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世界社会フォーラム内の路線対立

 小倉利丸さんのホームページno more capitalism  http://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/wordpress/  に、ケニアのナイロビで開かれた世界社会フォーラム(WSF)で起きたケニアの「民衆会議」の行動をめぐる経過をたどりつつ、WSFに起きている諸問題について書かれた南アフリカの反民営化運動の活動家、トレヴォ・ンガネのレポート「WSF:ナイロビで起きたこと」の翻訳が載っている。これは「レイバーネット・ジャパン」のホームページに転載されている。WSFは明らかに曲がり角にきており、組織委員会と「民衆会議」の対立は、深刻な問題をはらんでいる。

 とくに、このレポートの「わたしの意見は、現在の「空間か運動か」論争はまちがった論争だというものだ。これは、ときには、専門的な中産階級の机上の空論に終始しているようにみえる」。「普通の労働者階級や貧困層にとってそこはどんな空間になるのだろうか。誰がこの運動を作り、動かし、管理するのだろうか。それは、NGOや個人的な指導的人物が貧困層への関心を自分勝手に語るための空間生み出すような運動になるのだろうか。WSFは資本家との協力によって掘りくずされるのだろうか。わたしたちが経験したナイロビのできごとはこれらの問いのいくつかをはっきりと提起したし、それは、WSFの著明なNGOや有名人の多くによる(全てが、というわけではない)答えに対する異義申し立てであったと思う」という提起は重要である。

 なお、社会運動総会は1月24日付「声明」を発し、WFS内に顕著に現れた「商業化、民営化、軍事化の傾向」を非難した。このWSF内の路線対立は、分裂にまで発展するかもしれない。注目する必要がありそうだ。

 2007年3月22日(木曜日)

WSF:ナイロビで起きたこと 

  以下に訳出したのは、ナイロビ世界社会フォーラムに参加した南アフリカの反民営化運動の活動家、トレバー・ンガネによるレポートである。今回のWSFの問題点を彼の経験をまじえて論じられている。このエッセイは多くのサイトに転載されているので原文はあちこちのサイトにあるが、さしあたりOpen Space Forumのウエッブを参照してください。このサイトには他にもWSF関連のドキュメントが豊富に提供されている。

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WSF:ナイロビで起きたこと
トレバー・ンガネ
原題:WSF: What happened in Nairobi by Trevor Ngwane

 世界社会フォーラムはいつもより小規模なものになった。このWSFはNGO(ストール)と教会(開会の行進)に占領された。いくつかのキリスト教原理主義者たちは、十字架に若い妊婦妊をあしらった彫像(この彫像は女性のリプロダクティブ・ライツを主張するためのものだが)を十字架から取り外せという要求すら出した。この問題は、社会運動総会の声明において、世界社会フォーラムのポリティクスにそぐわない団体の参加を認めるべきではないという文言を入れるという動きをうみだした。

 WSFは、携帯会社のセルテルの商売の場になっていることが参加登録とセルテルのシムカードの購入とがむすびついていることでもはっきり見て取れた。セルテルの広告は会場のあらゆるところにみられた。しかも、悪いことに、セルテルがもうひとつの携帯会社のサファリコムよりも割高なのだ。会場内のレストランはとても高く、また会場内ではケニアの通常価格の二倍の値段でミネラルウォーターを売る人達がたくさんみられた。

 Kenneth Kaundaが開会式を宣言し、その数時間後のデモに際して40分ほどの演説をした。彼の演説の筋書きは反貧困と(金持と貧乏人、ユダヤ人とパレスチナ人などなどの間の)和解であった。わたしはある参加者から、WSFの組織委員会がヒルトンホテルである閣僚と会食をしているのを目撃したという話も聞いた。多くの参加者にとって最悪なことは、多くの現地のケニアの人たちが参加できなかったということだ。というのも、彼らはこの集まりについて知らされていなかったし、入場ゲートで500シリングの金を支払うこともできなかったからだ。結果として、いくつかのワークショップのセッションは、まったくケニア人の参加がなかったし、アフリカ人の参加もないワークショップもあり、「北からの参加者」、とりわけアカデミズムの人間たちが、もろもろの運動を支持したり批判するための演説をぶつことで占められてしまった。

 上述のような状況への不満、とりわけWSFの会場のゲートのところで、地元の人々が入場を阻止されているということについての不満が、WSFの最終日に開催される社会運動総会を準備する会合のなかで公然化した。この会合では、4名の者を選び、組織委員会に自分達の危惧を伝えることになった。この会合は、これに参加していたケニア社会フォーラムのコーディネーターと少なくとも組織委員会の一人にとってはおもしろくなかっただろう。彼らはこの会合で、何度も入場料問題をこれまでも提起してきたが他の組織委員会のメンバーによって意見は覆されてきたということを述べた。この会合で、あるケニアの参加者は自分達が参加費を払う金をもっていないことで、どれほどのけものにされたと感じているかを語り、結局かれらは、ケニアの闘う大衆により近い場所で彼ら独自の集会、「民衆議会」を開くことにしたということを非常に魅力的な口調で語ってくれた。

 わたしは組織委員会と会うための派遣グループの一人に選ばれたが、わたしたちはこの日の夜に彼らとコンタクトをとることはできなかった。しかし、次の朝、組織委員会の議長のオユギ教授を含む2名のメンバーと会えた。しかし彼らはとの会合はあわただしいもので、彼らはこの問題を詳しく調査すると約束した。しかし、ここで会った組織委員会のOduorはひじょうに自己防衛的だった。翌日の朝には不満は高まり、わたしたちはケニアの人々が自由に入場できるようにゲートに突入することを決めた。この結果、約200名ほどのケニアの人々が無料で入場できたが、この日の後になって、ゲートは500シリングを持たない人を入れないように再び閉ざされた。わたしたちはまた入場料が50シリングに引き下げられたことも知った。南アフリカの仲間たちは、こうした措置に南アフリカ政府の貧困政策と同じものをみた。そして、他の国や他の運動体から来た人々もこの入場料引き下げを受け入れなかった。

 わたしたちはやっとのことで組織委員会との会合をもつことができた。私達3人がオヨギ教授とTaoufik氏(アフリカ社会フォーラムの事務局)に会った。われわれの側は、わたしとカナダの女性行進から来たダニエラ、そしてベニンから来たエミリである。残念なことに、他の派遣グループ(民衆議会のメンバー)は、入場パスを持っていなかったための会合に参加できなかった。この会合は、ひどいもので、オヨギが怒鳴り、わたしたちに対して民主主義を欠いていると糾弾し、基本的にはわたしたちが北や南アフリカ(アフリカの中のある種の北の国)からやってきてケニアのプロセスを壊しているのだということなのだ。彼は、この日彼に入場料に抗議するデモとでくわしたために苛立ちと怒りを覚えているということを白状した。以前彼はなかば冗談まじりで、わたしが「自分の子分たち」を差し向けたと言ってわたしをを批判したことがあった。わたしたちは組織委員会から明確な回答を得ないままうんざりした気分と意気阻喪のなか会合を後にした。

 翌日、わたしたちは再びゲートに突撃することを計画したが、警察と軍の増援部隊がゲートにいることを見付けた。かれらは大きな銃を手にしていた。仲間たちは、ゲートを無料で通すまで、メインの道路を封鎖することにした。30分ほどこうした行動をとったあとで、ゲートが開けられた。デモというよりも群衆が組織委員会のオフィスに入場料問題で、方針を変えるように要求して押しかけた。さらにもうひとつの要求が付け加えられた。それは、WSF参加者への水の無料提供ともっと安い食事の提供の要求だった。デモは、事務所にだれもいないことがわかり、ゲートが壊され、組織委員会のメンバーが今後入場は無料であると記者会見で公表せざるをえなくなった。わたしは、かれらが他の諸要求(水、食糧、商業化)にどのように応えたのかはっきりとはわからなかった。組織委員会のメンバーのNjokiは、彼女がオヨギと同様、北からの参加者がローカルなプロセスを壊している、このフォーラムはアフリカ人によって管理されているのだからと繰り返しのべたとき(まるで、私達が人種差別主義者だと遠回しに言われているような気分になったが)、群衆たちの怒号の前に沈黙せざるをえなかった。

 地元の人々が自由に出入りできるようになって、WSFの会場の状況は好転した。わたしは、住宅立ち退きと闘う地域の運動のセッションに参加したが、もし参加費が無料にならなければ、こうしたセッションはできなかっただろうと思う。かれらは入場料を支払えなかっただけだからだ。しかし、みんなは全然喜んではいなかった。というのもWSFの会場で配られている新聞に会場でもっとも高額な料金をとっているレストランがケニアの内務大臣のものだということが報じられていたからだ。この大臣は、その強権的な政策のために「粉砕機械」として知られていた。(彼は植民者の従者として腕をあげ、後に交通大臣となり、タクシー産業を整理し、結果として交通事故率を引き下げた)デモは、WSFのど真中に陣どっていたウィンザー・ホテルと呼ばれる彼のレストランを占拠した。他のフード・コートはずっとはなれた場所にあった。抗議行動の参加者たちがたべものを確保して腹を空かせた子どもたちに配ったので、大勢の子どもたち–大半がストリートチルドレンだったが—はただで昼食にありつくことができた。

 これらふたつのできごと、ゲートに突入し、ホテルの料理を獲得したこのできごとは、参加者全体のなかのわずかな人達によって組織されたことだが、このWSFが階級の敵によってハイジャックされたと感じていた参加者の多くを代弁する行動だった。わたしは、地元の人々を含めて多くの仲間と会ったが、彼らは事態を是正するためにとられた手段を歓迎していた。後にわたしは社会運動総会の議長をするようにと依頼され、それもこのふたつの行動に関わったからだと思う。社会運動総会では遡及的にこの抗議行動を熱烈に承認し、支持した。わたしと共同議長をつとめたのは、組織委員会のメンバーでもあるWa’huだった。彼女は、明らかにこの行動を支持するように追い詰められ、結局反対はできなかった。というのも、ゲートで起きたふたつの行動の現場に彼女もおり、委員会の入場料政策を説明するための場をあたえられていたからだ。彼女の総会での司会では、WSFはいうまでもなく、組織委員会を否定するような意図はなく、わたしたちは、自分達の空間に見出した容認できない不公正を正すために必要な行動をとったのだということを指摘した。

 最後に、チコ・ウィテカやその他主要なWSFの仲間とWSFは「空間か運動か」という論争に参加したことに触れておこう。これは、WSFの政治的な方向性を提起したサミール・アミンらのバマコ・アピールの議論の文脈でのことである。わたしの意見は、現在の「空間か運動か」論争はまちがった論争だというものだ。これは、ときには、専門的な中産階級の机上の空論に終始しているようにみえる。特に、WSFに参加できす、こうした論争のことを知らない何百万という人々のことを考えれば、そういわざるを得ない。普通の労働者階級や貧困層は抵抗と闘争の運動を必要とし、そうした運動を創り出し、またそうした運動を持ってもいる。彼らはまたこうした運動を息づかせ発展させるための空間を必要とし、創造し、また持ってもいる。真の問題は、どのような場所をWSFは実際に持とうとしているのか、である。普通の労働者階級や貧困層にとってそこはどんな空間になるのだろうか。誰がこの運動を作り、動かし、管理するのだろうか。それは、NGOや個人的な指導的人物が貧困層への関心を自分勝手に語るための空間生み出すような運動になるのだろうか。WSFは資本家との協力によって掘りくずされるのだろうか。わたしたちが経験したナイロビのできごとはこれらの問いのいくつかをはっきりと提起したし、それは、WSFの著明なNGOや有名人の多くによる(全てが、というわけではない)答えに対する異義申し立てであったと思う。

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