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保守派破綻の諸事例

 保守派の反ジェンダー・フリー派の論客である林道義氏が、12月22日の自身のHPの「寸評」で、『産経新聞』主張に噛みついている。

 それは、『産経』主張が、少子化対策として「少なくとも」「女性が働きながら出産と育児を可能とする環境を整える」「子育ての楽しみを実感する機会を増やす」「家計に過度の負担がかからない公教育を充実する」の三点を掲げたのは、ジェンダー・フリー派になったことを意味するからだということである。

 林氏は、「これまでも記事の中には頻繁にフェミニズムの立場に立った内容が出てきていたが、社の公式の見解を示す社説の中に堂々とフェミニズムの公式が謳われたことは、私の記憶の中にはない。女性の就労と育児の真の両立などということはありえないということが、さんざん議論されてきた今頃になって、どうしてあっけらかんと「両立」を掲げることができるのか、「保守」の名が泣くというものである」と『産経』の不勉強をしかっている。

 しかし、これは、別に、社説を書いた編集委員の不勉強をあらわすものではない。これは、林氏も気付いているとおり、経済界の要求を代弁しただけのことなのである。『産経』の「中枢部ないしは論説委員室においてフェミニズムが大きな力を持っていることを示している」のは確かだが、それは経済界の主張の代弁者が多いということである。

 林氏は、「「仕事と子育ての両立」ではなくて、「子育て中の女性が働かなくてもいい社会」を実現することこそ、最大の少子化対策である。この真実を経済界が真に認識しないかぎり、少子化に歯止めがかかることはありえないだろう」と述べている。

 氏は、フェミニズム思想は、共産主義思想の擬装形態であると繰り返し強調してきたが、実際には、その中のジェンダー・フリー思想というのは、経済界の思想であることを認識していることを明らかにしたわけである。共産主義思想は、労働者階級の思想であって、経済界の思想ではない。それにも関わらず、フェミニズム=ジェンダー・フリー=共産主義という等式を繰り返してきたのは、認識として正しくなかったことを氏が認めたということなのだろうか? そうではなく、実際には、最初から、この等式の間違いを意図的に作り上げて強調したのは、党派的意図があったのである。党派主義を批判する者がもっとも党派的なことが多くあることは、経験的事実でもある。

 景気回復の中で、経済界は、低賃金不安定雇用労働力として、女性労働力を多く求めており、できるだけ女性を働かせたいのであり、そのためには、「仕事と子育ての両立」を掲げなければならないのである。それには、子どもを、保育園などに預けて、社会的に育てる環境を整備することが必要になるのだ。林氏がいう「子育て中の女性が働かなくてもいい社会」とは、中小資本の優勢な時代、19世紀のイギリスのような社会のような歴史的条件下での話なのだ。そういう家族労働で成り立っているような社会ではないので、こんな男女分業は成立する条件が小さいのである。

 林氏は、保育所を増やして、母親が働きに出ていくと、彼女たちから、子どもを育てる楽しみの機会を奪うことになるという。しかし、経済界の要求は、父親の労働者に家計をまかなう生活給を支給するよりも、共稼ぎにして、生産力全体を引き上げて、税金によって子育てを社会的に行うべきだということだ。追加労働力を大量に必要とし、大量に投入して、生産を大規模に行おうことが資本の本性であることは、かつてマルクスの『資本論』などを読んだこともあるだろう元一次ブントの幹部だった林氏はご存じだろう。女性が炭坑や工場労働にかり出されて、エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』で描いたような、労働者家庭の悲惨な状態から抜け出すために、かつて労働組合運動は、生活給を要求したのであった。それから時代は変わり、生活給は、女性を家庭に縛り付け、女性の社会活動を阻害するものだという認識が広まり、それが、少子高齢化の進展で、女性労働力を切実に必要とする経済界の事情と合致して、ジェンダー・フリー思想が生まれたのである。それと、その他のフェミニズム思想とは別物である。

 「仕事と育児の両立」と「子育ての楽しみの機会」が両立するための条件は、母親を専業主婦にすることではなくて、男女労働者の生活のために必要な労働時間を大幅に短縮し、労働による肉体的精神的消耗を軽減することである。そういう条件を社会的に実現するためには、林氏が言うとおり、経済界が変わらなければならないのである。そのことを、『産経』が主張しないこと、そして林氏も言わないことが、問題なのである。都合の悪いことは言わないのである。だから、夢物語になってしまうのである。保守派や右派の話には、そういう類のものがいくらでもある。だから、話は面白いが、それで具体的にどうなるの? ということになるのである。例えば、林氏の「寸評」で、千葉県市川市議会で、男女共同参画条例が、保守派寄りに変わったということをさも大勝利のように書いているのだが、ジェンダー・フリー思想の力は、現在の経済関係からもたらされているので、地方議会のいっぺんの条例の力は、それに対して、観念的な力しかなく、対抗できるものではないという現実を忘れている。つまり、市川市で、条例が消えたからといって、女性が働きに出るように経済関係が要求するし、それに合わせて、保育所は増設されるだろうということだ。それに対して、歯止めをかけようとしたら、余所に引っ越されるとか、遠距離通勤されて、今度はそういう現実に合わせて、市の条例の方が書き直されることになるだけだ。

 ジェンダー・フリー思想は、『産経』だけではなく、『読売』はもちろん、大新聞全てに浸透し、保守派にも浸透している。それは、それが経済界が、経済関係から来る要求を思想化したものだからである。それに、働きたい、社会に出たい、社会で活躍したいという女性の要求が、接合されているのである。子育ては、親の楽しみというだけではなく、社会の楽しみであり、社会もその機会を必要とする。子どもは社会の未来を示す存在だからである。林氏が、子育てをあくまで両親と子どもという核家族の範囲内に閉じこめるのは、新教育基本法が、地域や社会が子育てに関わることをうたったことと衝突するものではないだろうか? 実際、林氏は、新教育基本法にいろいろと不満を述べている。新教育基本法は、家庭のしつけや親の教育の責任を明記したが、経済界は、ますます女性を仕事にかり出すつもりだから、いよいよ「仕事と育児の両立」は厳しいものになり、家庭でのしつけや教育の余裕も少なくなって、責任を果たせといわれても無理ということになるだろう。

 政府・与党は、なにをやっているんだか。「ゆとり教育」が廃止されれば、ますます子どもは家庭に帰れなくなり、『読売』は、学校での学童保育をもっと充実させ、共稼ぎの親が帰宅するまで、子どもを学校に長くいさせるようにするのは素晴らしいからもっとすべきだと書いているのだ。ここにも、反林思想の新聞がいた。立派な観念や言葉よりも、経済的必要が勝ってしまうのが現実である。『読売』だって、「武士は食わねど高楊枝」的なご立派なことを書くときもある。でも、肝心なところでは、財界の利害の代弁者になってしまう。新教育基本法を支持した『読売』が、家庭に子どもをもどすのではなく、学校に長くいさせるべきだというのである。そうなると、就学年齢以上は、社会が子どもを育てるべきだということになる。つまり、家庭は、就学前のしつけ教育までが責任範囲だということだ。家に帰っても鍵っ子になるなら、学校に残って、ボランティアなどが見守り、指導する中で、勉強したり、遊んだりした方が、安全だし、勉強も出来て一石二鳥、三鳥ではないかと『読売』は言うのである。実際にこの制度は、本格的に全国で導入される。

 もっともこの制度は、早く学校から帰って塾へ通う生徒と別であり、また私学は対象外のようである。つまり、「多様化」というわけである。『読売』は、規制改革を基本的には支持しつつも、その副作用や市場化になじまない領域の存在を認め、異なる方策を求めている。その点では、林道義氏と一致する。ようやく、市場原理主義を否定し、本来の保守主義の方に戻ったようだ。あらゆる領域が市場化でうまくいくわけではないというのは、よく考えてみれば当たり前の話で、市場原理主義は、考えるよりも信じるべき神話にすぎなかったのである。

 以上のように、保守・右派は、言葉は激しいが、中身はぐだぐだで、その中には、経済界の利害代弁者が多くいて、経済界のジェンダー・フリー思想に根本的に対決することもない。林氏は、その中では少数派であるが、それもどこまで徹底できるのか怪しいものだ。日本教育再生会議(八木秀次理事長)が期待する安倍政権は、ぼろぼろになってきた。下村副官房長官は、ジェンダー・フリー思想を批判して、「女性は家庭に戻れ」と言ったが、保守派の女性政治家の反発を買った。反ジェンダー・フリー派山谷えり子議員も高市早苗議員も、家庭に戻りはしない。右派保守派が破綻しつつあることは明らかである。

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