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杉浦さんのコメントによせて

 しばらく忙しくて、杉浦さんのコメントに返事ができませんでした。少々、杉浦さんのコメントを読んで考えたことを書きたいと思います。
 
  このコメントをあらためて下に引用しています。そこで、被害者の意識と周囲の意識との違いがあるというご指摘がありました。
 
 確かに、どこかの世論調査で、被害者は1人にしてそっとしてほしいと考えている人が多いのに対して、被害者自身は普段通りに接してほしいと思っている人が多いという結果が出たという記事があったように、被害者やその家族などと当事者ではない人たちの意識の間にはギャップがあります。このような被害者像がいつどうしてできたのかは興味深いですが、だいたい、ドラマや小説などでは、定番となっているもののように思われます。敵討ちの物語などには、被害者やその遺族が「そっとしておいて欲しい」と訴える場面がよく登場します。
 
 被害者の遺族感情という点で、強烈な印象を与えたのが、1999年に妻子を少年に殺害された光市での殺人事件の被害者の夫の発言です。彼は、再三再四、テレビなどに登場して、遺族の無念を語り、加害少年に対する報復感情を露わにし、少年法や裁判が加害者の人権を配慮するのに対して、被害者や遺族の人権を軽く見ていると批判し、遺族の裁判への参加を訴えました。そして、執拗に少年の死刑を要求しました。その姿を見て、それを遺族として当然の姿だと思った人は多かったのではないかと思います。
 
 このケースは、犯行の残虐性などもあって、マスコミに大きく取り上げられ、少年法改定を狙う自民党が宣伝に利用したり、治安悪化への不安が、経済的停滞への不安やいらだちなどを背景に、強まっていた時代背景もあり、また、右派は、これを利用して、左派・人権派があたかも犯罪に対して甘いかのように描いて攻撃を強めました。それに対して、左派あるいは人権派からの反論が弱かったように思います。保守派は、人権派が加害者の人権を擁護しすぎることが、犯罪を助長しているかのごときキャンペーンをはりました。この時、問題だったのは、現在の更正体制の不備ということであったと思います。教育・更正プログラムが、加害者をあまり更正できていないのではないかという疑問が大きくなっていたと思います
 
  少年犯罪者は、再犯率が高いという数字だけが一人歩きしました。しかし、今、触法精神障害者の問題が、大阪での子供が歩道から投げ落とされた事件を契機に、多少マスコミなどで取り上げられています。触法精神障害者の再犯率は高いので、触法精神障害者のようなケースをのぞいた場合、再犯率は当然低くなるでしょう。あのころ、こうした具体的な内容にまで踏み込んだ分析がなされていれば、もっと違った形で議論が進むことになったかもしれません。少年法を一般刑法に近づけるという刑法学者の立場に沿った形で、これらの少年事件が利用されてしまったように思います。
 
 少年法は、少年の可塑性を高く見て、更正・矯正という点を重視しています。この点が、保守派などから、少年犯罪者の再犯率が高いとか大人を欺いて刑罰を逃れさせているとか、いろいろと攻撃を受け、ついには、厳罰化する改定がなされてしまいました。
 
 このことには、少年法がどうとかいう問題ばかりではなく、今日の刑罰制度や司法制度が、矯正・更正に役立たない、あるいは更正制度として有効に機能していないのではないかという問題があるように思われます。
 
 例えば、先日、ガラス張りで、高い塀で外界と仕切られていない開放的な民営刑務所がオープンしました。この女子刑務所には、いたる所に監視カメラがあり、入所者はタグの発信する電波で追跡されています。他方で、被告人やその家族と加害者を向き合わせることで自分の行為についての反省を促すという試みが導入されています。心理学的な資格を持つ刑務官を配置する試みもなされているようです。
 
 このように、近代の監獄制度が、入獄者に対して独房での孤独の中で、内省による更正を促すことを基本としているのに対して、それを反省する動きが始まっています。近代監獄制度の問題点が明らかになり、変革が求められる中で、それを利用して、応報主義などの前近代的な考えが、復活させられています。身体の拘束、身体に対して力を行使すること、刑罰を見せ物とすること、その儀式によって権力を誇示すること、等々。例えば、アメリカで、死刑への遺族の立ち会いを認めました。しかし、それは、導入後、それほど広まっていないようです。
 
 他方で、監獄は、これまで、秘密に覆われてきましたが、今度は、できるだけオープンなものでなければならないということも言われています。オープンな民営刑務所では、入所者が社会から見られ監視されていることを透明さの中で意識させられ、より深い内省に達するだろうというわけです。当初、この透明刑務所は、風呂場までガラス張りで、外から丸見えだったほど、透明性ということが基本になっています。
 
 透明性への欲望は今日の社会の基本的な欲望となりつつあり、それは、市場主義からもきていますが、それが今日の監獄制度にまで浸透しているのです。
 
 こうした司法を取り巻く社会的変化の中で、遺族感情とか犯罪や刑罰に対する社会的意識は、どうなっていくのでしょうか?

 この間、犯罪被害者や被害者遺族たちは、交通事故加害者への厳罰化、オウム真理教被害者の会の麻原死刑要求、等々と応報主義の線で動いているように思われます。それは、杉浦さんが聞いた「加害者には行った行為の意味を理解してほしい、そのためにはまず更正してほしい」という被害者遺族の方の主張とは違います。遺族の意識も多様です。

 他方で、犯罪を減らすことや加害者の更正という点で、厳罰化があまり効果がないことが明らかになってきています。というか、もともとそうであることは明らかだったのに、それが無視されたのです。

 少年法改定と少年犯罪の増減や再犯率の増減、凶悪化の間には、有意義な相関関係は見られず、今では、保守派の間でも、少年法改定の成果を言う者もほとんどいません。なんであれほど大騒ぎをして少年法を改定したのか、意味がわからなくなっています。実際に少年法が変わる間際になると、少年法改定を繰り返し訴えた『産経』などが、法律を変えただけで少年犯罪が減るわけではないなどと責任逃れの言い訳をし始めたことを思い出します。
 
 私は、人間には、かなりの可塑性、自己変革力があると思っていますので、死刑制度の廃止、終身刑の導入、近代監獄制度の解体、新たな教育と更正の方法の確立、等々、が必要と考えます。その上で、「被害者は加害者に報復したいと考える」のは当然としても、そこに止まらず、「更正を望む」という意識に変わるには、少なくとも今日の司法制度や監獄制度などが変わることが必要だと思います。もちろん、社会意識の変化も必要です。交通事故被害者遺族の方も、光市の母子殺人事件の被害者遺族の方も、報復感情を露わにしつつも、内容はともかく、最終的にはそれを訴えており、それに厳罰化という安易な形でしか応えていない政治の貧困が問題だと思います。
 
 「被害を受けた方は、第三者が考える以上にそのことについて深く考え、ご自分の心を問うていかれることが多く、一見被害者が望むだろうと思われる結論が被害者の心とは限りません」という杉浦さんのご指摘は、肝に銘じなければならないことだと思います。
 
 まとまりのない私見でした。
 
  コメントなど、歓迎いたします。

コメント
被害者の問題について書かれている箇所で「被害者は加害者に報復したいと考える」と論じられているのですが、私は自分が犯罪の被害者、特に子どもさんを殺された親御さんなどと関わる中で、加害者には行った行為の意味を理解してほしい、そのためにはまず更生してほしいといわれる方にも出会います。

また、加害者が少年だった場合に、「子どもだけが悪いわけではなく親を主とする大人のせいでもある。親がしっかりしなければいけないし、加害した子どもは亡くなった自分の子どもができなかった良いことを行ってほしい」と望まれる方もいます。

被害を受けた方は、第三者が考える以上にそのことについて深く考え、ご自分の心を問うていかれることが多く、一見被害者が望むだろうと思われる結論が被害者の心とは限りません。

このようなことは被害者問題だけではないと思いますが、自分が現実に経験したことだけ書かせていただきました。

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