« 沖縄と憲法 | トップページ | 国民投票法参院委員会採決に抗議する »

曾野綾子さんの自愛主義・功利主義への批判

 作家・曾野綾子さんの「「醜い日本人」にならないために」という『産経新聞』(【正論】5月5日)という文章があった。
 
  タイトルは、安部総理が掲げる「美しい国づくり」というスローガンにひっかけたもののように見える。これは、「美しい日本」の正反対の「醜い日本」の姿に苦言を呈したものであろう。

 曾野氏が、ここでとりあげる「醜い日本人」の姿は、まず個性のない若者たちの外見である。

  保守系の人たちの多く、とりわけ、「ネットウヨ」と呼ばれる人たちと違って、曾野氏は、「人間というものは、自分を棚にあげないと何も言えない」という自覚を表明し、ただこのこと自体が醜いのかどうかを問えばきりがないので、外見を見れば、醜いかどうかはわかるものだという前提から出発する。
 
  曾野氏がまず指摘する「醜い日本人」は、東京の渋谷、新宿、池袋などの繁華街を歩く若い人たちで、外見的特徴は、「痩(や)せて筋力がない貧弱な細身に、まるで制服のように同じ流行の衣服を着て」いて、「ほとんど同じ髪形をし、最近は流行の重ね着のほかに、バストのすぐ下にギャザーを寄せたセーターと「ももひき」をはいて内股でぺたりぺたりと歩く」というものである。
 
  この場合の「醜さ」は、やせて筋力がなく、同じ流行の衣装を着、似たような髪型をしているという点にある。一様に細身であり、流行どおりの衣装と髪型、その着こなし、動作が同じなのも醜いというのである。

 もちろん、これは、通りすがりの年輩者の観察からきているものであって、若者ひとりひとりをよくよく比較すれば、それぞれ個性を出そうとして、ちょっとした他人と違う個性を示すものを持っている。ちょっとしたアクセサリーや持ち物の違いなどで個性を表示しているものだ。それから、友人同士では、声の特徴、話し方、くせ、性格や考え方などにそれぞれ個性的な特徴があることを認識している。通りすがりの観察者の流れ見程度では、そうしたことまではわからないだけのことである。ただ、ざっと見て、外見上、似ている点をおおざっぱにとらえ、抽象化してみれば、こう見えるという話なのである。
 
  次にやりだまにあげられているのが、朝のニュース番組に出てくる女性アナウンサーである。個性のない点で、都会の繁華街を歩く若者と同じであるというのである。それは、曾野氏には、「あらゆる男性視聴者の女性に対する好みをすべて揃(そろ)えました、と言っているように見える」という。確かにそれは、ニュース番組という男性視聴者が多いだろう分野で、激しい視聴率競争を勝ち抜くための、テレビ局の作戦なのだろう。
 
  こうして、曾野氏は、「醜い日本人」の特徴を無個性ということに還元する。
 
  さらに、貧しい国の若者は、破れたジーンズなどはきたくないのに、それをファッションとしてはいている日本の若者の無神経さを指摘する。もっとも、これは確かに無個性の表れだが、欧米での流行に感染しただけのことで、日本の若者が先に流行らしたわけではない。ハリウッドの人気スターなどが、高価な破れジーパン(ビンテージもの)をはいているのをみて、まねしただけなのである。しかも、それは、他では手に入らない特別な古ジーンズであれば、他の人間にはない個性を表示するものなのである。もっと言えば、普通のジーンズで個性を出すためには、破れ方や破れた位置や形状・大きさなどにを工夫するということもある。
 
   曾野氏は、官庁街やオフィス街をざっと通りすがりに観察してみれば、そこには背広にネクタイ・ワイシャツ姿の個性のないサラリーマンや公務員の姿をいくらでも発見できる。
   
 曾野氏は、その原因は、日本人の素質からくるのではなく、学習からくるという。そして、「日本以外の国では、その人に対する尊敬はすべて強烈な個性の有る無しが基礎になっている」という。
 
  それから、氏は、日本の若者教育に書けているのは、「魂の高貴さ」ということであるという。「つまり魂の高貴さということに関して教師も親も知らない上、当人も読書をしないから、損得勘定、自己愛などというもの以外に、人間を動かす情熱の存在やそれに対する畏敬(いけい)の念というものがこの世にあるのだと考えたこともないのである」ということだそうだ。
 
 この辺、曾野氏は、安部首相をはじめとするエゴイストであるナショナリストとはひと味違う。安部総理は、自分を守るために、日米同盟を強化し、集団的自衛権行使を解禁しようとしているのであり、憲法9条改憲をしようとしている。その点は、今週月曜日のテレビ朝日系TVタックルで、民主党右派の松原仁や元自民党議員浜田幸一などが一致して、日本の安全を守るためには、アメリカに戦ってもらうしかないので、日米同盟を強化しなければならないという考えを表明していたのと同じである。
 
  保守派・右派が、従軍慰安婦問題や沖縄戦での集団自決への軍関与問題や南京事件問題などをしつこく否定しようとしているのは、我が身かわいさから発しているもので、それは、曾野氏のいう「醜い日本人」の基準に当てはまるのである。それは損得勘定・自愛に基づいているのである。沖縄戦の最中に起きた座間味島などでの住民集団自決を守備隊長命令によるものではないから、軍に責任はないなどということを主張する者は、「損得勘定、自己愛などというもの以外に、人間を動かす情熱の存在やそれに対する畏敬(いけい)の念というものがこの世にあるのだと考えたこともない」のであろう。
 
  軍人としてのちっぽけな自愛を貫くことが大事か、それとも、「他人のために自らの決定において死ぬこと」が大事か? 
 
 曾野氏は、この集団自決事件の神話を暴いた本をずっと前に書いていて、その中で、守備隊長による住民への自決命令はなかったとして、それが戦後、準軍属扱いにしてもらうために遺族たちが作った神話だと主張したという。しかし、例えそれが事実だとしても、一つには、集団自決を直接命令したとされる助役は、軍政下では、その官吏であって、たとえ、守備隊長が集団自決を思いとどまらせようと口で説得したとしても、助役を解任するなり、拘束するなりして、実効的に自決を止めることもできたことを考えると、彼には責任があると言える。
 
 一度、事実を曲げてまで、遺族のためにと、汚名をきた旧帝国軍人ともあろう者が、ちっぽけな自愛のため、名誉のために、裁判などを起こしたというのが、なんとも醜く見える。タイトルの「他人のために生きる「美学」学びたい」というのは、こういう人にこそ当てはまるのではないだろうか? 彼らは、沖縄の犠牲によって、「本土」の戦後の平和と繁栄があったと考えられないのだろうか? そのことに感謝することもないのだろうか?
 
 次に、曾野氏は、「JR北陸線の車内で女性が暴行を受ける事件があったが、異変に気づきながら一人として暴力的な犯人に立ち向かう男性がいなかったというニュース」を取り上げ、「まさにこうした日教組的教育の惨憺(さんたん)たる結果を表している」と述べている。なにが日教組的教育なのか不明だし、この事件については、具体的に語るには情報が不足していることを先日指摘したし、そういう記事も紹介した。こういう風にちょっとした情報から、なにがしかの物語を空想してしまい、しかもそれに道徳規準を当てはめて、裁断してしまうというのは、小説家としての癖なのか、それともカトリック主義から来るのか、よくわからないが、とにかく、この事件については、なにがしかの具体的な教訓を引き出すには、情報が不足している。対策としては、一般的に言えば、乗員を増やすということが考えられる。東京では、駅の売店キヨスクがリストラで販売員の人手不足で閉鎖されたままになっているところが何カ所もあるという。駅員はホームにいることが少なく、緊急通報ブザーのあるところなど、一般に知っている者はあまりないだろう。安全のためには、JRの人を増やすべきだ。
 
 確かに、曾野氏の言うように、「女も抵抗の戦いに、できる範囲で働けばいいのである。それが男女同権というものだ。北陸線の中でも、男女にかかわらず知恵を働かせて車掌か鉄道警察隊に知らせようとした人がいてもよかったのだ」というのは、もし、その場にいた乗客が、目の前で犯罪が行われているということを認識していたのなら、そうしてもよかった。それが日教組的教育のおかげでできなかったというのは、空想物語的すぎる。今学校で使われている道徳教科書でも、他人を助けることを評価する話は載っているはずだ。だいたい、保守系の人々は、自愛がなければ、他者を愛せない、愛国心がなければ、他国を尊重できないと主張しているではないか。だから愛国心教育が必要だと。曾野氏の主張は、それとは逆で、損得勘定・自己愛ばかりが教育され、他者への愛、損得を超えた他者のための自己犠牲が教育されていないというのである。
 
 国家は、自愛の延長なのか、それとも他者愛の対象なのか? 愛国主義者は、ある時は前者だと言い、ある時は後者だという。
 
 次に、曾野氏は、「「偉くなること」を総理や大会社の社長になること以外に、他人のために自らの決定において死ぬことのできる人、つまり自らの美学や哲学を持つ人、と定義するならば、私はそうした勇気をずっと憧れ続けている」と言う。曾野氏は、総理や大会社の社長になることを「偉くなること」に含めているが、これは不徹底だ。氏の定義では、それは、「他人のために自らの決定において死ぬことのできる人、つまりは自らの美学や哲学を持つ人」であるが、われわれは、そういうもののない政治家や社長などというのをいやというほど見ている。人材派遣会社ザ・アールの奥谷社長などというのもその類の1人である。彼女は、自分の利益のためには、他人がいくら犠牲を払ってもかまわないという自愛の哲学・美学の持ち主である。現在のシステムの中では、大会社の社長や総理になることは、「偉くなること」とされているが、それは曾野氏の言うような美学や哲学を持たず、世間的な出世哲学・出世美学に迎合しなければ、勝ち取りにくいのである。
 
 安部内閣の閣僚たちの何人かは、スキャンダルにまみれ、総理自身が、闇の世界との関係などを指摘される有様で、曾野氏の「偉くなること」の基準からかけ離れている。トヨタにしても、自動車販売数で世界一になるようだが、フィリピン・トヨタなどでの海外での劣悪な労働環境を告発されている。曾野氏の「偉くなること」の基準は、現実にはなりにくいのである。
 
 「本当の人道的支援というものは、生命も財産もさし出せることです、と言うと、そんな損なことをする人がこの世にいるのだろうかという顔をされることも多い」と自らの体験をもとにしているのだろうことを指摘する。しかし、こういうことをする人は、小さい規模であっても存在するし、そういう人は少なからずいる。そのことがはっきりわかったのは、阪神大震災の時である。逆に、「そんな損なことをする人がこの世にいるのだろうかという顔をされることも多い」という方が不思議である。自分のことで手一杯で、それ以上のことができないという人が多いのは確かであるが、そういう人でも、他人のためにできる範囲のことで助けようという程度の気持ちは持っているだろう。
 
 曾野氏の言い方は、一かゼロかという抽象的な言い方で、量規定、程度のことを言わないから、聞き手がとまどうのである。そんな極端なことは無理だと思ってしまうのだ。

 曾野氏は、「それほどはずかしげもなく功利的な日本人を他国人は何と思うか、やはり教えた方がいい」と聴衆と垣根を設けた言い方をするが、それはカトリックの位階制では、一般信徒と異教徒の上に、聖人、神父・修道女がいるという人間の段階があること、そしてそれが魂の位階制でもあって、それを功利性の否定度合いで測るから、そういうことになるのだろうか。
 
 教育基本法改悪の一つのポイントは、公共心の教育であるが、それは功利主義的な公共性のことである。それは、曾野氏の功利主義批判と対立するものである。教育再生会議では、道徳教育の強化が議論されているが、その中で、親学なるものが提唱されている。その中身は、母乳奨励や早寝早起きなどの細かい生活の仕方である。今日のように、多様化した働き方や生活の仕方が定着しているところで、一つの型の家庭教育のあり方などを押しつけようとしても、現実の側から崩されるだけである。そして、公共の福祉という概念を消して、公共の利益という功利主義的概念を、憲法にも盛り込ませようということが、「偉い」会社社長たちの経済団体などによって、推進されている。
 
 曾野氏は一応保守派に分類されると思うが、それでも、自愛主義者・功利主義者の保守主義者とは違いがある。曾野氏がかつて沖縄戦での住民集団自決の軍命令を神話と主張する本を書いたことで、それを今日の対左翼戦で使えると思っている保守派や右派もいるようだが、それがそう簡単ではないことは、上述のことから明らかであろう。曾野氏の自愛主義批判は、結局は、「自虐史観批判」の批判になるからである。

【正論】作家・曽野綾子 「醜い日本人」にならないために

作家 曽野綾子(撮影・飯田英男)
 ■他人のために生きる「美学」学びたい

 ≪個性のない若者たち≫

 近頃の日本人はどうも醜くなったような気がする、と私の周囲の人が言う。私も時々同じように思う。しかしそう思う時には、必ず一言心の中で言い訳する声が聞こえる。

 「人間というものは、自分を棚にあげないと何も言えない」

 どういう点が醜いのか書き出したらきりがないけれど、醜いというからには外見からわかることがほとんどだ。

 東京の渋谷、新宿、池袋などのにぎやかな町では、若い人たちに洗われながら歩くことが多い。そこに溢(あふ)れているのは、痩(や)せて筋力がない貧弱な細身に、まるで制服のように同じ流行の衣服を着ている若者である。ほとんど同じ髪形をし、最近は流行の重ね着のほかに、バストのすぐ下にギャザーを寄せたセーターと「ももひき」をはいて内股でぺたりぺたりと歩く。

 朝早いテレビのニュース番組には、こういう個性のない肉体と、まるで同じような髪形と服装のお嬢さんが時には4人も出てくる。4人とも必要だということは、魅力の点でもアナウンサーとしての技量の上でも、多分1人ではもたないということを局側が知っているからだろう。

 BBCだってCNNだって1項目のニュースを読むのは原則1人のアナウンサーで、1行読んで別の人の声に渡したりしない。そしてその女性たちが、実にそれぞれ強烈な個性美を持っている。あらゆる男性視聴者の女性に対する好みをすべて揃(そろ)えました、と言っているように見える。年増派あり、神秘派あり、モノセックス風あり、近寄ると危険派あり、肌の黒いカモシカのような肢体派あり、昔の小学校の受け持ちの女先生に対する憧(あこが)れ派あり、あらゆるタイプ別に女性を揃えております、という姿勢が言下に見えている。

 ≪「魂の高貴さ」を学ぶ≫

 そこで大切なのはその人の個性であって、黒髪の日本人のくせに金髪に染めているというだけで、これは自分のない人だという判断をされても仕方がないだろう。今は少し廃(すた)れたが、破れたジーンズ・ファッションが私は嫌いだった。アフリカの貧しい青年たちは、新しいジーンズなどなかなか買えない。もし破れている流行の品と、破れていない新品とどちらでもあげるよ、と言われたら、アフリカの貧しい青年で破れたジーンズをもらいたがる人はいないだろう。他人の貧しさをファッションにして楽しむ神経に、私はどうしてもついていけないのである。

 こうした無神経は日本人の素質が悪いからではなく、すべて学習の不足から来るのである。日本以外の国では、その人に対する尊敬はすべて強烈な個性の有る無しが基礎になっている。もちろんお金や権力のあるなしもその一つの尺度とはなり得るだろうが、日本では、最近全く若者に教えていない分野があることがわかった。つまり魂の高貴さということに関して教師も親も知らない上、当人も読書をしないから、損得勘定、自己愛などというもの以外に、人間を動かす情熱の存在やそれに対する畏敬(いけい)の念というものがこの世にあるのだと考えたこともないのである。

 ≪「偉くなる」って何?≫

 つい先日、JR北陸線の車内で女性が暴行を受ける事件があったが、異変に気づきながら一人として暴力的な犯人に立ち向かう男性がいなかったというニュースは、まさにこうした日教組的教育の惨憺(さんたん)たる結果を表している。

 もっとも私は昔から西部劇の中の男だけがならず者に立ち向かうという設定には抵抗を覚えていた。女も抵抗の戦いに、できる範囲で働けばいいのである。それが男女同権というものだ。北陸線の中でも、男女にかかわらず知恵を働かせて車掌か鉄道警察隊に知らせようとした人がいてもよかったのだ。

 最近の調査によると、人生の目標に「偉くなること」をあげる若者たちの率が、日本ではアメリカや韓国に比べて著しく低い、という。私にもその癖(へき)はあって、権力を志向する政治家の情熱をほとんど理解していない。しかし「偉くなること」を総理や大会社の社長になること以外に、他人のために自らの決定において死ぬことのできる人、つまり自らの美学や哲学を持つ人、と定義するならば、私はそうした勇気をずっと憧れ続けている。

 本当の人道的支援というものは、生命も財産もさし出せることです、と言うと、そんな損なことをする人がこの世にいるのだろうかという顔をされることも多い。

 それほどはずかしげもなく功利的な日本人を他国人は何と思うか、やはり教えた方がいい。(その あやこ) 

|

« 沖縄と憲法 | トップページ | 国民投票法参院委員会採決に抗議する »

雑文」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。