« 高校未履修問題から見えた課題 | トップページ | 4日の教育問題の諸社説 »

「いじめ」問題について

 最近の教育問題をめぐる議論が、高校必修科目未履修問題と「いじめ」事件の続発を契機としていることは明らかだ。
 
 その前に、昨年に小学生の教師への暴力事件が急増したというデータが出ていた。しかし、文部科学省は、学校現場からの報告をもとに、「いじめ」が減少しているという見解を公表していた。実際には、「いじめ」は減少しているのではなく、学校の過小報告や潜在化したことによって、統計データに現れなかったのではないかという疑問が指摘されている。
 
 「いじめ」はなくさなければならないことであることは明らかであるが、他方で、かつて『マルコ・ポーロ』事件で、アメリカのユダヤ系人権団体から、「ホロコースト」事件を否定した文章が攻撃されて、雑誌そのものが廃刊になるという目にあった西岡昌紀氏は、自身のブログ記事で、「いじめ」自殺には、うつ病などの複合的な要因があるのではないかと言っている。もし、うつ病が関係しているとすると、うつ病患者に対する不適当な対応がなされたかもしれないと書いている。周知のように、うつ病患者には、はげましはかえって症状を悪化させるのだが、そうした精神医学上の知識を持たないまま、周りの人々が病者に不適当な対応をしなかったか等々を検証した方がいいというのである。
 
 他方で、「いじめ」をする側の方には、病理の症候はないのかということも考えなければならない。先日どっかのテレビ番組で、「いじめ」を受けた人が、「いじめ」た側を追求していったところ、実は、その中にかつて「いじめ」を受けたことがある人がいて、今度は、その人が自殺してしまったということをやっていた。かように、問題は、病理的な様相を呈しているように見える。

 「いじめ」られないため、つまりは自衛のために、「いじめ」る、つまりは先制攻撃するということではないだろうか? そうしなかった者が、自殺・不登校に追いつめられる。どこか、真っ先に、ブッシュのイラク戦争を支持した小泉総理のやり方と似てはいないか? 自分がいじめられないために、いじめる側に立つという点で。それはともかく、こうした場合にこそ、被害者側の諸個人に認められているのが、自然権としての自衛権であって、それは人工的につくられた国家には自然権として認められているのではなく、政治的に認められたものである。この違いを曖昧にしているか、全然気にもとめていない議論があるが、それはおかしい。
 
 こうした「いじめ」事件を見るたびに、「いじめ」た側を、「いじめ」たくなるのだが、そういうことを思っても、そこで踏みとどまって、実際には、そういう言葉を出すのを押しとどめる。それは、なぜだろうかと考えてみる。
 
 たとえば、「死ね」と言っていじめた者に対して、「おまえこそが「死ね」」と心の中では言ってみても、実際には、そんなことを口に出さない。それを言ってしまったら、自分も「いじめ」た側と同じになってしまうし、それが問題解決のためにならないとわかっているからだ。キリスト者ならそう思った時点で罪を犯したことになるのかもしれないが、多神教で仏教の影響が強い日本ではそうは考えない。日本の場合は、多元的に考えるというのが普通である。なぜなら、様々な神があるのと同様に様々な考え方があることが前提となっているからである。われわれは、こうした問題についても、複数の審級が並存している中で、考え、判断しようとする。これは大変なことのように思われるが、それほどでははない。それに慣れているからである。これは一つの共同体には必ず他の共同体があって、それは別の神や仏を信仰していて、別のルールを持っていたからである。「郷に入っては郷に従え」というのも、複数のルールが存在していることが前提に成り立つことわざである。もちろん、近代にはいり、共同体が壊されていって、ルールの全国共通化が進められる中では、衰えていくのではあるが、日本語の構造には、それがある。
 
 西欧では、こういうことは、多元主義哲学という論理学や難しい議論を必要としたが、日本ではその必要はない。むしろ常識の問題である。西欧では、ヴィトゲンシュタイン、バシュラール、フーコー、などがこれに取り組み、最近では、イギリスのハーストが、多元主義哲学を発展させようとしている。ハーストは、多元主義哲学とアソシエーション理論を結合しようとしている。ポスト・マルクス主義のラクラウ・ムフについては、ここでは微妙とだけ言っておこう。
 
 「いじめ」た側が、それに対してなんらかのペナルティーを課せられなければならないのは当然だが、しかし、それが病理として、症候として、把握されるならば、もっと違ったやり方が必要である。西岡氏の主張から、そういうことが言える。犯罪加害者が、ずいぶん後になって、フラッシュバックに襲われて、強い後悔の念にとらわれるということもある。つまり、事件に対する見方が、人生の途中で変化してしまうということがある。
 
 「いじめ」る側が、あらかじめそうした苦悩を将来味わうことになるかもしれないことに思いが至ることは難しい。それができたら、そもそも「いじめ」ないだろう。「いじめ」が、関係の問題、コミュニケーションの次元の問題をはらんでいることは明らかである。そこに、言表の規則性が関わっていることも。そして、硬直化した表現、ドグマが表現をしばるということが関係している。双方が特定のコミュニケーションのパターンに拘束される。それによって、多様で開かれたコミュニケーションが閉ざされる。その息苦しさ、消耗、苦痛、悲惨は、双方をむしばむ。加害者は加害者なりに傷つくのである。彼らは、自分たちはこの世に生きる資格があるのだろうかと問われるし、自分に問う場合もあろう。
 
 表現を洗濯すること、言表の規則性を揺るがし、表現の空間を拡大すること、分散すること、等々。学校という閉ざされた空間を地域・家族その他の多元的空間へと開くこと。緊急避難的な措置と安全安心の確保、そして、現在の社会のあり方の問い直し。なぜなら、リストラや職場の「いじめ」を放置して、学校での「いじめ」だけをなくすことはできないから。現場が抱える諸課題を総点検・総ざらいし、それらを検討・議論した上で、対策を取るべき時である。
 
 いじめ自殺の多発について

 いじめ自殺の多発に、非常に心を痛めて居ます。この様ないじめが有る事自体に、深い悲しみと怒りを覚えますし、真実を隠す学校や教育委員会に対して私が怒りを抱いて居る事は言ふまでも有りません。特に、学校や教育委員会が、加害者を守る事ばかりである事に強い憤りを抱いて居ます。そうした事について、言ひたい事は山ほど有るのですが、報道を見て居ると、言はれて居ない問題も有る様な気がします。それは、こう言ふ事です。
 いじめは、もちろん、許される事ではないし、学校や教育委員会の対応もひどい物です。しかし、それでも、子供が自殺までする背景には、何か別の問題が加わって居ないか?と、私は、思ふのです。いかにいじめがひどいとは言へ、子供が自殺までするのは、異常な事です。そんな異常な事が起きるのは、自殺した子供たちが、極めて異常な精神状態に追ひ込まれて居たのではないか?もっと言ふなら、鬱病に追ひ込まれて居たのではなかったか?と思へてならないのです。個々の事例は、個別に分析されねばなりませんが、この可能性にもっと注意が払はれるべきです。もし、自殺の原因に、いじめその物に加えて、自殺した子供たちの鬱病と言ふ要因が加わって居たなら、自殺の予防には、精神科的な配慮が必要に成ります。例えば、鬱病の患者は、励まされると症状が悪化しますから、励ましてはいけないのです。被害者が、鬱病に罹患して居る場合は、そうした精神科的配慮が学校でも家庭でも、決定的に重要に成ります。学校も家庭も、子供たちがいじめによって鬱病に陥った場合は、いじめに対する対応と同時に、鬱病に対する対応を並行して行なはないと、誰に責任が有るかと言ふ問題とは別に、いじめ自殺の防止は出来無いのではないと、私は思ひます。もちろん、いじめなど、する人間が一番悪いのです。ですから、そちらに対する対策が一番重要ですが、とにかく、その結果、いじめの被害者が出て、そのいじめられた子供が鬱病に陥ったとしたら、その被害者を励ましてはならない等、教師と家庭は、精神科的な配慮を持った対応をしなければなりません。多発するいじめ自殺の悲劇の中には、周囲の人間は軽い気持ちで言った言葉やいたずらが、子供が鬱状態であった為に、自殺を誘発した事例も有るのではないかと、私は懸念するのです。中には、誰かが、善意からその子供を励ました為に自殺してしまった事例も無かっただろうか、等と私は考えてしまひます。つまり、いじめをする側に対する対策はもちろん重要ですが、それだけではなく、いじめられた子供に対しては、精神科的配慮を持った対応をしないと、子供が、ささいな言葉などを切っ掛けに自殺する悲劇が繰り返されるのではないかと、私は、懸念するのです。この問題には、こう言ふ視点からのアプローチも必要だと思ひます。(平成18年11月1日(水)西岡昌紀(にしおかまさのり))

|

« 高校未履修問題から見えた課題 | トップページ | 4日の教育問題の諸社説 »

「教育」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 高校未履修問題から見えた課題 | トップページ | 4日の教育問題の諸社説 »