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2007年3月

靖国新資料 『産経』の言い訳の見苦しさ

 A級・B級戦犯合祀をめぐる新資料が公表されることになったことを受けて、新聞各紙が社説で取り上げている。

 憲法・安保などの問題でことごとく対立してきた『朝日』と『読売』は、めずらしく戦没者追悼施設の建設すべきだとする点で意見が一致している。

 それに対して、『産経』は、ただ当時の民意の反映として読むべきだと主張している。

 「公表された新資料によれば、戦犯合祀に関する厚生省と靖国神社の協議が始まったのは、昭和33年からだ。戦犯の赦免を願う当時の民意を受けた協議だったと思われる]といい、この協議が、戦犯赦免を願う当時の民意を反映していると推定している。

 「サンフランシスコ講和条約発効(27年4月)後、戦犯赦免運動が全国に広がり、署名は4000万人に達した。28年8月、衆院で「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択された。こうした国民世論を受け、政府は関係各国の同意を得たうえで、死刑を免れたA級戦犯とBC級戦犯を33年までに釈放した。こうした戦後の原風景を思い起こしたい」というのである。

 しかし、戦犯受刑者の赦免は、免罪とは違う。この当時、戦犯赦免を求めた国民世論は、赦免を求めたのであって、無罪放免を求めたわけではない。つまり、東京裁判その他の戦犯法廷の判決自体を覆すことを求めたものではない。したがって、それが、ただちに、靖国合祀を容認したというわけではなく、そのことも、合祀過程が、旧厚生省と靖国神社側の間で秘密裏に進められた原因になっていると思われる。「Internet Zone::WordPressでBlog生活」http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2005/05/27101755.php/trackbacには、A級戦犯は、減刑されたのであり、赦免はされていないという政府答弁が載っている。

 もっぱら、占領体制の厳しさを理由にして、あれもこれも占領下では仕方がなかったと言い訳ばかりしている保守派や右派が多いのであるが、この『産経』の社説もその類である。ついこの前まで、新聞は、「玉砕」「本土決戦」を呼号してきたのであり、占領体制に対しても「玉砕」覚悟で、言うべきを言うことはできたのである。それをしもせずに、自分たちの身の安全が確保されたと確認してから、ようやく、東京裁判は間違いだの憲法は押しつけだのとおおっぴらに叫び始めたのである。なにをか況やである。

 『産経』は言い訳がましく、見苦しい。

 【主張】靖国新資料 民意踏まえて読み解こう(『産経新聞』2007/03/30)

 靖国神社への戦犯合祀(ごうし)に関する詳細な資料が国立国会図書館によって公表された。国と靖国神社が協力して合祀を進めていたことを改めて裏付ける貴重な記録である。

 特に興味深いのは、昭和30年代から40年代前半にかけ、東京裁判で裁かれたいわゆる「A級戦犯」や、外地で処刑された「BC級戦犯」らの合祀について、厚生省と靖国神社側が何度も協議を行い、慎重に合祀を決定していた事実である。

 しかも、目立たないように、と双方の担当者が戦犯に対する当時の内外の世論にいじらしいほど気を使いながら協議していた様子がうかがえる。

 識者の間には、国が神社の合祀に関与していたことは現行憲法の政教分離の原則に反するとの指摘もある。しかし、合祀の前提となる戦犯も含めて200万人にのぼる第二次大戦の戦没者を特定する作業は、戦後に旧陸海軍省の業務を引き継いだ厚生省の援護担当者の協力なしには不可能である。

 判例では、津地鎮祭訴訟の最高裁判決(昭和52年)以降、国家と宗教のかかわりを一定限度容認する緩やかな政教分離解釈が定着している。憲法が厚生省の合祀協力業務まで禁じているとはいえない。国のために戦死した国民の慰霊のもとになる合祀に国が協力したのは、当然のことだ。

 公表された新資料によれば、戦犯合祀に関する厚生省と靖国神社の協議が始まったのは、昭和33年からだ。戦犯の赦免を願う当時の民意を受けた協議だったと思われる。

 サンフランシスコ講和条約発効(27年4月)後、戦犯赦免運動が全国に広がり、署名は4000万人に達した。28年8月、衆院で「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択された。こうした国民世論を受け、政府は関係各国の同意を得たうえで、死刑を免れたA級戦犯とBC級戦犯を33年までに釈放した。こうした戦後の原風景を思い起こしたい。

 新資料では、戦前・戦中の合祀基準や、終戦後、空襲などで亡くなった一般国民の合祀が検討されたことも明らかになった。

 大原康男・国学院大教授が本紙で指摘しているように、「この時代の国民の心意に目配りして」新資料を読み解くべきである。

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「きっこの日記」記事の自主削除問題をめぐって

 人気ブログの「きっこの日記」の記述をめぐって、記事の自主削除問題があった。ことは、3月28日付「きっこの日記」に、石原晋太郎東京都知事が、在日の女性と弟裕次郎の結婚にさいして、石原家の血が汚れるから、子供だけはつくるなと言ったなどと石原東京都知事を批判した記事を載せたことから起きた。

 この記事を見たJーCAST http://www.j-cast.com/2007/03/28006465.htmlの人間が、石原選挙事務所にチクッたところ、事務所関係者が、「事実無根だ!選挙が終わってからまとめてヤル」と激怒したと伝えたなどと記事にした(3月28日)。それがきっかけかどうか、とにかく、きっこ氏のもとにたくさんのメールが送られてきて、それらを見て、きっこ氏は、記事の内容が、公職選挙法違反にあたるからという理由で、記事削除したと書いた上で、お詫びの言葉を述べている。

 公職選挙法を読んでみたが、ブログを対象とした規制についての明文規定はない。ただインターネットによる選挙運動は禁止されている。しかし、ブログの場合はどうなるのかについては明確ではなく、議論されている段階である。ちなみにこの事例に関連すると思われる公職選挙法の規定は、第148条で、以下の通りである。

 (新聞紙、雑誌の報道及び評論等の自由)第148条

 この法律に定めるところの選挙運動の制限に関する規定(第138条の3(人気投票の公表の禁止)の規定を除く。)は、新聞紙(これに類する通信類を含む。以下同じ。)又は雑誌が、選挙に関し、報道及び評論を掲載するの自由を妨げるものではない。但し、虚偽の事項を記載し又は事実を歪曲して記載する等表現の自由を濫用して選挙の公正を害してはならない。

2 新聞紙又は雑誌の販売を業とする者は、前項に規定する新聞紙又は雑誌を、通常の方法(選挙運動の期間中及び選挙の当日において、定期購読者以外の者に対して頒布する新聞紙又は雑誌については、有償でする場合に限る。)で頒布し又は都道府県の選挙管理委員会の指定する場所に掲示することができる。

3 前2項の規定の適用について新聞紙又は雑誌とは、選挙運動の期間中及び選挙の当日に限り、次に掲げるものをいう。ただし、点字新聞紙については、第1号ロの規定(同号ハ及び第2号中第1号ロに係る部分を含む。)は、適用しない。

1.次の条件を具備する新聞紙又は雑誌イ 新聞紙にあつては毎月3回以上、雑誌にあつては毎月1回以上、号を逐つて定期に有償頒布するものであること。ロ 第3種郵便物の承認のあるものであること。ハ 当該選挙の選挙期日の公示又は告示の日前1年(時事に関する事項を掲載する日刊新聞紙にあつては、6月)以来、イ及びロに該当し、引き続き発行するものであること。

2.前号に該当する新聞紙又は雑誌を発行する者が発行する新聞紙又は雑誌で同号イ及びロの条件を具備するもの《改正》平14法098 (新聞紙、雑誌の不法利用等の制限)第148条の2 何人も、当選を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて新聞紙又は雑誌の編集その他経営を担当する者に対し金銭、物品その他の財産上の利益の供与、その供与の申込若しくは約束をし又は饗応接待、その申込若しくは約束をして、これに選挙に関する報道及び評論を掲載させることができない。

2 新聞紙又は雑誌の編集その他経営を担当する者は、前項の供与、饗応接待を受け若しくは要求し又は前項の申込を承諾して、これに選挙に関する報道及び評論を掲載することができない。

3 何人も、当選を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて新聞紙又は雑誌に対する編集その他経営上の特殊の地位を利用して、これに選挙に関する報道及び評論を掲載し又は掲載させることができない。

 木村剛氏は、自らのブログ「週刊木村剛」http://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/2005/09/post_1906.htmlで、ブログをこの第148条の対象である「新聞紙(これに類する通信類を含む。以下同じ。)又は雑誌」に当たるとして、「報道及び評論を掲載するの自由」が適用されているとする解釈を主張している。

 「雑談日記 徒然なるままに、。」 http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2007/03/post_b641.htmlの「萎縮効果としてのきっこさんの「お知らせです。」問題と公選法、そしてケーススタディとしてのマスコミ・ウォッチング。」では、「きっこの日記の人気ぶりから見て、後者の「公職選挙法とマスコミ以外・ブログなど市民メディアとの関係の問題についてブロガーに与えるその萎縮効果は絶大なものがあります」と表現の自由に対する侵害に警戒している。

 騒動のきっかけをつくったのは、JーCASTである。JーCASTは、以前に指摘したように、元々右派的なメディアで、しかも恣意的な数字をあげて情報操作記事を書いてきたところであり、今度の件も、「きっこの日記」の人気が高く、その記事の影響力が大きいことから、反石原記事が都知事選挙で、石原陣営にマイナスに働くと思って、チクリに行ったのだろう。JーCASTの記事を見る限り、「きっこの日記」の記事が公職選挙法違反にあたるとは思えない。ただ、そんな印象を表現で作り上げているだけだ。公職選挙法の規定を引っ張り出して、この部分がこう違反していると指摘しているわけでもない。第一、法律違反にあたると指摘してもいない。

 石原事務所の「事実無根だ!選挙が終わってからまとめてヤル」の意味も具体的ではない。ここから出てくるのは、法的には、選挙が終わってから、名誉毀損で訴えるというようなことぐらいである。公職選挙法違反を判断するのは、司法であって、石原事務所ではない。

  それにしても、きっこ氏は、記事が公職選挙法違反にあたるという指摘をしたメールの送り手に感謝しているのだけれども、その前に、公職選挙法自体を読むなり、木村剛氏のブログを読むなり、弁護士などの法律に詳しい人に聞くなりした方がよかったのではないだろうか? 木村剛氏によれば、ブログと公職選挙法の関係については、議論中だそうだから、あわてる必要はなかったのである。

 なお、この問題について、弁護士などの法律専門家の見解を聞いてみたいものである。JーCASTは、石原事務所にチクリにいくまえに、法律専門家の意見を聞いた方がよかったのではないかと思う。ただ、同記事は、別に特定の判断を下しているわけではなく、トラブルが起きたということを伝えるという形になっているだけだ。そんなに気にする必要もないし、あわてることもなかったと思う。

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国民投票法案を廃案に追い込もう

  自民党・公明党は、昨年12月に大筋で自民党と民主党で合意している国民投票法案を4月13日までに衆議院を通過させることで一致したという。これで、国民投票法案は、すんなりいけば、5月中旬にも可決する見通しになった。

 その国民投票法案は、長たらしい法文であり、やたらに禁止事項が多いものである。

 2005年初頭に与党が出した日本国憲法国民投票法案骨子(案)の段階で、日弁連は、2月18日付で「憲法改正国民投票法案に関する意見書」を公表している。同意見書は、「はじめに」で、「憲法改正国民投票は、いうまでもなく、主権者である国民の基本的な権利行使にかかわる国政上の重大問題であり、あくまでも国民主権の原点に立脚して定められなければならない。しかるに、与党案の「法案骨子」では、そのような国民主権の視点が重視されておらず、その結果、発議方法及び投票方法が投票者の意思を投票結果に正確に反映するものであるか否か明確ではなく、また、新聞、雑誌、テレビ等のマスコミ報道及び評論に過剰な規制を設けようとするなどの、看過しがたい問題点が多々みられる」と「骨子案」の問題点を指摘している。

 しかし、その後の法案論議で、これらの諸問題はそのまま残されている。なによりも、改憲の基本が「国民主権」の行使にあるとこの意見書が指摘している点について現在の国民投票法案は「国家主権」の行使という立場であることが問題である。近年の憲法論では、憲法制定権力は、人民の権力行使として、立法権力に優越するという説が唱えられているというが、国民投票法案は、それとは逆の立場に立っている。憲法改正は、国家権力の発動として、治安・秩序の強制行為として、「国民」を規制して、行われるものとされているのである。

 この自公の国民投票法案の国会提出を受けて、『産経新聞』は、「国民投票法案 改憲へハードルを越える時」と題した社説で、露骨に、この法案が改憲のためのものであることを主張している。『産経』は、この法案が、たんなる手続き法ではなく、実際には与党の改憲の狙いを通しやすいようになっていることをよしとしているのだろう。「法案が問題を抱えていることは否定できない。与党が民主党の主張を大幅に取り入れた結果である。だが、憲法改正を実現するためにはやむを得ない判断といえる」と書いているのである。マスコミ規制も罰則規定こそなくなったが、極めて統制色の強いもので、同じく国民投票法自体には賛成の立場を明らかにしている『毎日新聞』社説「国民投票法案 政局絡めず合意を目指せ」は、「投票日2週間前からの有料のテレビ・ラジオの広告放送を禁止した。これは「表現の自由」の観点からも問題がある」と批判している。『産経』は、与党案と同じく、とにかく早期改憲を実現したいという願望から、これらの諸問題に対して、きっちりと検討することなく、「共同修正案を再修正したのは、「公務員の政治的行為の適用除外」を削除したことだ。公務員の政治的中立性を担保するために必要な措置だが、刑事罰は設けないことにした。教育者の地位利用も同じ扱いだ。これで「公正なルール」が確保できるかどうか」というように、政治的権利の規制に賛同してしまっている。『産経』は、ジャーナリズムのはしくれとして、こうした「表現の自由」の国家による制限の問題に鈍感でいいのだろうか?

 憲法は、人々のものであり、その改正は、人々の主権行使であり、それは立法府の権力行使とはまったく異なるものである。立法権の方が、人民の主権の下に従属するものであり、それが憲法の意味であり役割である。この国民投票法案では、かえって自民党改憲草案を成立させることは難しくなったとする見方もあるが、その前に、立法権力のあり方の方に問題がある。ベンヤミンという思想家は、立法権力をはっきりと暴力機関と呼んだが、そのことを思い出さねばならないのである。法措定暴力としての議会は、三権分立という形で分業化されている国家権力の一部であるということである。しかも、その権力は最高権力とされているのであり、その点を見失ってはならないのである。見かけに騙されてはいけないのである。権力問題、権力関係をしっかりと把握しないといけないのである。この法案が、公務員と教員とマスコミの活動を制限しようとしてるのは、それらが国家権力機構の一部として権力行使を担っているからで、その活動が権力闘争につながるからである。『産経新聞』社説が示しているのは、そのことなのである。

 国家権力は、人民意志として示される憲法によって規制されるのであり、それが近代憲法の原則である。それに対して、国民投票法案と自民党改憲草案の立場は、憲法精神そのものを転覆して、国家権力が人民を統制するための道具へ変えるものなのである。すなわち、支配階級が憲法を通じて人々を統制・支配しようというものなのである。そのことは、すでに、教育基本法改悪の中で、はっきりと示されている。

 安部総理が持論としている現憲法がアメリカから押しつけられたから、という改憲理由は、人民がアメリカから現憲法を押しつけられたという意味ではなく、日本国家が、アメリカという国家から憲法を押しつけられたという意味である。彼にとって憲法はあくまでも、国家と国家の関係によってあるもので、人民との関係であるということは完全に無視されているのである。現憲法が、戦後の人民運動との関係でも規定されたことは、鈴木安蔵などに関する研究の中でも明らかにされており、憲法を人々が歓迎したことも歴史的事実としてある。それは、たんにアメリカとの関係で、改憲を掲げた自民党が政権としては護憲を主張したということだけではなく、護憲運動が広範に支持されてきたということがあるのだ。しかし、それは、冷戦崩壊後、急速に護憲運動が衰退する中で、自民党結党以来の悲願としての改憲ー自主憲法制定論が、露骨に台頭してきて、さらにそれが、現憲法を日米同盟強化の足かせとして、改憲を求めるアメリカからの要求が強まるようになって、勢いを増してきたのである。その契機となったのが、1981年の湾岸戦争で、それまでの平和的経済的国際貢献が国際的に評価されず、「血を流す」軍事的貢献をアメリカから求められたことである。

 安部総理の改憲論は、あくまでも国家の立場からするもので、人民の構成的権力として、国家権力を規定するという立場からの改憲論ではない。この基本的なところで、逆立ちしているので、これは憲法改悪でしかないのである。したがって、現在の与党などが進める改憲策動に反対する人々の運動・行動は、人民の主権行使といえる。国民投票法案を廃案に追い込み、与党の改憲策動を主権行使して葬り去るべきだ。そのための行動は、安保世代の「9条改憲阻止の会」の国会前連続ハンストなどで始まっている。こうした運動をさらに発展させなければならない。

 2007年03月27日『朝日新聞』

 自民、公明両党は27日、憲法改正の手続きを定める国民投票法案の与党修正案を衆院憲法調査特別委員会の中山太郎委員長に提出した。投票年齢を「18歳以上」とし、公務員・教育者による「地位を利用した」運動への罰則は設けない。

 修正案では、国民投票のテーマを憲法改正に限定。改憲案そのものでなく、改憲の是非などを事前に問う「予備的国民投票」の導入については、将来の検討課題とした。

 また、公務員には地位利用の罰則を設けない代わりに、「公務員が改憲賛否の勧誘や意見表明が制限されない」範囲で、国民投票に関する運動を規制する規定を、3年以内に定めるよう付則に盛り込んだ。

 民主党は「国政の重要課題」も国民投票のテーマにするよう主張したのに対し、修正案では改憲に限定。公務員の運動についても、与党と民主党が昨年末、改憲に関する運動は規制しないとの条文を盛り込む方針を確認していたが、修正案では削除した。

 民主党の小沢代表は27日、佐賀市内の記者会見で「自民党が自分たちの主張を数で通すなら、我々は反対ということになる」と語り、修正案に反対する方針を示した。

 国民投票法案:今国会中に成立見通し強まる 自民了承(『毎日新聞』2007年3月27日)

 国民投票法案の修正案を中山太郎衆院憲法調査特別委員長(中央)に手渡す自民・保岡興治(右から2人目)、船田元(同3人目)、葉梨康博(左端)、公明・赤松正雄(右端)の与党理事たち=衆院第1議員会館で27日午後4時34分、藤井太郎撮影 自民党は27日午前の総務会で「日本国憲法の改正手続きに関する法律案」(国民投票法案)の与党修正案を了承した。公明党も同日午後に党内手続きを終える予定で、修正案は同日午後、衆院に提出される。民主党も独自案を提出しているが、与党は修正案に対する民主党の賛成が得られなくても4月13日に衆院本会議で採決し、参院に送付することを目指している。同法案はほぼ与党修正の内容で今国会中に成立する見通しが強まった。

 法案が成立すれば、1947年の現憲法施行以来、初めて具体的な憲法改正の手続きが法律で定められることになる。

 法案は(1)投票権者は18歳以上とし、選挙権年齢が18歳に引き下げられるまでは20歳以上(2)白票は無効票とし、有効投票総数の過半数の賛成で成立(3)衆参両院に設置する「憲法審査会」では憲法改正原案の審査や提出は公布後3年間行わない--などが柱で、民主党との修正協議で合意した内容を取り入れた。

 民主党案は憲法改正以外に国政の重要課題を投票対象としているが、与党修正案は対象を憲法改正に限った。また自民、公明両党間で最後まで調整が残った「公務員、教育者の地位利用による国民投票運動の禁止」については罰則を設けないことになった。投票2週間前から有料のテレビ・ラジオ広告を禁止するメディア規制については、「自主規制で対応すべきだ」とするメディア側からの反対が出ている。

 民主党は安倍晋三首相が憲法改正を夏の参院選の争点とする考えを示したことに反発し、共同修正に応じなかった。鳩山由紀夫幹事長らは、与党案が民主党との修正協議を一部踏まえたとして党内を賛成でまとめたい考えだが、党内には参院選に向けて与党との対決姿勢を鮮明にすべきだとの意見も根強い。

 自民、公明両党は昨年5月、衆院に「日本国憲法の改正手続に関する法律案」を提出。民主党も同時に「日本国憲法の改正及び国政における重要な問題に係る案件の発議手続及び国民投票に関する法律案」を提出した。その後、衆院憲法調査特別委員会で修正協議が続けられ、昨年12月には与党、民主党それぞれが、修正協議をふまえた修正案の要綱をまとめていた。【須藤孝、高山祐】

■国民投票法案骨子

 <投票の対象>憲法改正について国民投票に関する手続きを定める

 <投票権者の年齢>18歳以上は投票権を有する。施行までに18歳以上が国政選挙に参加できるようにするなどの措置をする。それまでは20歳以上

 <過半数の意義>賛成が有効投票総数の2分の1を超えた場合は承認

 <公務員、教育者の地位利用の禁止>公務員、教育者が影響力を利用して国民投票運動はできない。罰則は設けない

 <投票日前の広告放送の制限>投票日の14日前からテレビ・ラジオの有料の広告放送を禁止

 <個別発議>憲法改正原案の発議は内容に関連する事項ごとに行う

 <憲法改正原案の審査権限の凍結>憲法審査会は公布3年後の施行まで憲法改正原案の審査、提出をしない

 社説:国民投票法案 政局絡めず合意を目指せ(『毎日新聞』2007年3月28日)

 国民投票法案の与党修正案がまとまり27日国会に提出された。与党は単独でも衆院通過を目指す構えで、このまま可決する可能性も出てきた。

 憲法改正について国民が直接、判断を示すための手続きを定めたのが国民投票法案だ。国民主権にかかわる重要な法案であり、野党抜きや混乱状態の中での議論は避けなくてはならない。

 その点からも与党単独の修正案になったことは、残念だ。与党と野党第1党である民主党は党利党略を排して、最後まで合意形成を目指すべきだ。

 与党は投票年齢について「20歳以上」を修正し「18歳以上」にした。これは民主党案に譲歩したものだ。一方、投票対象については憲法改正に限定し、他の重要問題も対象にする民主党案を退けた。

 「18歳以上」は私たちもかねて主張してきた。憲法に対して若い世代からの声を反映させることに国民も異論はないはずだ。

 付則では公職選挙法や民法など関連法制の整備を求め、整うまでは「20歳以上」と規定した。だが、喫煙、飲酒年齢など多くの法律が関連し、社会的な影響も大きい。与野党の利害を超えたきめの細かい議論が必要になる。

 投票対象を憲法改正に絞ったのは、立法の趣旨から言っても妥当だろう。手続き法の論議はそもそも憲法に規定される「改正条項」からスタートしている。

 一般的な国民投票の導入は、代議制の根幹にかかわる。付則で「検討を加え、必要な措置を講じる」としている。地方では住民投票が行われており手続き法とは別途に議論を深めるべきだ。

 投票日2週間前からの有料のテレビ・ラジオの広告放送を禁止した。これは「表現の自由」の観点からも問題がある。

 自由な憲法論議のためにはメディアへの規制はすべきでなく、基本的には放送側の自主的なルールに任せるべきだ。

 与党と民主党が共同修正に至らなかったのは、双方が憲法と参院選挙を絡めてしまったからだ。

 安倍晋三首相は憲法改正を参院選の争点にする意向を示した。自民党内には法案提出で選挙前に民主党内の賛成派と反対派を分断しようという狙いもあるのだろう。

 一方、民主党内には、国民投票法案の成立は安倍首相の得点につながるという見方もある。法案に反対する社民党との選挙協力の観点から法案に賛成しにくい事情もあるだろう。

 本来なら与党が野党も乗りやすい環境を作り、協議を働きかけるのが筋だろう。自民党はアピール効果を狙って、いったんは憲法記念日までに成立させるという方針を立てた。しかし、それは理屈に乏しく挑発的だった。

 民主党もこのままでは反対のための反対と受け取られかねない。

 法案成立までには詰める点が多い。政局絡みの思惑で最重要法案が左右されるのは、国民にとって不幸なことだ。まだ遅くはない。ぎりぎりまで合意への努力を怠るべきではない。

【主張】国民投票法案 改憲へハードル越える時(『産経新聞』3月28日)

 自民、公明両党は、憲法改正の手続きを定める国民投票法案の修正案をまとめ、国会に共同提出した。

 国民投票は憲法第96条に「その過半数の賛成を必要とする」などと規定されている。憲法制定時に整備されねばならなかったが、施行以来、60年近く放置されてきた。この違憲の疑いもある立法の不作為を与党が是正しようとしていることを率直に評価したい。

 法案が問題を抱えていることは否定できない。与党が民主党の主張を大幅に取り入れた結果である。だが、憲法改正を実現するためにはやむを得ない判断といえる。

 安倍晋三首相はこのハードルを乗り越えない限り、任期中に憲法を改正するという約束を果たせない。

 憲法改正は各議院の3分の2以上の賛成で国会が発議する。自民、公明、民主3党がまとまらなければ、発議すら画餅(がべい)に過ぎないからだ。

 民主党が与党修正案に賛成するかどうかははっきりしない。安倍首相が憲法改正を参院選の争点にすると言明し、国民投票法案の今国会成立に意欲を示していることへの政治的な反発があるからだろう。

 ただ、3党は昨年末、実務者ながら共同修正案をまとめた。投票年齢を18歳以上にしたのは、与党が民主党の主張に歩み寄ったためだ。投票の対象についても、与党が憲法改正に限定としたのに対し、国政の重要課題にも広げようと主張していた民主党は、「将来の課題として国会で議論する」ことを条件に足並みをそろえた。民主党執行部がこうした経緯を無視して、法案にブレーキをかけているのは遺憾だ。

 今回、与党がまとめた修正案はほぼ共同修正案を踏襲している。国民投票の対象は憲法改正に限るが、付則で「一般的国民投票は中長期的な検討課題」に挙げ、配慮をにじませた。

 共同修正案を再修正したのは、「公務員の政治的行為の適用除外」を削除したことだ。公務員の政治的中立性を担保するために必要な措置だが、刑事罰は設けないことにした。教育者の地位利用も同じ扱いだ。これで「公正なルール」が確保できるかどうか。

 これらの問題は、与党と民主党が国会で協議し、よりよい投票法案を制定することで解決するといえる。

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9条改憲阻止、反安保反戦、4・28沖縄デー

 今年の5月3日憲法記念日は、大きな節目となる記念日となりそうだ。自民党は、公明党に配慮して、改憲のための国民投票法案の5月3日までの成立を先延ばししたが、同時に民主党案に譲歩しつつ、自公民による圧倒的多数での成立を目論んでいる。

 自民党幹部は、民主党が賛成しなくても、与党単独採決もあり得るとして、民主党を牽制している。このところ、強気の姿勢で、安部カラーを前面に出している安部総理としては、自分の政権の目玉である改憲に向けたこの手続き法を早期に成立させることで、さらに安部政権としての実績づくりとしたいところだろう。しかし、世論は、憲法論議にはあまり関心がない。つまり、この件で、安部政権は、丸裸だということだ。政治闘争のターゲットとして狙いやすいのである。

 連立を組む公明党は、集団的自衛権の行使を容認しておらず、太田代表は、先日、9条1項2項の改訂は認めないと主張し、自民党との憲法論議は厳しいものになるという見通しを述べている。国民投票法案の自民党案と民主党案の対立点は、投票年齢を18歳とするか20歳とするか、これを憲法に限らない一般的な国民投票法とする(民主党案)かどうか、等々である。民主党案と自民党案のもっとも大きな違いは、憲法観にあって、自民党案が、憲法を国民が国家への奉仕者とする基本的観点で書かれているのに対して、民主党案は、憲法は国民が国家を制限し、国家が国民への奉仕者であるという観点で書かれているということである。したがって、民主党案と自民党案は根本的に異なるもので、妥協の余地はほとんどないと言っていいものである。

 改憲手続き法についても、憲法が定める改憲手続きの法文化であり、民主党案の一般的な国民投票法とは趣旨が異なるものだ。この点でも自民党案と民主党案には、よほどの政治判断がなされない限り、ほぼ妥協の余地はないと言っていい。他に、憲法が規定するもので、法文化されていないものとしては、公務員の罷免権の具体的手続きというのもある。公務員罷免手続き法がないのである。憲法には、まだ具現化されていない規定がいくつもあるのに、改憲とはおかしな話だ。使い切っていないものを捨ててしまおうというのである。

 「日本国憲法」「第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。

 15条の規定は、「すべて公務員」として、官僚を含む全公務員を対象とするように書きながら、実際には議員のみを指しているように見える。しかし、実際には、アメリカでも、教育委員は公選制であり、保安官もそうである。公務員一般という規定であれば、官僚も含まれると見るしかない。議員は、特別公務員であって、一般公務員と区別されているし、さらに消防団員などの見なし公務員というのもあって、公務員の中身も様々である。しかし、ここでいう「公務員」は、「すべて公務員」であるから、役人も含む公務員全員を指していることになる。つまり、この憲法規定上、国民の権利として、役人を含む全公務員に対する罷免権があるということになる。そこで、第16条は、「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」と罷免を求める平穏な請願権を認めているわけだ。

 公務員に関する規定は、政治的規定であって、それぞれ法律・規則その他の権力規定を与えられている。間接民主主義・議会制民主主義の下では、公務員に関する諸規定・法の適用・改廃を通じて、その権限や職務・処罰その他について規定される。例えば、教職員に関しては、民間での解雇ではなく、地方公務員法の分限免職という処分規定があるが、これはあくまでも公務員の身分保証という基本観点からの行政権限による裁量措置であって、公平性の確保という点が地公法にあり、恣意的な措置に対して厳しい制限が付いているものである。東京都は、卒入学式における「日の丸・君が代」反対の教職員に対する分限処分を行っているのだが、それでも教員免許はそのままであった。ところが、安部政権は、問題教師の排除を主張して、分限免職者の教員免許を剥奪しようとしている。これは、地方公務員法の分限免職の身分保障という基本的観点を突破するもので、地公法の破壊に等しいものだ。もちろん、安部総理がどう考えようと、法案化する段階で、様々な意見が出てくる中では、安部総理のアイデアとは違ったものになる可能性がある。現在のような民間でも人手不足が深刻化しつつある情況では、民間との人材確保競争で、こういうことをやれば、公務員志望者が減っていくことも考えられる。いずれにしても、公務員をめぐる問題は、政治闘争を通じて解決される他なく、保守派が盛んに「日教組」の政治闘争を非難しているが、経済闘争と政治闘争が密接に絡んでいる公務員の場合は、そうならざるをえないのである。できないことをやれと言うのは、たんなる政治的策略であるから、言う方が悪いことははっきりしている。そんなことは制度的にやりようがない。そうしたいなら、制度を変えて、民間身分にしてから言えと返せばいい。それに気にすることなく、政治闘争と経済闘争を結びつけてやっていけばいい。

 安部総理は、「第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する」の国民投票の規定が具体化されていないから、これを実現したいというのだが、上記のように、他にも具体化されていない規定がある。それどころか、反対に、憲法第9条2項の軍隊放棄の規定に反する自衛隊が存在しているという既成事実を憲法条文化して、自衛軍保持を明記しようと狙っているのである。さらに安部総理は、改憲とあわせて、政府解釈を変更して集団的自衛権行使に踏み込むべきだとしている。それで、9・11事件のようにアメリカが攻撃されたら、集団的自衛権を行使して、イラク戦争やアフガニスタン戦争のような場合に、アメリカ軍と自衛隊が共同で軍事行動をとれるようになるわけである。アメリカは、対テロ戦争を終わりなきアメリカへの脅威を取り除く自衛のための先制戦争と位置づけているわけで、あくまでも防衛戦争だとしている。とすれば、日本が集団的自衛権を行使できるとなれば、NATOのように、アフガニスタンに自衛隊を派遣することもありうるということになる。

 安部政権の改憲の狙いは、戦争のできる国づくりであり、公に奉仕する愛国者が戦争に立つという「美しい国」をつくることである。しかし、今のアメリカのイラク戦争でもそうだが、戦争で儲けていい思いをするのは大金持ちであり、上級官僚であり、上の者たちである。命を失ったり、けがをしたりで、ひどい目にあうのは、そうではない多数者である。多数者が今のうちにしっかり声を上げて、そういう目にあわないようにしないといけない。

 改憲が政治焦点化してくる中で、昨年の6・15反安保・反9条改憲・反戦などを掲げる60年安保世代の集会デモが始まった。今年も、6・15集会・デモと10・21国際反戦デーの集会デモの準備が始まると共に、「9条改憲阻止の会」は、3月19日に国会前でのリレー・ハンストに突入した。この流れの中で、塩見孝也氏は、第二次ブントにとって転換点の一つになった4・28沖縄デーを復活させ、今年の4月28日に、集会デモを呼びかけている。ちなみに、1969年の4・28沖縄デーは、こんなものだったという。

 一九六九年四月二八日の「四・二八沖縄デー闘争」は、中核派、ブントに破防法―破壊活動防止法が適用され、当日の実行行為に関係なく中核派、ブント両議長など五人の両派幹部が同法第四〇条の「凶器もしくは毒劇物を携える多衆共同して検察もしくは警察の職務を妨害する罪」容疑で事前逮捕されたという点に、歴史的事件の重要性をもつ。
 この四・二八沖縄闘争に対し、中核、ブント、ML、第四インター、社労同の五党派が「総決起せよ」との共同声明を出し、さらにこれに共労党、統社同、反帝学評、さらに東大、日大、中大、教育大などの各全共闘が加わって「二九団体共同声明」を出した。
 四・二八当日、東京には全国から約二万人の学生、労働者が集まり、都心でデモを展開した。同夕、中核派の約二〇〇〇人を中心とする武装部隊が東京駅を占拠、杭木に放水(ママ)するなどして機動隊と衝突、数時間にわたって新幹線、国電などをストップさせた、全共闘、ベ平連などノンセクト部隊数千人も、群衆を加えて銀座でデモ、その一部は交番を襲い、敷石をはがして機動隊に投げるなど、衝突を繰り返した。他の赤ヘル部隊は、世田谷区代沢の佐藤栄作氏宅を火炎瓶で襲うなどした。(高沢皓司/高木正幸/蔵田計成『新左翼二〇年史』新泉社)

 佐藤政権が沖縄返還交渉を本格化させる中で、69年4・28沖縄デー、70年4・28沖縄デー(沖縄3万人、全国約20万人、全国全共闘・全国反戦・六月行動委員会(ベ平連)共催の明治公園5万人)、12月20日コザ暴動、71年9月25日、沖青委による皇居突入闘争、11月14日~19日の渋谷―日比谷大暴動、72年4・28沖縄デー闘争、5・15沖縄施政権変換協定粉砕闘争に全国で約20万人、等々。

 まあ、すごいものである。これぐらいのことがないと、衆議院で圧倒的多数を占めている与党は、国民投票法や改憲を強引に押し進めていくかもしれない。もっとも、発足当時70%前後あった阿部内閣の支持率も、30~40%台程度に下がっており、それはほぼ与党の支持率に近いから、もう「国民的人気」はないと言っていいだろう。ほぼ、自民党プラス高齢者が支持の中核である。公明党支持層すら安部離れを起こしつつある。統一地方選と平行する60年・70年安保世代の9条改憲阻止の国会行動・リレーハンスト、そして阿部内閣打倒を鮮明に掲げる塩見氏らの4・28沖縄デー闘争は、今流動化しつつある人々の政治意識と相互反響しつつ、それに方向性を与えるものとなるかもしれない。それは、6・15安保デー闘争に刺激を受け、8月参議院選挙の結果次第では、さらに人々の政治意識を活性化・流動化させ、10・21国際反戦デー闘争に一つの集約点を見いだすことになるかもしれない。どうなるかなどということは、あらかじめわかるものではない。人生と同じで、歩きつつ、走りつつ、時々休みつつ、動きながら考え判断していくしかないのだと思う。

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不毛な道徳談義にふける教育再生会議を解体せよ

 教育基本法改悪に続いて、教員免許法・地方教育行政法・学校教育法の教育三法改悪案策定が進められ、さらに、教育再生会議で道徳論議が活発化しているという。

 教育再生会議は、5月に予定されている第2次報告に向けて、道徳論議が進められているというのである。現在でも、道徳教育は、公立小中学校で、年間34~35時間行われている。それに対して、「子どもがインターネットで有害情報を手に入れられる時代に、修身のような共通の倫理観がないのは問題だ」(義家弘介・同会議担当室長)、「『何歳の子どもには、ひきょうなことをしてはいけないと教える』という目標を同会議が提案したらいい」(張富士夫・トヨタ自動車会長)などの意見が出ているという。その狙いについて、『毎日新聞』の記事は、「道徳教育を強調することで「美しい国」を掲げる安倍晋三首相の保守路線を補完する狙いもメンバーにはあるようだ」と書いている。現在の政権の路線におもねるという政治的な議論をしているようでは、教育再生会議も、政府の政策実現の道具でしかなく、それはこれまでの教育改革の内容の公正さを否定する行為である。

 教育再生会議は、この間、拙速な議論の進め方、非公開を貫く秘密主義等々、衆議院で圧倒的多数を占める与党の強気・おごり・傲慢さを背景に、虎の威を借りる狐のごとく、世間の声に耳を貸さず、強引に教育改革論議を押し進めてきた。ヤンキー先生こと、義家委員は、修身のような共通の倫理観をつくれといい、トヨタ会長は、教育再生会議が、正義の教育目標を提案すればいいという。さっそく、新教育基本法の教育の目標第2条「3 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと」「5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」という規定の具体化に進んでいる。

 そこでまず、「青少年の奉仕活動や有害情報対策支援に取り組む民間会議の設立構想」が出されたという。道徳教育の領域で、経済団体が参加する民間会議というのもおかしな話である。経済団体は、あくまでも営利組織であって、道徳といっても、経済領域に関わるものであって、経済外の領域をも含む倫理の領域に、経済利害を持ち込む可能性があるからだ。

 また、第3分科会(高等教育)で、「川勝平太同分科会主査が、郷土の伝統・文化・産業などを学ぶ「ふるさと学」を提案した」。「川勝氏は「家族・地域の大切さを知り、豊かな人間性を備えた規律ある人間を育成するためのアイデア」と道徳教育との連動性を説明」したという。「郷土の伝統・文化・産業などを学ぶ「ふるさと学」」と「家族・地域の大切さ」を知ることと、「豊かな人間性を備え」ることと「規律ある人間を育成する」こととの関係がわからない。「ふるさと学」という学問知識を知れば、その知識の大切さを知ることになるのだろうか? 家族・地域についての知識があれば、豊かな人間性が育まれるのだろうか? そのような「ふるさと学」を学んだ人は、規律ある人間に育つというのだろうか? さっぱりちんぷんかんぷんだが、他の委員からも賛成意見が続出したという。フォイエルバッハを借りれば、「ふるさと学」の対象は、知識としての家族・伝統・地域であり、家族についての思想・伝統についての思想・地域についての思想であって、感官・感性の対象である他者としての家族・伝統・地域ではない。それは家族についての観念・伝統についての観念・地域についての観念であり、感性的対象すなわち存在ではない。幻の家族・幻の伝統・幻の地域である。同じことは、修身的共通倫理感にも言える。それは抽象的な観念形態としてのひからびた倫理思想にすぎない。

 もはや教育再生会議に幻想を持つことはできない。現実的な問題を現実に解決できない教育再生会議は、安部政権と共に解体するほかはない。

教育再生会議:道徳論議が活発化 奉仕活動や伝統学習
 
 政府の教育再生会議(野依良治座長)で、5月に予定される第2次報告に向け、道徳教育の論議が活発化してきた。メンバーには児童に教えるべき行動規範を同会議が打ち出すことを求める意見もある。具体的には、青少年の奉仕活動などを支える民間会議の設立構想や、小中学校などでの「地域の歴史・伝統」学習推進がテーマとなりそうだ。

 道徳教育は現在、文部科学省発行のテキスト道徳教育を強調することで「美しい国」を掲げる安倍晋三首相の保守路線を補完する狙いもメンバーにはあるようだなどを教材に使い、公立の小中学校で年間34~35時間行われている。しかし、同会議では「子どもがインターネットで有害情報を手に入れられる時代に、修身のような共通の倫理観がないのは問題だ」(義家弘介・同会議担当室長)、「『何歳の子どもには、ひきょうなことをしてはいけないと教える』という目標を同会議が提案したらいい」(張富士夫・トヨタ自動車会長)など、拡充を求める意見が相次いでいる。道徳教育を強調することで「美しい国」を掲げる安倍晋三首相の保守路線を補完する狙いもメンバーにはあるようだ。

 ただ、戦前の「修身教育」を復活させるような議論では、政府・与党の合意形成は難しい。そこで具体的に浮上しているのが、青少年の奉仕活動や有害情報対策支援に取り組む民間会議の設立構想。同会議の池田守男座長代理は16日の第2分科会(規範意識養成)終了後の記者会見で、経済、教育団20日の第3分科会(高等教育)では、川勝平太同分科会主査が、郷土の伝統・文化・産業などを学ぶ「ふるさと学」を提案した。昨年12月に「わが国と郷土を愛する」と明記した改正教育基本法が成立したのを受け、郷土愛をはぐくむことを狙ったもの。川勝氏は「家族・地域の大切さを知り、豊かな人間性を備えた規律ある人間を育成するためのアイデア」と道徳教育との連動性を説明。委員の間からは「市町村合併が進む中で大切だ」「一部の小中学校で総合学習で行っているが、高校・大学でも導入を考えたらいい」と賛成する意見が出た体を交えた民間団体の設立を目指す方針を表明した。

 20日の第3分科会(高等教育)では、川勝平太同分科会主査が、郷土の伝統・文化・産業などを学ぶ「ふるさと学」を提案した。昨年12月に「わが国と郷土を愛する」と明記した改正教育基本法が成立したのを受け、郷土愛をはぐくむことを狙ったもの。川勝氏は「家族・地域の大切さを知り、豊かな人間性を備えた規律ある人間を育成するためのアイデア」と道徳教育との連動性を説明。委員の間からは「市町村合併が進む中で大切だ」「一部の小中学校で総合学習で行っているが、高校・大学でも導入を考えたらいい」と賛成する意見が出た。【平元英治、渡辺創】(『毎日新聞』2007年3月24日)

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世界社会フォーラム内の路線対立

 小倉利丸さんのホームページno more capitalism  http://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/wordpress/  に、ケニアのナイロビで開かれた世界社会フォーラム(WSF)で起きたケニアの「民衆会議」の行動をめぐる経過をたどりつつ、WSFに起きている諸問題について書かれた南アフリカの反民営化運動の活動家、トレヴォ・ンガネのレポート「WSF:ナイロビで起きたこと」の翻訳が載っている。これは「レイバーネット・ジャパン」のホームページに転載されている。WSFは明らかに曲がり角にきており、組織委員会と「民衆会議」の対立は、深刻な問題をはらんでいる。

 とくに、このレポートの「わたしの意見は、現在の「空間か運動か」論争はまちがった論争だというものだ。これは、ときには、専門的な中産階級の机上の空論に終始しているようにみえる」。「普通の労働者階級や貧困層にとってそこはどんな空間になるのだろうか。誰がこの運動を作り、動かし、管理するのだろうか。それは、NGOや個人的な指導的人物が貧困層への関心を自分勝手に語るための空間生み出すような運動になるのだろうか。WSFは資本家との協力によって掘りくずされるのだろうか。わたしたちが経験したナイロビのできごとはこれらの問いのいくつかをはっきりと提起したし、それは、WSFの著明なNGOや有名人の多くによる(全てが、というわけではない)答えに対する異義申し立てであったと思う」という提起は重要である。

 なお、社会運動総会は1月24日付「声明」を発し、WFS内に顕著に現れた「商業化、民営化、軍事化の傾向」を非難した。このWSF内の路線対立は、分裂にまで発展するかもしれない。注目する必要がありそうだ。

 2007年3月22日(木曜日)

WSF:ナイロビで起きたこと 

  以下に訳出したのは、ナイロビ世界社会フォーラムに参加した南アフリカの反民営化運動の活動家、トレバー・ンガネによるレポートである。今回のWSFの問題点を彼の経験をまじえて論じられている。このエッセイは多くのサイトに転載されているので原文はあちこちのサイトにあるが、さしあたりOpen Space Forumのウエッブを参照してください。このサイトには他にもWSF関連のドキュメントが豊富に提供されている。

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WSF:ナイロビで起きたこと
トレバー・ンガネ
原題:WSF: What happened in Nairobi by Trevor Ngwane

 世界社会フォーラムはいつもより小規模なものになった。このWSFはNGO(ストール)と教会(開会の行進)に占領された。いくつかのキリスト教原理主義者たちは、十字架に若い妊婦妊をあしらった彫像(この彫像は女性のリプロダクティブ・ライツを主張するためのものだが)を十字架から取り外せという要求すら出した。この問題は、社会運動総会の声明において、世界社会フォーラムのポリティクスにそぐわない団体の参加を認めるべきではないという文言を入れるという動きをうみだした。

 WSFは、携帯会社のセルテルの商売の場になっていることが参加登録とセルテルのシムカードの購入とがむすびついていることでもはっきり見て取れた。セルテルの広告は会場のあらゆるところにみられた。しかも、悪いことに、セルテルがもうひとつの携帯会社のサファリコムよりも割高なのだ。会場内のレストランはとても高く、また会場内ではケニアの通常価格の二倍の値段でミネラルウォーターを売る人達がたくさんみられた。

 Kenneth Kaundaが開会式を宣言し、その数時間後のデモに際して40分ほどの演説をした。彼の演説の筋書きは反貧困と(金持と貧乏人、ユダヤ人とパレスチナ人などなどの間の)和解であった。わたしはある参加者から、WSFの組織委員会がヒルトンホテルである閣僚と会食をしているのを目撃したという話も聞いた。多くの参加者にとって最悪なことは、多くの現地のケニアの人たちが参加できなかったということだ。というのも、彼らはこの集まりについて知らされていなかったし、入場ゲートで500シリングの金を支払うこともできなかったからだ。結果として、いくつかのワークショップのセッションは、まったくケニア人の参加がなかったし、アフリカ人の参加もないワークショップもあり、「北からの参加者」、とりわけアカデミズムの人間たちが、もろもろの運動を支持したり批判するための演説をぶつことで占められてしまった。

 上述のような状況への不満、とりわけWSFの会場のゲートのところで、地元の人々が入場を阻止されているということについての不満が、WSFの最終日に開催される社会運動総会を準備する会合のなかで公然化した。この会合では、4名の者を選び、組織委員会に自分達の危惧を伝えることになった。この会合は、これに参加していたケニア社会フォーラムのコーディネーターと少なくとも組織委員会の一人にとってはおもしろくなかっただろう。彼らはこの会合で、何度も入場料問題をこれまでも提起してきたが他の組織委員会のメンバーによって意見は覆されてきたということを述べた。この会合で、あるケニアの参加者は自分達が参加費を払う金をもっていないことで、どれほどのけものにされたと感じているかを語り、結局かれらは、ケニアの闘う大衆により近い場所で彼ら独自の集会、「民衆議会」を開くことにしたということを非常に魅力的な口調で語ってくれた。

 わたしは組織委員会と会うための派遣グループの一人に選ばれたが、わたしたちはこの日の夜に彼らとコンタクトをとることはできなかった。しかし、次の朝、組織委員会の議長のオユギ教授を含む2名のメンバーと会えた。しかし彼らはとの会合はあわただしいもので、彼らはこの問題を詳しく調査すると約束した。しかし、ここで会った組織委員会のOduorはひじょうに自己防衛的だった。翌日の朝には不満は高まり、わたしたちはケニアの人々が自由に入場できるようにゲートに突入することを決めた。この結果、約200名ほどのケニアの人々が無料で入場できたが、この日の後になって、ゲートは500シリングを持たない人を入れないように再び閉ざされた。わたしたちはまた入場料が50シリングに引き下げられたことも知った。南アフリカの仲間たちは、こうした措置に南アフリカ政府の貧困政策と同じものをみた。そして、他の国や他の運動体から来た人々もこの入場料引き下げを受け入れなかった。

 わたしたちはやっとのことで組織委員会との会合をもつことができた。私達3人がオヨギ教授とTaoufik氏(アフリカ社会フォーラムの事務局)に会った。われわれの側は、わたしとカナダの女性行進から来たダニエラ、そしてベニンから来たエミリである。残念なことに、他の派遣グループ(民衆議会のメンバー)は、入場パスを持っていなかったための会合に参加できなかった。この会合は、ひどいもので、オヨギが怒鳴り、わたしたちに対して民主主義を欠いていると糾弾し、基本的にはわたしたちが北や南アフリカ(アフリカの中のある種の北の国)からやってきてケニアのプロセスを壊しているのだということなのだ。彼は、この日彼に入場料に抗議するデモとでくわしたために苛立ちと怒りを覚えているということを白状した。以前彼はなかば冗談まじりで、わたしが「自分の子分たち」を差し向けたと言ってわたしをを批判したことがあった。わたしたちは組織委員会から明確な回答を得ないままうんざりした気分と意気阻喪のなか会合を後にした。

 翌日、わたしたちは再びゲートに突撃することを計画したが、警察と軍の増援部隊がゲートにいることを見付けた。かれらは大きな銃を手にしていた。仲間たちは、ゲートを無料で通すまで、メインの道路を封鎖することにした。30分ほどこうした行動をとったあとで、ゲートが開けられた。デモというよりも群衆が組織委員会のオフィスに入場料問題で、方針を変えるように要求して押しかけた。さらにもうひとつの要求が付け加えられた。それは、WSF参加者への水の無料提供ともっと安い食事の提供の要求だった。デモは、事務所にだれもいないことがわかり、ゲートが壊され、組織委員会のメンバーが今後入場は無料であると記者会見で公表せざるをえなくなった。わたしは、かれらが他の諸要求(水、食糧、商業化)にどのように応えたのかはっきりとはわからなかった。組織委員会のメンバーのNjokiは、彼女がオヨギと同様、北からの参加者がローカルなプロセスを壊している、このフォーラムはアフリカ人によって管理されているのだからと繰り返しのべたとき(まるで、私達が人種差別主義者だと遠回しに言われているような気分になったが)、群衆たちの怒号の前に沈黙せざるをえなかった。

 地元の人々が自由に出入りできるようになって、WSFの会場の状況は好転した。わたしは、住宅立ち退きと闘う地域の運動のセッションに参加したが、もし参加費が無料にならなければ、こうしたセッションはできなかっただろうと思う。かれらは入場料を支払えなかっただけだからだ。しかし、みんなは全然喜んではいなかった。というのもWSFの会場で配られている新聞に会場でもっとも高額な料金をとっているレストランがケニアの内務大臣のものだということが報じられていたからだ。この大臣は、その強権的な政策のために「粉砕機械」として知られていた。(彼は植民者の従者として腕をあげ、後に交通大臣となり、タクシー産業を整理し、結果として交通事故率を引き下げた)デモは、WSFのど真中に陣どっていたウィンザー・ホテルと呼ばれる彼のレストランを占拠した。他のフード・コートはずっとはなれた場所にあった。抗議行動の参加者たちがたべものを確保して腹を空かせた子どもたちに配ったので、大勢の子どもたち–大半がストリートチルドレンだったが—はただで昼食にありつくことができた。

 これらふたつのできごと、ゲートに突入し、ホテルの料理を獲得したこのできごとは、参加者全体のなかのわずかな人達によって組織されたことだが、このWSFが階級の敵によってハイジャックされたと感じていた参加者の多くを代弁する行動だった。わたしは、地元の人々を含めて多くの仲間と会ったが、彼らは事態を是正するためにとられた手段を歓迎していた。後にわたしは社会運動総会の議長をするようにと依頼され、それもこのふたつの行動に関わったからだと思う。社会運動総会では遡及的にこの抗議行動を熱烈に承認し、支持した。わたしと共同議長をつとめたのは、組織委員会のメンバーでもあるWa’huだった。彼女は、明らかにこの行動を支持するように追い詰められ、結局反対はできなかった。というのも、ゲートで起きたふたつの行動の現場に彼女もおり、委員会の入場料政策を説明するための場をあたえられていたからだ。彼女の総会での司会では、WSFはいうまでもなく、組織委員会を否定するような意図はなく、わたしたちは、自分達の空間に見出した容認できない不公正を正すために必要な行動をとったのだということを指摘した。

 最後に、チコ・ウィテカやその他主要なWSFの仲間とWSFは「空間か運動か」という論争に参加したことに触れておこう。これは、WSFの政治的な方向性を提起したサミール・アミンらのバマコ・アピールの議論の文脈でのことである。わたしの意見は、現在の「空間か運動か」論争はまちがった論争だというものだ。これは、ときには、専門的な中産階級の机上の空論に終始しているようにみえる。特に、WSFに参加できす、こうした論争のことを知らない何百万という人々のことを考えれば、そういわざるを得ない。普通の労働者階級や貧困層は抵抗と闘争の運動を必要とし、そうした運動を創り出し、またそうした運動を持ってもいる。彼らはまたこうした運動を息づかせ発展させるための空間を必要とし、創造し、また持ってもいる。真の問題は、どのような場所をWSFは実際に持とうとしているのか、である。普通の労働者階級や貧困層にとってそこはどんな空間になるのだろうか。誰がこの運動を作り、動かし、管理するのだろうか。それは、NGOや個人的な指導的人物が貧困層への関心を自分勝手に語るための空間生み出すような運動になるのだろうか。WSFは資本家との協力によって掘りくずされるのだろうか。わたしたちが経験したナイロビのできごとはこれらの問いのいくつかをはっきりと提起したし、それは、WSFの著明なNGOや有名人の多くによる(全てが、というわけではない)答えに対する異義申し立てであったと思う。

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『読売』『産経』原発関係社説

 21日付『読売』『産経』の社説では、共に、原子力発電問題が取り上げられている。しかも、似たような内容である。

 要するに、『原子力白書』が、「原子力発電を、エネルギー問題解決の中核と位置づけている」こと、そこに、今後の世界のエネルギー需要が20年で、1・5倍になると予測し、エネルギーをめぐる国際競争が激化すると書かれていることが基になっている。

 さらに、原子力は環境問題解決にもなると言うのである。『読売』は、「原発の強みは、まず、発電コストに占める燃料費の割合が小さいことだ。このところ燃料のウラン価格が急騰しているが、実際には、発電コストへの影響は少ない。供給も安定している」と低コスト、燃料供給の安定性というメリットを上げている。

 世界のエネルギー需要が伸びれば、当然、原子力燃料需要も伸びるはずで、ウラン価格高騰が続くことになろう。それがどこまで行くかは、わからないが、いずれにしても、今よりも高騰していくことは明らかだ。日本やアメリカなどで、原発を増設していけば、なお、高騰するだろう。中国・インドなど、今後、原発増設しそうな大国もあり、現在のような安定供給体制もいつまで安定しているかは、わからない。日本の電力需要は、省エネ化や人口減少などもあって、減っていくのではないだろうか? 世界のエネルギー需要が増大するから、日本の原子力発電を強化するというのは、短絡すぎる。

 CO2を排出しない原発は、地球温暖化対策になるとも言われるが、それは地球温暖化対策は、環境問題の一部にすぎず、原発のゴミの環境問題があり、また、原発設備は巨大で、それ自体が環境付加が大きいという環境問題もある。

 さらに、原発には、核拡散問題があり、『産経』は、「原子炉を運転するとプルトニウムが生じる。北朝鮮などのように、それを悪用して核兵器を製造する道は断たねばならない。しかし、途上国が核燃料の製造や処理を個別に行うようになると、核兵器の密造や核テロの温床化を防ぐのが難しい」と述べている。『産経』は、「核兵器を保有せず、唯一、再処理を行っている日本の経験を生かしたい」というのだが、日本の場合は、アメリカの核の傘、日米同盟があって、核保有をしない、させないということで、原子力の平和利用のみで来られただけであって、事情の違う他国では、そうはいかない。かつて、台湾・韓国は、各開発を秘密裏に進めていたことがあるし、イスラエルは秘密裏に核保有国になっている。イランも原発開発から、核開発へと進んでいる。

 このところ、「北陸電力志賀原発の臨界事故隠しに見られるように、このところ過去のトラブル隠しが相次いで発覚していることも見逃せない。電力関係者は、原発が担う重責を自覚しているのか」’(『読売』)。「国内の電力会社はデータの不正や事故の隠蔽(いんぺい)を行っていた。原子炉の異常や操作の過誤は隠さず報告し、その事例を共有することで、安全性を進化させていかねばならない。その過程が国民に透明であることが必要だ。足元を固めたい」(『産経』)。と指摘されているように、電力会社の不祥事が発覚し、隠蔽体質、秘密主義、等々の体質が根強いことが明らかになっている。電力会社への人々の不信感は強まっている。

 『読売』は、「原子力委員会も、透明性の高い情報公開と法令順守の徹底などを電力会社に求める見解をまとめ、白書に添付した。いずれも社内調査で隠蔽(いんぺい)が判明し、自主的に公表したとはいえ、再発防止に向けた意識改革を急ぐ必要がある」と指摘しているが、意識改革を急ぐべしというに止まっている。

 たぶん、東海村臨界事故の時も、電力会社の体質問題を両紙も指摘し、批判していると思うが、それから何年たっても、こんな有様では、解体しかないのではないかと思われても当然ではないだろうか? それなのに、『産経』は、「今の時点で大事なのは、原子力をめぐる国際情勢を冷静に認識することである。プルサーマルの実施や最終処分施設の立地についても後ろ向きの議論を続けているときではない。世界のエネルギー潮流は、原子力を軸に動きだしている」として、世界に追いつくことが大事だという結論である。結論部は、やはり原子力の安全をしっかりしろということにすべきだ。つまり、人命第一という観点を打ち出すべきである。そうしないと文章全体を通して、人命よりも電気が大事というふうに見えるからである。

 『読売』はさすがに、「安全で着実な原発運転を目指さねばならない」と安全運転を求めて最後をしめている。好印象がもたれる最後である。

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ふたたび従軍慰安婦問題について

 拙稿「従軍慰安婦問題を考える」に、「あ」さんから、「とにかく慰安婦問題については、小林よしのり著「戦争論2」の「総括・従軍慰安婦」を読んでみてほしい。あらゆる関連本の中で一番良い。この問題の全容も把握できる」とのコメントをいただいた。

 すでに、小林よしのりブームは去っていて、彼の本もあまり売れなくなっているので、改めて、小林よしのりの本を薦められるようなことがあろうとは思ってもいなかったので、少々驚いた。例えば、ウィキペティアの「新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論」の項目を見ると、「歴史記述の明らかな誤りや資料改竄、論理的におかしい記述などが見られ。歴史的な予備知識が無いとかえって間違いを犯すこととなる。他の『ゴーマニズム宣言』と同じく、論理の緻密さより、絵の迫力にて、扇情的に訴えかけてくる」と評されている。

 小林よしのりの考えには、戦前の大東亜連盟のようなアジア主義的な「右」の影響というのもありそうだ。しかし、それは、あくまでもアジア諸民族の独立と平等な連帯という理念のことである。しかし、大日本帝国は、日英同盟や日露協商その他の列強との秘密条約によって、列強の一員としてのアジア分割に加わっていたが、第一次世界大戦の結果、世界の最強国となったアメリカとの関係悪化の中で、孤立を深めることで、アジアに利権をあまり持たないナチスドイツ、ファシストイタリアとの三国同盟締結で、アジアの唯一の盟主として、米英などの連合国と戦うために、大東亜共栄圏という大東亜連盟のアジア主義的理念を採用せざるを得なくなったというだけのことである。

 アジア諸民族の対等な関係という理念は、確かに戦前の右翼の一部にあったもので、内田良平などは、日韓併合に反対したし、日本政府に抗議している。彼が支援した朝鮮人の対等な合邦を求めた一進会は、日韓併合後、非合法化され、弾圧された。日本の支援を借りて、独立した近代中国を建設しようとした孫文は、大日本帝国が列強同様に中国侵略を企てていることを「対華二十一箇条要求」などで見抜き、ロシア革命でできたソ連との関係を強めた。

 小林よしのりは、大東亜連盟的なアジア主義を徹底していない。彼は、アジア主義からする「反日」という視点を多少は持ち合わせていて、平等・対等に反する大日本帝国政府に抗議する「反日」行動を起こした内田のような姿勢を持っていない。小林よしのりは、日韓併合に反対した一進会を、日韓併合に賛成した親日派のように間違って描いているのである。

 従軍慰安婦問題で、軍の関与があったことは、様々な資料から明らかで、そのことは、実証主義者で元官僚の秦邦彦も認めている。彼は、3月11日の「正論」「米下院の慰安婦決議阻止の妙案 」で、「本年1月末マイク・ホンダ下院議員らが提出した新たな決議案は「日本帝国軍隊が第二次大戦期に若い女性たちを慰安婦として強制的に性奴隷化したことに対する歴史的責任を明確な形で公式に認め、謝罪する」(第1項)よう日本政府に求めたもの。/しかも「謝罪は日本の首相が公的資格で声明」(第2項)せよとか、「現在と未来の世代にわたり、このようなおぞましい犯罪があったことを教育せよ」(第4項)とか、「性奴隷がいなかったと主張する言論を禁圧」(第3項)せよといった内政干渉がましい要求までだめ押ししている」が、それは、「およそ民主主義の総本家と自負するアメリカの議会人とは信じられぬほど品格に欠ける言い回しだが、その勧進元が戦時中に日系人(強制)収容所で暮らした日系3世と聞けば何ともむなしい」と評している。しかし、ブッシュ政権が、「中東民主化構想」をぶち上げつつ、イラクに戦争を仕掛けたように、戦争手段をとってまで、民主主義を他に押しつけるのは、民主主義の総本家を自負するアメリカのいつものやり方である。

 秦氏は、この従軍慰安婦問題謝罪決議を阻止するための4つの方策を提案するのだが、その3番目として「(3)河野談話の「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も甘言、強圧など、官憲等が直接これに加担したこともあった」というくだりから、「軍の要請を受けた」を削除、「強圧」を「威迫」に、「直接これに加担した」を「直接間接に関与」か「取り締まる努力を怠った」へ修正するのが私案である」と書いている。秦氏は、官憲等が、「直接間接に関与」したが、それは、朝鮮人がやったことだとして、当時、朝鮮半島は、日本であって、民族としての朝鮮人は、大日本帝国臣民であったことを忘れるようにさせ、しかも官憲等の責任は、「不作為」にあったことにしてしまおうというのである。慰安所は、軍が業者に設置を要請したのであり、業者が自由な営業を目的として勝手に戦地にやってきたわけではない。この時点で、すでに、軍の慰安所への関与があり、責任が発生している。だからこそ、軍が衛生・警備などの任に当たったのである。戦地における治安の任務は、軍も負っているのであり、そこで不法行為が発生していることを見逃したり、取り締まりに不備があれば、その責任は免れないのである。憲兵はなんのためにいるのかということになる。

 秦氏は、4つ目に、同種の慰安婦施設は、米英も設けていたことを強調するように提案している。これはいい。現在、国連PKO要員によるレイプ事件や売春行為がたびたび発生しており、女性の人権が、人権を掲げる国連要員によって、犯されている例が増えている。世界のあらゆる軍隊の女性差別やレイプ犯罪を根絶することは、フェミニズムの目標の一つである。

 3月17日「正論」「慰安婦問題の新談話を出すべきだ」という西岡力東京基督教大学教授の文章は、秦氏の主張とは違って、「 この事態の背景には、内外の反日勢力の活動により「日本は朝鮮人女性らを大量に強制連行して軍人のためのセックス・スレーブ(性的奴隷)とした」という全く証明されていない主張が国際的に広まっていることがある」として、政治的背景を問題にしている。

 彼が強調するのは、「首相が河野談話継承を語りつつ「『慰安婦狩り』のような官憲による強制的連行は証明されていない」と事実関係に踏み込んで反論している背景には、河野談話を出す際の政府の調査では「本人の意思に反する民間業者による募集」は認められお詫(わ)びしたが、「公権力による強制連行」は立証されなかった、という政府の基本的立場がある。その点を丁寧に解説する責任が長官にはある」ということである。

 当時は、戦時統制の時代であり、「公」への奉仕が、絶対化されていたという時代背景を考えなければならない。民間業者の自由な営業などというのは、言葉の上だけの空想話にすぎない時代だ。物資は「公」が統制し、配給制度がしかれていた。自由市場などはなく、商売用の品物は、政府が軍に優先的に割り当てるなど、国が決定した上で、流通させられていたのである。銃後の守りとされた人々は、配給品が減らされていって、貧しくなっていき、栄養状態も悪化する中で、勤労動員などに女性や子供が駆り立てられた時代である。農村の人力に多く頼る農作業の働き手が戦地に送られて、農業生産力も低下し、ますます苦しくなっていった時代である。

 さて、「河野談話」に言う「本人の意思に反する民間業者による募集」の「民間業者」は、戦時統制経済下では、今日の「民間業者」とは、内容が異なるはずだが、その点についての言及がない。そこまで立ち入って調査をしたのかどうか疑問が残る。私は、西岡氏とは逆に、この民間業者の「公」性の解明という点で、「河野談話」が不十分ではないかと思う。むしろ、ここで民間業者という概念を使うことで、公的関与をごまかしたのではないかという疑問を感じる。それを含めて、問題解明のために、政府資料の全面開示が必要だと思う。

 西岡の「反日」か「親日」かという基準は、彼がかつて、親日だからという理由で、軍事独裁政権の韓国朴大統領を支持する根拠にしたもので、それは、人々をとんでもない誤った認識に導くものであり、危険である。彼の使っている基本基準は、人々の政治判断を誤らせるものだ。米政権は、インドネシアでもフィリピンでも、独裁政権をそれぞれ支持していたが、突然、見捨てたりするのである。マルコス政権末期がそうである。対中関係でもそうだった。突然、日本は、置き去りにされて、孤立するはめになり、何度も損失をこうむったのである。先に動いたアメリカは、利益を先取りして、「いい子」になったのだ。

 どうせなら、日本は安部政権が掲げる普遍的価値である人権の先進国となって、自らの過去を反省した上で、アメリカの誤りを正すようにすればいいのではないだろうか? 安部政権は、人権という普遍的価値をアメリカにまで及ぼすようなことはしないだろうし、できないだろう。例えば、アメリカのように、「世界人権白書」を作って、アメリカの人権問題を指摘するということである。そこで、アメリカ軍の慰安婦問題を指摘するということだ。その前に、日本は自らの問題を片づけておかねばならないことは言うまでもない。 

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従軍慰安婦問題を考える

 アメリカ議会で議論になっている従軍慰安婦決議について、安部総理が、「狭義の強制は確認されなかった」と語ったことには、怒りと共に情けなさを感じる。広義にせよ狭義にせよ、旧日本軍は、軍人相手の慰安所の設置を決定し、それを業者に求め、慰安婦を集める過程で、脅迫や拉致や詐欺・暴行などの違法行為があったのであり、そういう違法行為が身近で起きていながら止められなかったのは、あの軍歌などで聖なる皇軍として立派に描かれた大日本帝国軍隊としては、言い訳できないことだ。軍紀はどうした? 「大君のためにこそ死なめ」(「海ゆかば」)と歌われた現人神に仕える軍隊としての高い規律はどこに行ったのか?

 藤岡信勝は、当時の軍規では、戦場でのレイプは、死刑であり、その発生を防ぐためには、売春業が必要だったとして、慰安所はたんなる公娼制度下の売春施設であったと主張している。戦場で、軍人によるレイプ事件が多発すれば、軍人は次々と死刑になって減少していく。それに、そうした残虐行為は、強い報復感情を与え、敵の士気を強めてしまう。レイプ事件の被害者は、生きていれば、証言者になるため、死刑を免れようとする犯罪者は、証拠を隠そうとして、場合によっては、被害者を殺害することもあるだろう。

 藤岡信勝は、知らず知らずのうちに、大日本帝国軍は、皇軍などではなく、アメリカ軍と変わりのない「普通の軍隊」だという認識を広めている。それはそれで結構なことだ。皇軍という聖性をはぎ取ることは、どんどんやればいい。そんな軍隊のために、あれほどの耐乏と犠牲を払う必要がなかったことに、人々の思いが至ることだろう。軍人は、戦場で強いストレスがかかると、レイプ事件を起こしてしまうものであり、軍人も人であって、性欲がある以上、長く家族から離れさせておくと、抑圧された欲求が暴発しかねないというわけだ。だから、アメリカ軍は、イラク駐留兵を短期で交代させるようにローテーションを組んでいる。もっとも、それが駐留長期化・増派を必要とする泥沼化などによって、交代期間の延長が繰り返されている。

 日露戦争の際の、日本軍の紳士的態度は、一流国入りを目指す大日本帝国が、世界の目を強く意識していたこともあったし、この戦争では、旧武士を多く入れていたなどのことが大きかったのかもしれない。日露戦争自体は、朝鮮半島利権をめぐる帝国主義的権益争いの戦争であったが、このときは、まだ、明治維新以来の若々しい純粋さ、まっすぐさ、誠実さがまだ色濃く残されていたのかもしれない。しかし、この日露戦争の勝利は、神話化され、誇張されて、日本の自己像を狂わせてしまった。

 ちょっと脱線したが、従軍慰安婦問題での藤岡信勝のやり方では、旧皇軍は、現代の米軍などと本質的に変わりのない平凡な軍隊にすぎないことが、強く印象づけられ、その汚らしい姿が人々に記憶される。要するにそれは、人間は神ではない、ただの欲望機械だというような人間をその汚らしい一面でとらえる実証主義なのである。その反対物として、愛国主義者を描こうとするのだが、実証主義的方法が、人々に記憶されてしまうので、今度は、愛国主義の実証的分析がなされてしまい、その汚らしい一面が強く暴露されざるを得ないのである。

 さすがは、フォイエルバッハ主義者船山信一氏の義理のおいだけある。フォイエルバッハは、唯物論者であったが、「理論的態度だけを真に人間的なものとみなし、これにたいして実践はただそのきたならしいユダヤ的な現象形態においてとらえられ、固定される」(マルクス『フォイエルバッハ・テーゼ』というものであった。

 歴史修正主義者たちは、真なるものを日本人、汚らしいものを他民族に当てはめて、性質の分類を行う。正直、誠実、勇敢、美、正義、などを日本側に記入し、嘘つき、不実、卑怯、不正義、醜、などを他民族側に集めて記入する。これぞ印象操作の常套手段である。これらの性質は、歴史的現実からはぎ取られ、独立させられて、勝手にあちこちに貼り付けられる。そうしてできあがった絵を真実だと強調する。現実は、弁証法的であるため、正なるものには反正なるものが結びついている。プラスだけの磁石が存在しないのと同じく、歴史的事件には、矛盾した性質が存在する。どちらかだけを取り出して固定すると真の認識は成立しない。たとえば、従軍慰安婦と名乗り出ている証人の証言は、大昔のことでもあり、様々な矛盾を含んでいる。矛盾しているということはただちにその証言に事実性がないということを意味しない。実証主義者は、矛盾があるという発見をすれば、それで問題は終わったとしてあっさりと片づけてしまう。しかし、矛盾の発見は、事実解明の入り口にすぎず、そこからが事実性の本当の解明の始まりなのである。

 それは強制性の問題でも同じである。強制性と自由性を単なる対立として掴むだけでは、抽象的であって、それらは矛盾なのである。つまり、強制と自由は結びついているということである。一方では、慰安業者は、自由な営業という形式を持っているが、衛生・警備その他の点で軍の統制・管理を受けているという形で、強制されていた。軍の強制性を背景にして、業者やブローカーなどが、自由という形式の下で、強制性を行使しえたわけである。禁止は強制である。他方で、軍に物資が集中し、優先的に割り当てられてる中で、軍特殊慰安業者が、慰安婦確保の過程での厳密な本人の自由意志の確認とか不法・違法行為の有無を問題にせず、さらに、軍の警備を受けながら、慰安婦の自由意志による廃業を阻止したこと、義務についてだけ強調して権利を知らせなかったこと、軍当局がそれらを罰しなかったことも問題である。

 実証主義者は、現象の中に抽象的対立を見いだせば満足するが、それでは現実を理解したことにはならない。従軍慰安婦問題についての右派保守派の主張を見てみると、そもそも問題自体を理解していないものも見受けられるが、せいぜいが実証主義レベルのものまでが限界のようである。あとは、アメリカ・中国・韓国の陰謀だととかいう荒唐無稽な空想話が見られる。仮にそうだとしても、事実はどうなのかということ自体は残るわけで、それは陰謀があろうがなかろうが、残るのである。少なくとも、この問題に関する政府資料などの公開が必要だ。

 カリフォルニア州選出の日系アメリカ人のホンダ議員が中心になってこの決議の採択が民主党議員によって勧められているのだが、そのことが日本で報道されると、自民党や民主党の右派議員たちが、「河野談話」見直しを要求する集団を立ち上げた。自民党の議連は、「河野談話」に言う政府の強制はでっち上げて、事実無根だから、見直すべきだという考えを持っているくせに、政治的配慮から、政府資料の引き渡しを求めるに止まった。自分たちの考えを貫くよりも、政治計算して、安部政権を傷つけることを回避すると政治判断したのである。自分たちがその程度の低い志操しかないくせに、他者に高い志操を求めるのは、エゴイズムまるだしで、政治家としては低レベルである。

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10日の中教審答申によせて

 10日、中教審答申が出た。このところの教育再生会議や中教審に対する文部科学省の官僚の介入の強化によって、文科省寄りになりつつある。

 教育再生会議は、いったんは会議の公開を打ち出したが、結局、自由な討論ができなくなるなどの理由で、非公開のままとすることを決めた。中教審は原則公開であるが、中教審は自由な議論がなされていないというのだろうか。国会は、原則公開であるが、あれは自由討論ではないと言うのか。むしろ、こういう重要で人々の関心の高い教育論議こそ、公開して、人々の視線を感じつつ、責任感を持った上で、自由に討論すべきである。そうすれば、文科省や自民党などが、裏からこそこそと介入するような余地をなくすことができて、自由にものが言えるようになるのである。

 中教審はもともと文科省サイドに立つ委員が多いので、議論が文科省寄りに偏るのはあらかじめわかっている。それでも、全国知事会や規制改革会議などからの意見にも配慮して、教育委員会改革案では、賛成論と反対論の両論併記に止まるという形での世論の反映が実現した。教育再生会議も、原則公開とすべきだ。

 この間の教育改革論議は、短期間の間に、進められ、ついには、中教審で、両論併記記述で答申を出したことを含め、生煮えのまま、急がれている。それは、「中教審の答申は、従来なら1年以上の時間をかける。わずか1カ月の短期間で取りまとめた今回のケースは、梶田叡一分科会長が「むちゃと言えばむちゃ」と言うほど、審議期間の面でも異例だった」(3月11日『毎日新聞』)というほどだ。また、委員の1人は、答申案に反対した。このような重要な領域について、人々の理解が進まないまま、改革が進められれば、現場の混乱は必至である。

 安部総理は、小泉前総理との手法の違いについて、「小泉政権は、副作用を伴う劇薬だが、自分はじわじわと効く漢方薬だ」と述べた。教員免許更新制や分限免職処分者の免許剥奪などは、「劇薬」の類である。それをこんな短期間で、導入決定しようというのだから、これは小泉政権以上の副作用を伴うものとなるだろう。

 これらの教育改革には反対である。教育論議は、もっと時間をかけて、人々の意識を反映しながら、一から行うべきだ。

 中教審答申のポイント(3月20日『毎日新聞』)

 ◇学校教育法◇

  • 義務教育の目標に「我が国と郷土を愛する態度」を新設
  • 義務教育年限は9年の現行通り
  • 学校は自らの評価制度を設けるべきだとの努力義務規定を新設。情報開示規定も新設
  • 副校長、主幹などの設置規定を新設

 ◇教員免許法◇

  • 免許状の有効期間は10年間
  • 分限免職処分を受けた場合は免許状失効
  • 更新時の講習時間は30時間程度

 ◇地方教育行政法◇

  • 教育で著しい不適切行為がある場合、国が教育に関する責務を果たす仕組みが必要(教委への勧告・指示権限に関しては賛否両論併記)
  • 教育委員に必ず保護者を含むようにする
  • 教委は第三者らによる点検・評価を受けて議会に報告
  • 教育長任命時の国の承認制度復活には反対
  • 教委が私学に指導する制度には反対
  • 文化とスポーツの管轄は教委から首長に移すことを可能とする
 社説:中教審答申 論議はまだ尽くされていない

 歯切れが悪い。中央教育審議会の答申は、焦点の教育委員会への国の是正勧告・指示権限に関して賛否両論併記という異例の内容になった。最終判断は安倍晋三首相に預けた格好である。

 諮問を受けてわずか1カ月余の集中審議。何をそんなにあわただしく、と言いたくなる。今国会に関連法改正案を提出したい首相の意を受けたのだが、待ってほしい。意見が分かれているなら、もっと論議を重ね、ていねいに時をかけて国民の理解や納得を得る努力を怠ってはならない。

 教委改革が持ち上がったのは、昨秋から相次いだいじめ自殺や大量履修漏れ問題が大きなきっかけだった。教委の対応のずさんさ、問題隠ぺい、チェック機能の甘さなどが露呈し、委員が名誉職のようになって組織が形がい化している所も少なくないと指摘された。

 だが制度が原因で問題が起きたのか。そうではなく、きちんと機能していなかったのだ。その意味で教委の責任自覚が必要だが、では国が介入すれば機能するのか。国は有能で規範性が高く、地方はその指示に従えばいいというほど問題は単純ではない。第一、履修漏れについては文部科学省も早くに実情の一端を察知していながら適切な対応ができず、本省から各地の教委に出向している官僚たちも見過ごしていたではないか。

 また一連の教育改革論議が混乱気味であわただしく感じられるのは、さまざまな会議が林立し、方向性がまちまちなためでもある。中教審、再生会議のほか、政府の規制改革会議、自民党の教育再生特命委員会、自民・公明両党の与党教育再生検討会……。教育に関しては議論が多様で活発なのはいいことだが、テーマや課題で分担をしないと国民は戸惑う。そして手間をかけてもきちんと集約していく粘り強い意思が必要だ。

 法を改め、制度をいじれば、それだけで教育問題が解決するわけではない。例えば、一般に授業を増やせば学力問題は改善するという論議があるが、首をかしげる現場の先生は少なくない。子供たちの生活全般にわたる意欲の低下を指摘し、これが根本的な問題とみる声も多い。「早くに総がかりで取り組むべき緊急の課題」とは実はこちらにあるとも思えるのだが、どうも首相は法や制度という形にこだわるように映る。

 ちょうど60年前の1947年3月18日。義務教育6・3制発足を前にした国会で、当時の文部省学校教育局長は、戦災で教科書も与えられない子供たちの窮状を報告しながら声を上げて泣いた。豊かさの奥に底なしの荒廃を内包したような今日の教育状況を改善するにも、やはり子供をはぐくむことへの熱い思い入れや愛情が出発であることに昔と変わりない。

 今回の中教審答申で文科省が法改正案を急ごしらえし、舞台を国会審議に移すとしても、常にそこに立ち返って考えてほしい。法改正自体が目的ではない。何のためにするか。何が今子供に必要か。そこがぼんやりしたまま形ばかり作っても、空疎だ。(『毎日新聞』 2007年3月11日)

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いわゆる従軍慰安婦問題について

 アメリカ議会で、「従軍慰安婦」問題批判決議の採択に向けた議論が起きている。同種の決議は、これまでも何度も議会に提出されたが、共和党が多数でこれを通さなかったため、成立しなかった。しかし、先の中間選挙で、上下両院で、民主党が共和党を逆転して、民主党多数となったため、この決議が成立する可能性が強まった。

 アメリカ議会の動きに対して、安部首相は、従軍慰安婦問題の政府公式見解である「河野談話」に疑念を表明し、「狭義の強制性はなく、広義の強制性があった」と述べた。それが、アメリカを始め、韓国・中国・台湾から批判され、自民党内からの再調査と「河野談話」見直しの動きが強まると、今度は、政府としての再調査は行わないが、資料提供などの協力はすると語った。

 この従軍慰安婦問題については、証言の曖昧さを問題にして、証言の信憑性を疑問として、その存在そのものを虚構、政治的プロパガンダとする主張が、見られる。

 さらに、軍慰安所は公娼制度があった時代の商業売春とする説を唱える藤岡信勝のような者もいる。しかし、公娼制度下の売春施設では、かなり厳格に本人の自発的意志の確認が行われており、売春業に対する官憲の統制・管理は、厳密なものであった。それに対して、軍の慰安所の場合は、業者は、騙したり、脅したり、拉致同然で、連れ去ったりしている。そのような違法な実態は、調べればすぐにわかることで、違法行為があったと知った時点で、業者に対する何らかの強制措置を取るべきである。軍当局が知らなかったというのは、あまりにも迂闊な話であり、そんな軍隊はへっぽこ軍隊である。業者の無法行為、違法行為があったことについては、従軍慰安婦否定論者も認めている。

 藤岡のように公娼制度の一部だとすれば、内地での営業は、官憲の強い統制の下にあって、厳重に管理されていたのに、軍の慰安所では、なぜ軍当局の統制が及ばず売春業者が野放しになっていたのだろうか? 自由な営業活動が可能な時代ではなかった。戦時の統制色の強い時代である。1937年からの日中戦争以降、海外からの物資流入が減り、1939年11月勅令第789号「米穀搗精(とうせい)等制限令」が出て、配給制度になっていくという時代である。物不足なので、金を持っていても買える物がないという時代である。それに、朝鮮半島は、日本であって、そこの官憲や業者が違法な慰安婦募集に関わったということが指摘されるが、それは当時では、日本人のやったことになる。

 「クッキーと紅茶と」ブログhttp://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20070307/p2に、「mojimojiさんによる、慰安婦問題の整理」という引用があり、これがよく要点を整理している。このブログには前半部分だけの引用しかないが、引用もとの「モジモジ君の日記。みたいな」http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070307に、「河野談話」が載っているので、それを資料として引用しておく。

 広義の狭義のと安倍がこの問題についてロクに知らないのがよくわかる。手元に資料がないので大雑把になるが従軍慰安婦問題の何が問題なのか、簡単に整理してみる。

 第一に、軍の行く先々に慰安所を開設することは日本軍が立案して業者を手配している、つまり日本軍が完全にイニシアティブをとっているという点がある。日本軍にとって慰安婦は軍需物資であり、慰安所は兵站の一部だった。業者が軍の需要を見込んで慰安所開設を持ちかけた、という形のものではない。

 第二に、業者が慰安婦を徴用する際に、「兵隊の食事の煮炊きなどのお手伝いの仕事がある」などの嘘による勧誘、前借金や暴力威圧などによる強要といった手段が多く用いられた点がある。多くの証言から、兵隊や官憲が直接行ったというケース(狭義の強制)は報告されておらず、軍の依頼を受けた業者が行った(広義の強制)のが一般的だった、ということになっている。ただ、いずれにせよ慰安婦たちの多くが意に反して集められたという点、意に反して集められた慰安婦の移動(輸送)等々に軍が便宜を払っており、てゆーか元々完全に軍の発案で進められていたことだからこうした徴用の実態を「知りませんでした」で通るわけもなく日本軍日本政府の責任は当然あったと考えられる。

 第三に、こうした意に反して連れてこられた多くの慰安婦たちが、その自発的意思に基づいて故郷に返される、ということもなく、しばしば長期に渡って奴隷的監禁状態に置かれたということ。慰安所の設営や管理の多くの面で軍が関与しており(慰安婦が逃げ出さないように警備するといったことも含む日本軍日本政府の責任も当然あった。

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話(平成5年8月4日)

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。

 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。

 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

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揺らぐ家族制度等について

 3月5日のテレビ朝日の「TVタックル」は、女性国際サミットとして、多国籍の女性を集めた討論だった。

 日本からは、フェミニストの田島陽子氏、自民党広報局長の片山さつき氏、韓国人、中国人、フランス人、オーストラリア人、が参加した。パネラーとして、評論家の三宅氏が出ていた。それに、レギュラー三人である。

 議題は、柳沢発言、少子化問題、環境問題等であった。柳沢発言については、議論以前という雰囲気で、自民党広報の片山議員だけは、すでに何度も謝罪していることと、家族実態を説明することで、もう終わりにしたいという感じの発言をした。

 柳沢発言が議論以前だということは、6日の『毎日新聞』の「新聞時評」欄のJR九州会長の書いているものからも明らかである。田中氏は、柳沢発言を「失言」だろうとしている。氏は、「例えのセンスがあまりにも悪く、その場で言い直したと言っても通らないことと、少子化問題は「出生率」のみならず、いろいろな角度からなる社会問題だという視点に触れられていないからである」と批判している。

 その上で、氏は、発言要旨を入手した。それは、以下の通りであった。

 「なかなか今の女性は一生の間にたくさん子どもを産んでくれないんです。人口統計学では女性は15~50歳が出産をしてくださる年齢で、その数を推定するとだいたい分かるんです。他から生まれようがない。2030年に30歳になる人を考えると、今7、8歳になっていて、生まれちゃっているんですよ、もう。産む機械と言ってはなんだが、装置の数が決まったとなると、機械と言ってごめんなさいね、あとは産む役目の人が一人頭でがんばってもらうしかない。1人当たりどのくらい産んでくれるかという合計特殊出生率が今、日本では1・26でなんです。2055年まで推計したらくしくも同じ1・26でした。それをあげなければいけないんです」

 この「要旨」を見て、「私は「産む機械」というワンフレーズの決めつけから受ける印象とは「少し違うナ」と思ったが、家人は「そんな問題ではない」と言って譲らない」のだそうだ。

 発言全体からは、「産む機械」ということを中心にしているわけではないという法律家流の法廷戦術的な弁護論を言う者あり、保守論客の渡部昇一上智大教員のように、まともに擁護しようとする者あり、片山さつき代議士のように、柳沢厚生労働大臣の妻は職業を持って働き、二人の娘も外で働いていて、大臣はそれなりに女性問題に理解があるからと「失言」をかばうというものもある。

 当初、柳沢発言を擁護しながら、その後の安部総理らのかばい方を見て、柳沢大臣は、フェミニズム思想の持ち主であり、それをかばう安部政権もフェミニズムに犯されているとして一転して、批判した林道義氏のような反フェミニズム・サイドからの批判もある。

 「TVタックル」で、日本教育再生機構(八木秀次代表)の屋山太郎顧問が、女性議員の数が少なすぎると不満を示したことに示されているように、自由主義的フェミニズムは、保守派の中に流れているものである。それは、日本経団連の「御手洗ビジョン」にもある。少子化の中で、労働人口、生産年齢人口減少が進めば、労働力不足が生じ、それは、景気上昇期においては、大変な企業活動の制約条件となる。すでに、人材獲得競争が激しくなっていて、日本生命で、女性役員を初めて登用したり、ユニクロがパートの大規模な正社員化を決定したり、と、女性労働力の活用を積極的に進めている。その流れの中では、家庭内にある潜在的労働力である専業主婦層を活用したいことだろう。

 ジェンダー・フリー思想が、男女画一化であって、それこそが共産主義だというのは、完全ないいがかりである。ソ連は、当初は、男女平等という理念の実現を図るために、当時としては画期的な政策を打ち出したが、やがて、男性側からの反動が本格化し、やがて、後退してしまい、ついには社会主義家族なる戯画のような女性差別的な家族制度が国家から押しつけられるようになったのである。この辺については、佐藤文明氏のHP(http://www2s.biglobe.ne.jp/~bumsat/B-hp.Main.htm)にある「モルガン=エンゲルス説の周辺」という論文が参考になる。

 婚外子差別の問題は、結婚制度の持つ問題を浮上させている。三宅氏は、「TVタックル」で、結婚を「性を異にする二人格の、彼らの性的特性を生涯にわたって相互的に占有するためになすところの結合である」(カント『人倫の形而上学』)という定義を持ち出した。ただ、氏は、むしろ性器の相互使用権という意味に矮小化していて、カントが強調する相互の人格的関係については述べなかった。カントはその唯一の条件として、「一方の人格が他方の人格がさながら物件として取得されながら、前者は前者でまた逆に後者を同じように取得するという条件のもとにおいてである」と述べている(同)。ここで、カントは、「夫婦の関係は、相互に相手方を占有しあうところの人格に関して、そうした人格の占有が相互に平等だという関係」であり、「財産の占有が平等だという関係」でもあると述べている。つまり、性的共同態は、男女・財産が平等な共同体だということである。家族共同体で、夫が優越的な地位に立ち、命令権を持っているのは、自然的原因でそうなっただけで、本質的ではないと言うのである。身体を物件と見なすカントの考えには当然疑問があるし、その他カントの議論にはいろいろと問題はあるのだが。

 フランスや北欧諸国では、事実婚が多いことから、婚外子の数が多い。婚外子という理由で、差別されることのないような制度が作られている。

 離婚後300日以内に生まれた子供が、前夫の子として戸籍に記載されてしまうという民法772条問題は、これに引っかかる子供が年間1000人に達するということで、今、法改正を含めた議論になっている。長勢法務大臣は、法改正には消極的だというが、そもそもこの問題を理解しているかどうかさえ疑わしい。保守派の主張は、これらの諸問題になんら具体的に答えておらず、役に立たない精神論である。

 いずれにせよ、民法、家族制度、婚姻制度、戸籍問題、等々が、変化せざるをえない時にきていることは確かである。

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『読売』の「反対のための反対」に反対という欺瞞的レトリック批判 廃棄物処分場問題

 またしても、『読売』の反対のための反対に反対という欺瞞のレトリックの登場だ。正直うんざりする。今度は、原子力発電所から出る放射性廃棄物の処分場立地の話である。

 政府と電力業界が設立した「原子力発電環境整備機構」が候補地の調査地区を公募したところ、高知県の東洋町が名乗りを上げた。それに対して、高知県、徳島県などから反対の声が出ている。それを『読売』は、「原子力発電の問題について、建設的な議論のきっかけにすべきではないか」と呼びかけているのである。

 反対派は、「原発のごみを誘致するな」「自然を守れ」というのであるが、『読売』は、それに対して、「処分場の必要性と安全性について冷静な議論をすることが大事だ」と諭す。

 それからいろいろと理由を挙げて、多くの専門家が安全だと主張しているし、電気の3割を発電している原子力発電所が、廃棄物の処分場ができなければ、止まってしまうという。

 せっかく東洋町が、「小さな町が国家プロジェクトに貢献できる機会」と言って、「エネルギー政策や原子力燃料サイクルでの処分場の位置づけ、安全性などの勉強を重ね、最終段階に入る前に住民投票を行う、と表明している」という程度のことに、政府が東洋町と周辺町村に年10億円を交付しよというのを、橋本高知県知事のように、「金でほっぺたを張っているようなものだ」というのでは、「特定地域の負担を広く国民が分かち合う」ことを否定することになる。「それがいけないというのでは、日本のエネルギー政策は成り立たない。反対のための反対ではなく、大局的な視点で考えるべき問題である」というのだ。

 ここでの「反対のための反対」は、日本のエネルギー政策に反対することを指してる。つまり、『読売』は、これは安全と判断し、しかもエネルギー政策上欠かせないと見なしているのに、反対するのは、「反対のための反対」だというのである。

 他方で、『読売』は、日本の省エネ・環境技術は世界をリードする高い水準だと誇らしげに書いており、それなら、これから省電が進んでいって、電力需要が減っていくと予想すべきだろう。前に書いたことがあるが、中小規模の太陽光発電や風力発電などの発電施設を消費地に近いところに多数作って、送電線を短くすれば、送電ロスが減る。環境庁が先頭に立って、省エネを推進しているところである。それらを含めて、もっと総合的にエネルギー問題について検討すべき時である。ところが、『読売』は、あくまでも現状のエネルギー事情がそのまま続くと想定して、処分場がなければ、原子力発電所が止まるというのである。それが何十年後のことかわからないが、それまでには、日本のエネルギー問題はずいぶん変化しているだろう。

 次に、この記事は、政府と電力業界を信用すべきものとして、いわば「性善説」に立っているのだが、この間、東京電力の原子炉停止の隠蔽などのごまかしが次々と発覚していて、信用をなくしつつある。このような電力会社が、処分場の安全性その他について、正しい情報を出しているのかどうか疑ってかかる必要がある。調査だけで、年10億円もの金を出すというのも、怪しい話だ。社会の木鐸たるべきジャーナリズムの一端を担う新聞社として、政府と事実隠蔽が発覚したばかりの電力会社の広報よろしく振る舞っては、笑いものになるだけだ。

 政府のエネルギー政策に反対することを「反対のための反対」なるレトリックで非難するのは、それに基本的に賛成する『読売』の思想を正当化するための欺瞞である。それに引っかかる者はそれほどいないだろう。別に原子力発電がなくても、人間、幸せに生きていくことはいくらでも可能だ。

 3月3日付・読売社説(1)

 [放射性廃棄物]「大局的に考えたい処分場の立地」

 原子力発電の問題について、建設的な議論のきっかけにすべきではないか。

 原子力発電により生じる高レベル放射性廃棄物の処分場の候補地の調査地区に、高知県の東洋町が名乗りを上げた。

 調査地区は、政府と、電力業界が設立した「原子力発電環境整備機構」が2002年末から公募している。応募したのは東洋町が初めてだ。

 町内をはじめ高知、徳島両県内などで「原発のごみを誘致するな」「自然を守れ」といった反対の声が出ている。

 だが、ここは何よりもまず、処分場の必要性と安全性について冷静な議論をすることが大事だ。

 この廃棄物は、適切に扱えば取り立てて危険なものではない、と多くの専門家が考えている。原子力発電所の使用済み核燃料を化学処理した際に出る放射性物質で、ガラスで固めてある。高温のため、貯蔵施設で30年~50年間冷やした後、深さ300メートル以上の地中に埋設して、処分する方針が決まっている。

 これが頓挫すると、使用済み核燃料が処理できなくなる。その結果、日本の電力の3割を担う原子力発電は、燃料が交換できなくなって止まる。処分場の立地は日本のエネルギーを支える上で極めて重要な事業だ。

 無論、国民の理解を得つつ、安全に進めねばならないだけに、3段階の厳格な手続きが定められている。

 まず2年間、地震などの記録を文献調査する。次に4年間で、ボーリングなどによる概要調査を行う。最後の詳細調査では試験施設を地下に造って、詳しいデータを集める。次の段階に進むごとに、政府の許可と地元の同意が要る。

 東洋町は「誘致」しようとしているのではなく、応募したにすぎない。当面、第1段階の文献調査が行われたとしても、工事は一切ないし、もちろん自然はそのままだ。

 田島裕起町長は、応募を「小さな町が国家プロジェクトに貢献できる機会」と言う。エネルギー政策や原子力燃料サイクルでの処分場の位置づけ、安全性などの勉強を重ね、最終段階に入る前に住民投票を行う、と表明している。

 調査が始まれば、東洋町や周辺市町村には、年に総額10億円が政府から交付される。橋本大二郎・高知県知事は「金でほっぺたを張っているようなものだ」と言うが、原子力施設は各地にあり、交付金も出ている。特定地域の負担を広く国民が分かち合うためだ。

 それがいけないというのでは、日本のエネルギー政策は成り立たない。反対のための反対ではなく、大局的な視点で考えるべき問題である。

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君が代伴奏拒否問題の最高裁判決によせて

 28日の大手4紙は、「入学式の君が代斉唱で、ピアノの伴奏を校長から命じられた小学校の音楽教師が、「君が代は過去の侵略と結びついているので弾けない」と断った。教師はのちに職務命令違反で東京都教育委員会から戒告処分を受けた。教師は「処分は、憲法で保障された思想、良心の自由を侵害するもので違法だ」として、取り消しを求めた」(『朝日新聞』社説)裁判の最高裁判決を取り上げている。

 またしても、批判的な『朝日』『毎日』と判決支持の『読売』『産経』に分かれた。当ブログで何度も取り上げているとおりである。

 『産経』社説は、「君が代伴奏拒否 最高裁判決は当然だ」というタイトルで、「今回の最高裁判決は、1・2審の判断をほぼ踏襲した極めて常識的なもので、当然の結果であろう」と書いている。他国で、国歌伴奏を拒否して音楽教師が処分を受けるという事例があるのかどうかわからない。事前通告され、校長が伴奏テープを用意した上での入学式の君が代伴奏拒否が、職務命令違反に当たるというのは、あまりにも官僚主義的である。

 処分を受けた教諭は、思想・良心の自由という憲法上の規定を、行政的な職務命令よりも上位と考えたわけで、法体系上、こちらの方が極めて常識的である。人々には、法違反の命令まで従う義務はなく、むしろ善良な市民なら、法違反を指摘し、それを阻止するべきだからである。

 問題は、教諭が主張した「歴史観・世界観」をどう見るかである。その点について、最高裁は、個人の思想・良心の自由の問題であり、校長の入学式での君が代伴奏を命じた職務命令は、それを犯すものではないとして判断を避けた。君が代の「歴史観・世界観」を問わなかったのである。入学式で伴奏を命じられたのは、校歌ではなく、国歌とされた君が代という特定の歌であって、その歌詞やそれが歌われてきた歴史、作曲の経緯、政治的な意味等々があり、あった。それを最高裁判事たるものが、判断できないというのは情けない。

 『産経』は、とにかく、教育現場での日の丸君が代強制に反対する教職員の運動に打撃を与えたと思いこんでこの最高裁判決に飛びついた。思想・良心の自由があるのは当然だが、教諭は、地方公務員法上の地方公務員であることを忘れ、上司の職務命令に従うのは当然だという。だが、一市民として、この国の最高法規である憲法を行政命令よりも優先するのは、当然のことである。これは、職務命令一般の違反ということではなく、教育行政のあり方をはらんだ問題である。

 その点について『読売』社説は、「問題なのは、一部の教師集団が政治運動として反「国旗・国歌」思想を教育現場に持ち込んできたことだ。国旗・国歌法が制定され、教育関連法にも様々な指導規定が盛り込まれている現在、そうした法規を守るのは当然のことだ」として、はぐらかしている。教諭が信条にしているのは、反「国旗・国歌」思想ではなく、反「日の丸・君が代」思想である。それが国歌国旗法によって、「国旗・国歌」と規定された。しかし、それらを強制しないと政府与党が言明した。それにも関わらず、学校現場で、強制されている。教育関連法にも様々な指導規定が盛り込まれているというが、指導規定はいろいろと紆余曲折、変化があって、これからも変化するものだ。

 『読売』は、地方分権を時代の流れとして支持しながら、教育に関しては、例外だと主張した。だが、教育こそ、もっとも地方分権されなければならないものだ。文部官僚には現場のことなどわからない。文部官僚は、5年から10年ぐらい学校で一教職員として働かせてみてもよいぐらいだ。

 『朝日』社説は、「処分を振りかざして国旗や国歌を強制するのは行き過ぎだ」と主張している。『毎日」社説は、本来教育のありようや運営法は司法が決するものではない。行政当局が安易に「これでお墨付きを得た」とばかり一律の統制を強化するようでは、ますます亀裂や混乱を深めることにもなろう」と述べている。これこそ、当然のことである。また、「「正常化」を名目に一律に抑え込むような処分は、殺伐とした空気を生むだけになりかねない。その時、しわ寄せをこうむるのは敏感な子供たちである」ということが、最高裁判決、『産経』『読売』に欠けている視点である。そして最後の「戦後学校教育の原点は「自治」であり、特に学校現場の裁量に期待されるところが大きい。そのことを改めて確認しておきたい」という視点も『産経』『読売』に欠けている点である。

 この間のいじめ問題などに見られるのは、官僚化した学校現場が、上ばかりを見て、子供を見ず、現場の裁量を十分に発揮できていないということが大きいということである。現場の意見を聞くよりも、上からの命令を気にしてばかりいるとか、現場の教職員が、上からの命令を待つという受動的な姿勢になって、官僚化し、失敗しないことばかりを気にするようになってしまう。そうなったら、教育はおしまいだ。

 『読売』は、最後に、「卒業・入学式シーズンが近い。児童や生徒たちを厳粛で平穏な式典に臨ませるのも学校、教師の重要な役割である」という官僚主義的な夢想を描いている。「厳粛で平穏」は、官僚主義的な価値観だ。卒入学式は、「生き生きと楽しい」ものがよいと思う。最高裁判決は、形式主義的なもので、教職員の思想・良心の自由を一応、公共性による制限があると限定しつつも、基本的に認めている。したがって、『読売』の一部教師集団による思想持ち込みへの非難は、あくまでも一新聞の『読売』の思想であって、それ以上ではないということもこの最高裁判決で明らかになった。教職員が、反「日の丸・君が代」思想を持つことは自由なのだ。しかし、文部科学省が職務命令で教職員に強制したいのは、正「日の丸・君が代」思想なのだから、その道は険しくなったとも言えるわけである。統制強化は、混乱を拡大するだけだという『毎日』の指摘のとおりである。

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