道徳の教科化問題によせて
先に、教育再生会議は、道徳を教科に格上げすべきという考えを示したが、それに対して、中央教育審議会の会長である山崎正和氏が、小中学校での道徳教育は不必要だと述べたという。
その理由を山崎氏は、「道徳教育について、賛否の割れる妊娠中絶の是非などを例示して「『人のものを盗んではならない』くらいは教えられるが、倫理の根底に届く事柄は学校制度(で教えること)になじまない」と指摘。「代わりに提案しているのは、順法精神を教えること。『国の取り決め』として教えれば良い」と持論を展開した」という。
それから、「現在行われている道徳教育の必要性を問われると「現在の道徳教育もいらないと思う。道徳は教科で教えることではなくて、教師が身をもって教えること。親も含めて大人が教えることだ」と述べた」そうである。
これは、常識的な判断であろう。道徳といっても、時代によって変わるし、今、変わりつつあるものもあるし、さらに、氏が言うように判断が分かれていて、難しい問題もある。そういう道徳について、学校で教え、さらに、その成績評価まで行うのは難しい。それに対して、法律というすでにある規範についてなら、学校で教えられるというのである。法律は、道徳問題抜きに存在する規範であり、知識であるから、数値化して段階評価しやすいからである。
近年、裁判において、遺族感情への配慮ということが強く言われるようになり、それが量刑判断に影響を与えるようになっていると言われる。それによって、厳罰化が進んでいるというのである。裁判はいつの間にか、遺族が加害者に報復するのを代行する制度でもあるかのような様相になってきている。それを後押ししているのは、世間の人々の被害者遺族への同情の念であり、道徳感情であろう。もちろん、遺族の側からは、加害者は、憎むべき存在であり、法律を犯したばかりではなく、道徳をも踏み破った悪者であり、与えられた被害に見合う罰を与えなければならない存在であり、被害者に代わって、遺族が敵を討ち、報復すべき対象である。「目には目を」という古代メソポタミアの掟こそが、そうした遺族感情に応えるにふさわしいものと考えられるであろう。それは、犯罪によって、社会そのものが傷つけられたと感じる社会的な道徳感情にも適合するものだろう。
問題は、それが社会的な道徳感情であるということにある。社会的である以上、社会が変われば、道徳も変わり、道徳感情も変わってしまうのである。それは、歴史事実が新資料の発掘などによって変化してしまう歴史でも同じだというのが、山崎氏の意見であり、それは一面では正しいのである。しかしそれは、学校教育にはなじまないということもない。というのは、歴史教育では、新発見などを通じて、歴史が書き直されてきたこと自体が、教育されるからである。道徳教育についても同じことができるかが問題である。
例えば、記紀には、天津罪と国津罪というものが出てくるが、その中に、畦放ちの罪というのがある。これは、田んぼの畦を壊すことは大罪だというものだが、現代ではそれは器物損壊といった一般的な刑法の対象であるにすぎない。農業社会だから、こういう罪は、極めて重い罪とされていたのである。もちろん、現代でも、米農家なら、畦放ちは、なによりも大罪であるという道徳的感情はあるだろう。
現代では、遺族感情を重視するという流れが司法あるいは社会的に広がっているのは、殺人罪を最も重大な犯罪で、社会を最も大きく傷つける犯罪と見なす人が多いからであり、そういう道徳感情が広く形成されているからである。人々の多くは、殺人罪には、最高刑が当然と考えており、そうならないのは、例外であると考えている。
それに対して司法は、これまで、刑罰・監獄制度その他による矯正の可能性を考慮して、死刑判決に、複数の人を殺害した場合などの条件を設けてきた。それは法文化されているものではなく、判例として積み重ねられてきたものである。それと、もう一つは、冤罪の可能性への考慮である。実際、この間、冤罪事件で、無罪になるケースがいくつもあった。鹿児島県警が、選挙違反をでっち上げたケースで無罪判決が出たばかりである。
道徳論の危うさは、例えば、滋賀県で起きたJR特急内での強姦事件のケースで、マスコミが一斉に、犯罪を見て見ぬ振りをしたとして、乗り合わせた乗客を道徳的に非難するということにも現れた。この事件では、被害女性が泣きながら男にデッキに連れ出されようとしていたのを見ていた乗客に対して、男が「なにをじろじろ見ているんだ」などとすごんだため、乗客が黙ってしまってなにもしなかったということが新聞などで書かれている。
まず、この場面の情報源はどこなのかが問題である。これは、その場に居合わせた乗客そのもの証言なのかどうか。事件は、昨年夏頃のことであり、当人が自分から名乗り出ない限り、乗客を特定することはできないだろう。とすれば、それは、犯人か被害者の証言であり、警察の取り調べの過程での証言であろう。するとこの情報は、基本的には警察からのリーク情報であろう。それか、被害者から直接聞いたかである。レイプ事件の場合には、プライバシーが厳重に秘匿されているので、その可能性は低いだろう。
この事件についての報道が、乗客のモラルを非難することに集中したのに対して、FPNニュースコミュニティーがそれを批判する記事を書いている。(これは、livedoorニュースに転載されている)。
大勢の目撃者がいながら、目の前で行われた犯罪を止められなかった事件は、過去にもあった。1985年6月18日、豊田商事事件の豊田商事会長の永野一男が、「今日逮捕される」との情報を聞きつけて多数の報道陣がマンションの自宅入り口通路を取り囲む中で、自称右翼2人組に刺殺された事件である。彼らは、報道陣が見ている中で、窓を割って、堂々と室内に侵入し、永野会長を殺害したのであった。目の前で行われた殺人を防げなかったマスコミ・報道陣のあり方は、どうなのか?
似たような事件として、オウム真理教事件で、村井教団幹部が、右翼を名乗る男に、報道陣が詰めかけていた教団施設前で刺されるという事件があった。ただ、これらの場合は、右翼が犯人であり、宣伝目的で、報道陣がいる目立つ場面を選んで、犯行に及んだという点で、先のケースとは異なるのではあるが。
先の事件の場合、これを何らかの犯罪事件なのかどうかを判断しにくかったということが考えられる。多くの人々が、その様子を男女関係のもつれかもしれないというふうに見たのかもしれない。はっきりと事態を犯罪だと認識したら、車掌に連絡するなど何らかの行動を取っていたのではないだろうか。それを見て見ぬ振りをしたというのは、これが犯罪であったと知っているので、結果から見て、そう言えるだけである。マスコミ報道では、犯罪の具体的場面について、犯罪かどうかをはっきり示す徴となる記述がないのに、ただ、犯罪を見過ごした卑怯な乗客たちと決めつけて、道徳的に非難しているのである。
下記記事にあるとおり、この犯罪を許してはならないし、列車内や駅など鉄道関係で怒る犯罪をどうやったら防げるか? 性犯罪を減らすにはどうすべきか? 等々について、考えなければならないのである。特に、JR福知山線脱線事故を引き起こしたJR西日本の安全対策は、どうなのかをしっかりと点検しなければならないのである。このケースでは、車掌への緊急通報ブザーが、連結部にあったという。そんなものがあることを知っている者が何人いるだろう? JRは、発足以来、とにかく、人員合理化を進め、無人駅も多いし、駅員がホームにいない時間帯も多い。新幹線ですら、車掌はたまにしか回ってこない。これらのマスコミの報道は、安全対策を、乗客のモラルの問題に転嫁して、JRの安全対策の不備を隠そうとしているのではないかとさえ思えてしまう。JR福知山線事故から、2年たちながら、JR西日本に対する遺族の不信感は根強く、補償交渉もほとんど進展していないという。安全第一というなら、もっと人を増やすことだ。
山崎氏ならずとも、道徳を判断するのが難しいことは多くが知っている。カントは、道徳判断を理性のアプリオリな規則に帰し、絶対的な人格の自由から導き出そうと試みたが、いくらそうやって理性的な道徳画像を描こうとしても、現実とはまったく合わなかったので、現実の方を動物的として批判したのであった。例えば、カントは、男女は、性に関係なく、人格としては絶対的に自由であるから、婚姻契約は対等な対人権であると宣言するが、実際には、自然の与えた差別によって、家族共同体においては、男は生れつきの家長であると言うのである。
カントにしてこのような有様であるなら、一体誰が、「国民の道徳」なるものの教科書を書けるものだろうか? よほどの自惚れた人間しか考えられない。例えば、本当に教科書のつもりで、「国民の道徳」を書いてしまった西部ぐらいか。それをどうやって教えるかとなるとさらに難しいし、それを評価するのも難しい。
山崎氏は、その代わりにすべきことは、「順法精神を教えること」で、それを「『国の取り決め』として教えれば良い」という。これも、法の中身を教えるのではなく、法律を守る精神を教えればよいというのも、どうかと思う。これは、法も変わるものだから、その時々に存在する法を教えても、それが変わってしまえば、その知識は過去のものになってしまうので、それよりも、法が変わっても、法を守るという精神だけを持っていればよいというのである。なるほど、法は、国が決定するものである。しかしそれは、行政指令の体系もあれば、裁判の判例として示されるものもある。いずれにしても、これらのことは、社会のあり方からくるのである。
くりかえしになるが、道徳を教科にするというのは、よほどの自惚れがなければ、言えるものではないが、まさしく教育再生会議は、よほどの自惚れ屋の集まりである。いったん、そういう意見が強まったが、すぐに慎重論が出てきたのは、教育再生会議にも、それほどの自惚れ屋ばかりではないということを示してはいる。しかし、このメンバーには、教育を論じるにふさわしくない人物が相当数いるのは間違いない。もはや解体した方がよい。
関連して、教育再生会議に、道徳の教科化などの申し入れを行った日本教育再生機構代表の八木秀次高崎経大教員は、郷土愛は自然に身につくものだが、国家とは観念であり、それは強制しなければ身につかないと述べている。国家とは、構成された観念、すなわちイデオロギーであるというのである。それは、自民党の日教組批判文書にも書かれている。共通して、日教組は階級闘争史観というイデオロギーを持っており、それが教育現場を支配しており、それが今日の教育荒廃の原因だとして、それに対して、国民教育という国家主義イデオロギーが取って代われば、教育問題が解決するとしている。問題は、国家観念であり、その中には、規範が含まれており、それを強制しなければならないというのである。教育再生会議が、国家主義イデオロギーに傾いていることが、道徳の教科化問題で明らかになった。彼らが求めているのは、何よりも勤労道徳であり、それを義務教育課程での職業教育充実という形で述べているという。さらに、家庭教育について、「親学」なるものを提案しているそうである。これは、日本教育再生機構の提言でも、書かれているもので、保守派・自民党・教育再生会議がすでに一体的なものとなりつつあることを示してる。
それに対して、保守派でも、西尾幹二氏元東京電機大学教員は、安部政権を厳しく批判していて、安部政権にくっついて、従軍慰安婦問題でのアメリカ向けの謝罪、河野・村山談話継承、その他の問題に黙っている日本教育再生機構などを保守主義を破壊する行為だと非難しているという。なるほど、これでは保守主義もお終いだというのは、西尾氏の言うとおりだろう。
山崎正和氏には、安部政権と教育再生会議の稚拙な教育政策が現れた道徳教育問題の危険性がわかったのだろう。山崎氏ならずとも、これが、自民党が仕掛けている「国家主義イデオロギー」対「階級闘争イデオロギー」というイデオロギー闘争であり、それが、自民党が、民主党の選挙運動の基盤と見なしている日教組つぶしの政治闘争であり、策略の一部であることは、明らかである。国鉄・分割民営化の国労つぶしの時と同じ政治攻勢の一環である。それが見えているのが山崎氏であり、それが見えていない人とそれに積極的に荷担してる人とが混ざっているのが、教育再生会議である。海老名氏は前者で、ヤンキー先生義家氏は後者だろう。道徳教育問題が、政治闘争の一部に組み込まれており、山崎氏は、そういう争点でなくしてしまえと言っているのである。しかし、正面から受けて立つべきではないだろうか。というのは、すでに保守主義は崩壊しつつあり、自民党の地方基盤も壊れつつあるからである。言葉は勇ましいが、その裏付けとなる実力が低下しつつあるから、正面から闘っても、けっこういけるんじゃないだろうか。
中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の山崎正和会長は26日、東京都千代田区の日本記者クラブで講演と記者会見を行い、個人的な見解と強調した上で、小中学校での道徳教育と歴史教育は不必要との考えを示した。さらに、政府の教育再生会議が論議している道徳の教科への格上げにも否定的な見解を述べた。
山崎会長は道徳教育について、賛否の割れる妊娠中絶の是非などを例示して「『人のものを盗んではならない』くらいは教えられるが、倫理の根底に届く事柄は学校制度(で教えること)になじまない」と指摘。「代わりに提案しているのは、順法精神を教えること。『国の取り決め』として教えれば良い」と持論を展開した。
現在行われている道徳教育の必要性を問われると「現在の道徳教育もいらないと思う。道徳は教科で教えることではなくて、教師が身をもって教えること。親も含めて大人が教えることだ」と述べた。
歴史教育についても、稲作農業が日本で始まった時期が変遷していることなどを指摘し「歴史教育もやめるべきだ」と述べた。【高山純二】
なぜ彼らは通報しなかったのか? 通報しなかった、通報できなかった乗客の心理
21日から22日にかけて、以下のような見出しが、テレビ、新聞各紙、ネットなど各方面に踊り、世間を震撼させました。
特急トイレで女性暴行、36歳男を再逮捕…乗客知らんぷり
<強姦>特急内で暴行、容疑の36歳再逮捕 乗客沈黙
特急車内で女性暴行=誰も通報せず、36歳男逮捕-大阪
まず、ニュースの「知らんぷり」という見出しに踊らされないでください。それは報道する側が用いた表現であって、実際の状況が「知らんぷり」と言われるような状況であったかには大きな疑問が残ります。
なぜだれも助けなかったのか。通報しなかったのか。 という乗客を責めたてる意見が聞かれますが、そんな議論は(まったくもって無意味だとはとらえていませんが)ややナンセンスです。
それよりも、むしろ、こういった、前科もわかっているだけで9件もある、しかも仮釈放のわずか1ヵ月後にこのような卑劣な強姦事件を繰り返す性犯罪者。
生来的な脳機能異常によって、性衝動の制御が不可能なのではないかと疑われる性犯罪者が、なぜ何度もこのような犯罪を犯しえる状況にいられたのか。
そして、このような犯罪者に、本当に二度と再犯を犯させないためにはどうすればいいのか――というところを議論するべきです。
通報しなかった/できなかった乗客の心理については、ニューヨークで、Kitty Genovers事件という強姦殺人事件――38人もの目撃者がいながら、だれひとりとして、通報も救助も行わなかった――があって、それについて行われた社会心理学の分析がありますので、ご紹介します。
今回の事件でなぜ通報が行われなかったのかを知る手がかりになりうるでしょう
---------- 一部抜粋 -----------
1964年のアメリカ・ニューヨークで、Kitty Genoversという女性が強姦された上、殺害されてしまうという事件が起こった。 驚くべきは、後の調べによって明らかにされた目撃者数――Kittyが暴漢に襲われた悲鳴を聞き、そして強姦されてから殺されるにいたるまでの30分もの時間に、それを目撃しながらも、通報も助けることもせず、ただ傍観していただけのひとたちが、なんと38人もいたというのだ。
当初、これは都会の人間の冷淡さや、目撃者たちにとって、普段抑制されているサディステッィクな欲求を充足するものだったなどとして話題に取り上げられたが、後に心理学者のLataneらは、それに真正面から異論を唱える――「否、Kittyが誰からも援助行動を受けることができなかったのは、むしろ大勢の目撃者がいたからこそなのではないか?」
まず、(1)大勢が見ていたことによって、ひとりあたりの責任感が分散され、軽くなる(責任の分散)が起き、「自分が援助行動を起さなくてもいいだろう。誰かがやるだろう」とする『社会的手抜き』が行なわれてしまったのではないか?
そして、(2)おなじことを目撃している他人を見ることによって、他人の判断をあてにする、換言すると、他人の判断から得た情報から、実在する現実とは違った『社会的現実』がそこに生じてしまい、ひとりひとりの判断が鈍化してしまったのではないか?
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コメント
被害者の問題について書かれている箇所で「被害者は加害者に報復したいと考える」と論じられているのですが、私は自分が犯罪の被害者、特に子どもさんを殺された親御さんなどと関わる中で、加害者には行った行為の意味を理解してほしい、そのためにはまず更生してほしいといわれる方にも出会います。
また、加害者が少年だった場合に、「子どもだけが悪いわけではなく親を主とする大人のせいでもある。親がしっかりしなければいけないし、加害した子どもは亡くなった自分の子どもができなかった良いことを行ってほしい」と望まれる方もいます。
被害を受けた方は、第三者が考える以上にそのことについて深く考え、ご自分の心を問うていかれることが多く、一見被害者が望むだろうと思われる結論が被害者の心とは限りません。
このようなことは被害者問題だけではないと思いますが、自分が現実に経験したことだけ書かせていただきました。
(中味満載のエントリーの中の一部についてだけのコメントですみません。)
投稿: 杉浦ひとみの瞳 | 2007年5月16日 (水) 03時18分