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2006年12月

映画「たそがれ清兵衛」を観て

 藤沢周平原作の映画「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督)をやっていたので観た。

 この作品での山田監督の作品に多い印象的な自然の描写の一つは、藤沢作品の多くの舞台となっている海坂藩の盆地のへりにそびえる山の姿であった。それは、中央アルプスのような険しい高山ではなく、山頂まで落葉樹・針葉樹が混じる程度の山々である。このような山の麓沿いにはたいてい集落があり、家が並んでいる。
 
 しかし、主人公清兵衛が住んでいるのは、山側ではなく、平地の城下町で、丘の上に築かれた城の周囲に拓かれたところである。海坂藩は、藤沢周平の故郷、山形県鶴岡市がモデルだという。江戸時代は、酒田氏の鶴岡藩(庄内藩)である。
 
 この話の時代は、幕末で、3年後の官軍対奥羽列藩同盟との内戦で、清兵衛が官軍の鉄砲で撃たれて死んだというから、慶応末年頃である。慶応2年(1866年)6月7日に、第二次征長戦争が起きた。いうまでもなく、ペリー来航、日米和親条約締結、開港、安政の大獄、蛤御門の変、一揆・打ちこわしの頻発、等々、世情は騒然としていた。
 
 奥羽の小藩にすぎない海坂藩も、この幕末の激動に無縁ではなく、藩上層部の派閥抗争に巻き込まれた元浪人が、藩主の死によって敗北した派閥の一員として切腹させられようとしたのに反発して逃亡をはかり、廃屋に立てこもるという事件が起きるが、この男は、もはや藩や武士の時代が終わることを見越して、武士の論理による切腹を拒んだのである。男を討ち取るために、刺客が送られたがことごとく返り討ちにあい、清兵衛にその役が命じられることになる。
 
 物語は、妻を病気でなくしたばかりの小禄の下級藩士の清兵衛が、二人の幼い娘と認知症の母親と同居しながら、清貧の暮らしの中で、日々を送っている姿から始まる。清兵衛は、毎日、登城して、事務仕事を定刻までこなし、同僚と酒を飲むこともなく、まっすぐ帰宅し、小さな畑を耕している。
 
 小うるさい本家の叔父が縁談を進めても断る。髪を整え、足袋や衣服の破れを繕ってくれる者もない。同僚たちは、清兵衛に「たそがれ清兵衛」とあだ名を付けている。ただ、その彼も、若い頃は、小太刀を使う戸田流の師範を努めるほどの腕前である。

 そこに幼なじみで親友の妹が、酒癖の悪い上級武士の暴力夫の元から逃げ帰って、実家に出戻ってきた。再開した二人は、惹かれ合うが、清兵衛は、一緒になるのは、彼女を不幸にするだけだと考えて、自分の感情を抑えている。
 
 そこに、派閥争いに敗れた側で、切腹を命じられた男が、それを拒否して、廃屋に籠城して、派遣されてくる刺客を返り討ちにした。そこで、小太刀の使い手の清兵衛が、刺客を命じられる。死を覚悟した彼は、彼女を呼びだし、身支度を頼む。そして、出発間際に、自らの思いを告げるが、彼女は、数日前に縁談を承諾したばかりであった。
 
 籠城する男は、清兵衛に逃がすよう頼むが、清兵衛が自身を持っているように感じて、プライドを傷つけられたと思って、清兵衛に斬りかかる。しかし、清兵衛が、見抜いていたように、食事も食べず、睡眠も取れていない男には、清兵衛を倒す力がすでになかった。清兵衛は、なんとか男を逃がそうとするが、男は清兵衛に斬りかかり、ついに、清兵衛に斬られ、死ぬ。
 
 任務を果たして帰宅すると、すでに居ないと思っていた彼女が待っていた。そして彼は彼女と一緒になり、三年後に、官軍との戦闘で、鉄砲に撃たれて死ぬのである。その後、彼女は、二人の娘を連れて東京に出て働き、育てたという後日談が語られる。
 
 この頃、山形県でも、一揆・打ち壊しが頻発していたが、鶴岡藩でも、慶応2年(1866年)に、長州戦争にともなう米価騰貴に、米価引き下げと施米を求める都市・山村漁村の日雇雑業者たちの騒動があり、慶応4年(1867年)には、平野部農民の年貢全免を求める一揆が結ばれ、それが、明治2年(1869年)10月に天狗党による騒動に繋がる。
 
 庄内では、幕末までに、広範に地主小作関係が成立していて、巨大地主が、一村全てを小作化している例も多く、かかる巨大地主は、商人・町人地主になっていたという。それを示す入作与米制度があった。
 
 物語は、家老はじめとする上層武士の腐敗・堕落に対して、藩がなくなったら農民になるという「たそがれ清兵衛」の清貧だが自己の信念を貫く生き方を対象的に描き、後者に暖かく、評価して描かれている。武士よりも農民的な生き方の価値を高く評価しているが、大地主と小作人に分解した農民の共同体的諸関係、小作農民たちの抵抗、一揆に表れた共同体的価値観と規律・倫理といったものがないことで、清貧なる下級武士の個人的倫理観の顕揚に止まっている。いわば、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の倫理』で描かれたようなプロテスタンティズムの個人主義的な倫理に似たようなものであり、それが武士階級内の上層下層対立の下層側にあるというような感じである。
 
 したがって、共同体的農民が、入会地などの共有地、山など自然との深い関係から来るところの倫理観をその民話や歌や儀式・祭りなどに残したのに対して、清兵衛は、庭先の小さな畑を一人で耕すだけの個人生産者としての農民を夢見るだけなのである。残された妻は、都市に出て、労働者として子ども二人を育て、女学校を出した。農村的関係から離れ、都市に出ていく。そのころ、庄内の小作農民たちは、一揆を結んで天狗党騒動に立ち上がるのである。
 
 この映画は、近代の出発点を見せてくれるもので、いわば近代神話の原型を純粋に示してくれるものである。強く惹かれるものだが、しかし、すでに時代は、ポスト近代に入りつつあるので、どうしても批判的に観ざるをえない。

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保守の低レベルを示す一記事

 ライブドアニュースに「日の丸反対衣装の教師 ネットでは処分妥当が圧倒的」という馬鹿な記事が載っていた。

 どこが馬鹿かというと、一つにはネット世論を2ちゃんねるに代表させていることだ。例えば、自民党総裁選の時、ネット世論では、安倍支持は少数で、麻生支持が多数であった。ところが、安倍政権発足当初の新聞などでの支持率は7割というものもあるほど高かった。この場合のネット世論は、まったくの少数派で偏ったものだったのである。

 処分不当を訴えて、それが高裁で否定された女性教諭は判決前、「日本をファシズム社会へとゴウ音をたててひっぱっていこうとしている」と語ったという。この主張について、この記事の作者はどう考え、判断しているのだろうか? 全体を読めば、そういうことはないと考えているようだが、その根拠は何なのかが明らかではない。

 たぶん、ネット上でひろったいくつかの意見に自らの考えを代弁させているのだろう。

 例えば、「この人にとっては年に何回かある思想の表現の場でも、生徒と保護者には一生に一度の門出の場」「こういう『力の入れ所』を間違っている大人が多いことに大人として呆れます。要するに、『教育の門を晴れてくぐってくる入学者を祝福する』意図よりも、自己の主義主張を押し出したかったのでしょうね」という意見をただ引用しているが、「生徒と保護者にとって一生に一度の門出の場」という認識を問うことをしていない。そして、力の入れどころを間違ったのは、都教委の方なのである。これはしかし、石原都政がレームダック化するなり、都知事選で落選すると、大きく変わるものでしかない。広島もそうである。一生に一度の門出も場で、旗はこうかかげろとか君が代斉唱では、声を大きく出せとか、いろいろと官僚主義的な形式主義を持ち込んで、異様な緊張状態をつくりだしているのが、都教委の異常さなのである。それまでやらなかったことを、導入しているのだから、「一生に一度の門出の場」を混乱させたのは、都教委の方なのである。それに、来賓だのの退屈な挨拶を長々と聞かされる式典を、ほんとうに好きな人は多いのかね?

 「なんでこういう教師は教え子の式典ぶち壊したがるのかね」「教師が学校の行事で政治活動だろ?懲戒解雇でいいじゃん。普通、会社で政治活動したら解雇だよ?」「入学式に自己主張とはどっかの成人式みたいだな」。

 これらについても、きっちりと批判的に扱わないで、ただ引用だけしている。普通は、会社で政治活動しても解雇ではない。それなら、会社上層部が、有給で、選挙活動を支援している建設業では、労働者がいなくなってしまう。公務員の方が、政治活動を規制されているのである。教師の場合は、政治的身分なので、法律や政策が、労働条件を左右するので、業務上のことと政治・政策上のイシューが切り離せず関係しているのである。それから、民間企業の解雇権には法律的その他の制約がかかっていて、好き勝手に会社の都合だけで解雇できるわけではない。こういう明確に間違っていることを並べている文章を読むといらいらしてしまう。

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保守派破綻の諸事例

 保守派の反ジェンダー・フリー派の論客である林道義氏が、12月22日の自身のHPの「寸評」で、『産経新聞』主張に噛みついている。

 それは、『産経』主張が、少子化対策として「少なくとも」「女性が働きながら出産と育児を可能とする環境を整える」「子育ての楽しみを実感する機会を増やす」「家計に過度の負担がかからない公教育を充実する」の三点を掲げたのは、ジェンダー・フリー派になったことを意味するからだということである。

 林氏は、「これまでも記事の中には頻繁にフェミニズムの立場に立った内容が出てきていたが、社の公式の見解を示す社説の中に堂々とフェミニズムの公式が謳われたことは、私の記憶の中にはない。女性の就労と育児の真の両立などということはありえないということが、さんざん議論されてきた今頃になって、どうしてあっけらかんと「両立」を掲げることができるのか、「保守」の名が泣くというものである」と『産経』の不勉強をしかっている。

 しかし、これは、別に、社説を書いた編集委員の不勉強をあらわすものではない。これは、林氏も気付いているとおり、経済界の要求を代弁しただけのことなのである。『産経』の「中枢部ないしは論説委員室においてフェミニズムが大きな力を持っていることを示している」のは確かだが、それは経済界の主張の代弁者が多いということである。

 林氏は、「「仕事と子育ての両立」ではなくて、「子育て中の女性が働かなくてもいい社会」を実現することこそ、最大の少子化対策である。この真実を経済界が真に認識しないかぎり、少子化に歯止めがかかることはありえないだろう」と述べている。

 氏は、フェミニズム思想は、共産主義思想の擬装形態であると繰り返し強調してきたが、実際には、その中のジェンダー・フリー思想というのは、経済界の思想であることを認識していることを明らかにしたわけである。共産主義思想は、労働者階級の思想であって、経済界の思想ではない。それにも関わらず、フェミニズム=ジェンダー・フリー=共産主義という等式を繰り返してきたのは、認識として正しくなかったことを氏が認めたということなのだろうか? そうではなく、実際には、最初から、この等式の間違いを意図的に作り上げて強調したのは、党派的意図があったのである。党派主義を批判する者がもっとも党派的なことが多くあることは、経験的事実でもある。

 景気回復の中で、経済界は、低賃金不安定雇用労働力として、女性労働力を多く求めており、できるだけ女性を働かせたいのであり、そのためには、「仕事と子育ての両立」を掲げなければならないのである。それには、子どもを、保育園などに預けて、社会的に育てる環境を整備することが必要になるのだ。林氏がいう「子育て中の女性が働かなくてもいい社会」とは、中小資本の優勢な時代、19世紀のイギリスのような社会のような歴史的条件下での話なのだ。そういう家族労働で成り立っているような社会ではないので、こんな男女分業は成立する条件が小さいのである。

 林氏は、保育所を増やして、母親が働きに出ていくと、彼女たちから、子どもを育てる楽しみの機会を奪うことになるという。しかし、経済界の要求は、父親の労働者に家計をまかなう生活給を支給するよりも、共稼ぎにして、生産力全体を引き上げて、税金によって子育てを社会的に行うべきだということだ。追加労働力を大量に必要とし、大量に投入して、生産を大規模に行おうことが資本の本性であることは、かつてマルクスの『資本論』などを読んだこともあるだろう元一次ブントの幹部だった林氏はご存じだろう。女性が炭坑や工場労働にかり出されて、エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』で描いたような、労働者家庭の悲惨な状態から抜け出すために、かつて労働組合運動は、生活給を要求したのであった。それから時代は変わり、生活給は、女性を家庭に縛り付け、女性の社会活動を阻害するものだという認識が広まり、それが、少子高齢化の進展で、女性労働力を切実に必要とする経済界の事情と合致して、ジェンダー・フリー思想が生まれたのである。それと、その他のフェミニズム思想とは別物である。

 「仕事と育児の両立」と「子育ての楽しみの機会」が両立するための条件は、母親を専業主婦にすることではなくて、男女労働者の生活のために必要な労働時間を大幅に短縮し、労働による肉体的精神的消耗を軽減することである。そういう条件を社会的に実現するためには、林氏が言うとおり、経済界が変わらなければならないのである。そのことを、『産経』が主張しないこと、そして林氏も言わないことが、問題なのである。都合の悪いことは言わないのである。だから、夢物語になってしまうのである。保守派や右派の話には、そういう類のものがいくらでもある。だから、話は面白いが、それで具体的にどうなるの? ということになるのである。例えば、林氏の「寸評」で、千葉県市川市議会で、男女共同参画条例が、保守派寄りに変わったということをさも大勝利のように書いているのだが、ジェンダー・フリー思想の力は、現在の経済関係からもたらされているので、地方議会のいっぺんの条例の力は、それに対して、観念的な力しかなく、対抗できるものではないという現実を忘れている。つまり、市川市で、条例が消えたからといって、女性が働きに出るように経済関係が要求するし、それに合わせて、保育所は増設されるだろうということだ。それに対して、歯止めをかけようとしたら、余所に引っ越されるとか、遠距離通勤されて、今度はそういう現実に合わせて、市の条例の方が書き直されることになるだけだ。

 ジェンダー・フリー思想は、『産経』だけではなく、『読売』はもちろん、大新聞全てに浸透し、保守派にも浸透している。それは、それが経済界が、経済関係から来る要求を思想化したものだからである。それに、働きたい、社会に出たい、社会で活躍したいという女性の要求が、接合されているのである。子育ては、親の楽しみというだけではなく、社会の楽しみであり、社会もその機会を必要とする。子どもは社会の未来を示す存在だからである。林氏が、子育てをあくまで両親と子どもという核家族の範囲内に閉じこめるのは、新教育基本法が、地域や社会が子育てに関わることをうたったことと衝突するものではないだろうか? 実際、林氏は、新教育基本法にいろいろと不満を述べている。新教育基本法は、家庭のしつけや親の教育の責任を明記したが、経済界は、ますます女性を仕事にかり出すつもりだから、いよいよ「仕事と育児の両立」は厳しいものになり、家庭でのしつけや教育の余裕も少なくなって、責任を果たせといわれても無理ということになるだろう。

 政府・与党は、なにをやっているんだか。「ゆとり教育」が廃止されれば、ますます子どもは家庭に帰れなくなり、『読売』は、学校での学童保育をもっと充実させ、共稼ぎの親が帰宅するまで、子どもを学校に長くいさせるようにするのは素晴らしいからもっとすべきだと書いているのだ。ここにも、反林思想の新聞がいた。立派な観念や言葉よりも、経済的必要が勝ってしまうのが現実である。『読売』だって、「武士は食わねど高楊枝」的なご立派なことを書くときもある。でも、肝心なところでは、財界の利害の代弁者になってしまう。新教育基本法を支持した『読売』が、家庭に子どもをもどすのではなく、学校に長くいさせるべきだというのである。そうなると、就学年齢以上は、社会が子どもを育てるべきだということになる。つまり、家庭は、就学前のしつけ教育までが責任範囲だということだ。家に帰っても鍵っ子になるなら、学校に残って、ボランティアなどが見守り、指導する中で、勉強したり、遊んだりした方が、安全だし、勉強も出来て一石二鳥、三鳥ではないかと『読売』は言うのである。実際にこの制度は、本格的に全国で導入される。

 もっともこの制度は、早く学校から帰って塾へ通う生徒と別であり、また私学は対象外のようである。つまり、「多様化」というわけである。『読売』は、規制改革を基本的には支持しつつも、その副作用や市場化になじまない領域の存在を認め、異なる方策を求めている。その点では、林道義氏と一致する。ようやく、市場原理主義を否定し、本来の保守主義の方に戻ったようだ。あらゆる領域が市場化でうまくいくわけではないというのは、よく考えてみれば当たり前の話で、市場原理主義は、考えるよりも信じるべき神話にすぎなかったのである。

 以上のように、保守・右派は、言葉は激しいが、中身はぐだぐだで、その中には、経済界の利害代弁者が多くいて、経済界のジェンダー・フリー思想に根本的に対決することもない。林氏は、その中では少数派であるが、それもどこまで徹底できるのか怪しいものだ。日本教育再生会議(八木秀次理事長)が期待する安倍政権は、ぼろぼろになってきた。下村副官房長官は、ジェンダー・フリー思想を批判して、「女性は家庭に戻れ」と言ったが、保守派の女性政治家の反発を買った。反ジェンダー・フリー派山谷えり子議員も高市早苗議員も、家庭に戻りはしない。右派保守派が破綻しつつあることは明らかである。

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フリーター「奴隷ですから…」は社会病理を示している 

 下の『毎日新聞』の記事は、今の日本社会の基本的な病理を的確に指摘している。それは、労働という人間の基本的な営みの尊厳が奪われているということだ。
 
 「格差の底辺に置かれた人たちが「労働の尊厳」まで奪われているということだ。そして、それは働く者すべてに広がりつつあるように感じる」と労働現場を取材してきたこの記者は言う。日本経団連は、先の報告書で、「多様な働き方を」と書いているが、その実態は、経営側が使いやすいように労働者を使いたいということであり、多様化の中身は、「労働の尊厳」を奪うことである。それが、働く者すべてに広がりつつあるというのは、日本経団連、規制改革・民間開放推進会議の最終答申でも盛り込まれた「ホワイトカラー・エグゼンプション」導入などのことである。それはしかし、経営側にも広がっているように感じる。この間、企業不祥事の発覚のたびに繰り返される経営陣の謝罪会見でのかれらの表情が、疲弊しているように見えるからである。その原因は、おそらく、競争主義によって、短期的な数字を引き上げることを至上命令として、神経をすり減らしていることにあるのだろう。そして、企業倫理だの法令遵守(コンプライアンス)だの従業員の疲弊やその家族の生活だの安全性だのということに思いをいたす余裕がないということが現れているのである。
 
 前に、前日経連会長奥田豊田会長と建築家安藤忠雄氏が、フィレンツェを訪れてルネッサンス芸術をみて、対談するという番組をみたのだが、奥田氏は、こうした美を鑑賞する教養が十分にあるようには見えなかった。競争にとらわれ、日々の営利仕事に追われて、経営陣もまた、人間的素養を伸ばす機会がなくなっているようだ。連日、テレビ・カメラの前で頭を下げる企業トップの姿を見て感じるのは、非人間性・無教養さである。それに対して、ビル・ゲイツは、教養を感じないのは同じだが、最近は、低開発諸国での病気治療のためのボランティア活動を始めた。それはかなり大規模で本格的なもので、かなり力を入れるつもりらしい。
 
 規制改革・民間開放推進会議は、最終答申では、企業が一定規模以上の労組としか交渉しないでよいとする労組法改悪は明記しなかった。憲法違反のおそれがあるからだという。
 
 教育委員会設置を義務としないという教育委員会法改訂も盛り込まなかった。というのは、この間、教育委員会の強化が必要との意見が強まっているからだという。教育委員会制度は、骨抜きになっているとはいえ、戦後教育の大きな柱であり、戦後教育から脱却のためには、教育委員会をなくすべきなのだが、そうはしないということらしい。もっとも、教育関係の議論は、教育再生会議に委ねるということらしい。教育再生会議には、規制改革・民間開放推進会議と兼任のメンバーがいるから、そちらで、こういう提言をすればいいということなのかもしれない。しかし、戦後見直しという安倍政権の基本姿勢からは後退している。
 
 いずれにせよ、もはや経営陣は、ただ利益の数字を追い求めるだけで、人間としての人格的完成とか素養・教養の向上や社会や文化への貢献とか社会的尊敬をも求めていないようだ。ただ、ぎすぎすとした労使関係、他人は全てライバルとして競争に生きるだけのようだ。愛国心などが育つはずもない。歴史的教養など、経済競争に忙しい彼らには時間の無駄であり、余計なものである。愛国心がどうのこうのと騒いでいる八木秀次のような大学教授など、無駄な職業に見えるだろう。なにせ、八木氏の専門は、憲法学で、実用的な学問ではない。それよりも、明日使える優秀な技術者や営業を育てることを必要と考えるだろう。それぐらい余裕を失っている。
 
 そのあせりを政治的に体現したのが、小泉政権で、とにかく急いで、性急な実行を求め、目の前のことばかりを焦って変えようとした。その副作用は、上から下までのモラル崩壊に現れている。小泉前総理は「古い自民党」をぶっ壊すと叫んだが、そこからは「新しい自民党」は出てこなかった。破片を寄せ集めただけの残骸だけが残ったのである。その残骸の上に立って、安倍政権は、「美しい国」なる虚しい美辞麗句を並べつつ、醜い強行採決に、醜い郵政造反組復党などの醜い政治を実行している。その醜さに人々はしらけはじめ、内閣支持率急落、不支持率上昇という世論を突きつけた。安倍政権と共にその「背後霊」小泉の亡霊も醜く薄汚れ、この世から追い払われつつある。
 
 日本経団連は、日本的経営の再評価を掲げる。それは人間的な経営であると。そして、企業は、「社会の公器」だという。経営者は社会を構想し、社会のために働かなければならないという。人間的な経営の中身は何か? 社会構想の中身は何か? 企業の公的性格とは何か? 社会に貢献するとはどういうことか? これらの疑問にまったく具体的に答えがない。
 
 下の記事が指摘する「労働の尊厳」の剥奪が、人間的な経営ではないことははっきりしている。そして、それが、社会をよくするものでないことも誰が考えてもわかることだ。社会の中で、社会のために働き、社会をよくすることに貢献している人々を正当に評価し、正当に扱い、正当な報酬と待遇を与えること、それが人間的なやり方というものだろう。社会の成員たる全ての人をそのように遇することが、人間的な社会として当然のことだろう。多様性だのなんだのと言葉をもてあそんで、その実、自分たちだけの都合を優先させ、自分たちだけの自由を実現させようとするのは、その反対だろう。
 
 働く者を奴隷化して自らが主人化することは、人間的な経営ではないし、人としての、社会としての真に価値ある目標にならないことは、古今東西の多くの智者が繰り返し指摘してきたところだ。21世紀になって、働く者が「奴隷ですから」などということを言うような社会が、いい社会ではないことは明らかである。

  記者の目:フリーター「奴隷ですから…」 東海林智
 「奴隷ですから……」

 この1年、労働現場を取材する中で、派遣労働者や携帯電話で日々の仕事の紹介を受けるフリーターからたびたびこの言葉を聞き、ドキリとした。憤り、恨み、あきらめ……。ニュアンスこそ違え、そこには「人として扱ってくれ」という強烈な思いが感じられた。

 「格差社会」が注目を集め、正社員と非正社員としての働き方や少子化、教育など、さまざまな角度から「格差」が論じられた。そんな中、「再チャレンジ」を掲げる安倍晋三首相が登場した。再チャレンジにケチを付ける気はない。そうした制度を整えるのは大事なことだ。だが、気になるのは、格差の底辺に置かれた人たちが「労働の尊厳」まで奪われているということだ。そして、それは働く者すべてに広がりつつあるように感じる。

 神奈川県内に住む男性(42)は、携帯電話で日々の仕事の紹介を受けて生計を立てている。今年2月、大手人材派遣会社に解体現場での仕事を紹介された。「マスクを買って行って」と指示があった。もちろん自前だ。100円マスクを手に、着いた現場で派遣先の社員は防毒マスクのようないかめしいマスクをつけていた。アスベスト(石綿)を使っていた施設の解体現場だ。作業が始まると、ほこりで1メートル先も見えない。派遣のバイト4人はせき込みながら貧弱なマスクで作業をした。これで交通費1000円込みの日給は8000円。マスク代や税金などを差し引くと手取りは6000円程度だ。

 日々紹介を受ける仕事。行ってみないと現場の様子は分からない。危ない現場でも断っていたらすぐに干上がる。こんな仕事を月25日しても、手取りは15万円に満たない。仕事の紹介がない月は月収が5万円以下の時もある。有給休暇も雇用保険もない。自動車工場や公共施設などを転々とした職歴。どこも1年以上の雇用を約束してくれなかったからだ。「安い命でしょ。僕らには何をしてもいいんですかね」。働く喜びや誇りはどこにもない。

 派遣社員で事務の仕事につく女性(40)は、数カ月ごとの細切れ契約を繰り返しながら働いた。海外留学で鍛えたネーティブ並みの英語力も時給には反映されない。契約外の翻訳もこなし、賃上げを求めると「あなたの賃金は物件費で扱われているから無理」と言われた。税金の関係で物件費に回されているのだが、女性は「働いているのに人件費にさえカウントされないと思うと、情けなくて涙が出た」とこぼした。

 他にもガラガラの社員食堂を使わせてもらえず、プレハブ小屋での食事を強いられた請負会社の社員、牛丼屋のバイトを3年続け、「誰よりもうまく盛りつけられる」と誇りを持っていた仕事をバイトだからと一方的に解雇された若者……と、切ない話をいくつも聞いた。

 だが、非正社員だけではない。労働の尊厳を奪うような状況は、正社員の間にも広がり始めている。職場での陰湿ないじめがそうだ。「ダメ社員」と決めつけ「再教育」の名で業務とは関係のない書類の廃棄作業を延々と続けさせたり、倉庫での一人だけの在庫確認を強制して退職に追い込む。こなし切れない業務を負わされ、終わることのない仕事を強いられる。労働相談を長年続けている日本労働弁護団は「過去に経験したことのない異常事態」と、いじめ相談の多さに驚く。

 長時間労働もそうだ。厚生労働省の調査でも30代、40代前半の男性労働者の4人に1人は週60時間以上働いている。これは月にすれば80時間以上残業していることになり、過労死の危険性を指摘されるラインに達する。夫を過労死で亡くした遺族はこう言った。「残された子供は『一生懸命まじめに働いたってお父さんは死んじゃったじゃないか』と言いました」。別の遺族は「人間として生きていけるような労働の在り方を実現してほしい」と訴えた。

 不安定な雇用の下、低賃金で働くか、正社員として死ぬまでこき使われるか。極端な言い方かもしれないが、労働の尊厳を奪うこうした働かせ方が格差の下敷きになっているように思えてならない。「再チャレンジ」した先にたどりつくのが同じように命を削るような働き方をする正社員であるのだとすれば、そこに希望は感じられるだろうか。

 繰り返すが、「再チャレンジ」のシステムを作ること自体は否定はしない。だが、そこには「人間らしく働く」という基本的な要求が満たされていなければならないと思う。それに向き合わない、格差解消、再チャレンジの言葉はあまりにも軽く、空々しい。(社会部)(『毎日新聞』2006年12月26日)

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落ち目の安倍政権

 最近の安倍政権を見ていると、発足当時、本格的な保守政権などと呼ばれていたことが嘘のように、ふらついている。なるほど、安倍政権が最重要法案と位置づけた教育基本法与党案は成立した。しかし、教育再生会議の方は、百家争鳴状態で、第一次提言骨子案が決まらないなど、迷走状態である。報道では、野依氏が、塾をなくすことを会議で表明したという。教育再生会議では、なんでもありの議論になっているようで、文科省と自民党が、主導権を握ろうとしているようである。その点を、『産経』社説が指摘して、再生会議の議論に不満を示している。『産経』は、「ゆとり教育」がもたらした学力低下をはやく是正しろと主張している。そこで、「ゆとり教育」を導入し維持してきた文科省の役人が、教育再生会議の事務局にいることを警戒し、「ゆとり教育」の是正が明記されなかったのに不満をもらしている。『産経』は、「もっと官邸主導を」というが、支持率急落中の安倍政権の官邸が、主導性を強く発揮できるとは考えにくい。

 教育基本法は、理念法と位置づけていて、具体的な制度改革には、学校教育法などの関連法の改正が必要であり、それこそが、本格的な権力闘争の対象である。当然、文科省は、その当事者であって、この教育制度改革で、多くの利権を確保することを目指して闘っているのである。小泉政権では、官邸主導を支えたのは、世論の高支持率であった。世論支持を高めるために、タウンミーティングの「やらせ」が行われていたわけだ。

 安倍政権に官邸主導を求めても、無理だろう。すでに、「ポスト安倍」という話がささやかれているようで、保守派・右派の期待を集めた安倍総理であったが、短命に終わる可能性が高そうである。しかし、「ポスト安倍」といっても、自民党内にそんな人材がいそうもない。ただ、衆議院での圧倒的多数の議席があるだけで、場合によっては政界再編という可能性もありそうだ。しかし、教育改革・改憲は、野党民主党の綱領でもあり、与党が落ち目だといっても、自民・民主共通の政治課題として、これから、国会で課題として持ち上がるだろう。防衛省昇格問題で民主党があっさりと与党と妥協したように、改憲のための手続き法の国民投票法案に、民主党案ができている。そこで、改憲が、安倍政権か民主党政権かに関わりなく、政治スケジュールにのってくることは確実である。

 春の統一地方選、そして、夏の参議院選の結果が、その行方を大きく左右する。安倍政権が落ち目になると同時に右派保守派も一緒に落ちていくのは明白であろう。9条改憲阻止のためには、それをなお促進する必要がある。それによって、改悪教育基本法も死に体となるだろう。 

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日本経団連「2007年経営労働政策委員会報告(概要)」について

 日本経団連が、12月19日付で公表した「2007年経営労働政策委員会報告(概要)」「イノベーションを切り拓く新たな働き方の推進を」は、なんともぐちゃぐちゃしてわかりにくい文章である。

 まず、最初に、「景気は2006年11月時点で、「いざなぎ景気」を超える拡大期間を記録したが、先行きは決して楽観できない。日本経済は、外においては世界経済における構造変化への対応、内においては地域間・規模間・業種間における景気回復の格差解消や競争力のさらなる強化など、さまざまな課題を抱えている。これらはいずれも複雑かつ困難な課題であり、変化のスピードが加速する中、こうした諸課題の解決のための迅速な取り組みが求められる」としている。景気が回復しているのはいいこととしながら、先行きは楽観できないというのである。

 それは、世界経済の構造変化、景気回復の格差解消、競争力の強化などの課題があるからである。いい状態なのに、それを楽しむよりも、未来の危険に備えて、気を緩めてはならないというのだ。

 そして、その課題に備えるためには、成長力・競争力強化・少子・高齢化への対策が必要だという。生産性向上・イノベーション、コスト削減と続く。いつもの経営側の関心事が並んでいる。そして、「製造業に比べ非製造業の生産性が低いために、わが国全体の生産性は先進諸国に劣ると指摘されている」として、非製造業の生産性向上が課題だとしている。国全体の生産性、国民経済全体の生産性なる思想を述べているのである。

 そして、「国際競争の激化、少子化・高齢化が進み、労働力人口が減少する中では、イノベーションの推進が重要課題となる。イノベーションの原動力は人材の力であり、そのためには、従業員個々人が仕事のやりがい、生きがいを実感できるよう、個々の生活ニーズに即した働き方が必要となる。企業と従業員の協力によって、双方のニーズを満たす、いわば新たな働き方の推進が求められており、その挑戦が、「ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)」の実践であるといえよう」として、「多様な人々の就労参加」と「柔軟な働き方」を推進しなければならないという。

 「具体的には、短時間勤務、裁量労働、在宅勤務などの労働時間や就労場所について、多様かつ柔軟な働き方を可能とする選択肢を用意することである」として、「女性、高齢者、若年者、障害者、外国人など」の就労を促進することだという。つまり、少子・高齢化対策として、新たな追加労働力をこれらの人々に求める必要があるということだ。

 そして、日本版「ホワイトカラー・エグゼンプション」導入に向けて、「労働時間の長短でなく、能力・役割・成果で評価されるホワイトカラーについては、労働時間等規制を適用除外とする制度の導入が検討されているが、これは働く人が生活と調和させつつ、仕事を自律的に裁量して成果を挙げることを目的とする制度である。時間外割増賃金の抑止を意図したものではない」として、これまでのホワイトカラー概念を否定して、新たな定義を試みている。その上で、残業代節約のためではないとわざわざ断っている。それにしては、このような制度の目的が具体性を欠いたきれいごとになっているのは怪しい。アメリカの例では、やはりこの制度が長時間労働につながっている。それに、チームとして働いている場合が多いのだから、一人だけを自由にするのも無理がある。

 格差問題について、この報告は、「格差問題に対する考え方のポイントは、格差がもたらされる事由が合理的なものか、その事由の回避が可能であるか否かにある」と指摘している。そして、まず、合理的な格差として、「公正な競争の結果として経済的な格差が生じることは当然のことである。所得格差は個々人の能力や仕事・役割・貢献度の差異等の合理的事由による場合が多い」としている。「しかし、所得格差が固定化する、あるいは、必要な教育の機会がすべての人に開かれていない、一度失敗した者、機会を逃した者が再び挑戦する機会を得られないということであれば、それは問題とすべきである。格差の固定化をもたらさないためには、公正な競争、機会の平等を促進し、何度でも再挑戦の機会が与えられることが重要である」としている。

 日本経団連が合理的と認める格差は、公正な競争の結果としての経済格差、能力・仕事・役割・貢献度の差異に基づく所得格差である。とくに問題なのは、能力による所得格差であり、能力評価を個人に帰すことが困難であるということである。この評価が合理的ではないということがこの間明らかになってきたのである。そこで、日本型経営に対する再評価が行われるようになったのである。そのことを、この報告書でも、「「日本的経営」の再評価・再構築」というタイトルで、「グローバル化が進む中、世界的に経営手法の変容が求められる時代になっている。激変する経済環境の中で、日本的経営の理念は崩壊したという意見も聞かれた。しかし、日本的経営の理念とされる「人間尊重」、「長期的視野に立った経営」という哲学は、グローバル化する経済活動においても、従業員の能力を最大限に引き出し、企業の競争力を維持・向上させていくために必要であり、今後とも維持されるべきである。それが、多様な企業構成員だけでなく、株主、顧客等の利害関係者の信頼と支持を得ていく道といえよう」と書いている。

 そして最後に、「経営者が持つべき「高い志」の継承・発展」として、以下のように提唱する。

 「企業は、公正な競争を通じて利潤を追求するという経済的主体であると同時に、広く社会にとって有用な存在でなければならない。
 「企業は社会の公器」という言葉は、企業は単に自社の利益を追うだけでなく、世のため、人のために貢献する使命を負っていることを端的に示している。CSR(企業の社会的責任)の思想の根本はここにあるといえよう。
 社会のあり方は、人々の働き方やライフスタイルによって決まるところが大きい。とりわけ経営者は、自らの活動によって、社会のあり方に大きな影響を与える。どのような社会をつくっていくかを考え、それを実行していくことは、企業・経営者の責任・責務であることを改めて強調したい。
 企業活動を通じた価値の創造、社会からの信頼の獲得、さらに社会の活力の向上を目標に、公のために働こうとする経営者の志が、具体的な成果として結実したとき、企業は真に社会から評価される存在となる」。

 「企業は社会の公器」と立派なスローガンを掲げるが、前日本経団連会長奥田トヨタで、不法廃棄物投棄が発覚したり、過労死で訴えられたり、フィリピンでの不当労働行為を起こしたりと、「美しい」スローガンを裏切る企業不祥事が連日出てくる有様である。これでは、新しい働き方の理念が、実際には、「時間外割増賃金の抑止を意図したもの」であることを隠しているだけのベールの言葉でしかないのではないかという疑念を払拭することはできない。

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政治その他についての雑感

 与党の教育基本法案が成立してしまったのは残念である。しかし、教育再生と称する教育体制の変更は、これからが本番だ。ところが、安倍政権は、支持率低下を気にする風もなく、郵政造反組の復党やスキャンダルが発覚した本間政府税調会長をかばったりしている。

 民主党が見送った和歌山県知事選では、共産党候補が、投票率が低い中で、3万票以上を上積みするなど、自民党・公明党支持候補の出だしは低調となった。さらに、安倍首相と考えの近い保守派石原東京都知事は、海外豪華出張問題や公私混同などが報じられるなど、ピンチに立っており、日の丸君が代強制の先頭にたってきた広島県知事の選挙資金疑惑が持ち上がり、辞職勧告決議が採択されるなど、与党系知事が次々と力を落としている。

 与党が落ち目なのに、民主党がそれを鋭く追求することもなく、存在がかすんでいるように見える。来年の東京都知事選では、候補次第で、勝てるチャンスは拡大しているのだが、未だに候補者の名前が出てこない。菅氏の名前がマスコミなどでは取りざたされているが、田中真紀子氏という名前があってもいいだろうに。あるいは、野党統一候補というのでもいい。とにかく、やる気があるのか疑いたくなるような対応の遅さである。東京都議会では、民主党都議の何人かが、石原を支持して、与党的な振る舞いをしていて、本当はかれらは石原再選を望んでいるのかもしれない。そんなこんなで、民主党の事情が、自公政権や石原東京都政を助けている面があるように思われる。

 自民党政権は、わずかな野党の時期を除いて、長年政権政党であり、社民党委員長を首相に担ぐという無茶苦茶なことをしてまで、野党から脱して与党に返り咲いてから、連立相手を変えつつも、すでに十数年、政権の座にある。保守派が好む格言に、「権力は絶対的に腐敗する」というのがあるが、当然、自民党権力はこの間に絶対に腐敗しているのである。だからこそ、政権交代が必要だというのが、二大政党論者の主張であった。だとすれば、タウンミーティング「やらせ質問」問題その他の権力の腐敗が次々と明らかになっている今こそ、政権交代が必要な時ということになろう。

 しかし、その政権もやがて絶対に腐敗するのだから、また何年か後には、政権交代が必要な時が来る。政権は交代するが、基本的な体制は同じでなければならないのが、二大政党論の前提である。基本政策は、大きく変更しないということである。しかし、それでは、制度疲労が強くなったらどうしたらいいか? 大改革を行わねばならない。ところが、二大政党は、基本政策が同じなのだから、それができない。しかし、この間、自民党政権は、教育基本法を変えたし、さらに憲法まで変えようと狙っている。

 基本政策を大きく変えるような大改革の場合は、世論の多数が支持していることが必要だという基準を導入したとしても、世論は時期によって動くから、時期が問題である。しかし、今回の教育基本法改「正」については、明らかに世論の多数を無視した。復党問題でもそうである。結局は、去年夏の「郵政民営化賛成か反対か」を問うた解散総選挙で得た衆議院での圧倒的多数が、世論を代表すると見なして、国会で多数だから、基本政策の大改革は人々の多数支持を受けたとされたのである。総選挙では、シングル・イシューの国民投票みたいな感じになってしまったから、その他のイシューが選択基準にならず、白紙委任みたいになってしまったわけである。改憲の場合は、国民投票で多数を取らねばならないので、そういうわけにはいかない。

 他方で、保守派の分裂・再編が進んでいるが、とくに、産経グループの出版社の扶桑社が、日本教育再生機構(八木理事長)側に立って、「つくる会」教科書の編成権と執筆者選択権を確保し、執筆者から藤岡信勝氏をはずすなどの要求を「つくる会」に突きつけたことは、保守系運動体の大同団結をはからないとまずいという考えが、フジ・産経グループ内で強まっていることを示すものだろう。

 それに対して、「つくる会」東京支部の抗議の声が出ているようである。他方で、加藤紘一元自民党幹事長宅放火事件の右翼メンバーの行動を支持する集会に1000人が集まったと鈴木邦男氏が書いている。これは多いのか少ないのか、判断がつかない。少なくとも、緩やかに保守派が大同団結することを目指しているソフトな日本教育再生機構の民間タウンミーティング東京の700人よりは多い。しかし、教育基本法改悪阻止のために国会前に詰めかけた採択日の2500人よりは少ない。この行動では述べ何万人もが連日、国会前に集合した。それ以外に、日教組中央集会1万2千人、北海道1万人などの大集会が行われた。

 東京都石原知事批判は、左からだけではなく、一般都民からも噴出しているように、右派・保守派は、追いつめられつつあるように見える。だからといって、多くの都民が左傾化しているようにも見えない。今は、保守からニュートラルな状態になりつつあるところではないだろうか? 民主党はこのような意識変化に対応できずに右往左往しているようだ。和歌山県知事選挙では、有権者の間から、民主党が候補者を立てなかったことに失望する声が起きているという。選択肢を与えられなかったことは、民主党が反省すべき点であると思われる。こうして中間政党化している民主党に人々が失望すると、人々の意識は左傾化していく可能性が高いのではないだろうか?

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教育基本法改悪糾弾! 闘いはスタートしたところだ

  15日、教育基本法改「正」案が成立した。連日、国会前に詰めかけて多くの人々の反対の声、そして世論調査での今国会での成立を急ぐなとする多数世論を無視した暴挙であった。与党が世論に逆らってまで成立を急いだ教育基本法改「正」だが、その理由が薄弱である。それを示しているのが、櫻井よしこ氏の『毎日新聞』での「改正することに自体に意味があった」というコメントである。これは、教育基本法が、占領下でGHQに押しつけられたことを改訂の最大の理由にするもので、自民党結党以来の考えである。中身としては、個人の尊厳についての記述も残っているとか「愛国心」を明記せず、「国と郷土を愛する態度」と曖昧になっているなど、櫻井氏も不満を残したままのものである。つまり、櫻井氏にとっては、再改正が必要な法案なのである。

 同じく、右派の論客の大原康夫氏のコメントも、愛国心明記がない、宗教的情操教育が盛り込まれていないなどの点に不満を表明し、「基本法改正に必ずしも速効性があるとは思わないが、教育現場の荒廃を改善し、これまでできなかった教育改革を推進できる可能性が出てきた」と慎重な見方を示している。

  同紙の「変わる教育の憲法上」では、首相の教育基本法改定に影響したものとして、サッチャー教育改革への評価があるという見方を示している。
 
 「「総裁選のころから急に教育改革を語り出した」。自民党町村派幹部は証言する。首相の教育論は、愛国心や規範意識など、戦前に重視された日本の価値観の復活が中心だ。英国のサッチャー元首相が行った教育分野の規制緩和と管理強化にも関心を向けている。英国は88年の教育改革法を契機に、「教育困難校」wの廃校を勧告する教育水準局を設置。帝国主義時代を否定的に描いた歴史教科書を見直し、「自国の栄光」を中心にすえた。
  首相と下村博文官房副長官、山谷えり子首相補佐官の3人は、かつて保守系の議員連盟「日本の前途と歴史教科書を考える議員の会」のメンバーで、従軍慰安婦などの記述を「自虐的」と批判する「新しい歴史教科書をつくる会」と連携。「つくる会」は憲法改正を訴える保守系の運動団体「日本会議」ともつながる。
 サッチャー改革に着目した「日本会議」幹部の橋渡しで、下村、山谷両氏は04年9月、自民、民主の国会議員6人による「英国教育調査団」に参加した。両氏は「サッチャーは教育の英国病を立て直した」と高く評価するが、識者の間では「所得によって受けられる教育の格差が拡大した」(藤田英典国際基督教大学教授)との批判も多い」。
 
 サッチャー教育改革後、学校でのいじめ事件は日本より遥かに多く発生している。学力テストでは、一部私学が上位を独占し続けている。そのイギリスでは、イラク反戦運動が空前の盛り上がりを見せるなど、反政府運動が拡大している。
 
 教育問題への人々の関心は高かったが、それらをすべてごまかしながら、教育基本法改定論議が進められた。そして最後には民主党が、衆議院と参議院で対応が分かれるという事態になり、野党共闘が崩れることで、4日間の会期延長が決まったにもかかわらず、15日に成立してしまった。「改革病」は、民主党内にも広まっており、櫻井氏同様に、とにかくなんでも変えればいいという「病」が、基本法改定反対を、保守的に思わせたのかもしれない。だとすれば、「病」は重く、錯誤もはなはだしい。

  教育基本法自体は、理念法とされていて、それが変わったというだけでは、現実の変化はそれほどでもない。それは多くが指摘するとおりであろう。むしろ、次にくる学校教育法などの関連法案の方で、具体的な制度変化が規定されるのである。その根拠とされるのが、改「正」教育基本法である。そして次に狙われるのが、憲法改「正」である。ただ、来年夏の参議院選の結果次第では、民主党を中心とする連立政権が出来ているかもしれないので、具体的にどうなるかは不透明である。その場合には、愛国心明記など、保守派からの評価が高い教育基本法民主党案によって、再修正ということもありえるわけである。ただ、「改革病」の元であるイギリスでは、サッチャー教育改革・サッチャー路線の放棄・修正が進んでいて、英米かぶれには不都合な事態となっている。
 
 学校教育法以下の教育関連法案改訂の中身をしっかり見ていく必要がある。連日国会前に駆けつけたり、全国各地で行動に立ち上がった多くの人々の願いは、教育をよくすることにあることは明確であり、その願いと反対の教育政策を許さないという気持ちを持っていることは明らかである。再改正の綱領として、廃止される教育基本法を対置するなり、改善を加えた新教育基本法案として出すのもいいだろう。一時の脱力感にとらわれたとしても、いじめ自殺問題など教育現場で発生する諸問題の解決は、まったなしの課題であり、さらに現場に大きな影響をもたらす学校教育法・地方教育行政法(教育委員会法)、教員免許更新制などの諸問題がつぎつぎと提起されてくるので、それらへの対応が必要となる。気力・体力を回復・充実させ、次に備えよう。

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都立高校未履修問題と『産経』の能力主義教育の主張について

 都立高校の一部で総合学習の時間を受験対策にあてていたことが発覚したことについて、下の『産経新聞』社説は、総合学習の「時間の一部を、授業時間が減った数学や英語などの学力補充にあてることは、有効な活用方法の一つといえる。しかし、すべてを受験のためだけに使うのは行き過ぎであろう」と述べている。つまり、裁量の範囲が広いので、受験対策に使っても良いというのである。ただ、やりすぎはいけないというというのだ。もちろん、これは、「ゆとり教育」路線に基づいて新設された総合学習の時間の趣旨に反している。受験競争・偏差値教育・学力主義の是正といことから、生きる力、自ら考える力を養うための「総合学習の時間」が設けられたのであるから。ただ、学習指導要領に、「生徒の興味・関心・進路に応じた知識や技能の深化」という例示があって、確かに、進学する生徒の進路に応じて、受験用の知識や技能の深化をはかるための受験対策授業が容認されているとも読める。すると、文科省の「ゆとり教育」とは、たんなる建前であったのか? つまり、制度破綻していたということなのだろうか? あれだけ大騒ぎして導入された「総合学習」なるものは、もはや形骸化しているし、そうなるように文科省が、自ら制度の骨抜きに手を貸しているということなのだろうか? 
 
 それでは、伊吹文部科学省大臣が、都教委は、日の丸・君が代強制したように強力に学校を指導したのに、未履修に甘いのはなぜかと皮肉ったのは建前にすぎないということになる。
 
 「受験がすべてではないが、学校は勉強するところであり、受験対策を頭から否定すべきではない。小中高校を通じ、児童生徒が塾や予備校に行かなくても学力を身につけられるよう、指導要領の抜本改革が急務である」と、『産経』は、受験が全てではないとしながら、塾や予備校なしに学校教育だけで、受験のために必要な学力を身につけられるようにすべきだと主張する。受験がすべてではないというのは、たんなる空文句である。予備校や塾は、受験のための学力を身につけさせるために営業しているのである。つまり、『産経』は、受験用の学力を学校で向上させるように主張しているからである。受験がすべてではないのなら、学力を中心に授業時間を増やせという意味がわからない。他方で、都立高校では、来年度から奉仕活動を必修化するという。その他、中高一貫校など都立高校改革が続けられているが、それを後退させてはならないという。
 
 『産経』は、相変わらず、企業の求める能力主義の教育への導入を基本的な物差しにしているのである。他方では、『産経』は、規範を強調してきたので、未履修などの規範違反に対しては、厳しく批判しなければならないはずで、だから、「学力を重視したものではないが、だからといって、それを逸脱していいことにはならない」と学校を批判する。『産経』は、「国旗・国歌の指導義務も定めた指導要領は法的拘束力をもち、大半の学校はそれを守っているからだ」と国旗・国歌指導義務への服従を例に出す。問題の責任を学校に負わせているわけだが、都教委がそれを見逃していたのではないかという都教委の責任については問うていない。

 学習指導要領の国旗・国歌指導義務規定が法的拘束力を持つかどうかは、裁判所の判例では、学習指導要領のすべてが法的拘束力を持つものではなく、個々の規定の内容によるということになっている。だから、国旗・国歌規定が法的拘束力を持つかどうか? また、仮に法的拘束力が認められた場合でも、その程度や内容はどうか? などの具体的検討なしに、アプリオリに学習指導要領のすべての規定が法的拘束力があるということはできないのである。だから、国旗・国歌指導義務規定を法的拘束力があると断定するのは、あくまでも一つの解釈であり、『産経』独自の主張である。本当は、『産経』は、そのことを客観的に認識して、それがわかるように正確に表現しなければならない。そうしないと、『産経』独自の判断を読者に押しつけることにもなりかねないからだ。そうしたいのなら、そうすることを明示するべきである。例えば、いろいろと解釈があるが、『産経』は、こういう解釈を取っているというように。
 
 教育基本法改悪案の採択を与党は狙っているが、安倍政権の支持率急落、反対運動の盛り上がり、教育問題の多発などによって、単独強行採決のハードルが上がっている。都立高校での未履修問題の発覚とそれに甘い対応を取った都教委の態度が暴露されたことは、さらにそのハードルを引き上げたものと言えよう。国会前でのヒューマンチェーンなどの諸行動が取り組まれているし、その他の諸行動も国会会期末をにらんで、強力に取り組まれている。東京都では、格差を拡大した石原都政に対する批判が噴出している。日の丸君が代強制・処分に対する闘いも、教職員の集団提訴という形でも本格化している。
 
 『産経』が、能力主義教育・学力主義教育を基本とすることをはっきりさせてきたように、一方での伝統や文化や規範や愛国心や道徳などの強調が、煙幕にすぎないことが明らかになってきた。モラル崩壊・社会解体の能力主義教育、それが国家の上からの統制強化の下で、実際に行われることである。それを法的に基礎づけるための教育基本法改悪を阻止する必要がある。

  【主張】履修問題 都立高改革の火は消すな

 都立高校の一部で、総合学習の時間を受験対策に振り替えていたことが明らかになった。総合学習の時間は、教師の創意工夫に委ねられた授業だ。必修科目の世界史などを履修させていなかった問題と異なり、ケースによって判断が分かれる問題である。

 総合学習の時間は、ゆとり教育の一環として、小中学校は平成14年度、高校は15年度から設けられた。高校の学習指導要領では、「国際理解、情報などの横断的な課題学習」「生徒の興味・関心、進路に応じた知識や技能の深化」などが例示されている。

 その時間の一部を、授業時間が減った数学や英語などの学力補充にあてることは、有効な活用方法の一つといえる。しかし、すべてを受験のためだけに使うのは行き過ぎであろう。

 現行の指導要領は、小中学校で学習量を3割減らし、高校でも卒業単位数などを大幅に削減している。学力を重視したものではないが、だからといって、それを逸脱していいことにはならない。国旗・国歌の指導義務も定めた指導要領は法的拘束力をもち、大半の学校はそれを守っているからだ。

 都立高校は石原都政の下で、さまざまな改革が行われている。以前の都立高校は、美濃部都政時代の学校群制度により、低迷の一途をたどっていたが、平成15年度入試で学区制が廃止されて以降、日比谷、西などは進学校として復活しつつある。

 その一方で、日本の伝統文化を重視したユニークな中高一貫校などが創設され、国際教育や環境教育に特色をもつ一貫校や科学技術の専門家を養成する科学技術高などの開校が予定されている。来年度からは、全都立高校で奉仕活動が必修化される。

 こうした都立高改革の火を消してはならない。

 今回の都立高のケースに限らず、全国の高校で発覚した一連の未履修問題は、大学受験に必要な学力を身につけさせるための十分な授業時間が確保されにくいことから生じている。

 受験がすべてではないが、学校は勉強するところであり、受験対策を頭から否定すべきではない。小中高校を通じ、児童生徒が塾や予備校に行かなくても学力を身につけられるよう、指導要領の抜本改革が急務である。

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教育基本法採決強行近しの記事に関連して

 新聞では、早ければ、12月13日にも、与党が教育基本法参議院特別委員会での採決を強行するつもりだと報道されている。しかし、郵政造反組復党問題などに反発する世論が増大し、各種世論調査で、安倍政権の支持率が、大きく低下している中で、単独強行採決の判断は難しくなっているだろう。

 連日、国会前に詰めかけて、教育基本法改悪阻止の闘いに立ち上がっている人々と連帯して、全国各地で、大規模な集会・デモ、その他の諸行動が取り組まれている。教職員の危機感と怒りも強く、北海道1万人をはじめ、日教組中央集会1万2千人など、多くの教育労働者がたちあがっている。このように、教育労働者をはじめとして、多くの人々が声をあげ、行動していることは、公明党内の良心派の心にも響いていることだろう。
 
 与党の教育基本法改悪案が、公共心を盛り込むことを一つのポイントにしていることは、周知の通りであるが、それと同じ方向で、12日の『読売新聞』社説は、先の住民基本台帳ネットワークからの離脱を求めた住民の訴えを退けた名古屋高裁判決を妥当な判決だと評価している。
 
 この判決は、住民基本台帳ネットワークが、十分に個人情報を保護していると判断した。『読売』は、「確かに氏名、生年月日、性別、住所といった本人確認情報は、憲法上守られるべきプライバシー権である。だが、公権力がこれらを正当に収集、管理、利用する限りにおいては「公共の福祉」による権利制限として許される」としている。問題になっているのは、住民基本台帳ネットワークが、これを「正当に収集、管理、利用」するものかどうかであり、それが正当かどうかである。『読売』は、それを正当と判断しているわけで、そうである以上、個人的権利は、「公共の福祉」によって、制限されるのは当然だというのである。
 
 では、この場合、個人的権利を制限してまで確保すべき「公共の福祉」の基準は何だろうか? 『読売』は、「「「全員参加」が制度の大前提だ。すべての住民の本人確認情報がもれなく提供され、適正利用されることによって様々な公共的利益を生む。年金受給者の「現況届」の省略化などは好例だ」と述べている。この程度のことである。これが、大げさに「公共の福祉」などと呼べるほどの公共事だろうか? だいいち、これが公共性というものだろうか? 『読売』が言う公共性とは「制度の利便性、有用性を認め」とあるように、その制度が、便利であるか? 有用であるか? を基準にして判断するものだ。
 
 その制度が、利便性と有用性が多くあれば、「個人離脱の自由」に「公共の福祉」を優先させる」べきだというのである。そういう判決がこれからの流れだろうというのだが、利便性と有用性についての判断は、時代状況によって大きく変化することは明らかである。例えば、現在では道路はできるだけまっすぐにつくるのが、利便的で有用性が高いと判断されることが多いだろうが、戦国時代においては、曲がりくねった道の方が、防衛上利便的で有用性が高かったので、城下町の道路は、曲がっていることが多い。現代でも、スピードを出しすぎないように、意図的にカーブをつくるということもある。

 住民基本台帳ネットワークについて、すでに情報漏洩事件が起きているが、そういう事件が続けば、有用性よりも、危険性の方が高く評価されるようになろう。『読売』が、その可能性を考えられないのは、最初から偏った結論を持っていて、自己反省という重要な思考活動をはなから放棄しているからだろう。人間は利害計算機械ではないのである。

 同じように、いかに、与党が数を頼りに、教育基本法改悪を強行しようとしても、これだけの多くの人々の今国会成立反対の声を無視することはできなくなっているのは、人々が、利害計算機械の計算どおりには動かないからである。与党や『読売』が、いかに利害計算しても、そのとおりには人々は動かないのである。構造改革路線をやってしまった以上、変わらないことがいいことだという保守論理も通用しない。物事は変わるのであり、変えることができるというのが、構造改革派の基本であるからである。

 つまり、教育基本法改悪案成立は、変えることができるし、阻止することが可能である。住民基本台帳法ネットワークについても、いくら金がかかろうと、変えること、なくすことは可能である。構造改革路線が広めたのは、そういう変えることができるという意識である。それに、与党も『読売』も賛成し続けてきた以上、今更、それらができないということを言っても説得力がないのである。国会延長も取りざたされているが、教育基本法改悪阻止の闘いを続けることは、情況を変えることができることを、『読売』は認めざるを得ない。

 12月12日付・読売社説(2)
 [住基ネット]「『離脱の自由』を退けた妥当な判決」

 住民基本台帳ネットワークの安全性を認め、一部住民のネット離脱の要求を「理由がない」と退けた。妥当な判決だ。

 「個人情報の保護対策が、制度、技術、運用面で種々講じられており、プライバシーが侵害されるような具体的危険はない」。2審の名古屋高裁金沢支部の認定である。

 行政機関が集めた個人情報が、職員らによって不正に収集、利用され、「住民が丸裸にされる」とまで述べて離脱を認めた1審・金沢地裁と正反対だ。

 原告住民側はこう主張していた。住基ネットに参加させられ、個人情報の提供の可否などを自ら決められる「自己情報コントロール権」としてのプライバシー権が侵害された。今後も情報が不正に利用されるなどの危険性が高い――。

 確かに氏名、生年月日、性別、住所といった本人確認情報は、憲法上守られるべきプライバシー権である。だが、公権力がこれらを正当に収集、管理、利用する限りにおいては「公共の福祉」による権利制限として許される。2審判決はそう述べて住基ネットを合憲とした。

 「全員参加」が制度の大前提だ。すべての住民の本人確認情報がもれなく提供され、適正利用されることによって様々な公共的利益を生む。年金受給者の「現況届」の省略化などは好例だ。

 その点を、2審判決は「一部でも不参加を許せば、ネット本来の機能が果たせなくなる」「従来のシステムや事務処理を残さざるをえず、重大な支障をもたらす」と明確に指摘している。

 最近の大阪府箕面市のケースが、具体例として当てはまるだろう。住基ネットを違憲とした先月末の大阪高裁判決に従って、市は原告住民1人のネットからの離脱を認める方針だ。

 しかし、そのためには最大3500万円の経費が必要になるという。市民の中からは、そうした出費は納得できない、という声も出て来るのではないか。

 今回の訴訟で原告住民側は、北海道斜里町でファイル交換ソフトを通じて一部住基ネット関連情報が漏れたケースなどを挙げ、危険な制度だ、と主張した。だが判決は、それらは管理の末端での「ごく例外的な事例」であり、制度的欠陥を示すものではない、と退けた。

 2002年の運用開始以来、各地で起こされた住基ネット訴訟では、今回の2審同様、住民側敗訴の判決が相次いでいる。個人の離脱を認めたのは、金沢地裁と大阪高裁の2判決だけだ。

 制度の利便性、有用性を認め、「個人離脱の自由」に「公共の福祉」を優先させる司法の流れが定着するだろう。(2006年12月12日『読売新聞』)

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教育再生会議合宿討論始まる

 教育再生会議の集中討議が、8日から始まった。そこで、原則非公開であるにもかかわらず、その中身がマスコミに流れ出ている。

 まず、学校教育を扱う第1分科会(白石主査)の議論では、「ゆとり教育」を見直し、国語、算数(数学)、理科、英語の授業時間を増やすこと、保護者・生徒・児童の教員評価制導入、社会人の教員登用拡大、学校に「副校長」、「主幹」などの新管理職を創設することなどを報告に盛り込むとした一方で、教育長輪番の習慣の排除や、教委の独立行政機関による第三者評価導入は、文科省の反対で盛り込まれないという。

 9日の討議では、『読売新聞』によると、「学校教育を通じて「奉仕の精神」や「友情」「親孝行」といった徳目を身につけたり、奉仕活動などを通じて忍耐や働く大切さなどの「規範意識」を身につけたりする必要があるとの考えで一致した」という。

 「徳目を身につける具体策として、地域に伝わる伝説や童謡、言い伝えなどを学校で教え、国や地域の伝統を尊重する心を養うとしている。また、郷土の偉人について学ぶ機会を増やし、子供の郷土への関心を高めることが重要だ、とした」。

 さらに、「家族への感謝の気持ちを確認する機会とするため、「家族の日」の創設を提案する方針だ。多くの委員からは「国民運動として家庭教育の再生に取り組むべきだ」などの声が出たという」。

 しかし、徳目教育については、今までも行われてきたことであり、それによっても、「国や地域の伝統を尊重する心」は養われてこなかったのはなぜだろうか? それに、第1分科会の方では、郷土から離れた学校に自由に通えるようにするバウチャー制度がうたわれているのはどうしたことか? 通学する学校のあるところが、その生徒・児童の郷里になるのか? こういう不整合、でたらめがこの会議の議論には多くあり、委員自身が、「百家争鳴」と呼ぶほど混乱を極めている。そこで、この会議が、報告書をまとめるには、権力闘争による他はなくなる。誰が権力を強くもてるかによるわけである。今は、文科省・規制改革・民間開放推進会議の二者が有力である。 しかし、そこに、自民党が介入を強めつつある。与党の教育基本法改「正」案が成立すれば、自民党は、それを背景により介入を強めるだろう。そうすると、義家委員が危惧している「揺り戻し」の動きが強まるであろう。

 日本教育再生機構をはじめとする保守派は、教育再生会議の議論に否定的で、これを右から批判する運動を強化するつもりのようだ。

 それにしても、いくら知識として「国や地域の伝統を尊重する心」を養おうとしても、結局は、経済状況によって、郷里を離れざるをえないことが多いし、すっかり伝統が破壊された東京などの都市圏では、それらは想像上の存在でしかない。だから、それは幻想の郷土であり国でしかないのである。虚しい話だ。

 これまでも、郷土の伝説や言い伝えなどは知識として教えられてきたが、その結果として、郷里でずっと生活したいと思っても、仕事がないとか転勤とかいろいろな現実的な理由で、郷里を離れざるを得ないことが多かったのである。「ふるさとは遠きにありて思うもの」(室生犀星)でしかなったのである。

 「奉仕の精神」や「友情」「親孝行」を、教科書にあった太宰治の「走れメロス」や宮沢賢治の童話などを通じて、知識としては学んだが、競争社会では、友情のために自己犠牲を払ったりすることは、否定されることが多い。学校で、こういう徳目教育をすれば、現存経済社会の利益中心の価値観は、転覆し、変革されるのだろうか? それとも、それはまた別だということで、複数のモラルを生きるというこれまでのような生き方が続くだけなのだろうか? これは、教育の領域だけではかたがつかない問題である。

 下の『毎日』の記事は、教育再生会議の「百家争鳴」ぶりの一端を示す記事である。

 教育再生会議:競争原理巡り紛糾 中間報告は難航も

 政府の教育再生会議(野依良治座長)の先月29日の全体会議で、3月に閣議決定された「規制改革・民間開放推進3カ年計画」の位置づけをめぐりメンバー間の意見が激しく割れ、約20分にわたり紛糾していたことが分かった。安倍晋三首相の仲裁もあいまいな形で終わったという。論争の背景には教員・学校評価など教育への競争原理の導入のあり方をめぐる根深い意見対立があるとみられる。8日行った集中討議でも教員・学校評価は議論の的となっており、来月の中間報告とりまとめは難航しそうだ。

 3カ年計画は、学校・教員評価や不適格教員の排除など、競争原理の導入を文部科学省に義務づける内容。29日の会議では、議論の「百家争鳴」ぶりを懸念した渡辺美樹委員(ワタミ社長)が「閣議決定があるならそれをもとに話し合ってはどうか」と提案したが、3カ年計画に距離を置く伊吹文明文科相が「法律だって必要があれば改正される。閣議決定も議論の結果なら書き直せばいい」と述べ、拘束されないとの考えを示した。これに対し、競争原理導入派の山谷えり子首相補佐官が「閣議決定があくまで前提になる」と割って入り、伊吹文科相と激しいやり取りが繰り返された。

 このため安倍首相が「閣議決定には拘束されないが、意識してほしい」と述べ論争を引き取ったが、メンバーの一人はこの発言を「規制改革の閣議決定にはこだわらない」趣旨の発言と受け止め歓迎。「教育論より規制改革を優先するなら、しっぽが犬を振るようなもの」と、競争原理派への反感をあらわにする。一方で、規制改革論者で規制改革・民間開放推進会議委員を兼務する白石真澄第1分科会主査は「再生会議は、中央教育審議会(文科省の諮問機関、中教審)の議論も前提ではないというスタンス」と述べ文科省をけん制しており、首相の指示は、双方から都合良く解釈されて、火に油を注ぐ形となっている。

 再生会議が8日、東京都内のホテルで開いた集中討議でも素案が力点を置く「不適格教員の排除」に、委員から「教員個人の資質の問題より、教員数を増やしてきめ細かい指導をすべきだ」と疑念が示された。東大の小宮山宏学長は「再生会議の提案は、骨太の方針を示すものであるべきだ」との文書を提出し、学校教育の具体論に踏み込む会議のあり方に疑問をにじませた。【渡辺創】(『毎日新聞』2006年12月9日) 

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教育改革論議の行方

 教育再生会議は、とくにその第1分科会が、規制改革・民間開放推進会議兼任委員の白石主査を中心にした構造改革路線での教育改革論を押し出している。

 規制改革・民間開放推進会議の教育論は、公務サービス論・教育サービス論を基本にし、現行教育基本法第6条の2「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない」の「全体の奉仕者」というのを、サービス提供者というように解釈しているのである。他方では、後半の教員の身分の尊重については、限定的に解釈し、「不適格教員」の排除の容易化を打ち出している。

 この教員を「全体の奉仕者」とする規定は、極めて一般的な漠とした規定である。したがって、この解釈が多様化するのはやむを得ないのではあるが、それにしても、これを消費サービスとする解釈は、一面的であり、狭い規定である。それは、消費者が、サービスそのものを選択することができない義務教育が前提となっているからである。サービス自体を拒否する権利がないのでは、通常のサービス業とは違う。あくまでも、義務教育があって、現在なら、小中9年は、どうしたって教育サービスを受けなければならない。その上での、学校選択などのサービス選択の多様化ということであって、しかも、そんな選択肢の限られている地方では、夢の話である。

 言うまでもなく、教育サービス論は、教育の一面を抽象的に反映しているにすぎない。

 それにしても、規制改革・民間開放推進会議が、権限と責任を現場に集中させるとか、教育を行政権の対象とするのではなく、国民の教育を受ける権利を行使することだとか、現行教育基本法の基本的な考え方を前提としていることが興味深い。これは、政府与党の教育基本法改「正」案とは基本的な考え方が異なっている。教育再生会議が出した学校評価・教員評価の積極導入案について、さっそく自民党内から、現場を混乱させるなどの反発が出ている。

 規制改革・民間開放推進会議の教育論からすれば、教育基本法改「正」与党案には反対という結論が出てくる。安倍政権は、構造改革路線の継承とその転換の両方のバランスの上に立っているために、双方の間を揺れている。

 規制改革・民間開放推進会議は、官によって決定された財・サービスを配給する制度を社会主義の市場無視と同様だとして批判しているのだが、それには、消費者主権に基づく公共性という市民的公共概念が基本にある。これは、学校教育で言えば、イギリスで、私学が「パブリックスクール」と呼ばれているというようなことである。もちろん、そこにはアダム・スミス的な公共概念もある。しかし、その前提となっていたのは、有限会社・家族経営などの中小の私企業経営である。現在のような市場寡占を行っているような巨大な株式会社・独占資本の時代に、それをそのまま当てはめようとしても無理がある。

 もちろん、それは国民国家、国民形成のための義務教育・公教育体制と衝突する。したがって、自民党が教育基本法案で、愛国心を強調していることや教育への国家介入を強調していることと衝突する。両方が混ざり合っているのが、教育再生会議の議論であり、教育をめぐる混乱は、一層悪化している。規制改革・民間開放推進会議の方向で、突き進めば、国民教育や愛国心教育は形骸化していくだろうし、与党案の方に突き進めば、教育の自由化はストップするだろう。

 この路線闘争は、今後激化し、それが権力闘争に結びつく可能性が高い。

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規制改革・民間開放推進会議の教育改革論など

   「選択制の何よりの意義は、供給者の側に立って児童生徒・保護者をいわば教育行政の対象と捉えるのではなく、国民一人一人の教育を受ける権利を守ることにある。問題は、学校選択制の採用を市町村教育委員会に委ねるか、国として一律に決定するかではなく、児童生徒・保護者に本来与えられるべき選択権が与えられていないことにある」。

 これは、昨年12月21日に公表された「規制改革・民間開放の推進に関する第2次答申 「小さくて効率的な政府」の実現に向けて-官民を通じた競争と消費者・利用者による選択-」の教育の項目にある文章である。
 
 「規制改革・民間開放推進会議」は、来年3月で役割を終える。今、同会議は、最終答申案づくりに取りかかっている。この会議は、経済財政諮問会議と基本的な考えを共有する構造改革派の拠点の一つで、宮内義彦オリックス会長が最近まで座長を務めていた。その第二次答申案は、冒頭次のような基本的考え方を示している。
 
 Ⅰ.「第2次答申」の決定・公表に当たって

 規制改革・民間開放推進会議(以下「当会議」という)は、「改革なくして成長なし」、「民間にできることは民間に」の基本理念の下で進められている構造改革の一翼を担ってきた。3年の設置期間の折り返し点を過ぎた今、残された期間で改革の芽を大きく育てていかねばならない。
 「規制改革・民間開放」の諸改革の背景に共通する課題は、「官による配給サービス」から「民による自由な競争・選択」へと制度の転換を図ることにある。官自身あるいは官が定めた特定の者だけが、官によって予め決められた財・サービスを提供する世界は、どの時代のどの国においても歴史上成功を収めることができなかった社会主義的システムにおける市場の機能を無視する配給制度と同様である。我が国の公共サービスの大部分は、この「配給制度」により支配されている「官製市場」の下にあるといっても過言ではない。
 「配給制度」は、既得権益と非効率を擁護する考え方であり、これを民による自由な競争と消費者・利用者による選択を基本とした公平な市場を、官が責任をもって形成することへの転換を図ることにより、経済社会の発展と、生産者や官の関係者の特殊な利益を擁護することのない消費者を見据えた国民の利益の増大を公正に実現する必要がある。官だけがいわゆる公共公益性を体現できる唯一の主体であるという旧来の発想は終焉を迎えたと言わなければならない。
 以上のような観点から、既に公表している「平成17 年度規制改革・民間開放推進会議の運営方針」に示すとおり、本年度は、我が国経済・財政への影響が大きい分野や国民の関心の高い分野を中心に「行政部門の徹底した効率化・コスト削減」及び「国民負担の軽減・民間部門の需要創出」に資する規制改革・民間開放に重点的に取り組んできたところである」。
 
 この一周遅れの認識は、小泉構造改革路線に共通するドグマであった。

 消費者主権論や自由市場主義は、歴史上、まったく部分的一時的な成功しかもたらさず、古典派経済学者からは、社会主義者になる者が続出したのである。中南米では、新自由主義構造改革の失敗から、社会主義や福祉国家を求める左派政権が続々と誕生している。また、日本では、「国民負担の軽減・民間部門の需要創出」をうたったこの提言を裏切る形で、小泉政権下で、国民負担の増大が起きている。負担軽減の恩恵を受けたのは、法人税減税、累進税率の上限引き下げななどの恩典を与えられた企業や高所得層であった。そのようにして、儲けた分をかれらの多くは、投機や利殖に回している。それが、宮内規制改革・民間開放推進会議元議が長福井日銀総裁に便宜を図っていたことでも明らかになった。結局は、官も腐っているが、民も腐っているのである。
 
 その「規制改革・民間開放推進会議」が、教育分野での提言をしているわけである。その抜粋。
 
 教育分野

 【問題意識】
 
  教育の原点・基礎としての義務教育を見た場合、児童生徒が等しく、その能力・適性に応じた教育サービスを受ける機会を与えられてはいないのが現状である。例えば、公立学校においては一部の地域で学校選択制が採用されているものの、児童生徒・保護者の選択の自由が保障されているわけではない。また、教育課程等も、学校現場が児童生徒一人ひとりの能力・適性を考慮しつつ的確かつ柔軟に改善していくことが望まれるにもかかわらず、全国一律の画一的基準がそれを制約している。さらに、公立学校教員の任命権は原則として現場から離れた都道府県教育委員会にあり、その意思決定に対して教育サービスの受益者である児童生徒・保護者の声は反映されにくい。
 本来最も尊重されなければならない児童生徒・保護者のニーズや評価が顧みられず、教育現場に最終的な権限と責任が与えられていないシステムの下では、児童生徒・保護者というユーザー本位の教育が実現するはずもなく、特に、真にきめ細かい対応が必要とされる学力的に不利な立場にある児童生徒、すなわち「教育弱者」が置き去りにされ、早い段階から学習意欲を喪失してしまうことになりかねない。
本年10 月6日に発表された内閣府「学校制度に関する保護者アンケート」によれば、現在の学校教育に「不満」と回答した保護者が43.2%にも上り、「満足」と回答した保護者は13.0%にとどまった。このゆゆしき事態を解消するためには、現在の我が国の教育制度に関して抜本的な変革をもたらすべく、あらゆる必要な法的・予算的・行政的措置を通じてユーザー本位の教育を実現していかなければならない。

 教育サービス論から、消費者=ユーザー本位で、選択できる制度にすることが主張されている。教育現場に最終的な権限と責任が与えられなければならないという主張は、注目される。これは、政府与党が出している教育基本法案と対立する考えだからである。周知のように、与党案は、国に教育の責任を帰すことを基本としている。そして、『骨太の方針2005』との整合性・一致を強調しているのが興味深い。

(1)教員の質の向上を目指した免許・採用制度及び教員評価制度の改革
  【具体的施策】
 「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2005」(「骨太方針2005」。平成17年6月21日閣議決定)において、「優れた教員の確保・育成に向け、豊富な社会経験や特定分野の能力を有する人材等多様な人材の活用を促進しつつ、教員養成・免許・採用制度の抜本的見直し・改善を行う」ことが決定されていることにかんがみ、少なくとも以下の施策を早急に講じる必要がある。

 ア 免許状を有しない者の採用選考の拡大 イ 特別免許状の活用の促進 ウ 任期付き採用制度の活用 エ 教員採用における公正性の確保

 ② 教員任用・評価・処遇制度の改革 ~児童生徒・保護者の意向を反映した教員評価の実現に向けて~
 
  正式採用後においては、特に公立学校教員の場合、指導力不足の教員に対して適切な処分を行うことは堅固な身分保障を持つ公務員であるが故の困難が伴う。そこで、現在の教育公務員の身分保障を緩和することについて、公立学校教員の非公務員化を含め、検討を開始すべきと考える。
 
 ア 児童生徒・保護者の意向を反映した教員評価制度・学校評価制度の確立 イ 校長評価制度の確立 ウ 条件附採用期間の厳格な制度運用 エ 指導力不足教員を教壇から退出させる仕組みの確立
 
 (2)学校の質の向上を促す学校選択の自由の徹底
 
 「骨太方針2005」(平成17年6月21日閣議決定)では「学校選択制について、地域の実情に応じた導入を促進し、全国的な普及を図る」とされたところであり、学校選択制が文字どおり制度として根付くようにするための具体的な措置を講じることが求められる。

 (3)学校に関する情報公開・評価の徹底(全国的な学力調査の実施を含む)

 ① 学校に関する情報公開の徹底 ② 全国的な学力調査の実施

  (4)バウチャー構想の実現
 
 「骨太方針2005」(平成17 年6月21 日閣議決定)においては「我が国の社会の実態や関連の教育制度等を踏まえ、海外事例の実態等を検証しつつ、教育における利用券制度について、その有効性及び問題点の分析など、様々な観点から検討し、重点強化期間内に結論を得る」とされているところであり、教育バウチャー制度について、我が国の社会の実態や関連の教育制度等を踏まえ、海外事例の実態把握、その意義・問題点の分析等様々な観点から、今後更に積極的な研究・検討を行う。

 このように、この会議の教育改革論は、基本的に「骨太の方針2005」の具現化にあることがわかる。
   
 先日、この会議の最終答申案の一部が新聞で明らかになったのだが、教育分野については、教育再生会議の方に任せることにして、バウチャー制度導入などについては、明記しないことにしたという。その教育再生会議の方は、規制改革・民間開放推進会議委員と兼任する委員などを中心に、この会議の基本的な考えを答申に盛り込もうという動きがある一方で、郷土愛や家庭・地域・文化の再生や規範の強調など、規制改革・民間開放推進会議の教育議論にまったく出てこない論点をずらりと並べている。
 
 日本再生教育機構(八木秀次理事長)は、ようやく、「第一回民間教育再生会議」で、いじめ問題と教育再生をテーマに議論を行ったようだ。冒頭、八木理事長は、「昨日、政府の教育再生会議が出した「いじめ問題への緊急提言」の8項目は、いずれも実効性のあるものではなく、「いじめの加害者は出席停止処分にする」ぐらいの強いメッセージを打ち出すべきだった。教育再生会議は未だ方針が定まっていないようであり、ますます我々民間の立場から教育再生の声をあげていかなければならない」と述べた。当日の40人の識者からの発言要旨が載っているのだが、注目すべき発言はない。例えば、小田村四郎氏(元拓殖大学総長)の発言。

 「いじめはどこの社会にもあるが、学校でこれだけ深刻な問題になったのは戦後教育の欠陥だ。過度な個性の尊重、個人の尊厳といった個人の欲望を中心とする教育を改め、人間の生きる目的にある公に奉仕する精神を取り戻すべきだ。道徳教育を正規の教科にして、教科書を作り、採点も行い、責任について子供たちにきちんと書かせて教えることが大事だ」。

 ここには、教育基本法改正与党案と同じく、肝心なことが抜けている。「公に奉仕する精神」に対応する共同体や社会をどうするかという点である。精神だけがあって、それと結びつく実体がないのでは、いくら教科書や評価しても、それは受験用の暗記知識の詰め込みにしかならないということだ。道徳知識の暗記競争が激化するだけだろう。大人が地域社会建設のために働かないのなら、子どもたちは、どうして実践的な道徳を身につけることができようか? そして、この社会には、富者の道徳以外にも複数の道徳があって、それらが矛盾し衝突するという現実を学ばないで、どうしてリアルな道徳感覚を身につけることができようか? 自分たちが、周囲から学んだ道徳が、企業社会に行くと否定され通用しないことを知って、道徳一般の否定、ニヒリズムに陥りやすいのである。
 
 教育をめぐる議論は、驚くほど拡がっており、簡単に決着がつくようなものではない。

 教育基本法改悪案採択阻止の緊急の国会前集会は、約3500人を集めて大成功したという。ちなみに、教育再生機構の山形でのタウンミーティングは、約200人とのことである。

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教基法7日採決延期その他

 与野党は、7日の参院特別委員会での教育基本改「正」案の採決をしないことで合意した。連日、国会前で、集会や座り込みなどの反対行動が行われており、さらに各地で、集会・デモ・座り込み・情宣活動が取り組まれている。民主党も、今国会での採決阻止を決定している。安倍政権の支持率は、大きく下がってきており、復党問題でさらに低下する可能性が高く、表向きは、世論調査の上下に一喜一憂しないと平静を装っているが、来年1月には宮崎県知事選挙がある。和歌山県知事選挙では、独自候補を立てられなかった民主党も、宮崎では独自候補を立てると言っている。安倍政権の支持利率低下は、これから続く地方選挙に不利である。

 なお、沖縄県知事選挙では、民主党の支持団体である「連合」沖縄から、電力労組や石油関連労組などが、仲井真陣営を支持したようで、このような「連合」分裂選挙も、野党に不利に働いたようである。以前、圧勝した稲嶺保守県政の後継者が、辛勝するまでに支持が衰えていることが示されたことが重要である。沖縄で基地の県内移設反対派が多数であることが改めて示されたのも重要である。

 教育基本法参院特別委員会の議論は、いじめ問題、タウンミーティングでの「やらせ質問」問題、高校必修未履修問題のいわゆる「三点セット」や学校教育法、地方教育行政法、教育委員会問題などを含む広範なものになっている。それも当然で、この特別委員会以外に、教育論議をする委員会が同時には開けない仕組みになっているのである。自民党は、教育基本法を理念法だとして、制度や他の教育関係法などと切り離して、審議しようとしたが、これらの諸問題は教育基本法と関連しているので、どだい無理な話である。審議時間は、この点からも、まだまだ不十分である。世論調査での教育基本法改正賛成派の中でも多数派は、今国会での成立にこだわらず、慎重審議をするように求めている。世論の今国会成立支持派は、少数である。

 安倍総理は、教育再生の中で、「不適格教員」の排除をうたっている。教育再生会議からも、同じ意見が出ているが、東京都羽村市の小学校教員が、ホームページで人権侵害を行っていた問題で、このような「不適格教員」を処分する権限が、校長にも羽村市教育委員会にもないということが改めて問題になっている。教員の人事権・処分権は、この場合は東京都教育委員会にある。その都道府県教育委員会には、文科省からの出向者がたいていいて、文科省の指示の実現を図っている。全国で、日の丸君が代強制を進めたのは、文科省からの出向者である。法律上は、かれらは、指導・助言・援助する立場でしかないが、実際には、官僚的統制権を発揮して、事実上、都道府県教委を動かしているのである。現場には、大した権限が与えられていないのであり、ただ、習慣的な力関係で、権限のいくつかを事実上行使できているところがあるにすぎないのである。それも、最近の激しい反動攻勢によって、「特権だ」、「教師の横暴だ」、その他、なんだかんだと難癖をつけては、剥奪されつつあるのだ。これは、汚れるという職業上の合理的理由から、入浴が認められていた国鉄労働者の権利を職務怠慢と決めつけて、労働者の権利を削っていった国鉄改革の時のやり方と似ている。

 権限が国家官僚に集中していって、現場は、権限がないのに、責任を重くされる。それが教育基本法改「正」与党案から出てくる結果である。「不適格教員」を排除するために、PTAや児童・生徒による教員評価をするというが、「不適格」者には、校長や教頭や教育委員、文科省役人が含まれないのはなぜだろうか? これらの者たちの責任逃れでしかない。等々。

 とにかく、学校教育法上の教員の権限の規定だとか、教委の役割や権限や責任だとか、文科省のあり方とか、いろいろと整理・検討しなければならないことがたくさんあって、それらと教育基本法のあり方を関連させて検討するには、まだまだ審議時間は足りない。自民党の都合で、急いで成立させるべきものではない。

 いじめ問題について、教育再生会議の「緊急提言」に続いて、今度は、文科省の「緊急提言」が出た。しかし、それは、教育再生会議がいじめ側への毅然とした態度を求めたのに対して、サポートを中心とした対策になっている。文科省対教育再生会議の路線闘争が現れたような話で、教育再生会議内で、多様な意見が闘わされている上に、文科省がそれに外から対案をぶつけるという複雑な様相を呈してきた。中央教育審議会内でも、新自由主義的な構造改革論者と「ゆとり教育」派などとの意見対立があるようで、教育を巡る政府内の議論は、ぐちゃぐちゃになってきている。このような情況は、与党内の路線闘争にも反映するだろう。それは、安倍内閣の求心力を掘り崩すことだろう。

 12月5日『毎日新聞』文科省もいじめ緊急提案 有識者会議 サポート体制軸に

 文部科学省のいじめ実態調査などを見直すため、同省に設置された有識者会議(座長=梶田叡一・兵庫教育大学長)は4日、学校内外の相談体制の充実など四つの柱からなるいじめ対策の緊急提案を発表した。いじめに関して子どもへの毅然とした対応を打ち出した教育再生会議の緊急提言(先月29日)とは異なり、子どもや学校へのサポート体制充実などを求めているのが特徴だ。

 緊急提言は①子どもがさまざまな大人に相談できる場面をつくる②学校の中に新たな子どもの居場所をつくる③万が一の場合の初期対応では、専門家が学校をサポートする。④いじめの実態を把握・分析し(解決方法など)良い取り組みを共有する―ことを提案した。

 さらに、4項目の実現のため、「休日でも夜間でも相談を受け付けられる体制を整備する」「緊急時の学校支援では、外部の専門家がチームを組む」―などを挙げている。【高山純二】

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ニュースステーションの変なコメント

12月4日のテレビ朝日のニュースステーションの司会とコメンテーターはおかしなコメントを言った。

 まずは、司会の古館一郎氏が、戦後教育の根本的見直しを口にしたことである。確かに、最近のいじめ自殺の連鎖や高校未履修問題やタウンミーティングの「やらせ質問」の発覚などは、現在の教育制度全体が根本的に行き詰まっていることを示している。それは疑いない。現在の教育制度の基本設計が、戦後期につくられたのも確かだ。
 
 しかし、戦後教育は、1950年代後期以降、今日まで、その骨抜きや制度改変が繰り返し行われて、今の姿になったのであり、それを行ってきたのは、55年体制以後は、自民党政権であった。戦後教育は、数十年間にわたって、自民党政権によって、徐々に変質させられてきたのであり、その総仕上げにあたるのが、教育基本法改訂であり、その先にあるのが改憲なのである。例えば、教育委員会公選制の廃止・任命制があり、学習指導要領の文科省の作成権の簒奪があり、教科書検定権の独占がある。今頃になって問題になっているが、各市町村教委や学校長に教員任免権を持たせるとかいう話も、教育行政が事実上、文科省を頂点とする上意下達の官僚制になっていて、現場の権限は限られているのである。
 
 「新しい歴史教科書をつくる会」は、教科書採択権を各市町村教委が完全に握るように訴えたが、この権限は、イギリスでもアメリカでも北欧諸国でも、基本的に現場の教員や学校にある。使う者が使いやすいものを選ぶのがよいと考えられているからである。それを名誉職化しているような教育委員会に選ばせてどうするのだろう? ここでも、教育委員会制度そのものをどうするのかという基本的な観点が欠けている。
 
 いずれにしても、古館氏は、この問題についての見識や考えが未整理なまま戦後教育の見直しなどという自民党のスローガンを繰り返してしまったのだろう。戦後見直しの逆コースの教育体制が行き詰まったのであり、その見直しが必要なのである。
 
 次に、ベネズエラの大統領選挙で、チャベス氏が圧勝したことを報道したのに触れて、世界の反米独裁者として、フセイン元大統領、金正日、イランのアフマディネジャド大統領、オサマ・ビンラディンの写真を並べ、あたかも、チャベス大統領がその同類のように扱ったことは、露骨な世論誘導であり、完全に視聴者を馬鹿にした行為である。スンニ派に依拠して、クルド人とシーア派住民を弾圧・抑圧したフセイン元イラク大統領と先軍政治で、特権層を保護し、多くの民衆を貧困に追いやっている金政権とアフガニスタンのタリバン政権を支援して、イスラム原理主義体制を支え、他宗派・他民族を従属させ、抑圧に荷担したビンラディンと選挙で選ばれたイランのアフマディネジャド大統領と同じく選挙で勝利したチャベス大統領を、独裁者とひとくくりにすることは、視聴者の判断力を高めるのではなく、愚弄するものである。
 
 独裁者というからには、他の候補の発言の自由を奪うとか、強権的手法によって、政治的自由を奪うとか、場合によっては、選挙すら行わないとか、独裁敵手法が存在しなければならない。テレビ朝日は、選挙中になにか取材妨害とか言論弾圧とかを受けたのか? あるいは、チャベス側からの選挙の不正があったのか? チャベス氏の発言は、過激でエキセントリックである。しかし、実際に、独裁者としての行為があったのだろうか? それがあったのなら、それを報道すればいいだろう。

 こういう使い方だと、独裁者というのは、アメリカのブッシュ大統領が使っているような、善悪図式を指す記号の一種でしかない。こういうシンボルは、大まかな認識を得るには便利ではあるが、それはまったく不正確であり、限界をふまえて使わないとかえって、正しい認識を妨げることに注意して使わねばならない。それは比喩もそうである。気をつけなければならないし、図式的認識で物事をわかったつもりになってはいけないのである。
 
 90年代に、アメリカが中南米に押しつけた新自由主義が、貧富の格差を拡大し、貧困者たちの生存すら脅かし、基本的人権、生存権を危うくしたことなどがあって、中南米諸国で、その路線が否定されていったのだ。チャベス氏は、豊富な石油資源があり、石油産業を独占する一部企業や特権層がそれで潤っている一方で、貧困が拡大し、深刻化していく情況をなんとかしなければならないとして立ち上がったのである。それに対して、アメリカは、クーデターを裏で支援して、その動きを暴力的に押しつぶす手助けをしようとして、一時は、チャベス氏は、クーデター派に拉致・監禁されたのである。そのチャベス氏を救い出すために立ち上がったのは、貧困層などの民衆であり、チャベス氏は、民衆自身が作り上げた大統領なのである。
 
 これで、エクアドル・ボリビアでの親チャベス政権の誕生に続く、反米左派政権の誕生で、中南米の多くが、左派政権になった。
 
 古館氏とコメンテーター氏は、チャベス氏を独裁者と呼び、その貧困対策を独裁者の人気取りだと見なしている。つまり、かつて中南米に多かった左派系ポピュリスト政権と同一視しているらしい。キューバ人医師が多く働いている無料の医療施設の設置、安い日常品を供給する国営商店、等々は、石油収入で運営されているようだ。それを、チャベス氏は、「21世紀の社会主義」と呼んでいる。ソ連東欧体制が、自己崩壊した要因の一つは、生産手段生産部門に偏った経済体系にあった。消費手段生産部門を重視した「社会主義」キューバは、ソ連崩壊後も長く持ちこたえている。キューバでは、都市部の空き地などを農地に転換して、農業を拡大して、人々の食糧ニーズに応えている。しかも、強いられたとはいえ、農薬や化学肥料がないために、有機農業なのである。
 
 ニューヨークなどの大都市は、高層ビルなどのエネルギーを多消費する地球環境に優しくない環境になっていて、それを持続するにもエネルギーを多く使わねばならず、地球環境や人類の持続という観点からは、良い環境とは言えない。
 
 もっとよく中南米の置かれている状態を知るべきであるし、今では、ネットなどでいろいろと情報を得られるのだから、視聴者の方が古館氏やコメンテーター氏などより、情報を持っている人もいるだろうから、予断を与えるようなコメントは避けるべきだと思う。

 そして、チャベス大統領に、独裁者というレッテルを貼るだけで、中南米全体で、4割とも言われる貧困層の問題、貧困の問題をどう解決するかという点についての言及がないのは問題である。90年代の新自由主義がこうした広範で深刻な貧困問題を生みだした以上、そこに戻るわけにはいかないことは明らかである。左派の中でも穏健な左派、福祉国家路線が有効なのか? 日本のようなどっちつかずがいいのか? 南米共同体は、問題解決に役立たないのだろうか? 独裁批判を言うのは簡単だが、なにせ、アメリカの言うとおりに新自由主義路線で行って、こういう悲惨な状態になってしまったのだから、反米になるのも当然なのである。 

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教育基本法改悪案成立を阻止しよう

 与党は、参議院特別委員会での教育基本法審議を今週中にうち切って、採決に持ち込む意向を明らかにしている。

 この日程が、安倍総理の外遊に合わせて、その前に教育基本法案を片づけようという徹底審議の言葉と裏腹の本音であることは明らかである。今、国会前をはじめ、全国で、教育基本法改悪阻止のための行動が連日取り組まれているが、そういう世論を無視して、国会での数の力のみを頼りに、与党だけの賛成で、かかる重要法案を成立させようというのである。
 
 片山参議院自民党幹事長は、審議を尽くすと言いながら、タウンミーティングの「やらせ質問」問題やいじめ問題、高校必修科目未履修問題などは、別途継続して、議論すればいいなどと言っている。この発言は、これらの諸問題解決と教育基本法問題が関係ないということを自己暴露するものである。教育の場で起きていることの解決に資することのない、教育基本法改訂は、「戦後見直し」という自民党イデオロギー上の党派的都合から行われるものであることを白状しているわけである。
 
 公明党のある議員は、与党案には、学校・地域・家庭の連携がうたわれているのであり、それがいじめ解決に資すると明言した。与党内でも、自民党と公明党に教育基本法案の認識に違いがあることを示す発言で、自民・公明の与党内論議が、十分煮詰まっていない段階で、法案が決定されたことをも表している。つまり、審議はまったく不十分だということだ。問題は、今ある地域・家庭・学校の連携ではなく、ずいぶん壊れてしまった地域を新たにつくらねばならないということだ。その上での、それらの連携なのであって、この新たな地域建設をどうするか、どのような内容でつくるかという点が課題なのであり、それは教育という領域だけではとうてい無理なのである。三者の連携を教育基本法でうたったところで、それは空文句にしかならないのである。
 
 それから、教育再生会議の方で、市町村教育委員会・学校に教員採用権を委譲する話が出ているが、学習内容の決定権が文科省にあることについて、見直しが出ていない。学習指導要領は、教育委員会制度の未熟を理由に、臨時的例外措置として、文科省が作成することになったもので、すでにそれから何十年も教育委員会が存在し続けてきたというのに、未だに、臨時措置をそのまま永続化していることは、おかしくはないのか? 教科書検定権もそうだが、それを文科省が独占する合理的な理由は未だに存在しているのだろうか?
 
 今日のサンデープロジェクトには、ヤンキー先生こと義家氏はじめ教育再生会議のメンバーを含めて、教育問題の議論をやっていた。これを見る限り、教育再生会議内では、いじめ対策として、地域と学校と家庭の関係をどうするかとかの議論も行われているようである。ただ、会議が非公開であり、また議事録の公開が遅く、そうした多様な意見が存在することが人々に見えてこない。今、まるで、教員評価制度などの議論ばかりが行われているかのように見えるのは、政府がリーク情報をマスコミに流して、世論操作を狙っているからに違いない。原則非公開の会議内容が、部分的にマスコミから流れてくるのだが、実際に、この番組の出演者の発言を聞いていると、ずいぶんそれらとは違った議論内容が出てくるのである。タウンミーティングの「やらせ質問」発覚で、懲りたかと思いきや、そうでもないらしい。こうした姑息な政府の世論操作をさせないためにも、教育再生会議は、原則公開として、議事録の早期公開を行うべきである。もちろん、政府のリーク情報をそのまま垂れ流しているマスコミの報道姿勢も問われるべきである。
 
 連日国会を包囲して、教育基本法改悪阻止に立ち上がっている人々への誹謗中傷が、与党から流されている。この運動が、そうせざるを得ないところに、追い込んだ結果を示すものではある。この運動の特徴は、すでに日教組の組織動員を超えた人々の自発的意志が、継続し、さらに拡がっていっているということである。なかなか、こういう風にはならないのだが、今回は、そうなっている。それだけ、教育基本法改悪がひどいものだという認識が広く共有されていることである。もちろん、運動にとって、安倍政権の支持率急落は、追い風の一つとなっている。今のところ、民主党も、徹底抗戦の構えを崩していない。12月8日と言われている参院特別委員会での採決阻止に向けて、連日の行動が各地で予定されている。教育基本法改悪を阻止するために、がんばろう。

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安倍内閣支持率急落、大人のいじめなど

 産経・フジの合同世論調査で、安倍内閣の支持率が、50%をきって、47・7%に落ちた。前回調査で63.9%あったのに、約1ヶ月で、16・2%も急落したのである。その他の世論調査結果を見ると、自民党支持層の中で、内閣支持が低下し、無党派層でもそうなっている。小泉内閣の支持構造で、強かった部分が、安倍内閣には欠けていることがわかる。

 とりわけ、この間の郵政造反組の復党問題では、復党に反対が67%で、これも自民党支持者にも多く反対者がいる。多くの自民党支持者が、昨年の衆院解散総選挙で、郵政造反組に対して刺客を送った小泉政権を強く支持したのであり、この復党は、それを裏切る行為と感じるのは当然である。

 下付の『毎日』の記事は、このところ深刻化している子どものいじめ問題が、大人の問題でもあることを示す例である。職場でのいじめの相談が労働相談に多く寄せられるようになったというのだが、しかし、それは90年代不況の頃に、リストラの過程で、よくあったことであり、その相談は、管理職ユニオンなどに多く寄せられていた。この時は、経営側が、リストラという明確な目的を持って、組織的に行われたが、今増えているのは、「長時間労働などが職場にギスギスした雰囲気を生み、いじめにつながっているのでは」ということで、労働強度や労働システム、過労、精神的ストレスの強まり、などから発生しているようだ。

 記事では、「20代のシステムエンジニアの男性の事例では、システムの完成が進まないことから「再教育」の名目で仕事と関係のない研修を受けさせられ、ひざげりなどの暴力を受けるようになり、うつ病となった。また、経理職だった女性は営業に回された上、けんしょう炎になるまで古い伝票を破る作業を延々とやらされたという。技術の未熟な若者や動きの鈍い人などが狙われるらしい」という2例があげられている。これらは、仕事の集団性を捨象して、無理矢理、能力や成果を個人に帰着させるシステムの不条理さ・間違いが、いじめを発生させていることを表していると考えられる。

 最後の記事は、注意しなければならないのは、宮城県の教員へのいじめ対応調査で、取り組みが弱いような結果が出ているのは、そもそもいじめ問題が、こんなものは昔からあったというような深刻さを認識していない人が多く、また、いじめと非行をごっちゃにしている人が多いという一般的ないじめ認識を反映していることが大きいと思う。アメリカのコロンバイン高校銃乱射事件の犯人がいじめ被害者だったことをしっかりと報道していたら、事態はもう少し変わっていたかもしれない。調査は、まず、教員自身のいじめ対応についての率直な自覚が現れているように思われる。いじめの存在すら認めようとしなかったこれまでの学校や教育委員会の不誠実な態度よりは、よっぽど正直である。これで、いじめ解決に向けてのスタートラインにようやく立ったように見える。

 復党反対67% 内閣支持率は50%下回る FNN世論調査

 産経新聞社はFNN(フジニュースネットワーク)と合同で11月30、12月1の両日、「政治に関する世論調査」を実施した。郵政民営化に反対して、自民党を離党した「造反組」議員11人の復党について「反対」と回答した人が67.2%に達し、賛成の17.3%を大きく上回った。世論の厳しい反応を裏付けた結果で、安倍内閣発足直後の9月に実施した前回調査で63.9%だった内閣支持率は、47.7%と16.2ポイント低下した。

 復党に反対した人の理由で最も多かったのは、「来年夏の参院選目当てなのがあからさまだから」で45.1%。「かつて郵政民営化に反対した」24.6%▽「復党の理由がよくわからない」15.9%-が続いた。

 逆に、賛成と答えた人の理由では「『造反組』議員はもともと自民党議員だったから」が最も多く、43.9%。「安倍政権に代わったから」「今回、郵政民営化支持などを約束した」がそれぞれ16.2%だった。

 「造反組」議員の復党願提出に際して党執行部が求めた誓約書提出などの条件については「妥当」とする意見が36.2%でもっとも多かったが、「甘すぎる」との回答も33.4%に上っている。また、復党問題に関して安倍晋三首相が指導力を発揮したかどうかの質問に対しては「発揮したと思わない」との回答が66.7%に達し、中川秀直自民党幹事長に対応を一任した首相の姿勢が国民には分かりにくかったようだ。

 復党問題が来年夏の参院選に与える影響についても、「自民党にプラスだとは思わない」と答えた人が57.6%と、「プラスだと思う」の23.4%の2倍を超えた。自民党の支持率も前回の43.4%から37.3%に低下しており、安倍政権としては復党問題でのマイナスイメージ払拭(ふっしょく)のため、政策面で一層の改革姿勢が求められそうだ。(『産経』2006/12/01)

 <いじめ>「大人」の職場でも深刻 労働相談の2割近くに 

 「大人のいじめ」もまん延してます――。日本労働弁護団(宮里邦雄会長)の実施する労働相談で、職場でのいじめに関する相談件数が全体の2割近くを占め続けている。内容も言葉のいじめから直接的な暴力まであり、弁護団は「子どものいじめ自殺が相次ぐ中、『子は親を映す鏡』というが、長時間労働などが職場にギスギスした雰囲気を生み、いじめにつながっているのでは」と分析。「14年間の相談活動の中で経験したことのない異常事態」と指摘している。
 弁護団によると、年間約2000件寄せられる相談のうち、いじめに関する相談の割合は04年に8%で、不払い残業(30%)や解雇(14.9%)などと比べて相談は少なかった。それが05年には17.7%と2倍以上に増加。06年も17.2%と高水準のままだ。これに伴って労災の相談では、従来のけがなどから「うつ病」の相談がほとんどを占めるようになった。
 20代のシステムエンジニアの男性の事例では、システムの完成が進まないことから「再教育」の名目で仕事と関係のない研修を受けさせられ、ひざげりなどの暴力を受けるようになり、うつ病となった。また、経理職だった女性は営業に回された上、けんしょう炎になるまで古い伝票を破る作業を延々とやらされたという。技術の未熟な若者や動きの鈍い人などが狙われるらしい。
 弁護団の棗一郎弁護士は「さまざまな形のいじめがある。法的措置で対抗もできるのでぜひ相談してほしい」と話している。
 弁護団は2日を中心に20都道府県で電話相談「労働トラブル110番」を実施。常設的な相談も行っており、問い合わせは弁護団(03・3251・4472)へ。【東海林智】 (『毎日新聞』 - 12月2日)

 いじめ問題:県立高教諭らの認識調査、「無関心」浮き彫り--県教委実施 /宮城

 県教委は1日、県立高の教諭らを対象に実施した「いじめ問題」への認識調査の結果を発表した。全国各地で起きているいじめを苦にした自殺は、教師の無関心が要因ともなっているが、県内でもいじめに無関心で適切に対応できていない実態が浮かび上がった。

 調査は定時制・分校を含めた県立高94校の教諭や養護教諭、実習助手などを対象に行い、ほぼ全員の3459人から回答があった。

 17人が「生徒からのいじめの訴えに的確に対応していない」、30人が「生徒が発する危険信号を見逃さずに対応していない」と回答。8人が「いじめは人間として許さない」との認識で指導に当たっていなかったほか、8人が「日常の活動で生徒との良い関係を築いていない」と答えた。

 県教委高校教育課は「担任でないなど生徒とのかかわりからの回答で、いじめを放置している訳でない」としている。

 また、仙台市を除く小中学校計482校を対象に同様の調査をしたところ、53校の生徒指導担当教諭が児童相談所や警察との連携が不十分としたほか、29校が学級便りや家庭訪問を活用した情報提供をあまりしていなかった。

 調査結果を受け、県教委は12日、小中高校の担当者らによる連絡会議を開き、いじめ問題への対応を指導徹底する。【石川貴教】(『毎日新聞』12月2日)

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教育再生会議中間報告素案によせて

 教育再生会議は、来年1月にまとめる予定の中間報告の素案を公表した。素案は、これまで約20年にわたって行われてきた「ゆとり教育」から、学力重視への転換姿勢を打ち出した。国語・数学(算数)、理科、英語の授業時間を増やす。そのために、「総合学習の時間」の短縮、7時間授業や夏休みの短縮などを検討する。来年4月実施する全国学力テストの結果を当初予定の9月から7月にする。
 
 教員評価に、校長だけではなく、保護者や児童・生徒も加わるようにする。教員免許更新制を「不適格教員の排除」のために厳格に運用する。5年研修で適性を審査する。
 
 独立行政法人による学校、教委の第三者評価、教育委員互選による教育委員長輪番制の排除、学校への副校長、主幹などの管理職の複数配置、第2分科会は、「ふるさとの時間」授業の導入、ボランティア活動の実施、「家族の日」創設などを盛り込んだ。
 
 一見して明らかなように、ごった煮状態である。一方で、地域・郷土愛を重視しながら、同時に、授業時間を増やして、子どもを学校に縛って、地域・郷土に触れる時間を削り、一方で、郷土史などの文化・歴史の理解を強調するかと思えば、他方で、語学・理数系の能力重視を打ち出す。もう一つ言えば、一方で、子どもの学校にいる時間を増やしながら、「いじめ対策緊急提言」では、家族との会話が不十分だと言う。これでは、ピュリダンのロバのように、どっちにも行けず、本気でつきあったら、まいってしまう。もちろん、現場は、これまでも、こうした混乱が上から持ち込まれるたびに、使えるように手直しするか、従う振りをして無視するなど、智恵を働かせてしのいできたのであるから、今度もそうなるだろう。やりようがないものは、どうしようもないのである。そんなことは、民間企業でも当たり前のことなのだが、その辺がわかる人が教育再生会議にはいないのかもしれない。
 
 そして、異常なのは、幾重にも教員包囲網を張ろうとするその攻囲の執拗さである。まるで、大阪城を取り囲んだ徳川家康の対豊臣の大阪の陣のようである。教員評価に関わる校長・教委と子ども・保護者のそれぞれの評価基準はずいぶん違ったものになるだろう。特に、子どもは、面白い話しをして笑わせてくれるような教員を高く評価する可能性が高い。それは自分の過去を振り返ってみれば、わかることだ。教員の能力を測るだけの、知識も経験も見識も常識も身につけていない子どもが、なにを判断基準にするのか? これは、おもちゃを選んで買うのとはわけが違うのである。子どもは、大人の甘言に引っかかってしまって、おかしな物を買わされることがよくある。子どもの評価力をどう見たらいいのか? なにせ、これは荒唐無稽な議論なのだけれども、消費者主権論を信じ込んでいる規制改革・民間開放推進会議委員を兼任している白石東洋大教員のような市場主義信者が、それを大まじめで吹聴するから、周りが困惑しながらそれに巻き込まれているようだ。

 規制改革・民間開放推進会議には他にも、自由市場信者が複数いるようで、かれらもまた自由市場を基本基準にして、すべてをそれに還元して論じている。かれらの人間観・社会観は、皮相で浅く、識者というよりも信者のような感じである。
 
 複数の立場の違う人々の教員評価をまとめることはとてつもなく難しい。能力の数値化が合理的に可能であるかのように論じる者がいるが、そうやって成果主義・能力主義を導入した日本の企業の多くが、それを失敗だったと総括している今、なんで教員評価にそういう破綻・失敗した制度を適用しようとするのか、理解できない。まったく現実無視もいいところだ。
 
 教育再生会議は、安倍政権もそうだが、一週遅れのことをさも新しいかのように見せかけているだけだ。いじめ問題の見方もそうで、現実から遅れている。バウチャー制度と地方間などの格差の是正という安倍政権の掲げる課題は、どう折り合いがつくというのだろうか? なんの説明もない。相反する施策が、飛び交っていて、ただただ人々を混乱させている。
 
 保守派や右派の混乱ぶりもすごいものだ。まず、日本教育再生機構は、いじめ問題などまるで無視して、HPにはなんのコメントも出ておらず、理事長の八木秀次は、テレビで、心を強くする教育をすればいじめ自殺はなくなるなどとまったくトンチンカンなことを言っている有様だ。いじめ問題がなにかということすらわかっていないのである。わかっていないなら、今、調べているところで、まだよくわからないと正直に言えばいいだろうに。正直の美徳がないのである。いじめが何かを明らかにすることなく、ただ惰性で、とにかく教育問題は、何でも日教組のせいにしておけばいいと思考停止している右派は、いじめ問題にほぼ沈黙している。

 日本政策研究センターのHPには、今、連日、教育基本法改悪に反対して、国会を取り巻いている人々を、勝手にすべて日教組の組織動員によるかのように見なして、いじめ対策が重要なのだから、教員は、教室に帰れと主張している。まず、今国会前に詰めかけているのは、基本的には日教組の組織動員ではない。それはすでに終わっている。それから、日教組の動員は、組織専従もいるし、また、すべての教員が担任を持っているわけではない。勝手な妄想をふくらませて、それをあたかも事実であるかのように描いているわけである。それに、いじめを解決することには、日本政策研究センターにも、責任があり、しっかりと原因を突き止め、対策を提言しなければならない。そうでなければ、政策研究センターの看板が看板倒れになる。教育問題で、「ゆとり教育」はだめだ、学力重視の教育をなどというご立派な提言が掲載されているではないか!
 
 もう一つの事実誤認は、国会前で座り込んでいる反対派をメディアが大々的に映せば、スト権ストの時のように、人々の反感を買うだろうといっていることだ。ところが、実際には、それと反対に、今、国会前で、教育基本法改悪に反対して詰めかけている人々の多くは、なぜ、これだけ多くの仲間がアピールしているのに、マスメディアは取り上げてくれないのかと不満に思っているのである。だから、テレビなどが放映してくれることは、大歓迎なのである。国会前の人々がどう思っているかは、リンクを張っている「レイバー・ネット」の記事を見れば、一目瞭然である。妄想の中で、日教組と闘っているつもりの、日本政策研究センターの哀れさは、いよいよ希望の星だった安倍政権が、支持率急落、内部争いの激化、教育問題でもぐちゃぐちゃになりつつあること等々によって、地上に墜ちていくのを共にしなければならないという心中の道行きに、示されつつあるのである。
 
 いずれにせよ、この教育再生会議の提言素案に示されている混乱と路線の違いは、権力闘争を激化させるだろう。安倍政権がそれを強力なリーダーシップで押さえることは難しいだろう。その基盤がないからである。日本会議は、それにはなれない。日本会議内には、分裂している組織がいくつもあるからである。緩やかな連合体である日本教育再生機構にもそんな力はない。構造改革派は、もう時代遅れになってしまった。教員評価をめぐって、ただ混乱したことを言っているだけだ。教員は、実際にはチームで動いている。チームワークをどう評価するかという方に、問題が移っていくだろう。

 なお、大手紙のいくつが、教育再生会議を原則公開制にするように主張しているが、教育問題の重要性や人々の関心の高さを考慮すれば、そうすべきである。

 教育再生会議:現場管理強化の姿勢 中間報告素案で鮮明に

 教育再生会議の分科会が30日に示した中間報告の素案は「不適格教員を教壇に立たせない」と記すなど、首相官邸が目指す教育現場の管理強化志向を明確に打ち出した。ただ、評価基準をどう客観化するかが問題となるうえ、保護者らによる教員評価の影響を懸念する声もある。ある委員は「空中分解しかねない」と語るなど、中間報告までは曲折がありそうだ。

 「1万人排除すれば1万人採用しないとならない。教員全体のレベル向上が本来のやり方じゃないのか」。委員の一人は会議後、困惑の表情をみせた。

 素案は、保護者の教員に対する「内申書」を免許更新に反映させるなど新たな枠組みを提唱。白石真澄・第1分科会主査(東洋大教授)は「子どもと全く目を合わせない先生もいる」と不適格者を例示した。一方、評価基準については「(能力を)数値化、項目化していく議論がある」と述べるにとどめた。

 指導力不足教員の認定はすでに全都道府県で導入され、05年度は103人が依願退職した。幼稚園から高校まで全国の教員は約100万人。政府・与党には厳格化を求める声が強いが、「極端な不適格者は少なくなりつつある」(文部科学省)との見方が一般的だ。

 そうした中で「排除」に踏み込んだ素案は、分科会の意見を集約したうえで白石氏の意見を加味しまとめられた。白石氏は政府の規制改革・民間開放推進会議のメンバーを兼務する。一方、安倍晋三首相は自著に「ダメな教師には辞めていただく」と記し、山谷えり子首相補佐官も同様の考え。素案は官邸の意向を体したものと言える。

 ただ、この日の会議では、保護者が評価に加わることに「こびる先生ばかりで毅然(きぜん)とした対応が取れなくなる」と疑問の声も出た。

 また、素案は学校の外部評価をめぐり、英国のサッチャー元首相の教育改革で発足した教育水準局を参考に、独立行政法人で試験的に行うことも検討課題に掲げた。実現すれば国の関与が大幅に拡大するため、異論も出そうだ。【竹島一登】(『毎日新聞』 2006年11月30日)

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