る。『読売』『産経』は、教育基本法問題を沖縄知事選の争点から外そうというキャンペーンをはって、与党を助けようと懸命だが、いかんせん、沖縄の地元の代表的二紙が、教育基本法与党案に批判的だし、単独強行採決を口をそろえて非難している。郵政造反組復党問題では、武部前幹事長をはじめとして、小泉チルドレンが不満顔をしているのが誰にもわかる。党内不満分子を増やしながら、平気な顔の安倍総理の足下は危ない。小泉前総理は、高い支持率を背景にして党内の不満を押さえられたが、安倍総理にはそんな力はない。このままだと、宮沢内閣の轍を踏みそうだ。

 いずれにしても、数の力で押し切った衆議院のようには、参議院は簡単にはいかないし、沖縄県知事選挙をはじめとして、反撃の機会はまだまだあるのだから、教育基本法改悪を阻止する運動を広めていくことだ。

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教基法問題 『産経』社説はひどい

  11月15日『産経』社説「教育基本法改正 今国会で早期成立を図れ」は、あまりにもひどすぎる。

 教育の憲法とも呼ばれる重要法案の審議に十分な時間をかけることは当然のことであり、与党で3年、国会で100時間程度の審議時間は、十分とは言えない。
   
 この社説自身が、今求められているのは、学校でのいじめや家庭での児童虐待などの荒廃する教育現場の根本からの再生だと言っている。それを、現在の与党案で可能なのかどうかの検討が必要なので、まずは、今教育現場で起きている問題点を総ざらいする必要があることは誰も目にも明らかである。文科省・教育委員会・学校・地域・家庭、社会、等々と、影響があると思われるあらゆる領域を総点検して、原因を突き止め、それに対応する解決策を後押しするような法でなければならないことは、明白である。
   
 ところが、『産経』は、教育現場の荒廃の原因は、すべて戦後教育のゆがみにあると決めつけ、一言で片づけた上で、それを直すには「健全な国家意識や家族観」をはぐくむことが必要で、そのことが書いてあるから、教育基本法の与党案を今国会で採択すべきだというのである。まず、現在起きている教育現場での諸問題を、戦後教育のゆがみに還元できるのかどうかが検証されねばならない。例えば、高校必修未履修問題は、戦後教育のどのようなゆがみの現れなのだろうか? その関係について、この間の『産経』は、きっちりと書いてこなかった。『産経』が、この間の「ゆとり教育」による学力低下を心配して、授業時間を増やせと繰り返していたのが強く印象に残っている。
 
 そして、なによりも、『産経』は、与党案は、「愛国心」を明記していないなど、問題点があり、その点では、民主党案の方がいいと主張していた。ところが、民主党が、改正よりも、与党案の廃案にこだわり始めると、手のひらを返して、与党案を早く成立させろと言うのである。自分たちが気に入らない、変えるべきだと言ってきたことを棚に上げたわけである。こうして、『産経』は読者を甘く見て、自分たちが全幅の支持を与えられない法案を成立させよと言うのである。そして、政権を目指す責任政党なるこれまでの日本語になかったいい加減な造語をまたしても使っている。
 
 アメリカでもイギリスでも、野党たるものは、与党を厳しく追及して、政権交代してきたのであり、相手を追いつめた上で、妥協や部分的一時的協力が行われてきたのである。アメリカ民主党は、国防上の最大の課題であるブッシュ政権のイラク政策を厳しく批判して、中間選挙で圧勝した。イギリスでは、保守党は、中興の祖であったサッチャーの路線を否定して、ブレア労働党と対決している。これまで、民主党は、前原前代表みたいに、与党にすり寄ることが、政権奪取の道とするような間違った考えに陥って、政権延命を助けたことを反省すべきである。
 
 民主党は、最大の政治改革は政権交代だと主張してきたのであり、それには選挙で勝つしかないのだから、そのためにできることをやらなければならない。教育基本法早期改正派は、人々の間で少数派である。『産経』がなんと言おうと、選挙に勝ち続けることだ。『産経』は、教育基本法問題を地方選挙と絡めるなというが、これは『読売』と同じ詭弁だ。地方を馬鹿にすると、必ず痛い目にあう。

 『産経』の主張通り、教育基本法改悪の与党案が、与党単独で、委員会採決されてしまった。それには、安倍総理が、与党幹部に、直接、15日採決を促したことが大きかったようだ。もちろん、このような乱暴なやり方での成立の経緯は、法を傷づけるものである。与党自身が、現行教育基本法の成立の経緯を問題にしたのだから、同じように、たとえこの法案が国会成立したとしても、その傷は、将来に渡って問われ続け、消えることはない。
 
 委員会裁決後の与党幹部の顔色は悪く、強行採決の後味の悪さや沖縄県知事選への悪影響の不安やその他の悩みや自信喪失を示しているように見えた。ちょうど、安倍政権の支持率が急降下しているところで、この強引なやり方によって、さらにそれが加速される可能性がある。衆議院本会議は、与党が圧倒的多数なので、通過は間違いないところだが、参議院の方は、そう簡単ではない。会期が短いだけに、与党が、難しい国会運営を迫られることは疑いない。

 国会を約1000人が、教育基本法改悪を阻止するために取り囲んでいたというから、まだまだ希望を捨てる必要はない。残りの国会会期で、野党が徹底抗戦するようにしつつ、さらに闘いを高揚させていくことだ。安倍総理は、どこか宮沢元総理に似ている。自信過剰で、プライドが高すぎて、現実判断を誤るところがである。この強行採決の判断は、改正賛成派でさえ、慎重審議を多くが求めているという世論調査結果が出ていることから考えると、大きな判断ミスの可能性が高いと思う。教育基本法改悪反対運動は、まだまだこれからである。

 11月15日『産経新聞』【主張】教育基本法改正 今国会で早期成立を図れ

 憲法と並ぶ国の基本法である教育基本法の改正案が今国会で成立するかどうかの重要な局面を迎えている。

 与党は15日の中央公聴会終了後、衆院教育基本法特別委員会で政府案を採決し、16日の衆院本会議採決を目指している。来月15日の会期末を控え、参院での審議時間を確保するために週内の衆院通過は譲れないとしている。

 野党は「審議は尽くされていない」と採決阻止で、時間切れに追い込む構えだ。審議は先の通常国会の50時間に、今国会の46時間を加えると100時間近い。既に政府案は3年に及ぶ与党協議会での議論を踏まえ、民主党案も2年近い検討を重ねてきた。

 求められているのは、学校でのいじめや家庭での虐待など、荒廃する教育現場を根本から再生することだ。政府案は完璧(かんぺき)ではないが、戦後教育のゆがみを正し、健全な国家意識や家族観をはぐくもうという改革案である。今国会で速やかに成立を期すべきだ。

 政府案と民主党案が提案された前国会以来、より良い案にすることを促してきた。政府案は「国と郷土を愛する態度」などの育成をうたっているが、民主党案は「日本を愛する心」と「宗教的感性」の涵養(かんよう)を盛り込み、評価できる内容だったからである。

 しかし、民主党は与党との協議に応じることなく、教育基本法の改正そのものに反対する社民党や共産党と歩調を合わせ、徹底抗戦するという。

 民主党は衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議にも欠席した。最近も小沢一郎代表が「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べたことは一体、何だったのか。

 民主党は、19日投開票の沖縄県知事選で野党統一候補を擁立した。現在の対決路線はそれまで野党共闘にヒビを入れるのは避けたいという思惑なのだろうが、政権を目指す責任政党の対応といえるだろうか。

 安倍晋三首相は「法案を広く深く議論し、速やかな成立を図ってもらいたい」と述べたうえで、会期延長については「考えていない」と否定した。

 与党内でも沖縄知事選への影響を考慮して週内の採決を見送る意見があるという。国家の根幹の問題は地方選と絡めず、粛々と決着させるべきだ。

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福島県民は教基法に無関係ではないぞ 『読売新聞』

 11月14日付読売社説は、どちらも教育問題を取り上げている。

 [福島県知事選]「教育基本法とは何の関係もない」は、12日投票の福島県知事選で、民主党・社民党推薦の候補が、自民・公明が推薦する候補を、10万票あまりの大差で破ったことについて書かれている。人口200万あまりで無党派層も少ない福島県で10万票の差がついたのは極めて大きいものである。中川幹事長が、出遅れたと言っても、民主党の方も、出遅れていたのである。自民党がもっと知名度のある候補を立てることができなかったのは、5期18年の佐藤長期政権の与党として、その体制にどっぷりとつかりきっていたからで、それだけ自民党に対する佐藤知事逮捕の衝撃が強かったということである。

 『読売』が問題にしているのは、この知事選そのもののというよりも、選挙結果を受けての民主党幹部の発言の方である。
 
 「民主党の鳩山幹事長は、「教育基本法改正の論議をやり直せというメッセージだ」と語っている。与党側が今週後半の衆院通過を目指す教育基本法改正案について、採決を阻止する考えをほのめかしているのだろう。社民党も「国会内での戦いを強化する」としている」が、しかし、この知事選は、教育基本法の是非が争点ではなく、あくまでも、地方自治に関わる県政汚職や県政改革が選挙争点だったのであり、国政レベルの教育基本法改正問題は、それとは別だというのである。
 
 これは教育基本法をしっかりと読んで検討しないまま書かれたか、あるいは意図的な政略、世論操作である。
 
 教育基本法は、教育行政権を基本的に地方自治に委ねており、それに基づく教育委員会法によって、各地方毎に置かれている独立の地方教育委員会に教育行政の多くの権限が与えられている。したがって、中央教育委員会といったような中央教育行政機関を置いていないのである。それに対して、法律上は、文部科学省は、指導・助言・援助するという関係にあるとされている。しかし、これまで、文部科学省は、教科書検定権、学習指導要領による教科内容決定権などを、地方教委から奪い取り、今度の与党の教育基本法改「正」案では、さらに中央政府に教育権を集中させるために、国の責任と関与を明記している。これが成立すれば、地方の教育行政権が一層、中央政府に奪い取られることになることは明白で、教育の地方自治の内実が失われることになる。したがって、地方自治体選挙で、教育基本法問題は、地方自治のあり方を問う重要な争点の一つなのである。
 
 『読売』が言うように、教育基本法問題が、知事選挙と何の関係もないというのは、知事選で投票した選挙民に対して失礼というものである。福島県民を馬鹿にする『読売』は、福島県では、部数を多く失うかもしれない。
 
 民主党は、与党案に反対しているだけで、民主党案には賛成している。その違いの一つは、教育行政権を、地方自治体に多く認めているという点である。それはイギリス労働党の考えに似ているのだが、それでも、民主党案も、不出来なものである。与党案も、ひどいもので、とうてい「国家百年の大計」という域にはない。周知の通り、この与党案は、結党50周年を契機に法案化を急いだもので、自民党の党の都合、党利党略から生まれたものである。その先には、自民党結党の目的の一つである改憲がある。そんなものの改正を急ぐ必要はない。NHKの世論調査でも、改正賛成派でさえ6割以上が改正を急ぐ必要はないと回答している。なお、安倍内閣の支持率は、日本テレビの世論調査で9%以上、NHK世論調査で、6%以上、先月から急落している。どちらも内閣支持率は、50%台に下がった。
 
 一方の[いじめ自殺]「連鎖を今すぐに断ち切らねば」の方は、このところの 「いじめ自殺」の続発を受けて、今は緊急事態だと述べている。確かに、今は、緊急事態であり、政府も緊急事態を宣言すべき時である。まずは、この自殺の連鎖を止めるために、できることは何でもすべきである。『読売』が、学校関係者が真剣に考える必要があるというのはその通りである。
 
 『読売』は、「いじめ」が、暴行罪、侮辱罪、傷害罪などの刑法の対象になるという。学校教育の場でも法治主義の原則が適用されるべきだというのである。そこで、緊急対応と同時に、「法律という社会のルール、裁判の基礎などを教える「法教育」が義務教育段階で普及し始めている。「なぜ、いじめは許されないか」を、こうした機会に教えることも重要だ」とコンプライアンス教育を提唱する。
 
 学校教育の中に、法治主義の原則が完全適用されるとなると、その法体系の頂点には現行憲法があるわけだから、憲法教育が是非とも必要だということになる。これは、文部科学省の法治主義に基づかない教育関係説と対立する考え方で、文部科学省との対決が避けられない主張である。『読売』は、法治主義を貫いて、文部科学省と大いに闘って欲しい。しかし、この社説は、恐らく、そこまで考え、検討した上で、書かれたものではないだろう。

 いずれにしても、「いじめ自殺」の連鎖をとにかく止めなければならず、政治家も、緊急事態であることを踏まえて、議論・行動しなければならない。教育基本法改正論議もストップして、緊急の「いじめ問題」対策会議をはじめて、当面それに集中するぐらいのことが必要であろう。

 なお、教育基本法問題については、このところ『毎日新聞』社説は、他紙に比べて、優れていると思う。それは、つくいさんのコメントのとおりです。11月12日の『毎日』社説は、大変良いものだと思います。それを書こうと思いましたが、つくいさんのブログ「津久井進の弁護士ノート」http://tukui.blog55.fc2.com/の記事が参考になると思いますので、そちらを見ていただきたいと思います。

 ただ、『毎日』の教育基本法特集が、先の東京都の「日の丸・君が代」強制・処分違憲東京地裁判決について、教育基本法の「不当な支配」の排除違反だけを取り上げて、違憲判断や学習指導要領の法的拘束力について書いていなかったのが、惜しい気がします。この裁判が、教育関係の法治主義か特別権力関係主義かという昔から争点になってきた部分について問われたという点にも触れて欲しかったと思います。

  11月14日付・読売社説(1)

 [いじめ自殺]「連鎖を今すぐに断ち切らねば」

 教育現場で、尊い命が次々と失われていく。非常事態だ。自殺の連鎖を断つために何をすべきか。学校関係者全員が、真剣に考える必要がある。

 大阪府富田林市で、中学1年の女子生徒が自殺した。「さよなら」など、遺書めいたメモが残されていた。

 生徒たちがいじめの存在を証言している。学校側は「しっかり調査する」と言う。いじめはあったのかなかったのか、教師はどう認識していたのか。詳しく調べてもらいたい。

 埼玉県本庄市では、中学3年の男子生徒が自殺した。こちらは学校側が、原因と思われる出来事に言及している。「男子生徒から、同学年の生徒に金銭を要求されていると相談があった」

 「応じないように」と指導したという。しかし、「利子付きで2万円」などと要求していた生徒の側には、どれだけ厳しい指導があったのか。不当な金銭要求は恐喝、強要といった犯罪行為だ。

 7年前、名古屋市の中学生が同級生らから計約5000万円を脅し取られる事件があった。「おかしい」と、母親から最初の相談を受けた時に、学校側が適切な対応をしていれば被害は食い止められた。後に校長らが処分されている。

 いじめで、相手をののしったり、身体的特徴をあげつらったりする行為も侮辱罪や名誉棄損罪に問われることがある。殴ったり蹴(け)ったりすれば暴行罪だし、それでケガをさせれば、傷害罪も成立する。「トラブル」どころではない、いじめはそれ自体が犯罪なのだ。

 法律という社会のルール、裁判の基礎などを教える「法教育」が義務教育段階で普及し始めている。「なぜ、いじめは許されないか」を、こうした機会に教えることも重要だ。

 教師の責務は重い。生徒らの小さなサインを見逃さない。いじめを疑ったら学校組織で徹底糾明する。場合によっては、加害生徒の親にも改善要求を突きつけるべきだろう。

 教育委員会や警察、地域もアンテナの感度を高めて学校の中を注視したい。「いじめっ子のために死ぬなんてばかばかしいよ。相談においで。一緒に解決しよう」と、大人社会からのメッセージを送り続けることだ。

 北九州市の小学校長も自殺した。いじめ問題の処理をめぐって謝罪会見を開いた翌日のことだった。校長として、自ら命を絶つ覚悟を、生きて難局を乗りきる覚悟に変えてもらいたかった。

 学校が非常事態のとき、校長を孤立させてはいけない。教委には、そのための支援態勢も求められよう。

  [福島県知事選]「教育基本法とは何の関係もない」

 各候補者が選挙戦で訴えたのは「県政刷新」だった。それなのに、その選挙結果がどうして教育基本法改正案の審議に影響を及ぼすと言うのだろう。

 談合・汚職事件による佐藤栄佐久前知事の辞職に伴う福島県知事選は民主、社民両党が推薦した佐藤雄平・前民主党参院議員が、与党の推す女性弁護士らに大差をつけて当選した。前議員としての知名度の高さから保守層にも支持を広げたことが主な勝因だ。

 談合・汚職事件で傷ついた県政に対する信頼を回復するには、事件の検証とそれを踏まえた改革が重要となる。佐藤新知事は入札改革を公約に掲げ、具体策として、参加者が限られて談合しやすい指名競争入札を退け、一般競争入札を原則とすることを表明した。

 前知事が5期18年も知事職にあり、長期県政の澱(よど)みが事件の土壌になったとの反省から、佐藤新知事は自らの任期は長くても3期とすることも公約した。

 多選制限は、過去に何度か法制化の動きがありながら、憲法が保障する職業選択の自由などを損なうという批判もあって実現しないできた。知事本人が多選自粛を自主的に宣言すれば、憲法上の論点に踏み込まずに多選の弊害を取り除くことができる。

 自民党も選挙戦のさなか、知事選の場合は4選以上の候補を推薦しない方針を決めた。民主党や公明党はすでに同様の基準を定めている。こうした政党の動きも多選制限を担保することに役立つ。

 理解に苦しむのは、選挙結果を受けた民主党などの言動である。

 民主党の鳩山幹事長は、「教育基本法改正の論議をやり直せというメッセージだ」と語っている。与党側が今週後半の衆院通過を目指す教育基本法改正案について、採決を阻止する考えをほのめかしているのだろう。社民党も「国会内での戦いを強化する」としている。

 だが、教育基本法改正案は、選挙戦の争点にはなっていなかった。

 そもそも、佐藤新知事は民主党色を薄めることに努め、「県民党」を標榜(ひょうぼう)していた。演説でも、県政刷新のスローガンや地元の課題に終始していた。無論、保守層の反発を買うような「教育基本法改正反対」を力説する場面はなかった。

 民主党は、先の衆院補欠選挙で完敗したダメージの回復に少しでも役立てたいのだろう。だが、地方選挙である知事選の結果を教育基本法改正案と結びつけるのは無理がある。

 「論議をやり直せというメッセージ」などと言うことは、牽強付会(けんきょうふかい)以外の何物でもない。

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混迷する右派 潮匡人氏の場合

  日本教育再生機構(八木秀次理事長)のHPに、潮匡人氏の「「教育再生」への提言」というのが載っている。それは氏が、『正論』の巻頭コラムで、東京都内の小学校の団塊世代の女性教師が、学級崩壊に直面し、いじめ、不登校などの問題が発生したのに、担任を辞任し、その後他校に転任したという事件について書いたのだが、なんの反応もなかったということである。女性教師の担任辞任後、校長や他の教師が授業を分担し、その後、時間講師の男性教師が担任を務めた。学校側は、保護者のクラス替えの要求に応えず、いじめられた生徒は、二学期に転校した。

 潮氏は、このような事件の一番の問題点を担任だった女性教師の処遇にあると述べている。他校に転任させれば、再び学級崩壊が起きることが明らかなのに、ただ学校を移すという処遇で終えていることが問題だというのである。学級崩壊の原因はひとえに担任教師個人にあるというわけである。しかし、これまでこの女性教師が担任したクラスのすべて、あるいは多くで、学級崩壊が起きたのだろうかという疑問が生じる。
   
 それから、担任が辞任した後、担任できる人員の手当がつかなかったのはなぜかということも気になる。東京都の場合、「日の丸・君が代」強制の際に、校長の「職務権限」ということを強調し、教職員の職務服務義務を言い立てて、校長権限の強化を図ってきたことは明らかである。権限の拡大に伴って責任が重くなっていることは明らかであるから、この場合でも、校長の責任が問われることは当然であろう。潮氏は、その点をまったく無視しており、しかも、学級崩壊の原因追及をきちんと多様な角度から検証することもなく、この担任教師一人に負わせている。というのは、潮氏が本当に言いたいことは、別にあって、それを正当化するために、こうした事例の一面だけを強調することが必要だっただけなのである。この時点で、こうした教育問題を語る資格は、アウトである。
 
 潮氏が本当に言いたかったことは、比較的裕福な家庭が私立に通わせて、教育の格差が拡大・固定化している「現状を打開する特効薬はやはり市場原理の導入である」ということである。バウチャー制度を導入して、学校を自由に選択できれば、格差も縮まるというのである。多様な学校が生まれ、義務教育を廃し、私学助成をすればよいという。しかしそれは、暴論であるばかりか、たんなる空想的な思いつきでしかない。比較的裕福な家庭が通わせる私立では、授業料とは別に様々な負担が多くかかるのである。それなら、自宅などを使った寺子屋に貧しい家庭の子どもが通うことになろう。格差は、拡大・固定化するのは明らかだ。このどこが特効薬なのか? 人を馬鹿にするのもほどほどにした方がいい。こんな子供だましを誰が信じるというのか? 『正論』読者が無視したのも当然である。読者の方が賢いだけだ。
 
 「本来、公務員を選定、罷免するのは国民固有の権利である(憲法第15条)。だが、現実に罷免権は空文化している」と今度は憲法まで持ち出す。公務員の罷免権は、国家官僚にこそ行使したいものだ。「問題教師一人、教室から排除できない現状で、小手先の改革をしても意味がない。新内閣の抜本的な教育改革を期待する」。そういう極論を言う前に、問題教師一人を教室から排除することで、問題が解決するというような簡単な問題ではない。潮氏は、明治時代に、人々の反対を押しつぶして、義務教育を導入する以前の「寺子屋」教育の復活を言うが、安倍内閣の教育改革がそんなことをするわけがない。安倍首相は、公教育を前提とした改革を言っているのだから、義務教育を廃止することもありえないことは明らかだ。潮氏はどうして安倍政権の教育改革に期待できるのか理解不可能で、破れかぶれになっているとしか思えない。
 
 これは、このところの保守派の凋落・混迷ぶりを象徴しているような文章である。

「教育再生」への提言/潮匡人(評論家)

 当機構の八木秀次理事長とともに小生が連載する月刊『正論』の巻頭コラム「クロスライン」で人気TVドラマ「女王の教室」を論じつつ、以下のように「都内A区Z小学校の一例を紹介」した(平成18年5月号)。
 担任の女教師は大量採用された団塊世代。ドラマの新任教師と同様、児童になめられ学級崩壊、教室内でイジメが発生。複数の児童が不登校となり、ストレスで発病するケースも続出。救急車で搬送された児童までいる。PTAが署名を集めようとした途端、担任教師は辞任を表明。当初は校長を含む他の教師が授業を分担、その後、男性教師が担任に就いたが、時間講師のため放課後は直ちに下校、職員室にも校内にもいない。今後の人事に関する学校側の説明は年度末の今もまだない。
 万単位の部数を誇る月刊誌での告発だったが、期待した反響はなかった。この程度の話は珍しくないのかも知れない。上記の内容は、すべて実話であり、どこにも誇張はない。それどころか、続きがある。
 年度が変わり、担任の女教師はZ小学校を去った。校長も変わった。だが、保護者が求めたクラス替えは実施されず、新年度の今なお、教室は問題を引き摺っている。イジメに耐え切れなくなった一部の児童が、ついに二学期から、他校へ転校。保護者はこの間を通じ、学校側に善処を訴えたが、具体的な措置は執られなかった。
 一番の問題は、問題女教師の処遇である。なんと彼女は今年度から、都内T区に赴任。同じ身分で教員生活を続けている。T区立小学校で再び、学級が崩壊するのは時間の問題だろう。次は、どこへ赴任するのだろうか。こうした姑息な人事異動では、トランプのババ抜きゲームと変わらない。
 A区に限らず、都内の比較的裕福な家庭はみな私立中学受験に備え、進学塾に通学させている。誰の目にも明らかな教育格差が固定化しつつある。こうした現状を打開する特効薬はやはり市場原理の導入である。
 最終的には義務教育の廃止を視野に入れつつ、行政が公教育に投じる予算を私学助成に振り分けるだけで、現状の幼稚園と同様、学校選択の幅は飛躍的に広がる(蛇足ながら公務員削減と財政再建にも目処が立つ)。個性豊かな学校が続々誕生する。日本の近代化を支えた寺子屋も再生する。いわゆるバウチャー制は、その脈絡で導入すべきである。
 本来、公務員を選定、罷免するのは国民固有の権利である(憲法第15条)。だが、現実に罷免権は空文化している。問題教師一人、教室から排除できない現状で、小手先の改革をしても意味がない。新内閣の抜本的な教育改革を期待する。

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10日『読売』社説は、おかしい

   『読売新聞』が、奇妙なことをのたまわっている。10日の社説[防衛「省」審議]「国防問題で排すべき党利党略」である。

 まず、『読売』は、「社民党はともかく、民主党までもが、国の防衛に関する重要法案に審議拒否戦術をとるのは、どうしたことか」と疑問を呈しているのだが、「社民党はともかく」とは、社民党に失礼だろう。それは、防衛庁を防衛省に格上げする法案に審議拒否した民主党を批判するついでに、社民党を悪例として出すというものである。社民主義は、少なくとも西欧や中南米では政権与党になっている世界的な政権担当経験の豊富な政治潮流であり、現在でも多くの国で政権を取っている。日本の社民の場合、特殊歴史的な経過があって、他の国とは違った面があるのは確かだが、それでも、連立とはいえ、政権与党になったこともある。その点では、メンバーの中には政権与党経験者がいるとはいえ、党としてその経験のない民主党よりも、経験はあるわけである。その経験をどう評価するかは、各人の勝手だが、少なくとも、民主党よりは政権運営の経験を蓄積していることは確かである。政権与党になるために、それまでの安保防衛政策での基本政策を変えもしたのである。
 
 社民党が、地方自治体選挙で与党になっているケースはいくらでもあり、その際に、基本主張をころっと変えてしまうことは、全然珍しくない。原発反対を掲げて町長選挙に当選した後、原発推進になったこともある。それらのことからは、社民党、あるいは旧社会党であっても、政権与党になった場合には、大きく政策を転換するだろうことは明らかである。
 
 自民党にしたところで、選挙目当てに政策の転換やごまかしの党利党略は、普通にやっていることで、民主党だけが、党利党略を非難されなければならない理由はない。現に、今、来年の参議院選挙で勝つために、なりふり構わずに、郵政造反組の復党を押し進めている。
 
 防衛庁の「省」昇格の前提として、防衛庁の官製談合などの悪を一掃することが必要なことは、誰が考えても明らかであろう。もし、このような悪をする体質のまま権限を増やしたら、防衛「省」は、さらなる悪の官庁になるだろう。道徳・規範意識を強調してきた『読売』にしては、汚職などの官僚の悪に対して甘すぎるのではないか? 「泥棒に追い銭」となることを防ぐことが必要なのは当然すぎることだ。人々から信頼されないで、どうやってしっかりした防衛が可能なのか? 信頼できない官庁の権限を拡大することこそ、与党の党利党略でなくてなんだろうか。
 
 『読売』は、民主党が、この法案の賛否を明らかにしていないのは、沖縄知事選挙での野党共闘に配慮したためであろうと推測している。そして、「これでは、55年体制下の旧社会党と何ら変わりがない。責任政党とは、ほど遠い姿である」というのである。あわれな『読売』でこれを書いたのは、よほどの年長者であるに違いない。そうでなければ、今、55年体制下の旧社会党と現在の民主党を直接比較するような時代錯誤はできないだろう。頭が古すぎるのである。そして、責任政党なる特殊な概念で、何事か立派なことを語ったかのように錯覚を人々に与えている。恥ずかしいことだ。責任政党とは何か? それは自民党が、政権にしがみつくために、作り上げた造語であり、それこそ党利党略でねつ造した言葉である。それをあたかも常識的基準でもあるかのように反復する『読売』の堕落は、政権与党なら党利党略が許されるが、野党にはそれが許されないというえこひいきのレベルに達している。民主党は、責任政党にならねばならないと『読売』がいう意味は、基本政策で自民党と同じにならなければならないということだ。
 
 そして、『読売』は、防衛とは、基本的には防衛庁という役所と官僚組織の仕事ではなく、人々から委託されているだけだという基本中の基本を忘れ、諸外国が「省」だから、日本もそれに合わせなければならないという。外国がどうだろうとそんなことが防衛「省」昇格問題となんの関係があるか? なんの関係もない。日本は日本流で行くと堂々としていればいいだけだ。なんなら、外国こそ見習えと主張してもいい。
 
 『読売』は、さかんに北朝鮮の脅威を言うが、極論すれば、自分たちを守るのは、自分たち自身であって、防衛庁や自衛隊ではない。人々から信用、信頼されない軍隊などは、徒党にすぎないのである。
 
 最後に、『読売』は、「党利党略を超えて国家的視点に立ち、真摯(しんし)に法案を審議することが大事だ」として、「小沢氏には、法案賛成の方向で党内の意見集約に指導力を発揮してもらいたい」と注文をつけている。『読売』は、まるで、防衛庁の「省」昇格が、安全保障問題解決の中心課題であるかのように主張し、しかもそれは、賛成以外にないと決めつけている。しかし、政党政治は、党利党略を超えることはできないし、国家的視点なる超越的立場などはない。そのような見かけが存在するだけであり、実際には、国家的視点は、党利党略の反映にすぎない。党利党略を超えた理想郷を描いて、党利党略をごまかす党利党略が存在するにすぎないのである。

 したがってこの『読売』社説は、国家的視点なるものを理想主義的な夢想として描き、その夢想を基準にして、党利党略か否かをはかるという無茶なことをやっているわけである。基準の立て方がおかしいのだ。それを言うなら、アメリカ民主党が、ブッシュ政権が最大の国防上の課題としてきたイラク政策に反対し続けてきたことも、非難されねばならないだろう。ところが、どんな重要な国防上の課題であっても、野党たるものは、人々の期待や欲求に応え、あるいは反対すべきものには徹底的に反対すべきで、結局は、それを判定するのは、人々であるということがこの中間選挙で再度明らかになったのである。『読売』は、国防であれ安全保障であれ、結局は、どんな政権の政策であっても、否定・非難されるのは当然であり、最後は、人々の判断に委ねられるのだということを、認める気がないのであろう。『読売』は、人々のそうした選択能力や判断能力を伸ばすことに一生懸命になるべきであって、自らの政策判断を押しつけることを控えることを自らの倫理とする気がないのだろう。
 
 野党は、もっと党利党略を全面に出して、党派闘争すべきである。そうしなければ権力奪取など夢のまた夢だということは明らかである。そのくらいのことは、脱サッチャーを進めているイギリス保守党やイラク政策に徹底して反対し、暴露して勝利したアメリカ民主党から学ぶべきだろう。このような党派闘争の政治過程でこそ、それぞれの代表する階級階層が何かがはっきりと現れるのである。野党は、もっと党派闘争を! 政権の広報『読売』は、余計なことを言って、政治介入せず、与党機関誌になるな!
 
  読売社説(1)国防問題で排すべき党利党略」

 社民党はともかく、民主党までもが、国の防衛に関する重要法案に審議拒否戦術をとるのは、どうしたことか。

 防衛庁の「省」昇格関連法案の実質審議が、ようやく衆院安全保障委員会で始まった。民主、社民両党は防衛施設庁発注工事を巡る官製談合事件の審議が不十分として欠席した。

 衆院本会議で、先月27日に法案の趣旨説明が行われてから、すでに2週間も経過している。

 民主党は委員会での審議入りの条件として、官製談合事件の集中審議を要求した。安全保障委員会では、3日間、12時間にわたって談合事件に関する集中審議が行われている。このこと自体が法案の審議入りの引き延ばしだ。

 省昇格と官製談合事件の追及とはまったく別の問題である。

 民主党の小沢代表は、防衛庁の省昇格に繰り返し賛意を示してきた。民主党内には「国防省設置を早期に実現する議員連盟」もあり、省昇格に賛成する議員は、少なくない。

 にもかかわらず民主党は、省昇格関連法案への賛否を決めていない。政権交代を目指す野党第一党が、今になってもなお、こうした重要法案への賛否を決められないのは、おかしなことだ。

 背景には、沖縄県知事選で、野党統一候補を擁立していることがある。今回の審議拒否にも、19日の投票日までは法案に反対の共産、社民両党と足並みをそろえたいとの思惑があるのだろう。

 これでは、55年体制下の旧社会党と何ら変わりがない。責任政党とは、ほど遠い姿である。

 防衛庁は、日本の平和と安全を守る任務のため、陸・海・空の自衛隊という実力組織を有している。安全保障政策にも責任を負っている。

 内閣府の一外局に位置づけている現状では、防衛長官は直接、防衛に関する重要案件を決める閣議を請求できないし、財務相に予算要求もできない。

 近隣諸国はじめ、諸外国で国防を担当する官庁は、すべて「省」であるのに、日本だけが「庁」ということが、そもそもおかしい。

 北朝鮮の核武装によって深刻な脅威にさらされ、日本の安全保障環境は著しく悪化している。防衛庁を「省」にすることで、責任と権限を明確にし、有事は無論、安全保障環境の変化にも迅速に対応できる体制を整えることが急務だ。

 党利党略を超えて国家的視点に立ち、真摯(しんし)に法案を審議することが大事だ。小沢氏には、法案賛成の方向で党内の意見集約に指導力を発揮してもらいたい。(2006年11月10日『読売新聞』)

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教育問題 法律論議よりも、まずは現場から学べ

 8日は、教育問題でのいろいろな情報が新たに出た。

 まず、首相の諮問機関である教育再生会議の分科会の初会合が開かれた。開かれたのは、「学校再生」と「規範意識・家族・地域教育再生」の両分科会で、高校必修科目履修漏れや「いじめ」問題などについて議論されたという。その中では、教育委員会制度の見直しを求める意見が多かったという。同時に、中央教育審議会(中教審)が、授業時間の拡充の方向での学習指導要領見直しの検討を進めている。同じ政策提言を追認するだけだと教育再生会議を新設した意味がないのだが、基本的なところで、中教審と教育再生会議の考え方は、似ている。無駄な気がする。なんでもやればいいというものではない。やらない方がいい場合もある。
 
 つぎに、文科省が、「いじめ自殺」の調査方法の見直すことを決めたというものである。これは調査が実態を正しく反映していなかったのだから、当然である。あらためて、「いじめ」の定義について検討するというが、そんなことすらできていなかったのかと唖然とするような話である。調査項目が15あって、自殺かどうかを調査中の事例を「その他」に入れて学校が報告するケースがあって、「いじめ自殺」数がゼロになってきたという。伊吹文科大臣は、安易に「その他」に入れないように求めるという。
 
 高校必修科目履修漏れでは、伊吹大臣が、大学センター試験で、6教科(国語、地理歴史・公民、数学、理科、外国語)のすべての受験義務化を検討する考えを示した。「高校は予備校ではない。(習熟度の判断を)校長の認定する卒業証書だけに任せておくのは考えなければならない」と強調したという。センター試験での受験科目は、大学や学部に任されている。
 
 必修科目履修漏れが新しく明らかになった愛媛県立新居浜西高校の校長が自殺した。さらに、9日に明らかになったのは、旧文部省が、2002年度には、大学生への調査で、高校必修未履修がすでに広く存在することを把握しながら、なんの対応も取っていなかったということである。これで、文部科学省にもこの問題での責任があることがまた新しく判明したわけである。
 
 総理府が各地で行ってきた教育改革タウンミーティングでの「やらせ質問」が、青森県八戸ばかりではなく、何度も繰り返されてきたことが明らかになった。他方で、衆議院教育基本法特別委員会が行っている教育基本法地方公聴会では、賛否両論が出ていて、改正支持派の中にも慎重論議を求める意見も出た。
 
 教育基本法改「正」案の委員会採決を早期に行うことを与党が決めたという報道が行われている。このようないっぺんの法律で、今噴出している教育問題が解決するということはありえない。現在は、これら諸問題や文部科学省や教育委員会や入試制度やその他の教育分野の総点検・総洗い直しに集中すべき時であって、その結果を受けて、法律問題に取りかかるべきなのである。その点では、民主党が、「日本国教育基本法案」なる対案を出したのも、間が抜けている。もっと、のんきな法律談義をやっている場合ではないということをはっきりと主張して、法案成立を阻止しつつ、肝心な教育議論の方に集中して、人々の関心や期待に応えることである。
 
 アメリカで、民主党が中間選挙で大勝利したが、民主党は、ブッシュ共和党のイラク政策を暴露して、有権者の希望や期待に応えたことで、それを実現したのである。イラク戦争を推進してきた軍需産業の代弁者ラムズフェルドが退任した。これは大きなことである。日本の野党も、それから学ぶべきであろう。あんな気の抜けたような空中戦の党首討論など、一体誰が気にしているというのだ? 多くの人は、そんな議論には関心がない。言葉遊びに終始すれば、それだけ見放されることになるだけだ。今多くが聞きたいのは、教育問題をどう解決するのかということである。それには、まず現場の実態を掴むことであり、そこから学ぶことである。その上で、問題解決に資する制度や法はどうあるべきかという論議を進めることである。
 
 どうやら日本の保守派内には、サッチャーの教育改革を過大評価し、神聖視して、それをまねようという者が多いようで、サッチャーが、まず教育基本法から手をつけたので、日本でもそうすべきだと信じている者が多いようである。しかし、それは、地域破壊や格差拡大・固定化、地域間格差の増大、偏差値主義、落ちこぼれ問題、などの深刻化をもたらし、労働党によるコミュニティー重視の政策転換や地方からの骨抜きが進められて、破綻しつつある。保守党さえ、サッチャーイズムからの脱却を進めているというのに、日本では、これからそれを取り入れようと野党の民主党まで主張しているというお寒い状況である。見る限り、教育をめぐる問題の根は深く、それは戦後教育の問題というレベルには止まらない。もっと射程を伸ばして、明治維新後の日本の近代化の過程を問うという次元で見直しをしないと屋上屋を重ねることにしかならない。
 
 例えば、「いじめ」問題をめぐる言表が、あまりにも決まり文句であり、それが人々の表現を縛っていて、同じ言表が繰り返されるという事態は、教育言説の機能によるものだが、それが形成されたのが、この近代化の過程であったからである。なぜ、人々は、このような言表から、決まり文句から、ワンパターンの表現から抜け出せないのか? なぜ、「いじめ」が、私的な領域に追放され、不可視となることで、かえって、深刻化していくのか? 「いじめ」られた側が、それをあくまでプライベートな事態と受け止めて、一人で問題を抱え、そして自殺していくのか? 「いじめ」は、私的な出来事なのか? それとも公的な出来事なのか? 公教育に私的なものを浸透させていくという現在の教育改革論議は、このことにどう関わっているのか? 私学と公立学校を根本的に区別するものは何か? 公教育の再編の中で、公的なものと私的なものが、曖昧に混ざり合っていく状況は、「いじめ」の私領域化とどう関わっているのか? 等々。
 
 足立区で、学力テストの成績に応じた予算配分を行うとする方針が、先日撤回された。それについて、伊吹文科大臣は、「よかった。しかし、教育で成果があがらなければ、競争主義を導入することもあり得る」と述べた。あからさまな恫喝である。競争主義は、恫喝の手段なのか? 競争主義が導入された場合、私学と公立の区別はどうなるのか? もともと、私学は、創設者が、有為の人材を育成することを目的とし、独自の建学の精神を掲げて、私財を投じて設立されることが多く、直接的な営利を目的とするものではなかったが、近年の私学は、露骨に、営利を目的とする経営を行っているところが多いように思われる。であれば、それは公教育の範囲を逸脱していると言えるのではないだろうか? ここで一体何が私的なもので何が公的なものなのか? 私学の公的性格とはなになのか? 逆に私性とは? 学校収入の性格から、それを判断することは適当か? 納税者意識を強調する議論からすれば、公立は、授業料などは税金でまかなっているわけだから、公的と言えよう。私学は、多くが私学助成金を得ているので、公的性格もある程度は持っているのだろうか? しかし、義務教育は、私学であっても公立であっても同じだから、収入形態にかかわらず、公的性格があると言えよう。義務か任意かというのは、公的私的の区別の標識だろうか? 営利か非営利かというのは、公私を分かつ標識の一つであろうが、これとて、例えば、NPOと官僚団体とは、公的私的という風に完全に分けられるかと言えば、そうでもない。ここでは、法的規定の違いということがあり、何が国家団体で、何が非国家団体かという区別は、政治的に規定されている。公務を扱う団体でありながら、民間的な独立法人化が検討されている社会保険庁解体再編問題がそうである。
 
 教育委員会とは何かという議論でも、似たようなレベルの問題が出てくるのは確実である。学校問題でもそうである。私学と公立を分ける理由は何かが問われる。教員の地位の問題は、かつては、労働者か否かという点が主な争点だった。そういう古い問題意識のままなのが、日本教育再生機構の八木理事長である。労働者でないのならば、解雇ということはあり得ない。それで、分限免職なる別概念があるわけだ。政治的に、民間の労働者とは違う特別な身分とされているからである。公務員はすべてこうした政治的に規定された身分であって、それは、市民社会と公的社会の分離によって、政治的に形成された国家・公共団体の成員の特殊な職掌と地位・身分が確立したからである。何が公共的な仕事かは、様々な歴史的事情によって決まるのであり、かつて、鉄道はそうした公共の仕事であり、国家が経営するものとされていたが、それも民営化されて、国家団体から市民社会に移された。逆に、明治時代には、私鉄が国有化された。しかし、経営が民間になったからといって、仕事の公的性格がなくなるわけではない。
 
 いろいろと飛んだが、教育をめぐって検討・議論しなければならないことは、広く深く多く、時間がかかるということは明らかである。

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教育委員会改革論議によせて

  高校必修未履修問題の発覚や「いじめ」自殺事件の続発などの教育をめぐる諸問題の発生を受けて、教育委員会がやり玉にあがっている。

 11月7日『日経』社説は、「教育委員会改革は分権の視点忘れるな」として、教育委員会のあり方をめぐる政府内の議論について、自説を述べている。

 この間の教育をめぐる諸問題での教育委員会の対応が不十分だったとして、政府内では、委員の人選や事務局体制を見直して、強い指揮監督機能を持たせると同時に国の関与を強めようという意見が出ている。
 
 それに対して、『日経』は、規制改革・民間開放促進会議などは、教委の設置を任意化し、自治体首長が権限と責任を持つようにすべきだと提言しているという。教委強化策は、こうした分権の流れに逆行するというのである。いかにも、小泉構造改革を支持し続けてきた改革主義者の『日経』らしい批判である。では、『日経』の改革案は何か?
 
 まず、現在の教委の問題点について、『日経』は、地方自治法に規定されている教委の権限と責任の所在があいまいであることを指摘する。教育委員は、首長が任命し、事実上、名誉職化している場合が多い。多くの教委は形骸化していて、実権は事務局トップの教育長が握っている。教員の人事権は、都道府県教委にあり、地域の実情が反映されにくい。私学は、首長部局の担当で、公教育とは別扱いなのである。
 
 「地方制度調査会は昨年12月、「教委の設置は自治体の選択制にすることが適当」と答申。全国市長会と町村長会も今年6月、選択制を要望した。規制改革・民間開放推進会議は7月の中間答申で、「画一的に設置された教委は国の指導助言等に基づく上意下達システムとして機能しがち」としたうえで設置義務撤廃の方向を打ち出し、年度内に結論を得るとしている」。こうした教育委員会改革議論がすでにあり、それを『日経』は支持しているわけである。
 
 先の、『毎日新聞』社説での教委改革についての主張も同様であった。これらは、小泉構造改革路線下で進められた地方分権の強化策を基調としているもので、現在でも一つの潮流を形成している。
 
 それに対して、伊吹文部科学省大臣などは、教育委員会の権限を強化すると共に国の関与を強める方向での教委改革を打ち出している。現在は、政府・文科省は、教育委員会に対しては、助言・援助などを行う立場である。しかし、教育委員会の行う仕事は、①学校など教育機関の設置、管理及び廃止、②教育財産の管理、③教育委員会や学校など教育機関の職員の任免その他の人事、④児童生徒等の就学、入学、転学、退学、⑤学校の組織編制、教育課程、学習指導、生徒指導、職業指導、⑥教科書その他の教材の取扱い、校舎などの施設や教具などの設備の整備、⑦教育関係職員の研修、⑧教育関係職員、児童生徒等の保健、安全、厚生、福利、⑨学校など教育機関の環境衛生、⑩学校給食、⑪青少年教育、婦人教育、公民館活動など社会教育、⑫体育文化財保護、⑬ユネスコ活動、⑭教育に関する法人、⑮教育関する調査、統計、⑯教育相談、広報、と多岐に渡っている。大学と私学については首長の仕事とされているが、それがなぜなのかはわからない。こうした縦割りが、高校必修履修漏れの私学に対する調査が遅れた原因になっているのかもしれない。
 
 他方で、日本教育再生機構理事長の八木秀次氏は、7日の『毎日新聞』「教育基本法改正を聞く」「組合活動 法で制約を」のインタビューで、「いじめ」や履修不足の原因を、地方分権の行き過ぎで文部科学省が教育界をコントロールできなくなったことに求めている。教育分野での中央集権の強化が必要だというのである。そのために、教育基本法改正が必要だという。その狙いは、露骨に、日教組の組合活動を法的に制約することだと語っている。それが必要な例として、卒入学式での「日の丸・君が代」強制の問題をあげ、「学習指導要領は法的拘束力があるのに、指導の義務がある国旗国歌掲揚・斉唱が守られていない。東京地裁は国旗・国歌で「都教委の強制は違憲」と判断しましたが、16条で法令の縛りがかかり、教職員の活動も大きく制約されます」と述べている。しかし、学習指導要領は、指導するように書いてあるが、教職員自身が国旗を掲揚し国歌を歌うべしとは書いていない。そして、地裁判決は、東京都の「国歌・国旗」強制を憲法違反と判断した。いかに、教育基本法で法律遵守義務を課したとしても、憲法を超える法が存在してはらないのし、現行憲法遵守が基本法遵守に優先する。八木氏は改憲派で、現行憲法を真面目に遵守しようという気があまりないのかもしれないが、現行の法体系の下では、こういうことになる。
 
 この人については、この間の「新しい歴史教科書をつくる会」内紛騒ぎなどからの動きや発言や書いたものによって、保守を僭称する権力の「太鼓持ち」であることが暴露されて、多くの人の失笑をかっている。保守とは何かについてのなんの確乎とした思想も見識もないのである。学校に競争を持ち込めば、組合活動ばかりの学校には生徒が集まらなくなるのだそうだ。サッチャー教育改革後に、イギリスの教組が衰えたか? とんでもない。アメリカでは、イラク反戦の中心的役割を果たしている組合の一つが、教員組合である。福音派などの教育反動はどうなったか? 教育委員選挙で、進化論支持派に敗れた。そして、福音派の大物指導者が、トランスジェンダーの権利を擁護し、今後、それに敵対しないことを表明した。新保守派の一部は、ブッシュ共和党が、イラクで惨めな敗北を喫しつつあることを、アメリカの尊厳を傷つけたと非難した。今度のアメリカの中間選挙では、共和党支持者の多くが、民主党候補に投票すると答えている。

 今の日本の保守派は、醜い。政権にすり寄るために、節を曲げ、平気でうそをつき、仲間を裏切り、野合する。金や地位が欲しくて、大金持ちや大企業に媚びを売る。
 
 本題からはずれてしまった。まず、天下りが多いと言われる文部科学省の教育への関与を強めるというのは、オオカミに羊の番をさせるようなもので、危険が大きい。現に、文部科学省からの出向者が現在でも地方の教育委員会にいる。したがって、文部科学省が、この間の学校をめぐる問題に責任がないなどということは言えない。そして、国は、総理府が、教育改革タウンミーティングなるもので、「やらせ発言」を参加者に依頼し、議論を自己に有利なようにリードしようとしたように、とうてい、道徳的に立派な連中からなっているわけではない。こんな道徳破綻者が、他者を導く指導だの監督だのを立派に努められるということを前提にすることはできない。狐が狸を指導・監督するようなことは、現場の混乱を拡大するだけだ。「隗より始めよ」で、文部科学省の天下りその他抱える問題の実態を徹底的に調査することからである。

 現在の教育委員会が、重要な教育分野の仕事を委ねられているにも関わらず、その責任を果たしていないということが、この間の事態で明らかになったのだから、まずは問題点の洗い直しが必要である。『日経』が言うような、分権化が、高校未履修問題や「いじめ」事件の解決につながるのかどうかは、より具体的な検討が必要で、これだけではわからない。規制改革・民間開放促進会議などの提言は、文部科学省が「いじめ」は減少しているという怪しい報告を出していた頃につくられたもので、この間新しく得られた実態情報を含めて検討されたものではないので、最新情報の検討を含めた対策が必要になっていることは明らかであるから、なお、時間をかけて、検討を進めるべきである。
 
 『日経』社説1 教育委員会改革は分権の視点忘れるな(11/7)

 教育委員会のあり方をめぐる議論が政府部内で活発化している。背景には、自殺者が相次ぐいじめ問題や全国で発覚した履修漏れ騒動への対応が不十分だという強い不信感がある。そこで勢いを増しているのが、委員の人選や事務局体制を見直して強い指揮監督機能を持たせるとともに、国の関与も強めようといった意見だ。教育再生会議でも具体策を検討するという。

 しかし、こうした発想だけで教委改革を進めていいのだろうか。規制改革・民間開放推進会議などは教委の設置そのものを任意化し、首長が教育行政の権限と責任を持つことも可能にすべきだと提言している。教委強化策はこうした分権の流れとは逆行する形になる。

 教育委員会は地方自治法により都道府県や市区町村に例外なく設置すると決められている。教育行政の政治的中立性などを確保しようと、戦後、米国をモデルに導入された。

 ところが、理念とは裏腹に実際は権限と責任の所在があいまいだ。委員は首長が任命するが名誉職の色合いが濃い。多くの委員会は形骸化し、実権は事務局トップである教育長が握る。教員の人事権は都道府県教委が持ち、地域の実情が反映されにくい。私学は首長部局の担当だ。

 一連の不祥事での対応のまずさは、こんな実態に根差している部分があるのは間違いない。現行制度存続を前提に考える限り、委員の常勤化や教育長の権限の明確化などの改善策を探る意味はあろう。しかし問題意識は共通していても、規制緩和や地方分権の観点から、より根本的な改革を志向する声が相次いでいることも忘れてはならない。

 たとえば、地方制度調査会は昨年12月、「教委の設置は自治体の選択制にすることが適当」と答申。全国市長会と町村長会も今年6月、選択制を要望した。規制改革・民間開放推進会議は7月の中間答申で、「画一的に設置された教委は国の指導助言等に基づく上意下達システムとして機能しがち」としたうえで設置義務撤廃の方向を打ち出し、年度内に結論を得るとしている。

 いじめ問題などで教育委員会が十分に機能せず、関係者のなれ合いや隠ぺい体質が目に余るのは確かだ。だからこそ教委にこだわらず、首長の権限と責任で教育行政を総合的、機動的に展開できるようにすべきだとの考え方が出てきたのではないか。教育再生会議などでは性急に教委強化論に走るのではなく、分権の視点も踏まえ、そもそも教委とは何かを問い直す議論を進めてほしい。

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4日の教育問題の諸社説

  11月4日の『毎日新聞』『東京新聞』『産経新聞』は、それぞれ社説で、教育問題を論じている。その中で、『産経』社説を読んで、戸惑いを感じた。

 まず、社説は、高校必修未履修問題の文部科学省の特例措置を書いた上で、「絶対に前例にしてはならない」とくぎをさしている。そうでないときちんと履修している9割の高校との間に不公平になるからである。ここまでは妥当な意見である。

 1割の必修未履修の高校が、受験偏重だったと問題点を指摘した上で、「受験教育は大切だが、生徒全員に課された必修単位は取得させておかねばならない。それが公教育というものである。当然のことだが、来年からは、進学校も指導要領に沿った時間割を組むべきだ」と主張する。『産経』は、ここで、学習指導要領の法的拘束力を強調する文部科学省の立場に立つ。

 それから、校長の自殺を取り上げて、生徒の「いじめ」自殺事件が相次ぐ中で、生きて命の大切さを教育・指導してほしかったという。「生きる力」の教育が必要だというのである。

 だが、今度は、「現行の指導要領は「ゆとりの中の生きる力」の育成をうたった平成8年の中央教育審議会答申などを受け、主要教科の授業時間が大幅に削減されている」と、「生きる力」の育成と教育をうたった現行指導要領の「ゆとり教育」の問題を指摘する。学力低下は、高校でも進み、それが大学にまで及んでいる。その大学では、5教科7科目の受験科目を課しているところも多い。私立大学では、これまでの3教科3科目から、2教科に減らす所も出てきているという。

 「学力低下のしわ寄せは大学にまで及んでいる。ゆとり教育を推進してきた旧文部省の責任は極めて重い。小中高校を通じ、子供たちの学力向上を図る抜本的な指導要領の見直しが求められる」ということで、結局、この社説の結論は、「ゆとり教育」による学力低下が悪であり、学習指導要領を学力優先で見直せということである。

 「生きる力」、命の尊さを教育するための時間・授業のあり方については、一切書いていない。校長が自殺などせずに、生きて、そういう指導・教育にあたればいいということしか書いていない。『産経』は、学力の中身は何か? 教育の目的とはなにか? 等々、問い直しが必要だというようなことを、書いていたように思うが、それはどこにいったのか? 学力主義に戻した場合、詰め込み教育の弊害が指摘された70年代に逆戻りしないだろうか? クラブ活動やボランティア活動の時間はどうなるのか? 

 サッチャーの教育改革以前には、イギリスには、学習指導要領にあたる全国一律のカリキュラムはなかった。おそらく今のアメリカにもない。サッチャーは、日本に学習指導要領システムを学ぶために、視察団を送り込んだ。しかし、それも、地方分権化が進められたブレア政権下のもとで、自律を強めるウェールズなどの地方政府による骨抜きが起きている。学習指導要領に従うのは当たり前だ、それが公教育というものだ、というのは、現場の校長などから、学習指導要領の中に、現場の自律的な裁量行使の幅を増やして柔軟に対応できるようにしてほしいという声があがっているのを、問答無用で切り捨てる官僚主義的な主張である。公報じゃあるまいし、こんな「石部堅吉」も困ったものだ。

 なによりも問題なのは、今、教育をめぐって生じている様々な問題を、上からの行政命令遵守で乗り切れるかのような誤ったメッセージを送っていることだ。それで解決がつくような話ではないことは、今多くの人にとっては分かり切っていることだ。だからこそ、学校が地域や家庭との連携を進めたり、様々なNPOなどの活動が行われているのである。学校現場は、地域や家庭の抱える諸問題が持ち込まれるなど、地域における社会関係の要石的な位置に立たざるを得なくなっているのである。それは別に、教育理論とか学習指導要領とか教育基本法がどうとかいうレベルの話ではなくて、それこそ、地域・家庭の問題解決能力の低下にともなって、そのレベルの諸問題が学校に持ち込まれるようになったという現場の事情によって、そうなっていかざるをえなくなったのである。

 ある教員から訊いたところでは、校長室で、夫婦げんかの仲裁が行われることまであるという。学校にそうしなけばならないという法的な義務もなければ、教育委員会の指導があるわけでもない。他に解決できるところがなく、夫婦げんかの仲裁まで学校に持ち込まれるのである。しかし、それも、教育を広くとらえるならば、夫婦関係が子どもの教育に影響を与えることも事実だから、無関係というわけにはいかないということも言える。そういうところに、上から、ご立派な「愛国心」を明記した教育基本法だの学習指導要領どおりの教育だのというご託宣を並べたところで、なんの問題解決になるのか? ただ混乱を与えるだけである。

 そんなご託宣ばかりを並べる『産経』社説を読むと、いらいらしてしまう。

 『東京新聞』は、課題を並べ、「教育のあるべき姿について英知を結集して欲しい」としている。

 『毎日新聞』社説は、「教育委員会 このままでは無用の長物だ」として、高校必修未履修を見逃し、旭川市の「いじめ」自殺事件での不適当な対応をした教育委員会問題を取り上げている。この間、教育委員会は、名誉職的になり、実行力がないことが指摘されてきて、それなら廃止した方がいいという声が、経済界から強まっているという。『毎日』は、その前に、教育委員会が、自己改革プランをまとめて、自発的に変わるべきだと述べている。

 教育委員会をめぐっては、各学校に進学率の数値目標を出して競わせて結果を問う成果主義を取り入れるところもあり、さらに、東京都のように、知事好みの委員ばかりを任命して、知事の私兵のような存在になって、「日の丸君が代」の学校行事での強制の先兵となったり、と、教育の中立性を逸脱しているところもある。教員の人事権を握っているために、自民党は教育委員会を日教組解体のための手先とすることを狙っている。アメリカでは今でも教育委員会は選挙制であり、先の選挙では、進化論否定派対肯定派の争いで、肯定派が勝利した。日本の教育委員会公選制は、1956年に廃止された。

 『毎日』は、「この結果、首長の影響が強まるとともに、中央(文部科学省)-地方(教委)-現場(学校)という上意下達の形が色濃くなった。また委員が地域の名士や教員OBの名誉職のようになるなど形がい化の指摘が出るようになった。こんな状態は学校との間で「なれあい」も生みやすく、今回の不祥事で動きが後手に回った背景にはこれがあると批判も起きた」と書いている。

 この問題は、学校教育への住民参加のあり方の問題であり、現在では、ほぼPTAに限られている参加者だけでいいのかという問題でもある。この間の、通学下校途中で生徒・児童が、犯罪に襲われる事件の続発や児童虐待事件の多発などを受けて、地域・家庭との連携が課題として持ち上がっているのだが、それには、地域が学校教育に参加・関与する仕組みが必要とされている。教育委員公選制は、そうした仕組みの一つとなるものであったが、すでに廃止された。教育への住民参加の門をできるだけ狭めておきたいというのは、党派的な思惑が背景にあるためであろう。門戸開放がすぎると、左派などがそこから大量に進出してきて、教育に対する影響力を強めかねないというような心配である。

 しかし、東京都などでは、現場が混乱しようとおかまいなく、上からの「日の丸君が代」の儀式での強制を仕掛けた。上からの内乱を起こしたのである。下からの混乱ではなく、上からの混乱が起きているのである。教育委員会が、上意下達の中間官僚機関にすぎないのであれば、行政官僚に置き換え可能である。が、教育にとって必要な自律性を確保するには、それは不適切である。現場にとって役に立ち、問題解決力を伸ばす教育行政機関となり、上意下達の中間機関ではなく、現場からの要求と必要を上に突きつけ、実現を図る機関になれれば、素晴らしいことだ。

 いずれにせよ、必要とされる教育論議の内容は多く、時間がかかることである。 

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「いじめ」問題について

 最近の教育問題をめぐる議論が、高校必修科目未履修問題と「いじめ」事件の続発を契機としていることは明らかだ。
 
 その前に、昨年に小学生の教師への暴力事件が急増したというデータが出ていた。しかし、文部科学省は、学校現場からの報告をもとに、「いじめ」が減少しているという見解を公表していた。実際には、「いじめ」は減少しているのではなく、学校の過小報告や潜在化したことによって、統計データに現れなかったのではないかという疑問が指摘されている。
 
 「いじめ」はなくさなければならないことであることは明らかであるが、他方で、かつて『マルコ・ポーロ』事件で、アメリカのユダヤ系人権団体から、「ホロコースト」事件を否定した文章が攻撃されて、雑誌そのものが廃刊になるという目にあった西岡昌紀氏は、自身のブログ記事で、「いじめ」自殺には、うつ病などの複合的な要因があるのではないかと言っている。もし、うつ病が関係しているとすると、うつ病患者に対する不適当な対応がなされたかもしれないと書いている。周知のように、うつ病患者には、はげましはかえって症状を悪化させるのだが、そうした精神医学上の知識を持たないまま、周りの人々が病者に不適当な対応をしなかったか等々を検証した方がいいというのである。
 
 他方で、「いじめ」をする側の方には、病理の症候はないのかということも考えなければならない。先日どっかのテレビ番組で、「いじめ」を受けた人が、「いじめ」た側を追求していったところ、実は、その中にかつて「いじめ」を受けたことがある人がいて、今度は、その人が自殺してしまったということをやっていた。かように、問題は、病理的な様相を呈しているように見える。

 「いじめ」られないため、つまりは自衛のために、「いじめ」る、つまりは先制攻撃するということではないだろうか? そうしなかった者が、自殺・不登校に追いつめられる。どこか、真っ先に、ブッシュのイラク戦争を支持した小泉総理のやり方と似てはいないか? 自分がいじめられないために、いじめる側に立つという点で。それはともかく、こうした場合にこそ、被害者側の諸個人に認められているのが、自然権としての自衛権であって、それは人工的につくられた国家には自然権として認められているのではなく、政治的に認められたものである。この違いを曖昧にしているか、全然気にもとめていない議論があるが、それはおかしい。
 
 こうした「いじめ」事件を見るたびに、「いじめ」た側を、「いじめ」たくなるのだが、そういうことを思っても、そこで踏みとどまって、実際には、そういう言葉を出すのを押しとどめる。それは、なぜだろうかと考えてみる。
 
 たとえば、「死ね」と言っていじめた者に対して、「おまえこそが「死ね」」と心の中では言ってみても、実際には、そんなことを口に出さない。それを言ってしまったら、自分も「いじめ」た側と同じになってしまうし、それが問題解決のためにならないとわかっているからだ。キリスト者ならそう思った時点で罪を犯したことになるのかもしれないが、多神教で仏教の影響が強い日本ではそうは考えない。日本の場合は、多元的に考えるというのが普通である。なぜなら、様々な神があるのと同様に様々な考え方があることが前提となっているからである。われわれは、こうした問題についても、複数の審級が並存している中で、考え、判断しようとする。これは大変なことのように思われるが、それほどでははない。それに慣れているからである。これは一つの共同体には必ず他の共同体があって、それは別の神や仏を信仰していて、別のルールを持っていたからである。「郷に入っては郷に従え」というのも、複数のルールが存在していることが前提に成り立つことわざである。もちろん、近代にはいり、共同体が壊されていって、ルールの全国共通化が進められる中では、衰えていくのではあるが、日本語の構造には、それがある。
 
 西欧では、こういうことは、多元主義哲学という論理学や難しい議論を必要としたが、日本ではその必要はない。むしろ常識の問題である。西欧では、ヴィトゲンシュタイン、バシュラール、フーコー、などがこれに取り組み、最近では、イギリスのハーストが、多元主義哲学を発展させようとしている。ハーストは、多元主義哲学とアソシエーション理論を結合しようとしている。ポスト・マルクス主義のラクラウ・ムフについては、ここでは微妙とだけ言っておこう。
 
 「いじめ」た側が、それに対してなんらかのペナルティーを課せられなければならないのは当然だが、しかし、それが病理として、症候として、把握されるならば、もっと違ったやり方が必要である。西岡氏の主張から、そういうことが言える。犯罪加害者が、ずいぶん後になって、フラッシュバックに襲われて、強い後悔の念にとらわれるということもある。つまり、事件に対する見方が、人生の途中で変化してしまうということがある。
 
 「いじめ」る側が、あらかじめそうした苦悩を将来味わうことになるかもしれないことに思いが至ることは難しい。それができたら、そもそも「いじめ」ないだろう。「いじめ」が、関係の問題、コミュニケーションの次元の問題をはらんでいることは明らかである。そこに、言表の規則性が関わっていることも。そして、硬直化した表現、ドグマが表現をしばるということが関係している。双方が特定のコミュニケーションのパターンに拘束される。それによって、多様で開かれたコミュニケーションが閉ざされる。その息苦しさ、消耗、苦痛、悲惨は、双方をむしばむ。加害者は加害者なりに傷つくのである。彼らは、自分たちはこの世に生きる資格があるのだろうかと問われるし、自分に問う場合もあろう。
 
 表現を洗濯すること、言表の規則性を揺るがし、表現の空間を拡大すること、分散すること、等々。学校という閉ざされた空間を地域・家族その他の多元的空間へと開くこと。緊急避難的な措置と安全安心の確保、そして、現在の社会のあり方の問い直し。なぜなら、リストラや職場の「いじめ」を放置して、学校での「いじめ」だけをなくすことはできないから。現場が抱える諸課題を総点検・総ざらいし、それらを検討・議論した上で、対策を取るべき時である。
 
 いじめ自殺の多発について

 いじめ自殺の多発に、非常に心を痛めて居ます。この様ないじめが有る事自体に、深い悲しみと怒りを覚えますし、真実を隠す学校や教育委員会に対して私が怒りを抱いて居る事は言ふまでも有りません。特に、学校や教育委員会が、加害者を守る事ばかりである事に強い憤りを抱いて居ます。そうした事について、言ひたい事は山ほど有るのですが、報道を見て居ると、言はれて居ない問題も有る様な気がします。それは、こう言ふ事です。
 いじめは、もちろん、許される事ではないし、学校や教育委員会の対応もひどい物です。しかし、それでも、子供が自殺までする背景には、何か別の問題が加わって居ないか?と、私は、思ふのです。いかにいじめがひどいとは言へ、子供が自殺までするのは、異常な事です。そんな異常な事が起きるのは、自殺した子供たちが、極めて異常な精神状態に追ひ込まれて居たのではないか?もっと言ふなら、鬱病に追ひ込まれて居たのではなかったか?と思へてならないのです。個々の事例は、個別に分析されねばなりませんが、この可能性にもっと注意が払はれるべきです。もし、自殺の原因に、いじめその物に加えて、自殺した子供たちの鬱病と言ふ要因が加わって居たなら、自殺の予防には、精神科的な配慮が必要に成ります。例えば、鬱病の患者は、励まされると症状が悪化しますから、励ましてはいけないのです。被害者が、鬱病に罹患して居る場合は、そうした精神科的配慮が学校でも家庭でも、決定的に重要に成ります。学校も家庭も、子供たちがいじめによって鬱病に陥った場合は、いじめに対する対応と同時に、鬱病に対する対応を並行して行なはないと、誰に責任が有るかと言ふ問題とは別に、いじめ自殺の防止は出来無いのではないと、私は思ひます。もちろん、いじめなど、する人間が一番悪いのです。ですから、そちらに対する対策が一番重要ですが、とにかく、その結果、いじめの被害者が出て、そのいじめられた子供が鬱病に陥ったとしたら、その被害者を励ましてはならない等、教師と家庭は、精神科的な配慮を持った対応をしなければなりません。多発するいじめ自殺の悲劇の中には、周囲の人間は軽い気持ちで言った言葉やいたずらが、子供が鬱状態であった為に、自殺を誘発した事例も有るのではないかと、私は懸念するのです。中には、誰かが、善意からその子供を励ました為に自殺してしまった事例も無かっただろうか、等と私は考えてしまひます。つまり、いじめをする側に対する対策はもちろん重要ですが、それだけではなく、いじめられた子供に対しては、精神科的配慮を持った対応をしないと、子供が、ささいな言葉などを切っ掛けに自殺する悲劇が繰り返されるのではないかと、私は、懸念するのです。この問題には、こう言ふ視点からのアプローチも必要だと思ひます。(平成18年11月1日(水)西岡昌紀(にしおかまさのり))

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高校未履修問題から見えた課題

 11月2日の『読売新聞』社説は、高校必修逃れに対する政府・文部科学省の救済策が出たことを受けて、この問題で見えた高校教育の課題について書いている。
 
 まず、政府の救済策の中身だが、それは、未履修が2単位を超える生徒でも、70回の補習を上限とし、履修漏れが2単位以内の生徒には、50回の補習でよしとする特例をつけたものである。2単位不足の生徒が7割以上であることから、この最も多い部分は、50回の補習に負担が軽減されることになる。公明党からは、原則50回でいいという意見が強く出されたという。浜四津副党首は、10回にすべきという意見を述べたという。しかし、文部科学省は、あくまでも、学習指導要領の法的拘束力の維持と履修した生徒とのバランスにこだわって、原則70回を譲らず、結局、こういう折衷案ができた。
 
 『読売』は、この事態の原因を、現行の大学入試制度のために、受験偏重の高校教育が行われてきたことの「ひずみ」の一つであると述べている。したがって、「学習指導要領」「受験偏重の今の高校教育」「大学入試制度」を見直すべきだと主張する。
 
 また、「必修逃れ」や「いじめ自殺」への対応のまずさが露呈したことで、教委の監督機能や問題対応能力を高めるための検討が「教育再生会議」で始められることになった。『読売』は、「教委の役割を、根本から議論してほしい」とも述べている。『毎日新聞』社説も、今回の問題の原因として大学入試制度の問題をあげていて、この問題は、高校レベルの問題に止まらず、大学のレベルにまで拡大して検討しなければならない拡がりのある問題であることが明らかになっている。

 『読売』も『産経』と同様に、教育再生会議には、すでにある再生策をスピーディーに実行するように求め、議論よりも速効性を求める主張をしていたが、教育をめぐる諸問題がつぎつぎと発覚し、それらが、入試制度や学習指導要領や教育委員会のあり方など、検討と議論を要する深刻かつ拡がりを持つ問題を多く含んでいることがわかってきたようで、「腰を据えた論議も必要だ」と主張するようになった。教育再生会議は、新たな検討課題ができ、長い検討と議論が必要になったのである。
 
 それと関係するのが、11月2日の『毎日新聞』の経済コラムである。このコラムは、この10年ほどの能力主義・成果主義が行き詰まったことを認めて、次の経営のあり方について述べたものである。「大幅なリストラを進める中で終身雇用や年功序列という枠組みは流動化したが、能力主義一辺倒が良いとも言えないことも分かってきた」のである。
 
 「その反省の共通点は、「仕事は一人でできるものではなく、かかわる人々の協同が不可欠である」ということだ。また、中間管理層の「人をはぐくむ」という働きは、企業という「場」の力を強くするためにも決定的に重要だという認識である。仕事の担い手は生身の人間であり、生まれっ放しのままでは限界がある。技術の伝承や協調的な社風づくりのためにも、「人が人によってはぐくまれる」ことを支援するシステムの有無は企業の将来を大きく左右する」ということだという。何をいまさら、当たり前のことを発見したのか、という感じである。

 これからは、中間管理層の「対話力」の補強の勝負が重要だという。

 この間の教育改革論議が、企業の能力主義・個人間競争主義・成果主義などに合わせたものになり、バウチャー制度による学校間競争の促進などの競争主義・暗記力に偏った学力主義、教員間競争を促進するための信賞必罰制の強化、などが主張されている。企業では、すでにこれらを見直す動きが活発化しているのに、教育分野では、それをこれから本格的に導入しようというのである。今は、大きな転換点であり、拙速な改革をすべき時ではない。
 
  [必修逃れ救済]「“騒動”で見えた高校教育の課題」

 原則70回の補習で救う――。

 全国540に上る公私立高校で、生徒が卒業に必要な科目を履修していなかった問題で、政府の救済策がまとまった。

 履修漏れが2単位(50分の授業で70回分)を超える生徒でも、70回の補習とリポート提出などで単位取得を認める。2単位以内の生徒には、一部の補習免除など弾力運用を認める。卒業生の過去の履修漏れは不問に付す。

 これらの救済策を検討する過程で、与党内からは、履修漏れの3年生の7割以上を占める2単位不足の生徒について、補習の負担を50回まで軽減すべきだとの主張も出ていた。

 文部科学省は、学習指導要領の法的拘束性やルール維持にこだわった。「生徒に罪はない」という声に、なし崩し的妥協をすれば、自ら指導要領の拘束力を否定することにもつながりかねない。

 受験を控えつつ、きちんと必修科目を履修してきた生徒たちにも不公平感を生む。譲れぬ最低ラインとして「70回」を強調した。「弾力運用」を認めたのは、救済の「スピード」を意識しつつ与党側との着地点を探った結果だろう。

 これ以上、生徒たちの動揺、受験への不安感が募らないよう、関係者は十分に配慮してほしい。

 今回の騒動は一体何だったのか。その検証作業が必要だ。

 必修逃れは5年ほど前にも広島、兵庫などの高校で発覚した。文科省は各教委の担当者を集めた会議で口頭指導するだけで、全国調査などは行わなかった。

 必修逃れは、多くの高校で「公然の秘密」として次年度に引き継がれ、教委には虚偽の履修届が提出されて来た。

 その教委も「知らなかった」では済まされまい。必修逃れの高校の校長が後に教育長になったところもある。

 規制緩和の一環として、教委の廃止論も出ていた。今回、必修逃れや「いじめ自殺」への対応のまずさが露呈したことで、教委の監督機能や問題対応能力を高めるための検討が「教育再生会議」で始められることになった。教委の役割を、根本から議論してほしい。

 学習指導要領をどう見直すか。受験偏重の今の高校教育をどう改善するか。行政と現場に突きつけられた課題だ。

 「大学入試が高校以下の教育内容を決めている」。そう言われるほど、「受験」をゴールとした教育の道筋が敷かれてしまっている。

 そこに生じた「ひずみ」の一つが、今回の必修逃れだったと言えよう。

 大学入試制度を見直すための、腰を据えた論議も必要だ。(2006年11月2日『読売新聞』)

 振れ戻し現象=猷(コラム「経済観測」)
 
 企業経営に関しては、10年余にわたる停滞期を脱し、中期的な上昇気流に乗った今だからこそできることがあると思われる。その一つはいわゆる米国型の経営手法への偏向を抜け出すことだろう。

 大幅なリストラを進める中で終身雇用や年功序列という枠組みは流動化したが、能力主義一辺倒が良いとも言えないことも分かってきた。一時は手詰まり状態を打開するために飛び抜けた人材を探してストックオプションなど破格の厚遇をすることもはやったが、今は姿を消している。

 元々の米国でもエクソンやGEなどの「エクセレントカンパニー」では終身雇用に近く、安定した昇進昇給という風土もある。かつての日本ではそれが「普通の会社」のありようだった。それが修正され、労働市場の流動化の利点も体験した上で、今は適切な着地点を探している。また、コストを下げ、経営の意思決定をスピードアップするために中間管理層は思い切って削減するという変革も広がった。

 しかし、これにも振れ戻し現象が始まっている。その反省の共通点は、「仕事は一人でできるものではなく、かかわる人々の協同が不可欠である」ということだ。また、中間管理層の「人をはぐくむ」という働きは、企業という「場」の力を強くするためにも決定的に重要だという認識である。仕事の担い手は生身の人間であり、生まれっ放しのままでは限界がある。技術の伝承や協調的な社風づくりのためにも、「人が人によってはぐくまれる」ことを支援するシステムの有無は企業の将来を大きく左右する。

 かつてのような「ノミニケーション」が復活する可能性は少ないが、それだけに中間管理層の「対話力」をどう補強してゆくかは、これからの勝負どころの一つだと思われる。(猷)(『毎日新聞』2006年11月2日) 

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