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2007年5月

今度は、党首討論問題で、イデオロギーを露わにした『読売』

 またしても、『読売新聞』が、その国家観・イデオロギーを露わにした。今度は、先日の党首討論に絡めてのことである。それは、以下の31日付『読売新聞』社説を読めば、誰の目にも明らかである。

 30日の党首討論は、事前の報道では、安部総理が、松岡農相の葬儀に出席するために、キャンセルされたということになっていたが、いつの間にか、開かれることになったようだ。

 今回の党首討論は、「年金記録漏れ」問題一点に絞られた。安部首相は、この問題を参院選の焦点にしたくないし、小沢民主党代表は、これを争点化して、参院選を自党に有利にしたい、「そんな政治的思惑が先行した攻防戦」だったという。

 したがって、「討論が年金不安の解消につながったとは言い難い」ものに終わったという。  安部首相は、「年金時効撤廃特例法案」の早期成立で、問題解決が図れると強弁し、小沢代表は、政府の責任を追及した。

 安部首相は、労使慣行に問題があると労組を批判したが、具体的にどこがどう問題で、どう責任があるのかを示さなかった。

 小沢代表が、社会保険庁の「日本年金機構」への改組は、「化粧直し」にすぎないと批判したが、それに対して、この社説は、「非公務員化は、公務員の身分に安住して国民の視点を欠き、数々の不祥事を生んだ社保庁の体質を根絶する切り札のはずだ」と与党を擁護する。この主張を、数年間は、記憶しておいた方がいい。『読売』は、国鉄分割民営化がJR福知山線脱線事故の背景になったとは思っていないのだろうが、各種独立行政法人が、天下り隠しに使われたことを見ても、社保庁職員の非公務員化が、その体質の根絶の切り札になるとは言い難い。

 この社説は、質問に終始した小沢代表に対して、対案を示すべきだったのではないかと主張する。与党には、官僚が持つデータを利用しやすいということもあって、政策立案が早く出来やすい特権があるが、野党は、官僚の持つデータを簡単に利用できないという不利がある。与野党共に、この問題の解決策を作れというなら、野党がそれを作りやすいような環境を整えてやらねばならない。それを主張しないで、ただ野党に対案をすぐに作ることを求めても無理がある。

 そして、こう言う。「年金記録漏れは、国民にとって切実な問題だ。だが、選挙の争点になじむだろうか。国民が抱いている年金不安を和らげていくため、自民、民主の両党が一致して問題解決に取り組むことが、政治の責任であろう」。

 安部首相を擁護し、与党を支持して、年金記録漏れは、国民にとって切実な問題であるにも関わらず、選挙の争点になじまないのではないかというのである。さすがに、断言はしていないものの、あまりにも露骨な与党への援護射撃であることは、隠しようがない。  

  民主党は、参議院選挙の勝利、参院与党過半数割れ、政局化、総選挙、民主党を中心とする政権樹立、各種政策の実現、という過程の実現を目指して、今、参議院選挙に取り組んでいるはずである。

 年金記録漏れが、選挙の争点になじみにくいというのは、それが与野党一致して、取り組むべき課題だからというのである。それを言うなら、どんな問題だって、そう言えるわけで、それなら事実上、政党は、一つでよいことになり、選挙も別に必要ないことになる。  

  小選挙区制による二大政党化とは、実は、自民党とちょっとだけ違う独立派閥の第2自民党が、仲良く、政権を交代で運営するという政治制度である。だが、そのモデルとされるイギリスは、実際には、三大政党制であり、さらに地方政府では、もっと多党化が進んでいる。アメリカも、制度的に二大政党以外を排除する仕組みになっているが、それでも、環境活動家ラルフ・ネーダーはじめ、第三勢力が、繰り返し台頭しており、さらに、1996年には、全米最大労組連合のAFL-CIO幹部も含む労組を中心とするアメリカ労働党が誕生していて、民主党から完全独立はしていないが、一時は、百万人の支持者がいると言われるほど大きな存在になっている。ドイツは、二大政党どころか、与野党大連立だが、その巨大連立与党への批判は、緑の党や左派党(旧東独共産党)に行って、それぞれ支持をのばしている。

 「党首討論は本来、国家の基本問題を論じる場だ」とこの社説は言う。そして、参院選の争点は、「与野党とも政治決戦と位置づける参院選が迫っている。両党首は、年金問題だけでなく、憲法や安全保障政策などをめぐって堂々と所信を述べ、政策の違いを明確にしていくべきだ」と、ここではさすがに年金問題を争点に入れているのだが、その他では憲法や安全保障政策だけを具体的に挙げている。『読売』にとって、国政問題とは、なによりも、憲法や安保問題だとわかる。

 先日の社説では、年金問題など安保問題に比べたら大した問題じゃないといわんばかりの書き方だったが、さすがに、この社説では、参院の争点の一つに入れていて、修正してきたかなという感じである。

党首討論「年金記録漏れ」は大事な問題だが(5月31日付・読売社説)

 参院選を間近に控えた党首討論は、年金記録漏れ問題一点に絞られた。

 この問題が広がりをみせてから内閣支持率は急落している。安倍首相としては、なんとしても参院選での争点化を避けたい。小沢民主党代表は、争点にあぶり出したい。

 そんな政治的思惑が先行した攻防戦だった。討論が年金不安の解消につながったとは言い難い。

 安倍首相は、党首討論を、政府・与党の救済策説明の場として活用した。  「まじめに払ってきた年金が給付されないという理不尽なことはしないということをはっきりと申し上げておく」。首相はこう強調し、5年の時効をなくして全額を補償する「年金時効撤廃特例法案」の早期成立を図る考えを示した。

 政府の対応策をいち早く打ち出すことで、問題の沈静化をはかりたいということだろう。  小沢代表は、年金記録漏れの責任問題を持ち出し、政府に「責任」があるとの言質をとることにこだわった。

 首相は、行政の最高責任者として「責任を負う」としつつも、「社会保険庁の現場において、どういう労働慣行が蔓延(まんえん)していたか」と切り返した。

 小沢代表は、政府の“失政”を印象づけようと狙い、首相は、社保庁労組の問題を指摘し、労組を支持基盤とする民主党への揺さぶりに出たのだろう。

 小沢代表は、社保庁改革関連法案で、社保庁の業務を継承する「日本年金機構」の非公務員化についても、「化粧直しにすぎない」と異を唱えた。

 だが、非公務員化は、公務員の身分に安住して国民の視点を欠き、数々の不祥事を生んだ社保庁の体質を根絶する切り札のはずだ。

 党首討論は、「一方通行型」の質疑・答弁とならないよう、首相に反論権を認めている。首相の反論に対し、小沢代表が「ここは首相に質問する場」と述べたのは解せない。小沢代表も具体的な解決策を示すべきだったのではないか。

 年金記録漏れは、国民にとって切実な問題だ。だが、選挙の争点になじむだろうか。国民が抱いている年金不安を和らげていくため、自民、民主の両党が一致して問題解決に取り組むことが、政治の責任であろう。

 党首討論は本来、国家の基本問題を論じる場だ。

 与野党とも政治決戦と位置づける参院選が迫っている。両党首は、年金問題だけでなく、憲法や安全保障政策などをめぐって堂々と所信を述べ、政策の違いを明確にしていくべきだ。

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『読売』の価値観で裁断された松岡農相自殺事件社説

 松岡農相が議員会館で自殺した。この事件を受けて、全国紙5紙がすべてこの件についての社説を掲載した。おおむね、似た内容なのだが、『読売』だけが特異である。
 
 まず、この社説は、松岡農相の自殺について、「何とも痛ましい、悲惨な出来事だ」という認識を述べる。ここは、他と変わりはない。
 
 次に、社説は、松岡氏の農相起用が、WTOやFTAの農業交渉で、農業自由化を進めるために国内反対勢力を押さえることを安部総理が期待したからだといったことを述べる。
 
  そして、「グローバリゼーションの中で、日本の農業はどうあるべきか。これからが正念場という局面での死だった」というのである。安部総理にしてみれば、農業政策を推進するにあたって、最適の人物と考えて彼を農相に起用したわけだから、後任はいずれにしても松岡氏に劣る人物となる他はないわけである。それで、農政の「正念場の局面」を無事乗り越えていけるのか、難しくなったのは疑いない。
 
 新農政の一環として、農地の大規模化が始まり、中小規模農家は、集落営農団体にならなければ、補助金が受けられなくなるという施策が始まったばかりである。ところが、これは、農家の理解が進んでいないし、実際にも進んでおらず、ただ現場の戸惑いと混乱を生んでいるだけである。そういう状態の中で、世界的なバイオエタノール燃料開発ブームが起きて、今度は、休耕田・耕作放棄地を再開墾して、バイオエタノール用の農産物栽培を拡大するという方針が農水省から出てきた。
 
  前者は、小泉構造改革路線で、農産物輸出を促進するという方針に基づくものであるが、後者は、主に内需向けの農産物作付け拡大策であって、これまで収入にならないため、あるいは減反のために、耕作規模を縮小してきた中小農家が、再び、耕作放棄地を耕作するようにするというもので、両者の間には、大きな方向の違いがある。
 
 こうした問題を含めて、この社説が言うように、今、日本の農政が「正念場の局面」を迎えているというのは確かである。
 
  次に、社説は、松岡農相の事務諸費問題や緑資源機構談合問題などの疑惑について書いている。他紙の社説は、これらの疑惑の解明、政治とカネの問題の解明について書いている。

 『読売』が特異なのは、「今国会は、事務所費ばかりが問題になっているが、民主党の角田義一前参院副議長が北朝鮮と密接な関係のある団体から献金を受けていた事実は、はるかに重大だ。こうした問題の究明が、きちんとなされていないのは解せない」という松岡農相の件とは別の民主党議員の政治献金疑惑を、「はるかに重大だ」として、その究明を求めていることだ。
 
 この社説は、事件を受けて、「考えるべきは、同じ悲劇が二度と起きないよう政治は何をすべきかだろう」と言う。一見するともっともな意見なのだが、先日の少年法改定を支持した社説では、少年犯罪での警察による真実解明のために調査権限の拡大が必要だと、まず真実解明が大事だと書いていたのに、1日後のこの社説では、真っ先に考えるべき真相解明を求めていないのである。真相が解明されなければ、「同じ悲劇が二度と起きないよう政治は何をすべきか」を考えられないし、決められないのは自明であるにも関わらず、である。
 
 こういうおかしなことを書くのは、松岡農相の事務諸費問題よりも、はるかに民主党角田議員の朝鮮総連系団体からの献金問題の方が重大だと、これらの事件を政治とカネというカテゴリーに入れた上で、事件の重要度を価値判断しているからである。『読売』の価値観では、重要度の低い松岡農相の事務諸費問題ばかりが、国会で取り上げられて騒ぎになっているのは、価値の小さいことなのである。その価値観とは、日本の安全・安保という国益から価値の序列を決めるというものであることは、この間の『読売』の社説から明らかである。
 
 『産経』ですら、現役閣僚の自殺という衝撃的な事件から、さすがに、この問題に、安保だのグローバリゼーション下の農政だのという政治的話題を入れるようなことはせず、政治とカネの疑惑の解明という点にしぼって社説を書いているというのに、『読売』の社説子の頭はどうなっているのだろうと不思議に思う。こんな大人がいるから、世の中、よくならないのではないだろうか? とつい思ってしまう。「戦後、例のない閣僚の自殺」という重大事件だと自ら書いているのに、まだ松岡農相に関わる疑惑が解明されていない段階で、「他にはるかに重大事件がある」はないだろう。
 
  問題は、自殺によって松岡農相が葬り去ろうとした政治の闇の解明であり、それは、安部政権自身の問題でもあるということだ。

 松岡農相自殺 悲惨な死が促す政治の信頼回復(5月29日付・読売社説)

 戦後、例のない現職閣僚の自殺である。

 松岡農相が、都内の衆院議員宿舎の自室で自殺を図り、死亡した。理由は不明だが、何とも痛ましい、悲惨な出来事だ。

 世界貿易機関(WTO)や自由貿易協定(FTA)の農業交渉の推進に当たって、国内の農業改革など農業政策が重要な課題となっている。

 安倍首相が、農水省出身の松岡氏を農相に起用したのは、農業問題に精通する力量を買ってのことだ。自由化を進める際、松岡農相なら国内の抵抗を抑えられるという判断もあったという。

 先の豪州との経済連携協定(EPA)交渉開始の合意も、農相の力があったと評価している。

 グローバリゼーションの中で、日本の農業はどうあるべきか。これからが正念場という局面での死だった。

 松岡農相は、政治とカネをめぐって、今国会で厳しい追及を受けていた。

 光熱費などが無料の国会議員会館内に自らの資金管理団体の事務所を置き、多額の光熱水費や事務所費を計上していた。野党の追及には、一貫して「法律上、適切に処理している」と繰り返し、具体的な説明をすることはなかった。

 最近は、官製談合事件で東京地検の強制捜査を受けた農水省所管の緑資源機構発注事業の受注業者などから、献金を受けていた事実も明らかになっていた。

 参院選を間近に控え、自民党内からさえ、国会終了後に閣僚を辞任すべきだとする声が出ていた。

 軽々な推測は避けねばならないが、こうした一連の問題が、精神的な重圧となって追い詰められたのだろうか。

 考えるべきは、同じ悲劇が二度と起きないよう政治は何をすべきかだろう。

 松岡農相の事務所費問題を契機に、政治資金規正法改正が焦点となっている。経常経費支出の公開基準は5万円以上か、1万円超か、資金管理団体に限るか、すべての政治団体とするか。与党案と民主党案の内容は異なる。

 だが、政治とカネをめぐる問題は、何よりも、党派を超えて政治が身を正し、有権者の信頼を確保するという視点から考えるべきである。参院選を念頭に置いた政争の具などにしてはなるまい。

 今国会は、事務所費ばかりが問題になっているが、民主党の角田義一前参院副議長が北朝鮮と密接な関係のある団体から献金を受けていた事実は、はるかに重大だ。こうした問題の究明が、きちんとなされていないのは解せない。

 松岡農相の死をどう受け止めるか。政治が取り組むべき課題は多い。

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無意味な少年法改定を評価する『読売』の愚

 少年法改正案が可決成立したことについて書かれた『読売新聞』社説と『毎日新聞』の記事がある。

 両者は、かなり異なっている。

 まず、『読売』社説の方は、「長崎市で12歳の男子中学生が4歳の男児を殺害する事件が4年前にあった。翌年、長崎県佐世保市で11歳の女児が同級生を刺殺した。社会に衝撃を与えた事件が相次いだことを受けた改正である。当然の対応だろう」と評価している。しかし、そうはいっても全体のトーンは、弱々しいもので、自信なさげである。

 この間、世間においては、とりたてて少年法改定を求める声は、それほど聞こえてこず、いつの間にか、法改定が進んでいたという感じである。

 第二に、厳罰化が少年犯罪の抑止につながらないということは、厳罰化を推進した側からも言われていることで、今更なんのための法改定なのか意義がわかりにくい。

 『読売』社説では、「触法少年事件の調査規定がなかったため、事情聴取の要請や証拠品の提出を拒まれることもあった。これでは真相解明ができず、再発防止にもつながらない。家庭裁判所からも、調査資料の乏しさを指摘する意見が出ていた」というのだが、そもそもこういう年齢(小学校高学年)の児童に対して、警察が真実を明らかにするということには無理がある。これまで、ほとんど相手にしたことのない対象だからである。

 そのことは、『読売』も審議の過程から、わかっていて、「年少であれば判断力に欠ける場合もある。警察は少年心理など専門職員の活用をさらに進めるなど、調査の信頼性を高めるよう努めてもらいたい」と注文を付けている。

 さらに、「少年院への収容も、事件の重大さや少年の心身の状況から判断することだ。更生のために、きちんとした矯正教育を施すのは、年齢を問わない」と一般論に逃げている。こんな当たり前のことを言う理由は、「児童自立支援施設は児童福祉法に基づく施設で、家庭的雰囲気の中で福祉的に処遇することを基本としている。家出少年や児童虐待の被害者も入る開放的施設だ。重大事件を起こした触法少年を収容することが適切か、極めて疑問だ」からだという。

 それにふさわしいのは、 少年院だと言うのだが、「法務省は、小学生を対象とした、精神医療面を含めた新たな矯正プログラムを少年院に導入するという。ケースによっては保護者の指導も欠かせない」という具合に、この社説自身が、現行の少年院が矯正施設として十分ではなく、改良された少年院という未来のことを例に出している有様だ。今、矯正面で問題があり、改善されなければならないという不十分な矯正施設である少年院に、小学校高学年の子どもを送り込むことが、適切でないことは明らかである。

 これらの問題があることを承知しながら、なお、少年法改定に、単純に評価を示すのは、なぜだろうか。とても疑問だ。効果も未知数なら、体制もできていない。だが、法改定には賛成だという。しかも、「おおむね12歳程度」までの触法少年は数が少なく、少年院送致になるのはごくわずかだという。

 警察が、犯人をでっち上げることがままあることは、この間、『読売』でも報道してきたはずだ。その警察が、少年心理の理解も不十分なまま強制捜査し取り調べを行ったところで、真実に近づけられるのかどうかも大いに疑問だ。

 触法少年の罪の自覚は、ずいぶん後、成長するに従って形成されることが多いのではないだろうか? それを、大人並みの、法規範意識と判断を求めるというのは、無理がある。「おおむね12歳程度」の子どもは、法規範囲意識と判断力では、大人と同じレベルにあるとか、厳罰化すれば急速にそうなるとか、そんな空想的なことを『読売』は信じているのだろうか? ありえないことだ。おかしくなっているのは、この社説を書いた大人の方である。だいたい、この社説を書いた大人や法律を改定した大人たちは、自分の少年時代に、後に身につけたような法規範意識と判断力と同じレベルをすでに持っていたとでも言うのだろうか? ありえない。こんなことは、意味がわからないし、つまらぬ時間つぶしを国会でやっているとしか思えない。

 『読売』は、タイトルとは全く逆に空想的に対応しているとしか思えない。それについでのように、少年非行問題を取り上げているのだが、これはまた上記のケースと違うことは明らかで、だから『読売』も、家庭環境その他のことについて書いているのだが、これらが、少年犯罪というカテゴリーで一括りにされているのである。

 最後は、「調査規定を削除しただけでは、事態は改善されない。今回の改正で事が足りたとせず、地域や学校を含めた非行少年の対策を真剣に考えるべきだ」と非行対策になっている。重大事件を起こした少年犯罪の問題と非行少年の問題が、ごっちゃになっている。これでは、非行とは何であるかもわからないままに、論じているわけで、結局は、意味不明の混乱に終わっている。なんでも警察にやらせれば、問題が解決すると言わんばかりだが、そんな単純なことですむような問題の方がこの世にははるかにすくないということすらわからないとしたら、『読売』の愚かさ、思慮のなさはかなり深刻だ。

  改正少年法:厳罰化加速に賛否 警察調査権、事実誤認の恐れも(5月26日『毎日新聞』)

 少年院送致の下限年齢を「おおむね12歳」に引き下げ、警察による捜索などの調査権を認める改正少年法が25日、参院本会議で可決・成立した。神戸連続児童殺傷事件(97年)を機に、刑事罰の対象年齢を16歳以上から14歳以上とした前回改正から7年。「厳罰化」がさらに進む中で、さまざまな問題点が指摘されている。【坂本高志、川名壮志】

 「罪にあった償いをしてほしい。14歳未満でも同じ。厳罰化ではなくて適正化なのです」。17日の参院法務委員会。参考人として出席した「少年犯罪被害当事者の会」の武るり子代表はこう強調し、改正案を評価した。これに対し、児童自立支援施設・国立武蔵野学院の徳地昭男元院長は「14歳未満の子には、強制より共生の経験が大切。少年院ではなく、支援施設が適切だ」と求めた。

 今回の改正で、小学5、6年でも少年院送致が可能になる。「正直、小学生は支援施設で受け入れてほしい」と明かす少年院関係者もいるが、家裁が実際に14歳未満に少年院送致を選択するケースは、重大な殺人事件など極めて限定されたケースとみられ、法務省も「あっても年間で数件程度だろう」と予測する。

 むしろ問題は、刑事責任を問えない14歳未満の少年(触法少年)に対する警察当局による調査権限だ。衆、参両院での議論は、少年院送致の下限年齢に多くが費やされたが「警察の関与の方が影響は大きい」と指摘する関係者は多い。

 これまで警察には、少年の自宅から証拠品などを押収(強制調査)したり、呼び出して質問する(任意調査)といった権限がなく「事実解明が不十分になる」と指摘されてきた。今回の権限の明記は、こうした声を受けたものだ。

 少年捜査が長い警察幹部は一例として「未解決の放火事件で、ある少年が関与しているとの情報を得た時」を挙げる。多くの親が「なぜウチの子を」と反発するだろうが「調査権に基づいてお話を」と説得する後ろ盾ができる、と言う。

 ある児童相談所長経験者は「警察の証拠品押収は客観的事実を明らかにするのに役立つ」と考えているが、任意調査には否定的だ。「特に12歳程度の子は事実や動機を説明する力に乏しく、強い大人にはウソでも迎合する。相当慎重にやらないと、事実誤認などの危険もある」と話す。

 少年法に詳しい斉藤豊治・元東北大教授は「触法少年への任意調査を認めるなら、録画や専門家の立ち会いなど可視化が必要なはずだ。こうした冷静な議論を十分行わず、法を作り替えてしまった」と批判している。

 少年法改正 現実を直視した対応が大事だ(2007年5月26日『読売新聞』社説)

 少年非行の現実を直視した適切な対応が必要である。

 政府が最初に国会に提出してから2年余りを経て、ようやく改正少年法が成立した。

 14歳未満の少年が殺人や強盗など刑罰に触れる行為をしても、罪に問われない。この、いわゆる触法少年の事件について、本人や保護者を呼び出して質問し、捜索や押収もできるなど、警察の調査権限を明確にした。

 触法少年は少年院に収容することができなかったが、「おおむね12歳以上」と下限を設けて収容可能とした。

 長崎市で12歳の男子中学生が4歳の男児を殺害する事件が4年前にあった。翌年、長崎県佐世保市で11歳の女児が同級生を刺殺した。社会に衝撃を与えた事件が相次いだことを受けた改正である。当然の対応だろう。

 民主党や日本弁護士連合会は「警察権限の強化だ」「14歳未満は少年院でなく児童自立支援施設で立ち直りを援助すべきだ」とし、改正に反対してきた。

 しかし、触法少年事件の調査規定がなかったため、事情聴取の要請や証拠品の提出を拒まれることもあった。これでは真相解明ができず、再発防止にもつながらない。家庭裁判所からも、調査資料の乏しさを指摘する意見が出ていた。

 年少であれば判断力に欠ける場合もある。警察は少年心理など専門職員の活用をさらに進めるなど、調査の信頼性を高めるよう努めてもらいたい。

 少年院への収容も、事件の重大さや少年の心身の状況から判断することだ。更生のために、きちんとした矯正教育を施すのは、年齢を問わない。

 児童自立支援施設は児童福祉法に基づく施設で、家庭的雰囲気の中で福祉的に処遇することを基本としている。家出少年や児童虐待の被害者も入る開放的施設だ。重大事件を起こした触法少年を収容することが適切か、極めて疑問だ。

 法務省は、小学生を対象とした、精神医療面を含めた新たな矯正プログラムを少年院に導入するという。ケースによっては保護者の指導も欠かせない。

 暴力団員と付き合い風俗店に出入りするなど、将来、犯罪者に転落しかねない虞犯(ぐはん)少年の警察による調査規定は、「虞犯少年の範囲があいまい」などという意見が出て、政府案から削除された。

 虞犯少年には家庭環境が劣悪で、周囲から見放された少年が多い。不良グループを抜けられない少年もいる。

 調査規定を削除しただけでは、事態は改善されない。今回の改正で事が足りたとせず、地域や学校を含めた非行少年の対策を真剣に考えるべきだ。

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問題だらけの米軍再編法成立

 先日、米軍再編促進法が参議院で可決・成立した。なかなか進まない米軍再編を加速するために、基地移転などを受け入れる自治体に対して、工事の進み具合に応じて、再編交付金を支給するというものである。要するに、「アメとムチ」の手法である。これを「かけがえのない同盟」の構築に不可欠だとして、評価する『産経新聞』は、財政状況を考えれば、やむを得ないとしている。
 
  『産経』は、「「安倍晋三首相は国会で「国全体の安全保障のために決意をしてくれた人に対し、国として応える義務が交付金だ」と述べたが、その通りである」とこれを支持した。しかし、多くの自治体は、すでに、基地受け入れなど日米同盟の負担を続けてきたところで、それに対して、新たな米軍再編に伴う負担に対して、協力度合いで支給金に差を付けるやり方には問題がある。
 
  さらに、『産経』は、「交付金をもらいながら基地反対の姿勢をとる自治体もある」と地元住民感情を逆撫ですることを平然と言い放っている。自治体の政策は、選挙で選ばれた首長なり議会なりによって決定され、それは変わるものであり、変わってきた。今は、基地反対を掲げている自治体でも、過去には基地受け入れ賛成というところもあったろう。

  それに、沖縄のように、戦後米軍政下に置かれ、有無を言わさず土地を取り上げられ、基地が建設されたところもある。交付金は、基地負担に対して支払われているのであり、基地に賛成か反対かという政治姿勢を基準にしているわけではない。『産経』のこの言い方は、「それを言っちゃ、お終いよ」というものだ。米軍再編は、地元自治体からの要求でできたものではなく、アメリカ政府が、世界的な軍事戦略の見直しの中でできたもので、その一部として、日本の基地再編・米軍再配置が持ち上がってきたのであって、それに協力することは、政府間で合意したとはいえ、地元が一方的に強制される筋合いのものではない。
 
 米軍再編法可決を評価する『産経』『読売』は、この法の中心的な狙いが、沖縄の基地再編を進めることにあることを社説で示している。共に、普天間基地の辺野古沿岸移設が進むことを求めているのである。現在、自衛艦を派遣して、軍事力を背景に、辺野古沖での海洋調査が強行されているが、それに対して、『産経』は、「調査に際して、反対住民らがカヌーに分乗して調査船を取り囲み、ダイバーの作業を妨害する騒ぎもあったという。国益を踏まえた行動をとってほしい」と反対派は、「国賊」と言わんばかりの言い方で批判している。『産経』は、「国益」のために協力しろと言うが、アメリカの僕になることが「国益」だとは、アメリカの機関誌である『産経』のアメリカナイズされた頭の中で成り立つだけのことである。
 
 『読売』『産経』共に、自衛官派遣の問題や海洋調査で珊瑚礁が傷つけられたことにはまったく触れていない。そして、米軍再編の中で、普天間代替施設が、最新鋭のハイテク施設への近代化・グレードアップであり、基地機能強化であることを無視している。ただ、海兵隊の一部グァム移転によって、多少の基地・施設が縮小・整理されるという量的なものだけを取り上げているのである。だが、質的には、沖縄米軍基地機能は強化されるのである。基地の島としての軍事的ステータスは上がっていくのであって、それは基地負担の軽減とは反対のものなのである。この点で、騙されてはならないのである。
 
 これらに対して、『朝日』『毎日』『東京』の三紙は、批判的で、慎重であり、疑問を投げかけているが、『産経』『読売』のように、態度をはっきり示していないのがはがゆい。しかし、辺野古の反基地運動は強力であり、だからこそ異例の自衛艦を差し向けたのだろうが、まだまだ安部政権の思い通りには進まないだろう。

 「シンさんの辺野古日記」http://diary5.cgiboy.com/2/henokonikki/index.cgi?y=2007&m=5#cal
 
  米軍再編法 カネと圧力だけでは(『東京新聞』社説2007年5月24日)

 米軍再編特措法が成立した。在日米軍再編への協力の度合いに応じて地方自治体に交付金を支給する。カネと圧力ばかりに頼れば、地元の反発を招くだけだ。話し合う姿勢を忘れてもらっては困る。

 基地周辺自治体に一律に交付金などを支給してきた従来の方法が変わる。日米両政府が合意した再編計画に協力する自治体だけに支給し、受け入れを拒む自治体は冷遇して圧力をかける。そうした「出来高払い」方式を採用したことが今回の法整備の特徴だ。

 しかも支給する自治体を選ぶ基準は必ずしも明確でない。政府のさじ加減一つで決められる。同じように受け入れを拒んでも、脈のあるところにはカネを与え、そうでないところは見せしめに与えないこともできる。「アメとムチ」そのものだ。

 地元自治体や住民の理解より、米政府との「約束」を優先する路線に転換したといってもいい。

 政府は特措法を先取りするかのように「ムチ」を振るい始めている。

 沖縄の米軍普天間飛行場を移設するキャンプ・シュワブ沿岸部の環境現況調査に、海上自衛隊の掃海母艦を参加させた。日米で合意した二〇一四年までの移設を実現するには、これ以上、反対派に調査を妨害させるわけにはいかないと、異例の海自投入に踏み切った。

 しかし、これには調査に同意した仲井真弘多知事でさえ「銃剣を突きつけられているような連想をさせ、強烈な誤解を生む」と批判した。沖縄県も名護市も移設に反対しているのではない。移設計画の修正を求めている。強硬姿勢で県民感情を逆なでするのでなく、話し合って解決策を見いだすべきだ。

 米軍岩国基地への空母艦載機移転に反対する山口県岩国市では、政府が新市庁舎建設の補助金を打ち切り、市政が混乱している。住民投票の結果を受けて反対する市長に対し、市議会は容認姿勢に転じ、市の予算案を否決した。

 政府の揺さぶりで市長と市議会が分断された。地方分権を最重要課題に掲げる政権のやることか。

 特措法では、在沖縄米海兵隊のグアム移転に伴う費用を国際協力銀行が融資・出資できる仕組みも定められた。しかし総額三兆円規模とされる再編経費や、グアム移転費用の積算根拠は依然不透明である。

 厳しい財政状況を反映し、税金の使い方に向けられる国民の視線は厳しい。政府はもっと説明責任を果たすべきだ。国民や地元の理解を得ぬまま強引に進めれば、日米関係にも思わぬ影響を与えかねない。

  米軍再編法―説明不足の見切り発車だ(『朝日新聞』社説5月24日)

 米軍再編特別措置法が、与党の自民、公明両党の賛成多数で成立した。沖縄にいる米海兵隊のグアムへの移転や米軍普天間飛行場の移設を進めやすくするのが狙いで、10年間の時限立法である。

 日米同盟強化の一環として、安倍政権が成立を急いできた。それだけに、巨額な移転費用の積算根拠があいまいだったり、自治体への交付金を「アメとムチ」のように使う手法が盛り込まれたりするなど、内容に疑問が残ったままの見切り発車となった。

 海兵隊のグアムへの移転では、日本は費用の約6割にあたる60億ドル(約7000億円)を出し、司令部庁舎や隊舎を建設することが日米交渉で決まっている。

 他国の領土にその国の基地をつくる資金を出すのは異例だ。それでも、沖縄の重荷を減らせるのなら、日本がある程度の財政負担をするのはやむをえまい。

 しかし、その場合でも、積算根拠をきちんと示し、財政的な見通しを立てることが最低の条件である。

 グアムでの基地建設費について、米国は米東海岸を1とした場合、2.64倍かかるとしている。その理由として、インフラの乏しさや労働力の調達の難しさだけでなく、台風などの自然災害や毒ヘビの存在まで挙げた。これでは吹っかけているのではないかと思いたくなる。

 60億ドルの日本の負担のうち、政府が28億ドルを出し、残りの32億ドルは国際協力銀行(JBIC)が現地にできる民間企業の共同事業体に融資・出資する。この融資などを可能にするための仕組みをつくるのが、今回の法律の柱の一つだ。

 問題は、その資金が戻ってくるかどうかだ。共同事業体が米軍人用の住宅をつくり、その家賃収入で返済することになっている。しかし、返済には40~50年かかるとみられる。住宅の耐用年数を考えると、返済の途中で住宅の用をなさなくなって、不良債権になる恐れもある。

 もうひとつの柱である自治体への交付金は、基地などの受け入れを表明してから実施までを4段階に分け、段階ごとに交付額が増える仕組みになっている。

 自治体の「食い逃げ」を防ぐ窮余の策だろうが、財政の苦しい自治体に対しては露骨な「アメとムチ」になり、地域の発展にゆがみをもたらしかねない。

 今回の法律とは直接関係はないが、厚木基地の空母艦載機の受け入れを拒否した山口県岩国市が、新市庁舎建設の補助金を打ち切られた。こうしたことがさらに露骨に起きるかもしれない。

 これまでの米軍基地などの再編の進め方を見ると、地元に相談のないまま強行し、混乱を招いてきた面がある。

 先ごろも普天間飛行場の移設先の名護市辺野古崎で、民間業者に委託した環境現況調査に、海上自衛隊の掃海母艦や潜水士も投入され、反発が起きた。

 法律が成立したとはいえ、地元に丁寧に説明して理解を取りつけることを怠れば、米軍再編はさらに滞るだろう。

  米軍再編法成立 日米合意の実施を加速すべきだ(『読売新聞』社説5月24日)

 在日米軍再編を推進する特別措置法が成立した。これを機に抑止力の維持と地元負担の軽減の両立を目指す再編計画の実施を加速しなければならない。

 特措法の柱は、米軍の施設・部隊や訓練の移転を受け入れた自治体への交付金制度の創設だ。受け入れ表明、環境影響評価、工事着工、完成と事業の進捗(しんちょく)度に応じて交付される。

 国の安全保障に協力して負担を負う自治体に配慮した、合理的な仕組みだ。

 今後の最大の課題は、普天間飛行場のキャンプ・シュワブ移設である。

 沖縄県と名護市は、日米が合意したV字形滑走路案の沖合への移動を主張している。合意案の修正なしでは、環境影響評価の実施に同意しない姿勢だ。

 作業がずるずると遅れれば、2014年の移設完了目標に影響しかねない。

 米政府は合意案の修正を拒否している。修正に応じた場合、米軍内からも滑走路延長などの修正要望が噴出し、収拾がつかなくなるのを警戒するためだ。

 普天間飛行場の移設は、海兵隊8000人のグアム移転や沖縄県中南部の6施設の返還などと一体の計画だ。沖縄県などが合意案の修正にこだわり続ければ、画期的な負担軽減策全体の実現が危うくなる恐れもある。

 地元関係者には、現実的な対応を志向する動きが出てきた。

 キャンプ・シュワブに隣接する名護市辺野古区の行政委員会は今月15日、普天間移設に反対する1999年の決議の撤回を決定した。

 山口県岩国市議会も3月、厚木からの空母艦載機移駐に関して「国が高度に判断された安全保障上の施策の重要性を理解し、現実的かつ効果のある取り組み」を市長に要望する決議を採択した。

 68の関係自治体のうち、再編を容認・理解したのは47団体に上る。政府は、残る自治体を説得し、米軍再編の着実な実行に全力を傾注すべきだ。それが日米同盟の信頼性の向上にもつながる。

 特措法は、海兵隊のグアム移転に関して、グアムで家族住宅や上下水道などを整備する民活事業に国際協力銀行が出資・融資する仕組みも定めている。

 日本側の負担は、出資・融資分32・9億ドルを含め、60・9億ドルに上る。日本が米国内の米軍施設整備を支援するのは初の試みだが、国会審議では、巨額の負担の積算根拠などは示されなかった。

 政府は今後、国民への説明責任を果たすとともに、事業の効率化と予算節減に努力する必要がある。

 日米同盟の維持・強化には、国民の理解が欠かせない。

  【主張】米軍再編法成立 同盟に値する円滑実施を(『産経新聞』社説5月24日)

 在日米軍の再編を円滑に進めるための特別措置法が参院本会議で可決、成立した。再編の実現は、さきの日米首脳会談でも確認された「かけがえのない同盟」の構築に不可欠であり、評価したい。

 特措法の柱となるのは、再編に伴って基地移転などを受け入れる自治体に対し、工事の進捗(しんちょく)状況に応じて再編交付金を支給する制度の創設だ。

 野党側は「アメとムチ」の手法だと批判したが、交付金をもらいながら基地反対の姿勢をとる自治体もある。財政状況を考えれば、関係自治体には一律に支給していたやり方を見直すのは当然といえよう。

 安倍晋三首相は国会で「国全体の安全保障のために決意をしてくれた人に対し、国として応える義務が交付金だ」と述べたが、その通りである。

 焦点は、米軍再編の焦点となる普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設だ。平成8年の日米合意から11年を経て、なお停滞している。

 防衛省は今月中旬から、移転先となるシュワブ沖(名護市)でサンゴの生息状況などを調べる環境現況調査に着手した。環境影響評価(アセスメント)の前段階となるもので、仲井真弘多沖縄県知事もあらかじめ調査に同意していた。移設に向けて一歩前進したものといえよう。

 しかし調査に際して、反対住民らがカヌーに分乗して調査船を取り囲み、ダイバーの作業を妨害する騒ぎもあったという。国益を踏まえた行動をとってほしい。

 普天間問題を進展させることにより、沖縄駐留の米海兵隊8000人をグアムに移転する計画も本格化する。特措法には、その経費を国際協力銀行による融資などで負担する仕組みも盛り込まれた。

 海兵隊のグアム移転は、太平洋における米軍の兵力構成見直しと同時に、沖縄の負担軽減につながるだけに、日本の費用分担は避けられない。

 今後、再編関連の振興策のとりまとめなどは防衛省が担当する。省昇格に伴う権限強化の一環だが、再編の円滑実施と国内調整に、より重い責任を負ったと受け止めるべきだ。とりわけ、不透明さも指摘される再編経費の詳細などについて、国民の理解を得るためには丁寧な説明が欠かせない。

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杉浦さんのコメントによせて

 しばらく忙しくて、杉浦さんのコメントに返事ができませんでした。少々、杉浦さんのコメントを読んで考えたことを書きたいと思います。
 
  このコメントをあらためて下に引用しています。そこで、被害者の意識と周囲の意識との違いがあるというご指摘がありました。
 
 確かに、どこかの世論調査で、被害者は1人にしてそっとしてほしいと考えている人が多いのに対して、被害者自身は普段通りに接してほしいと思っている人が多いという結果が出たという記事があったように、被害者やその家族などと当事者ではない人たちの意識の間にはギャップがあります。このような被害者像がいつどうしてできたのかは興味深いですが、だいたい、ドラマや小説などでは、定番となっているもののように思われます。敵討ちの物語などには、被害者やその遺族が「そっとしておいて欲しい」と訴える場面がよく登場します。
 
 被害者の遺族感情という点で、強烈な印象を与えたのが、1999年に妻子を少年に殺害された光市での殺人事件の被害者の夫の発言です。彼は、再三再四、テレビなどに登場して、遺族の無念を語り、加害少年に対する報復感情を露わにし、少年法や裁判が加害者の人権を配慮するのに対して、被害者や遺族の人権を軽く見ていると批判し、遺族の裁判への参加を訴えました。そして、執拗に少年の死刑を要求しました。その姿を見て、それを遺族として当然の姿だと思った人は多かったのではないかと思います。
 
 このケースは、犯行の残虐性などもあって、マスコミに大きく取り上げられ、少年法改定を狙う自民党が宣伝に利用したり、治安悪化への不安が、経済的停滞への不安やいらだちなどを背景に、強まっていた時代背景もあり、また、右派は、これを利用して、左派・人権派があたかも犯罪に対して甘いかのように描いて攻撃を強めました。それに対して、左派あるいは人権派からの反論が弱かったように思います。保守派は、人権派が加害者の人権を擁護しすぎることが、犯罪を助長しているかのごときキャンペーンをはりました。この時、問題だったのは、現在の更正体制の不備ということであったと思います。教育・更正プログラムが、加害者をあまり更正できていないのではないかという疑問が大きくなっていたと思います
 
  少年犯罪者は、再犯率が高いという数字だけが一人歩きしました。しかし、今、触法精神障害者の問題が、大阪での子供が歩道から投げ落とされた事件を契機に、多少マスコミなどで取り上げられています。触法精神障害者の再犯率は高いので、触法精神障害者のようなケースをのぞいた場合、再犯率は当然低くなるでしょう。あのころ、こうした具体的な内容にまで踏み込んだ分析がなされていれば、もっと違った形で議論が進むことになったかもしれません。少年法を一般刑法に近づけるという刑法学者の立場に沿った形で、これらの少年事件が利用されてしまったように思います。
 
 少年法は、少年の可塑性を高く見て、更正・矯正という点を重視しています。この点が、保守派などから、少年犯罪者の再犯率が高いとか大人を欺いて刑罰を逃れさせているとか、いろいろと攻撃を受け、ついには、厳罰化する改定がなされてしまいました。
 
 このことには、少年法がどうとかいう問題ばかりではなく、今日の刑罰制度や司法制度が、矯正・更正に役立たない、あるいは更正制度として有効に機能していないのではないかという問題があるように思われます。
 
 例えば、先日、ガラス張りで、高い塀で外界と仕切られていない開放的な民営刑務所がオープンしました。この女子刑務所には、いたる所に監視カメラがあり、入所者はタグの発信する電波で追跡されています。他方で、被告人やその家族と加害者を向き合わせることで自分の行為についての反省を促すという試みが導入されています。心理学的な資格を持つ刑務官を配置する試みもなされているようです。
 
 このように、近代の監獄制度が、入獄者に対して独房での孤独の中で、内省による更正を促すことを基本としているのに対して、それを反省する動きが始まっています。近代監獄制度の問題点が明らかになり、変革が求められる中で、それを利用して、応報主義などの前近代的な考えが、復活させられています。身体の拘束、身体に対して力を行使すること、刑罰を見せ物とすること、その儀式によって権力を誇示すること、等々。例えば、アメリカで、死刑への遺族の立ち会いを認めました。しかし、それは、導入後、それほど広まっていないようです。
 
 他方で、監獄は、これまで、秘密に覆われてきましたが、今度は、できるだけオープンなものでなければならないということも言われています。オープンな民営刑務所では、入所者が社会から見られ監視されていることを透明さの中で意識させられ、より深い内省に達するだろうというわけです。当初、この透明刑務所は、風呂場までガラス張りで、外から丸見えだったほど、透明性ということが基本になっています。
 
 透明性への欲望は今日の社会の基本的な欲望となりつつあり、それは、市場主義からもきていますが、それが今日の監獄制度にまで浸透しているのです。
 
 こうした司法を取り巻く社会的変化の中で、遺族感情とか犯罪や刑罰に対する社会的意識は、どうなっていくのでしょうか?

 この間、犯罪被害者や被害者遺族たちは、交通事故加害者への厳罰化、オウム真理教被害者の会の麻原死刑要求、等々と応報主義の線で動いているように思われます。それは、杉浦さんが聞いた「加害者には行った行為の意味を理解してほしい、そのためにはまず更正してほしい」という被害者遺族の方の主張とは違います。遺族の意識も多様です。

 他方で、犯罪を減らすことや加害者の更正という点で、厳罰化があまり効果がないことが明らかになってきています。というか、もともとそうであることは明らかだったのに、それが無視されたのです。

 少年法改定と少年犯罪の増減や再犯率の増減、凶悪化の間には、有意義な相関関係は見られず、今では、保守派の間でも、少年法改定の成果を言う者もほとんどいません。なんであれほど大騒ぎをして少年法を改定したのか、意味がわからなくなっています。実際に少年法が変わる間際になると、少年法改定を繰り返し訴えた『産経』などが、法律を変えただけで少年犯罪が減るわけではないなどと責任逃れの言い訳をし始めたことを思い出します。
 
 私は、人間には、かなりの可塑性、自己変革力があると思っていますので、死刑制度の廃止、終身刑の導入、近代監獄制度の解体、新たな教育と更正の方法の確立、等々、が必要と考えます。その上で、「被害者は加害者に報復したいと考える」のは当然としても、そこに止まらず、「更正を望む」という意識に変わるには、少なくとも今日の司法制度や監獄制度などが変わることが必要だと思います。もちろん、社会意識の変化も必要です。交通事故被害者遺族の方も、光市の母子殺人事件の被害者遺族の方も、報復感情を露わにしつつも、内容はともかく、最終的にはそれを訴えており、それに厳罰化という安易な形でしか応えていない政治の貧困が問題だと思います。
 
 「被害を受けた方は、第三者が考える以上にそのことについて深く考え、ご自分の心を問うていかれることが多く、一見被害者が望むだろうと思われる結論が被害者の心とは限りません」という杉浦さんのご指摘は、肝に銘じなければならないことだと思います。
 
 まとまりのない私見でした。
 
  コメントなど、歓迎いたします。

コメント
被害者の問題について書かれている箇所で「被害者は加害者に報復したいと考える」と論じられているのですが、私は自分が犯罪の被害者、特に子どもさんを殺された親御さんなどと関わる中で、加害者には行った行為の意味を理解してほしい、そのためにはまず更生してほしいといわれる方にも出会います。

また、加害者が少年だった場合に、「子どもだけが悪いわけではなく親を主とする大人のせいでもある。親がしっかりしなければいけないし、加害した子どもは亡くなった自分の子どもができなかった良いことを行ってほしい」と望まれる方もいます。

被害を受けた方は、第三者が考える以上にそのことについて深く考え、ご自分の心を問うていかれることが多く、一見被害者が望むだろうと思われる結論が被害者の心とは限りません。

このようなことは被害者問題だけではないと思いますが、自分が現実に経験したことだけ書かせていただきました。

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国民投票法国会成立弾劾!

 「国民投票法」が、14日参議院本会議で自公の賛成多数で可決した。多くの人々が、9条改憲を望んでいない中での、改憲手続き法の強引な制定を弾劾する。

  これで、いよいよ9条改憲に向けた自民党安部政権の動きが本格化することになる。とはいえ、国民投票法には、異例の18項目の付帯決議が付けられているし、投票年齢を18歳以上としたことで、関連する多くの法律の見直しが必要となり、しかも、改憲案の国会での審議は3年間凍結となっており、なお改憲のハードルは高い。

 3年後に、自民党がどうなっているかはわからない。以下は、近い時期に行われたマスコミの世論調査結果である。JNNの世論調査では、安部内閣の支持率は、3・4ポイント低下した。それに対して、共同通信の世論調査では、3・4ポイント上昇した。NHK世論調査は、共同通信の結果と同じく、支持率が上昇している。JNN・共同通信の世論調査は、共に、5月12、13日であるから、ちょうど、「国民投票法」が参院委員会で採択された直後である。
 
  JNNの世論調査結果では、自民党支持率5ポイント、公明党支持率も下がっている。4月は、日中関係の修復をアピールした温家宝首相の来日・首脳会談、訪米など、外交で安部政権の成果をアピールできたということもあろうし、統一地方選・参議院補欠選挙があって、選挙モードにあって、党員や支持者のアピールの影響というものもあったから、支持率が上昇したのかもしれない。しかし、それでも、共同通信の世論調査では、上昇が続いているという結果が出ているわけで、今、安部政権支持率のベクトルが上向きなのか下向きなのかはわからない。
 
  しかし、人々の意識が安部総理とずれているのは、両方の世論調査からわかる。一つには、国民投票法案成立を急ぐなという多数世論(JNN56%)があるのに、与党が、審議・成立を急いだということである。
 
  二つには、安部総理が、解釈変更での解禁を狙っている集団的自衛権行使問題である。
 
  JNNでは、「「行使できるようにすべきと思う」と答えた人が45%だったのに対し、「そうは思わない」が42%と」賛否が拮抗、「このうち、集団的自衛権を「行使できるようにすべき」と答えた人に望ましい手続きを尋ねたところ、「従来の政府の解釈を変えて行使できるようにする」という人は34%に留まって」いる。
 
  共同通信では、「集団的自衛権行使は憲法で禁じられているとの政府解釈に関し「今のままでよい」が62・0%と、4月の前回調査より7・4ポイント上回った」。
 
  こうした世論調査結果に反して、安部首相は、

       安倍首相が法制局見解を否定=「必要最小限」は量的概念-集団的自衛権

 安倍晋三首相は14日の衆院テロ防止・イラク支援特別委員会で、内閣法制局が集団的自衛権の行使が憲法上許されない理由として「自衛のための必要最小限度の範囲を超える」と説明していることについて、「必要最小限、これは量的な概念だと認識している」と述べた。従来の内閣法制局見解を否定して「量的概念」とすることで、集団的自衛権を行使しても、自衛のための必要最小限度の範囲にとどまるケースが論理的にあり得るとの認識を示したものだ。行使容認へ憲法解釈の変更に意欲を示したものとみられる。原口一博氏(民主)への答弁。(「時事通信」2007/05/14)

 と、改憲しないまま、集団的自衛権行使が可能だという見解を示した。

  以前、安部首相は、国会で、集団的自衛権は自然権であるという認識を示している。しかし、自然権は、人権について言われるのであって、近代国家に対して言われるのではない。国連は、国家連合という国家単位の団体だから、集団的自衛権について、自然権なら言わずもがなのところをあえて明記しているのである。そして、集団的自衛権の規定は、その他の様々な規定との関係でも規定され、制限されているのであり、究極的には、国連軍に世界秩序維持の強制力を任す目標を掲げ、そのために国家主権を制限し、部分的に委譲するように求めているという目的の下にある。
 
 それに対して、安部総理をはじめとする保守派は、集団的自衛権行使を国家権力を制約から解放するものととらえているのである。国家を自由にするというのが、保守派の自由主義であり、それに対して、人々には、自由の濫用を戒め、権利よりも義務を課し、いらぬ道徳で縛りつけようとしている。かれらの憲法観は、国家が「国民」に指令したり、命令したりする根拠法というものであって、社会契約説的な人々が国家を規定し、制約を加えた根本法というのとは違うのである。
 
 いずれにしても、国民投票法の成立は、憲法をめぐる闘いの始まりに過ぎない。それにしても、14日のTVタックルでは、青山という人は、2011年後の中国の膨張主義の本格的発動があることを、4000年にわたる中華思想という観念から導き出すという典型的な観念論に陥っていることを示したし、屋山という人は、何を言っているのかさっぱりわからないし、宮崎は、中国のバブル崩壊から対外膨張を説いて、考える能力のないこと、思慮が欠けていることを自己暴露した。ハマコーは、軍事的統一であれ、政治的統一であれ、台湾への人民解放軍の駐留があれば、沖縄の目の前に、中国の軍隊が存在することになると言ったが、このことは、沖縄こそが、台湾海峡有事の最前線基地であり、東アジア有事で、ミサイルなどの標的になるのは、東京などではなく、沖縄の米軍基地であることを暗示するものである。すでに、親米保守派の間では、アメリカが、米朝国交正常化に向かっていくと決めた以上、朝鮮半島有事で危機を訴えて、9条改憲や集団的自衛権行使解禁をはかろうというプロパガンダもリアリティに欠けるので、中国の脅威を強調する作戦に変更したようだ。
 
 なお、安部自民党は、結党以来の悲願である改憲に向けて前進したというようなことを言うが、憲法が60年以上変わっていないから、時代に合わないので変えるというなら、やはり結党以来50年以上も改憲を掲げ続けるというのも古くさいことである。同じように古いのだから、自民党綱領を時代に合わせて変えればいいのに。

 9条改憲に反対の人は、各社世論調査で、過半数を占めており、安部首相の改憲の狙いは、簡単には実現しない。イラク戦争が泥沼化していることは、9条改憲へのブレーキになるだろう。そして、「9条改憲阻止の会」その他の様々な草の根の反改憲運動の広がりがある。『読売新聞』の憲法世論調査では、ここ数年、改憲のベクトルは下向きだ。大手全国紙がこぞって改憲を主張する中で、それと逆に世論が動いたことは、反9条改憲運動に希望があることを示している。これからだ。

 なお、沖縄は、東アジア有事の最前線基地としてさらに米軍再編の中で、基地機能が強化されようとしていることは、辺野古への海上自衛隊艦船の派遣によって明らかである。ただの調査ではなく、自衛隊の力を使って、なんとしても基地建設に道筋をつけようというのである。辺野古への基地建設に反対する運動がいかに強力であるにしても、それに自衛隊を差し向けるとは、許し難い暴挙である。それは、与党系の県・自治体でさえ戸惑うほどのものであり、沖縄の人々の反発を生むものだ。そこまでして、アメリカに奉仕しなければならないというのが、安部政権の従米姿勢を如実に表しているのである。この暴挙に抗議する。

 憲法情報

 憲法メディアフォーラムhttp://www.kenpou-media.jp/

 News for the People in Japanhttp://www.news-pj.net/index.html

  許すな!憲法改悪・市民連絡会http://www.annie.ne.jp/~kenpou/

  福島みずほのどきどき日記http://mizuhofukushima.blog83.fc2.com/?xml

 内閣支持率が再び低下、JNN世論調査

 この2ヶ月上向いていた安倍内閣の支持率ですが、今月は再びマイナスに転じ、先月よりおよそ3ポイント低い51%となったことがJNN世論調査で判りました。

 調査は5月12日、13日に行いました。その結果、この2ヶ月間上向いていた安倍内閣の支持率は、3.4ポイント下がって51.7%でした。それでも、依然「支持する」が「支持しない」を上回っています。

 また、政党支持率でも、この2ヶ月上向いていた自民党が先月より5ポイント下がって31.6%となる一方、今年2月から支持を減らしてきた民主党が持ち直して18.9%となりました。

 一方、国民投票法案については、「今の国会で成立させる必要はない」と答えた人が先月よりやや増えて56%に上り、今月も過半数を超えました。

 また、安倍総理が研究のための有識者懇談会を設けた集団的自衛権について尋ねたところ、「行使できるようにすべきと思う」と答えた人が45%だったのに対し、「そうは思わない」が42%と、賛否が拮抗する結果となりました。

 このうち、集団的自衛権を「行使できるようにすべき」と答えた人に望ましい手続きを尋ねたところ、「従来の政府の解釈を変えて行使できるようにする」という人は34%に留まっています。(14日JNN)

 見直し必要なしが62%
 集団的自衛権の憲法解釈
(2007年05月13日 【共同通信】)

 共同通信社が12、13両日に実施した全国電話世論調査で、集団的自衛権行使は憲法で禁じられているとの政府解釈に関し「今のままでよい」が62・0%と、4月の前回調査より7・4ポイント上回った。解釈見直しを検討する政府の有識者会議の初会合が18日に開かれるが、変更の必要はないとの声が強まる結果となった。

 安倍内閣の支持率は47・6%と3・4ポイントの増。初めて40%を割り込んだ3月を底に4月に反転し、今回、回復基調に乗っていることが確認された形。安倍晋三首相が4月下旬の靖国神社の春季例大祭で供物を奉納したことに関し、事実を明確に認めていないことについては「適切だと思わない」(62・1%)が「適切だと思う」(32・2%)に大きく差をつけた。

 集団的自衛権行使禁止の解釈で「今のままでよい」が増える一方、「憲法解釈を変更し、行使できるようにすべきだ」との回答は5・0ポイント減の13・3%。「憲法改正し、行使できるようにすべきだ」はほぼ横ばいの19・1%だった。

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国民投票法参院委員会採決に抗議する

 5月11日、「国民投票法」与党案が参議院特別委員会で自公の賛成多数で通過し、14日の参議院本会議での成立する見込みとなった。
 
 なにがなんでも9条を改憲するという安部首相の願望が一歩前進したわけだが、教育基本法改悪と同様、実際には、改憲するには使いづらいものになった。
 
 一つには、審議を急ぎ、とにかくまず「国民投票法」を成立させなければならないと多くの論点を積み残したままになっているという問題がある。安部総理は、改憲が必要な理由を憲法の成立過程に問題があることを繰り返し強調しており、その理屈で言えば、「国民投票法」成立過程に問題があることは、後々まで、引きずることになることは明らかである。その点を示しているのは、18項目にも及ぶ付帯決議を付けていることである。
 
 それを条件に、11日の委員会採決、14日の本会議採決という日程で民主党と合意したのだが、これだけ多くの付帯決議項目を並べているのは、やはり、参議院選挙をにらんでの選挙戦術ということもあろうし、また、にわかに世論がこの問題に対して反応し始めたということもあるのだろう。成立を先延ばしして、世論が騒ぎ出す前に、とにかく大きく譲歩してでも、法案を成立させてしまって、既成事実の重みで、なんとかしようという狙いではないだろうか。
 
 自民党船田元、民主党枝野幸夫の自民・民主の国民投票法案の合意案づくりを推進してきた二人が、改憲は無理だし、やってやれないと改憲合意に向けた協議を投げ出してしまったように、安部首相が、夏の参議院選挙で、改憲を争点に掲げると年頭にぶち上げてしまった以上、民主党の協力を得る道はなくなってしまったからである。当面、このままだし、改憲に必要な国会の3分の2以上の賛成を得る見通しは立たない。それに、憲法96条の言う改憲発議に必要な国会議員の3分の2以上の賛成というのは、衆参両院議員の3分の2以上ということだろうが、それは全議員投票というような形を意味するのか? それとも通常の議案のように、衆議院で3分の2以上の賛成で、参議院でさらに3分の2以上の賛成という二段階の手続きを経て、しかも、参議院で否決された場合には、衆議院優位という原則で対処するのだろうか? 衆議院と参議院の選挙制度の違い、任期の違い、性格の違いを改憲手続き上、どう評価するか? 等々、議論すべき点が積み残されている。
 
 まあ、それは先の話なのだが、投票年齢の18歳への引き下げは、通常の選挙での投票年齢の問題とかいろいろなことに関係していて、それも含めて、改定が必要となれば、その審議だけでも軽く3年は超えてしまうだろう。
 
 改憲案に落ち着いて取り組めるようになるのは、さらにその先の話であり、結局は、実際の改憲は遠のいたわけである。そこで、保守派の「日本会議国会議員懇談会」は、日大教員の百地章氏を招いた勉強会を開いて、「国民投票法案が「改憲阻止法案」となる危険性」があるという認識を得たようである。

 百地氏は、『産経新聞』「正論」に以下の文章を寄せている。しかし、結局は、すでに明らかにしたように、参議院で委員会可決された「国民投票法」与党案と付帯決議は、百地氏が危惧した点を残したばかりか、百地氏が、『産経』「正論」の5月17日「憲法モラトリアムの終焉」という文章で、最低投票率規定を否定しているのとは反対に、付帯決議には、最低投票率について議論することが盛り込まれた。
 
 しかし、この点について、民主党は、様々な問題点が出てきているにもかかわらず、参議院でも、最低投票率規定を入れない民主党案を、身内の議員からさえ、不十分なままの法案を提出してしまったという認識が表明されているのに、対案路線だとして、参議院に提出してしまった。それも、そのまま採択にもかけられないまま、葬られてしまったのである。この対案路線にどんな意味があるというのだろうか。
 
 しかし、やはり百地氏も学者にはめずらしくない政権の太鼓持ちでしかないようだ。百地氏は、3月には、自民党の国民投票法案では、改憲阻止法になりかねないと言っていたのに、その危惧は今ではどこへやら、実際に国民投票法案が国会通過しそうになると、「憲法記念日には間に合わなかったものの、憲法施行後60年にして漸(ようや)く国民投票法が成立することを心から喜びたいと思う」と述べている。中身がそれほど百地氏の主張通りには変えられていないというのに、国民投票法成立を「心から喜びたい」というのは、自らの信念や主張はどこに行ってしまったのだろう。

  そして、国民投票法案に最低投票率の規定がないことが問題になると、「これに対し、与党側では、「否決を狙ったボイコット戦術を誘発する恐れがある」とか、「国民の関心の低いテーマでは改正が難しくなる」などの理由で反対しているが、さらに反論を加えることにしよう」と与党の応援をかってでる。

 そして最後に、「安倍総理は、憲法改正問題を次の参議院選挙の争点にしようとしているが、それは当然であろう。選出される参議院議員の任期は6年あり、その間に憲法改正の「発議」がなされるであろうことは、まず間違いないからである。そうなれば彼らは憲法改正案を審議し、発議に直接かかわるわけだから、憲法改正を託すにふさわしい人物を国会に送り込む必要がある。その意味でも、今度の参議院選挙は、かつてない重要な選挙になるのではなかろうか」と締めくくる。3月から数ヶ月で、どれだけ百地氏が、恥知らずに、政権にすり寄って、自説を曲げたかは、下の二つの文章を比較してみれば、一目瞭然である。

 今度の夏の参議院選挙で選ばれる参議院議員は、国民投票法が成立したからといって、改憲しなければならないと義務づけられたわけではない。改憲しないという選択肢が当然あるわけで、今度の参議院選挙で、「憲法改正を託すにふさわしい」かどうかを基準に議員を選ぶべしというのは、百地氏の願望にすぎない。9条改憲必要なしという意味での反改憲派は、各種世論調査で多数を占めている。改憲世論の多くは環境権などの人権項目を加憲するというものである。
 
 安部首相は、成立から60年もたっているのだから、改憲した方がいいと主張するのだが、それなら、戦前にできたままの項目が、刑法だの民法にもあり、それらも年数がたったから、変えた方がいいのだろう。 右派の中には、戦前の明治憲法がいいからと、逆に、昔に戻せという者もあるが、いずれにしても、国民投票法が成立したからといって、改憲が簡単になったというわけではない。
 
 参戦国化のための9条改憲を狙う国民投票法案の参議院委員会可決を弾劾する。
 
「問題多い国民投票法案の内容」
 ─日本大学教授・百地章
■メディア規制削除など大丈夫か

●譲歩しすぎの自民党

 「憲法改正国民投票法」について、安倍晋三総理は憲法記念日までに成立させるよう自民党に指示したという。

 気になるのは法案の内容である。昨年12月14日の与党修正案を見ると、問題点が非常に目につく。というのは、成立を急ぐあまり、自民党が公明党や民主党の要求に対して、次々と譲歩を繰り返してきたためで、特に国民投票運動など、本当にこれで大丈夫なのかと思う。

 護憲派は、本音では国会での改憲阻止をあきらめ、国民投票で決着をつけようとしているという。とすれば、彼らが少しでも有利な国民投票運動をと考えるのは自然であろう。

 この点、与党修正案では裁判官、検察官、警察官などの国民投票運動まで自由とされ、国家公務員法や地方公務員法の定める「公務員の政治的行為の制限」も適用除外になった。このため、国民投票運動という名の政治活動は自由となり、自治労などの主導のもと、全国で公務員による大々的な憲法改正反対運動が繰り広げられる可能性も出てきた。また、日教組あたりの反対運動を考えれば、公務員や教育者の地位利用なども気になるところだが、これも禁止規定のみで罰則は削除されてしまった。ちなみに、公職選挙法には罰則も存在する。果たしてこれで国民投票の「公正性」は担保されるであろうか。

●公正なルール作りを

 「全体の奉仕者」たる公務員には、地位の特殊性と職務の公共性から「政治的中立性」が要請される。にもかかわらず、なぜ「政治的行為の制限」が適用除外とされてしまったのか。その理由としては選挙運動と違い、国民投票運動は原則として自由であるべきだなどといったことがあげられる。

 確かに国民投票は国民自身が直接「主権」を行使する極めて重要な機会である。しかし「主権の行使」とはいっても、それはむき出しの権力つまり法的な規制を一切受けない「憲法制定権力」の行使とは異なる。あくまで「憲法改正権」という憲法上認められた権限・権利の行使であるから、法的安定性や公正性を確保するために種々の法的制約が課せられる。それゆえ、主権の行使だから無制約な運動を認めよ、などということにはならない。

 また、人物を選ぶ選挙と違い、国民投票運動では国の将来を見据えた国民の自由な議論が必要だから制約などすべきでないといった乱暴な意見もある。しかし、自由な議論を保障することと、真の自由を確保するために「公正なルール」を設定することとは別に矛盾しない。

 もし政治的に中立・公正であるべき公務員が「自由」の名の下に積極的に政治運動にかかわれば、行政の中立性は失われ、国民投票運動の公正性も著しく損なわれよう。それでも良いのか。

●テレビの規制は必要

 もう一点、非常に危険に思われるのは、民主党の主張に押され、メディア規制が完全に削除されてしまったことである。もし、新聞やテレビが連日にわたって、「9条改正は戦争への道」などといった宣伝を繰り返したら、どうなるであろうか。

 最高裁のいうとおり、「事実の報道の自由」は憲法で保障されており、その侵害は絶対に許されない。しかし報道の自由も、あくまで国民の「知る権利」に奉仕するために認められたものであって、報道機関に特権を与えたわけではない。となれば、報道各社が社説等で自らの意見を主張するのは自由でも、報道機関としては当然、公平・中立な報道が要請される。それゆえ報道のあり方については何らかの規制が必要である。
職選挙法では虚偽報道や歪曲(わいきょく)報道が禁止され、罰則まで存在するではないか。

 それにかつてのTBSのオウム報道、テレビ朝日のダイオキシン報道、さらにNHKの「女性国際戦犯法廷」番組、最近の関西テレビによる「捏造(ねつぞう)」番組等、マスメディアの実態を直視するならば、「報道の自由の尊重」などといったきれい事だけでメディア規制を完全に削除してしまうのは危険である。それどころか最近では捏造番組の再発防止のため、放送法改正の動きさえある。それゆえ、少なくとも影響力のきわめて大きなテレビについては「公平・中立な報道」に努めるよう一定の規制を課すべきである。ちなみにフランスやスイスでも、テレビ・ラジオについては規制をしている。

 このままでは、この法案は「憲法改正阻止法」となりかねない。千載に悔いを残さぬよう、自民党内で是非とも再検討を加えていただきたいと思う。(ももち あきら)(産経 19/03/08)
 
  【正論】日本大学教授・百地章 憲法改正モラトリアムの終焉

日本大学教授・百地章氏
■改憲を参院選の争点に議論深めよう

■「最低投票率」論への疑問

 憲法改正国民投票法案は現在、参議院で審議中であり、5月中には成立の見込みという。憲法記念日には間に合わなかったものの、憲法施行後60年にして漸(ようや)く国民投票法が成立することを心から喜びたいと思う。

 ところで、最近にわかに浮上してきたのが「最低投票率」をめぐる問題である。

 現在の与党案には最低投票率の規定はない。そのため、これに異を唱える人々は「仮に投票率が4割にとどまった場合には、最低投票率の定めがなければ、有権者のわずか2割の賛成で憲法改正が承認されることになる。それで国民が承認したとは、とうてい言えまい」(朝日新聞社説、4月19日付)と批判している。

 これに対し、与党側では、「否決を狙ったボイコット戦術を誘発する恐れがある」とか、「国民の関心の低いテーマでは改正が難しくなる」などの理由で反対しているが、さらに反論を加えることにしよう。

■国会による「発議」の重み

 実は、このような主張がなされるのは、国会による「発議」と国民投票による「承認」の意味および両者の関係が正しく理解されていないことによると思われる。つまり国会による「発議」とは、憲法改正案の単なる「提案」ではなく、「提案」と、その前提となる国会による「承認」(賛成)の両者を含んでいる。このことが良く分かっていないのではなかろうか。

 すなわち、通常の法律であれば「提案」(議案の発議)は衆議院で議員20人以上、参議院では議員10人以上の賛成者がいれば足り、両院の多数の賛成で「可決」される。ところが、憲法改正の場合には「提案」(憲法改正原案の発議)だけでも衆議院で議員100人以上、参議院で議員50人以上の賛成が必要であり、「可決」のためには、さらに両議院議員の各3分の2以上もの賛成が必要である。

 こうした慎重な手続きを経て、憲法改正原案は国会で「承認」され、しかる後に憲法改正案が国民に「提案」され、国民投票にかけられることになる。これを見ただけでも、国会による「発議」が単なる「提案」でないことは明らかであろう。

 現行憲法は代表民主制を採用しており、国会は主権者国民を代表する「国権の最高機関」である。憲法改正案は、その国会において両議院議員の3分の2以上という多数の賛成を得た上で、国民投票にかけられるわけだから、この「発議」の重みはもっと重視されなければなるまい。しかし最低投票率論者は、なぜかこの点に触れようとしない。

 逆に、国会で3分の2以上の多数が賛成しても、例えば国民投票の投票率が4割の場合、有権者のわずか2割以上が反対しただけで憲法改正は否決されてしまうわけだから、理屈からいえば、むしろこの方が問題であろう。

 それに、公職選挙法は最低投票率を採用していないし、諸外国でも、イタリア、オーストラリア、スイス、スペイン、フランスなどの大多数の国は、最低投票率の規定など置いていない。したがって、わが国でもこのような制度の採用は疑問である。

■憲法と正面から向き合う

 国民投票法が成立すれば、憲法改正問題は新たな局面へと移行する。3年間の凍結期間はあるものの、それを過ぎればいつ国会によって憲法改正案が「発議」され、国民投票に付せられるか分からないからである。そうなれば、これまで「憲法など関係ない」と暢気(のんき)に構えてきた国民も、いやおうなく憲法に直面させられる。国会による憲法改正の発議に対して、それを「承認」するかどうか、正面から向き合わなければならないわけである。

 戦後60年、憲法改正モラトリアムの時代はこうして終わりを告げ、国民一人一人が主権者としての自覚と責任を問われることになる。21世紀の日本をいかに構想し、わが国の将来をどのようにしていくのか、すべての国民が今こそ真剣に考えなければならない。そうすると、投票率も自然と高まる。

 安倍総理は、憲法改正問題を次の参議院選挙の争点にしようとしているが、それは当然であろう。選出される参議院議員の任期は6年あり、その間に憲法改正の「発議」がなされるであろうことは、まず間違いないからである。そうなれば彼らは憲法改正案を審議し、発議に直接かかわるわけだから、憲法改正を託すにふさわしい人物を国会に送り込む必要がある。その意味でも、今度の参議院選挙は、かつてない重要な選挙になるのではなかろうか。(ももち あきら)
(2007/05/08)

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曾野綾子さんの自愛主義・功利主義への批判

 作家・曾野綾子さんの「「醜い日本人」にならないために」という『産経新聞』(【正論】5月5日)という文章があった。
 
  タイトルは、安部総理が掲げる「美しい国づくり」というスローガンにひっかけたもののように見える。これは、「美しい日本」の正反対の「醜い日本」の姿に苦言を呈したものであろう。

 曾野氏が、ここでとりあげる「醜い日本人」の姿は、まず個性のない若者たちの外見である。

  保守系の人たちの多く、とりわけ、「ネットウヨ」と呼ばれる人たちと違って、曾野氏は、「人間というものは、自分を棚にあげないと何も言えない」という自覚を表明し、ただこのこと自体が醜いのかどうかを問えばきりがないので、外見を見れば、醜いかどうかはわかるものだという前提から出発する。
 
  曾野氏がまず指摘する「醜い日本人」は、東京の渋谷、新宿、池袋などの繁華街を歩く若い人たちで、外見的特徴は、「痩(や)せて筋力がない貧弱な細身に、まるで制服のように同じ流行の衣服を着て」いて、「ほとんど同じ髪形をし、最近は流行の重ね着のほかに、バストのすぐ下にギャザーを寄せたセーターと「ももひき」をはいて内股でぺたりぺたりと歩く」というものである。
 
  この場合の「醜さ」は、やせて筋力がなく、同じ流行の衣装を着、似たような髪型をしているという点にある。一様に細身であり、流行どおりの衣装と髪型、その着こなし、動作が同じなのも醜いというのである。

 もちろん、これは、通りすがりの年輩者の観察からきているものであって、若者ひとりひとりをよくよく比較すれば、それぞれ個性を出そうとして、ちょっとした他人と違う個性を示すものを持っている。ちょっとしたアクセサリーや持ち物の違いなどで個性を表示しているものだ。それから、友人同士では、声の特徴、話し方、くせ、性格や考え方などにそれぞれ個性的な特徴があることを認識している。通りすがりの観察者の流れ見程度では、そうしたことまではわからないだけのことである。ただ、ざっと見て、外見上、似ている点をおおざっぱにとらえ、抽象化してみれば、こう見えるという話なのである。
 
  次にやりだまにあげられているのが、朝のニュース番組に出てくる女性アナウンサーである。個性のない点で、都会の繁華街を歩く若者と同じであるというのである。それは、曾野氏には、「あらゆる男性視聴者の女性に対する好みをすべて揃(そろ)えました、と言っているように見える」という。確かにそれは、ニュース番組という男性視聴者が多いだろう分野で、激しい視聴率競争を勝ち抜くための、テレビ局の作戦なのだろう。
 
  こうして、曾野氏は、「醜い日本人」の特徴を無個性ということに還元する。
 
  さらに、貧しい国の若者は、破れたジーンズなどはきたくないのに、それをファッションとしてはいている日本の若者の無神経さを指摘する。もっとも、これは確かに無個性の表れだが、欧米での流行に感染しただけのことで、日本の若者が先に流行らしたわけではない。ハリウッドの人気スターなどが、高価な破れジーパン(ビンテージもの)をはいているのをみて、まねしただけなのである。しかも、それは、他では手に入らない特別な古ジーンズであれば、他の人間にはない個性を表示するものなのである。もっと言えば、普通のジーンズで個性を出すためには、破れ方や破れた位置や形状・大きさなどにを工夫するということもある。
 
   曾野氏は、官庁街やオフィス街をざっと通りすがりに観察してみれば、そこには背広にネクタイ・ワイシャツ姿の個性のないサラリーマンや公務員の姿をいくらでも発見できる。
   
 曾野氏は、その原因は、日本人の素質からくるのではなく、学習からくるという。そして、「日本以外の国では、その人に対する尊敬はすべて強烈な個性の有る無しが基礎になっている」という。
 
  それから、氏は、日本の若者教育に書けているのは、「魂の高貴さ」ということであるという。「つまり魂の高貴さということに関して教師も親も知らない上、当人も読書をしないから、損得勘定、自己愛などというもの以外に、人間を動かす情熱の存在やそれに対する畏敬(いけい)の念というものがこの世にあるのだと考えたこともないのである」ということだそうだ。
 
 この辺、曾野氏は、安部首相をはじめとするエゴイストであるナショナリストとはひと味違う。安部総理は、自分を守るために、日米同盟を強化し、集団的自衛権行使を解禁しようとしているのであり、憲法9条改憲をしようとしている。その点は、今週月曜日のテレビ朝日系TVタックルで、民主党右派の松原仁や元自民党議員浜田幸一などが一致して、日本の安全を守るためには、アメリカに戦ってもらうしかないので、日米同盟を強化しなければならないという考えを表明していたのと同じである。
 
  保守派・右派が、従軍慰安婦問題や沖縄戦での集団自決への軍関与問題や南京事件問題などをしつこく否定しようとしているのは、我が身かわいさから発しているもので、それは、曾野氏のいう「醜い日本人」の基準に当てはまるのである。それは損得勘定・自愛に基づいているのである。沖縄戦の最中に起きた座間味島などでの住民集団自決を守備隊長命令によるものではないから、軍に責任はないなどということを主張する者は、「損得勘定、自己愛などというもの以外に、人間を動かす情熱の存在やそれに対する畏敬(いけい)の念というものがこの世にあるのだと考えたこともない」のであろう。
 
  軍人としてのちっぽけな自愛を貫くことが大事か、それとも、「他人のために自らの決定において死ぬこと」が大事か? 
 
 曾野氏は、この集団自決事件の神話を暴いた本をずっと前に書いていて、その中で、守備隊長による住民への自決命令はなかったとして、それが戦後、準軍属扱いにしてもらうために遺族たちが作った神話だと主張したという。しかし、例えそれが事実だとしても、一つには、集団自決を直接命令したとされる助役は、軍政下では、その官吏であって、たとえ、守備隊長が集団自決を思いとどまらせようと口で説得したとしても、助役を解任するなり、拘束するなりして、実効的に自決を止めることもできたことを考えると、彼には責任があると言える。
 
 一度、事実を曲げてまで、遺族のためにと、汚名をきた旧帝国軍人ともあろう者が、ちっぽけな自愛のため、名誉のために、裁判などを起こしたというのが、なんとも醜く見える。タイトルの「他人のために生きる「美学」学びたい」というのは、こういう人にこそ当てはまるのではないだろうか? 彼らは、沖縄の犠牲によって、「本土」の戦後の平和と繁栄があったと考えられないのだろうか? そのことに感謝することもないのだろうか?
 
 次に、曾野氏は、「JR北陸線の車内で女性が暴行を受ける事件があったが、異変に気づきながら一人として暴力的な犯人に立ち向かう男性がいなかったというニュース」を取り上げ、「まさにこうした日教組的教育の惨憺(さんたん)たる結果を表している」と述べている。なにが日教組的教育なのか不明だし、この事件については、具体的に語るには情報が不足していることを先日指摘したし、そういう記事も紹介した。こういう風にちょっとした情報から、なにがしかの物語を空想してしまい、しかもそれに道徳規準を当てはめて、裁断してしまうというのは、小説家としての癖なのか、それともカトリック主義から来るのか、よくわからないが、とにかく、この事件については、なにがしかの具体的な教訓を引き出すには、情報が不足している。対策としては、一般的に言えば、乗員を増やすということが考えられる。東京では、駅の売店キヨスクがリストラで販売員の人手不足で閉鎖されたままになっているところが何カ所もあるという。駅員はホームにいることが少なく、緊急通報ブザーのあるところなど、一般に知っている者はあまりないだろう。安全のためには、JRの人を増やすべきだ。
 
 確かに、曾野氏の言うように、「女も抵抗の戦いに、できる範囲で働けばいいのである。それが男女同権というものだ。北陸線の中でも、男女にかかわらず知恵を働かせて車掌か鉄道警察隊に知らせようとした人がいてもよかったのだ」というのは、もし、その場にいた乗客が、目の前で犯罪が行われているということを認識していたのなら、そうしてもよかった。それが日教組的教育のおかげでできなかったというのは、空想物語的すぎる。今学校で使われている道徳教科書でも、他人を助けることを評価する話は載っているはずだ。だいたい、保守系の人々は、自愛がなければ、他者を愛せない、愛国心がなければ、他国を尊重できないと主張しているではないか。だから愛国心教育が必要だと。曾野氏の主張は、それとは逆で、損得勘定・自己愛ばかりが教育され、他者への愛、損得を超えた他者のための自己犠牲が教育されていないというのである。
 
 国家は、自愛の延長なのか、それとも他者愛の対象なのか? 愛国主義者は、ある時は前者だと言い、ある時は後者だという。
 
 次に、曾野氏は、「「偉くなること」を総理や大会社の社長になること以外に、他人のために自らの決定において死ぬことのできる人、つまり自らの美学や哲学を持つ人、と定義するならば、私はそうした勇気をずっと憧れ続けている」と言う。曾野氏は、総理や大会社の社長になることを「偉くなること」に含めているが、これは不徹底だ。氏の定義では、それは、「他人のために自らの決定において死ぬことのできる人、つまりは自らの美学や哲学を持つ人」であるが、われわれは、そういうもののない政治家や社長などというのをいやというほど見ている。人材派遣会社ザ・アールの奥谷社長などというのもその類の1人である。彼女は、自分の利益のためには、他人がいくら犠牲を払ってもかまわないという自愛の哲学・美学の持ち主である。現在のシステムの中では、大会社の社長や総理になることは、「偉くなること」とされているが、それは曾野氏の言うような美学や哲学を持たず、世間的な出世哲学・出世美学に迎合しなければ、勝ち取りにくいのである。
 
 安部内閣の閣僚たちの何人かは、スキャンダルにまみれ、総理自身が、闇の世界との関係などを指摘される有様で、曾野氏の「偉くなること」の基準からかけ離れている。トヨタにしても、自動車販売数で世界一になるようだが、フィリピン・トヨタなどでの海外での劣悪な労働環境を告発されている。曾野氏の「偉くなること」の基準は、現実にはなりにくいのである。
 
 「本当の人道的支援というものは、生命も財産もさし出せることです、と言うと、そんな損なことをする人がこの世にいるのだろうかという顔をされることも多い」と自らの体験をもとにしているのだろうことを指摘する。しかし、こういうことをする人は、小さい規模であっても存在するし、そういう人は少なからずいる。そのことがはっきりわかったのは、阪神大震災の時である。逆に、「そんな損なことをする人がこの世にいるのだろうかという顔をされることも多い」という方が不思議である。自分のことで手一杯で、それ以上のことができないという人が多いのは確かであるが、そういう人でも、他人のためにできる範囲のことで助けようという程度の気持ちは持っているだろう。
 
 曾野氏の言い方は、一かゼロかという抽象的な言い方で、量規定、程度のことを言わないから、聞き手がとまどうのである。そんな極端なことは無理だと思ってしまうのだ。

 曾野氏は、「それほどはずかしげもなく功利的な日本人を他国人は何と思うか、やはり教えた方がいい」と聴衆と垣根を設けた言い方をするが、それはカトリックの位階制では、一般信徒と異教徒の上に、聖人、神父・修道女がいるという人間の段階があること、そしてそれが魂の位階制でもあって、それを功利性の否定度合いで測るから、そういうことになるのだろうか。
 
 教育基本法改悪の一つのポイントは、公共心の教育であるが、それは功利主義的な公共性のことである。それは、曾野氏の功利主義批判と対立するものである。教育再生会議では、道徳教育の強化が議論されているが、その中で、親学なるものが提唱されている。その中身は、母乳奨励や早寝早起きなどの細かい生活の仕方である。今日のように、多様化した働き方や生活の仕方が定着しているところで、一つの型の家庭教育のあり方などを押しつけようとしても、現実の側から崩されるだけである。そして、公共の福祉という概念を消して、公共の利益という功利主義的概念を、憲法にも盛り込ませようということが、「偉い」会社社長たちの経済団体などによって、推進されている。
 
 曾野氏は一応保守派に分類されると思うが、それでも、自愛主義者・功利主義者の保守主義者とは違いがある。曾野氏がかつて沖縄戦での住民集団自決の軍命令を神話と主張する本を書いたことで、それを今日の対左翼戦で使えると思っている保守派や右派もいるようだが、それがそう簡単ではないことは、上述のことから明らかであろう。曾野氏の自愛主義批判は、結局は、「自虐史観批判」の批判になるからである。

【正論】作家・曽野綾子 「醜い日本人」にならないために

作家 曽野綾子(撮影・飯田英男)
 ■他人のために生きる「美学」学びたい

 ≪個性のない若者たち≫

 近頃の日本人はどうも醜くなったような気がする、と私の周囲の人が言う。私も時々同じように思う。しかしそう思う時には、必ず一言心の中で言い訳する声が聞こえる。

 「人間というものは、自分を棚にあげないと何も言えない」

 どういう点が醜いのか書き出したらきりがないけれど、醜いというからには外見からわかることがほとんどだ。

 東京の渋谷、新宿、池袋などのにぎやかな町では、若い人たちに洗われながら歩くことが多い。そこに溢(あふ)れているのは、痩(や)せて筋力がない貧弱な細身に、まるで制服のように同じ流行の衣服を着ている若者である。ほとんど同じ髪形をし、最近は流行の重ね着のほかに、バストのすぐ下にギャザーを寄せたセーターと「ももひき」をはいて内股でぺたりぺたりと歩く。

 朝早いテレビのニュース番組には、こういう個性のない肉体と、まるで同じような髪形と服装のお嬢さんが時には4人も出てくる。4人とも必要だということは、魅力の点でもアナウンサーとしての技量の上でも、多分1人ではもたないということを局側が知っているからだろう。

 BBCだってCNNだって1項目のニュースを読むのは原則1人のアナウンサーで、1行読んで別の人の声に渡したりしない。そしてその女性たちが、実にそれぞれ強烈な個性美を持っている。あらゆる男性視聴者の女性に対する好みをすべて揃(そろ)えました、と言っているように見える。年増派あり、神秘派あり、モノセックス風あり、近寄ると危険派あり、肌の黒いカモシカのような肢体派あり、昔の小学校の受け持ちの女先生に対する憧(あこが)れ派あり、あらゆるタイプ別に女性を揃えております、という姿勢が言下に見えている。

 ≪「魂の高貴さ」を学ぶ≫

 そこで大切なのはその人の個性であって、黒髪の日本人のくせに金髪に染めているというだけで、これは自分のない人だという判断をされても仕方がないだろう。今は少し廃(すた)れたが、破れたジーンズ・ファッションが私は嫌いだった。アフリカの貧しい青年たちは、新しいジーンズなどなかなか買えない。もし破れている流行の品と、破れていない新品とどちらでもあげるよ、と言われたら、アフリカの貧しい青年で破れたジーンズをもらいたがる人はいないだろう。他人の貧しさをファッションにして楽しむ神経に、私はどうしてもついていけないのである。

 こうした無神経は日本人の素質が悪いからではなく、すべて学習の不足から来るのである。日本以外の国では、その人に対する尊敬はすべて強烈な個性の有る無しが基礎になっている。もちろんお金や権力のあるなしもその一つの尺度とはなり得るだろうが、日本では、最近全く若者に教えていない分野があることがわかった。つまり魂の高貴さということに関して教師も親も知らない上、当人も読書をしないから、損得勘定、自己愛などというもの以外に、人間を動かす情熱の存在やそれに対する畏敬(いけい)の念というものがこの世にあるのだと考えたこともないのである。

 ≪「偉くなる」って何?≫

 つい先日、JR北陸線の車内で女性が暴行を受ける事件があったが、異変に気づきながら一人として暴力的な犯人に立ち向かう男性がいなかったというニュースは、まさにこうした日教組的教育の惨憺(さんたん)たる結果を表している。

 もっとも私は昔から西部劇の中の男だけがならず者に立ち向かうという設定には抵抗を覚えていた。女も抵抗の戦いに、できる範囲で働けばいいのである。それが男女同権というものだ。北陸線の中でも、男女にかかわらず知恵を働かせて車掌か鉄道警察隊に知らせようとした人がいてもよかったのだ。

 最近の調査によると、人生の目標に「偉くなること」をあげる若者たちの率が、日本ではアメリカや韓国に比べて著しく低い、という。私にもその癖(へき)はあって、権力を志向する政治家の情熱をほとんど理解していない。しかし「偉くなること」を総理や大会社の社長になること以外に、他人のために自らの決定において死ぬことのできる人、つまり自らの美学や哲学を持つ人、と定義するならば、私はそうした勇気をずっと憧れ続けている。

 本当の人道的支援というものは、生命も財産もさし出せることです、と言うと、そんな損なことをする人がこの世にいるのだろうかという顔をされることも多い。

 それほどはずかしげもなく功利的な日本人を他国人は何と思うか、やはり教えた方がいい。(その あやこ) 

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沖縄と憲法

 今年の憲法記念日は、改憲派・反改憲派双方が、力を入れた集会を開いた。反改憲派は、日比谷公会堂集会約6000人という大集会を成功させた。
 
 そうはいっても、改憲派は、国会で多数を占め、9条改憲のための国民投票法与党案を衆議院で強行通過させ、参議院に送った。参議院では、一日6時間というハイペースで、審議を急いでいる。ところが、最低投票率の問題など、問題点がつぎつぎと指摘され、あるいは、民放連が国民投票法案のマスコミ規制に反対を公表するなど、ここにきて、与党ペースの審議に対する人々の懸念を示す声などが大きくなってきている。
 
 自民党は、国民投票法案の今国会通過を見越して、次の段階の改憲に向けた計画を練り始めている。9条改憲に向けた2段階作戦である。世間の改憲支持世論の多くは、9条改憲には反対で、環境権などの新たな人権項目を加える加憲を求めている。
 
 それに対して、自民党の基本的な改憲目的は、9条改憲にある。改憲世論と自民党の意識は、ずれているのである。それに合わせて、まず、環境権などの改憲を先にやって、改憲タブーを壊した上で、次に9条改憲に持ち込もうというのである。国民投票法案は、成立から3年は国会での改憲発議はしないとなっている。改憲発議解禁前に、総選挙があるから、そこで、改憲問題の審判があることになる。しかし、沖縄の先の参議院補欠選挙でもそうだったが、与党は、国政選挙であるにもかかわらず、安部政権が最大の課題であり、夏の参議院選挙で争点とすると公言した改憲問題について訴えるのをさけた。夏の参議院選挙でもはたして与党候補が、憲法問題をどれだけ前面に掲げて選挙を闘うのか、疑問である。
 
  他方で、安部首相は、訪米に先立って、集団的自衛権行使について、4類型の具体的なケースを検討する有識者懇談会を設置することを表明した。日米首脳会談では、このことをブッシュ大統領に対して強調したという。その集団的自衛権有識者懇談会のメンバーは、安部ブレーンといわれる人物やもともと集団的自衛権行使に積極的な人たちで、5月5日の『東京新聞』によれば、13人中12人が賛成派である。この有識者懇談会は、「はじめに結論ありき」の安部首相の御用機関である。形式民主主義の形式すら身につけない、露骨な裸の独裁である。
 
 『琉球新報』は、普天間基地移設問題を話し合う日米行動委員会(SACO)の協議過程で、アメリカが、普天間基地移設後、同基地の緊急時の滑走路機能を代替するものとして、那覇空港の使用について沖縄県と合意する必要があるということを主張したことを暴露した。
 
 『沖縄タイムス』は、「朝鮮半島有事の際、普天間飛行場が米軍のアジアにおける「出撃の最前線基地」になることを裏付ける米公文書が見つかった」としてその内容を報じた。沖縄が、東アジア有事の最前線基地化されていることは明らかではあったが、それを裏付ける米側資料があったことで、事実として確かめられたわけである。沖縄の犠牲によって、「本土」が守られるという沖縄戦の時と似た情況が今も存在しているのである。

 こんな有様だから、米軍不信・本土政府不信が沖縄で根強いのも当然である。
 
  東京に本社を置く全国紙が、のきなみ改憲を主張しているのに対して、『琉球新報』『沖縄タイムス』はともに9条改憲反対を明確に掲げている。
 
   ベトナム戦争でもイラク戦争でも、沖縄の米軍基地から、米軍が戦地へ出動していったのであり、最前線基地化されてきたのである。それは、普天間基地返還などの米軍基地縮小・移転は、実際には、基地機能強化・現代化・機能拡張・再編の一環として行われるにすぎないことが、普天間代替基地計画(日米合意の辺野古沿岸案)で明らかである。普天間基地の住民負担を減らすためとして、移転を決めながら、新基地では、基地機能をより強化するということだ。沖縄県が求めている辺野古沖合案、使用期限の設定その他の条件を日米政府が同盟して、つぶしにかかっている。日米同盟は、沖縄の平和を求める人々を押しつぶす道具に化している。

 日米同盟に歯止めをかけてきた集団的自衛権不行使、9条を変えて、「戦争のできる国」にすることに沖縄の人々がより敏感であることは経験から生まれている。『読売新聞』は、6日社説で、集団的自衛権の「問題は本来、「何が憲法上、可能か」ではなく、「何をすべきか」という視点を優先すべきだ」と、憲法より優先すべきだと主張している。日米同盟が憲法を超越するという考えは、日米安保条約が集団的自衛権行使を明記していることに基づいている。それに対して、憲法上の制約があるという内閣法制局の集団的自衛権行使不可という解釈は、それと衝突してきたがゆえに、憲法9条あるいはこの内閣法制局見解かどちらかを変えるべきだというのが、中曽根元首相など保守派の見解である。どちらにしても、沖縄にとっては、基地負担強化につながる話である。

  『琉球新報』社説(5月3日)
憲法施行60年・9条を手放していいのか/平和主義の精神これからも

 憲法が施行されてきょう3日で60年を迎えた。

 「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」を3原則とした憲法が、日本の平和と国民を守り続けてきた。
 
  その憲法が今、揺らぎ始めている。戦後レジーム(体制)からの脱却、日米同盟の強化を目指す安倍晋三首相の登場で改憲の動きが勢いを増している。
 その狙うところは「戦争の放棄」と「戦力不保持」を明記した9条の改正である。憲法改正手続きを定める国民投票法案の成立も、目の前に迫っている。
 
9条を手放していいのか。国民一人一人があらためて真剣に考える必要がある。「改憲ありき」の政治を許してはならない。

原点に立ち返れ

 2005年に衆参両院の各憲法調査会が最終報告書をまとめた。自民党も同年、新憲法草案をまとめている。それ以降、改正論議が加速している。

 両院の最終報告書は憲法改正の方向性を示した。特に衆院は「9条1項(戦争の放棄)の堅持」を打ち出す一方で、それと相反する「集団安全保障活動への参加」を盛り込んだ。9条の精神を形骸(けいがい)化させるものである。
 
  自民党の新憲法草案は、現行憲法の核心部分である9条を改正し「自衛軍を保持する」と明記、9条2項の「交戦権の否認」を削除した。
 
   草案の意図するところは「戦争のできる国」にほかならない。安倍首相も自民党総裁として、その方針に沿って憲法改正に意気込んでいる。
 
   安倍首相は昨年10月、英紙のインタビューで「(総裁としての2期6年の)任期中に憲法改正を目指したい」と表明。9条については「時代にそぐわない典型的条文。日本を守る観点と国際貢献を行う上でも改正すべきだ」と述べている。
 
  果たしてそうだろうか。戦後曲がりなりにも、日本が平和であり続けたのは憲法の存在が大きい。時々の為政者に歯止めをかける9条がなければ、今の日本の平和と繁栄はあっただろうか。国際紛争が絶えない時代だからこそ、憲法の輝きは増しているのである。
 
   首相の言う「国際貢献」とは何か。米軍と自衛隊が軍事行動を共にすることだとすれば、短絡した考えである。
 
  憲法が禁じ、政府の憲法解釈でも禁じられている「集団的自衛権」の行使を、有識者会議を通して解釈改憲することも首相はもくろんでいるが、それが真の国際貢献とは思えない。
 
  平和憲法を持つ国としての国際貢献を考えるべきだ。日本に求められた国際貢献は、外交面で役割を果たすことである。
 
国際紛争を解決する手段としては、永久に武力行使を放棄するとの原点に立ち返るべきだ。

  国民意識と隔たり

 共同通信が4月に実施した全国電話世論調査では、戦争放棄と戦力不保持を規定した9条については44・5%が「改正する必要があるとは思わない」と回答し、「改正する必要がある」の26・0%を18・5ポイント上回った。
 
  集団的自衛権行使の政府解釈は「今のままでよい」が54・6%と、「解釈を変更して行使できるようにすべきだ」18・3%、「憲法を改正して行使できるようにすべきだ」18・7%を合わせた37・0%を17・6ポイント上回っている。
 
  安倍首相の意に反して、国民の多くは9条改正を望んでいないのである。かえって9条を守るべきだとする声の方が多いのである。
 
  この事実に安倍首相をはじめ、政治家は目を向けるべきである。
 
   国民意識とは大きな隔たりがある中で、憲法改正を急ぐべきではない。衆院で国民投票法案を与党が強行採決で可決したような愚を繰り返してはならない。
 
  沖縄戦では住民を含む多くの貴い命が失われた。沖縄は戦後も27年間にわたり米施政権下に置かれ、人権を踏みにじられた歴史がある。
 
  それだけに、県民には平和主義、基本的人権の尊重を柱とする憲法に特別の思いがある。だが、その思いは沖縄だけのものではないはずである。
 
  第2次世界大戦の反省から制定された世界に誇れる平和憲法を引き続き堅持し、後世に引き継ぐ必要がある。
 
戦争の教訓から生まれた憲法の持つ意味をいま一度かみしめたい。

  那覇空港を緊急時使用 米空軍文書を本紙が入手(『琉球新報』5月5日)

 日米行動委員会(SACO)最終報告策定に向け在日米軍内で調整中だった1996年11月、返還後は普天間飛行場が持つ緊急時の滑走路機能として那覇空港が使えるように、日米両政府と沖縄との間で正式に合意すべきだと要望していたことが、4日までに琉球新報が入手した米空軍の文書で分かった。SACOにつながる在日米軍再編では、普天間飛行場に代わる緊急時の民間空港使用を明示しており、那覇空港の沖合展開滑走路が有事を含めた緊急時使用の対象として浮上する可能性がある。
 
 米空軍文書は96年11月25日付で、在日米軍あてに準備した嘉手納基地の第18航空団の意見をまとめた。普天間返還に伴う緊急時使用滑走路の確保について「普天間の滑走路がなくなるため、進路変更時や緊急時の滑走路として那覇空港を使用することを、米政府と日本政府、沖縄県の間で公式な合意を結ぶべきだ」と指摘している。
 
 米軍再編で2006年5月に日米合意した「ロードマップ(行程表)」で「民間施設の緊急時における使用を改善するための所要が2国間の計画検討作業の文脈で検討され、普天間飛行場の返還を実現するために適切な措置がとられる」と決めた。だが具体的にどの民間空港を使用するのかまだ公になっていない。
 
 那覇空港の沖合展開をめぐっては、小池百合子沖縄担当相(当時)が06年7月に県内での講演で、県側から要望として声を上げるべきだと指摘した上で「一時的に(普天間飛行場の)一部の発着を移す緊急措置にも使えるかもしれない」と述べ、軍事利用の可能性に触れていた。
 
 翁長雄志那覇市長も05年12月末の記者会見で、拡張された滑走路側の自衛隊使用を提案し「有事における自衛隊や米軍に対する柔軟な対応が可能」と述べ、有事における那覇空港の軍事利用に言及した。(滝本匠)

 [「最前線基地」計画](『沖縄タイムス』社説(2007年5月5日))

  県民無視も甚だしい

 朝鮮半島有事の際、普天間飛行場が米軍のアジアにおける「出撃の最前線基地」になることを裏付ける米公文書が見つかった。
 
 常駐するKC130空中給油機やCH53E輸送ヘリコプターなど七十一機に加えて、紛争が勃発したときはハワイや米本土の基地から百四十二機を段階的に配備。戦闘が激化した場合にさらに八十七機を追加し、計三百機で作戦を遂行する青写真である。

 ピーク時には九十機を常時配備することも明らかにしている。

 周囲が民間住宅地で囲まれた危険極まりない「普天間」に、現状の四倍を超えるCH46EヘリやAH1W攻撃ヘリなどを順次送り込むというのだから、身の毛がよだつ。

 文書が作られたのは一九九六年に日米両政府で普天間飛行場返還に向けた協議が本格化した時期だ。

 それなのに、ここには既に「普天間飛行場が返還された後も、朝鮮有事のための発進地を海兵隊と国連軍に提供できる基地を新たに指定」すると記されている。

 これは名護市辺野古沖で合意された当初案は言うに及ばず、何としても代替施設は造らせるとする米軍の意思とみていい。であれば、キャンプ・シュワブ沿岸部に変更されたV字形滑走路を持つ「新基地」も同じだろう。

 公文書から読み取れるのは「造るが勝ち。すべては状況に応じた運用の問題」とする米軍の傲慢な姿である。

 島袋吉和名護市長はこの計画をどう受け止めるのだろうか。もちろん仲井真弘多知事も同様だ。

 代替施設がこれからの問題であれば、「知らなかった」では済まされないからだ。市長と知事は市民、県民に対し公文書の内容を分析した上でどう考えるのか、説明する責任があろう。

 計画について、米軍部が太平洋戦争で激戦の末に獲得した“権益”を普天間飛行場の返還で失うことを恐れ、同飛行場の有用性をことさらに強調したのではないかという見方もある。

 県民の暮らしを破壊する嘉手納基地での未明の離陸をはじめヘリからの降下訓練など、既得権益を前面に押し出した強硬姿勢が目立つのは確かだ。

 問題は、このような米軍の姿勢を黙認する政府の姿勢なのであり、もし米政府との間で県民の知らない取り決めがあるのであれば、すぐに情報を公開するべきだろう。

 平和に暮らしたいと願う県民の願いを無視し、沖縄を最前線基地にしようとする米軍の思惑を私たちは絶対に認めるわけにはいかない。「普天間」の危険性の除去とは即時閉鎖である。

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憲法記念日によせて

 今日は、憲法記念日である。日本国憲法施行60年の節目の年とあって、大手新聞各紙は、社説でこぞって憲法問題について書いている。

 『毎日新聞』の4月28日、29日の電話世論調査によれば、改憲賛成51%、反対19%だったという。同紙は、「「世論調査に表れた国民の憲法意識は近年「憲法改正は賛成が多く、9条改正には反対が多い」傾向が続いている」と分析するが、『読売新聞』『沖縄タイムス』『北海道新聞』などの世論調査結果では、改憲賛成の減少傾向と憲法改正反対の増加傾向が表れている。直近の『毎日新聞』の調査が、それと逆の結果を示したのはなぜか? とはいえ、世論調査というのは、大方はあくまでも参考程度のものと見た方が間違いがないだろう。

 『毎日新聞』は、9条改正問題についても質問しているが、新しく質問項目を細かく分けるようにしたという。質問の仕方によって、回答が変わってくるのは自明のことである。回答から、「分からない」をはずしたことで、迷っている、なんとなく、などの、消極的態度を排除してしまった。『毎日』自身は、5月3日付社説で、安部総理の持論である「押しつけ憲法」からの解放すなわち「戦後レジュームからの脱却」論を「あまりに観念過剰で書生論じみている」と批判し、「私たちは「論憲」を掲げ憲法の総点検を行ってきた。憲法に不都合があれば改憲も否定しないという立場だが、結論を急ぐ必要はない」という立場であることを明らかにしている。

 『朝日新聞』『北海道新聞』の憲法世論調査結果から、改憲賛成派の多くは、環境権などの新たな人権の項目を加えることを望んでおり、9条改憲を求める意見は少数である。要するに、加憲であり、時代の変化に合わせて、人権・権利拡大を求めているのである。

 しかし、こうした人々の多数世論とは違って、改憲派の中心テーマは、9条改憲である。そのことは、『読売』『産経』両社説で明確に主張されている。自民党新憲法草案もそうである。9条は大きく変えられているが、その他の条文については、大きな変化はない。もっとも、国民の権利については制限を加えられ、前文では「愛国心」という心の強制が盛り込まれている。もっとも、とにかく9条改憲がポイントだから、他の項目については、当初案からは大幅に後退し、現憲法に近いものになっている。「

 『読売』は、「憲法改正の核心は、やはり9条にある」として、「北朝鮮の核兵器開発や中国の軍事大国化による日本の安全保障環境の悪化や、イラク情勢など国際社会の不安定化に対し、現在の9条のままでは、万全の対応ができない。日本の国益にそぐわないことは明らかだ」と述べる。

 そして、日米同盟のために、集団的自衛権行使ができるようにしなければならないと主張する。『読売』は、9条によって制約されているという認識を示しつつも、9条改憲を待っていられないと言う。

 『産経』も「集団的自衛権は行使を含めて認められると考えるべきである。日米安保体制も、それを前提に構築されている。憲法条文上、あいまいさがあるとするなら、まさに改正により明確にすべきポイントといえる」と9条改憲の必要を訴える。

 当初、吉田茂首相は、9条が自衛権をも否定しているとする見解を示していたが、朝鮮戦争勃発で、アメリカから日本の再軍備を求められるや、自衛権を否定するものではないと見解を修正し、アメリカ側の態度変化を追い風に、岸首相は、自主憲法制定・9改憲を目論んだ。しかし、左右社会党合同した日本社会党など護憲派が国会で3分の1を超えるやそれが難しいと判断し、日米安保条約改定によって、集団的自衛権行使を明記するという無茶をやった。それ以来、憲法9条と日米安保条約の集団的自衛権行使規定の間の矛盾が、冷戦状況をも反映しながら、日本の左右両派の大きな対立点となって、政治を二分してきたのであった。

 改憲問題が、これまで、タブーのようになったのは、改憲イコール参戦を意味したからである。ところが、1991年湾岸戦争において、国際社会が一致して、国連安保理決議による国際法上、合法的な多国籍軍による戦争ということが起きた。それまでは、米ソ冷戦を背景として、地域戦争・内戦などに米ソが介入する形の戦争が多く、それらは国連安保理で、どちらかの拒否権行使によって、国際社会が一致することのない戦争であった。

 一方にくみすれば、他方からの攻撃を受ける可能性があり、戦争に「まきこまれる」可能性があった。したがって、非武装中立という選択肢が一定の支持を受けたのである。

 それが、湾岸戦争で変わったというわけである。国連安保理決議に基づく多国籍軍による戦争に、日本は、金を出すだけでいいのかというわけだ。アメリカは、自衛隊を出して、血を流せと求めるようになってきた。はっきりいって、ほとんど脅しのようなものだが、自民党ばかりではなく、野党までが、こうしたアメリカの脅しに屈しながら、それを誤魔化して、これからは、積極的な国際貢献が必要だとして、その足かせになっているとして、9条改憲、手段的自衛権行使解禁に動く議員が増えたのである。

 しかし、湾岸戦争後の長い過程を経て、約10年後のイラク戦争においては、明確な武力行使容認の国連安保理決議がないまま、ブッシュ政権のフセイン憎しのアメリカのための戦争に有志連合が加わって、イラク全土を制圧する侵略戦争になった。2003年5月1日には、ブッシュ大統領は、勝利宣言をしたのだが、それから4年、米兵の死者は、3千数百人に達し、米軍を増派する中で、4月には、一ヶ月の米兵死者数が104人になった。有志連合からは次々と各国部隊が引き上げ、今やほとんど米軍だけが、イラクに駐留しているようなかっこうだ。

 『読売』は、9条が役に立たない理由の一つにイラクの治安情勢悪化に対応できないことをあげているのだが、これは、転倒した考えである。『東京新聞』社説でも指摘されているように、もし集団的自衛権行使ができ、自民党草案の9条3項の国際貢献任務の規定があったら、自衛隊は多国籍軍に参加して、イラクに駐留して、治安維持活動にも参加して、犠牲者を出していたかもしれない。イラクの治安情勢悪化に対応するというのが、何を意味しているのかよくわからないが、もし、米軍が「テロリスト」の攻撃によって苦戦しているということを想定しているのならば、今米軍を攻撃している勢力に対して、集団的自衛権を行使して、攻撃するという対応ができないという意味なのだろうか。

 『読売』は、「日本を守るために活動している米軍が攻撃されているのに、憲法解釈の制約から、近くにいる自衛隊が助けることができないのでは、同盟など成り立たない」というのだが、「日本を守る」ということが曖昧である。中東からの石油にほとんど依存している日本の産業や生活を守るためには、中東の石油の安定確保がかかせないので、そのような「日本を守る」ためにも米軍はイラクに大量長期駐留しているのだから、その米軍が攻撃されているのに、近くにいる自衛隊が助けることができないのでは、同盟関係など成り立たないというのである。

 もちろん、これは、東アジア有事のことを主に念頭に置いているのだろうが、陸上自衛隊は撤退したが、空軍の輸送支援部隊は今もイラクで活動しており、その主な輸送活動は、米軍向けであるということで、米軍の近くに自衛隊がいる状態でもあることを忘れてはならないのである。

 『読売』『産経』は、はっきりとアメリカの戦争に参戦しろと言っているのであり、安部総理もそういう考えである。

 『産経』は、「日本占領中の連合国側が、日本の弱体化を図った時代に、現憲法は生まれた。当時は、激しいインフレの中で労働争議が頻発し、社会は騒然としていた。悲惨な戦争の経験から、恒久平和を願う国民が、結果的にこの憲法を受け入れたのも事実だ」と一定の時代的背景から、戦争の反省と平和への願いから、現憲法を受け入れた事実を認めた上で、「しかし、時代は大きく変わった。新しい酒には新しい革袋が必要だ。そこへ自立した国家意思と国や国民を守る気概を込めることも欠かせない」。

 人々の恒久平和への意志は、「古い酒」で、「新しい酒」は、「自立した国家意志と国や国民を守る気概」という成分でできているらしい。つまりは、国家エゴという酒だ。

 『沖縄タイムス』社説は、「本紙が行った世論調査では、九条について「改正するべきでない」が二〇〇四年の40%から十六ポイント増えて56%になっている。逆に「改正すべきだ」が29%から24%に減った」という『毎日新聞』の先の世論調査とは逆の結果を示した上で、平和憲法体制への「復帰」後、「米軍基地の「本土並み」という約束がほごにされ、憲法三原則の一つである基本的人権も十分に守られなかった。平和主義だけでなく憲法そのものの理念にかなうものではなかったのである」と、憲法理念の実現が不十分であることを指摘する。さらに、米軍基地問題を抱える沖縄の特殊な現実を「日米安保条約が憲法の理念を踏みにじったのは明白で、それが暮らしの隅々に影を落とし県民を不安に陥れているのは間違いない」と指弾する。

 日米同盟によって、日本の平和が守られているとする『読売』『産経』に典型的な本土エゴによる日米同盟評価、集団的自衛権行使容認の主張と、沖縄のそれらへの受け止め方の違いがはっきりと示されているのである。

 『読売』『産経』は、こうした沖縄の苦悩を無視している。もちろん、政府も同様であり、文科省の先の教科書検定での沖縄戦での住民集団自決への軍関与を曖昧にする検定はそのことを明確に示している。この文科省検定に抗議する県民大会が来月9日に予定されている。

 『沖縄タイムス』社説は、「平和の理念揺るがすな」「九条」守るために声を」と9条改憲反対をはっきりと掲げている。今日も、反改憲派の集会やデモが各地で行われている。こうした反対派の声の高まりの中で、「自民党は2日、国民投票法案が今月中旬に成立する見通しになったのを受け、まず民主、公明両党や国民の賛成を得やすい環境権やプライバシー権の新設などの賛否を問う国民投票を行い、焦点の9条は後回しにする2段階改憲の検討を始めた」(『東京新聞』5月3日)という。沖縄県議会では、9条改憲賛成派と反対派は拮抗しており、加憲派が増えたという。夏の参議院選挙結果次第では、安部政権の基盤がさらに弱体化する可能性もある。先の衆議院選挙では、社共が善戦していることもあり、安部首相が憲法を強く争点化するとかえって、逆バネが働いて、社共がのびる可能性も考えられなくもない。

 現在の与党の改憲の狙いが9条改憲で戦争ができる国にすることにある以上、反戦派は、現在の改憲には反対せざるをえないし、それをしやすくするための国民投票法案にも反対せざるをえない。こうした改憲の垣根が低まったとする情勢を見てか、超党派の最保守議員グループ(自民党土屋や民主党松原仁や国民新党亀井や無所属平沼赳夫など)が、「新憲法制定促進委員会準備会」(座長・古屋圭司自民党衆院議員)を結成し、天皇元首化、国益条項、集団的自衛権行使、防衛軍創設などを盛り込んだ「新憲法大綱」を作成し、公表するという。憲法施行60年にあたって、3日安部首相は、改憲への強い意欲を表明した異例の総理談話を訪問先のエジプトのカイロから発した。

 かつて、岸総理の改憲の野望をうち砕き、退陣に追い込んだ反安保闘争の担い手たち、安保全学連世代を中心に始まった「9条改憲阻止の会」の反改憲運動などの闘いの正念場はこれからである。岸退陣後、後継首相となった池田は、改憲せずを公言し、以降歴代内閣は、憲法遵守を強調し、改憲を公言することがなくなった。そうさせたのは、民衆の平和を願う意志が国家意志として政権に押しつけられてきたからである。その制約から自由になろうという政権党の意志をくじくのは、民衆の闘いである。それは、まだまだこれからである。

『沖縄タイムス』社説(2007年5月3日)

[還暦迎えた憲法]

平和の理念揺るがすな

「九条」守るために声を

 「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義」を基本原則とする憲法が施行されて満六十年を迎えた。

 各種の世論調査でも分かるように憲法を取り巻く環境は変化し、特に「新憲法制定」を公約に掲げる安倍晋三首相の登場で憲法の改正手続きを定める国民投票法案が衆院を通過するなど大きく様変わりした。

 だが、憲法の何を変え、何を残そうとしているのか。私たちは憲法をどう受け止め、暮らしの中で向き合ってきたのか。憲法記念日にあたり、もう一度考えてみたい。

 首相が目指す「戦後レジームからの脱却」は、「戦争放棄」「武力不保持」を打ち出した九条の改正と集団的自衛権の解釈変更を基軸にしている。

 しかし、本紙が行った世論調査では、九条について「改正するべきでない」が二〇〇四年の40%から十六ポイント増えて56%になっている。逆に「改正すべきだ」が29%から24%に減った。

 これは「歴史的な大作業だが、私の在任中に憲法改正を成し遂げたい」と述べた安倍首相への県民の答えと言っていいのではないか。

 沖縄は戦後二十七年間も米施政権下にあり、復帰後も平和に暮らす権利を基地が侵してきた。基地はまた基本的人権をも蹂躙(じゅうりん)したと言っていい。

 だからこそ県民は九条護持を理由に、平和主義の理念を変えることへの危機感を示したのである。

 もちろん、変えるべきところ、付け足す必要があるところをきちんと議論することに異論はない。しかし九条改正には多くの国民が反対している。その点で首相と国民の憲法観は大きく乖離していると言わざるを得ない。

 首相が立ち上げた集団的自衛権についての憲法解釈変更を目指す有識者会議は、首相と同じ考えを持つ識者の集まりだ。これでは「まず解釈改憲ありき」ではないか。

 憲法は権力を持つ側が安易に変えるものではないはずだ。改正を急ぐ首相に疑惑の目が向いているのをなぜ直視しないのか、疑問というしかない。

 「平和の理念」を拡大解釈で揺るがしてはならず、そのためにも私たちにはしっかり声を上げる責任がある。

歴史の事実に目を閉ざすな

 共同通信社での憲法研究会で講演した日本国際ボランティアセンター前代表熊岡路也氏は、イラク戦争とNGO活動の動きを説明する中で、「国際協力では非軍事活動が大事だと確認されている」と述べている。

 紛争解決に求められているのは「当事国、周辺国との折衝や交渉」で、日本は「日本国憲法の理念をむしろ展開すべきだ」と話す。日本の安全に必要なのは「戦争できる国」に道を開く九条改正ではなく、集団的自衛権が行使できるよう憲法の解釈を変えることでもないというわけだ。

 アフガニスタンやイラクなどの紛争地域や各地で頻発するテロを考えれば、今こそ憲法前文と九条の理念が輝きを増していると言うべきだろう。

 「権力を持つ人を縛り」個人の権利と自由を守るのが立憲主義の理念であれば、国民には首相に対し平和憲法を順守するよう求める責任がある。

 私たちは日中戦争から太平洋戦争までの歴史の中で多くのことを学んできた。憲法の根幹にあるのは歴史から体感した“平和の尊さ”であり、理念を変える動きについては厳しく監視していかなければならない。

自らの憲法観が試される

 沖縄は十五日で一九七二年の復帰から三十五年を迎える。復帰時の県民の願いは「平和憲法」の下に戻ることにあった。さらに言えば、基本的人権が尊重されることへの希望であった。

 だが実態はどうだろう。米軍基地の「本土並み」という約束がほごにされ、憲法三原則の一つである基本的人権も十分に守られなかった。平和主義だけでなく憲法そのものの理念にかなうものではなかったのである。

 日米安保条約が憲法の理念を踏みにじったのは明白で、それが暮らしの隅々に影を落とし県民を不安に陥れているのは間違いない。

 憲法は確かに不磨の大典ではない。だが、首相の思惑で改憲を急ぐべきものでないのもまた確かだろう。

 改正教育基本法が成立し防衛省もできた。首相が集団的自衛権を模索するいま、私たちが歴史の岐路に立っているのは間違いない。だからこそ自らの憲法観が試されていることを肝に銘じたい。

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「自由と生存のメーデー」デモに420名

 5月1日は、労働者の祭典メーデーである。連合系はすでに集会を済ませているが、全労連系と全労協系は、伝統どおり5月1日にメーデー集会を各地で開催している。

 その中でも、ユニークなのが、東京都新宿区で行われた「自由と生存のメーデー07」(同実行委)http://mayday2007.nobody.jp/である。ムキンポ氏のHPに写真がある。http://www.mkimpo.com/diary/2007/mayday_07-04-30_bis.html

 近年、フリーターなどの不安定雇用の若者たちの労組結成が相次いでいるが、このメーデーの核になっているのも、フリーター全般労組という若者中心の不安定雇用労働者の労組である。このような労働組合は、イラク反戦でのサウンド・デモなどの新しい街頭行動スタイル、表現、文化を生みだし、既存の労働運動が組織できなかった若者層の間に、共感と参加を拡大してきた流れを含んでいる。

 終身雇用を前提に、企業と一体になり、企業あっての労働組合と長期的に労働運動を展望する企業別組合や官公労と違って、派遣などは、企業を渡り歩くことも多く、最近では、複数の派遣会社に登録して、日雇い派遣労働者が増えているという。派遣業者は、日雇い労働者からピンハネする手配師と変わらなくなっているのである。

 それに対して、手配師の親分の1人で、厚生労働省の労働政策審議会臨時委員をつとめる派遣会社ザ・アールの奥谷禮子社長は、とっくの昔にへりくつにすぎないことが明らかになっている自己責任論を繰り返して、対策の必要はないと述べている。彼女には、高い見識もなく、品位もない。もちろん、思慮もない。ただ、儲けることを基本基準にして、現実を裁断しているだけのカネの亡者であり、カネの奴隷であり、金儲け機械である。

 こうした連中の頭を支配している「できる者」をよりできるようにし、「だめな者」は排除するという小泉・安部政権に共通する能力主義という「持てる者」の物差しは、それに反対する「持たざる者」たちの広く深い団結で打ち壊すことができる。

 「自由と生存のメーデー」はこの数年の間に数倍の人を集めるようになった。サウンド・デモの威力は、出発時約300人が、終わりには約420人まで、デモ隊の人数がふくれあがるという沿道からの飛び入り参加が多いという沿道の人々との間の垣根が低いことにも現れている。ビデオ・プレスの映像を見ると、警備の警官が、デモに参加するのは危険だからやめてくださいと飛び入り参加を阻止すべく、アピールをしている様子がある。しかし、沿道を歩くフリーターなどの不安定雇用労働者たちとデモ隊の間には、共通の労働体験があり、それが奥深いところでの共感を生み出す。警官の制止を振り切って、多くの若者たちが、飛び入り参加する。

 社民党は今や国会では極少数派となってしまったが、欧米など世界では、政権を握る党も多いなど、社会主義インターナショナルの社民主義潮流という国際的な政治潮流の一翼を占める党である。社会主義インターナショナル系社会民主主義党派は、だいたい労働組合に依拠している労組政党が多い。日本の社民党は、支持労組が少なく、市民運動との連携を強めている。「自由と生存のメーデー」は、そうした潮流とは違ったものであり、そこに、社民党福島瑞穂党首が、最後まで参加するというのは、少々驚きであるが、けっこうなことだと思う。

 不安定雇用層そしてワーキングプアが増大しているのは、1999年の派遣業法改正から、小泉構造改革それを受け継ぐ安部政権の下での、構造的要因によるものである。奥谷はじめ自民党議員などの口からは、やる気のある者はのばすが、やる気のないものは自己責任だという考えが、露骨に繰り返される。やる気という心理的基準を立てているのであるが、その判定基準も示さなければ、評価法もわからない。心理テストでもして「やる気」を測ろうとでもいうのか? 

 先日放送された「ビートたけしのTVタックル」では、「ネット・カフェ難民」を取り上げていたが、その中で、ネット・カフェで寝泊まりしながら、ネットで日雇い派遣の仕事を探しているの29歳の女性の姿を見ながら、桝添自民党参院政審会長は、やる気のない人にやる気のある人から取った税金を使っていいのかという発言があった。彼が言うやる気のある人とは、心の中に「やる気」を持っている人のことではなく、すでに成果・結果を出している人つまりは税金を納めている人という意味である。29歳のこの女性は、「これからはもっと計画的に生きなければ」と語り、「やる気」があることを表明している。しかし、桝添の基準では、この人はやる気のない人に分類されてしまうのである。それから、この場合は、納税者から、消費税納税者が除かれている。消費する人すべて納税者であることが無視されている。

 ビートたけしは最後にかつてならすぐにデモが起きているところだと言った。しかし、実際には、420名のフリーターらのデモが東京で、そして大阪でも同様のデモがあった。若者中心の420名のデモは、近年にない大規模デモであり、数年で数倍に拡大してきていることには、希望が見える。

 格差社会に「使い捨てやめろ」 フリーターら、メーデー集会(『東京新聞』2007年5月1日)

派遣労働者やフリーターの若者らによる「自由と生存のメーデー」が30日、東京・新宿で開かれた。「非正社員を使い捨てにするな」「残業代を支払え」。1日のメーデーを前に、いつもは集まることのない若い参加者が集まり、切実な声を休日の繁華街に響きわたらせた。

 音楽を流したトラックが怒りのシュプレヒコールを先導する。「職場に労組があっても入ることのない、フリーターのためのメーデーをやろう」。デモは非正社員をつなぐ地域労組「フリーター全般労組」(東京)が企画。4回目の今年は昨年の4倍の約420人が参加。上野や山谷地区でホームレスを支援するグループや平和団体も加わった。

 「まともに暮らせる賃金を」「派遣会社はピンハネするな」。派遣労働などで働く人たちならではの訴えが続き、大久保地区から歌舞伎町へ約2時間、練り歩いた。

 昨年のデモでは逮捕者も出ており、大勢の警官に物々しく取り囲まれた「サウンドデモ」は人波あふれる沿道の目を引いた。

 「最初は何だろうかとびっくりしたけど、(デモの主張には)共感できる部分もあった」と、都内在住のアルバイト男性(32)はうなずいた。「格差がこんなに広がっても自分が何も言えないのも悔しかった。デモは何もしないよりずっといいと思う」と女性(23)は友人と一緒に見守った。

 この日は福島瑞穂社民党党首も駆けつけ一緒に歩いた。「厳しい状況に置かれた若い人の生の声を聞くことができた」

 京都から参加した介護ヘルパーの男性(32)は「仕事はハードなのに給料は全然見合わない。生活できずに離職する人が増えており、国の無策を訴えたい」と話した。

 集会に先立ち、日雇い労働の現場で派遣で働く男性が日給6千-7千円、月収13万円程度にしかならず、家賃や食費を払うと手元にほとんど残らない生活を紹介。主催者側には労働基準法が無視され、遅刻して罰金を取られたケースなど、悪質な雇用をめぐる相談が絶えないという。

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