« 落ち目の安倍政権 | トップページ | 保守派破綻の諸事例 »

フリーター「奴隷ですから…」は社会病理を示している 

 下の『毎日新聞』の記事は、今の日本社会の基本的な病理を的確に指摘している。それは、労働という人間の基本的な営みの尊厳が奪われているということだ。
 
 「格差の底辺に置かれた人たちが「労働の尊厳」まで奪われているということだ。そして、それは働く者すべてに広がりつつあるように感じる」と労働現場を取材してきたこの記者は言う。日本経団連は、先の報告書で、「多様な働き方を」と書いているが、その実態は、経営側が使いやすいように労働者を使いたいということであり、多様化の中身は、「労働の尊厳」を奪うことである。それが、働く者すべてに広がりつつあるというのは、日本経団連、規制改革・民間開放推進会議の最終答申でも盛り込まれた「ホワイトカラー・エグゼンプション」導入などのことである。それはしかし、経営側にも広がっているように感じる。この間、企業不祥事の発覚のたびに繰り返される経営陣の謝罪会見でのかれらの表情が、疲弊しているように見えるからである。その原因は、おそらく、競争主義によって、短期的な数字を引き上げることを至上命令として、神経をすり減らしていることにあるのだろう。そして、企業倫理だの法令遵守(コンプライアンス)だの従業員の疲弊やその家族の生活だの安全性だのということに思いをいたす余裕がないということが現れているのである。
 
 前に、前日経連会長奥田豊田会長と建築家安藤忠雄氏が、フィレンツェを訪れてルネッサンス芸術をみて、対談するという番組をみたのだが、奥田氏は、こうした美を鑑賞する教養が十分にあるようには見えなかった。競争にとらわれ、日々の営利仕事に追われて、経営陣もまた、人間的素養を伸ばす機会がなくなっているようだ。連日、テレビ・カメラの前で頭を下げる企業トップの姿を見て感じるのは、非人間性・無教養さである。それに対して、ビル・ゲイツは、教養を感じないのは同じだが、最近は、低開発諸国での病気治療のためのボランティア活動を始めた。それはかなり大規模で本格的なもので、かなり力を入れるつもりらしい。
 
 規制改革・民間開放推進会議は、最終答申では、企業が一定規模以上の労組としか交渉しないでよいとする労組法改悪は明記しなかった。憲法違反のおそれがあるからだという。
 
 教育委員会設置を義務としないという教育委員会法改訂も盛り込まなかった。というのは、この間、教育委員会の強化が必要との意見が強まっているからだという。教育委員会制度は、骨抜きになっているとはいえ、戦後教育の大きな柱であり、戦後教育から脱却のためには、教育委員会をなくすべきなのだが、そうはしないということらしい。もっとも、教育関係の議論は、教育再生会議に委ねるということらしい。教育再生会議には、規制改革・民間開放推進会議と兼任のメンバーがいるから、そちらで、こういう提言をすればいいということなのかもしれない。しかし、戦後見直しという安倍政権の基本姿勢からは後退している。
 
 いずれにせよ、もはや経営陣は、ただ利益の数字を追い求めるだけで、人間としての人格的完成とか素養・教養の向上や社会や文化への貢献とか社会的尊敬をも求めていないようだ。ただ、ぎすぎすとした労使関係、他人は全てライバルとして競争に生きるだけのようだ。愛国心などが育つはずもない。歴史的教養など、経済競争に忙しい彼らには時間の無駄であり、余計なものである。愛国心がどうのこうのと騒いでいる八木秀次のような大学教授など、無駄な職業に見えるだろう。なにせ、八木氏の専門は、憲法学で、実用的な学問ではない。それよりも、明日使える優秀な技術者や営業を育てることを必要と考えるだろう。それぐらい余裕を失っている。
 
 そのあせりを政治的に体現したのが、小泉政権で、とにかく急いで、性急な実行を求め、目の前のことばかりを焦って変えようとした。その副作用は、上から下までのモラル崩壊に現れている。小泉前総理は「古い自民党」をぶっ壊すと叫んだが、そこからは「新しい自民党」は出てこなかった。破片を寄せ集めただけの残骸だけが残ったのである。その残骸の上に立って、安倍政権は、「美しい国」なる虚しい美辞麗句を並べつつ、醜い強行採決に、醜い郵政造反組復党などの醜い政治を実行している。その醜さに人々はしらけはじめ、内閣支持率急落、不支持率上昇という世論を突きつけた。安倍政権と共にその「背後霊」小泉の亡霊も醜く薄汚れ、この世から追い払われつつある。
 
 日本経団連は、日本的経営の再評価を掲げる。それは人間的な経営であると。そして、企業は、「社会の公器」だという。経営者は社会を構想し、社会のために働かなければならないという。人間的な経営の中身は何か? 社会構想の中身は何か? 企業の公的性格とは何か? 社会に貢献するとはどういうことか? これらの疑問にまったく具体的に答えがない。
 
 下の記事が指摘する「労働の尊厳」の剥奪が、人間的な経営ではないことははっきりしている。そして、それが、社会をよくするものでないことも誰が考えてもわかることだ。社会の中で、社会のために働き、社会をよくすることに貢献している人々を正当に評価し、正当に扱い、正当な報酬と待遇を与えること、それが人間的なやり方というものだろう。社会の成員たる全ての人をそのように遇することが、人間的な社会として当然のことだろう。多様性だのなんだのと言葉をもてあそんで、その実、自分たちだけの都合を優先させ、自分たちだけの自由を実現させようとするのは、その反対だろう。
 
 働く者を奴隷化して自らが主人化することは、人間的な経営ではないし、人としての、社会としての真に価値ある目標にならないことは、古今東西の多くの智者が繰り返し指摘してきたところだ。21世紀になって、働く者が「奴隷ですから」などということを言うような社会が、いい社会ではないことは明らかである。

  記者の目:フリーター「奴隷ですから…」 東海林智
 「奴隷ですから……」

 この1年、労働現場を取材する中で、派遣労働者や携帯電話で日々の仕事の紹介を受けるフリーターからたびたびこの言葉を聞き、ドキリとした。憤り、恨み、あきらめ……。ニュアンスこそ違え、そこには「人として扱ってくれ」という強烈な思いが感じられた。

 「格差社会」が注目を集め、正社員と非正社員としての働き方や少子化、教育など、さまざまな角度から「格差」が論じられた。そんな中、「再チャレンジ」を掲げる安倍晋三首相が登場した。再チャレンジにケチを付ける気はない。そうした制度を整えるのは大事なことだ。だが、気になるのは、格差の底辺に置かれた人たちが「労働の尊厳」まで奪われているということだ。そして、それは働く者すべてに広がりつつあるように感じる。

 神奈川県内に住む男性(42)は、携帯電話で日々の仕事の紹介を受けて生計を立てている。今年2月、大手人材派遣会社に解体現場での仕事を紹介された。「マスクを買って行って」と指示があった。もちろん自前だ。100円マスクを手に、着いた現場で派遣先の社員は防毒マスクのようないかめしいマスクをつけていた。アスベスト(石綿)を使っていた施設の解体現場だ。作業が始まると、ほこりで1メートル先も見えない。派遣のバイト4人はせき込みながら貧弱なマスクで作業をした。これで交通費1000円込みの日給は8000円。マスク代や税金などを差し引くと手取りは6000円程度だ。

 日々紹介を受ける仕事。行ってみないと現場の様子は分からない。危ない現場でも断っていたらすぐに干上がる。こんな仕事を月25日しても、手取りは15万円に満たない。仕事の紹介がない月は月収が5万円以下の時もある。有給休暇も雇用保険もない。自動車工場や公共施設などを転々とした職歴。どこも1年以上の雇用を約束してくれなかったからだ。「安い命でしょ。僕らには何をしてもいいんですかね」。働く喜びや誇りはどこにもない。

 派遣社員で事務の仕事につく女性(40)は、数カ月ごとの細切れ契約を繰り返しながら働いた。海外留学で鍛えたネーティブ並みの英語力も時給には反映されない。契約外の翻訳もこなし、賃上げを求めると「あなたの賃金は物件費で扱われているから無理」と言われた。税金の関係で物件費に回されているのだが、女性は「働いているのに人件費にさえカウントされないと思うと、情けなくて涙が出た」とこぼした。

 他にもガラガラの社員食堂を使わせてもらえず、プレハブ小屋での食事を強いられた請負会社の社員、牛丼屋のバイトを3年続け、「誰よりもうまく盛りつけられる」と誇りを持っていた仕事をバイトだからと一方的に解雇された若者……と、切ない話をいくつも聞いた。

 だが、非正社員だけではない。労働の尊厳を奪うような状況は、正社員の間にも広がり始めている。職場での陰湿ないじめがそうだ。「ダメ社員」と決めつけ「再教育」の名で業務とは関係のない書類の廃棄作業を延々と続けさせたり、倉庫での一人だけの在庫確認を強制して退職に追い込む。こなし切れない業務を負わされ、終わることのない仕事を強いられる。労働相談を長年続けている日本労働弁護団は「過去に経験したことのない異常事態」と、いじめ相談の多さに驚く。

 長時間労働もそうだ。厚生労働省の調査でも30代、40代前半の男性労働者の4人に1人は週60時間以上働いている。これは月にすれば80時間以上残業していることになり、過労死の危険性を指摘されるラインに達する。夫を過労死で亡くした遺族はこう言った。「残された子供は『一生懸命まじめに働いたってお父さんは死んじゃったじゃないか』と言いました」。別の遺族は「人間として生きていけるような労働の在り方を実現してほしい」と訴えた。

 不安定な雇用の下、低賃金で働くか、正社員として死ぬまでこき使われるか。極端な言い方かもしれないが、労働の尊厳を奪うこうした働かせ方が格差の下敷きになっているように思えてならない。「再チャレンジ」した先にたどりつくのが同じように命を削るような働き方をする正社員であるのだとすれば、そこに希望は感じられるだろうか。

 繰り返すが、「再チャレンジ」のシステムを作ること自体は否定はしない。だが、そこには「人間らしく働く」という基本的な要求が満たされていなければならないと思う。それに向き合わない、格差解消、再チャレンジの言葉はあまりにも軽く、空々しい。(社会部)(『毎日新聞』2006年12月26日)

|

« 落ち目の安倍政権 | トップページ | 保守派破綻の諸事例 »

「労働」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 落ち目の安倍政権 | トップページ | 保守派破綻の諸事例 »