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2007年2月

25日『毎日』の西部邁氏の文章の批判

 25日の『毎日新聞』に、西部邁氏の文章が載っていた。

 ひどいものだ。「戦後の悲哀を映す一族」というタイトルの氏の文章は、「棺桶に片足を入れる段となると、その足に最も強い筋肉が付着していた頃、自分が大学キャンパスを訳もわららずに欠けていた様子を苦い気分で思い出す」と書き出している。60年安保闘争がターゲットにした岸信介の孫の安倍晋三が総理大臣になったから、祖父と孫との関係が、自分の人生の鏡にどう映っているかを凝視せざるをえなくなったというのだ。

 西部氏は、岸内閣から阿部内閣までの50年史が、自分の50年史にどう映ったかと考えているわけだ。そんなに自分がかわいいかと言いたくなる。とにかく、西部氏の自我に映さないとこの50年の歴史も無意味だと言いたげだ。別に、誰も西部氏に50年史を凝視すべきだと強制するわけではなく、凝視することを選択したのは西部氏自身である。それを「凝視せざるをえない」などと言うのは、レトリックである。岸の孫がたまたま50年後に総理になったからといって、それと自分史を重ねてみる必要など別にない。ただ、西部氏がそうしてみたくなったというだけだ。

 その自分史の青年時代の安保闘争と全学連・共産同との関わりを、訳もわからずに駆けめぐった苦い思い出として語るあたりは、第一次共産同の崩壊過程の訳のわからなさを反映していると言えるかもしれない。しかし、それを単なる一青年の若気の至りというような自分史に持っていこうとするのは、あまりにも無責任というものである。体験自体は、個人に残るものではあるが、同時に、何万何十万という人々が、ブントと全学連の闘いに注目し、参加し、共同でそれを体験したのであり、その過程で、ブントと全学連が主張したことは、資料として残されており、それは後まで多くの影響を与えたのである。

 それが、当時蔓延していた「平和と民主」という観念が気に入らなかったという個人的理由はいいとしても、「平和よりも争闘を、民主よりも孤立を好む青年たちがこの世には若干いるもので、彼らは「革命と自由」という対抗的な観念に勝手に身を焦がして、当所なく走り回っていたのだ」と一般論で安保闘争を片づけるのは、許し難いことだ。当時の資料を見れば、ブント全学連が、「平和と民主」という領域についても、それなりの主張を立てているし、全学連自体が、クラス討論と自治会選挙という民主を基盤に成立していたものであるし、平和・反戦闘争をも闘っていたことは明らかである。西部氏は、自身の属した東大での自治会選挙で不正があったとする告白をしているが、それが例外的な事態であるのかどうかについては言及していない。しかし、全学連の学生・若者たちが、「革命と自由」を夢見て、訳もわからず走り回っただけだというのは、あまりにもロマン主義的すぎる解釈だ。

 何よりも問題なのは、アメリカ流の平和と民主を破壊し、孤絶することが「私の情動」と述べ、「「革命と自由」の果てに何が何がやってくるのか、若く愚かであった私には、具体的には何一つ展望できてはいなかった」と述べていることである。1959年11月27日の国会突入闘争で、国会内集会を勝ち取った全学連が、1960年6月15日の新安保条約成立阻止に向けた闘いにおいて、自壊の道をたどったことについては、いろいろな見方があるのだが、「安保をつぶすか、ブントがつぶれるか」という島書記長の言葉に象徴されるように、次の具体的な展望がなかったという「若さと愚かさ」があったのは確かであるが、それに矮小化することはできない。三分解した三派のうち、戦旗派とプロレタリア通信派からは、革共同へ移行する者が多数出た。革命の通達派は、ばらばらになったが、後に、この系統からマル戦派が生まれ、ブント再建6回大会を主導することになる。西部氏は、都学連副委員長として、60年安保闘争を指導した立場であって、単に個人的情動によって動いた私人という立場ではなかった。ただ、一次ブント解体の過程が、自然発生的に個人化するような傾向があって、それぞれが勝手に引いていったり、革共同に移ったりして、自然消滅していったような感じに見えるということはある。ただし、戦旗派は組織ごと革共同に移っていった。

 次に、西部氏が気づいたのは、「真の革命は「古き良き価値」を新しい情況のなかに「リ・ボリューション」(再巡)させることだ、と少しずつわかっていった。真の自由も、「古き良き秩序」を自分の確保すべき道理の事由だとみなして、不確実な状況において選択しつづけることだと了解した」ということである。問題は、「古き良き価値」とは何かであり、「古き良き秩序」とは何か、ということである。いずれも価値判断が必要であり、取捨選択する基準が具体的になければならないものである。

 西部氏は、「アメリカ的なもの」は価値基準にならないという。というのは、「アメリカ的なもの」は、個人主義的左翼であって、「壮大な社会実験として社会を設計する」という左翼流儀であるからであるという。冷戦は、左翼内での個人主義派とソ連流派との左翼同士の内部抗争であったという。

 岸は、ソ連流左翼には敵対したが、アメリカ流左翼への敵対心はあまりなかったという。それに対して、半世紀後の岸の孫は、「日米両国は”自由と民主“という基本的価値を共有している」と宣するほど、戦後民主主義、アメリカ左翼的価値観に染まりきっている。それにもかかわらず、戦後レジュームの転換をスローガンにしているのだから、安倍政権がぐらぐらするのも当然なのである。矛盾していても平気なのだ。そのことは、西部氏が、「祖父も孫も、自国の国柄に帰還することと、「壮大な社会実験として社会を設計する」という「美国」(つまりアメリカ)の(構造改革に典型をみる)左翼流儀のあいだで、股裂きに遭っている。敗戦日本の哀れな運命がこの一族に投影されているということなのだろう」と指摘している。なるほどと思いもするが、しかし、「自国の国柄に帰還する」のを阻んで、「壮大な社会実験として社会を設計する」ことを推進しているのは、資本主義であり、それを暗に左翼主義と呼んでいるのかもしれないが、そんなレトリックを使うのではなく、正面から、資本主義批判をやればいいことだ。イノベーションは、安倍政権と財界、アメリカの掲げる基本概念になっているが、これこそ、国柄の保守を許さず、「古き良き価値」「古き良き秩序」を破壊し、それへの安住を妨げているものだ。それを新しい情況の下で再巡させるだの、不確実な情況において選択し続けるだのと言っても、空文句にしかならないのである。あとは、ちっぽけな「私」への拘泥、私の情動、自分の鏡の凝視、私への孤絶(孤立)、孤独、そして自分以外のものの破壊の夢、等々である。社会的なもの、共同体的なもの、他者、社会諸関係、等々はどこにある? 

 自己の内面を凝視すること、それは、ロマン主義的な態度であり、実存主義的な態度でもある。それに対して、自我滅却を無の凝視によってなそうとする仏教の修行は、「自己をならうは自己をわすれるなり」という道元の言葉にあるように、自我を存在とする見方を錯視として退けるものだ。西部氏は、『国民の道徳』で、民主の起源としてギリシャのポリス国家をあげているが、それ以前の共同体、氏族社会、原始社会などまで遡れなかったことは、やはり氏が西洋的なものにとらわれていることを表しているように思われる。一方で超歴史的な一般的な言い方と歴史的に限定されるべき言い方とを混在させているのは、保守主義の言い方の特徴でもありそうだ。それは小林秀雄にもあるからだ。例えば小林のモーツァルトは歩き方の達人だという文章があるが、これは、モーツァルトは幼い頃から何度も旅行しているので旅慣れているということを、モーツァルトの天才性を表しているかのように見せるレトリックである。60年安保闘争が、アメリカ流の「平和と民主」に対抗する「革命と自由」を求める争闘好きで孤独を愛する超時代的に存在する一類型の少数の若者の運動だったなどというのは、その類である。これで保守論客の中心人物だというのだから、保守思想などというのは、大したことないようだ。 

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25日『毎日』の二つのコラムによせて

 2月25日の『毎日新聞』のコラムで、イデオロギー問題が取り上げられていた。

 「文化という劇場:「産む機械」発言で連想? 哲学者や経済学のことば」は、柳沢厚生労働相の「女性は産む機械」発言騒動を見る中で、突然、戸坂潤の『日本イデオロギー』(岩波文庫)を読みたくなったというものである。今時、戸坂潤の本を持っているだけでも希有なことだろうが、それを読みたくなるというのもなかなかないことのように思われる。

 その理由を筆者もわからなかったという。戸坂は、この本で、1930年頃の東京で、核家族化が進んでいることを記して、家族主義を批判しているのだが、戸坂が、マルクス主義の用語で、労働者の休養や食事を「労働力の再生産」と呼び、子育てを「世代間の労働力再生産」ととらえる見方もある」ということから、「産む機械」発言で、この言葉を連想し、それとの関連で戸坂の家族論を想起したというのである。

 しかし筆者は、マルクスが言う労働力再生産というのは、近代資本主義下のことを言っているのであり、それ以前の共同体社会については、共同体そのものの再生産が社会的生産の目的であると言っていることを知らないようだ。マルクスは、資本主義での労働力は個人的生産者を前提としており、その再生産のことを言っているのである。近代経済学の「人的資本」の方は、労働力を利潤生産の要因と見なしているのである。柳沢厚労相の一連の発言は、こういう資本主義的人間観に貫かれているのである。

 筆者は、「つまり社会科学には、結構、人間をモノのように見なす用語がある」ことを指摘するのだが、この次の社会はそうであってはならないというのがマルクスの主張であるから、近代経済学の「人的資本」論と同列に扱ってはならないのである。

 同じ『毎日新聞』記者でも 「鹿笛:柳沢伯夫厚労相の「産む機械」発言が… /奈良」 (ライブドアニュースより)「柳沢伯夫厚労相の「産む機械」発言が波紋を広げた。わが家でも妊娠中の妻が怒り心頭に発し、矛先は最近、奈良県にも向いている。/出会いイベントを提供する県の結婚支援事業が、少子化対策を目的にうたうことが気に入らない。「産ませるために結婚させようなんて、発想は『産む機械』と同じじゃないの」と憤る。/県は県立医大病院(橿原市)に増設する新生児集中治療室を当面30床から10床に縮小すると決めた。「産む産まないは人の自由。その上で、安心して産める環境を整えてほしいのに」と、今度はため息の妻。1県民女性の意見として県の人にも耳を傾けてもらえれば。(中村)」と率直に柳沢発言に怒っている。この人たちは、柳沢的イデオロギーから自由である。それに対してコラムの筆者は、それが半分浸透していて、縛られているのだ。この筆者は、それをうすうす自覚しつつあるのかもしれない。

 文化という劇場:「産む機械」発言で連想? 哲学者や経済学のことば

 柳沢伯夫厚生労働相の「産む機械」発言が大いに物議を醸していたころのある日。深夜に突然、戦前の哲学者、戸坂潤の『日本イデオロギー論』(岩波文庫)を本棚の奥から引っ張り出した。自分でもなぜ読みたくなったのか、訳が分からない。ページを繰るうちにこんなくだりを見つけて、ようやく納得した。

 <(東京市内で小学6年生2万人の家庭を調査した結果は)九割までが両親とその子供だけからなっている純然たる単一家族であって……>

 調査時期は文脈からみて1930年代。一般的な戦前の家庭イメージとは違い、この時期の東京ではかなりの核家族化が進んでいたようだ。戸坂はこれを論拠に、当時の「家族主義者」たちの主張が現実を見ていないと批判している。

 さて、私がこの本を読みたくなった理由はここから。戸坂はマルクス主義に傾倒した人物だ。マルクスは、労働者の休養や食事を「労働力の再生産」と呼ぶ。さらに、子育てを「世代間の労働力再生産」ととらえる見方もある。私は「産む機械」発言でつい、この言葉を連想した。ついでに、戸坂が家族問題を語った一節が頭のどこかによみがえり、それを無意識に確認すべく本を開いたのが、ことの次第である。

 そういえば近代経済学にも、「人的資本」なる言葉があった。「人的資源管理」は経営学の一分野。つまり社会科学には、結構、人間をモノのように見なす用語がある。だからといって、柳沢発言をそれらと同列に扱ったり、ほめたりするつもりは全くないが。

 ちなみに、私も娘1人を「再生産」している。厚労相の言う「健全」な気持ちはあれど、現実の諸事情により2人目の再生産は難しそうである。【鈴木英生】(『毎日新聞』2007年2月25日) 

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ぐらぐら安倍政権

  ライブドアニュースにこんな記事があった。

 先日には、安倍総理は、突然、郵政造反組で衆議院選挙で落選した衛藤氏を今夏の参議院選挙に擁立したいと述べ、それに対して、桝添参議院政審会長が、猛反発し、そんなことをすれば、衆参ダブル選挙以外に与党が勝つ見込みはないとまで述べた。中川幹事長は、あわてて党の団結を訴えた。

 安倍政権は、このところ「鈍感力」を発揮して、世論を逆なですることを繰り返している。深刻なのは、政策の行き詰まりである。在日米軍再編にしても、普天間基地移転が進まない。こうなると、2012年までに韓国に有事の軍事指揮権の完全委譲がなされることになり、相対的に日本の軍事プレゼンスが大きくなることが確実な中で、名護市辺野古の基地強化が進まないことは、米軍再編に悪影響を及ぼす。チェイニー米副大統領が、日本政府との秘密会談を行ったが、そこで、在日米軍再編がなかなか進まないことをなんとかしろと迫った可能性がある。

 教育改革問題でも、自民党教育再生特命委でのニ法案承認は、教育再生会議が5年ごとの教員免許更新を提言したのに対して、10年ごとという文部科学省サイドの主張を支持するなど、後退している。官邸機能強化、総理のリーダーシップの発揮という阿部内閣の方針で作られた教育再生会議の提言が、自民党や文部科学省、中教審などによって骨抜きされていっているのである。

 それに手をこまねいていれば、どんどん閣僚や自民党が好き放題をはじめ、収拾のつかない混乱が拡大していくことは目に見えている。現にそうなりつつあることが下のゲンダイネットの記事に記されている。病弊は外見よりも深刻で、政権崩壊が近いほどであり、たまった矛盾の集積がついには、土台を揺るがすまでになったというのである。官邸スタッフが、「われわれも驚いている。なぜ、急にこうなってしまったのか」と言うほど急速に崩壊しつつある。

 小さな地割れの一つ二つは問題ではないが、放置しておくと、やがて地割れ同士がつながって大きなヒビに発展し、地面から見えないところでもそれが同時に進行し、ついには大崩落を起こす。その段階になったら、ものすごいエネルギーを投じなければ、止めることができない。安倍政権に崩壊をくい止められるエネルギーがあるか? まず「鈍感」では無理だ。しかし、「敏感」ではないし、そうなろうという気がないようだ。格差問題にも、「もし格差というものがあるとすれば」と国会で話しているように、現実を正面から認める気がなく、なんとかごまかそうとしている。地面の小さなヒビは地下の大きなヒビの一部かもしれないのに、それを調べてみようとしないわけだ。

 柳沢発言で、大臣更迭をするどころか逆にかばったこともそうだ。保守派を中心に、大した問題ではないというプロパガンダが流されているが、柳沢氏には、根底に人間を生産機械とする資本主義イデオロギー・思想があって、それが問題なのである。子供を人として、社会的存在として産むと見なすか、機械として産むと見なすかは、基本的な価値観に関わるので、重要な問題である。結局は、こうした思想・価値観は、保守派が重要だという環境政策その他の諸政策にも貫かれていくことになる。

 安倍政権には、前者の価値観を持つ者がけっこういて、柳沢をかばった。御手洗日本経団連会長・キャノン会長もかばった。

 中川幹事長は、平等を強調し格差是正を求める民主党などの主張は、社会主義だと言った。もちろん、それは自分で自分の首を絞めるものだ。中川幹事長は、小泉=竹中路線を引き継ぐ成長路線の主唱者の一人だが、この発言は、社会主義的な守旧派をずらりと並べた安倍政権を批判していることになるからである。それは、内閣と自民党の間もぐらぐらしてきたことを自己暴露しただけだ。崩れ始まったら早いだろう。
 
 安倍政権 あと2カ月までの怪しい雲行きと闇
 
  政局が風雲急を告げている。先週あたりから、にわかに安倍政権がグラついている。

「われわれも驚いている。なぜ、急にこうなってしまったのか」

 官邸スタッフも慌てふためいているほどだ。

 キッカケは、先週末に一気に広まった柳沢辞任論だ。「産む機械」発言のほとぼりが冷めたのもつかの間、「子供2人が健全」だの、「労働者はベルトコンベヤー」だの、相変わらずの失言を続けている。「やっぱりダメだ。予算成立後、代えるしかない」――自民党内から一気に内閣改造論が噴き出してきたのである。

「こうなると、塩崎も代えろ、チーム安倍はみんなダメだ、という話になる。森元首相が『閣僚が首相を尊敬していない』と口火を切り、中川昭一政調会長が『似たような会をたくさん作るな』と塩崎を叱り、塩崎が『おかしいですか』と答えたことまでバクロし、グチャグチャになった。極め付きが中川幹事長の『忠誠心なき閣僚は去れ』発言です。幹事長が居丈高に内閣を叱るのも異例。当然、閣僚からは『幹事長は何様?』の声が出ている。もう政権は末期症状です」(官邸事情通)

 この間、教育への国の関与を巡り、教育再生会議と規制改革会議が真っ向対立するというゴタゴタも露呈。その前には久間防衛相の「米国は間違っている」発言が波紋を広げ、麻生外相の「次はオレ」発言も物議を醸した。6カ国協議では、日本だけがカヤの外に置かれ、何をやってもダメな安倍が鮮明になりつつある。もともと、無能をごまかし、絆創膏でとりつくろってきたガラス細工のような政権だ。ちょっとした亀裂で崩れてしまう。それがにわかに現実になってきたのである。

●安倍の意向をヨソに飛び交う人事情報

「もう党内は、改造しかない、というムードです。その場合、塩崎官房長官更迭は当然として、どこか別の閣僚に横滑りさせて傷つけないようにするとか、後釜には菅総務相を持ってくる案などが公然とささやかれている。柳沢の後任は公明党からとか、安倍首相の意向とは関係なく、人事情報が飛び交っています。コトはチーム安倍の若手と中川幹事長の主導権争いになっている。それだけに、何が起こるか分かりません」(自民党関係者)

 もはや、改造しかなさそうなのだが、政治評論家の浅川博忠氏の見立てはこうだ。

「中川幹事長ら党側は塩崎官房長官らを代えたいのでしょうが、狙い撃ちのような人事をやれば禍根を残す。そう見せないためには、大幅改造しかない。しかし、チーム安倍を総取っ換えすれば、安倍首相の求心力は急低下する。かといって党内バランス重視でやれば、清新なイメージが壊れて、逆効果になる。改造は諸刃の剣ですよ」

 これがプロの常識だ。選挙もないのに通常国会会期中の内閣改造なんて異例中の異例だ。「辞める閣僚がなぜ、予算案の答弁をするのか。国民をバカにしている」(政治評論家・山口朝雄氏)という話になる。あり得ないことが現実論で語られている。そこが末期的なのである。

●「行くも地獄、引くも地獄」という安倍のジレンマ

 おそらく、安倍政権は改造をすれば、ますます、追い詰められていく。改造で人気を挽回するような人材は見当たらないし、むしろ、そこまで切羽詰まっているのか、という見方をされる。

 しかし、このまま改造しなければ、それはそれでジリ貧だ。この内閣の実力はハッキリ見透かされているからだ。

 行くも地獄、行かぬも地獄。自業自得だが、オシマイだ。

「安倍内閣は、社保庁改革、公務員改革、教育再生、憲法改正などを何本もの柱に掲げていますが、どれも有権者の関心は薄い。目玉の『再チャレンジ支援策』もパッとしません。これでは、支持率の回復は見込めませんよ」(浅川博忠氏=前出)

 こうなったのは、結局、小泉構造改革路線を継承しているからだ。自由競争を推し進めれば、必然的に弱者は切り捨てられていく。それなのに、「格差是正」とか取り繕っているのだから偽善だ。それをゴマカすために、「数で勝負」とばかりに改革メニューを提示し、アホみたいに会議を立ち上げ、国民をケムに巻こうとしているのだが、どれも行き詰まっている。その揚げ句が、学級崩壊、内閣改造騒動なのである。

●一気に現実味、「4月ご臨終」説

 こうなると、お坊ちゃん内閣の命運は7月の参院選までに尽きるのではないか。4月には統一地方選がある。福島と沖縄での参院補選もある。4月ご臨終説である。神奈川大名誉教授の清水嘉治氏(経済学)がこう言う。

「安倍首相は中川幹事長に引っ張られ、経済成長を優先させる『上げ潮路線』を突っ走っています。そのせいで労働者の3分の1が非正社員になり、地方も干上がったままです。これで地方選を戦えるのか。安倍首相が小泉構造改革の“負の遺産”にしがみつき、経済政策の転換も図れない限り、地方選や参院補選は、宮崎県知事選の二の舞いになると思います」

 首相官邸は大慌てで、「成長力底上げ戦略構想チーム」とか「子どもと家族を応援する日本重点戦略検討会議」なんて急ごしらえの会議を乱立しているが、見苦しいの一語だ。立正大教授の金子勝氏(政治学)はこう言う。

「日本は6カ国協議でカヤの外に置かれ、安倍首相お得意の拉致問題も八方ふさがり。安倍内閣は、内政でも外交でも完全に手詰まりです。そのうえ、閣僚の忠誠心や閣議での態度が問題視され、首相のリーダーシップまで問われている。結局、この首相の限界が露呈しましたね」

 内閣改造などでごまかさず、首相の首を取り換えないと、自民党は終わりだ。それが分かっているから、最近は麻生外相がその気になり、小泉前首相の再登板説がまことしやかにささやかれている。安倍チャン、ご苦労さまでした。

【2007年2月22日掲載】

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文科省が教育関連3法案の要綱原案を中教審に提示

 文部科学省は、21日、地方教育行政法、学校教育法、教員免許法の教育関連3法の改正案要綱原案を中央教育審議会の分科会に提出した。教委改革では、文科相の是正勧告・指示権限の復活が盛り込まれた。学校教育法改正では、「わが国を愛する態度」を義務教育の目標と規定した。ここに、教育基本法改定の具体化があらわれている。「教員免許法については、十年ごとの免許更新制を導入、更新講習を義務化。教員が適格性を欠くなどして分限免職処分を受けた場合、教員免許を失効させる措置も新たに規定する」という。

 この中で、強く具体性があるのは、教員免許法改定の部分であり、安倍総理の「だめ教師はやめていただく」という方針の具体化である。その狙いがどこにあるかは明らかで、この間分限免職処分を受けた教職員の中には、卒入学式での「日の丸・君が代」強制に反対して処分を受けた教師も含まれる。すでに免職になった人の免許を剥奪することと免許更新制は、考え方が相反する。片方は、教員が適格性を更新し、自己変革することを促進することが前提である。つまり教員が変わりうるということが前提である。ところが、後の方は、一度分限免職処分を受けたら、講習参加もさせないということで、免許を取り直すしか、教員復帰の道が残されないということになる。ところが、規制改革会議や教育再生会議が主張している民間の無免許者の教員への登用拡大で、民間無資格者として、教員に復帰するという道がある。

 安倍総理は、再チャレンジというスローガンを掲げているが、分限免職処分者に対する再チャレンジはどうなるのだろうか? 制度というのは、こういう類のことが多く、片方で前に進めと言いながらもう片方ではブレーキを踏んでいるようなことが多い。だから、それらはいつかぶつかってしまって、にっちもさっちも行かなくなるのである。分限免職処分は、行政処分であって、解雇とは異なる体系に属している。他方で、無免許者の教員登用拡大は、民間の要求であり、その体系からの発想である。それぞれからいいとこどりして、拾ってきて法案をつくろうとするから、こういうことになるわけである。

 文部科学省は、教員免許を持った教員に行政的に対処しているわけで、その枠内で考えている。本来なら再チャレンジを掲げる安倍総理は、リーダーシップを発揮して、民間の要求を優先するか文部科学省の発想を優先するかを決めなければならない。前小泉総理は、そういうやり方だった。民間に立つと決めたら、それに反対する者はすべて抵抗勢力として押さえ込んだ。民間の無免許者が多数教壇に立っている状態を想定すれば、無免許教員の資質の向上はどうするかという課題があることは明白である。解雇してしまえば終わりだということでいいのかどうかなど、この議論は、民間で活躍した人は、教員として適格性があるという楽観的な想定にもとづいている。民間からの無免許教員が、学校で問題を起こしたらどうなるか? 等々。

 しかし、今最初の課題とされているのは、文部科学省の権限強化、愛国心の押しつけ強化、教員処分・管理の強化などであり、喫緊の課題であるいじめ対策などの現場が抱える重要課題への対策などはどっかに行ってしまった。それが人々の関心と離れていることは言うまでもない。やはり住民の教育に対する要求に鋭く反応できるような地域での独立した教委が必要であり、公選制の上で、権限強化する必要がある。文部科学省が上から都道府県の教育長人事にまで介入することには問題がある。

 それにしても、こうした文部科学省の教育関連3法案の基本的な考え方を見ても、小泉政権が、ぶっ壊すと叫んだ「守旧体制」は、堅固に生き延びていたことは明らかである。だましもいい加減にしろと人々が怒る必要がある。ただでさえ「鈍感」な安倍政権は、そうでもしないとますます「鈍感力」に磨きをかけて、数の力に物を言わせて、次々とへんな法律や制度を次々と強行採決しようとするかもしれない。しかし、『鈍感力』が強すぎれば、選挙で厳しい審判を受けることになることは間違いない。目の前の選挙を控えた石原東京都知事は、「敏感」になって、自民党推薦を断ろうとしているではないか。 

 地方教育行政法 文科相、教委に指示権限 教育関連3法 中教審に要綱原案(2007/02/22『北海道新聞)

 文部科学省は二十一日、地方教育行政法、学校教育法、教員免許法の教育関連三法の改正案要綱原案を中央教育審議会(中教審)の分科会に提示した。教育委員会改革をめぐり焦点となっている地方教育行政法の改正案要綱原案は、教委に対する文科相の是正勧告・指示の権限を盛り込んだ。学校教育法改正案の要綱原案は「わが国と郷土を愛する態度」を「義務教育の目標」として規定した。

 昨年十二月成立の改正教育基本法や、政府の教育再生会議の提言などを踏まえた内容で、文科省は三月上旬までの答申を中教審に求めている。ただ、地方教育行政法改正案の要綱原案について地方代表委員から「地方分権改革に逆行」との異論があり、このまま最終決定するか不透明。残る二法の要綱原案は大筋で了承される見通しだ。

 地方教育行政法改正案の要綱原案は、教育再生会議の提言通り、文科相の教委に対する是正勧告・指示権限を盛り込んだほか、都道府県教委の教育長の任命も文科相が「一定の関与を行う」としている。現在は都道府県知事が所管する私立学校に教委が指導・助言ができる規定も設けた。

 一方、現行学校教育法は、小学校の教育目標の一つとして「郷土、国家の現状、伝統について正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養う」と規定、中学校はその充実を目標としている。

 要綱原案は、これを義務教育の共通目標とし「わが国と郷土の歴史についての正しい理解、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛する態度、国際理解、国際協調の精神」を育成すると改めた。校長を補佐する副校長、校長や副校長を補佐する主幹を設置するとした。

 教員免許法については、十年ごとの免許更新制を導入、更新講習を義務化。教員が適格性を欠くなどして分限免職処分を受けた場合、教員免許を失効させる措置も新たに規定する。

 安倍晋三首相は三法の改正案の今国会提出を打ち出しており、提出期限は三月中旬。梶田叡一分科会長(兵庫教育大学長)は終了後、「教員免許法と学校教育法は今回の原案でほぼまとまると思うが、地方教育行政法はまだ論議が必要」と話した。

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ソルジェニーツィンvsショスタコービッチ

 ソ連時代に活躍した芸術家にソルジェニーツィンという作家がいる。彼は、ソ連体制を告発した『収容所群島』などの著作で、国内では発禁・弾圧されたが、国外で高く評価されて、ノーベル文学賞を受賞した。

 彼は、ロシア革命時代、19世紀のナロードニキの流れをくむ、エス・エルの支持者であり、ボリシェビキ政権によって投獄され、後に収容所送りになった。その体験をもとに『収容所群島』などの作品が生み出された。日本でも文庫版になっていたが、最近はとんと見かけない。

 他方で、ソ連時代、作品がブルジョア的だと批判され、それに対して、プロレタリア芸術的作品を書くことで、なんとか音楽家生命を保って多くの作品を発表し続けたショスタコービッチという作曲家の作品は、今でも世界中で演奏され続けている。彼の自伝から、表面上は、体制に従うふりをしつつ、作品の中で、体制批判を行っていたということが明らかになった。彼は、「戦艦ポチョムキン」で知られる映画監督エイゼンシュタインの作ったプロパガンダ映画にも曲をつけるなどしていた。戦後復興期に、植林事業を鼓舞するオラトリオ「森の歌」などという曲も残している。

 ショスタコービッチは、後に、交響曲第11番「1905年」を書いて、第1次ロシア革命を作品で描いており、基本的に、ロシア革命を肯定していたと思われる。いわゆる「大祖国戦争」時には、交響曲第7番「レニングラード」を発表して、壮絶を極めたレニングラード攻防戦を描いた。先日、女優の栗原小巻が、ソ連に行った際に、この曲を聴いて涙する人が多かったということをテレビで語っていたが、この曲は、ロシアの大衆の心の奥底にある感情を動かし、深く結びついているのである。映画「スターリングラード」は、独ソ戦の厳しい消耗戦の臨場感が感じられるものだったが、「レニングラード」はそうした戦争体験のリアルさを表現したものなのだろう。

 最晩年には、きわめて自由な境地に達していたようで、交響曲第15番は、自らが影響を受けた過去の作曲家の作品からのテーマの引用があって、形式も自由になっている。ロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」の有名な旋律が突然出てくるのには最初はびっくりする。

 ソルジェニーツィンは、時代の政治状況によって、世界的作家のようにされてしまったが、その作品は、今ではあまり読まれなくなってしまった。その作品は、文学的ではなく、政治的に読まれたのである。つまり、体制暴露文書としての資料的価値において、政治的に評価されたのである。それは、時代的にやむを得ないとしても、彼の作品の文学的価値はどうなのだろうか? という問題がつきまとう。彼は、現在、亡命先から帰国してロシアで暮らしているが、時々、ロシア愛国主義者としての政治的発言が聞こえてくるが、文学作品はもう書いていないようである。『収容所群島』よりも、『イワン・デニーソビッチの一日』の方が、ロシア文学の流刑ものの伝統が色濃く出ていて、文学的だと言う人もいたが、やはり、『収容所群島』は、弾圧された人が何人だとか、レーニンの弾圧指令がどうとかの政治的価値の方が未だに高く見られている状態なのではないだろうか?

 ロシア愛国主義とチェチェン弾圧との関係ということも見なくてはならないだろう。もっとも、『収容所群島』を文学作品として評価するという向きはなく、そこにぷんぷんとにおっている大ロシア主義が、後にどうなっていったかを追求する者もない。『唯物論研究』という雑誌で、スラブ主義の問題を追求した論文を読んだことがある。それに対して、日本の場合には、文学と政治の関係は、追求されてはいる。

 表面上、体制迎合的だったショスタッコービッチの作品が今も世界中で愛され、演奏されているのに、ノーベル賞作家ソルジェニーツィンの作品が好事家か特別な意図を持つ人たちにしか読まれなくなったことを、人民主義者・農民主義者だったナロードニキ支持作家の彼は、どう考えているのだろうか? 作品が大衆に愛されていないというこの現実を。

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25日に中教審答申

 文部科学省の中央教育審議会が、今月25日に答申を出すという。安倍総理は、教育三法案(教員免許法、地方教育行政法、学校教育法)改正案の今国会での成立を目指している。すでに、教育再生会議が、第一次提言を提出しており、中教審答申が出れば、法案化前の手続きに区切りがつくことになる。

 しかし、規制改革会議や地方首長などから、国の関与・権限強化は、地方分権化の流れに逆行するとする批判が出されている。中教審は原則公開なので、審議経過を見ることができる。教育再生会議での議論は、委員によって言うことがばらばらで、結局は、非公開の密室を利用した文部科学省ー自民党文教族の強い介入が行われたことを見れば、やはり原則公開とすべきだ。

 『産経新聞』はかねてより、文部科学省や中教審のあり方に強い不満を表明してきたが、この社説では、「文科相の是正勧告権限については異論が多いが、これは教育委員会の事務処理に法令違反や著しく適正さを欠く場合に限ったものだ。いわば「伝家の宝刀」という意味合いであろう」となぜか文科大臣に是正勧告権限を与えるという国権介入強化を擁護している。法令違反を裁くのは、裁判所ー司法であり、事務処理に著しく適正さを欠く場合というのもあいまいだ。文部科学省は、タウンミーティングでの「やらせ」が発覚し、さらに伊吹大臣は、事務所費疑惑が持ち上がっている文教族の一人である。こういう連中の権限を強化して大丈夫なのか? とは、『産経』は心配しないらしい。「のど元すぎれば熱さ忘れる」ということだろうか? それとも、不正・腐敗に甘いということだろうか? 

 いずれにしても、今の文部科学省のまま、権限強化することは、危険だ。地方教委には、文部科学省からの出向職員がおり、教委の責任という場合には、彼らの権限・責任・職務内容などについても問わねばならない。教委の独立性が奪われてきたこと、住民の方を向いて、住民を恐れるという形の自治機関としての性格が奪われ、文部科学省・上級教委の顔色ばかりをうかがうような上意下達の形骸化した一機関にされてきたことの弊害が出てきているのだろう。

 『産経』は、「悪い例」として、「地方の教育現場では、山梨県教職員組合(山教組)の違法な政治活動で文科省が県教委に処分を要請する指導をしたにもかかわらず、従わなかったケースがある。最近もいじめ調査や学力テスト実施に非協力を指示した北海道教職員組合(北教組)の問題」をあげる。山梨県教組の件では、自民党・保守派の候補者を支援する活動が行われていた。北海道教職員組合の場合、いじめ調査は、それ自体がいじめ解消につながるわけではない。高校必修科目未履修問題では、文部科学省が、情報をつかみながらなんらの行動も起こさなかったということがある。北海道行政が、いじめ調査をしたからといって、それが必ずいじめ解消にプラスに働くとは限らない。『産経』は、行政に協力しなかったこと自体を、法違反的なものだととらえているようだ。しかし、それは道徳的な非難以上のものではない。学力テストについては、私立で参加しないところがいくつもあるし、参加しない自治体もある。強制ではない以上、それに非協力だからといって、マイナスに評価するのは、『産経』の勝手である。『産経』は、労組問題となるとこじつけが多い。

 文部科学省ー自民党文教族の教委改革案を『産経』が支持する理由を「国の権限強化が必要だという背景には、狭い教育界のなかでなれ合うような体質、教育委員会自身が問題を隠すような体質に国民から強い不信感があるからだ。制度見直しは、各地で進む特色ある教育改革や学校づくりを邪魔するものではない。むしろ、支援体制を充実させようというものだ」としている。教委が狭い教育界の上ばかりを見ていることは、教委が住民の代表として住民に顔を向けて説明し、責任を負うという公選制が廃止されたことが大きい。日本では、住民の間に定着しなかったというのは確かだが、行政や国がそれに消極的で否定的であったことも大きいのではないだろうか? 教委への住民参加と住民による監督の仕組みを作ることが必要だろう。教委の問題隠蔽体質に国民から強い不信感があるということから、なんで国の権限強化が出てくるのだろうか? いろいろとわけのわからぬことが多い。

 『産経』は、「旧態依然の審議から脱し」とこれまでの中教審のあり方に不信を示しているが、新しいというのが教委への是正勧告などの国権限強化策だとすれば、それは90年以前の旧態に復すことにすぎないということをどう考えるのだろうか?

 安倍政権は、中川官房長官が、「閣僚・官僚には、首相への絶対的忠誠・自己犠牲の精神が求められる」と「一糸乱れぬ団結」「一枚岩」(スターリンか!)を求めることを強調せざるを得なくなるほど、ゆるみきっている。数が多すぎることは、かえって政党を弱くするようだ。安倍政権の教育改革論議に、教育現場の声、人々の声が反映されていない。もっと強く、現場の意見が反映されるようにすべきだし、聞くべきだ。
 
  教育論議:「国の関与」めぐり地方との対立再燃(『毎日新聞』2007年2月18日)

 安倍晋三首相が教育関連3法の今国会改正を指示したことを受け、文部科学相の諮問機関、中央教育審議会(中教審)は、早ければ25日の会合で答申の大枠を固める。首相は焦点に浮上した教育行政への国の権限強化に前向きとみられるが、05年の国と地方の「三位一体の改革」に続き、教育を巡る国と地方の対立が再燃している。【竹島一登】

 「国が教育の基準を示して地方が実施する。中教審もそういう流れの議論ではなかったか」

 16日の中教審の会合で、地方代表の石井正弘・岡山県知事はこう指摘し、小泉内閣の三位一体改革への反論として中教審がまとめた05年10月の答申の再確認を求めた。

 三位一体改革で、全国知事会など地方側は、国の関与の廃止や義務教育費国庫負担の全廃を提唱。政府が議論を委ねた中教審は、自民党や文科省の反対論を背景に、2分の1の国庫負担率の維持を答申した。国庫負担率は政治決着で3分の1に引き下げられたが、中教審答申は国の権限強化には触れず、むしろ義務教育を実施する市町村の権限拡大など、分権の推進をうたっていた。

 政府の教育再生会議が提唱した国の是正勧告・指示権は、地方分権への「逆行」(規制改革会議)との批判が強い。これに対し政府・自民党は、いじめ問題の深刻化や学習指導要領が守られなかった履修不足を例に「最後の責任を取るには権限が不十分」(伊吹文明文科相)と、99年の地方分権一括法で廃止された国の権限回復が必要との立場だ。

 中教審にも「教育委員会はいじめや学力不足に対応できていない」と国の関与への積極論もあるが、「責任が国になれば問題がなくなるとは誰も思っていない」(中村正彦・東京都教育長)との声もあり議論が真っ二つだ。

 「求められているのは上級官庁でなく市民に責任を持つ教育行政だ」

 16日の会合で、北脇保之・静岡県浜松市長は首長の関与拡大を求め、片山善博・鳥取県知事も予算などを通じた首長や議会のチェック機能の発揮を訴えた。ただ、政府・自民党は昨年の改正教育基本法の審議を下敷きに「首長に権限を委ねる民主党案は国会で否定された」(伊吹文科相)との立場。中教審でも地方の主張に沿って議論が深まる気配はない。

 教育関連3法案の3月中旬の提出期限に向け、首相は国の権限問題について「最後は私が判断する」とトップダウンを辞さない構え。中教審の中心メンバーにも「我々は下請けではない。1ケ月の審議の背後に数年間の議論の積み重ねがある」との声があり、意見集約には曲折がありそうだ。

 【主張】中教審 再生への見識示す議論を (『産経新聞』2007年02月19日)

 教育再生関連3法案の内容を詰める審議が、中央教育審議会で本格的に始まった。実効性はその内容に左右されると言ってもいい。公教育への強い危機感を共有して議論せねばならない。

 審議内容は、教育再生会議の第1次報告を受けたものだ。だめ教師を教壇に立たせないようにする教員免許制度見直しやいじめなど、子供たちの危機に対応できない教育委員会の改革をいかに実行に移すか注目されている。

 教育委員会制度見直しのなかでは文部科学相の是正勧告権限などについて、国の指導権限強化につながると地方から反対意見がある。

 政府の規制改革会議は、地方分権推進の立場から「文部科学省の上意下達システムの弊害を助長することはあってはならない」などとクギを刺す見解を示した。中教審の審議のなかでも「地方の現場を尊重すべきだ」との意見がでている。

 一方で規制改革会議は、短期間に教育改革の道筋をつけた再生会議を評価し、「教委の責任体制のあいまいさ」や「危機管理体制の欠如」などは共通認識を持つと強調している。
文科相の是正勧告権限については異論が多いが、これは教育委員会の事務処理に法令違反や著しく適正さを欠く場合に限ったものだ。いわば「伝家の宝刀」という意味合いであろう。

 地方の教育現場では、山梨県教職員組合(山教組)の違法な政治活動で文科省が県教委に処分を要請する指導をしたにもかかわらず、従わなかったケースがある。最近もいじめ調査や学力テスト実施に非協力を指示した北海道教職員組合(北教組)の問題が明らかになっている。

 国の権限強化が必要だという背景には、狭い教育界のなかでなれ合うような体質、教育委員会自身が問題を隠すような体質に国民から強い不信感があるからだ。制度見直しは、各地で進む特色ある教育改革や学校づくりを邪魔するものではない。むしろ、支援体制を充実させようというものだ。

 政府は3法改正案を今国会に提出する考えで時間は限られる。中教審には学校現場を熟知する専門家も多い。そうした意見も積極的に活用して旧態依然の審議から脱し、国民の期待に応える見識を見せてほしい。

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教委改革論議の迷走ぶり

 阿部内閣は不思議な内閣だ。2月16日付けの『毎日新聞』によると、教育委員会制度改革をめぐって、規制改革会議と文部科学省が対立しているという。文科省は、この問題で、規制改革会議寄りの白石東洋大教授をはずして、元文部科学省事務次官の小野氏に提言をまとめさせた。それで教育再生会議の提言は、教育委員会への国の権限強化を軸とするものになった。国の教委へ是正勧告や指示権限を強化、国が都道府県教育委員長任命に関与、国による教委の第三者評価。それに対して、規制改革会議は、教委の権限の一部の首長への委譲、市町村に対する教委設置義務の廃止、独立機関による教委の第三者評価を主張している。全国知事会は、教育再生会議の提言を、地方分権に逆行すると反発している。それに対して、16日の自民党教育再生特命委員会では、教育再生会議の国の教委への権限強化提言を支持する意見が大勢だったという。その自民党も、党員数が3万人も減った。人々の政治批判は、既存政党批判となって、無党派層が増加している。

 こんな状態で、今国会で、地方教育行政法の改定ができるのだろうか? 与党は衆議院で圧倒的多数だから、法案さえまとまれば、強行採決は可能だが、教育再生会議の提言を元にした法案だと、地方の反発が、参議院選挙にダメージを与えるかもしれない。それに、小泉構造改革路線の継承を掲げてスタートした阿倍政権が、その路線の司令部である規制改革会議の主張を無視するのもおかしい。もともと官邸機能の強化、官邸主導を進めてきたのは、官僚の力を弱めるためでもあったはずだ。ところが、文部科学省が教育再生会議に露骨に介入して、文部官僚に都合のいいような提言を出させたわけで、これが改革の逆行であることは明らかだ。

 阿部内閣の不思議なところは、それでも平然としているように見えるところである。阿倍総理は、次々と何とか会議を官邸に発足させているが、これらも、急ごしらえの思いつきで作られたような感じで、対象もかぶっているものも多く、混乱を拡大しているだけである。中川政調会長は、似たような会議が多いと苦言を呈したほどである。時事通信の最新世論調査では、内閣不支持39・2%、支持34・9%になった。

 教育再生会議では、文部科学省・自民党の教育への国家介入強化路線と規制改革会議・構造改革派の間での党派闘争が激しくなっているようだ。そこには、現場の教育関係者・生徒・親・地域などの姿はなく、かれらはただの記号として流通して、飛び交っているだけである。教育改革は、空しい権力闘争の具と化せられている。これが、もし、現場対文部科学省との権力闘争であったなら、中身のあるそれとなるのだが。しょせんは、これは現場からはるか上空での空中戦である。しかしその結果は、やがて現場に下りてくることになる。いったい、教育委員会とはなんであるのか? 原点にさかのぼった議論が求められていることは確かだ。阿倍総理は、教育委員会が戦後教育の一つの柱であったことをどう考えているのだろうか? それは戦後レジュームの見直しの中で解体されるべきものなのか? それとも、国の行政機関化するのか? 行政からの独立性をどうしたいのか? 総理の考えははっきりしない。阿倍政権が最優先課題に掲げる教育再生も雲行きが怪しくなってきた。

教育再生会議 地方の疑問に答えよ(2月17日『東京新聞』社説)

教育再生会議の第一次報告や提言に対し、地方から異論がでている。文部科学省の権限強化につながりかねず、地方分権に逆行するとの懸念が強い。安倍晋三首相や再生会議は疑問に答えるべきだ。

 全国都道府県の教育委員長と教育長でつくる各協議会が教育再生会議に異例の意見書を出した。

 再生会議の議論を「一部の事象をもって全体の傾向とするなど、一面的なとらえ方が見受けられる」と批判した。正確な現状分析とデータに基づく議論や地方分権に立った議論を求めている。

 特に、再生会議が「法令違反や教育本来の目的達成を阻害していると認めるとき文部科学相は是正勧告・指示ができる」とした教育委改革提言を危惧(きぐ)している。いじめ自殺や高校必修漏れでの教育委の不適切な対応だけを取り上げているからだ。

 二〇〇〇年施行の地方分権一括法で文科相の教育委員会への是正命令権などは撤廃された経緯がある。各地の実情に応じて創意工夫し、独自性を発揮した分権型の教育を目指したはずだ。教育委改革提言は、地方の自立という理念に反する。

 教育委員長協議会の幹部が「地方分権に逆行する」と批判したのは無理もない。全国知事会も「国の統制を強化し、教育行政を後戻りさせかねない」との談話を発表している。

 政府の規制改革会議も「上意下達システムの弊害を助長することがあってはならない」と文科省の権限強化に反対する意見書を出し、異論は広がっている。

 安倍首相は再生会議の報告・提言を基に関連法改正案を今国会に提案するよう指示し、文科相の諮問機関、中央教育審議会(中教審)で審議に入っている。教育委改革を含む地方教育行政法改正は重要な柱だ。

 地方分権を推進するという政府の方針と矛盾しないか、安倍首相はきちんと説明する必要がある。

 今回の意見書は再生会議の公開を求めている。再生会議側は「公開すると真実が伝わりにくい」などと説明しているが、委員の中には「非公開だと意見が反映されない」と反発し公開を求める声もある。インターネットで公開される議事録はきれいに整理されており、議論の微妙な過程がみえにくい。会議から半月たっても議事録が公表されないケースもあり、不透明だとの指摘もある。

 教育の将来を左右する重要な会議だ。透明性を高める努力が必要である。中教審は公開方針を採っていても支障はないといい、これに倣ったらどうか。国民的議論を呼び起こすためにも原則公開が望ましい。

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能力差=格差はおかしい

 10日付『読売』社説は、衆議院予算委員会の質疑が始まったことをうけて、「格差是正の具体策を練り上げよ」と呼びかけた。

 しかし、柳沢厚生労働大臣の「女性は子供を産む機械」という発言を、たんなる失言と呼んでいる。柳沢発言の思想性・イデオロギー性を問わないで、失言の一言でかたづけようという『読売』の姿勢には失望した。

 『読売』は、柳沢発言に現れた思想、能力主義・生産力主義イデオロギーを共有していて、その点が、「代表質問での答弁で、首相は、「能力の違いに目をつぶって、結果平等をめざす社会をつくろうとは思わない」とも述べている。当然のことで、これを基本に具体策を練り上げていくべきだ」とする点に見事に現れている。政府の少子化対策の基本的なイデオロギーは、少子化問題を、将来の生産年齢人口・労働力人口の減少問題としてとらえるもので、労働力確保のための、少子化対策をどうするかという点に基本的観点がある。

 衆議院予算委員会で、答弁に立った柳沢厚生労働大臣の発言を聞けば、それは明瞭である。それに対して、管民主党代表代行の「子供の生産性が低い云々」の発言を批判する自民党議員の質問への高市早苗大臣の回答は、出産・生命の尊厳、崇高さ、リスクの高さを強調し、社会が子育てを支えるような雰囲気作りが必要だというもので、公明党創価学会同様のヒューマニズムにたつものであった。しかし、それは、具体性に欠けている。社会的雰囲気の醸成なるものを訴えるだけでは、どうしようもない。出産の尊厳性・崇高さ・危険性等々が希薄化したのには、医療制度の問題も存在する。今日のシステム化された出産医療のあり方にメスを入れずに、どうやって、それらを社会的に取り戻すことができるだろうか。それに、出産を高く持ち上げれば、今度は、出産できない、あるいは出産しないという女性の生き方をひくめて、「不健全」とする価値観を押しつけることになりはしないか。自民党議員の質問は、管民主党代表代行よりも、それに答弁した出産していない女性である高市早苗大臣を傷つけたのではないだろうか?
 
 首相が、能力による格差は容認し、結果平等を目指さないと述べたことを『読売』は当然だとした。日本経団連の「御手洗ビジョン」もまた結果平等を否定している。しかし、能力に違いがあるということとその結果を合理的に結びつけるものはあるのだろうか? 例えば、百メートル走を早く走れる人とマラソンを早く走れる人との収入格差は、能力の違いの結果なのか? 鉄鋼メーカーの社員と自動車ディーラーの社員との収入格差は、どのような能力の違いによるものなのだろうか? 前者は、国際競争力の高い鉄の生産技術や製造能力が主であり、後者は、販売力が基本である。つまり範囲や条件を限定しなければ、能力は比較できないので、それを一般的に合理的な基準とすることはできないということである。したがって、能力をもとに合理的な結果を計ったり、決定することはできないということである。そこで、これまで経営者たちは、いろいろな手段を使って、それを決めようとしたのであるが、うまくいかなかった。様々な力の総合産物である成果に対して、それを個人能力に帰することは不可能だったわけである。そこで成果主義の見直しが今進められているわけである。ということは、その基礎にある能力主義もまた再審にふされているということである。

 それになのに、『読売』、日経連「御手洗ビジョン」、阿倍政権、柳沢厚生労働大臣たちは、後ろ向きに、成果主義、能力主義、生産力主義、等々にしがみついているわけである。他方では、『読売』は、格差是正が必要であることを訴えているのだが、能力主義を基本にそれをしろというのだから、やりようがない方策を求めているのである。格差是正には、所得再配分策は一定の効果があることは間違いない。しかしその手は、能力主義の観点からは使えない。所得再分配策は、「能力に応じて」ではなく「必要に応じて」分配するというのが基本だからである。『読売』的な考えでやってきた英米で、格差是正が進んだかどうかを見れば、それほどの効果はなく、格差は全体としては拡大しているというのが現実である。「能力に応じて」か「必要に応じて」か、格差是正の基本的な考えを後者におかないと、格差是正は進まないだろう。英米いずれも、格差社会化は、左翼を復活させる基盤を作った。『読売』の言うとおりにしたとすれば、それはそれで、左翼にとってプラスとなるだろう。  

  2月10日付・読売社説(2)
 [衆院予算委]「格差是正の具体策を練り上げよ」

 衆院予算委員会で基本的質疑が始まった。柳沢厚生労働相の失言で、混迷が続いていた国会は、ようやく本予算審議が軌道に乗った形だ。

 質疑での重要な論点の一つは格差問題だった。所得の格差から雇用の格差、企業間の格差、地域間の格差まで、それぞれ「格差」は、どこまで広がっているのか、低所得者やフリーター対策に何がもっとも有効か――。

 与野党は論戦を通じて、格差の実情と、格差是正のための具体的政策を明らかにしていかなければならない。

 格差論争は、昨年の通常国会でもあった。小泉構造改革が、国民の間に新たな「格差」をもたらしたとして、野党が追及した。だが、小泉首相は、「言われているほどの格差はない」とかわして論戦はかみあわなかった。

 自民党の丹羽総務会長は、予算委質疑で、政府の格差に対する「現状認識」をただした。大田経済財政相は、「とくに20代、30代で賃金格差が拡大している」と、格差の拡大を認めた。

 経済学者の分析でも、所得格差の拡大を強調する説もあれば、それほど問題視する必要はない、という説もある。小沢民主党代表は、「日本は世界で最も格差のある国になった」と指摘したが、塩崎官房長官はこれを否定し、その「根拠」を示すよう求めている。

 これでは、国民は戸惑うばかりだ。格差の実態について、与野党は、もっと論議を深めていく必要がある。

 安倍首相は、「景気の回復」と「成長戦略の前進」が、格差是正のための基礎になるとの認識を示した。経済が拡大することにより、非正規雇用が減り、正規雇用が増えることなどを例示した。

 だが、ワーキングプア(働く貧困層)対策や最低賃金法改正の内容などについては、十分な説明がなかった。

 代表質問での答弁で、首相は、「能力の違いに目をつぶって、結果平等をめざす社会をつくろうとは思わない」とも述べている。当然のことで、これを基本に具体策を練り上げていくべきだ。

 政府は、格差対策にあたる「成長力底上げ戦略構想チーム」を始動させた。だが、大田経済財政相は、「人材能力の開発」「公的扶助を受けている人のうち、就労を希望する人の就労支援」「中小企業の生産性の向上」など3項目を挙げるにとどまった。政策の中身がまだまだ生煮えだ。

 「格差是正」ばかりを強調する民主党への対抗を急ぐ余り、拙速で実効の乏しい政策になっては意味がない。じっくりと腰を据えて取り組むべきだ。

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ふたたび柳沢発言について

  柳沢厚生労働省大臣の「女性は子供を産む機械」発言をめぐって、国会での野党の追求が進んでいる。加えて、「子供を二人以上持ちたいという健全な情況」発言も追求されている。下のライブドア・ニュースに載ったJ―CASTの記事は、今度は、民主党管直人代表代行の「子供を産む生産性が低い」という発言を公明党が批判していることを取り上げている。

 管氏の発言は、愛知県知事選挙の際の名古屋での応援演説の中で出たものだという。それに対して、公明新聞が、管氏もまた「女性は子供を産む機械」のようにとらえているとして、柳沢発言を批判する資格がないと書いている。

 公明党では、女性議員たちが、柳沢辞任を求める主張を始めていて、特に、創価学会婦人部に強い影響力のある浜四津氏は、不快感を露わにした強い口調で、柳沢辞任を要求した。それに対して、太田公明党代表は、党としては、内閣の方針を支持するが、議員個人の発言は容認すると述べた。暗に、柳沢辞任を阿倍政権に突きつけたのである。きわめて池田創価学会名誉会長に近いとされる太田代表としては、公明党の現場の実働部隊として圧倒的な力を持つ創価学会婦人部の意向には逆らえないということなのだろう。多数世論が、柳沢発言に批判的なのを見て、これからの選挙を考えて、この問題で、多数世論を代表する姿勢を鮮明にすることで、創価学会婦人部の選挙活動の士気を損なわないように配慮しているのだろう。

 管代表代行の発言は事実とすれば、確かに柳沢発言と同様であり、人間を生産する道具、機械としてとらえているものである。そしてそれは、財界、政府、阿倍政権に共通する思想を表すものである。財界では、「御手洗ビジョン」に明らかである。したがって、これは、野党・与党を問わず、経済界から政界に蔓延している思想の一部であり、命題であって、なるほど、この記事が言うように、言葉狩りではすまされない広がりのある大きな問題である。

 問題は、この記事が拾ってきたコメントが、問題を矮小化し、考えること、分析すること、判断することを避けているものばかりだということだ。もし、それが、このような思想を内面化していて、無意識にこのような発言を支持しているとしたら、相当深くこのイデオロギーに洗脳されていることになる。

 J―CASTニュースのHPの記事をざっと見ると、政治関係・政治論議をまじめに取り上げた記事が見あたらない。日常的に、国会で扱われているような政治問題について、きっちりと取り上げ、分析し、評価するという記事がないのである。そういう訓練をしていないと、政治問題についての正しい判断力は育たない。だが、そういう態度がないのである。どうやら、ここは、産業情報・経済問題が中心のところらしい。確かに、産業情報・経済関係の記事は充実しているようだ。しかし、政治関係については、便所の落書きレベルだという評があるように、低レベルである。これは、話題づくりのための記事であって、HPに人を呼び込むための広告的役割をこの領域の記事に持たせるという策のためかもしれない。とにかく、世間で騒ぎになっている話題に飛びついて、それを面白おかしくちゃかして、注目を集め、本来の経済・産業情報記事の方に誘導しようということである。

 最後の「「国語力が十分でない」政治家同士の抗争に「もううんざり」と感じている人は多そうだ」というコメントは、ネット内の一部の意見にこびていて、発言の本質に切り込んでいくようなジャーナリスト魂が感じられない。これは、商売としての記事ではないだろうか。ネット内では、ここもそうだが、柳沢辞任を強く要求しているところもいろいろある。記事は、国語力の不足という柳沢氏自身の釈明を支持しているようだが、それは怠惰であり、政治に対する無理解を表している。おそらくそれには、経済主義イデオロギーが無意識にまで浸透していることがあるのだろう。政治関連記事と経済関連記事の内容の違いにそれを感じる。

 だとすれば、この記者が柳沢発言と管発言に共通する機械主義的人間観・経済主義的人間観を共有していることになる。だから、それの批判に広がりかねない今の国会論戦自体を「もううんざり」と避けようとしているのだろう。それは、そうした自己のイデオロギーを批判され、反省を迫られることになるからである。そうでないなら、いくらこの問題で激しい論戦が繰り広げられても、痛くもかゆくもないはずで、こんな過剰反応することはないだろう。柳沢発言は、今の支配的イデオロギーの表現であるから、阿部内閣は、意固地になって、柳沢をかばっているのだろう。財界ー御手洗日経連会長が阿倍政権の方針を援護したのもそういうことだろう。おそらく、財界は、管発言もかばいたいだろう。

 これは、たんなる言葉狩りの問題ではなく、今日の支配的イデオロギーに対する思想上の階級闘争の問題をはらんでおり、阿倍政権・財界の人間観や価値観を暴露したものであり、それと多数の人々との対立に発展する可能性がある問題であろう。そうでなければ、選挙や内閣支持率低下のことを考えれば、柳沢罷免・辞任はプラスに働くはずだが、そうしないということは、柳沢発言に現れたイデオロギーが、意地でも守るべきものだという判断が働いているのではないだろうか? それは与党や民主党にも浸透しているイデオロギーであり、それが露骨に人々の前に出てきた時、おぞましいものを感じる人が多かったということは、人々の多くが「健全」であることの証左であろう。

菅の「産む生産性」発言 柳沢批判の資格あるのか
「産む生産性」発言への言及は民主党HPにはない   柳沢伯夫厚生労働大臣の「女性は子供を産む機械」「子供を2人以上もちたいという健全な状況」といった発言が民主党などの野党に厳しく追及されているが、今度は公明党が、民主党・菅直人代表代行の「子供を生む生産性が低い」との発言を猛烈に批判しはじめた。「言葉狩り」とまで揶揄され始めている民主党の追及だが、今度は同じく「言葉狩り」で逆襲された格好だ。

公明が猛烈に菅氏批判始める
   公明新聞は2007年2月7日、次のように菅代表代行を批判した。

「菅氏は、愛知県知事選が告示された1月18日に名古屋市東区で演説を行い、『愛知も東京も経済がいい。生産性が高いといわれるが、ある生産性は、一、二を争うぐらい低い。子どもを産む生産性が最も低い』(1月19日付「朝日」名古屋地方版)と述べたという。この発言は、子どもを産む崇高な行為を経済的な生産と同列視したもので、菅氏もまた、女性を“子どもを産む機械”のように認識していることをはしなくも露呈している。菅氏はその後、厚労相の件の発言を、鬼の首を取ったように取り上げ、政府・与党批判を繰り返しているが、菅氏にいったい批判する資格があるのか」
   さらに、07年2月8日のTBS系情報番組「みのもんたの朝ズバッ!」には、公明党の松あきら衆議院議員が出演し、「男性議員のなかにはこういう(菅氏のような)考えの方がたくさんいらっしゃることが残念でございます」と発言するなど、公明党も菅氏追及に乗り出したかたちだ。

   これについて、民主党はJ-CASTニュースの取材に対し、「党事務局としては、コメントすることはない」と返答。07年2月8日午後に行われた記者会見では、「そういう発言があったのか」という質問に菅氏は答えず、「本会議の議事録に私が発言したことの趣旨が書いてあるのでそれを読んで欲しい」と答えるだけ。

「産む生産性」は菅の「お決まり」の言葉だった
   なお食い下がる記者には、

「そのときの表現が、一字一句どうなっていたのかというのは、率直に申し上げて私が喋った全部、言葉尻までは覚えていませんから。少なくとも趣旨は、地域について申し上げたんです。生産性が高い、景気のいいといわれる地域が、出生率の点では低いところが東京など含めて多いということを申し上げました」
   と、「覚えていない」ことを明らかにしただけだった。
   ちなみに、菅氏は山陰中央新報の個別インタビュー(06年8月掲載)でも「少子化問題でも、生産性が高い東京が、子どもの生産性は一番低い」などと答えており、「産む生産性」は菅氏の「お決まり」の言葉だった可能性が高そうだ。
   同日の記者会見では、

「『柳沢発言』の大きな問題性は、多くの国民の皆様には相当程度、私たちの行動には共感いただいたと思っている」
   とまで熱弁していた菅氏だが、なんとも恥ずかしい「結末」になりそうだ。
   もっとも、J-CASTニュースが2月5日「橋下徹弁護士 『柳沢擁護』に熱弁」でも報じたとおり、「言葉狩り」に終始する国会運営については、「共感」するどころか「疑問」の声が多く上がっているのも事実だ。

国語力不足同士の抗争に「もううんざり」
   Q&Aサイト「教えて!goo」での「産む機械発言、どう思われますか?」という質問にも、

「そんなに騒ぐことかな?というのが私の本音ですが…」
「もちろん発言自体は頭にくることですが、それを鬼の首でもとったように騒ぎ立てることの方がもっと後ろ向きで腹立たしいです。何とか辞任においやって、自分達が後釜に座ろうという魂胆みえみえで」
「くだらない・・・騒ぎすぎ野党さん、大人げないよ。ニュース見てると消したくなる」
「政治家にはもっと議論すべきことがあると思います。一つのことに拘りすぎです」
   と「そんなに騒ぐことなのか」といったコメントが大半だ。
   柳沢大臣は07年2月7日の衆院予算委員会で、

「私の国語力は十分ではないので、また何かを言うと新たな波紋を呼ぶ」
   と発言したが、「国語力が十分でない」政治家同士の抗争に「もううんざり」と感じている人は多そうだ。

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右派保守派の人材不足を露呈した記事について

 ライブドアニュースにこんな記事があった。

 一見、公平に柳沢問題についての論調を拾っているようだが、完全に「右」に偏っている。それは、ついこの前までは目立たなかった。というのは、全体の人々の意識が「右」に寄っていたからである。ところが、最近では、人々の多くの意識が、少なくとも「中道」ぐらいになってきている。それで、「右」が、普通を装うことが難しくなってきているのである。

 まず、橋下徹弁護士は、別に「柳沢擁護」に限らず、体罰問題でも、従来から「右」よりの発言を繰り返してきた人物で、あるテレビ番組では、改憲を支持して爆笑問題の太田光と激論になっている。政権よりの発言も何度もしており、いわば確信犯である。橋下弁護士は、柳沢発言について、全体を読めば、「女性は子供を産む機械だ」と言いたかったわけではないと解釈したそうだ。この引用自体が、テレビでの短い発言の一部を取り出しただけだから、全体の文脈との関係で彼の発言意図を正確に反映していないかもしれない。

 柳沢発言はたとえが差別的であり、女性蔑視であることは疑いない。そして、その問題発言が、少子化対策を担当する厚生労働大臣であることが、大臣に的確か否かという罷免・辞任要求につながっている。たとえが、それを聞いている人に共有されていないなら、たとえにもならない。つまり、聴衆が「女性は子供を産む機械だ」というたとえに共鳴し、共感していなければ、たとえとして使えない、あるいは、使いづらい。理解されないからである。ところが柳沢大臣は、なぜか、このたとえを使えば、聴衆が講演内容に共感し、理解されやすくなると思ったようだ。しかし、同時に、そうはならない。つまり、目の前の聴衆が、「女性を子供を産む機械」とは思っていないので、かえって理解を容易にできない比喩であり、さらに言ってしまった後に不適切な比喩だったと気がつき、あわてて発言を取り消した。この経過から、本人自身が、このような比喩は、不適切だという自覚があったのは確かである。そう自覚するなら、自らが厚生労働大臣にふさわしいかどうかを自分で判断できるはずだ。自ら辞任すべきである。

 橋下弁護士については、これまでの数々のテレビでの発言を見れば、他人の国語力を批判できるほどの国語力などもっていないことは誰の目にも明らかである。弁護士は、ほとんど暗記力だけに偏った能力の持ち主であって、別に思考力や判断力や思想性や人格が高いというわけではない。それに橋下氏は、そのことを自覚しているらしく、それを認める発言を自らしている。だから、娯楽番組的なのりで言っているにすぎないし、そう受け取るのが普通である。それをさも立派な発言でもしたかのように拾ってくるとはおかしなことだ。

 つぎに大月隆憲の書いたことを持ち出してくるが、この人物は、「新しい歴史教科書をつくる会」に参加したことのある札付きの右派であって、最初から反フェミニズム思想の持ち主であり、そういう特定の位置から言っているのである。おまけに、今、大月が何を言うかなどということを気にしている人は、ごくごく少数だ。

 次に桜チャンネルでの女性の発言だが、ここは右派が集まった右派メディアであって、幽霊信者などの右派新興宗教の信者だのが巣くっているところだ。教祖が女性スキャンダルを起こしたり、信者から金を巻き上げて金ぴか大御殿を建てて贅沢三昧の腐った生活をしていたり、手をかざせば病気が治るなどと人をだまして高い金を巻き上げたりしている者が巣くっている場所なのだ。

 その後の真鍋かおりや西川史子だのが、この手の問題にまじめに答えられるような人間でないことは、多くが知っている。

 最後にネットから、橋下弁護士の言ったということとそっくり同じ命題を繰り返すブログからの引用をつけている。保守派・右派と自民党支持者あたりが、対策として作り上げた反論文があって、それをコピーしながら増幅させて、世論を誘導しようとしている気がしてならない。しかしだとしてもその政治的狙いは、多数をとらえていないことは、昨日の共同通信の世論調査の結果にはっきりと示されている。柳沢擁護の右派・保守派で使えるのが、これらの嫌われキャラの有名人しかいないということは、人材の厚みがすでになく、人材不足であることを示している。

 もっともこの記事の書き出しは、「大臣発言を擁護する声も、少しずつ出てきている?」と?マーク入りで、こういう右の論調もあるよという書き方ではあるが。 

 橋下徹弁護士 「柳沢擁護」に熱弁

 大臣発言を擁護する声も、少しずつ出てきている?   「女性は子どもを産む機械」などと発言し、「女性蔑視だ」「政治家以前に人間失格」などとバッシングされている柳沢伯夫厚生労働相について、「問題だが、少し騒ぎすぎではないか」という見方も出てきている。さらに、2007年2月4日のテレビ番組では、橋下徹弁護士が「(柳沢大臣は)『女性が子供を産む機械』だと言おうとしたわけじゃない」と、柳沢擁護とも取れる発言をして話題になっている。

 「全体の論調はごく普通の内容」と主張
 
  今や「女の敵」どころか「日本の恥」など「国賊」扱いされている柳沢大臣だが、橋下弁護士はTBS系の番組「サンデージャポン」でこう熱弁した。

 「比喩としては問題あるかもしれないが、『女性が子供を産む機械』だと言おうとしたわけじゃない。生まない人、生めない人のことを何も批判している言葉でもないのに、皆が(柳沢大臣の発言を)逆手にとって『生めない人は欠陥なのか!?』、とか、国語力がそんなに日本国にはないのか!」
 
  橋下弁護士は柳沢大臣の今回の発言全体を調べ、全体の論調は「ごく普通の内容」であり、一部分だけを取り上げるのは誤りだ、と主張しているわけだ。
 
  民俗学者の大月隆寛さんも橋下弁護士と同意見のようで、07年2月4日の産経新聞のウェブのコラムで、

 「前後の脈絡すっとばして片言隻句を揚げ足取りして騒ぎ立てるメディアの手癖も恥知らず丸出し。ましてや、その尻馬に乗って女性議員たちが一斉に文句つけるありさまには、いやもう、心底萎(な)えました」
と野党とメディア批判をしているのだ。
   騒ぎすぎではないか、という意見は女性にもある。

 「品格に欠ける発言だが、くだらない問題ですね。野党が批判して辞任要求、そんなことをやってる前に国防含めて国会でやることがあるだろう。メディアも騒ぎすぎで、すごい幼稚な気がします」(ジャーナリストの大高未貴さん。スカイパーフェクTVの日本文化チャンネル桜の番組「報道ワイド日本」 07年1月29日)
これまで大きな問題になるのか、とビックリ

 「全然気にならなかったんですけど。これまで大きな問題になるのか、とビックリして。問題発言ではありますが、そんなこと本気で思っている人いないですし。気にならないと言うか、相手にしなくっていいんじゃないかと」(タレントの眞鍋かをりさん。フジテレビ系「とくダネ」07年2月1日)

 「私達は何とも思っていないのに」(医師の西川史子さん。TBS系「サンデージャポン」07年2月4日)
   ネット上のブログを見ても、柳沢大臣への批判だけでなく、こんな意見も出ている。

 「初めから『問題視させるための報道』である臭いがプンプンすることを考えれば、文字通りには受け取らない方が良さそうだと私は思った。またこれに反応しているのが、社民党の福島さんやら『自称女性と弱者の代表』たちなので、余計疑わしいと思ってしまったのだが(苦笑)」

 「たとえをちょっと間違えただけで、ここまで批判されるか?大臣だから、発言の責任ってのは重いとしてもだよ。全文読んだら、言ってることは普通のことでしょ。マスコミも野党も、あげ足取りのような気がしてならないんだよねえ」

批判の大合唱だけ、というのとは情勢がちょっと変わってきたのかもしれない。(2007年02月05日)

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北九州市長選・愛知県知事選挙結果によせて

 春の統一地方選・夏の参議院選挙の前哨戦として注目された政令市の北九州市長選と愛知県知事選挙は、前者が民主党・社民党・国民新党の野党が推す候補、後者が自民・公明が推す現職候補、が勝った。いずれも投票率が高くなった。選挙民の関心が高まった選挙となった。とりわけ、愛知県知事選挙は、事前予想で、現職圧勝と見られていたが、野党候補が猛追し、僅差にまで持ち込んだ。それには、柳沢厚生労働大臣の「女性は子供を産む機械」という発言が追い風の一つになったとみられる。それが、阿部内閣の支持率低下につながっていることも、共同通信の最新電話世論調査で明らかになった。柳沢伯夫厚生労働相が「辞任すべきだと思う」と答えた人は58・7%。柳沢氏や久間章生防衛相の米国批判など閣僚の問題発言に首相が「適切に対応しているとは思わない」とした人は74・7%」で、おおよそ、先日書いたとおりの世論が示された。

 そして、与野党対決型の選挙になったことで、有権者の関心が高まり、投票率を引き上げたことが、北九州市長選での大勝、愛知の僅差につながったと見られる。それによって、北九州で終盤に巻き返しをはかった創価学会の組織選挙が無効化されたようだ。投票率が低ければ、結果は違っていたかもしれない。

 この結果について、『読売』社説は、先日とは違って、柳沢発言の影響が出たと評価し、野党の審議復帰を促している。やはり、投票日前の強い調子の民主党批判は、与党候補への援護射撃であったようだ。結果が出てしまったので、今度は、穏やかな調子に戻っている。柳沢発言に対する世論の厳しい見方が示されたことも影響しているのかもしれない。やはり多数世論を、新聞業者としては、無視するわけにはいかないのだろう。

 野党に追い風が吹いているのがはっきりした以上、与党としては、統一地方選・参議院選挙までに、それをたつためになんらかの手を打つ必要があることが明らかになった。早期の内閣改造という声が党内から出ているようだが、柳沢大臣をかばう態度を鮮明にしてしまった阿倍内閣としては、いまさら罷免することもできない。しかし、危機感を強める参議院側の不満が強まるだろう。

 野党は、この追い風で、内部結束を固め、野党共闘を強めるだろう。小沢代表の求心力が強まるだろう。さらに、これまで女性の支持が弱かった民主党が、女性票をのばすチャンスが拡大したことだろう。それには、女性党首の社民党との共闘は、プラスに働くだろう。

 柳沢大臣は即刻やめるべきだ。彼をかばうなら阿部内閣もである。

 不支持44%、支持は40% 安倍内閣で初の逆転
 
  共同通信社が3、4両日に実施した全国電話世論調査で、安倍内閣の支持率は40・3%となり、前回調査(1月12、13両日)から4・7ポイント落ちた。不支持率は5・2ポイント増え44・1%と、昨年9月の政権発足以来初めて支持率を上回った。支持率は一貫して下落を続けており、安倍晋三首相の求心力低下があらためて浮き彫りになった形だ。

 女性を「産む機械」に例えた柳沢伯夫厚生労働相が「辞任すべきだと思う」と答えた人は58・7%。柳沢氏や久間章生防衛相の米国批判など閣僚の問題発言に首相が「適切に対応しているとは思わない」とした人は74・7%で、これらの問題が内閣支持率低下に拍車を掛けていることをうかがわせた。

 今の政治について「信頼している」が4・5%、「ある程度信頼している」29・0%だったのに対し、「信頼していない」は23・3%、「あまり信頼していない」42・5%。政党支持率をみても「支持政党なし」の無党派層が39・8%と前回から9・5ポイント増え、政治、政党不信の高まりが鮮明となった。(共同)(2007年02月04日)

  女性の「安倍離れ」後押し

 電話世論調査、厚労相発言が影響

 安倍内閣の支持率を男女別にみると、前回1月の調査に続き男性は不支持率が支持率を上回ったが、今回は初めて女性も不支持(41・5%)が、支持(39・0%)より高い結果となった。

 このうち20-50歳代の女性はいずれも「支持しない」との回答が多かった。内閣支持率と不支持率の逆転は、女性支持層の「安倍離れ」が後押ししたといえる。 その要因は、柳沢伯夫厚生労働相の「産む機械」発言にあるとみられ、厚労相について「辞任すべきだ」としたのは、男性61・4%、女性55・9%。女性の方が低いが、24・5%が「どちらともいえない」と回答しており、今後の首相や厚労相の対応次第では、この「留保組」からの辞任論が強まる可能性もある。

 一方、政党支持層別では、公明支持層で前回に続き不支持が支持を上回り、53・6%に達した。理由としては「首相の人柄が好きになれない」が34・9%で最も多く、「指導力がない」の27・7%が続いた。(共同) (2007年02月04日)

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野党審議拒否戦術を批判する『読売』は間違っている

  柳沢厚生労働大臣の「女性は産む機械」発言をめぐって、柳沢大臣の辞任を要求する野党とそれを拒否する与党との対立が激しくなった。野党が、補正予算案の審議を拒否したことをめぐって、さっそく、「良識」派が登場して、国会に出席して審議に応じるよう説教を始める。それは、一見すると正論に見えるが、実際には、与党側に立った援護射撃である。

 『読売新聞』は2日付社説で、冒頭から、民主党に説教を始める。『読売』は、去年の教育基本法問題での欠席戦術の際にも、まったく同じ理由をあげて、民主党に審議に戻るように促した。「自分の要求を通すために審議を拒絶する。これは万年野党と称された旧社会党の手法だ。2大政党の一方にあって政権をめざす民主党は、こんな悪弊を今こそ絶つべきだ」というのである。

 果たして、『読売』が言うように、審議拒否戦術は、許されないものであろうか? これは『読売』が、国会を聖なる場と見なしていること、そして民主主義の本旨をはずしていることを示している。国会という民主主義の場では、政権を握っている多数派の与党と少数派の野党がある。両者は対等ではなく、片方が優勢にある。与党は、議長や委員会の長などをほぼ独占している。その上多数決でどんな法案でも通せる力がある。力を実際に行使するかどうかは、世論などの動向にも左右される。それは選挙での審判があるからで、与党もそれを気にしないわけにはいかない。つまり、国会のことは、国会の中だけで決まるのではなく、外の大衆の意識動向にも左右されるということである。それが、民主主義なのである。議会内のおしゃべりだけが、民主主義ではないのである。

 アメリカでの民主党の大勝利は、大衆の間での反戦意識の拡大を党の政治政策に取り入れることによってもたらされたのである。それが政権交代の原動力になるのであるから、大衆の意識動向は、権力闘争の重要な要素なのである。

 私見では、自民党支持者や公明党支持者を含めて、世論の多く、とりわけ女性の多くが、柳沢辞任を支持しているし、柳沢発言に怒っている。したがって、柳沢大臣をかばっている阿倍総理にも背を向けていると思う。野党の審議拒否戦術は、広範に支持されるていると思う。もし、審議出席しても、ほとんど柳沢大臣糾弾の場のようになるだろうし、そうせざるを得ないだろう。中側自民党幹事長は選挙応援演説で「自民党はフェミニストの党」だとさえ述べている。ところが、実際には、フェミニズムに敵意を持つ山谷ゆり子内閣補佐官、女は家に居て専業主婦になれと語った下村官房副長官など、反フェミニストが重要ポストに居るのが阿倍政権の実際である。選挙で勝つためには嘘でもごまかしでもなんでもありなのは、自民党なのである。『読売』は与党には寛容にこうしたことを見逃してやっている。
 
 街頭に出て、直接大衆に語りかける。これも政党の重要な政治活動である。

 なによりも『読売』が誤っているのは、柳沢発言を「女性を「機械」に例えるとはまことに軽率な発言だ。まして厚労相は、少子化対策に重要な役割を担う閣僚である。責任は重いと言わざるをえない」と批判しながら、ではその重い責任をどう果たすべきかを具体的に提起しないことだ。即刻の大臣罷免・辞任が責任を果たすことなのかどうかについて態度を明らかにしていないことだ。どうすべきなのか? 『読売』は言論機関としては責任は重いと言えばすむかもしれないが、政治の場ではそうはいかないのである。もし、『読売』の重役・編集委員が同じ発言をしたら、『読売』はどうするのか? 責任は重いと述べるだけで、何の処分もなし、おとがめなしですませるのか? そんなことをしたら、『読売』読者、とりわけ女性読者はどうなるか? そう考えたら、こんな書き方はできないはずだ。無責任なのは『読売』の方である。

 政治が計算で成り立っているとする『読売』の政治観も浅薄で皮相である。政治的計算や政党の思惑を超えて大衆が選択し、行動し、それが政治に反映されていくこと、それが宮崎県知事選の結果に現れたのではないか? 中央とのパイプがどうとかそういう利害得失計算を超えたところで、有権者が投票行動を行ったのではないか? そのことを『産経』などの他の大手新聞の方が見抜いて、議会政党政治の危機と一様に述べたのである。ただ『読売』だけが、そうした大衆意識の変化を読めずにきたことがこの一件でも明らかになったのである。

 『読売』が、柳沢発言の責任問題を「喫緊の課題」からはずしていることによって、女性の人権問題を重要政治課題と見なしていないことを明らかにしている。それが、女性大衆に鋭く見抜かれているということに気づきもしない。

 そして言うに事欠いて、くだらないいちゃもんをつけている。「野党が今回、審議に応じていない補正予算案にしても、豪雨災害の復旧工事に充てる費用などを含んでいる」のに「小沢代表が、審議拒否の旗振り役をするとはどうしたわけなのか。これでは責任政党とは言えまい」というのだ。災害復旧予算を拒否する馬鹿がどこにいるというのだ? そんなのは審議時間を取るまでもないことではないか? それとも野党がいて、審議しなければ、災害復旧策を決定できないとでもいうのか?

 最後にこんなことを言う。「野党は、厚労相は、「人間として許されない暴言」を吐いたと言う。少子化対策や雇用法制の見直しにあたる閣僚として、厚労相がその任に堪えないと言うのなら、審議拒否ではなく、審議の場で明らかにしていくのが筋だ」。『読売』は、厚労相は、「人間として許されない暴言を吐いた」と考えるのか否かを明らかにしていない。これを支持するのなら、即刻大臣を罷免・辞任するべきだと主張すべきである。その上で、どうのこうのと野党に文句をたれるべきである。審議の場に出ることだけが、政治家の活動ではない。街頭に出て、街頭で大衆を相手に演説すること、直接語りかけること、それもまた政治家の重要な活動のあり方である。今、柳沢大臣をかばっていることこそ、政権に傷を付けないという政争のためにしていることである。審議拒否戦術は、議会政治に許される戦術である。大衆がそれを支持しているかどうかは、今後の世論や選挙などの際にはっきりするだろう。 

  2月2日付・読売社説(1)
 [野党審議拒否]「『政権をめざす党』の看板が泣く」

 本格的論戦の幕開けになる衆院予算委員会を野党はそろって欠席した。柳沢厚生労働相が辞任しない限り、審議には一切応じられないのだと言う。

 自分の要求を通すために審議を拒絶する。これは万年野党と称された旧社会党の手法だ。2大政党の一方にあって政権をめざす民主党は、こんな悪弊を今こそ絶つべきだ。

 厚労相は講演の中で、少子化問題に関して、「(女性は)産む機械って言っては申し訳ないが、その産む役目の人が一人頭でがんばってもらうしかない」などと口を滑らせた。厚労相は、すぐさま「ごめんなさい」と謝罪したという。

 女性を「機械」に例えるとはまことに軽率な発言だ。まして厚労相は、少子化対策に重要な役割を担う閣僚である。責任は重いと言わざるをえない。

 民主党は、社民党、国民新党に党首会談を呼びかけ、「女性の人権を否定した女性蔑視(べっし)の発言」であり、厚労相は辞任せよと求めた。安倍首相は、厚労相を厳重注意し、国会答弁で「多くの女性の心を痛めたことに私も深くおわびする」と陳謝した。異例のことである。

 民主党は今、なぜ、強硬姿勢をとっているのか。この国会戦術を主導しているのは、小沢一郎代表だ。

 小沢代表は代表質問で、事務所費問題など政治とカネの問題の解決なくして「まともな論戦を始めることができない」と全面対決の構えをみせていた。その際、厚労相の発言も取り上げ、その後「失言」を「糾弾」するテレビ報道の過熱に歩調を合わせるように攻勢を強めた。

 小沢代表には、参院選に向け野党共闘を強めたいという計算があるのだろう。支持率低落に苦しむ安倍内閣のさらなるイメージダウンを図る、国会冒頭から主要閣僚を辞任に追い込み与党の出端(ではな)をくじく、ということも考えていよう。

 だが、小沢代表は内政の「喫緊の課題」を並べて、論戦を挑んだばかりではないか。「誰も責任を負わない」現行教育制度の改革、終身雇用を前提とした雇用法制など、重要な論点を含んでいた。

 野党が今回、審議に応じていない補正予算案にしても、豪雨災害の復旧工事に充てる費用などを含んでいる。

 それなのに、小沢代表が、審議拒否の旗振り役をするとはどうしたわけなのか。これでは責任政党とは言えまい。

 野党は、厚労相は、「人間として許されない暴言」を吐いたと言う。少子化対策や雇用法制の見直しにあたる閣僚として、厚労相がその任に堪えないと言うのなら、審議拒否ではなく、審議の場で明らかにしていくのが筋だ。

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