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2007年1月

代表質問始まる

 第166通常国会の衆議院での代表質問が行われた。最初に、代表質問に立った小沢民主党代表は、この国会の最大のテーマを格差是正にすることを主張した。これは、教育再生・改憲を大きく掲げる阿倍政権との違いを明確に示すもので、イデオロギー・価値観優先か生活優先かで与野党が真っ向から対決する構図が明瞭になって、選択肢を示したものと言える。

 阿倍総理の所信表明での生活・格差問題についての言及は少ない上に、具体性が乏しく、ただ成長すれば自然と解決するという、まったく他国の例から見て、ありえない空想話しかしていないからである。イギリス・アメリカの現実を見ればそんなことは誰だってわかることだ。

 格差是正を主張する「生活維新」を訴えた小沢代表の代表質問に対して、『読売新聞』が噛みついている。1月30日『読売新聞』社説は、「民主党は説得力ある対案を示せ」として、まず、「改憲」か「生活維新」かは、二者択一を迫る問題ではないと論点を一つ消そうとしている。二者択一云々の下りは、阿倍総理が述べた言葉そのままである。自民党と民主党が党派闘争を繰り広げ、どちらが政権を取るかを競うときに、政治的対決点を鮮明にするのは当然であり、それは一般的議論としては二者択一にはならなくても、政治的には二者択一になるのが、政治闘争の論理では当たり前のことである。

 政治空間においては、私的なことも二者択一の政治的対決点になるのであり、それを避けることは不可能である。

 社説は、格差の具体的解決策を示せと述べている。むしろ、阿倍政権の格差是正策の中身が貧弱であることを問題にすべきである。すでに、パートの待遇改善策の与党案では、パートの1割程度しか正社員並みの待遇にならないという指摘がなされている。次に、消費税増税問題で、現行消費税率のまま年金財政に当てるという民主党案に疑問を投げかけている。増税には、消費税ばかりではなく、高額所得者への増税や健康保険税の上限廃止や相続税増税、贅沢品への増税など、金持ち増税というのもある。増税といえば、消費税と決めつけている『読売』の立場は、金持ちに優しく、その他の人々に厳しいのである。住民中の上層に偏っているのだ。

 農業政策でも同じだ。今政府は、大規模農業・大規模農家にだけ補助金を出すという階層差別的政策を取っている。まったく政府の農業政策を支持して、「これでは、農業の体質強化にならず、非効率な現状を固定化するだけではないのか」などという。生産費を下げれば、農産物価格が低下する。そうすれば、労働者の賃金も低くできるということで、それだけ企業の経営コストが低くすむという話である。これはリカードの間違いをそのまま繰り返しているものだ。それでは、アメリカやEUがなぜ多額の補助金を農家に出しているのか、わからないだろう。EUは、アフリカ諸国から農産物を自由に輸入した方が、効率的であり、コストが安い。それにもかかわらず、域内農家に補助金を出して、過剰生産させ、輸出を奨励している。日本の農業の不効率の原因には、規模の問題もあるが、流通コストの問題もある。それと、農業機械や農業資材その他、農事企業の問題もある。これらを総合的に見ていかないと、原因は解明できない。

 最後がひどい。小沢代表が、政治とカネの問題を取り上げたことに、「どういうことか」と噛みついている。「どういうことか」はないだろう。有権者は、政治とカネの問題に怒っている。それが、この間の知事の不祥事続きの中で、与党候補を見限って、民主党知事や元タレント知事を生んだ大きな原因である。「無論、政治への信頼確保のため、疑惑を解明し、政治資金の透明性を高めることは大事だ」。その通りで、有権者は、それをまず解決しろと投票行動で示したのである。閣僚スキャンダル続きの阿倍政権の支持率が下がり、不支持率が上がっているのは、その現れである。それなのに『読売』は、「それ以上に有権者が求めているのは、山積する重要な政策課題の解決を巡る論議だろう」と完全に間違った認識を示している。

 テレビ朝日「報道ステーション」の世論調査で、政策課題としてあげられたのは、所得格差の是正44%、政治とカネ27%  教育改革23%  憲法改正問題4%であり、 「あなたは、相次いで政治資金の不透明な支出や申告漏れが明らかになったことで、政治に対する不信感が、高まりましたか、それとも変わりませんか?」の質問に対して、高まった70%、変わらない27%、わからない、答えない3%、 「あなたは、一部の国会議員が、政治資金報告書の「事務所費」項目に、多額の費用を計上していた問題について、使いみちがもっと明らかになるように、政治資金規正法を見直す必要があると思いますか、思いませんか?」という質問には、思う94%、思わない3%、わからない、答えない3%、であった。

 さらに、『毎日新聞』世論調査では、通常国会でもっとも議論を深めてほしい問題として、「教育再生」30%、「格差是正」19%、「政治とカネ」15%、「憲法改正」は6%、であった。

 これらを見ても、有権者が「政治とカネ」の問題に高い関心を持ち、政党が自浄できるかどうかに目を光らせている姿が思い浮かぶ。そう想像しただけで、選挙での審判をおそれて、真っ先に、自らの襟を正そうとしなければ、それは腐った政治家であり、腐った政治であり政党である。したがって、小沢代表が、「政治とカネの問題に言及し、事務所費の問題が解決されなければ「まともな論戦を始めることができない」と述べた」のは当然である。有権者から信用されていない政治家がどんな法律や制度をつくろうとしても、有権者からそっぽを向かれたら、そんな法律や制度はお終いである。『読売新聞』が読者からそっぽを向かれて、売れなくなったら、お終いになるように。小泉元総理には、清潔というイメージがあって、それが大衆的支持を得た要因にあったと考えられる。その点が、森元総理の不人気と対照的なところだった。末端党員や支持者たちは、上が腐っていると、当然やる気が起きないし、選挙運動がやりにくい。組織が自動的に票を集めてくれるわけではない。人間がやっている以上、志気ややる気ややりがいなどなどの程度によって変わってくるのである。志気を削いでいったら、どんな大組織もうまく動かなくなるのである。

 自民党はすっかりたががゆるみ、閣僚らは、緊張感を失って、好き放題に放言を繰り返している。それを大目に見て、かばう阿倍総理の姿に失望する有権者が増えるのは間違いない。教育三法改正案の今国会成立を目指すと総理が言うと、今度は、下村官房副長官が、今国会中の成立を目指さないと言う。阿倍総理には、内閣をまとめ、束ねる力がなくなっているとしか思われない。しかし、だからといって、民主党支持が増えないところが、有権者の政治全体への不信を示している。事態は深刻である。自民党・民主党が変わらないとなれば、新党や個人に対する期待が高まるかもしれない。「政治とカネ」の問題にきっちりと熱意を持って解決をつけないと、統一地方選・参議院選で、有権者にきついお仕置きを受けることになるだろう。

  1月30日付・読売社説(1)
 [代表質問]「民主党は説得力ある対案を示せ」

 民主党の小沢代表が、代表質問で安倍首相に論戦を挑んだ。夏の参院選への主要な論点が浮かびあがったのではないか。大いに議論を深めるべきだ。

 小沢代表は、冒頭、政治がなすべきは、首相が強調している「憲法改正」か、国民生活を立て直し、一新する「生活維新」かと訴えた。

 安倍政権との違いを示すための小沢代表流の論法だろう。だが、小沢代表自身、憲法改正は大事な課題との認識を示している。憲法改正も国民生活の立て直しも、いずれも取り組むべき課題である。二者択一を迫る問題ではない。

 小沢代表が最重要課題と位置づけたのは、格差の是正だ。小泉、安倍両政権で、日本が「世界で最も格差のある国」になったからだと主張している。

 政府は再チャレンジ支援としてパート労働者の待遇改善など労働関連法案を国会に提出する。民主党は、「格差是正緊急措置法案」(仮称)を提出して政府に対抗する方針だ。格差をどういう手順、手法で是正するのか、その具体策を早急に明らかにすべきである。

 小沢代表は、社会保障の財源問題で、消費税を現行税率のまま、全額年金財源(基礎部分)に充てると述べた。年金の基礎部分をまかなうため、消費税率3%引き上げが必要とする民主党の従来の主張からの転換である。

 その理由として、小泉、安倍両政権で国民負担が消費税率に換算すると3・5%も増えたとの試算を示し、消費税率を上げるべきではないとしている。

 しかし、増税なしで、今後も増え続ける年金給付に対応できるのか、説得力ある説明にはなっていない。

 農業政策では、兼業農家も含む全農家に対し、「戸別所得補償制度」を導入することを提案した。農家の生産費と市場価格との間に差額が生じた場合、不足分を全農家に直接支払うものだ。これでは、農業の体質強化にならず、非効率な現状を固定化するだけではないのか。

 改革実現の財源を確保するため、小沢代表は補助金、交付税を地方に一括交付し、特殊法人、独立行政法人を原則廃止するという。それなら、具体的な手だても示してもらいたい。

 小沢代表は、政治とカネの問題に言及し、事務所費の問題が解決されなければ「まともな論戦を始めることができない」と述べたが、どういうことか。

 無論、政治への信頼確保のため、疑惑を解明し、政治資金の透明性を高めることは大事だ。それ以上に有権者が求めているのは、山積する重要な政策課題の解決を巡る論議だろう。

  タガ緩む安倍政権 不規則発言乱発、波乱含み国会幕開け( 2007年01月29日)

 安倍政権のタガの緩みが深刻だ。安倍首相が少子化対策で大号令をかければ、担当の柳沢厚労相が「(女性は)子供を産む機械」と失言。首相が通常国会で教育3法案の成立をめざすと明言すると、側近の下村官房副長官が会期内成立にこだわらないと公言。日米関係でも、久間防衛相が連日のように米政府批判を繰り返す。国会では29日から与野党の論戦が始まったが、内政と外交の主要課題で政府が次々に攻撃材料を野党に提供する負の連鎖が続く。

 「女性を機械に例えることは『産めよ殖やせよ』にも通じ、女性の人権を踏みにじるものだ」

 民主、共産、社民の野党3党の女性議員16人は29日、国会内で柳沢氏と会い、厚労相辞任の要求書を手渡した。柳沢氏は「女性の存在を否定するような発言をして傷つけたことは謝る」と平身低頭だった。

 これに先立つ衆院本会議では民主党の松本剛明政調会長から「驚き、嘆き、憤っている」と質問され、「国民の皆様、特に女性の方々におわび申し上げる」と陳謝。首相も小沢代表への答弁で「誤解を生じないように厳しく注意を促した」と発言せざるを得なかった。

 労働法制など重要法案を担う柳沢氏の失言だけに、野党は「辞任に値する発言だ」(市田忠義共産党書記局長)と勢いづく。参院選に向け、国会の滑り出しで主導権を握る可能性も出てきただけに、小沢氏は29日の会見で珍しく多弁だった。

 「どう釈明しても済む話じゃないだろうね。ちょっと国務大臣としてどうかな、ということになるんじゃないかな」

 政府・与党内の空気は冷ややかだ。

 高市男女共同参画担当相は国会内で記者団に「私は子供をほぼ授かれない体なので、機械なら不良品になっちゃう」と不快感をにじませ、猪口邦子前少子化担当相も「発言は完全に否定されなければならない」。

 女性だけではない。自民党の中川昭一政調会長は記者団に「極めて不適当。私から見てもびっくりするような言葉だ。少子化対策とかあり、担当大臣の発言はマイナスだ」と切り捨てた。

 首相官邸は「(厚労相)更迭という話ではない」(内閣官房幹部)と防戦するほかない。内閣支持率の下落が続く中、昨年末の佐田行革担当相に続いて、閣僚辞任の事態だけは避けたいからだ。しかも格差是正で民主党に攻め込まれるなか、少子化対策と労働法制はそれを押し返す材料なのに、担当閣僚の責任問題が浮上すれば混乱に拍車がかかる。

 29日に少子化対策の検討会議を設置すると発表した塩崎官房長官は「発言は不適切だが、直ちに訂正された。検討会議の主要メンバーとしてやってもらう」とかばった。首相も29日夜、記者団に「本来、大変高い見識をもった方ですし、今後職務に専念して頂くことで本人の人柄についてもだんだん国民の皆さまに理解して頂けるだろう」と語った。

     ◇

 問題は「柳沢発言」にとどまらない。

 「私の発言で、ご迷惑をおかけしているかもしれません」。29日午前の自民党国会対策委員長室で、下村博文官房副長官は与党国対幹部らにこう切り出した。

 下村氏は28日のテレビ番組で、首相肝いりの教育関連3法案について「成立してもらいたいとは思うが、柔軟に考えてもいいのでは」と発言した。夏の参院選を控え、国会日程が窮屈なことをにらみ、成立しない場合の予防線をはったつもりだったが「腰砕け」の印象はぬぐえない。

 公明党の漆原良夫国対委員長は29日、記者団に「首相は今国会を『教育再生国会』と言っているからメーンテーマのはず。出す前から3本通すのは難しいと言うんじゃ、何なんだという話になる」。結局、安倍首相は同日夜、記者団に「当然、成立を期して提出を急いでいきたい」と語り、発言を修正した。

 就任後、ずっと続いているのが久間防衛相の米政府批判だ。27日の長崎県諫早市の講演では在日米軍普天間飛行場の移設案に絡んで米国に対し「偉そうなことを言ってくれるな」と発言。久間氏は24日にもイラク戦争開戦の米国の判断を「間違っていた」と批判し、26日に塩崎氏が注意したばかり。米政府はイラク発言について日本政府に照会、首相が「外交の要」と重視する日米関係に影を落としかねない。

 首相が重視する課題に自ら水を差す発言が政府内から相次ぐ非常事態に、塩崎氏は29日の記者会見で「決して言いたい放題を許している内閣ではない」。

 こうした状況の中、今度は逢沢一郎衆院議院運営委員長の公選法違反の疑いも浮上した。こちらも与野党の利害を調整する立場だけに、国会運営への影響は深刻だ。

 首相は同日の自民党役員会で「緊張感を持ってやってほしい」と語った。近年の選挙では、何を争点にするか、主導権をとった方が有利なのだが、首相自らが政権課題を設定しても、政府・与党内の足並みの乱れがすぐに表面化する悪循環から抜け出せない。首相の求心力の低下が、政権のタガの緩みにつながっているのも確実だ。

 民主党幹部は次々、攻撃材料が出てくる現状に、思わずこう漏らした。「ぼろぼろだ。安倍政権はもうダメだな」

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所信表明演説=「御手洗ビジョン」

 通常国会冒頭の阿倍総理の所信表明演説は、驚くほど、1月1日に日本経団連が公表した「希望の国 日本」(「御手洗ビジョン」)と似ている。

 イノベーション、成長戦略、改革、等々、基本概念が共通している。所信表明演説の方は、その目標を「美しい国」と表現し、「御手洗ビジョン」の方は、「希望の国」と表現している。

 所信表明は、「美しい国」を、「活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた」国と規定している、それに向かうには、戦後レジームを見直すべきだとしている。

 そのためには、活力に満ちた経済が必要、生産性向上、成長力強化が不可欠だとしている。所信表明は、イノベーションとは、「革新的な技術、製品、サービスなどを生み出す」ことだと述べている。そして、その例として、ライト兄弟の飛行機の発明を引き合いに出して、「絶え間のないイノベーションが人類の将来の可能性を切り拓き、成長の大きな原動力になった」と評価している。今後5年間の改革の方向性を「日本経済の進路と戦略」にまとめ、長期の戦略指針「イノベーション二十五」を5月までにまとめ、さらに4月までに生産性加速プログラム、「日本文化産業戦略」、「アジア・ゲートウェイ構想」を5月までに、それぞれまとめることを表明している。これらは、投資の促進・支援が基本である。

 「チャンスにあふれ、何度でもチャレンジが可能な社会」の構築について、「再チャレンジ支援総合プラン」に取り組むとしている。年長フリーターへの就職・能力開発支援、新卒一括採用システムの見直し、パート労働法改正で正社員との均等待遇の実現、厚生年金への加入化、最低賃金制度の見直し、高齢者の就労支援、女性の就職支援、育児と仕事の両立、障害者自立支援、等々。この辺も「御手洗ビジョン」とそっくりだ。地方に関する道州制についても検討するというが、これも「御手洗ビジョン」と同じである。

 阿倍政権が政権の目玉として掲げた教育再生については、公共の精神、自律の精神、地域や国に対する愛着愛情、道徳心などの価値観をおろそかにしてきたことが、今日の教育問題の根底にあるとしている。精神や心の問題が教育の中心にあるというのである。そして、改正教育基本法に基づいた学校教育法、地方教育行政法、教員法などの関連法案の成立を目指すとしている。
 
 公教育の再生策として、「ゆとり教育」見直し、授業時間増、学習指導要領の見直し、国語力、理数教育、道徳教育の充実などを掲げている。「いじめ」対策として、土日も夜間も受け付ける電話相談の全国実施、「放課後子供プラン」。教員免許更新制、社会人の教員採用増。そして、教育委員会改革については、具体策はない。

 外交問題については別に新味はない。これまでの主張通りである。

 最後に、所信表明は、日本国の良さ、素晴らしさを再認識する必要があるとして、未来に向けた新しい日本の「カントリー・アイデンティティー」を明らかにして、世界に発信すべきだと述べている。そのためには、憲法改正が必要だとして、「国民投票法案」の通常国会での成立をはかるとしている。

 「美しい国」創りの核心は、「本来、私たち日本人には限りない可能性、活力があります。それを引き出すこと」だと述べている。言うまでもなく、これは理念のレベルの話である、人の具体体な能力には限りがあり、肉体的精神的限界がある。活力は、休んで回復するという過程がなければ持続できない。無限の可能性、活力などというのは幻想にすぎない。

 そして福沢諭吉の「出来難き事を好んで勤るの心」という言葉を引用している。結局のところ、この所信表明は、精神主義的説教であり、具体策は、財界の要求ばかりを取り入れているだけであり、財界=大企業の政治綱領の翻訳である。格差も政治腐敗もほとんど無視し、抽象的な夢物語で人々を煙に巻いているだけである。

 この国の多くの働く人々は、「お年寄りの世話をしている方や中小企業で働く方、看護師、消防士、主婦や、様々な職場、そして各地域で努力しておられる、数えきれない多くの方々が、毎日寡黙にそれぞれの役割を果たすために頑張っている」と、分業体制に従って、黙って職務に専念しているという姿に描かれている。それはそのままで、それがさらに未来にも活力を持っているという絵がイメージされているのである。これらの人々が寡黙であっては活力ある未来はない。政治や社会に関心を深め、目覚めて、政治意識も持って、これらのことについて、語り、行動してこそ、活力ある未来が生まれるのである。これらの人々は、目覚め、語り、行動することなく、仕事に専念し、ただ政府・政権のいいなりになるようにとこの所信表明は語っているのだ。

 しかし、保守的と見られてきた地方や農民や中小企業の中から、こうした衆愚政治を拒否し、革新に投票する人が増えてきている。黙っていないで、自ら語り、行動する人々に変わりつつあるあるのだ。阿倍政権は、かかる状況変化を認識も理解もできず、相変わらず、多額の政治献金を受けている財界の政治代理人として行動していることを、この所信表明が示している。

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通常国会が始まる

 通常国会が始まる。ただし、夏の参議院選挙の日程があるので、会期延長の余地がなく、日本版ホワイトカラー・エグゼンプション導入法案など、批判の強い法案は、提出が見送れた。『朝日新聞』世論調査では、阿部内閣の支持率は、ついに39%に落ちた。

 支持率低下に歯止めがかからない阿倍総理は、とにかく実績づくりで支持率を取り戻すとして教育再生会議第1次報告を法律化する教育国会にすると述べた。それに、数日前には、突然、共謀罪を通常国会で成立させると言い出した。どうも阿倍総理は、思いつきをぽんぽん口にだす人のようだ。小泉政権の置きみやげで、衆議院での圧倒的多数があるから、教育基本法改正案も成立させられたが、支持率が下がり続ければ、そう簡単にはいかなくなる。

 『読売新聞』は、活発な論戦を促している。すでに、閣僚のスキャンダルが続出していて、政治と金をめぐって、野党の激しい追求があることは明らかである。民主党にも傷があるからという理由でこの問題の追求の矛先が鈍ったら、有権者は、民主党を見限るだろう。民主党が徹底的に膿を出して再生できるか、与党がそれがよりできるかが、参議院選までの党派闘争の最重要課題である。そのことが、先の宮崎県知事選の結果に示されているのである。そのことは、福島県知事選挙、滋賀県知事選挙などでも明らかになっている。

 それに対して『読売』社説は、「政治倫理の重要性は言うまでもない。しかし、「スキャンダル」の暴露と応酬で、泥仕合になってしまっては、立法府の名が泣く。高額の事務所費問題など政治資金の「出」の透明化を図るための方策は、冷静に議論すればいい」と有権者の意識とかけ離れたことを主張している。有権者は、政治家の「スキャンダル」に熱く怒っており、保守王国と言われた宮崎の自民党支持者たちもそうだった。

 今や地方の方が、政治意識が高く、保守的とされてきた人々が、「スキャンダル」に激しい怒りと拒否を示しているのである。そのことは、和歌山県知事選挙で、自公系候補が勝ったものの投票率が低く、さらに有権者の間から、民主党が候補をたてればそっちに投票したのに、選択肢がなかったという不満の声が聞かれたことにも明らかであった。

  『読売』は、もっと政治倫理・「スキャンダル」の問題に熱くならねばならないし、怒りが足りない。これでは大衆の意識と対立する。

 『読売』よりも、『産経』の方が、この問題では熱い。

 与野党に国益実現のために党派を超えた協力を求めているのはいただけないが、それでも、宮崎県知事選挙の結果について、「論戦で注目したいのは、政治不信をいかに払拭(ふっしょく)するかだ。宮崎県知事選でそのまんま東さんが圧勝したことは既成政党への不満やいらだちが限界に達していることを如実に示している」と書いているのは、政治不信が、国会論戦や統一地方選挙・参議院選挙に大きな影響を及ぼすことを深刻に受け止めている点は正しい。地方の保守的な有権者の政治意識が流動化し、覚醒しつつあるのである。

 『産経』は、「政治資金の「出」の不適切な処理が政党不信に拍車をかけている。制度の不備や欠陥を直ちに是正すべきだ」と『読売』の「冷静に」よりは迅速な対応を求めており、国会冒頭で最優先課題として取り組むべきだという強い言い方をしている。当然だと思う。政治不信がこれだけ深まってしまうと、どんな国会論戦も法案も、大衆的支持のない、「心」のない、ただ上から押しつけられる権力的強制にしか思われなくなる。国会内での合意が成立しても、国会・政府と有権者や大衆の間の合意が成立しなければ、政党も政府も事実上お終いである。その場合の審判の仕方として、与野党いずれも拒否という形を示したのが宮崎県知事選挙である。そうなったら、政界再編はさけられない。そのような危機の中で、通常国会が始まることを与野党共に認識しなければ、緊張感ある国会にはならないだろう。

 【主張】国会召集 政治不信の払拭が課題だ

 通常国会が25日召集される。6月23日までの会期を延長しなければ、参院選は7月22日実施だ。与野党ともに対決路線に走りがちだが、国益実現のために党派を超えた協力を求めたい。

 その意味で憲法改正のための手続き法である国民投票法案は早期に成立させるべきだ。民主党の小沢一郎代表は参院選の与野党逆転に「政治生命をかける」と宣言し、国民投票法案には慎重に対応するとしている。

 だが、先の国会で与党と民主党の実務者は、国民投票権者の年齢を18歳以上にするなどの修正案で基本合意している。憲法改正という国の根幹にかかわる法案を政争の具にしようというのが、小沢氏の本意ではあるまい。

 政府・与党はこれ以外に教育、雇用、公務員制度などの改革関連法案成立を目指す。安倍晋三首相は昨秋の自民党総裁選で「官邸の機能強化」などを公約に掲げたが、この実現のために断固たる意志を貫いてほしい。

 首相補佐官の権限強化法案は見送る方向のようだが、官邸への権限集中は必要である。実効性を持つ枠組みの構築は首相の大きな責務だろう。

 論戦で注目したいのは、政治不信をいかに払拭(ふっしょく)するかだ。宮崎県知事選でそのまんま東さんが圧勝したことは既成政党への不満やいらだちが限界に達していることを如実に示している。

 政治とカネをめぐり、松岡利勝農水相や伊吹文明文科相らは、家賃のかからない議員会館に「主たる事務所」を置き高額の事務所費を計上しながら、問題はないとの見解だ。不明朗な支出でないなら、公表すべきだろう。

 小沢代表も平成6年から17年にかけ、東京都など11カ所に総額10億円以上の不動産を取得しているが、自身の資金管理団体が解散した場合、不動産継承などの問題点が指摘されている。公私の峻別(しゅんべつ)を説明したほうがよい。

 分からないのは、角田義一参院副議長が平成13年の参院選で、自らの選挙対策本部が多額の献金を集めながら、政治資金収支報告書に記載していなかった疑惑について「選挙資金は自分の認識の外にあった」と述べたことだ。この説明に納得できる人はいまい。

 政治資金の「出」の不適切な処理が政党不信に拍車をかけている。制度の不備や欠陥を直ちに是正すべきだ。(『産経新聞』2007/01/24)

  1月 24日付・読売社説(1)
 [通常国会開幕]「争点を明確にする論戦が大事だ」

 通常国会があす開幕する。今夏には参院選を控えている。与野党ともに、活発な論戦を展開し、参院選の政治争点を明確にしなければならない。

 昨年の通常国会を思い起こしてみよう。民主党の偽メール問題で審議は紛糾し、構造改革や教育問題、安保政策をめぐる論戦はおろそかになった。政権末期の小泉内閣は、重要法案の成立に熱意を示さず、多くを先送りした。

 今年は、国会開幕を前に、安倍内閣の閣僚らの「政治とカネ」をめぐる問題が相次いだ。野党は、首相の「任命責任」を追及し、前閣僚の証人喚問を要求する構えで、対決色を強めている。

 政治倫理の重要性は言うまでもない。しかし、「スキャンダル」の暴露と応酬で、泥仕合になってしまっては、立法府の名が泣く。高額の事務所費問題など政治資金の「出」の透明化を図るための方策は、冷静に議論すればいい。

 今国会も、国家の基本にかかわる法案から国民生活に密接な法案まで、重要法案が山積している。

 その一つが憲法改正の手続きを定めた国民投票法案だ。自民党は、憲法施行60周年にあたる5月3日の憲法記念日までの成立を期している。

 民主党内には、法案の成立は憲法改正を掲げる安倍政権を利するだけ、という意見がある。だが、民主党は、自民党の大幅な譲歩で法案修正にほぼ合意した。選挙戦略の観点からのみ、法案に異を唱えるようでは責任政党とは言えまい。

 この法案に「反対」の社民党と共闘を強めたり、民主党内の旧社会党系など少数派の反対論に引きずられたりすれば、民主党内はきしみを増し、党は結束維持に苦しむことになるだろう。

 憲法改正は、自民、民主の2大政党が協力して初めて実を結ぶものだ。その道筋をつける上でも、改正手続き法は、両党の賛成で早期に成立させるべきだ。

 格差問題の是正や雇用ルールの見直しなども、切実なテーマだ。改正教育基本法を踏まえた教育改革や北朝鮮の核武装化阻止も極めて重大な課題だ。安倍首相と小沢民主党代表は、これら「安心」と「安全」にかかわる論戦の先頭に立たなければならない。

 それにしても、両者ともに、消費税率引き上げ問題に逃げ腰では、年金など社会保障制度改革の議論は深まらない。

 統一地方選に参院選が重なる年は、選挙運動に追われて国会審議が軽視されやすい。しかし、選挙の年だからこそ、与野党は、国会審議を通じて、争点に対する見解の違いを鮮明にし、有権者の審判を待つべきである。(2007年1月21日)

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教育再生会議第1次報告案に不満続出

 教育再生会議の第1次報告案については、早くも批判の声が噴出していて、前途多難が予想される。下の『毎日新聞』の記事も現場の不満の声を拾ったものであるが、そもそも何のための教育再生なのかを、現場の人々が理解できていないことを示している。

 そもそも「ゆとり教育」見直しといっても、授業時間を増やすことで、どのような学力を引き上げようとしているのかが問題で、その点を19日の『毎日社説』が指摘しているのだが、その疑問はもっともである。それに対して、同日の『産経新聞』は、学力向上につながるとして歓迎しているのだが、その学力観は古いのではないか。教員免許更新制は、改革のための改革にすぎないような気がする。

 それに、山谷総理補佐官の発言を聞いていると、この人の発想の仕方や見識や思考能力には疑問を感じる。山谷氏は、なにを思ったか、昨年のNHK紅白歌合戦でのヌード柄衣装のダンスシーンの問題を教育再生会議で取り上げると語っているという。放送の問題には、放送倫理に関する審議機関は別にあるし、なぜそれを教育再生会議で取り上げて議論するのか、わかりにくい。きわめて広い意味でいえば、あれもこれも教育問題だといえないことはないが、そこまでしたら、なんでもありになってしまう。発足後、しばらく、取り上げるテーマについての絞り込みを重ねて今の報告の内容になったのではなかったか?

 一段落したところで新たなテーマ設定をしたいのだろうか? しかし、継続論議に持ち越しになった論点もあげられているわけで、しかも、自殺者を出しているいじめ問題解決は、なんといっても最優先課題の一つである。論点を拡散させるよりも、現在の論点を深めるべきであろう。山谷氏が取り上げた生徒による教師への暴力への対応問題については、90年代に旧文部省から、正当防衛として反撃は認められるという見解が通達されたという。正当防衛権が、教師ー生徒間で認められないという権利制限があるとすれば、それは特別権力関係、一般法の権力規定とは別の特殊な権力関係が適用されているからだろう。そうでなければ、一般に認められている正当防衛が、学校では認められないというようなことはあり得ないだろう。

 山谷氏は、こうした現場の実態をよくわかっていないようだ。一方では教育手段としての体罰と称しての虐待行為が時々発覚し、他方では、生徒による教師への暴力件数が一昨年に過去最高となった。体罰は原則的に禁止されているが、教師の正当防衛権が制限されているのはなぜだろうか? 山谷氏はそれをよくよく調べるよりも、NHK紅白歌合戦の問題に興味を移してしまう。なんとなく頭に浮かんだ空想をリアルに感じてそれを思いつくままにぽっと口に出す。彼女は、それを調べて、考え抜き、整理し、まとめて、それから口にするということができないようだ。「考える力」がないのである。考える力を伸ばそうとした「ゆとり教育」が山谷氏には必要に見える。それとも、山谷氏は、考える力が弱いことを自覚しているので、苦手なことはやりたくないと、「ゆとり教育」を否定しているのだろうか? とにかく彼女には思いつきの力はあっても考える力が欠けていることは確かである。その点は、「美しい国」などというイメージに酔っている阿倍総理と似たもの同士のようだ。

 学力の中身が暗記力で、それを国際競争するというのは、もはや古くさい尺度になってしまったのではないか? 数学の偏差値が多少下がったと言って大騒ぎするのはなぜか? 数学の点数が多少上がったイギリスは、世界からそんなに尊敬されているのか? かつて世界の産業の最先端は、金融・ハイテク・知識産業・ソフト・コンテンツ産業に移っていって、それに必要なのは、創造力・自由な発想であり、それを育てる教育は、知識の詰め込みではなく、自主性・自発性を持った自立した個人を確立することだと言われた。それを元文部省官僚の寺脇氏は、『毎日新聞』のインタビューで力説している。それが、これらの分野で進んでいるアメリカなどとの国際競争に対応する「教育改革」の目的だったはずである。詰め込み教育は、かつての重厚長大産業に対応した教育だったはずである。アメリカでは、マイクロ・ソフトのビル・ゲイツをはじめ、詰め込み教育からはずれた新企業家たちが続々育って、新しい発想で、イノベーションを起こしていったと言われた。もちろん幻想にすぎないが、こうしたイノベーションの連続によって、絶えず成長する経済をアメリカではニューエコノミーと称して、永遠の繁栄の夢を見た時代があった。それはむろん崩壊した。

 いったい、教育再生会議と阿倍政権は、なんのために教育再生を強調するのか? 規範と学力というが、その規範とは何か? そして学力の中身は何なのか? 実態は、実は権力闘争であり、文部官僚、自治体、自民党、財界などの利権争いなのではないか? かつて、教科書会社への文部官僚の天下りと癒着が問題になったことがある。そのような教育利権の再編が行われているのではないだろうか? 教科書を分厚くするというのも、教科書会社の利益のためのような気がするし、教育委員会改革は、文部科学省の権力拡大のような気がする。教員免許更新制も、文部官僚の現場支配権拡大のためのような気がする。高校ボランティア必修化は、ボランティアの魂を殺すもので、それはボランティアではない。等々。不満が続出するのも、無理はない。

  教育再生会議:第1次報告案…現場から不満噴出
 
   「ゆとり教育」の見直しなどを柱とした政府の教育再生会議の第1次報告最終案が19日、まとまった。提言には「学力の向上」「規律ある教室」「教員の質の向上」など教育現場への注文ともとれる言葉が並ぶ。教員からは「朝令暮改の改革に振り回され続けている」「学力が下がることは前提でゆとり教育を導入したはずだ」と反発の声が上がった。

 ■「ゆとり」見直し

 千葉県内の公立小学校の男性教諭(57)は「ゆとり教育の導入前から『表面的な学力低下はみられる』と言われていた。急に『学力向上だ』では現場はまた混乱する。総合的な学習も中ぶらりんとなる」と不満を述べた。北海道立高校の男性教諭(40)も「授業時間数の10%増というが、今でも受験対策に放課後や土曜に補習をしている。時間を増やせば問題が解決するとは思えない」。

 山梨県内の公立小学校の男性教諭(44)は「ゆとり教育では必ずしも学力は低下しておらず、むしろ優劣の差が広がっている。学力向上を目指すことでトップ層だけを引き上げることに目がいかないか」と心配する。

 ■「いじめ」厳罰化

 いじめる側への出席停止制度活用など、厳しい態度で臨むことが掲げられたが、東京都内の公立中学校の女性教諭(58)は「いじめている子と、いじめられている子を分けられるのか」と反発。「厳罰化で子どもがストレスを抱えれば校内暴力が激化するのでは。自分で問題を解決する力を養うという提言がなかったのが残念」と話す。

 ■奉仕活動の必修

 高校での奉仕活動の必修化について、都立高校の男性教諭(40)は「都立高は来年度から導入するが、担当教員が受け入れ先を探しているのが現状。おぜん立てするのは教員で、生徒の自主的なものではない」と実態を明かした。

 ■ダメ教師排除

 埼玉県内の公立中学校の男性教諭(49)は「何が不適格なのかはっきりしない。厳罰を実行しない教師はダメ教師扱いになるのでは」と困惑。「大切なのは教員処分ではなく、自信を持って教えられるようなシステム作りだ」と都内の公立中学校校長(60)は語った。(毎日新聞 2007年1月19日)

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教育再生会議第1次報告がまとまったことによせて

 阿倍政権の目玉の一つの教育再生会議が、第1次報告取りまとめに向けた全体会議を開いた。そこで、「4つの緊急対応」と「7つの提言」を柱にした原案をまとめ、24日の総会で首相に提出する。

 第1次報告は、まず、授業時間の1割増をはかるとしている。これまでの「ゆとり教育」見直しの具体化であり、週5日制の見直し、夏休みの短縮などを検討するという。この場合、教員の人件費増が生じることになる。

 さらに体罰規定の見直し、いじめ側生徒の出席停止措置、教員免許更新制導入、高校でのボランティアの必修化、教育委員会の設置義務を弾力化して、小規模自治体の教育委員会を統合できるようにすること、などが盛り込まれた。

 ただし、報告は閣議決定されないことが決まったので、提言に止まる。また、中教審がこれまで検討してきたものと重なるものも多い。いじめ生徒の出席停止措置には、伊吹文部科学大臣が慎重な態度を示すなど、抵抗が予想され、よほどの総理の強力なリーダーシップがなければ、制度化・法案成立は難しそうだ。閣僚辞任、閣僚のスキャンダルの相次ぐ発覚、内閣支持率低下などの逆風の中で、総理の求心力も低下しているので、リーダーシップがどこまで発揮できるかは疑問である。

 昨年の教育基本法改「正」にしても、成立の過程で傷がついたことは明らかで、人々が納得しないままできた法律では、「仏作って魂入れず」であり、単に言語記号を並べただけの紙切れ程度の重みしかもたないだろう。その二の舞になりかねないわけである。人々が、あれに納得し理解していれば、新教育基本法を成立させた阿部内閣をもっと支持していただろう。それが逆に支持率低下、不支持増加という結果になっているのである。

 教育再生会議のメンバーの居酒屋チェーン「ワタミ」社長は、これで関連法案が成立すれば、教育再生できると自信を示した。山谷えり子首相補佐官は、生徒に殴られそうになった時に、それを手で振り払うことも体罰としてできないのはおかしいとのべ、体罰基準の見直しを示唆した。しかし、彼女があげた例は、自衛権・正当防衛の範囲の話で、身の危険を回避する行動が体罰とされるのことがおかしいことは自明の理である。正当防衛権よりも体罰基準の方が優先適応されるとすれば、それは逆立ちである。首相補佐官ともあろう者がその程度のことを、教育再生の中身として語るとは、ひどいものだ。

 いずれにしても、教育再生会議に発足当初の輝きはすでになくなっていることが明らかになった。「たそがれ晋三」と沈む運命を共にするだろうことが見えてきたようだ。

  第1次報告取りまとめへ 教育再生会議 (東京新聞)

 政府の教育再生会議(座長・野依良治理化学研究所理事長)は19日昼、学力向上のため「ゆとり教育」見直しなど求めた「4つの緊急対応」と「7つの提言」を柱にした第1次報告の最終的な取りまとめに向けた全体会議を首相官邸で開いた。有識者メンバーの了承を得た上で、24日に総会を開き、安倍晋三首相に提出する。

 報告案では、公立学校の授業時間数の10%増を打ち出したほか、(1)いじめ問題対応のため「体罰の範囲」に関する政府通知を3月末までに見直し(2)不適格教員排除につながる教員免許更新制導入と条件厳格化(3)教育委員会の抜本改革を目指した外部評価制導入-などを盛り込んでいる。

 また、いじめや暴力を繰り返す子どもに対しては、学校教育法に基づく出席停止制度を活用するよう明記。高校での奉仕活動必修化も提言した。(共同) (2007年01月19日)

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「御手洗ビジョン」はだめだ

 やっとこんな記事が大新聞のコラムに載った。1月10日の『毎日新聞』の経済コラム「経済観測」である。
 
 日本経団連は、政治献金を再開して以来、政権党の自民党に偏った政治資金を出し続けている。去年は、自民党2億数千万対民主党6千万であった。小泉政権では、政治と金の問題はあまり表面化しなかったが、安倍政権になると、閣僚をはじめ次々と金銭スキャンダルが出てきている。財界からの政治資金にまつわるスキャンダルも出てきそうな感じである。リクルート事件並みのスキャンダルが出れば、安倍政権は吹っ飛ぶ可能性がある。戦後自民党政権の歴史は、疑獄やスキャンダル、金銭汚職、腐敗にまみれたものであった。
 
 小泉政権は、利権を通じて企業と癒着してきた族議員を一掃し、古い自民党をぶっ壊すと叫び、昔の自民党ではない、新しい自民党になったと強調したが、実態はそうでもなかったのではないだろうか? やはり日本経団連が、企業献金を再開し、巨額の献金を自民党に注ぐようになって、企業と自民党の癒着は再び深まってきたのではないだろうか? トヨタ奥田会長が、経済財政諮問会議の委員だった小泉政権時代に出なかったトヨタの企業不祥事が、奥田会長が、経済財政諮問会議を辞め、日本慶田連会長を辞任し、小泉政権が終わり、安倍政権に変わってから、次々と表面化したのは、偶然だろうか? あるいは、企業献金をテコに、政府機関にトヨタ会長が入り込んでいたことが、トヨタへの甘い見方を支えていたのではないだろうか? 企業不祥事を起こしたキャノンの御手洗会長が、日本経団連会長につけたのは、企業倫理という観点からは甘すぎる人事といえよう。
 
 その「御手洗ビジョン」は、自分たち企業には甘く、労働者には厳しいという最低のエゴイズムの精神で書かれている。労働者に消費税増税や残業代不払い制度を押しつけるというなら、企業は、減税ではなく、増税を自らに課さねばなるまい。ところがその反対である。格差のことを問題としてあげながら、所得再配分の是正、所得税の最高税率の引き上げ、などにはまったく触れずに、企業減税10%引き下げを目指すという。労働分配率(剰余価値率)をどうするのか? それにも触れていない。邦氏ならずとも、労働者などが怒るしかないものだ。

 頭に来るのは、そればかりではない。この「御手洗ビジョン」は、まるで、この間の景気回復が、自分たち経営者のおかげで出来たと言わんばかりで、90年代後期以来、文句も言えずに、長時間労働や非正規雇用化やリストラに耐え続けてきて、努力しながら報われなかった多くの労働者・失業者の搾取の結果であることを一切無視している。こうして日本経団連は、自分たちを神のごとく思念して思い上がりながら、他方で多くの人々が払った大きな犠牲の方はすっかり無視しているのである。全てお見通しの全能の神と違って、このへっぽこな神には、見えないものがたくさんあるのだ。
 
 この無能な神が下した「約束の地」への地図は、これまた自分たちだけが繁栄するために、その他大勢をわけのわからない言葉や修飾で誤魔化す金ぴかの意匠にすぎないのである。冒頭で、清貧な生き方は否定され、みんな経済成長を望んでいるなどという池田勇人の高度成長路線みたいなものがでてくる。しかし、清貧の生き様を肯定的に描いた藤沢周平はとてもポピュラーな人気があるのだ。かなり脚色があったが、かつて土光臨調会長の個人生活は、清貧なように描かれた。それがなかったら、国鉄改革は一定の大衆的支持を得られなかっただろう。小泉前首相も、その点は非常に注意していた。ところが、「美しい国」を目指している安倍政権からは、「汚い」スキャンダルが次々と出てくる。日本経団連会員企業からも次々と不祥事が出てくる。なにが「美しい国」だ、「希望の国」だ、という声が強まって当然である。こんな安倍政権を追いつめられないようなら、野党はへっぽこ野党である。邦氏のような人がもっと出て、がんばってものを言ってもらいたいものだ。

 誰の希望か=邦
 
 せめて年初ぐらい心穏やかに過ごしたい。そんな思いで正月を迎えたが、元日の新聞を読んで打ち砕かれた。日本経団連(御手洗冨士夫会長)が同日付で発表した「御手洗ビジョン」があまりにも身勝手で怒りを抑えることができなかったからである。

 同ビジョンは「希望の国、日本」という副題が付けられている。明らかに安倍晋三首相の「美しい国へ」を意識しおもねった題名と思われる。内容も今後10年間、年平均で実質2・2%の経済成長を達成できると試算、安倍内閣の「上げ潮」路線に歩調を合わせている。いろいろ美辞麗句を並べ、愛国心教育も提唱している。しかし、具体的な政策提言になると財界にとって都合のいいことばかりで従業員や消費者にとっては希望どころか負担を押しつけられるものとなっている。

 まず、消費税については税率の2%引き上げ(つまり消費税を7%にする)を遅くとも11年度までに実施すべきだとしている。これは基礎年金国庫負担割合の引き上げのための財源確保策で、まったなしの状況という認識だ。これには異存はない。果たして2%で納まるかどうか分からないが、負担増しか残されていない。問題はそんな状況下で法人税の実効税率(国と地方の合計)の10%引き下げを強調していることだ。なんのことはない、負担は消費者に押しつけ企業だけは楽になりたいという話なのだ。さらに労働市場の改革に言及、「労働関係諸制度の総点検」との表現でより弾力的な雇用形態を提案している。リストラをやりやすくし、コストの安い非正規雇用を進める意図がミエミエだ。

 もしこの通りになれば、一段と貧困層が増え消費が衰退し、しっぺ返しを食らうことが分からないのだろうか。志もなにもないペーパーだ。(邦)(『毎日新聞』2007年1月10日)

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今度は『読売』も転向か?

 9日付『読売新聞』社説[日本の選択]「新『教育改革』の元年とせよ “ゆとり”との最終決別を」は、「ゆとり教育」が、その立派な理念とは裏腹に、私学と公立の格差を拡大し、かえって受験競争を激化するなどの失敗策であったことを強調している。そしてそのことは、現場の声を聞く限り、ほぼ事実のようだ。
 
 もともと「ゆとり教育」は、「子どもが家庭や地域社会で過ごす時間を増やし、自ら学び考え、生きる力をはぐくむ」のが目的だ。土曜日に生活体験、社会体験、自然体験などをさせる。そのための「受け皿」作りと大人の意識改革が求められた」のである。ところが実際には、「それがどうだろう。環境は整わない。土曜の身の置き場がない。塾に行き場を求める親子、朝からテレビゲームにかじりつく子が増えた。/もともと私立の小中高校の半数は5日制にそっぽを向いている。私立との学力格差を危惧(きぐ)する公立高校でも、土曜日に補習をするところが急増した」という結果になっている。
 
 『読売』が強く心配する学力低下などはあまり問題ではない。もともと受験用の学力の中身は、暗記力が中心で、それは確かに授業時間に比例してある程度は伸ばすことが可能だからである。もともと産業構造の変化に対応する教育を求めたのは経済界であって、バブル期には、重厚長大産業から知識集約型産業などのソフト産業、コンテンツ産業などを新規産業として育成しなければ、国際競争に勝てないということで、暗記力よりも、創造力育成をはかるとして「ゆとり教育」が導入されたのである。ところが、そんな急転換に現場が対応できず、混乱したというのが実態なのである。「総合学習」に何をすればいいかわからない。「ゆとり」をどう過ごしていいかわからない。等々の戸惑いが広がる中で、当初の目的が失われていったのである。
 
 同時に、飛び級制度というエリート養成策も導入されたりして、結局、政府の教育政策が何をしたいのかもわからなくなったのである。そこで教育の機軸を再び、暗記力を中心とする学力主義にもどし、偏差値を基準に据え直すことで、混乱を整理しようというのである。この部分で、競争主義を再構築することと市場原理の導入によって、競争主義を機軸に教育再生を狙ったわけである。
 
 ところが、『読売』が、「市場原理は不要だ」と主張するように、教育への市場原理の導入への疑問が強まっている。「最近の教育政策をめぐる論議には“市場原理”が見え隠れしている」「政府の規制改革・民間開放推進会議は「教育バウチャー」や、学校選択制の全国一律導入などについて議論してきた。後者は最終答申に盛り込まれた」というようにである。「教育バウチャー」導入については、安倍総理が積極的な発言を行って、その後言わなくなったということがあった。教育再生会議は、安倍総理と山谷えり子教育担当首相補佐官の話し合いで人選されたと言われるが、その主要メンバーには、教育への市場原理導入積極派の白石氏(規制改革・民間開放推進会議委員兼任)などが入っていて、そういう方向で提言をまとめようとしている。最近は、文科省・自民党の影響力が強まって、それに歯止めをかけているようだ。
 
 これまで市場原理・競争主義を煽ってきた『読売』社説の論調からすると、白石氏などを支持するのかと思いきや、そうではないらしい。『読売』社説は「学校間や子ども同士、適度な競い合いで切磋琢磨(せっさたくま)することは必要だ。だが、過度の市場原理の導入は、教育というものの本質を混乱させかねない」という。「さらに教育委員会の要・不要論、教員免許更新制の性質にまで口をはさむが、経済的な規制緩和という観点から論じる問題だろうか」という。かなり、規制改革・民間開放推進会議には批判的である。それは、「「子どものため」の教育再生。それが大前提である」からだという。
 
 これはかなりまともになったものだ。この調子で、果たして、「制定以来初めて改正された教育基本法は、新しい日本の教育理念を示した。「教育の目標」の中で、幅広い知識と教養、道徳心、公共の精神、国や郷土を愛する態度などの涵養(かんよう)をうたっている」教育が、「子どものため」の教育再生と言えるのかどうかを客観的に検証して欲しいものだ。9・11事件以降のアメリカの「愛国心」の過剰さにいい加減うんざりしているし、それを是非ともアメリカ人に正面から指摘したいと思うからである。イラク戦争などにおいて、愛国主義の熱狂の中で、あまりにも多くの犠牲者が生まれてしまったからである。

 右翼の中でも「維新政党新風」などは、これから戦争の時代になるとして、国のために闘う覚悟を求めているが、時代は、核拡散の時代であり、地域紛争が核戦争につながりかねないのである。明治の戦争とはわけが違うのだ。国のために死ぬ覚悟をするというのは多くの人にとって、大量破壊兵器で殺戮される覚悟のことであったり、自動車爆弾で見えない敵に殺されたり、というような事態での死の覚悟なのである。戦場の敵との白兵戦の中で、銃や爆弾で戦死するというようなものではないのである。戦死のイメージは、第二次世界大戦とはまったく違っているのだ。

 右派は、さかんに日露戦争がどうとか、大東亜戦争がどうとか言うのだが、戦争の形態が変わってしまったので、それでは、現代の戦争をリアルに掴めないのである。現代の戦争が依拠している生産体系・技術・経済・文化を理解しないでは、戦死のイメージも、愛国心の中身も、覚悟の中身も具体的に捉えることはできないのである。

 イラクでは、アメリカ軍は、遠隔操作の爆弾や自爆で突然、見えない敵に殺傷されるのがほとんどで、通常の戦闘で死傷するのは少ないのである。このような状態では、国旗を振ったり、国家を歌ったりするのは、危険な自滅行為であり、できるだけ周りにとけ込み、敵が狙いにくくするのが基本である。それか、圧倒的な多人数で制圧するということだ。もっとも、大人数で固まっているとやはり標的となりやすいし、被害も大きくなる可能性が高い。

 米軍が今、腐心しているのは、できるだけイラク人にとけ込むことであり、イラク人の価値観・考え方・生活習慣・歴史・文化を理解し、兵士にイラクの言葉を教え、相手を尊重する態度を身につけさせることである。軍事戦闘の勝利だけではなく、占領・復興までを行うとなると、相手を理解し、コミュニケーションを図ることが重要になるのである。つまり、重要なのは、他国の理解であり、コミュニケーションである。しかし、アメリカは、イラクに戦争を仕掛ける前に、こうしたことを十分出来ていれば、戦争を避けられたかも知れないのに、そういうことをしてこなかった。そういう教訓があれば、イスラエルによるレバノン侵略戦争にも、シリア・イランを引き込んで、早期解決を実現できたかも知れないというのに、そうはしなかった。ラムズフェルドやボルトンなどのネオコン一派を切り捨て、中東に詳しい新国連大使を選んだブッシュ政権は、ようやく、転換を図ろうとしているところなのかもしれない。

  脇道にそれた。私学と公立の差異は、担当部局が、前者が地方自治体、後者が市町村教育委員会と分かれていることが背景にあるような気がする。制度的に欠陥があるのではないだろうか? そういうことも含めて、教育の見直しが進められるべきだろう。教育再生会議の議論もなんだか出てこなくなり、安倍総理も教育再生というスローガンだけを叫んでいるような感じで、教育論議が低調になってきているような感じがする。

 自民党の中川幹事長は、50%程度の内閣支持率は高い方だと思っているようだが、ベクトルが下向きなのである。自民党議員のスキャンダルは、今度は衛藤議員の迂回献金疑惑が出るなど、止まりそうもない。安倍内閣の政権基盤がぐらついているのは確かである。公明党が、日本版ホワイトカラー・エグゼンプション(残業代ゼロ制)に明確に反対するや中川幹事長はじめ自民党から通常国会での法案提出慎重論が噴出した。このままでは新教育基本法は「死に体」化し、教育改革は頓挫する可能性が高い。

 自分たちに都合良いことしか見られない右派・保守派は、自分たちの足下が崩れているのに気付かない。『産経』ばかりか『読売』までが、目立たないように、左傾化しているの気付かずに、これらの「偽の友」に寄りかかっている。くわばらくわばら。

  1月9日付・読売社説
[日本の選択]「新『教育改革』の元年とせよ “ゆとり”との最終決別を」

 ◆深刻な学力の低下

 2007年は、教育改革を大きく前進させるべき年だ。

 制定以来初めて改正された教育基本法は、新しい日本の教育理念を示した。「教育の目標」の中で、幅広い知識と教養、道徳心、公共の精神、国や郷土を愛する態度などの涵養(かんよう)をうたっている。

 関係法令や学習指導要領が、これに沿って改められ、様々な教育施策の制度設計も具体化する。

 問題は改革の方向性だ。まず文部科学省が示すべきは、「ゆとり教育」との最終的な決別の姿勢だろう。

 1977年の学習指導要領改定で、戦後初めて、授業時数の削減と教育内容の精選が打ち出された。「詰め込み」「知識偏重」教育への批判が高まっていたころだ。

 授業時数が1割、教育内容が2割減った。02年度からの指導要領では、さらに教える内容が3割も減らされている。

 その結果は、経済協力開発機構(OECD)など二つの国際学力調査結果が示す通りだ。日本の小中学生の学力は、世界のトップ集団から脱落してしまった。

 「学力低下」の批判を受け、文科省は軌道修正を繰り返している。教科書の内容を超える指導を可能にしたり、文科相が学校向けに、宿題や補習を奨励する談話を出したりしている。

 だが、政策の誤りが明白となった「ゆとり教育」への反省、決別の言は、いまだ国民の耳に聞こえてこない。

 そんな中、「美しい国」づくりを目指す安倍首相が、政権の目玉として創設したのが「教育再生会議」だった。

 首相や官邸主導の教育改革は中曽根内閣の臨時教育審議会、小渕~森内閣の教育改革国民会議以来である。文科省と中央教育審議会による“官製改革”とは、ひと味違う提言が期待された。

 「すべての子どもに高い学力と規範意識を身につける機会を保障するため、公教育を再生する」。首相はそう言ったが、現実の道のりは険しいようだ。

 ◆学校5日制でいいのか

 月内に出される第1次報告は、昨年末に公表された骨子案を見る限り、具体性に乏しく、メッセージ性も薄いものだ。素案にあった「ゆとり教育見直し」という文言も削られている。

 事務局に出向した文科省幹部や、与党文教族議員などの意向があるのだろう。だが、それで再生会議の議論が骨抜きにされてはなるまい。首相が、もっと積極的に会議を主導していくべきだろう。

 取り上げるテーマが、文科省や中教審の路線を出ていない、という批判もある。存在感を一層高めるためにも、教育を取り巻く社会状況なども視野に入れた大局的、横断的提言が必要になろう。

 報告に盛り込まれる「学校の授業時数の増加」などは、まさにそうだ。これを国民的議論が起きるような形で提言するにはどうすればいいのか。

 「土曜授業の復活」も一策だ。現行の「学校週5日制」から「週6日制」への15年ぶりの回帰である。

 5日制は80年代半ばの臨教審答申に登場し、導入論が盛り上がった。日教組も強く要請した。92年から月1回、95年からは月2回の試行が始まり、02年度から公立学校で完全実施されている。

 「子どもが家庭や地域社会で過ごす時間を増やし、自ら学び考え、生きる力をはぐくむ」のが目的だ。土曜日に生活体験、社会体験、自然体験などをさせる。そのための「受け皿」作りと大人の意識改革が求められた。

 それがどうだろう。環境は整わない。土曜の身の置き場がない。塾に行き場を求める親子、朝からテレビゲームにかじりつく子が増えた。

 もともと私立の小中高校の半数は5日制にそっぽを向いている。私立との学力格差を危惧(きぐ)する公立高校でも、土曜日に補習をするところが急増した。

 「土曜授業を復活させれば、授業数を増やしても子どもの負担は小さくて済む」「総合学習を土曜に集中してやる方法もある」。教育学者からも、そんな意見が聞かれ始めた。

 文科省幹部も言う。「嫌なら教師は土曜日、学校へ来なくていい。教員志望の学生や教員OB、地域の人たちの力で学校を再生
 
  ◆市場原理は不要だ

 最近の教育政策をめぐる論議には“市場原理”が見え隠れしている。

 政府の規制改革・民間開放推進会議は「教育バウチャー」や、学校選択制の全国一律導入などについて議論してきた。後者は最終答申に盛り込まれた。

 学校間や子ども同士、適度な競い合いで切磋琢磨(せっさたくま)することは必要だ。だが、過度の市場原理の導入は、教育というものの本質を混乱させかねない。

 さらに教育委員会の要・不要論、教員免許更新制の性質にまで口をはさむが、経済的な規制緩和という観点から論じる問題だろうか。

 「子どものため」の教育再生。それが大前提である。(2007年1月9日)

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『産経』が文化力だって

 『産経新聞』社説がこんなことを書くと、なんだが『産経』らしくないと感じてしまう。
 
 『産経』と言えば、安全保障・軍隊の力・軍事力の強化を繰り返し訴えてきたからである。それが、文化の力で地域再生を目指せと主張するのだから、まるで『産経』は、左翼にでもなったかのようである。これまで、武力外交路線・武力を背景とした外交に対して、話し合い外交・文化外交を強調してきたのは、左翼だからである。文化の力を強調してきたのは左翼の方であった。
 
 この社説は、格差問題とりわけ都市と地方との格差を是正する手段として、これまでの公共事業に頼るやり方に疑問を呈し、地域に残る伝統を再生して魅力を高め、そういう文化の力で、企業誘致を進めるべきだと提言する。その一例として京都の取り組みを紹介している。京都では、京都商工会議所が、京都検定を進めるなどして、京都ブランドを高めることで、人や企業を京都に引きつけたという。京都は、1990年代に、京都駅改修をはじめ、高層建築の制限を緩めたことがあった。そのために、他の都市と変わらない高層ビルが視野を遮る無味乾燥な都市になりつつあった。それが、ここ最近はビルの屋外広告規制を強化する対策を打ち出すなどして、他の都市とは違う京都特有の景観を守る姿勢を強化した。
 
 それに対して、大阪の場合を従来型の否定的な都市再生策の例としてあげている。大阪の場合は、重厚長大型産業育成が優先され、それによって、井原西鶴、近松門左衛門以来培ってきた「文化的薫り」を希薄にしてきた。今ようやく、上方落語の専門寄席の「天満天神繁昌亭」がオープンし、賑わっているなど、上方文化の再生の機運が高まりつつある。
 
 社説は、「大阪府は補助金によって企業を呼び戻そうとしているが、このように、都市の文化的魅力を増すことで人や企業を引き寄せることも考えるべきだ」という。構造改革派は、能力主義・成果主義を基本にし、コスト・利便性重視だったが、文化力という人に満足感や生への充実感を与えるものは切り捨てられてきた。文化を享受するには、ゆとり、教養、人間関係、環境などの充実が必要である。地域の文化の魅力によって、人が集まり、そこでの生活の満足感が生まれる。それを感受することで、人々の充実感が増大する。そこから、生き生きとした発想、新たな知的創造力が生まれる。ということだろうか? 
 
 ただ、知的創造性の育成というのは、実は中曽根教育改革路線の基本であった。それは、知識産業の育成という国家プランと結びついていたのであり、「ゆとり教育」もそうした狙いがあったのである。「ゆとり教育」否定、学力主義・能力主義を強調してきたこれまでの『産経』の主張はどうなるのか?
 
 民俗学者宮本常一が、新潟県山古志村の過疎対策として、伝統の闘牛の復活と民俗資料館をつくることを提案し、実現したが、田中政治のばらまきに頼るようになって、それらはあまり歓迎されなかった。ところが、新潟県中越地震からの復興の核として闘牛が復活した。「文化力による地域再生を求めた宮本の先見性を示している」と社説は評価する。そして、最後に、団塊の世代に、「時間の余裕ができるこの世代が伝統文化に目を向け出すことは間違いない。そうした動向も敏感に捕らえながら、地域づくり、ひいては国づくりを行っていくべきだろう」と期待する。団塊の世代には、すでにこうしたところに目を向けている立松和平氏などがいる。
 
 『産経』が、ここで、注目しているのは、大企業が中心の日本経団連ではなく、中小企業が多い商工会議所のことであり、それだけ地域に依存しているところのことである。もっとも、90年代以来、中小企業は先を争って、中国に進出するなどしていて、そういうところは、地元地域との関わりは薄れてきているようだ。それでも多国籍化している大企業よりは、地元に根づいている。日本経団連の「御手洗ビジョン」を読んでも、こういうことがまったく出てこない。イノベーションがどうしたとか、いきなり国家共同体だ愛国心だという話で、身近に感じられるものがないのである。文化力の育成には、教養・共同体的人間関係・社会関係が必要である。それらがなくては、文化を伝承していくことができないからである。
 
 御手洗ビジョンには、それらを破壊するイノベーションということが基本に据えられていて、こうした領域を尊重するとか育てるとかいうことがまったくない。安倍政権にもそれがない。『朝鮮新報』は、安倍総理が、皇室典範改正論議を止めたりしたことで、あたかも日本全体が右傾化しつつあるような社説を載せているが、これはまったく的はずれである。実際に、安倍政権がやろうとしていることは、文化の破壊であり、明治の伝統・文化・共同体の破壊の近代化のやり直しである。この『産経』社説も、その路線の範囲内でのものにすぎない。
 
 それでも文化力をこれだけ高く評価したことは、「左翼」化と呼んでもいいようなものだ。文化力を外交に結びつけることは、現憲法の基本理念に合致するし、とりわけ9条の思想に合致するのである。もちろん、『産経』は、安全保障の要としての軍事力、外交の背景としての軍事力の保持・強化、9条改憲、日米同盟強化という思想をこれからも強調するに違いない。ここではこの社説を強引に「左翼」的に読んだだけかもしれないが、安全保障論議では、空中戦になりがちであるのに比して、やや土俵が下がったかなと思ったのである。つまり、大企業寄りではなく、中小企業寄りだなという感じである。

『産経新聞』【主張】文化の力 伝統見直し地域再生を

 ■人や企業を引きつける街へ

 昨年は「格差」がしばしば問題となった。個人の間の格差ばかりでなく、中央と地方との経済格差は、国会などでも議論の的となった。

 確かに、景気が回復基調となり「いざなぎ超え」となったここ数年についても「恩恵にあずかっているのは東京とその周辺だけ」という声は強い。しかし、どう格差を是正するかについての国や地方自身の取り組みには疑問に感じられることも多い。

 ≪公共事業だけなのか≫

 道路特定財源の見直し問題で、一般財源化を主張する政府に対し、与党の自民党から「地方つぶしだ」という強い反発が出たように、依然として道路づくりを地方活性化の核にする発想が根強いように見える。道路をはじめ公共事業に税金をつぎ込んで地方経済を活性化する一方、インフラ整備で企業を誘致する、というのが一貫して変わらない政策なのである。

 こうした公共事業偏重の姿勢が、福島、和歌山、宮崎と続いた官製談合に結び付いたことは否定できない。果たして地方を活性化し、格差を是正する道は公共事業しかないのだろうか。ここに京都の実験例がある。

 言うまでもなく、京都は今、年間5000万人近い人が訪れる日本一の観光都市である。しかしその一方で、京セラをはじめ任天堂、島津製作所、村田製作所など、抜きんでた先端技術を持つ企業が軒を並べる一大ハイテク都市ともなっているのだ。

 京都は京都大学などハイレベルな大学をいくつも有する。大学と提携することにより、企業が高い技術を蓄積していったということもある。だがそれだけでなく、京都の経済界が率先して京都の「文化力」を高めていった結果であることも忘れてはならない。

 全国的な「ご当地検定」のはしりとなった「京都検定」を始めたのは京都商工会議所だった。昨年の1月、百人一首に関する資料などを一堂に集めた「時雨殿」が嵐山にオープンした。これも、同商議所やハイテク企業などが「小倉百人一首文化財団」をつくって設立にこぎつけている。

 こうした試みは、観光客をこれ以上増やすためではない。京都の文化的ブランドを高めることで、優れた企業や技術者をこの街に呼び込もうというものなのである。

 ≪上方文化再生の機運≫

 これに対し、隣の大阪府は依然として企業の流出に悩まされている。むろん日本の産業構造が変わったことが大きい。しかし、大阪が重厚長大型の経済発展を果たしてきた中で、井原西鶴や近松門左衛門以来培ってきた「文化的薫り」を希薄にしてきたことと無関係ではあるまい。

 その大阪でも昨年、戦後絶えていた落語専門の寄席として「天満天神繁昌亭」がオープンするなど、伝統的な上方文化を再生させようという機運が高まっている。天満天神繁昌亭は上方落語協会が中心となり企業や市民の寄付で建てられた寄席で、9月の開館以来予想を上回るにぎわいを見せ、ほかの芸能にも刺激を与えている。

 大阪府は補助金によって企業を呼び戻そうとしているが、このように、都市の文化的魅力を増すことで人や企業を引き寄せることも考えるべきだ。

 京都や大阪のような大都会ばかりではない。それぞれの町や村にも伝統的な文化が息づき、あるいは眠っているはずである。

 民俗学の泰斗、宮本常一を描いた佐野眞一氏の『旅する巨人』によれば、宮本はかつて新潟県の山古志村(現在長岡市に合併)から過疎脱出のためのプランを求められた。そのとき宮本は村に伝わる闘牛の復活と民俗資料館をつくることとを提案したという。

 2つとも実現はしたものの、地元出身の田中角栄元首相流補助金政策にならされていた村民からはあまり歓迎されなかった。しかし新潟県中越地震で大打撃を受けた後、復興の核として地震で途絶えた闘牛が再度復活した。文化力による地域再生を求めた宮本の先見性を示しているといっていい。

 今年からいわゆる「団塊の世代」が定年を迎える。時間の余裕ができるこの世代が伝統文化に目を向け出すことは間違いない。そうした動向も敏感に捕らえながら、地域づくり、ひいては国づくりを行っていくべきだろう。(2007/01/07)

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今年の経済界のおかしなこと

 経済3団体の新春パーティーのニュースを見てわかることは、すでに、夏の参議院選挙が始まっているということである。あいさつに立った安倍総理は、景気回復の実感を広く行き渡らせるための賃上げを経済界に訴えた。そして、その声に応えて、財界人の一人は、最低賃金が低すぎるので引き上げるべきだと述べた。竹中元総務大臣は、消費税を引き上げなくても財政のプライマリー・バランスの目標達成は可能だと述べた。いづれも、安倍自民党の外野からの応援の声である。日本版ホワイトカラー・エグゼンプション導入は、通常国会での実現は見送られそうである。
 
 なにせ、支持率低下中の安倍政権であるから、さらなる支持率低下につながりそうなことは、できるだけ避けたいのである。とはいえ、新年早々、松岡農相にスキャンダルの陰がさしている。安倍内閣の顔ぶれをみると、スキャンダルを抱えていそうな者がずらりと並んでいて、次々とそれが出てきそうである。小泉前首相は、族議員を古い自民党と呼んで、かれらを排除し、かれらと闘う姿勢を示したので、比較的こうしたスキャンダルは大臣からは出てこなかった。ただ、本間スキャンダルは小泉内閣時代からのことであり、タウンミーティングの「やらせ」問題も、そうである。ただ、小泉政権時代には、それらは暴露されなかったというだけである。
 
 日本経団連は、いわゆる「御手洗ビジョン」というのを出している。御手洗氏は、ちょうどレーガン時代にアメリカにいて、レーガノミクス旋風の吹き荒れる様を体験したという。そこで、それまでのアメリカでのインフレとアメリカ経済の衰退を立て直したレーガン・ブッシュ共和党政権の政策に感心したという。そして、それをなぜか、バブル崩壊後の日本の姿を重ね合わせて、その処方箋として採用すべきだと考えたという。それが構造改革であり、イノベーションというスローガンで主張する。それは単に科学技術のみをさすのではなく、社会や国家など全領域にわたる全般的改革を意味するという。
 
 「御手洗ビジョン」は、実に壮大なものであり、同時に空疎なものである。それは、まず最初に、日本の現状についての二つの基本的な態度を挙げている。一つは、「弊害重視派」であり、所得格差や都市と地方の格差の是正を重視し、改革を止め、税や社会保障などの所得再配分政策を強化し、公共事業を拡充しようという立場である。もう一つは、「成長重視派」である。「成長重視派」は、改革を徹底し、経済成長の成果によって、グローバル化と高齢化からの弊害を克服するという。日本経団連は、「成長重視派」に立つと公言する。
 
 そのために、経済・社会システム、教育、憲法までイノベーションすると壮大な構えを明らかにしているのだが、具体論になると、中身がとたんに抽象的になって、なんだかよくわからないのである。
 
 それがよく現れているのが、愛国心のくだりである。まず、共同体認識が、まったく空疎である。国家=共同体と漠然と思っているらしいが、それは、歴史的にみて、まったく部分的で、一面的である。少なくとも、企業共同体や官僚共同体やNPO共同体などなど、共同体にもいろいろな内容とレベルがあって、それを国家共同体のみに限定するのは、経済界が、国家を自分たちの共同体だと思っているからである。ところが、この間の教育基本法をめぐる議論で明らかになったのは、多くの人にとって、まず共同体といえば、郷土のことがイメージされるので、それと国家共同体の愛国心の間には、大きな違いがあることを感じているということだ。共同体といっても、日本経団連とその他の人々の間には中身に大きな違いがあるのである。日本経団連は、きちんと本音を具体的に言わないで、こんな空疎な表現にしかしない。
 
 そして、公徳心なるものの基礎としての愛国心を強調するのだが、日本経団連参加企業で、いろいろな企業不祥事が起きたのではないか? それはそれらの企業に愛国心がないせいなのか? だから、企業や行政が日の丸を掲げることを求めるのだろうか? 「御手洗ビジョン」は、共同体は共通の価値観に基づくという。そうではない。かつての日本の共同体は、複数の神仏信仰が共存する複数価値観の共同体であった。そんなことも知らないのは、御手洗氏がアメリカ暮らしが長すぎたせいだろうか? 他方では、多様性を強調もしていて、これらがどう折り合いがつくのか、理解に苦しむ。
 
 平等論については、機会平等のみを平等とし、結果平等は悪平等という平等観を強調している。その根拠は、なぜかソ連などが結果平等を追い求めたために官僚制社会になって行き詰まったという空想である。ソ連などでは、ノーメンクラツーラと呼ばれる特権官僚層が形成され、結果不平等が生まれ、それに対する人々の不満が爆発し、「改革」派が多数に支持されたので、体制崩壊したのである。御手洗氏は、ベルリンの壁が多くの民衆によって壊される映像を見なかったのか? それとも、体制を打倒した民衆の力を直視できないのか? なぜか、ソ連などの体制崩壊をシステム欠陥のみに還元しようとしているが、結果不平等も体制崩壊の一因だったことは明らかだ。
 
 そして、90年代の「失われた10年」とインフレ・スタグフレーションに襲われた1970年代のアメリカの情況とを同一視し、同じ処方箋で対処しようとする。90年代の日本では、デフレが問題になっていたし、労働者は過労死が社会問題になるほど懸命に働いていた。そして、リストラで、失業率が上がっていて、企業は、労働力市場で、買い手として優勢な立場にあった。労使協調的な労働組合は、リストラにも協力的であった。どこが、レーガン登場前のアメリカやサッチャー登場前のイギリス病と言われたイギリスの情況と似ているというのか? 全然、現実と合っていないのである。これで、どうやって、現実とマッチした適切な処方箋が描けようか? 「成長重視派」の空想性は明らかである。これは信用できるようなものではない。
 
 ただ、企業業績の回復によって、余裕が出てきたことを反映しているのである。そしてそれをバックに、安倍政権は、参議院選挙での勝利のために、経済界からの援護射撃を求めているのである。結局は、国家=共同体仲間の自民党と経済界が手を組んで、多くの人々をできるだけ安上がりにだまし続ける一芝居を打つことを新年早々に確認し合ったのである。

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林道義氏のフェミニズム批判について

   フェミニズム批判の急先鋒の林道義氏は、フェミニスト=ジェンダー・フリーという等式を繰り返してきたが、その意味がこの文章を読んでよくわかった。要するにそれは、「フェミニストと資本家のいびつな連帯」だということだ。

 ここで、主に右派・保守派の代弁者であるかのように支持されてきた『産経新聞』が、資本家の意向を代弁する隠れフェミニストであり、ジェンダー・フリー派であることを公然化した。それを林道義氏は、12月30日付「正論」での丸尾直美氏のスウェーデン礼賛を「ここまでくると狂信的としか言いようがない」と手厳しく非難した。
 
 林氏は、丸尾氏の主張を、国民が真の男女平等意識に目覚めることで出生率がU字型に回復するというもので、それは、「「ひとつは、職場、家庭、社会で男女平等の意識に目覚め、伝統的男女の地位と役割が共働き時代に即して変わること」、二つ目は子育て期の女性のニーズに答える政策を取ること、三つ目は雇用が改善すること。この三つが同時に起こらないとダメだということである」というものだという。
 
  林氏は、とくに第一の点について、日本での男女役割分担の意識が根強いために不可能だろうとしている。しかし、NHKの討論番組では、1970年代に比べて、かなり意識が変わってきていることが指摘された。興味深いのは、日本と韓国での男女役割分担意識が似ていたことである。林氏は、八代尚宏氏のようなクリスチャン学者が、フェミニズムと経済界を繋いでいると述べているが、それはこのような男女役割分担意識が、儒教に基づいていることの現れだということを示しているのかもしれない。しかし、儒教道徳が薄れつつあるのも事実であり、むしろ、やはり戦後の生活給型賃金体系の残存によるところが大きい。

 林氏は、八代氏のような「左翼クリスチャンは、女性たちを資本主義的な搾取の手の中に送り込んでも、少しも良心の呵責を感じない。その証拠には、八代氏は、内閣府の労働市場改革などに関するシンポジウムで、正社員と非正規社員の格差是正のため正社員の待遇を非正規社員の水準に合わせる方向での検討も必要との認識を示した。今までは正社員一人で一家を養うことができたが、例えば正社員である夫の待遇を非正規社員に近付ければ、結局は妻が働かざるをえない状況になる。」という。
 
 私の知る「左翼クリスチャン」は、ホワイトカラー・イグゼンプションに反対し、労働者の待遇悪化に反対している。だから、正社員の待遇を引き下げろという八代氏のような人物が左翼クリスチャンと呼ばれているのを理解できない。
 
 氏は「彼がもし本来のマルクス主義経済学者であるなら、これほど露骨な労働者いじめの提言はできないであろう。しかしフェミニズムを錦の御旗に掲げるクリスチャンならば、なんら矛盾を感じないで無邪気に、資本家階級に都合のよい労働政策を提案できる。クリスチャン左翼がいかに共産主義的フェミニズムを使って資本家に奉仕しているか、明らかである」という。ずいぶんややこしい想像をするものだ。本当のマルクス主義経済学者なら、もちろん労働者いじめの提言などしようがない。フェミニズムを掲げるクリスチャンでも、パリサイ派を「まむしの末」と非難したキリストの言葉の意味を知るものなら、労働者いじめの提言などできようがない。どうもこのへんは、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の倫理』を下敷きにしているようだ。

 本来のマルクス経済学者なら、労働者いじめに反対なばかりではなく、賃金制度そのものに反対であり、それを言わない八代氏の提言などに賛成できるわけがない。氏のいう「左翼クリスチャン」が、共産主義的フェミニズムを利用して資本家に奉仕しているとすれば、それは、「左翼クリスチャン」が悪用しているだけで、共産主義的フェミニズムにその責任はない。共産主義的フェミニストの代表的イデオローグとみられている上野千鶴子氏は、ジェンダー・フリー思想を批判している。
 
  そして氏は、「丸尾氏も同じ穴のむじなであろう。スウェーデンは福祉国家という名の一種の社会主義国家である。それを丸尾氏のような経済学者が礼賛し、それが結果として資本家の労働者搾取を正当化しているのである。育児や介護といったものを国(税金)にやらせ、女性を労働力として搾取すれば、資本家にとって好都合である。資本家が目指しているのは、夫婦を共に低賃金で働かせ、育児や介護のために莫大な税金を払わせる社会である」という。なるほど、これは、資本家のジェンダー・フリー思想の狙いとしては正しい。つまり、スウェーデンのような福祉国家は、社会主義国家ではなく、実際には、資本主義国家だということだ。それは資本家ジェンダー・フリー派の理想国家だから。

 最後に氏は、「このようにして、フェミニズム経済学が「資本家の労働者搾取」を正当化しているのである。そしてフェミニストと資本家の協力関係こそ、健全な家族を破壊へと導いているのだ。フェミニズムという一種の共産主義が、資本家に都合のよいイデオロギーとして利用されるという、この屈折した関係を見破らないかぎり、健全な家族を守ることは不可能である」という。
 
 フェミニズムには、「資本家の労働者搾取」を正当化する一派があるのは確かであり、20世紀初頭頃には、すでに共産主義フェミニストはそれと自らを区別して、独自の潮流として登場していた。ローザ・ルクセンブルクとドイツの女性運動やロシアのコロンタイなどである。資本家的フェミニズムは早くから潮流として存在していて、その中の自由主義的フェミニズムは、一方では女性資本家の誕生を促進し、同時に女性労働者を労働市場に多く引き出すことを促進している。最後の「健全な家族」というのが、林氏と共産主義では違っている。自由主義的フェミニズム・ジェンダー・フリー思想が、資本家による労働者搾取の一層の拡大・強化にすぎないという点で一致するだけである。林氏の主張は、儒教道徳や儒教的家族観・男女役割分担意識の社会的経済的基盤が大きく変化しているのに対して、無力である。
 
 そして、氏の言う「健全な家族」というのが、家父長制的核家族でしかないのである。なるほど家族内に、共有財産があって、その処分権が家長にあるという形は、アメリカのように婚姻前に家族財産の持ち分をあらかじめ契約で定めておくという私有制が徹底しているような形ではなく、共産主義的である。つまり私有制・資本主義が完全に浸透しきっていない領域としてある。しかし、それは、日本でも、すでにとりわけ都会において多く崩れつつあって、離婚に際しての大きな問題点としてあげられ、離婚数も多くなったことからも、アメリカ型の婚前の夫婦財産持ち分の契約制導入の検討が進められているところである。
 
 いずれにせよ、マルクス経済学者にとって、この問題で重要なことは、社会経済的に家事・育児が持つ社会的地位が、生産が持つそれと対等になることである。

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中間層主義の『朝まで生テレビ』

 新年あけましておめでとうございます。
 昨年中は、思いの外、多くのアクセスをいただきありがとうございました。
 今年もよろしくお願いします。

 『朝まで生テレビ』での司会の田原氏の混迷ぶりが目立ってきている。それは、氏が言う現実なるものが、一面的であり、単純化されていることによるものである。
 
 例えば、何でも反対するという野党に対して、それをなんら現実を動かす力がないと決めつけているが、これは暴論であり、言論の力を否定するものである。野党が、国会その他において言葉で宣伝することによって世論に訴え、世論が動いて、それによって自民党内にそれに影響される個人が増えることで、ある政策を修正したり、止めたりすることができるのである。イギリスのイラク反戦運動の高揚はイラク反戦世論を増やしたし、それは、労働党内のイラク反戦派・慎重派に力を与え、それによって、閣内でのブレア批判にまで繋がった。そしてついに、ブレアの早期退陣に追い込んだのである。
 
 第二に、彼は、外交力を軍事力を背景とすると信じていることだ。そして、外交が、国益を実現する国家意思を外国に押しつけることだと考えているのである。例えば、今、北朝鮮に対して、核開発を止めさせるために、多くの国が外交を行っている。しかしそれは、6大国が核を独占する主権不平等のNPT体制を守るためである。それは、形式的に世界の主権国家全てが平等であるとされながら、同時に、一部の国々が特権を許されているという戦後の不平等な世界体制を容認し前提している。世界の不平等を容認することは、理念として正しいのだろうか? 世界平等を理想とするなら、全ての国が核を放棄するか全ての国が核を持てるようにするか、どちらかを理念として主張すべきだろう。
 
 そうはいっても、アメリカは核を放棄しないし、その他の核保有国も自発的に核を放棄する可能性はきわめて少ない。だから、核の不平等を容認するのが現実的だというのは、あまりにも皮相であり懐疑主義的である。アメリカにも、フランスにもイギリスにも反核運動があり、一定の支持者が存在する。なるほど、かれらの力はまだ全体を規定するまでにはいたっていない。しかし、それをもって、核放棄を非現実的だというなら、今後、世界に核が拡散するのも現実的だとして容認せざるをえなくなるだろう。それが核戦争の危機を近づけることはいうまでもない。
 
 憲法9条問題では、もっとはっきりしている。9条は理想論で、自衛隊という軍隊が存在するのがそれと矛盾しているから、自衛隊という軍隊を容認するように憲法9条を書き換えるのが現実的だというなら、この世には、格差や不平等があるのが現実だから、平等の理念は、現実に合わせて変えるべきだということも言える。かくして、憲法は、社会や現実が目指すべき理想や理念ではなく、現実を正当化するものになろう。すると、その社会は、理想や理念を失って、前進後退の基準を失うだろう。つまり、それは理念そのものを捨てることに繋がるのである。それに人々は耐えられるだろうか? 私は、その方が非現実的で、無理だと思う。すでに国際貢献活動が自衛隊の本来任務にする法改正が行われており、それを憲法に記したところで、すでにやっていることを憲法に記すだけだからである。自衛隊の任務などが変わるたびに、いちいち改憲することが、現実的とは思えない。
  
 安倍総理は、年頭会見で、改憲論議を活発化し、改憲を目指すと言ったが、自民党は改憲論議を事実上放棄しているし、小沢民主党の方も、解釈改憲で、自衛隊の海外派遣は可能だという見解を出している。
 
 ばかばかしいのは、宮崎とかいう評論家の主張で、健全な中間派なるものを育てるということを、健全な改憲という基準に主張していることだ。健全な中間派なら反改憲である。アメリカで、民主党躍進に貢献した中間層は、イラク撤退派であり、反戦派である。それは日本なら、反改憲派に当たることは子どもが考えてもわかることだ。そして最後に、安倍に期待しないという反安倍が圧倒的に多かった電話アンケート結果を見て、田原氏が、右翼が多いと言ったコメントは完全に的はずれである。右派の期待を集めた安倍政権の支持がないということは、世論の右傾化を意味していないことは明らかである。左翼はなるほどそんなに多くなってはいないが、最低期からはずっと盛り返しており、今年の運動の準備をすでに着々と進めていて、それを実現する実力を蓄えている。
 
 それに対して右派は、『産経』が、グループの扶桑社による運動介入、藤岡信勝氏の教科書執筆者からの除外やジェンダー・フリー思想の公然化、公明党が骨抜きにした教育基本法改「正」の肯定的評価などを通じて、右派の「偽の友」であることを自己暴露してしまったように、内部争いが激化し、細分化し、力量低下が続いている。日本教育再生機構(八木秀次理事長)などの大同団結的習合が試みられているが、あんまりばらばらすぎて、わけのわからない烏合の衆と化している。鳴り物入りで行われている民間タウンミーティングも、地方都市で、200だのという規模で、運動の破綻は隠しようがない。かれらが期待する安倍政権は、ぼろぼろだし、石原東京都知事も、集中砲火を浴びている。
 
 興味深いのは、昨年、6月15日安保デーと10・21国際反戦デーに集会デモを行ったかつての安保闘争の闘志を中心にした反改憲運動で、今年はすでに3月の日朝連帯集会デモを皮切りに、6・15安保デーと10・21国際反戦デーに東京・大阪・京都で大規模集会とデモを年間スケジュールとして組んでいる運動である。参加目標を千単位に据えて、昨年から準備を始めていて、計画性が高いのである。ベテラン勢の経験と智恵と格差社会化で下層に追いやられている若者の行動力がうまくかみ合えば、大きな運動となる可能性がある。
 
 こういう動きが小さいからといって非現実的というのは皮相な見方である。どんな大きな動きも、こうした小さな動きから始まるのである。なるほどそれはいつでも何でも成功するとは限らない。しかし、田原氏も、ここ数年、護憲派が増えていることを認めている。その動きは、森本氏が言うように、やがて、右派対左派という構図に発展するかもしれない。現状ではまだ左翼は小さい。しかし、そのベクトルは安倍政権とは逆に上に向いている。いくら、宮崎が、中間派を独立の大勢力としようとしても、中間層が分解して、細っているし、ホワイトカラー・イグゼンプション制度が導入されれば、さらに細ることは明らかだから、時代の趨勢になることはないだろう。アメリカでも、中間層は、ブッシュ政権の政策で分解し、落ちてきたのである。面白いのは、出演者の多くが、イデオロギーに違いがあるものの、中間層の立場に立っているという点では共通していたということである。そうした意味では、田原組なのである。田原組的なものの地盤沈下がここ数年で進んできたことが、この番組で明瞭にわかったことである。

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