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2007年7月

補足 「9条ネット」勝利を示すデータ

 「9条ネット」の闘いの成果と勝利を示すデータが、『毎日新聞』の参院選挙当選者アンケートで明らかになった。

 そのアンケート結果によると、「憲法改正すべきだ」と答えた新議員は、58%で、改憲発議に必要な3分の2に届いていない。さらに、9条改憲反対は、63%(72人)にのぼっている。

 したがって、「9条ネット」の大目標である9条改憲の国会発議は当面阻止できる見込みが高まったと言える。議席はとれなかったが、国会に9条改憲反対派が63%の多数を確保できたことは、政治目標の一定の達成であり、勝利と言える。

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参議院選挙結果について

 参議院選挙が終わった。

 結果は、ご承知の通り、民主党の圧勝、自民党の歴史的惨敗、であった。

 この選挙結果は、有権者の与党への不信任であり、与党が掲げたマニュフェストの不信任を意味することは明らかである。結局、安部政権は、有権者からノーを突きつけられたのであり、それにも関わらず、安部総理が続投を決めたのは、有権者の意志を無視するものだ。内閣支持率は地に落ちることになるだろう。

 それが明白であるにも関わらず、30日の自民党役員会が、首相続投を支持したことは、自民党という政党の危機を示している。早期の内閣改造と党役員人事の刷新で、乗り切りを図ろうというつもりらしい。しかし、衆議院議員選挙が近づいている衆議院議員が、世論が信任していない安部総理を担いでの選挙に不安を増大させていくことは明らかである。

 当面、敗戦処理と党の建て直しに専念せざるを得ないであろうが、それにしても、現在の安部自民党の諸政策では、とうてい、離れた支持基盤の自民支持者を取り戻すことはできないだろう。日本経団連など財界が支持する「改革」の旗は下ろせないだろうからである。企業献金をもらっているのである。かといって、このまま「改革」を訴えても、地方や農村の支持は得られない。小泉「改革」を熱烈に支持した都市部でも、負けていることからすると、もはや「改革」路線支持は、少数になってしまったと言えよう。

 郵政解散総選挙の時、資本主義か社会主義を問い、「改革」に反対する者を「社会主義者」と呼んで批判してきたことから言えば、参議院選挙の結果は、まさに「社会主義」の大勝利を意味する。

 すっかり、小泉「改革」に頭をやられてしまっているニュース・キャスターたちは、このことをまったく理解できていない。田原総一郎は、安部路線はまちがっていないが、まわりの大臣などが足を引っ張っただけだと安部をかばい、選挙で問われたのは、主に「政治とカネ」の問題だったと争点をそらそうとした。この点は、都市部での自民党敗北の要因としてはある程度は当てはまるだろうが、農村・地方の「一人区」惨敗の原因を説明できない。地方での与党敗北は、あきらかに、小泉・安部の「改革」路線に対するノーの意思表示によるものであって、「政治とカネ」や大臣の問題発言やスキャンダルは、それに付け加わっただけのことである。農村や地方の反自民の動きは、すでに4月の統一地方選挙での与党地方議員の激減で示されていたからである。それを意識して、自民党は、党の公式ホームページで、重要政策として、農業政策を掲げていた。それにも関わらず、農村や地方の自民党支持者の票が多く民主党に流れたということは、かれらが安部政治への不信任を示したということである。

 古館一郎は、この結果を小泉「改革」逆行への批判であって、古い自民党へ戻ろうとした安部政権への批判であるというふうにとらえている。これも、すでに古い見方になった。有権者は、この間、テレビ朝日系ニュースの解説者が言ったように、学習していて、「改革」が、痛みばかりを人々に押しつけるものでしかないことを見抜いている。それは、有権者の関心が、年金と格差問題、景気、教育、福祉というところに向いていて、生活問題から目をそらさなかったことで明らかである。安部政権は、マニュフェストで、筆頭に、早期改憲実現を掲げ、また、「美しい国」を政権のスローガンに掲げているように、イデオロギーに偏っていた。それに対して、小沢民主党は、生活第一を掲げて、有権者の関心事と見事に合致したスローガンを掲げたのである。

 与党は、衆議院で3分の2を占めていることから、おごりが生じ、またゆるみが起きていたようだ。だが、参議院は、議長を初め、各種委員会の委員長ポストの多くを野党に握られ、議会運営が、極めて困難になることは明らかである。

 安部退陣で、新しい顔を立てて、支持率回復を図るのが得策だと思われるが、次の総理候補がいないというので続投だというのだから、自民党が「ぶっ壊れて」いるのは確かなようだ。すでに「死に体」になっている党なら、解体する他はないのだが、そんな力も党には残っていないという。ならば、外から解体する他なく、解散総選挙で、ぶっつぶれてもらうほかはない。自民党死滅の過程は、小泉政権でいったん中断されたかに見えたが、郵政解散総選挙での圧勝という表面上の興隆の水面下の深いところで進行し続けていたわけである。

 小泉「改革」を支持しながら、しかし自民党は二大政党の一角に残り続けることができると考えることができるのは、古館一郎のような物事を表面的に浅薄にしか理解できない者だけである。あるいは、田原総一郎の浅薄な理解によると自民党はイデオロギーではなくて、権力欲だけで動いている政党であり、政権与党であり続けるために、いかなる妥協も辞さないし、手段を選ばないのであり、民主党との連立すら試みるだろうと言うのである。もし、田原の言うとおりなら、自民党などは、即刻解体した方が人々のためである。自民党が権力の座にしがみついてきたのは、財界がそれを望んでいるからである。自分たちの政治代理人を権力の座につけておかねばならないからである。

 この間、自民党を動かしてきたのは、大企業であり財界である。日経連の御手洗会長は、安部続投を支持し、民主党には、安部政権の政策に協力しろと述べた。民主党を、財界の政治代理人化できれば、財界は、民主党に乗り換えるだろう。
 
 自民党は、大企業と財界と金持ち以外の層を切り捨ててきた。中小・自営・労働者・農民などには、自己責任でやれと言って、競争しろと突き放してきたのである。しかし、こうした人々は、人口の圧倒的多数派で、財界は圧倒的少数派であるから、公平な選挙では、絶対に前者には勝てないのである。小泉前総理は、なんとか人々をだまくらかして、選挙で勝ったわけだが、デマは何度も通じるものではない。ばれてしまえば、それまでだ。田原の言うのとは逆に、安部政治が一つもいいものではないから、不信任をくらったのである。

 小沢民主党代表は、なかなかうまい選挙戦を行った。自民党が見捨てた地域や人々に支持を広げていったのである。それを、社民党や共産党がやれれば、もっと結果は違っていただろうに。

 私が支持した9条ネットの獲得したのは、27万3755票だった。9条ネット成島氏の選挙戦は、青森の六ヶ所村の反原発市民の前だとか大阪の釜ヶ崎の日雇い労働者の前だとか静岡の浜岡原発のあたりだとか、運動との関係のあるところが多く、票にならないところを多く回るものだった。それでも、多く人の集まるところでの訴えも行ったのだが、今回は、憲法問題があまり大きな争点にならなかったことや与党への批判票が、民主党に集中したことから、完全に、小勢力は、二大政党の間に埋没してしまったことなどもあって、残念な結果に終わった。

 しかし、成島候補の場合は、「9条改憲阻止の会」の反戦運動からの選挙活動だったのであり、あくまでも反戦運動の一環としての闘いであるから、全国各地で「9条改憲阻止」を訴えたことで、成果があったと言える。天木さんは、知名度も高いので、なんとか当選できればと思うが、チャンスはまたあるだろう。

 これからは、解散総選挙含みの政局に入ることになり、いつ衆議院選挙があってもおかしくないという状態になる。

 9条ネットの天木直人氏は、自身のブログhttp://www.amakiblog.com/archives/2007/07/30/#000476で、9条改憲反対の第三勢力が必要だと主張し、その実現の方策を思案するという。確かに、護憲の共産党と社民党は、議席を減らした。しかし、沖縄の糸数候補や東京の川田候補などの護憲派の無所属候補が当選しており、社共の退潮は必ずしも護憲派の退潮とイコールではない。小沢民主党も、当面、野党共闘に軸足を置くようだし、なによりも、自民党の力の衰えは、ひどく、回復の見通しも立たないように思われるから、むしろ9条改憲阻止という立場から言えば、民主党内の9条改憲反対派の拡大という方が当面の課題となるのではないだろうか? よほどのことがない限り、次の衆議院選挙では、自民党は議席を減らす可能性が高いだろう。

 この選挙結果をできるだけ小さく見積もろうという動きが、自民党・公明党や財界にあるようだが、8月初旬の臨時国会での議長人事、秋の臨時国会での法案審議の過程で、大変さを痛感することになるだろう。今はまだそれが実感されていないというだけだろう。日にちがたつにつれて、事態の大きさに否応なく気が付かされることになろう。これまで、万能感に酔っていた安部与党は、今度は、無力感にさいなまれることになろう。

 9条改憲阻止派に必要なのは、日常的な活動であり、小沢代表が行ったように、地道に主張を訴え続けながら、解散総選挙に素早く対応できるように、備えていくことである。地方議員との連携もあればよいだろうし、「9条改憲阻止の会」をより発展させていくことも必要だろうし、ブログの発信力を強化するのもいいだろうし、ブロガーの連携をつくるのもいいだろう。時には、インパクトのあるイベントをやるのもいいだろう。ZAKI候補のように、文化の力を武器にするのもいいだろう。とにかく、いろんな方法で、3年後の国会改憲発議の阻止に向けた動きを広げていくことだ。選挙はあくまでもその動きの一部である。

 いずれにせよ、民意は、安部政治ノー、そして、「社会主義」を求めた。そして、反戦・9条改憲阻止に向けて、はずみのつく選挙結果であったことも、確かである。

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9条ネット成島候補に投票してきた

 投票に行って来た。

 先日書いたとおり、比例は、「9条ネット」成島忠夫候補、選挙区は、9条改憲反対の候補に投票した。

 投票所は、混んでいたような気がした。比較的若い人も多かったように見えた。

 これといって、積極的に支持できない人に投票する場合と違って、この人に入れたいという気持ちが強かったせいか、さっぱりとした気持ちで投票できた。そうでないと、投票するまでもその後も「本当にこれで良かったのだろうか?」という内心の葛藤がしばらく残ったりしたものである。だが、今回はそれはなかった。

 とはいえ、比例の「9条ネット」の方は、一人通れば万々歳という程度のものである。むしろ、選挙戦を通じて、「9条改憲阻止」を広く世間に訴えて、その実現を一歩でも二歩でも進めようということが、主である。その役割は、選挙戦当初、選挙争点として下の方にあった憲法問題が、だんだん上の方に上がってきたように、世論の関心が高まったということで十分あったと言えよう。すでに成果はあったということが言える。「9条ネット」の天木直人氏は、レバノン大使時代に、日本政府のイラク戦争支持を公然と批判し、イラク戦争に反対した人で、信念を貫く気骨のある人である。こういう人が議員になれば、大きな役割を果たしてくれるに違いない。

 大勢は、自民対民主の二大政党制によって制されることは確実で、後は、自民党の負け具合によって、後の政局が影響を受けるということで、安部総理の進退や解散総選挙はどうなるのかという点に関心が集まっている。

 参議院選挙で、9条改憲反対派を3分の1より増やす機会は、改憲発議解禁までに、もう一度ある。今度の参議院選挙と次の参議院選挙の両方で、9条改憲反対派を3分の1より増やせばいいのである。さらに、衆議院選挙もあるので、機会はまだある。

 今のところ、前回よりも投票率が高いという報道がなされている。さらに、期日前投票が、1・5倍にも増えており、投票率が高まる可能性がある。自民党の支持基盤の市町村では、投票率低下を狙って、投票時間の繰り上げ決定が相次いでいるという情報もあるが、組織票に頼る自民・公明としては、低投票率を望んでいるだろう。そうはさせてはならないのである。投票に行きましょう。

 自民党は、改憲を選挙公約の第一番目に掲げているのであり、したがって、参議院選挙での敗北は、公約の不信任、すなわち早期改憲実現という自民党公約第一番目の不信任であることは明らかである。

 ただ、議会政治というものに幻想を持つのもよくない。自民・社民・さきがけの連立政権の際には、社民党は、それまでの党是をことごとく覆すということがあったからである。妥協できる政策と妥協できない政策とがあるはずで、妥協できないなら、政権に入るべきではなかったのだが、政権入りが先に立って、重要政策でのとんでもない妥協をしてしまったということがある。閣外協力という手もあったのに、大臣のイスに目がくらんでしまったのである。

 「9条ネット」の天木直人氏、成島忠夫氏のような人たちなら、その点は大丈夫だと思える。いかんせん、「9条ネット」は、政党登録していない選挙用の登録団体なので、新聞その他でも取り上げられない。

 成島忠夫候補の場合、「9条改憲阻止の会」という大衆運動団体が支持基盤の一つとしてあり、こちらは、6・15東京日比谷野音集会、10・21国際反戦デーの京都円山公園での反戦集会、東京での秋の反戦集会などの持続的な反戦運動を基礎に、9条改憲阻止を持続する活動の中から、何度でも挑戦できる。天木候補も、自らのブログでの発信を続けてきており、その読者の広い支持層がある。栗原君子候補は、新社会党の委員長だが、その支持基盤には、全労協があるし、地方議員の一定の数がある。とはいえ、まだまだ小さいものでしかないけれども、自公政権打倒の中で、拡大する可能性も高いわけだから、いよいよ与党を大惨敗に追い込んで、そうした自分たちに有利な情勢を自ら引き寄せることが大事である。

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柏崎原発被災 エネルギー問題の根本論議が必要だ

 以下の『読売』社説は、新潟県中越沖地震で、被害を出した柏崎原発の放射能漏れはたいしたことがなく、原子炉は安全だったのに、風評被害が海外まで広まっているのは不当だと主張している。

 確かに、「漏れた」のは排出基準よりはるかに低いものであった。しかし、それが大きな衝撃を海外に与えたのは、確かに、大げさに伝わっていることがあるかもしれない。

 しかし、このところの、禁煙の動きでもそうだが、基準がどうこうと言うよりも、体に悪いものをゼロにするという「意味という病」に、健康問題をめぐって、犯されていて、それはダイオキシン問題の時もそうだったが、どの程度まで、健康阻害物質が許されるのかということを具体的に論議するよりも、一気にそれを禁止するというようになっているという社会状況がある。そうした中での「放射能漏れ」だから、いくら、その程度なら全然人体に悪影響はないと言っても、拒否反応が強く出るのである。

 『読売』が、どうしてこの問題では、「放射能漏れ」は微量で問題はないということを強調しながら、この間の禁煙化の動きに、同じようなことを言わないのかという点に、原子力問題に対する『読売』の偏った支持の姿勢が表れているということが問題なのである。

 『読売』は、ずっと、原発は環境問題解決への切り札であるとか、いろいろと理屈をつけて、原発推進の立場に立っていて、その妨げになるような安全性への疑問を退けたいと願っているのである。

 『読売』は、冷静になるべきだとして、「「漏れた」とされる放射性物質はごく微量だ。政府と発電所が定めた排出基準の10億分の1から1000万分の1程度でしかない。経路や物質の種類から見て、原子炉本体からの漏れの可能性は極めて低い。無論、環境への影響はない」という。最後のところは、環境への影響は極めて少ないとでも書くべきところだ。それから、「大気への放出は排気スイッチの切り忘れが原因で、今は止まっている。地震による機械的な損傷と言うより、人為的ミスだった」というのは、分析不足で、地震のような場合に、それが作業員の心理に与える影響も、地震による影響の一部なのであり、心理的動揺の中で犯してしまう人為的ミスが、大きな被害につながることもありうるわけだから、その点の対策も必要である。

 そして、『読売』は、「原子炉が襲われた史上最大の揺れかもしれない、と言われる。ならば貴重な知見が得られるはずだ。それを導き出し、すべての原子炉の安全性の向上に確実に反映させてゆかねばならない」という。これはそのとおりだ。しかし、「ならば貴重な知見が得られるはずだ」だから、今後は、より安全になるというのだが、そもそも、『読売』は、国の借金が大変だ、予算を精査しろ、節約しろ、足りない分は消費税を引き上げろと強調してきたのに、原子力対策だけは、金のかかりそうなことを平気で提言するのだろうか? 原子炉のような「日本は耐震設計などの技術で世界最高水準にある」というのは、それだけカネをふんだんに使って、高度技術開発を進めてきたということであり、その安全性向上には、ものすごいお金がかかるんじゃないだろうか? そこまで金をふんだんに使ってまで、原子力発電にこだわる必要があるのだろうか? 

 26日のフジ系の「ニュース ジャパン」のアメリカの環境問題を取り上げたところを見たら、ブッシュ大統領は、環境問題対策として、①石炭、②太陽光発電、風力発電、③バイオエタノール燃料の三つをあげているという。なぜか、この部分では、原子力発電が入っていなかったのは不思議だが、結局、原発は、最終処分まで含めると結構コストが高くつくし、各段階で、高度な技術開発が必要で、それも、無駄と言えば無駄なのである。しかし、投資という点では、逆に、技術投資という投資局面があった方がいいわけだ。それと、省電化が進んでいるし、電力需要を減らし続けていくというクールビズの狙いもある。それなのに、どうして、これ以上、安全投資をしたりして、ずっと原発を続けていかなければならないのか? 産業界の利益のためという他ないのではないか? それが、国にも、原発コストがかかっているわけだから、そんな無駄遣いも、だんだん止めていったら、財政健全化にもいいのではないだろうか?

 しかし、何よりも、今の大都市は、でかすぎて、エネルギーを食い過ぎるのであり、人口を全国に散らしていかないといけないだろう。石原都知事みたいに東京=日本みたいな東京エゴ思想をまずはぶっつぶさないといけない。過密の状態のままで、地下深くをほじくり返して、余計にエネルギーを食いつぶしすようにしたりしていては、大規模発電をなくせない。高層ビルもそうだ。建物の高さを低く制限して、風通しをよくしたり、空き地や緑地がもっとなければだめだが、それには、人口が過密すぎるのである。

 『読売』は、原発は安全だなどと強調しているけれども、今、政治に向かって、根本的な議論をしろと説教垂れているのだから、自ら、根本問題として、巨額の安全投資をしてまで原発を続ける必要があるのか、それとも、都市人口を分散して、中小規模の太陽光発電や風力発電や天然ガス発電・水力発電などを組み合わせ、また、電力需要そのものを減少させていくようにするとか、そういう方の議論を提示した方が、建設的だと思う。

 

原発と地震 原子炉の安全は確保されている(7月26日付・読売社説)

 大々的に「放射能漏れ」と煽(あお)り立てるほど、ひどい漏れが起きているのだろうか。

 東京電力の柏崎刈羽原子力発電所が新潟県中越沖地震で被災した。その状況が連日、メディアを通じて伝えられる。

 ニュースを知ったイタリアの人気サッカーチームが、予定していた来日を直前になって中止した、という。

 夏のかき入れ時を期待していた新潟県内の旅館やホテルも、キャンセルが相次いでいる。県の試算によると、風評被害による損害額は1000~2000億円にのぼる見通しだ。

 もう少し冷静になってはどうか。

 「漏れた」とされる放射性物質はごく微量だ。政府と発電所が定めた排出基準の10億分の1から1000万分の1程度でしかない。経路や物質の種類から見て、原子炉本体からの漏れの可能性は極めて低い。無論、環境への影響はない。

 大気への放出は排気スイッチの切り忘れが原因で、今は止まっている。地震による機械的な損傷と言うより、人為的ミスだった。

 原子力安全委員会は19日に、鈴木篤之委員長の所感を公表している。

 最大のポイントは、緊急時に原子炉で最も重要とされる「止める」「閉じこめる」「冷やす」、という三つの機能が正常に働いて、今も安全性は確保されている、ということだ。

 原子力施設の耐震設計と建設、さらにその考え方を定めている政府の指針は基本的に有効だった、と言える。

 ただ、特別な耐震強化をしていない排気ダクトや消火栓などの付帯設備は、大きく損傷している。原子炉の建屋内にある、耐震性をある程度強化したクレーンも破損した。こうしたトラブルは60件以上にのぼる。

 しかし、いずれも原子炉の安全性とは峻別(しゅんべつ)して考えるべき問題だろう。

 重要なことは、今回の揺れがどんなものだったかを分析したうえで、炉にどう影響したか、詳しく調べることだ。付帯設備の耐震性をどこまで確保すべきかも課題となる。

 原子炉が襲われた史上最大の揺れかもしれない、と言われる。ならば貴重な知見が得られるはずだ。それを導き出し、すべての原子炉の安全性の向上に確実に反映させてゆかねばならない。

 国際原子力機関(IAEA)も調査に来る。日本は耐震設計などの技術で世界最高水準にある。それを生かした安全性確保の努力について、しっかりと見てもらい、海外での風評被害を、ぜひ解消してもらおう。

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参院選挙投票日迫るー9条改憲阻止を

 いよいよ、参議院選挙の投票日が迫ってきた。

 この参議院選挙から、次の衆議院選挙、そして3年後の参議院選挙は、「国民投票法」その他の改憲のための法案成立によって、3年後の国会での改憲発議のための憲法審査会の議論解禁による本格的な改憲の動きを左右する重要な選挙である。

 とりわけ、参戦国化を可能にする9条改憲の動きを阻止できるかどうかの正念場の闘いである。9条改憲阻止の闘いは、もちろん、議会外の大衆運動としてもあるのだが、現実問題として、現行法では、国会議員の3分の2以上の賛成による発議という手続きがあって、国会に改憲に反対する勢力が3分の1以上いないと発議を阻止できないのである。もちろん、国会発議がなったとしても、その後の「国民」投票で、過半数がないと成立しないのであるが、成立した「国民投票法」は、極めて統制色の強いもので、改憲論議をリードするのに、大政党が有利になるようになっている、

 もちろん、それでも、過半数を制する闘いは必要だが、その前に、三つの国政選挙があるのだから、そこで、反改憲派3分の1以上を確保すれば、当面の9条改憲を阻止することができるわけである。そうすれば、当面は、9条改憲阻止の闘いは、一息つけて、他の課題に力をそそげるようになるわけだ。その緒戦の闘いが、29日投票の参議院選挙であり、この闘いを制すれば、次にはずみがつくわけだ。

 当ブログは、「9条ネット」から出馬する成島忠夫氏を支持している。比例は、「9条ネット」成島忠夫氏で、選挙区は、9条改憲に反対の候補者を支持する。それは、候補者の政策を見て、判断することになる。

 当ブログにコメントを寄せていただいた社民党の東京選挙区候補の杉浦ひとみさん当たりもブログ記事を読むとなかなかいい候補ではないかと思う。同じ選挙区で、川田龍平さんが出ているが、彼もいいことを言っている。

 以外に、『毎日新聞』の候補者へのアンケート結果を見ると、9条改憲反対という候補が多くいて、民主党にもそう答えている候補が多くいる。

 与党への逆風は相変わらず強いようだ。この段階で、それが弱まらないとなると、これは与党には極めて厳しい結果が出そうである。先の衆議院選挙では、終盤戦で、小泉与党への上げ潮がぐんぐん加速したが、今度はそうはならないようである。

 あとは、投票率がどうなるかとか個別選挙区事の事情によって、多少は変わるだろうが、大勢は大きく動くことはなさそうだ。

 森前首相は、参議院選挙惨敗なら衆議院解散総選挙だと語っているそうだが、内閣支持率20%台の不人気安部政権で、どうやって衆議院選挙で勝てるのか? 勝てる見込みのない解散総選挙に打って出るのには、党内の反対が多いのではないだろうか? 当面、敗戦処理をして、体制を立て直すことに専念することになるのではないだろうか? その場合に、惨敗した安部総理をかついだままで、それがスムースにできるとは考えにくい。次の衆議院選挙には、新しい顔を立ててから挑むようにするということが、ひょっとすると森発言の底意にあるのかもしれない。

 改憲は、安部政権が仕掛けてきたもので、それが、年金選挙になってしまったということが、すでに、誤算であったわけだが、改憲を公約の筆頭に掲げた安部自民党が惨敗すれば、それが、自民党公約の不信任、改憲の不信任を意味することは明らかである。

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選挙・核・外交・安保問題などへの雑感

 参議院選挙は、終盤戦に突入した。

 各種世論調査では、民主党優位という結果が出ている。これを逆転するのは、至難の業である。すでに、どの程度与党が負けるかというのが、関心事となっていて、それによって、安部総理の辞任があるのかどうかという点が問題になっている。いくら、事前に、与党が勝敗ラインを明らかにしなかったからといって、選挙戦で大敗した場合に、自民党総裁ともあろうものが、幹事長にすべての責任を負わせて、責任も取らずに居座ったとあれば、世論の風向きは相当厳しいものになるに違いない。自民党員の多くは、そんな総裁の姿を見て、党への信頼をなくすことだろう。議員たちより先に、末端の自民党員が、離党していくことになるかもしれない。そになのに、塩崎官房長官は、参議院選挙は政権選択の選挙ではないとして、安部続投に向けて、責任回避を図っている。見苦しいことこの上ない。世論も自民党員の多くも、このような幹部の責任回避を図る醜い姿勢を許すことはないだろう。安部総理に対しても同じことだろう。

 小泉ブームの風頼みで、当選を果たした小泉チルドレンたちは、人気・人望・支持率の低い安部総裁の下での次の総選挙で、落選してしまうと浮き足立つだろう。今は、選挙戦の最中で、そうした党内の軋轢は表向きは封じられているが、小泉チルドレンの不満の声が出始めている。安部自民党大敗となれば、党執行部、安部総理のリーダーシップは地に落ちて、党内不満分子は、勝手に行動をはじめ、言いたいことを言い始めるだろう。衆議院自民党は、烏合の衆になっていくだろう。相次ぐ与党提出の法案の強行採決に唯々諾々として従ってきた自民党議員の間で、いくら法案を強行採決しても、それが実績として人々に評価されなかったという事実が突きつけられれば、これまでのやり方に対する反省が生じるだろう。そしてその矛先は、今の執行部そして安部総裁に向くだろう。執行部とその他の間に不信が生まれるだろう。

 強行採決が選挙で評価されないので、選挙で不利になるとわかれば、いくら3分の2の議席のある衆議院でも、強行採決はしにくくなるだろう。執行部が、他の議員の不満を押し殺して、無理に強行採決を続ければ、いよいよ党内の亀裂は拡大することだろう。予想では、自民党員はすでに参院選敗北を前提として、その後のことを考えているものと思う。たぶん、すぐには政策論議を進められないと思う。

 7月24日付『読売』社説は、「北朝鮮の核と弾道ミサイルの脅威、中国の急速な軍備増強、そして世界各地で続く国際テロと大量破壊兵器の拡散」するなど「日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増している」という認識を示して、それにしては、「外交・安保、平和と安全の議論が低調すぎる」と不平を述べている。こういう記事を読むと思うのだが、一体、『読売』は何様なのだろう? 江戸時代のかわら版に起源を持つとも言われる日本の新聞だが、「かわら版」が、日本の政治を動かそうという野心でもあるのだろうか? とついつい思ってしまう。まあ、『読売』が何を言おうと自由だが、それにしても、あれこれと脅威を並べて、日本は危ういと危機意識を煽っているのはいただけない。

 まず、北朝鮮の核と弾道ミサイルの脅威については、6ヶ国協議の枠組みの中で、取り組まれていることであって、しかも、北朝鮮の核開発能力は、それほど高いものではないし、アメリカとの二国間協議に持っていくための外交道具としてやっているようだ。技術開発・設備建設・維持・管理、そして何よりも膨大な資金が必要で、それを今の北朝鮮が十分に保有しているとは思えない。げんにすでに、アメリカによるマカオの銀行の北朝鮮口座の凍結解除、韓国からの重油供給、によって、IAEAの調査団を受け入れた。次の北朝鮮の要求は、軽水炉建設で、それは、凍結されたままになっているものの建設再開ということである。弾道ミサイル開発は、長距離のものは実験に失敗している。

 中国の急速な軍備増強に対しては、国際的な圧力がかかっていて、北京オリンピック・上海万博を成功させたい中国当局が、この時期に、国際的に孤立するようなへたなまねをするとも考えにくい。世界各地で続く国際テロの攻撃対象は、イラク・アフガニスタンに軍隊を送り込んで戦闘している国である。もちろん、イラクでは、自衛隊が復興支援の名目で、後方支援活動を行っていて、米軍と協力しているので、日本人が誘拐されたり殺害されたりしたように、日米同盟のある日本が国際テロのターゲットになる可能性はある。この場合には、日米同盟で対応するというよりも、外交やソフト・パワーでの対処が必要である。核の傘は、こうした脅威に対しては役に立たない。そのことは、例えば、中東政策で、問題はあるが、「平和と繁栄の回廊構想」という形で、外務省が進めていることに示されている。大量破壊兵器の拡散というなら、なんで日本政府はクラスター爆弾の使用禁止の国際条約に加盟しないのか? 

 『読売』は、同盟国に対して「言うべきことを言う」ためには「やるべきことをやる」べきだという。日米安保条約に集団的自衛権の行使が明記されている以上、同盟関係の維持のためには、アメリカが攻撃された場合に集団的自衛権を行使すべきだということになる。だから、日米安保条約廃棄するしか、「やるべきことをやる」ことを回避する道はないということになる。しかし、例えば、イラクで、米軍を輸送している航空自衛隊が、米軍への攻撃に集団的自衛権を行使して、武装勢力を殺害したという場合に、武装勢力が、報復として、日本を攻撃対象として、世界中の日本人や日本の施設を攻撃したとしよう。その場合に、それを守ってくれるのは、日米同盟に従って、集団的自衛権を行使する米軍が主になるだろう。結局、圧倒的な軍事力を持ち、世界展開を行えるのは、米軍しかないからである。日本は米軍に守ってもらうことに変わりはないわけである。

 米軍と対等にというなら、世界に展開できる軍事力が必要となるわけだが、それには無理がある。そこで、NATOなどの国際軍事機構が組織されているわけである。それが難しいなら、手っ取り早く、核武装すればいいという考えに陥ってしまうわけである。

 それに対して、国益を怜悧に計算して、利害得失の観点から、「核」管理の知恵を出せという者もいる。それを邪魔してきたのが「唯一の被爆国」感情からの「核」論議だと言う櫻田淳東洋学園大学准教授である。彼が、観念論者であり、理性主義者であることは一目瞭然である。彼は、国際政治について、感情を排して、利害計算する計算知性を方法的に選択しているのである。櫻田氏は、それをタブーからの解放であり、新しいことだと主張するのだが、それは、アダム・スミス流の利害計算エゴに舞い戻っただけであって、別に新しくも何ともない。

 そして、彼は、「原爆投下はしょうがない」という久間前防衛大臣の発言に理解を示す。

 「筆者は、久間章生前防衛大臣が自らを辞任に追い込んだ過般の「核の意味」発言は、その政治上の効果はともかくとして、その趣旨において理解している。第二次世界大戦終結当時の我が国の政治指導層に「抗戦意志」の継続を断念させた主な要因が「特に長崎に対する原爆投下」と「ソ連参戦」にあるのは、既に定説である。そして「原爆投下」と「ソ連参戦」に促された早期終戦の結果、戦後の我が国がドイツのような分割占領と民族分断という事態を避けられたというのも、有力学説の一つである。久間発言は、そのような諸々の説を念頭に置いてのものであったと推測される」。

 「我が国の政治指導層」の一部は、すでに、1945年初期には、「抗戦意志」を失っており、ソ連に終戦の調停を求めたことから明らかなように、原爆投下以前に、国体護持を条件に、戦争終結する意志を持っていた。したがって、当時の政治指導部に抗戦意志を断念させたのが、「原爆投下」と「ソ連参戦」にあったとするのは、無理がある。それに、「民族」分断は、アメリカによる沖縄占領統治によって、その後長く続いたのである。ただし、日本が琉球人をを同一民族として位置づけたというにすぎないが。この言い方では、ソ連による民族分断や分割占領を避けられたのはいいことだが、アメリカによる沖縄の分割統治・「民族」分断は問題ではないということになる。というよりも、そもそも沖縄の分割統治を完全に無視しているである。

 彼は、フランスのガロワ将軍が、「犠牲者の数からすれば、東京空襲のほうが、広島・長崎よりも被害は多いはずだ。それなのに、なぜ日本人は核を特別なものと認識しているのか・・」と聞かれたという。原爆を落とされてみなければ、その気持ちは分からないと答えることも可能だが、一瞬にして、何万・何十万人の命を奪い、生き残っても、長く被爆被害に苦しめられてきたという経験は、やはり特別なものだ。戦後、核開発競争が激しくなり、ビキニ環礁で、核実験による新たな被爆者が出たことも、核に対する悪感情を駆り立てた。ただ、東京空襲についても、犠牲者や遺族の間から、被害への賠償を求める訴訟が起こされている。ドイツでのドレスデン空襲については、カート・ヴォネガット・ジュニアの「スローター・ハウス」という小説で批判的に描かれているし、空爆批判の動きもある。

 氏は、「無論、我が国にとっては、「核」は常に感情が絡む話題の一つである。そして「核の惨禍」を再現させないという目標は、既に自明の民族の大義として広範な合意を得ているであろう。しかし、もしそうであるならば、我が国こそが「核」の管理や拡散防止を徹底させるための「智恵」を蓄積していて然るべきであった。「冷戦の終結」以後の国際社会では、「核」の管理や拡散防止が一大課題になっているのであるから、それに相対する折の「智恵の輪」に裏付けられてこそ、「唯一の被爆国」という我が国の自己規定は、相応の意味を持ったであろう」という。しかし、日本政府の基本政策は、世界からの核廃絶であって、「核」管理や拡散防止という「核」の存在を前提にするものではない。今ある「核」も廃絶するのであり、それは北朝鮮であろうと中国であろうとアメリカであろうとフランスであろうと、一切の「核」をなくすというものなのである。その途上において、「核」管理や拡散防止に力をつくすというのは別にいいのだが、氏は、「核」廃絶についての態度が曖昧である。

 「「核」を「自明の絶対悪」として語る教条的な「平和主義者」にせよ、原爆投下に踏み切った米国への反感を拭(ぬぐ)い去れない観念的な「民族主義者」にせよ、久間発言批判の文脈で噴出した議論に共通するのは、この「智恵の蓄積」に対する関心の薄さである。そして、こうした議論の多くに筆者が冷淡な眼差しを向けてきたのは、その「実践性」の乏しさの故である」という。彼が言う「知恵」とは、感情を排して利益を計算する怜悧なもの」とされている。そこで、そういう基本的な立場から、氏は、ガロア将軍にこう答えた。

 「少なくとも私を含めて日本の若い世代の知識層では、『核』を語る折の禁忌は薄れています。日本でも昔日に比べれば、『核』を利害得失の観点から怜悧に語ることができるようになっているのです…」

 村上ファンドの村上、ライブドアの堀江、等々、利害得失の観点をむき出しにして時代の寵児ともてはやされた若き新興成金たちが凋落していくなかで、果たして、「利害得失の観点から怜悧に語る」者は、増えているのだろうか? ある調査で明らかになったのは、社長になりたくないし、大金持ちにも成りたくないと答える若者正社員が多いということだ。学者の世界だけは、こうした世間の主流とは違って、利害得失の観点から怜悧に語るなどという態度が拡大しているのだろうか? とうてい彼の言うことが現実とは思えない。

 最後に、「筆者は、果たして老将軍に誤った説明をしたのであろうか」というのだが、答えはイエスであろう。

 なお、この間の度し難い公安警察による朝鮮総連弾圧が、冤罪を生みかねなかった一例として、北朝鮮に万景峰号で渡航する際に、自分用と次男用に大量の薬を保持していた女性を、薬事法違反容疑などで逮捕し、夫が在日朝鮮人科学技術協会の顧問であったことから、朝鮮総連の組織的関与の疑いがあるとして、家宅捜索までして、結局、起訴猶予となったという事件がある。異常に記憶力が優れているという触れ込みで、拉致被害者について数々の証言をしていた元北朝鮮治安機関のメンバー安明進が、覚醒剤使用容疑で逮捕された。北朝鮮問題では、山師のような連中が好き放題のことをしゃべったり、でたらめな情報が流されていて、北朝鮮や総連に関わることなら、なんでも許されるかのような状態になっている。人権外交を掲げる安部政権下で、このような国家機関による人権侵害が起きるようでは、その看板も色あせてしまう。見込み捜査で、人権侵害を引き起こすような公務員は、とうてい品格あるものとは言えない。

 無理矢理、日本の安全保障環境の悪化をでっち上げている『読売』は、真実を明らかにするというジャーナリズムの使命を果たすよりも、世論を特定の方向に誘導するという「悪」に染まっている。それを自覚・反省しないとだめである。時に、世論は、それによって流されもするが、学習し、進歩して、それに引っかからないようにもなる。9条改憲についても、最近は、改憲へ誘導しようとする『読売』の宣伝には引っかからなくなっている。与党支持への誘導にも引っかかっていない。

【正論】東洋学園大学准教授 櫻田淳 怜悧な「核」論議の機運は萎えたのか

■日本こそ「核」管理の智恵を示せ

 ≪「唯一の被爆国」感情から≫

 「犠牲者の数からすれば、東京空襲のほうが、広島・長崎よりも被害は多いはずだ。それなのに、なぜ日本人は核を特別なものと認識しているのか…」

 筆者が去る5月中旬にフランスを訪問中にピエール・マリー・ガロワ将軍と面談した折、将軍は、このように問い掛けてきた。1960年代初頭、シャルル・ド・ゴール執政期のフランスは、冷戦下の東西対立の狭間で独自の核武装に踏み切ったけれども、その理論付けを主導した老将軍の問いは、筆者には誠に印象深いものであった。

 実際、筆者が言論活動の最初期の題材としていたのは「唯一の被爆国」感情に寄り掛かって「核」を語る姿勢への批判であった。「唯一の被爆国」感情に囚(とら)われた結果、日本の人々は、国際政治を怜悧(れいり)に認識する機会を逸してきたのではないか。筆者は、こうした問題意識の下で、本欄でも「核」に関する所見を幾度も披露してきた。

 筆者は、久間章生前防衛大臣が自らを辞任に追い込んだ過般の「核の意味」発言は、その政治上の効果はともかくとして、その趣旨において理解している。第二次世界大戦終結当時の我が国の政治指導層に「抗戦意志」の継続を断念させた主な要因が「特に長崎に対する原爆投下」と「ソ連参戦」にあるのは、既に定説である。そして「原爆投下」と「ソ連参戦」に促された早期終戦の結果、戦後の我が国がドイツのような分割占領と民族分断という事態を避けられたというのも、有力学説の一つである。久間発言は、そのような諸々の説を念頭に置いてのものであったと推測される。

 ≪久間発言批判に共通する≫

 無論、我が国にとっては、「核」は常に感情が絡む話題の一つである。そして「核の惨禍」を再現させないという目標は、既に自明の民族の大義として広範な合意を得ているであろう。しかし、もしそうであるならば、我が国こそが「核」の管理や拡散防止を徹底させるための「智恵」を蓄積していて然るべきであった。「冷戦の終結」以後の国際社会では、「核」の管理や拡散防止が一大課題になっているのであるから、それに相対する折の「智恵の輪」に裏付けられてこそ、「唯一の被爆国」という我が国の自己規定は、相応の意味を持ったであろう。

 そして、たとえば北朝鮮の「核」に絡む現下の「6カ国協議」は、そうした「智恵の蓄積」を生かす格好の舞台であったはずである。しかしながら、実際には「6カ国協議」での議論を主導しているのは、米中両国であって我が国ではない。というのも、我が国にあっては「核」と「拉致」の両案件の落着という二重目標を追求せざるを得ない事情がある一方で、そうした「智恵の蓄積」が十分ではないからである。

 「核」を「自明の絶対悪」として語る教条的な「平和主義者」にせよ、原爆投下に踏み切った米国への反感を拭(ぬぐ)い去れない観念的な「民族主義者」にせよ、久間発言批判の文脈で噴出した議論に共通するのは、この「智恵の蓄積」に対する関心の薄さである。そして、こうした議論の多くに筆者が冷淡な眼差しを向けてきたのは、その「実践性」の乏しさの故である。

 ≪次世代の「核」へのタブー≫

 このように考えれば、久間発言が再現させたのは、教条的な「平和主義者」と観念的な「民族主義者」の野合の光景であった。そして、久間辞任という結果によって、日本の政治の世界においては「核」を怜悧に語ることができる日は、確実に遠のくであろう。「平和主義者」の「反核」論と「民族主義者」の「核武装」論が織り成す以前からの不毛なボレロは、今後も続くのかもしれない。この情勢の下では「核」の管理や拡散防止のための「智恵」の蓄積は、率直に難しい作業になるであろう。それは「核」の管理や拡散防止という現在進行形の課題に取り組む折には、支障にしかなるまい。そして、そのことは冷戦終結からも既に20年近くの時間が経とうとしている現下の国際環境の下では、決して我が国の利益には合致しないであろう。

 「少なくとも私を含めて日本の若い世代の知識層では、『核』を語る折の禁忌は薄れています。日本でも昔日に比べれば、『核』を利害得失の観点から怜悧に語ることができるようになっているのです…」

 筆者は、前述のガロワ将軍の問いに対して、このように説明しておいた。筆者は、果たして老将軍に誤った説明をしたのであろうか。(2007/07/19 )

 外交・安保 平和と安全の議論が低調すぎる(7月24日付・読売社説)

 北朝鮮の核と弾道ミサイルの脅威、中国の急速な軍備増強、そして世界各地で続く国際テロと大量破壊兵器の拡散――。

 日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増している。いかに自国の平和と安全を確保するか。この重要課題に正面から取り組むことは、政治の大きな責任である。

 ところが、今回の参院選での外交・安保論議は低調すぎる。各政党と候補者はもっと議論を活発化させるべきだ。

 自民党の155項目の公約は、10項目が外交、6項目が安保だが、政府の政策を羅列した印象が否めない。北朝鮮の拉致問題について、「国家の威信をかけて拉致被害者全員の帰国を実現する」という決意を示した表現が目立つ程度だ。

 先の6か国協議は、北朝鮮の核の申告や無能力化の履行時期を明示できなかった。核廃棄の道筋は依然、不透明だ。

 北朝鮮の核とミサイルに対する抑止力を高めるためには、強固な日米同盟が欠かせない。拉致問題の進展にも、同じことが言える。自民党が日米安保体制の強化や防衛協力の緊密化を掲げたのは、そうした認識に基づいているのだろう。

 民主党の公約は、「主体的な外交を確立する」とし、「相互信頼に基づいた、強固で対等な日米関係」の構築を訴える一方で、「自衛隊のイラク派遣を直ちに終了」と明記している。

 航空自衛隊のイラク空輸活動は、今の日米同盟を支える重要な柱だ。代替策も示さずに終了した場合、「強固で対等な日米関係」が維持できるだろうか。

 民主党の小沢代表は「同盟とは対等の関係だ。主張はきちんと言う必要がある」と語る。だが、外交の世界では、「言うべきことを言う」ためには、「やるべきことをやる」ことが前提となる。それなしでは、日米同盟強化に反対する共産、社民両党と同じと見られないか。

 集団的自衛権について、民主党は、昨年12月に決定した「政権政策の基本方針」で一部の行使を容認していたが、公約では言及を避けた。党内の反対論に配慮した結果だろう。自民党も、今秋の政府の有識者会議の結論を待って対応するとし、明確な方向性を示していない。

 国際平和協力活動について自民党は、自衛隊の海外派遣に関する恒久法の「制定を目指す」と明記した。2005年衆院選の政権公約の「検討する」との表現から一歩踏み込んだ。公明党は「1万人の専門家育成」を目標に掲げている。

 集団的自衛権と恒久法の問題は、参院選後の大きな焦点となる。責任ある政党と候補者は、選挙中に具体的な立場を明示し、論議を主導してもらいたい。

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二大政党制は問題あり

 「阿修羅掲示板戦争版」に興味深い記事があった。「USA TODAY」紙からの引用なのだけれども、「USA TODAY」紙とギャロップの世論調査で、58%ものアメリカ人が、二大政党制に不満で、第3の党が必要だと答えているということである。

 今、参議院選挙で、自民・民主の二大政党制に向けた動きが大きくなっているのだが、長年、民主・共和の二大政党制を続けてきたアメリカで、それに対する不満が高まっているというのは、興味深い。

 二大政党制のイギリスでも、労働党と保守党の二大政党が、交代で、政権を取ってきたが、地方自治の拡大にともなって、スコットランド議会では、スコットランド民族党が第一党となるなど、二大政党以外の政党が、支持を拡大している。英国議会でも、実際には、自由民主党という第三党が、けっこうな議席を持っていて、小選挙区制でなければ、二大政党に迫る可能性がある。その他、小政党が存在し続けており、多様な選択肢が消えるということはないのである。

 さらに、興味深いのは、先日、大統領選挙で、保守派のサルコジ大統領が誕生したが、そのサルコジ大統領の大胆な政治である。フランスでは、大統領選挙後の国民議会選挙で、付加価値税の引き上げをにおわせたサルコジ発言のためか、与党が大敗し、大幅に議席を減らす一方、内部対立で、動きが鈍かったとされる社会党が、大勝、議席を大幅に増やした。

 サルコジ大統領は、組閣にあたって、社会党や左派のメンバーを、次々と、大臣や政府の重要ポストにつけている。7月21日『毎日新聞』の記事によると、IMF(国際通貨基金)の次期専務理事にストロスカーン元財務省、憲法見直しを進める諮問委員ラング元文化相、クシュネル外相(前社会党員)、別損公共政策調査担当閣外相(同)、ボケル対外協力担当閣外相(同)、ジュイエ欧州問題担当閣外相(社会党に近い左派)、アマラ都市政策担当閣外相(同)、イルシュ貧困対策連帯上級代表(同)、ベドリヌ・グローバル化問題研究グループ座長(ジョスパン元社会党内閣で外相)、と大勢いる。

 サルコジ大統領の狙いは、社会党の左右対立を利用して、左派の分断を図ることにあるという。5年後の大統領選挙で勝つには、中道票が必要で、社会党で、それを取り込める右派からの候補擁立が有力であるという。その機先を制して、ロワイヤルかストロスカーンの二人の右派有力候補の一人であるストロスカーンを自陣に取り込んだというのである。ロワイヤルなら勝てるという計算もあるという。「サルコジ大統領は、与党・国民運動連合の集会でストロスカーン氏の起用について「社会党で現代社会に適応していた人物を選んだ。社会党には(左派強硬派の)エマニュエリ議員を残しておいた」と本音を漏らしたという」。

 サルコジ大統領の主観的意図については、確かにそういうことなのだろうが、他方で、ドイツで、社民党とキリスト教民主党の二大政党の大連立内閣が成立しており、二大政党制が、本質的には一党制にすぎないことが露骨に表れてきたのではないかという問題がある。ドイツでは、すでに二大政党対野党という構図が出来てきており、左派の緑の党やドイツ左翼党、極右政党などの少数野党が、政権に対する批判の受け皿になって得票・議席をのばしてきている。ドイツの政治は、社民党―社民主義を機軸にしており、欧州統合も、社民主義の基本政策である。保守派のメルケル首相の率いる政権になっても、このような基本機軸は変わらないのである。

 サルコジ大統領は、一方ではグローバリズム・新自由主義を標榜しているが、同時に、EU重視の姿勢を取っており、中間派的な態度を取っているのである。したがって、それは、多国籍化している大企業の利害と保護を求める中小零細企業や農民などの反グローバル化の要求の双方を調停するという政治的立場に立って、両者の力の均衡の上に、政治基盤を置こうとしているのである。サルコジ政治のアクロバット的なこの間の動きは、そうした相対立する利害の間の均衡を保つための、綱渡りであって、とうてい長期安定は望めない。

 『毎日新聞』の同記事によれば、「左派登用のあおりで閣僚になれなかった与党の古参・中堅議員からは「社会党に入党した方が出生が早い」と不満が上がっている」という。与党を「ぶっ壊す」ようなサルコジのやり方は、小泉政治にどこか似ている気もするが、それには反動が付き物である。小泉政治で冷や飯を食った自民党の古参・中堅議員たちは、安部擁立に積極的に働いて、大臣などのポストにありついて、出世を果たした。ところが今度は、大臣たちは、「政治とカネ」の問題や問題発言で自ら墓穴を掘っていった。参議院選挙は、いよいよ終盤にはいるが、各種世論調査では、軒並み、与党惨敗の予測が出されている。新聞世論調査は当たる時もあれば当たらない時があるという程度のものでしかないが、無党派層が多い都市部と違う一人区の多い地方の世論調査結果は、短期間では、よほどのことがないかぎり、それほど大きく変化するとは考えにくい。少なくとも、地方での民主党優位は動かないだろう。

 すでに、与党惨敗の責任論、安部退陣か否か、後継候補は誰か、早期に衆議院解散総選挙はあるのかどうか、大連立はあるのかどうか、など、与党敗北を折り込んでの次の政局の話題が本格的に出てきている。与党が、世論を甘く見たツケが回ったということで、参議院選挙で与党がもし敗北することがあれば、それは安部内閣への不信任であることは間違いないところであるから、退陣しなければ、安部政権は完全に「レーム・ダック」化する。

 それで二大政党化に近づくことになるわけだが、二大政党制には、少数民意が反映されにくい、死票が多い、などの問題点があり、さらに、下の記事のように、二大政党のどっちもノーという場合に、選択肢がないという問題がある。アメリカでは、ラルフ・ネーダー氏が、第三勢力をつくるために、時期大統領選に出ることをすでに明らかにしたようだが、左派労働運動を基盤にしたアメリカ労働党が、第三党を目指して地域から選挙戦に取り組んでいる。フランスでは、既存の社会党以外の小政党は軒並み議席を減らすなどした。日本では、二大政党の波にのまれて、小政党は軒並み苦戦を強いられているようだが、二大政党の政治に収らない人々の多様な声や要求に応える政党が存在することは重要なことである。それには、多様な民意を反映できるように、それが難しい小選挙区制は止めるべきである。ほぼ二者択一になってしまっていることは、選択肢が狭すぎるのである。

「阿修羅掲示板戦争版」
<二大政党制はよろしくない>米世論調査で6割近くが第三の党が必要とする(USA Today)

http://www.asyura2.com/07/war94/msg/331.html
投稿者 gataro 日時 2007 年 7 月 21 日 09:01:26: KbIx4LOvH6Ccw

7月12日付の米紙“USA Today”はGallupとの共同世論調査結果を発表。それによると58%と6割近くの回答者が二大政党制に不満としている。

“Do we need a third party? Most say yes”(「われわれは第3の党が必要か?大方はイエスと回答」)の見出しがついたこの記事。大意は次のとおり。

WASHINGTON  Most Americans, unhappy with both the Republican president and the Democratic-controlled Congress, say it's time for a third political party. Not that they're necessarily ready to vote for one.
ワシントン  大方のアメリカ人は、共和党の大統領と民主党が支配する議会には不満で、第3の党が必要なときだとしている。投票するのに適当な党が必ずしも用意されているとは言えないからだ。

In a USA TODAY/Gallup Poll taken Friday through Sunday, 58% say the two major parties are doing "such a poor job" that a third party is needed. Just a third say the established parties "do an adequate job of representing the American people."
金曜から日曜にかけて行われたUSA TodayとGallupの共同世論調査では、58%が二大政党(民主党と共和党)が余りにも貧弱な仕事しかしていないので、第3の党が必要と回答した。既成政党が「アメリカ人を代表するに足る十分な仕事をしている」と回答したのはやっと1/3だった。

(以下略)


http://www.usatoday.com/news/politics/2007-07-12-third-party-usat_N.htm
Do we need a third party? Most say yes
By Susan Page, USA TODAY

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【関連投稿】

<二大政党制の陥穽>「反戦の母」シンディー・シーハンさん、米大統領弾劾をペロシ下院議長に迫る。(どこへ行く、日本)
http://www.asyura2.com/07/war94/msg/198.html
投稿者 gataro 日時 2007 年 7 月 13 日 11:28:00: KbIx4LOvH6Ccw

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池田氏のナショナリズム論の虚妄さ

 池田信夫氏のブログの以下の記事は、近代化論のナショナリズム観の虚妄さをよく表しているように思った。

 これは、ナショナリズムについて氏が前に書いたことの続きのようだ。その記事「ナショナリズムの由来」で、「ナショナリズムは、現代の謎である。それは自由主義や共産主義のように一定の政治的な主張をもつ「主義」ではなく、ひとつのネーション(民族・国民)に所属しているという感情にすぎない。ところがアメリカのように「国民国家」ともいえない国が極端なナショナリズムを掲げて戦争に突入したり、民族とは関係のない「慰安婦」問題が日韓のナショナリズムを刺激したりする現状は、なかなか合理的には理解しにくい」と書いている。これは「日帝36年」の神話批判の前座の話であったようだ。

 池田氏は、ネーション=民族・国民という定義をよく吟味しないで使っているようで、そのために、アメリカは「国民国家」ではないとか、「慰安婦」問題は日韓のナショナリズムを刺激するのは合理的に理解しにくいとかいう混乱を自ら招いている。

 氏は、まず、「大澤真幸氏のような観念論でナショナリズムを語っても意味がない」という。大澤氏のナショナリズム論が観念的かどうかは読んでないので私にはわからない。氏は、ナショナリズムの実態が個々のケースでまったく違うという。そして、一例として韓国の反日運動をあげる。ここは一例と言っているが、氏が力説したかったのは、この問題のようだ。以下、すべて、韓国のナショナリズムについて書かれている。

 そして、すでに論駁されている「一進会」の「合邦運動」が持ち出される。「一進会」への右派の一面的な過大評価は度し難い。というのは、前に書いたが、日本で「一進会」を支援してきた右翼は、「一進会」の対等合邦の要求を裏切って、日韓併合した日本政府に抗議しているからである。日本政府は、「一進会」を弾圧し、非合法化した。その後、「一進会」から民族独立運動に転身する者が相次いだ。

 氏は、英連邦の例をあげて、「普通は旧宗主国と友好的な関係が維持されるもの」と書いている。イギリスとインドの間がずっと友好的だったわけではない。それはインド・パキスタンの最近まで続いた紛争で明らかである。イギリスは、反英的なインドに対して、パキスタンのインドからの独立を支持して、インドと関係が悪かった時期がある。インドは、戦後の非同盟運動の中心の一つだった。インドはソ連との関係を強化していた時期がある。そして今、アフリカ諸国から、旧宗主国に対して、植民地支配への謝罪と補償を求める声が高まっている。それに対して、イギリスその他の西欧の旧宗主国は、それを拒否している。

 冷戦のため、ソ連などの東側陣営と欧米の西側陣営は、旧植民地諸国に対して、競い合うように、ODAなどの名目で、支援合戦を繰り広げた。日本もまた日韓条約を契機に、アメリカと共に韓国の右派軍事独裁政権に対して、経済支援を強化した。今、東西冷戦体制が解体する中で、日本から、恩着せがましく、投資してやったおかげで、経済発展したのだから、感謝して当然だという傲慢な声が右派から起きている。韓国で、投資を必要としていたのは、軍事独裁政権であった。経済的に行き詰まれば、左翼・共産主義勢力への韓国民の支持が広まって、転覆される危険があったからである。韓国に共産主義政権が誕生されては困るので、アメリカが間に入って、日韓条約締結が締結され、本格的な経済支援が開始されるのである。日韓国交正常化をアメリカが強く推進し、陰で、両者に強い働きかけを行っていたことを示す公文書が公開されたばかりである。韓国の軍独裁政権への経済的政治的てこ入れは、日本の利益のためだったのである。

 李氏朝鮮が、19世紀末頃、行き詰まっていて、停滞していたのは確かであるが、これを朝鮮の人々が自らの手で打倒し革命できる力がなかったというのは言い過ぎである。李氏朝鮮の行き詰まりには、各地で発生していた農民闘争が一因にあったからである。農民運動は、李氏朝鮮の支配階級と結びついた旧宗教(儒教)に対する宗教革命の側面も持ちつつ、拡大していたのである。日本が、李氏朝鮮の打倒を目的にしていたというなら、なぜ、農民蜂起を鎮圧するために軍隊を出動させたのだろうか? 日本は、反動的な宮廷勢力内に親日派を育成して、あくまでも李氏朝鮮の宮廷勢力と結びついていたのであって、朝鮮における革命的な力、革命的勢力である農民の闘いを支持・支援するどころか、弾圧したではないか。

 もし、李氏朝鮮が崩壊し、それによって、李氏朝鮮がロシアの植民地になったとしたら、反ロシア民族解放闘争が起きたことだろう。それに、ロシアは、物資や軍隊の迅速な輸送のために、鉄道や道路、港湾などのインフラを整備したことだろう。ロシアは、帝政ロシア時代に併合したチェチェンの民族解放運動に見舞われている。ソ連解体の一要因となったバルト三国の反ロシアの民族感情は、何十年も潜伏しても消えることはなかったわけである。

 そして、氏の植民地認識は、大きくハーバード流の近代化論、あるいは欧米中心主義のバイアスがかかっている。まず、暗に、日帝の朝鮮半島の植民地化は、欧米帝国主義のアフリカなどの第三世界の植民地化とみなされている。しかし、西欧諸国の併合は、欧州同士というのが基本である。「進んだ」イギリスが、「遅れた」アイルランドを併合したり、「進んだ」オーストリアが、「遅れた」ハンガリーやスラブ地域を併合する等々というものだ。それと欧州外の海外植民地の場合は、併合ではなく、文字通り植民地化したのであった。したがって、アイルランドの旧住民(主にカトリック系)は、今でも反英感情が強くある。ナチス・ドイツによって併合されたフランスは、ドイツ人が見たら気分が悪くなるようなナチスの残虐行為について子どもたちに教えている。アメリカ、フランス、イタリアなどの戦争映画で、ドイツ兵は、残虐で、非人間的な姿で描かれている。

 「また「日帝36年」の実態は、それほど過酷なものだったのだろうか。日韓併合された1910年には1300万人だった朝鮮の人口は、占領末期の1942年には2550万人に倍増し、この間に工業生産は6倍以上になった。ハーバード大学コリア研究所長エッカートの『日本帝国の申し子』は、「植民地時代の朝鮮の資本蓄積の90%は内地の資本によるものであり、戦後の韓国の驚異的な経済成長にも日帝時代の資本蓄積が大きな役割を果たした」と結論している」。氏は、貧乏人の子沢山という言葉を知らないのだろうか? 人口増や工業生産の増加は、人々全体の豊かさの指標ではない。資本蓄積は、資本の所有者の富の大きさを暗示するが、その他の人々の生活水準や富を示す指標ではない。日本の近代史を見れば、生産の急速な増大・人口増と人々の貧困の増大、今で言えば、格差拡大が起きたことを種々の統計が示している。それから、植民地時代の朝鮮の資本蓄積の90%が内地からの資本投下だったことは、投資から上がる利益を「内地」の者がほぼ独占していたことを示しているわけである。植民地朝鮮は、内地の投資家が利益を引き出すところだったのである。

 「日本が朝鮮や満州で行なった植民地支配は、一次産品を搾取した英仏などと異なり、インフラ投資を行って産業を育成するものだった。そのリターンを得る前に戦争に負けてしまったため、むしろ日本は「持ち出し」になったのである」ということになると盗人猛々しいという言い方である。せっかく投資したのに、利益が上がる前に、回収できなくなったというわけである。イギリスも植民地にインフラを整備したが、それは、産業上必要なものか、イギリス人が快適に暮らせるようにするためのインフラ整備であった。例えば世界遺産になったインド北部の紅茶を運ぶと共に高地のイギリス人用の別荘地にイギリス人を運ぶための「ダージリン・ヒマラヤ山岳鉄道」がある。その他にも、インドには、イギリスが敷いた鉄道網が走っている。イギリスが植民地時代に、イギリス人の飲用に開発したインフラが、今は、インドの高級紅茶の産地としての発展に寄与し、インド人の通学・通勤・観光に大きな役割を果たしている。だからどうだというのだろうか? これを結果的に見て、イギリスがインドを植民地化したおかげだというのだろうか? これはいいことをしたと言っていいのか? そう言うなら、原爆投下によって、戦争を早く終わらせたのはいいことをしたのだと言うアメリカの言い方とどう違うのか? 「原爆投下はしょうがない」という久間発言と同じく「植民地支配はしょうがない」ということになるのではないか? 「それを言っちゃあ、お終いよ」という倫理感覚ぐらいは、学者なら持ち合わせていないとだめだろう。

 「ソウル大学の教授が「暴力的民族主義が歴史論争を封殺している」などと発言するようになった」というが、この教授はどうやらハーバード留学組らしい。この教授は、アメリカのナショナリズム史観に、すっかり感染させられ、洗脳されてきたのではないだろうか? 「自国の問題を日本に責任転嫁して、公定ナショナリズムで「ガス抜き」しようとする点では、金正日も盧武鉉も同じようなものだ」というが、アメリカも日本も「公定ナショナリズム」で「ガス抜き」しようという点では、同じようなものなのではないだろうか? 

 「もうそろそろ歴史を政治的に利用するのはやめ、客観的な歴史的事実を日韓共同で学問的に検証したほうがいいのではないか」というのは、そうなのだろうけれども、問題は、池田氏が言う学問的ということの中身である。それは、客観的な歴史的事実を検証するというものというよりも、ハーバード流の近代化論というアメリカ・ナショナリズム史観にすぎないのではないかという点が気になるところだ。

 いずれにしても、ナショナリズムは、資本主義が、一方ではグローバリズムで国境を越える傾向を持ちつつも、他方で、出生の条件であった民族国家(ネーション・ステイト)という枠組みを乗り越えられないことを意味している。アメリカにとって、グローバリズムは、世界のアメリカ化ということになるということだ。だから、氏のように、欧米を基準にとると、韓国のナショナリズムは特別扱い、例外扱いになるということだ。慮政権は、反米ナショナリズムも体現しているが、それは、朝鮮半島には、民族統一という民族的大課題があることが背景にあるし、IMF管理以来のグローバル化による欧米資本と欧米諸国からの内政干渉がきついということも背景にある。韓国は、グローバル化が日本よりも進んでいて、労働条件の切り下げ、不安定雇用化、等々、労使関係がきついので、労働運動も激しくなっていて、政権は、欧米からのグローバル化、自由化の圧力と国内の労働者・農民・民族資本・中小資本の反グローバル化要求との狭間に立たされているのである。近代化・資本蓄積増大、生産諸指標の増加、等々の数字では、人々の生活水準や幸福度などははかれないのである。そういう点を、池田氏が理解できていないのは明白である。

 「保守おばさん」櫻井よし子や「保守じいさん」の渡部上智大名誉教授らのアメリカの慰安婦問題対日非難決議への反論の底にあるのも、実は、アメリカ・ナショナリズム史観にすぎないのではないだろうか? 近代化は良いことだと一面的に賛美し、それを基準にして、歴史を裁断しているということだ。

 「日帝36年」の真実
 「池田信夫ブログ」http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/4b750b9ea4bd8138309b5267707006f3

 大澤真幸氏のような観念論でナショナリズムを語っても意味がないのは、その実態が個々のケースでまったく違うからだ。その一例が、韓国の反日運動だ。植民地が独立したとき、ナショナリズムが高まることはよくあるが、英連邦をみてもわかるように、普通は旧宗主国と友好的な関係が維持されるもので、60年以上たっても反日運動が続いている韓国は異常である。

 ソウル市の南にある「独立記念館」は、韓国の小学生が必ず遠足で訪れる施設だが、日本人が見たら気分が悪くなるような展示が並んでいる。日韓併合のコーナーには、抗日戦争で日本兵が韓国兵を大量に虐殺する巨大な立体展示があり、歴史を追って日本人が韓国人を拷問したり虐待したりする蝋人形が延々と並ぶ。このように日本人に収奪された「日帝36年」のために韓国の発展は遅れてしまった、というわけだ。

 実際には、むしろ20世紀初頭の韓国では「日韓合邦」を主張する民間団体「一進会」が100万人もの会員を集め、皇帝や首相に合邦を求める請願書を出した。李氏朝鮮が破綻し、多くの餓死者が出ている状況を改革するには、一足先に明治維新を実現した日本の援助が必要だったからである。韓国政府でも、自力で近代化を行なうのは無理だと考える人々が主流だった。だから韓国併合条約は、両国の合意のもとに署名・捺印された正式の外交文書である。

 もちろん、この背景には日本の圧倒的な軍事的優位があり、この「併合」が実質的には植民地支配だったことは事実である。しかし、もしも日本が撤退していたら李氏朝鮮は崩壊し、おそらく朝鮮半島はロシアに支配されていただろう。アジアにおける帝国主義戦争の焦点となっていた韓国が、わずか数千人の軍事力で独立を維持することは不可能だった。

 また「日帝36年」の実態は、それほど過酷なものだったのだろうか。日韓併合された1910年には1300万人だった朝鮮の人口は、占領末期の1942年には2550万人に倍増し、この間に工業生産は6倍以上になった。ハーバード大学コリア研究所長エッカートの『日本帝国の申し子』は、「植民地時代の朝鮮の資本蓄積の90%は内地の資本によるものであり、戦後の韓国の驚異的な経済成長にも日帝時代の資本蓄積が大きな役割を果たした」と結論している。

 日本が朝鮮や満州で行なった植民地支配は、一次産品を搾取した英仏などと異なり、インフラ投資を行って産業を育成するものだった。そのリターンを得る前に戦争に負けてしまったため、むしろ日本は「持ち出し」になったのである。ところが、閣僚が「日本は植民地時代にいいこともした」などと発言すると韓国政府が抗議し、野党や朝日新聞などがその尻馬に乗って更迭に追い込む、といった茶番劇が繰り返されてきた。

しかし韓国でも、ソウル大学の教授が「暴力的民族主義が歴史論争を封殺している」などと発言するようになった。自国の問題を日本に責任転嫁して、公定ナショナリズムで「ガス抜き」しようとする点では、金正日も盧武鉉も同じようなものだ。もうそろそろ歴史を政治的に利用するのはやめ、客観的な歴史的事実を日韓共同で学問的に検証したほうがいいのではないか。

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参議院選挙と柏崎原発

 台風が大きな被害を与えて去ったばかりの新潟県中越沖で、今度は、大地震が起きた。死者9名、負傷者1000名、避難者1万人以上、の被災者が出ている。被災者の方々にお見舞いを申し上げる。政府は、迅速に対策を講じるべきである。

 この地震では、柏崎原発での変圧器から火災が発生して建屋が燃え、さらに排気筒から通常は検出されない放射性物質などが排出され、さらに冷却水がプールからあふれ出て外に漏れ、海水に入るなど、マグニチュード6・5を想定した耐震設計を超えるマグニチュード6・8という今回の地震で、想定外のことが起きて問題になっている。

 当初、放射能漏れはないと塩崎官房長官が発表したが、それは東電の放射能漏れの報告が大幅に遅れたことによるものだったが、このように東電の情報公表は遅れに遅れた。さらに、海に流れた放射線量を当初発表の1・5倍だったと計算ミスを認めた。

 柏崎市長は、東電に対して、消防法に基づいて、柏崎原発の運転停止を命じた。

 夏の電力需要増大期を前に、首都圏の電力供給の1割を占める柏崎原発が停止に追い込まれたことで、電力不足が懸念されている。

 さらに、今回地震を引き起こした活断層が柏崎原発までのびていることが確認された。日本列島には、未発見の活断層が多数存在している可能性が高いと見られ、他にも原発付近に巨大地震を引き起こす可能性の高い活断層が存在しているかもしれない。

 それにしても、地震発生を受けて急遽、現地入りした安部総理は、柏崎原発を訪れた。東電は放射能漏れはないと発表していたが、実際には放射能漏れが起きていたわけで、最悪の場合、総理の被爆という事態もありえたわけである。総理が柏崎原発に向かったのは、原発は安全だということをアピールしたかったのだろう。いくら原発本体ではなく、外の建物とはいえ、原発施設が燃えて黒煙を上げている映像は、人々に不安と強い衝撃を与えたから、その火消しに素早く動いたのであろう。最初、総理は、いち早く被災者を見舞いに行ったのかと思ったが、そういう選挙向けにうってつけのパフォーマンスは、後日に取っておいたようだ。もちろん、それは露骨すぎてはいけないので、控えめにするなどの演出がほどこされるだろう。

 首都圏の生活を支えているのは、地方の巨大原発から供給される電力であるということが改めて浮き彫りになり、地方を切り捨ててきた「改革」路線がいかに現実を無視して進められてきたかがあからさまになったのである。

 さて、参議院選挙は中盤に入っているが、各種世論調査で、自民・公明の与党の苦戦、民主善戦という結果が出ている。内閣支持率低下は止まらず、20%台入りという数字が出ている世論調査もある。選挙争点は、相変わらず年金・社会保障がトップを占めている。憲法問題も、以前よりは、有権者の関心が高まっているようである。

 9条改憲阻止をメインに掲げる「9条ネット」の成島忠夫候補は、原発の廃止を掲げていて、原発政策でもすっきりとした態度を取っている。憲法問題で、なんだかもやもやとした政策を掲げている民主党とは違うところだ。

 電力問題は、大きくは都市問題であって、巨大都市の生活様式や生産様式から生まれている問題である。ヒートアイランド現象や過密・密閉した住居や木や緑の不足、土を覆おうコンクリートによる土の出す水蒸気による冷却作用を遮断したこと、等々、今日の大都市が巨大な電力消費を必要とすることが、原発による大量発電を必要としているわけである。しかし、節水によって、水需要が減少に転じたように、節電による電力消費量の減少が進めば、巨大な設備と投資を必要とする原発依存を減少させることができるだろう。他にも、天然ガス発電や風力発電や火力・水力発電との組み合わせで、代替することは可能だろう。

 しかし、根本的には、産業を分散配置し、人口の特定地域への過度の集中を防ぎ、人口の拡散も進めるなどして、都市的生活・生産の在り方を変えなければ、劇的な解決は難しい。社民・共産はその点があいまいだ。

 それに対して、「9条ネット」は、農業の振興ということを言っていて、そのことは、農業人口の増加を含めて、今よりもっと地方に人口がいるという状態を想定していると思われ、人口の全国分散という状態の実現を暗に示していると思う。ただ、工業・商業などの諸産業をどうするかということ、あるいは交通の問題はどうなるかなど、短い選挙公約の中では、明らかにしていない。参議院選挙での9条改憲阻止勢力の拡大を目的として、急遽つくられたのだから、そんなことを求めてもしかたないのだが、9条改憲阻止闘争の一環としての参議院選挙に勝利したら、次には、国会での改憲論議が解禁となる3年後までには、衆議院選挙が必ずあるので、それらの点についても、政策化できれば、なお良いのではないだろうか。

 「9条ネット」から立候補している成島忠夫後援会ニュースによると、成島さんは精力的に全国を駆け回っていて、その演説も、核燃料処理施設のある青森県六ヶ所村で反原発を訴え、大阪では下層労働者の街、釜ヶ崎が予定されていたり、21日には、塩見孝也氏の司会で、新宿駅東口で、新右翼で改憲派の鈴木邦男氏vs反改憲派の討論を入れたものをやったりとユニークで、他候補の行かないところにも足を運んでいる。

 今回、自民党を追いつめるのは、1人区の多い地方であり農村であろう。小泉元首相の言うとおり、古い自民党の一部は確かに「ぶっ壊れた」。地方と農村の多くが、反自民化ではないが、非自民化しつつある。地方の「改革」政治への怨嗟の声を甘く見たのが、今の自民党執行部の墓穴を掘ったのである。それに、都市部で、見捨てられ、無視され、自己主張を、屈折した形でしか表現できなかった「ワーキング・プア」の若者たちが、まっすぐに、「生きさせろ」という声をあげられるようにしよう。格差社会こそ「ぶっ壊す」べきものだ。こららの多数の声を聞き届け、それを代表すると信用されるところが必要である。

 ■7-21 安倍政権をぶっ飛ばせ!新宿フェスタ
 4候補のほか、応援団多数が参加して、「安倍政権をぶっ飛ばせ!」と、アピ
ールします。大挙して参加を!

・日時 7月21日 土曜日
・場所 新宿駅東口
  12時~3時 前座
  3時~5時  ザキ、栗原君子、成島忠夫、天木隆史
    司会 神田香織さん
    憲法トーク・バトル 鈴木邦男・(一水会) VS 成島忠夫候補他 
    応援 攝津正:津軽三味線
        糸井玲子・門間幸恵とゴスペルファミリーと鈴木玲子
        若松孝二(映画監督)
        國弘正雄(元参院議員)
        早苗NENE

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[刈羽原発被災]全ての原発を停止してください
戦争とチェルノブイリへのみちを許さない

                               成島忠夫
........................................................................

●被害の全貌は?
 東電柏崎刈羽原発に直下型地震が襲いました。変圧器の火災や使用済み核燃料
貯蔵プールの水オーバーフロー、排気塔からのヨウ素他の排出が報じられていま
すが、配管、中央制御室などの状態が報じられていません。環境放射線モニター
は24時間以上「調整中」となっていました。これでは事実上の報道管制です。
 地割れ、段差の発生等があったと伝えられています。これは無数の配管のどれ
かが破裂するかもしれないことを意味します。配管の破裂は原子炉の破壊につな
がるものです。次の余震で原発震災となるかもしれないのですから、報道管制は
許されません。

●建設前の住民訴訟で指摘されていた活断層
 1980年当時、発電所設置許可をめぐる行政訴訟が地元住民によって提起され、
ここに活断層のあることは明らかにされていました。東電と国は「小さいから大
丈夫」として、発電所を建設しました。
 全面的に反省してください。活断層は「隠れていた」と溝上恵氏(東大名誉教
授・現地震防災対策強化地域判定会会長)は毎日新聞にコメントしていますが、
隠れていたのではなく、「隠していた」のです。
 地震学者にモラルはあるのでしょうか。

●広島の1000倍の死の灰
 100万kW級(標準の)発電用原子炉は1年間運転すると広島原爆の撒き散らした
死の灰の1000倍の死の灰が蓄積されます。原爆に必要なウラン量の1000倍以上の
ウランが使われているからです。
 チェルノブイリでは半径30km以内が、いまだに立ち入り禁止、その十数倍の
広大な地域が農業不可となっています。死者の数は7万人以上(ウクライナ政府、
シチェルバク氏)です。これは戦争以上の惨禍です。

●全ての原発を停止してください
 今全ての原発を止め、化石燃料を増やさないとすれば、一次エネルギーの総供
給量は1990年頃に相当します(資源エネルギー庁)。ほんの少し「足るを知る」
こころがあれば、原発は必要ありません。多くのいのちを奪うかもしれない原発
を嘘をついてまで運転するのは間違っています。
 高知県東洋町は放射能高レベル廃棄物の最終処分場となることを、この4月拒否
しました。日本中捨てるところはありません。子孫に解決不能な死の灰を押しつ
けるのは止めましょう。
 日本列島は活断層列島です。原発に適したところはありません。全ての原発を
 直ちに止めてください。

────────────────────────────────────
■成島忠夫後援会
〒104-0045 東京都中央区築地1-4-11 日東第2ビル503
電話・FAX:03-6411-5611
E-mail:info@naruchu.org http://www.naruchu.org/

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山崎行太郎氏の「保守おばさん」批判に賛成

 保守派を自称する文芸評論家山崎行太郎氏がなかなかいいことを書いている。

 私は、氏の保守政治思想を批判する左翼を自負する者だが、山崎氏の曾野綾子についての見方には同感だ。

 山崎氏は、保守論断を跋扈する権力や利権大好きな「保守おばさん」たちがいると言う。氏は、櫻井よし子、曾野綾子、上坂冬子、さかもと未明の名をあげる。そして、氏は、彼女らの言うことが、「あまりにも幼稚で、くだらないので、顔を背けたくなる」という。確かに、私も彼女たちの主張を批判してきたが、正直言えば、あんまり読みたくないのである。その理由は、保守思想を語っているからというのではなく、彼女らの言説が低レベルだからである。

 氏の「安部一派や安部一派を支援する保守系文化人の思想的なレベルの低さに違和感を持つに過ぎない」という気持ちもわかる。

 曾野綾子氏が十数年前に書いたという文を氏は引用している。「素人が現政権の批判をするということほど、気楽な楽しいことはない。総理の悪口を言うということは、最も安全に自分をいい気分にさせる方法である。なぜなら、時の総理が、自分の悪口を言った相手をぶん殴りに来たり、名誉毀損で訴えたりするということはほとんどないのだから、つまりこれは全く安全な喧嘩の売り方なのである。これが相手がやくざさんだったら、とてもそうはいかないだろう。しかも相手もあろうに、総理の悪口を言えるのだから、自分も対等に偉くなったような錯覚さえ抱くことができる」。

 それに対して、山崎氏は、「曽野綾子によると、保守とは、現政権の批判はしてはいけないものらしい。現政権の奴隷となり、ひたすらゴマスリとタイコモチに終始するのが、保守文化人ということだろう」と強烈に批判している。曾野氏がここで言わんとしているのは、つまらない俗流心理学もどきであって、もっともらしく見せかけているだけの空疎な言葉の羅列にすぎない。今は、人気の高いブログなどで、知事候補など政治家の悪口を書くと、公職選挙法違反の疑いがあるだの名誉毀損で訴えるぞなどというクレームが付く時代である。

 山崎氏が尊敬するのは、「小林秀雄、田中未知太郎、福田恒存、三島由紀夫、江藤淳…。みんな、現政権にゴマスリしたり、タイコモチしたりすることが自分の役割だと思っているような奴隷文化人ではなかった」という人たちだ。

 そして、山崎氏は適格に、曾野綾子氏が、作家として終わっているという核心を突く。「僕の眼から見れば、曽野綾子は、石原慎太郎とともにすでに作家としての命脈は尽きている」。「作家といいながら、作家とは名ばかりで、もっぱら「保守おばさん」として低俗な人生論やお説教を垂れ流してばかりである。文学が枯渇するはずである」。いいことを言う。そのとおりだ。

 小林秀雄は、政治思想が違っていても、今でも読むに値する批評家であり、私も何度も読んでいる。

 氏が、「曽野はどう転んでも「三流作家のはしくれ」でしかないが、依然として大江健三郎は超一流の作家だと思っている」というのはもっともだ。大江健三郎氏の「広島ノート」にしても「沖縄ノート」にしても、文学的価値の高さは、曾野氏の作品の文学的価値を、はるかに超える高峰なのである。前に、ソルジェニーツィンの『収容所群島』の文学的価値が低いと書いたが、ドストエフスキーを読んだ上で、この作品を読むと、誰にもその文学的価値の低さは歴然としているのである。それなら、『イワン・デニーソヴィチの一日』の方がまだ文学作品として読めるのである。書かれている内容は、政治的歴史的に大いに価値あることなのだろうが、『収容所群島』は、何度読んでも、途中で、退屈で投げ出してしまう。そのうち、新潮の文庫版も書店で見かけなくなった。今では、なんらかの政治的立場から利用するために一部が引用されたりしているが、彼の作家としての資質や作品の文学的価値が論じられることはほぼない。

 「作家として政治的発言をするなら、作家らしくもっと本質的、原理的な発言をしろ、と言いたいだけである。本質的に、あるいは原理的に政治問題を考えるならば、朝日新聞批判や中国批判だけでなく、ある場合には三島由紀夫や江藤淳のように、現政権批判に至るのも当然ではないか」と山崎氏は言うが、これももっともだ。

 「保守おばさん」たちの低レベルの発言にはうんざりするし、「僕は、曽野綾子のような権力べったりの「保守おばさん」を心底、軽蔑するが、大江健三郎とは政治思想的な立場はまったく反対にもかかわらず、それでも大江健三郎の政治的、思想的な一貫性と徹底性を尊敬している。作家を名乗りたいなら、大江健三郎の爪の垢でも煎じて飲め、と言いたい。「奴隷の思想を排す」(江藤淳)である」というのも、もっともだと思う。

 その上で、反権力は権力の一部なる訳の分からない屁理屈を並べ立てて、ただ人々を惑わせただけの左の知識人の「低レベル」を嘆かずにいられない。というのは、かれらの多くは生活保守・ソフト保守に成り下がってしまい、「保守おばさん」とたいしてかわらないように見えるからである。もちろん、「保守おばさん」がいれば、「保守おじさん」もいるのであり、山崎氏は先に「保守おじさん」の福田和也を槍玉に挙げている。それとは違うが左の「保守おじさん」化しているらしい佐高まこと氏は、若者につまらない説教を垂れているようだ。

  文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』へようこそ!!!
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/
2007-07-16
■曽野綾子は、何故、権力べったりの「保守おばさん」に堕落したのか?

 ネット右翼レベルの薄っぺらな保守系文化人に混じって、最近の保守論壇を跋扈しているのは、権力や利権が大好きな「保守おばさん」たちである。たとえば、桜井よしこ、曽野綾子、上坂冬子、さかもと未明…。別に彼女たちの政治思想や議論の中身が間違っていると言いたい訳ではない。ただ、あまりにも幼稚で、くだらないので、顔を背けたくなると言いたいだけである。僕が、最近の保守論壇や保守ジャーナリズム、そしてその「保守おばさんたち」が支援する「安倍政権」に批判的なのも、彼らの思想性や党派性に批判的だからではない。ただ、単に思想的レベルが低すぎるというだけの理由からである。憲法改正も教育基本法改正も、そして「防衛庁」の「防衛省」への昇格も反対ではない。ただ、安倍一派や、安倍一派を支援する保守系文化人の思想的なレベルの低さに違和感を持つに過ぎない。つまり、安倍一派とともに憲法改正を語りたくもないし、また憲法改正を実行したくもない。僕は、安倍や安倍一派の考える憲法改正なら、やらない方がましだと思う「保守」である。ちなみに、某素人ブログによると、僕は読んだことは無かったが、曽野綾子は、十数年前に、こんなことを書いていたということである。

     素人が現政権の批判をするということほど、気楽な楽しいことはない。

     総理の悪口を言うということは、最も安全に自分をいい気分にさせる方法である。

     なぜなら、時の総理が、自分の悪口を言った相手をぶん殴りに来たり、名誉毀損で訴えたりするということはほとんどないのだから、つまりこれは全く安全な喧嘩の売り方なのである。

     これが相手がやくざさんだったら、とてもそうはいかないだろう。

     しかも相手もあろうに、総理の悪口を言えるのだから、自分も対等に偉くなったような錯覚さえ抱くことができる。

 これは、1992年3月に、曽野綾子が書いた文章らしいが、この時の「総理」は宮沢喜一だったらしい。曽野綾子によると、保守とは、現政権の批判はしてはいけないものらしい。現政権の奴隷となり、ひたすらゴマスリとタイコモチに終始するのが、保守文化人ということだろう。曽野は、偉そうに「素人は…」なんて書いているが、自分は「プロ」のつもりか。曽野は、いったい何のプロのつもりなのか。それにしても、いつから、保守文化人は、権力や体制の奴隷になったのだろうか。僕の尊敬する保守文化人は、誰一人として権力や体制の奴隷ではなかった。小林秀雄、田中未知太郎、福田恒存、三島由紀夫、江藤淳…。みんな、現政権にゴマスリしたり、タイコモチしたりすることが自分の役割だと思っているような奴隷文化人ではなかった。曽野綾子は、一応、作家ということになっている。「一応」というのは、僕の眼から見れば、曽野綾子は、石原慎太郎とともにすでに作家としての命脈は尽きていると思うからである。今、曽野綾子は、保守論壇や保守ジャーナリズムに生息する保守系文化人としては重鎮の一人であるらしい。産経新聞やそれに類する雑誌や週刊誌に、毎月、毎週、毎日、登場しない日はないと言っていい。要するに、権力や利権の周りに巣食う御用文化人の典型である。商売繁盛で結構なことだが、作家といいながら、作家とは名ばかりで、もっぱら「保守おばさん」として低俗な人生論やお説教を垂れ流してばかりである。文学が枯渇するはずである。曽野綾子と言えば、沖縄の集団自決事件を取材し、「日本軍による集団自決命令はなかった」と主張した『ある神話の背景』が知られているが、その時、曽野がターゲットにしたのは大江健三郎の『沖縄ノート』だったはずだが、僕は、その主張の中身がどうであれ、曽野綾子を尊敬する気にはなれない。曽野はどう転んでも「三流作家のはしくれ」でしかないが、依然として大江健三郎は超一流の作家だと思っている。「総理の悪口を言うな」「素人は黙っていろ」と言うような作家が、まともな作家であるはずがない。むろん、僕としては、作家は政治的発言をするべきではない、と言いたいわけではない。作家として政治的発言をするなら、作家らしくもっと本質的、原理的な発言をしろ、と言いたいだけである。本質的に、あるいは原理的に政治問題を考えるならば、朝日新聞批判や中国批判だけでなく、ある場合には三島由紀夫や江藤淳のように、現政権批判に至るのも当然ではないか。僕は、曽野綾子のような権力べったりの「保守おばさん」を心底、軽蔑するが、大江健三郎とは政治思想的な立場はまったく反対にもかかわらず、それでも大江健三郎の政治的、思想的な一貫性と徹底性を尊敬している。作家を名乗りたいなら、大江健三郎の爪の垢でも煎じて飲め、と言いたい。「奴隷の思想を排す」(江藤淳)である。ところで、少し話は変わるが、曽野は、「保守文化人」を気取りながら、靖国神社に代わる無宗教の代替追悼施設の建設に賛成らしいし、国のために命をささげた日本の軍人(特攻隊の青年たち)より、殉教したイエズス会の神父たちの方が偉い、と話すような暢気な「保守おばさん」らしいね。

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参議院選挙始まる

 いよいよ参議院選挙が始まった。

 今年1月、安部首相は、この参議院選挙で、憲法問題を争点に掲げることを表明し、それをきっかけに、与党と民主党の改憲協議が決裂し、改憲のための「国民投票法」が与党単独での強行採決にいたった。このことは、安部自民党が、参議院選挙で、民主党などの野党を、対決姿勢を鮮明にすることで憲法問題で揺さぶりをかけ、民主党内改憲積極派と改憲消極派の亀裂を拡大して足並みを乱し、もって参議院選挙で与党の勝利を目指したものであった。

 ところが、その安部総理の目論みは、社会保険庁の年金記録漏れ事件が露呈され、さらに、事務諸費疑惑が晴れないままの松岡農相自殺等々と、「政治とカネ」の問題が続発する中で、もろくも崩れ去ってしまった。そして、生活問題を参議院選挙の最大焦点と掲げ続けてきた小沢民主党の土俵に上がらざるを得ないところに追い込まれてしまった。

 そこで、安部政権は、国会の会期延長までして、年金関連二法、公務員改革法を強引に通して、実績づくりをせざるを得なくなった。

 自民党は、マニフェストに改憲を掲げているものの、それは書いてあるだけで、積極的にアピールすることもなく、安部総理は、選挙応援演説では、弱者救済を訴えている有様だ。小泉改革は、「強者はより強く、弱者はより弱く」というもので、財界は、このような改革の継続を安部総理に期待している。そして、安部総理は、改革を繰り返し叫ぶことで、財界の期待に応えるよう努めている。だが、いかんせん、財界は、数が少ない。選挙は、財界の数だけでは勝てないのであり、投票率が上がれば、多数者の「弱者」が大勢一票を投じることになる。与野党逆転から政権交代となってしまえば、権力の座にあるからこそ、うまみのある利権にありつけているのに、それを失ってしまう。

 1980年代初期に、細川連立政権時に、下野した自民党が味わったことを、繰り返したくない自民党総裁として、安部総理は、改革という叫びとは反対に、選挙期間中だけは「弱者」にこびざるをえないのである。

 しかし、年金・生活問題は、この参議院選挙の最大の焦点になっているけれども、この参議院選挙で選ばれた参議院議員は、任期が6年あり、3年後には、「国民投票法」新「国会法」に基づいて、憲法審査会の改憲発議の議論が開始されるので、それに関わることになる。反憲法改悪派にとっては、これは3年後の改憲発議議論に大きな影響を持つ重要な選挙であり、前哨戦の闘いである。それに、政局次第では、衆議院解散総選挙も近々あるかもしれず、郵政解散総選挙で、与党が占める衆議院での3分の2を超える圧倒的多数の与党=改憲派との闘いがあるかもしれないのである。

 悩ましいのは、野党第一党の民主党が改憲派であることだが、反改憲派3分の1は厳しいとしても、自民・民主内の改憲消極派ことに9条護持派を合わせて、3分の1以上の議席を確保することはけっして不可能なことではない。

 9条ネットのように、自民党の改憲の中心的狙いである9条改憲を阻止する闘いで、集団的自衛権行使解禁、多国籍軍への参加、日米共同軍事行動参加、のような日本の参戦国化を防ぐ闘いとして、参議院選挙を闘うことは、そのような幅を持った反改憲派を参議院内に形成するものとして、有効なやり方と言えよう。あれもこれもとなんでも掲げるとかえって争点がぼやけて、なにを争った選挙かということについての人々の意識を曇らせてしまう。9条改憲か否かが重要な争点として争われた選挙であったことが人々の記憶に残るようにして、しかも、9条改憲反対派が勝ったという印象を強く与えるようにする必要がある。その記憶が鮮やかなうちに、解散総選挙があれば、なおよいわけだが、どうなるかはもちろん今の時点ではわからない。

 安部総理の個人的な欠点は、なんといっても自惚れの強さにある。かっこつけすぎなのだ。それがいいかげん鼻についているのであり、だから、何を言っても、逆効果になっているのである。これを逆転するのは、よっぽどのことだ。小泉は、大衆性を演出することも忘れなかったのだが、安部総理には、それは無理そうだ。ラーメンを食うパフォーマンスも、なんだか不自然で、わざとらしくしか感じられなかった。
 
 9条改憲阻止にしぼった9条ネットの選挙戦が、他党の候補者を含めた人々に大きな影響を与えれば、3年後に本格化する改憲の動きに対する緒戦を制するものとなるだろう。そしてそれは、アメリカのブッシュ共和党政権のイラク政策が破綻するのと平行することになり、次の大統領選挙の行方を左右するアメリカの反戦運動と連動する反戦運動の国際戦線の一翼として、大きな役割を演ずることとなるだろう。一度は引退を表明したイラク反戦の象徴となってきたシーハンさんも、再起して、反戦運動の先頭に立つことを表明した。
 
 そして、参議院選挙のもう一つの争点は、格差問題である。この点は、共産党が、貧困解消と9条改憲阻止、社民党が、憲法9条と25条の擁護という形で提起している。民主党は、生活第一という形で提起している。9条ネットから立候補する成島忠夫氏は、

1.憲法9条の改悪を阻止しよう!
2.モラルある政府を樹立し、格差をなくそう!
3.原発を廃止し、自然エネルギーへ!
4.農業を守り、食の安全を!
5.地方自治権を拡大し、在日外国人に参政権を!
 
の5点を掲げている。

 右派はもう生ける屍状態である。「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡会長は、元会長の八木秀次氏を名誉毀損で訴えた。『産経』「正論」の長谷川三千代氏の空疎で無内容な反フェミニズム論を見よ! 花田編集長の『Will』にいたっては、過去の文章をかき集めた従軍慰安婦問題特集号で、お茶を濁す始末である。小林よしのりは、マンガへの完全復帰をにおわせており、戦線離脱を考え始めているようだ。あれほど右派に期待された安部総理も、もはや周りには彼を守ろうという人もいなくなってしまったという。大臣のイス目当てに総裁選挙で安部支持の旗を振った者たちも、安部と一緒に沈むのは嫌らしい。最新の「時事通信」の世論調査では、安部内閣の支持率は、先月から3ポイントほど下がって、25・7%になった。30%が危険水域と言われているから、もうお終いという低水準だ。しかし、だからといって自民党・公明党の議席が25・8%になるというわけではない。自民党が、挽回を狙って、策を繰り出してくることは確実だ。だが、それは、逆効果になるというリスクが高いものにならざるをえない。
 
 参議院で与野党逆転して安部総理が責任を取れば、次はつなぎの総理となって、政局の混迷が秋以降深まり、解散総選挙という可能性が一応考えられる。だから、9条改憲阻止のためには、参議院選挙の次に衆議院で、9条改憲反対派を増やすようにしなければならないので、その闘いがすぐに始まることになる。9条改憲阻止の闘いの一環としての緒戦を制しよう!

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秦邦彦氏の沖縄住民集団自決論は破綻している

 秦邦彦氏と言えば、いわゆる従軍慰安婦問題で、それを証明したとされた吉田証言の現地検証を行い、これを虚偽証言と証明したとして、有名になった人物である。

 元官僚で、実証主義を信条としているらしいが、その歴史観の底が浅いことは、以下の記事で明らかである。

 氏は、沖縄戦が終了した「慰霊の日」に合わせて『読売』を除く、大手新聞が大々的に、取り上げたことに、触れて、「これまでは「沖縄の心」という目に見えぬ壁への配慮が働き、マスコミも識者もハレものにさわるような扱いをしてきたが、今年も同じトーンで生き残りの体験談を軸に情緒過剰な詠嘆調の記事が並んだ。今や生き残りといっても、当時は10歳前後だった人たちが主だから、要領をえないあやふやな証言ばかりになってしまった」と評した。

 秦氏は、住民の集団自決を巡る高校用日本史教科書の検定で「軍命令による強制」が削除されたことで、騒然とした「慰霊の日」になったとしている。ここには、秦氏らの軍命令の有無のみに焦点を絞る作戦が表れている。

 秦氏の批判は、生き残りの体験談を軸にした「情緒過剰な詠嘆調」、「当時10歳前後の要領をえないあやふやな証言ばかり」という証言の信憑性を問題にするというものである。あたかも、これらの証言者の記憶や情緒に問題があるかのようである。

 ところが、秦氏自身、やはり当時10歳前後で、「鬼畜米英」への憎悪と恐怖を感じていたが、誰から吹き込まれたのかは記憶にないという。政府の公文書にはなかったはずだというのである。それは、流言飛語の類であり、『朝日新聞』に代表される情緒過剰の流言飛語と同類だったというのである。当時の政府は、とくに反米英扇動など行っていないというのだ。もちろん、この秦氏の話も、要領を得ない話にすぎないことになる。

 秦氏は、200人が非難していた洞窟に日本兵3人が来て、敵に見つからないために、泣き叫ぶ妹といとこに毒おむすびを食べるように命じたという証言について、「激戦のさなかに毒入りおむすびを作る余裕があるのか、毒と告げて親が食べさせるものか、食べたとしても、苦悶(くもん)の泣き声に変わるだけではないのか、そんなことをしなくても、200人も入っている広い洞穴なら奥へ移ればすむのではないか、と疑問の種はつきない」という。ここでは、秦氏の激戦のイメージがよくわからないので、この疑問の種が、情況とマッチしているのかどうかがわからない。戦闘中だろうとなんだろうと「腹が減っては戦はできぬ」であり、食事は必ず取る。即死する毒というものもあるだろう。200人入る洞窟でも、それでいっぱいかもしれない。

 秦氏は、これで事実を証明しようと言うのではなく、疑問に答える検証が記者によってなされていないのではないかということを言いたいのである。事実は二の次で、記者の資質を問題にしているのである。彼らは自分と同じ実証的歴史家ではないということに不満だというのだ。秦氏の言うことにも、誰もが、あれはどうか? これはどうか? 等々と、いくだでも疑問の種は尽きない。いくらでも疑問はつくることはできるが、そこから、別のストーリーの正しさを引き出すことはできない。例えば、牛島軍が下のように、住民を生きて米軍に引き渡すように非難させたというケースが正しかったとしても、別の軍部隊が、住民の集団自決を指示したかどうかはまた別の話である。秦氏のやり方は、いいことをした一部の日本軍の印象で、集団自決を命令したとされる悪いことをした日本軍の印象を消すというものだ。だが、それは、無理というものだ。印象は変わるのである。第一印象では、もっともらしく感じられるかもしれないが、三回も読めば、そんな印象は消えてしまう。

 彼は、集団自決に手榴弾が使われた理由については、現地採用の防衛隊員が勝手に使用したという。それならやはり軍人による手榴弾の住民への供給であり、さらに、これで自決しろと兵士に手榴弾を手渡されたという証言もある。前者のケースがあったとしても、それで、後者のケースがなかったということは言えない。どうしたって、秦氏の主張は分が悪い。

 「さすがに社説ともなると冷静なタッチが多いなかで、朝日だけは突出した情緒論で終始している。他にも日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告し実行していったとか、捕らえられれば「女性は辱めを受け、男性は残忍な方法で殺される。日本軍はそう住民に信じ込ませた」と書いているが、いずれも事実無根に近い」という。だが、その証拠を示さない。証人や証言が少しでもあやふやだと、すべて信用できないという印象を与えるというのが秦氏の得意技である。

 ここで突然、秦氏は、「牛島軍は、県当局と協議して住民を予想戦場から遠ざけるため本土や本島北部への疎開を命じ、戦闘末期には米軍の保護に委ねるふくみで戦場外の知念半島への避難を指示している」ということを持ち出す。こちらを、典型として、スパイ容疑での日本軍による住民の銃殺事件などは例外だというのである。

 そして、上記の、10歳前後の要領をえない軍国少年時代の記憶を持ち出すのである。

 秦氏は、情緒と論理を単純に対置させ、論理に優位を与える。しかし、論理は、情緒、感性と結びついている。この文章には、秦氏の情緒が表れているのである。政府や日本軍への偏った情緒が表れているのだ。それに論理という形式を着せているだけなのだ。そのくせ、『朝日』だけが、情緒過多だと言うのだから、自己反省がないことは明らかだ。情緒という形式をとるか、論理という形式をとるか、は、形式的な問題であって、あまり重要なことではない。それをことさらに重要だという印象を与えているのは、『朝日』や沖縄でのこの間の教科書検定批判が、日本軍寄りの秦氏の情緒に合わないからである。彼は、沖縄の集団自決の軍命令の記録がないのと「本土決戦」もなかった本土の自分の体験を重ね合わせるというおよそ実証史学家らしからぬ間違った比較方法を取ってまで、集団自決への軍の強制がなかったことを情緒的に言いたかったのである。

  【正論】現代史家 秦郁彦 沖縄集団自決をめぐる理と情
(『産経』正論2007/07/06)

 ■報道は冷静な検証の姿勢忘れずに

 ≪情緒過剰な記事が並ぶ≫

 6月23日は、62年前に沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)の洞穴で、牛島軍司令官が自決、沖縄戦における日本軍の組織的抵抗が終わった日である。

 沖縄県は、この日を「慰霊の日」と定め、軍人・軍属、一般住民がそれぞれ9万余人、米兵をふくめると20万人の全戦没者を追悼する式典を挙行してきた。しかし今年は、住民の集団自決をめぐる高校用日本史教科書の検定で「軍命令による強制」が削除されたことについて、県議会が検定意見の撤回を求める意見書を採択したこともあり、騒然とした「慰霊の日」となった。

 ほぼ全面無視した読売新聞を除き、主要各紙は社説や社会面記事で大々的にこの問題をとりあげた。これまでは「沖縄の心」という目に見えぬ壁への配慮が働き、マスコミも識者もハレものにさわるような扱いをしてきたが、今年も同じトーンで生き残りの体験談を軸に情緒過剰な詠嘆調の記事が並んだ。今や生き残りといっても、当時は10歳前後だった人たちが主だから、要領をえないあやふやな証言ばかりになってしまった。

 たとえば、県の意見書のまとめ役になった当時8歳だった議員の体験談は「200人ほどの住民と壕に隠れていたところ、3人の日本兵が来て、泣き続けていた3歳の妹といとこに毒入りのおむすびを食べさせるよう迫った。敵に気づかれるのを恐れたため」(6月23日付朝日)というのだが、記者は不自然さに気づかなかったのだろうか。

 激戦のさなかに毒入りおむすびを作る余裕があるのか、毒と告げて親が食べさせるものか、食べたとしても、苦悶(くもん)の泣き声に変わるだけではないのか、そんなことをしなくても、200人も入っている広い洞穴なら奥へ移ればすむのではないか、と疑問の種はつきない。問題はそうした検証をいっさい放棄して、記事に仕立てた記者の資質にある。

 ≪攻撃用武器の手投げ弾≫

 ついでに記すと、県議会では「集団自決の軍命令はあったはず」と主張する野党と「なかったらしい」と主張する与党の議員が対立、妥協のすえ意見書は「日本軍による関与なしに起こり得なかった」という争点を外した表現におちついたとのこと。

 「関与」とは一部で日本軍の手投げ弾が自決用に使われたのを指しているらしいが、兵器不足に悩み、兵士に竹槍まで持たせていた日本軍にとって、手投げ弾は貴重な攻撃用武器だった。現地召集の防衛隊員(軍人)に持たせていたものが家族の自決に流用されたのに、16歳だった語り部の元短大学長が「手投げ弾は自決命令を現実化したものだ」と語るのを、朝日が社説(6月23日付)で「悲惨な証言」と信じ込み、引用しているのはいかがなものか。

 ≪軍命令見つからない理由≫

 さすがに社説ともなると冷静なタッチが多いなかで、朝日だけは突出した情緒論で終始している。他にも日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告し実行していったとか、捕らえられれば「女性は辱めを受け、男性は残忍な方法で殺される。日本軍はそう住民に信じ込ませた」と書いているが、いずれも事実無根に近い。

 牛島軍は、県当局と協議して住民を予想戦場から遠ざけるため本土や本島北部への疎開を命じ、戦闘末期には米軍の保護に委ねるふくみで戦場外の知念半島への避難を指示している。

 その結果、米軍記録によると28万余人の住民が投降した。そのなかには日本軍陣地へ投降勧告に出向く志願者がいて、スパイと疑われ処刑された例もあったが、例外的事件にすぎない。

 そのころ12歳の軍国少年だった筆者も「鬼畜米英」への憎しみと恐怖を抱いていた記憶はあるが、誰が吹きこんだのか覚えていない。親や先生ではなかったと思うし、ひょっとすると、わが家で取っていた朝日新聞か主婦の友かもと考えたりもするが、少なくともこの種の流言、浮説を記した政府・軍の公文書はなかったと思う。

 ところが、研究者でも集団自決や慰安婦の強制連行を証する軍命令が見つからないのは、終戦時に焼却したからだとか、個々の命令はなくても戦前期の天皇制や軍国主義教育に起因すると強弁する人が少なくない。

 集団自決が起きたのに「いまさら『日本軍は無関係』と言うのなら、それは沖縄をもう一度裏切ることになる」としめくくった朝日社説も同類項なのだろうか。

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「希望は戦争」についての雑感(3)

 「希望は戦争」という赤木さんの主張は、様々な反響を生んでいる。

 それは、赤木さんの主張に、共感と反発の両方を生み出すような内容が含まれている証拠だろう。赤木さんの主張を聞いて感じるのは、まず、アイデンティティの不安定さというか、漂流感というかそんなものである。赤木さんのアイデンティティは、固く、極めてエゴイスティックなように聞こえるのだが、実際には、彼のアイデンティティは、他者との社会的な関係から疎外されていて、切断されている。いわば、浮遊している感じなのである。

 雨宮さんと鈴木さんは、それを彼のやさしさと受け取っているようだが、それは、そうした彼のアイデンティティが固定されていないところからくる印象なのではないだろうか。

 彼は、過去の世代からも切れているし、親からの自立を望んでいるように親とも切れているし、深夜のコンビニでのバイトで昼間寝る生活で、世間からも切れているし、ただ、ネット上の世界だけで、かろうじて、社会とつながっているというような感じである。

 彼の発言から受けるなんとも言えないふわふわとしたとらえどころのなさは、彼の生活世界の在り方からきているように思う。

 他方では、彼は、全共闘の運動を、あっさりと遊びや流行だと切り捨てる。そして、自分たちこそ、戦後総括を真にできる世代だと言う。つまりは、新新左翼だというのである。

 言われた方は、もちろん猛反発する。例えば、フリーター全般労組の摂津正氏は、赤木的言説を絶対認めてはならないと批判する。赤木さんは、運動のことも全共闘のことも知らないくせに、言葉や衣装を借りて、二番煎じ、三番煎じのようなことをさも新しいように語っているにすぎない。彼は単なる無知だと言う。

 フェミニストの伊田広行氏は、半分はわかるとしつつも、赤木の言説は、反フェミニズム的で保守的だという。あくまでも反戦だし・非暴力だという。

 伊田氏が言うことはいちいちもっともなのだが、しかし、赤木さんに向かって、感情ではなく論理的になれというのは、やはり知識人的傲慢さを感じさせるもので、暴力的と言えば暴力的である。というのは、雨宮さんが、『論座』での佐高まこと氏の赤木批判として、ゲーム世代の問題というのを指摘したことにたいして、それは差別的だし、相互理解を閉ざしてしまうもので、暴力的だと批判しているのと似たところがあるからである。物理的暴力だけではなく、論理に潜む暴力という問題を突きつけたのは、左翼自身であったし、反差別運動はそれを特に問題としてきたのではなかったか。もう少し、「半分わかる」という感情にこだわって欲しいと思う。

 人々が直感的かつ感情的に把握しているものを論理化するのは、知識人の役割というものではないだろうか? それを代行主義として批判してしまったので、それ以降は、自分は自分の問題をやり、他の人は他の人で勝手に自分で自分の問題を自立してやればいいと、自分の世界に閉じこもって、なんだかわけのわからないことに熱中し始めて、自己満足しているというのが、90年代以降の左翼系知識人の一つの在り方だったのではないだろうか? 

 それから、香山リカさんのように、今時の若者は劣化しているとか言って罵倒することはないだろうという感覚が、雨宮さんたちにはあるようだ。

 どうして左翼は、自分たちに目を向けず、自分たちの窮状を救ってくれず、利害を代表してくれず、要求を代弁してくれないで、新自由主義政治の犠牲者である自分たちが、罵倒・非難されるのは理不尽ではないかという若者たちの不満や批判を雨宮さんたちは代弁しているように思われる。

 左翼がこうした周縁化されている人たちの声を拾い代表するという機能を自ら放棄してしまったことに間違いがあったのではないだろうか。いつの間にか、左翼ことに左翼系知識人は、かれらとは無関係に自立しているかのような錯覚に陥ってしまったのではないだろうか。そう自問すらしなくなってしまったのではないだろうか。そう考えると、赤木さんの主張は、個別に見ればおかしいところはいろいろあるし、一見すると保守的に見えるし、感情的かもしれないが、それに左翼の在り方が無関係ではないことは明らかだと思う。だいいち、感性的存在としての人間を、論理側からきってすてるというのは、転倒している。

 例えば、雨宮さんは、左翼のおじさんたちは、月収10万円のフリーターを平気で、3000円の飲み会に誘うことに、かれらの想像力のなさを感じたという。バブル時代、もはや物質的な幸福の追求よりも、精神的な幸福の追求が問題だと言われた。そこに、オウム真理教に若者が入っていった理由があった。オウムの荒木元広報担当は、バブル期の京大生時代、釜ヶ崎支援運動が取り組まれていたキャンパスで、それを横目に、精神的に満たされないものを感じ、オウム真理教に惹かれていったという。

 しかし、バブル崩壊後の90年代、物質的に窮状に陥る若者が確実に増えていたのであり、それは派遣業法改悪以降、急拡大するのである。その現実に、左翼の一部はもちろん目を向けていたのであるが、赤木さんが左翼に入れている「連合」は、完全に対応が遅れたのである。

 プレカリアート、この「持たざる者」の存在は、古典的なプロレタリアート像にかなり一致する。もちろん、それは完全に一致しているわけではないが。赤木さんが自分たちこそが、戦後民主資本主義を真に総括できる主体だというのは、たんなる自惚れだと言えないこともないが、ただ、命以外に失う物を「持たざる者」という意味では、戦後革命期の戦争ですべてを失った人々以後では、一部下層を除いては、そういう存在の大量登場は初めてと言えるかもしれない。全共闘の若者たちも、多くは貧乏学生であったが、それでも就職すれば豊かな将来があった。実際、若い頃は左翼で暴れるのもエネルギーが有り余っているのだから当然だ、そのエネルギーを今度は会社や官庁のために使えと言われて就職していった全共闘の若者たちは、がむしゃらに働いて、その後のスタグフレーション、二度のオイル・ショック、円高不況などを乗り越え、ついにバブルの宴を実現し、と歯止め無く突き進んでいった。その後、かれらは、バブル崩壊から長期不況へと突入する中で、自分たちの子どもたちが、フリーター、ニート、派遣、「ワーキング・プア」化するのに直面しつつ、自らの退職、年金生活に入る中で、今度は、少子高齢化による年金不安、年金記録漏れ、等々という晩年を迎える。

 それにしても、それに対して、能力主義の徹底などを主張するどうしようもない者がいるのには、あきれてしまう。フランスの大統領選挙で、当選したサルコジは、自分は、自由主義のハイエク主義者ではなく、イタリア共産党創設者の一人であるグラムシ主義者で、グラムシの言うように思想で権力を取ると選挙期間中に主張したという。保守派が、共産主義者の思想の信奉者だなんて、不思議だ。それが、単純に、アメリカ流の新自由主義者の勝利だと日本では報道されたのだが、実際には、そんな単純なことではないし、もっと複雑なのである。フランスの政治機軸は政権が変わっても、社民主義なのである。政治選択肢は、社民機軸で、右寄りか左寄りかということなのだ。サルコジが取った複雑な選挙戦術については、『ル・モンド・ディプレマティーク』の記事に詳しい。今は、レーガン・サッチャー時代と違って、新自由主義がそのままストレートに受け入れられる時代ではないのである。小泉後の日本もそうなりつつあるように見える。小泉時代に戻れという意見はあまりないようだ。赤木さんの主張にも、ネオ・リベ批判と同時にネオ・リベ的な思想も混じっており、しかし社民思想がよいとしているところからすると、イギリス労働党のような「第三の道」に近いことを考えているのかもしれない。9条改憲、米軍基地撤去という主張で、民主党内の自立派に近いような意見を持っているようだ。

 私は赤木さんの「希望は戦争」なる主張を肯定するものではない。赤木さん自身も、自分は死にたくないし、自分をいじめる人でもその死は望まないという。であれば、反戦となるはずなのだが、そうならず、戦争では自分と同じように皆が苦しむ平等があるので、それが希望なのだというのである。今の延長だと、この格差構造が続き、夢も希望もない不平等社会の下層で、生存すら危ういような絶望的な人生が待っているだけなので、そう思わずにいられないというのだ。しかし、保守派にも、9条改憲反対派がけっこういて、国民新党も弱者のための政治を求め、改憲に消極的で、戦術とはいえ、社民党・民主党とも連携しているのである。それは、アメリカに遠慮しているわけではなく、国民の命を粗末にするようなことはナショナリズムに反するという考えからである。新右翼もそういう考えから、イラクへの自衛隊派遣に反対したのである。大事な「同胞」の命を簡単に失わせるわけにはいかないと考えたのである。イラクのフセイン大統領は、親日的であったので、なおさら、イラク戦争に反対したのである。それと、アメリカの核の庇護なしに、日本の安全保障はないとして、日米安保強化のために、アメリカのやる戦争を支持し、自衛隊を差し出さなければならないと考えた小泉元首相などとは違うのである。

 それに対して反戦一般や暴力反対一般を対置するだけでは、赤木さんのような人を、向こう側に追いやるだけだろう。彼が置かれている格差構造の打破ということをそれらと結びつけることが必要である。派遣業法廃案、アメリカで行われたような最低賃金の引き上げ、中小企業への雇用補助金、産業の都市集中の解消・全国的な再配置、財源としての法人税引き上げ・累進課税の強化、同一価値労働同一賃金、等々。また、個人加盟の地域労組の形態での派遣などの不安定雇用層の労働運動の全国的組織化の推進、それをナショナルセンターが支援することである。アメリカ労働総同盟(AFLーCIO)は、社会的労働運動で労組組織率を引き上げようとしたスウィーニー執行部の路線に対して、増加し続けている移民労働者を積極的に組織化しようとした一部労組の批判が強まり、分裂し、その政治的反響として、アメリカ労働党を生みだした。移民労働者は、数百万人の移民法改悪反対闘争に参加し、さらには、今年のメーデーにも大勢が参加した。ブッシュ政権が提出した移民法は、議会で否決され、成立の見通しが立っていない。

 左翼は、赤木さんの主張に対して、一般原則のようなものを対置して批判するというのではなく、具体的に答えていくこと、そして彼の置かれている環境や条件を理解することで答えていかないと、似たような境涯に置かれている下層の若者の労働者をナショナリズムの側に追いやり、放置するだけになってしまうのではないだろうか。それは未来ということを考えると、望ましくないことだと思う。

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「希望は戦争」についての雑感(2)

 赤木さんは、同じ日本人なんだから困窮している若者を救えという意味で、ナショナリズムを利用すると言う。

 しかし、右派は、自己責任論で、かれらを救おうとはしない。左右にかかわらず、かれらを救おうとしなかったのであり、したがって、赤木さんは、どちらにも怒りがあるという。

 それに対する批判は、いろいろある。その中には、責任主体論からするものがあって、批判する以上は、自らの責任主体としての在り方をしっかりしなければならない、つまり、国や左翼・右翼に頼るのではなく、自ら自己の主張と要求を実現するために、声をあげ、運動を起こせと言うのである。それはそれで正論ではあるが、それを実現するためには具体的条件の問題がある。運動は、もちろん、自然発生するが、それが明確な形へと発展するには、意識性が必要なのである。この間生まれている若者の労働運動は、既存労組の支援、それからイラク反戦運動の中で意識が育っている若者活動家の組織化の努力と活動があった。その成果が表れたのは、ここ数年の話である。もちろん下層の問題には、寄せ場労働運動・野宿者運動などがずっと取り組んできている。

 問題は、そうした少数派の運動が存在することすら知らず、こうした運動と連絡を取ることもなく、関係することもなく、新自由主義的な自己責任論の言説の洪水の中で、職場や周囲から責め立てられ追いつめられた生活状態の中で、ナショナリズムだけが希望の光と映ってしまっていたということである。そのことに既成左翼や左翼知識人があまりにも鈍感だったのは確かであろう。

 雨宮さんの場合は、鈴木邦男という最近、左傾化した変わり種の右翼人士とのつきあいなどもあり、さらには、アナーキズム系のイラク反戦などの若者の活動家が、この間、不安定雇用層=プレカリアートの運動として、労働運動を起こしているのを知り、また具体的に関わっていることもあり、赤木さんほど左翼への批判意識は大きくない。おそらく、赤木さんも、こうした若者労働運動を知り、交流すれば、考えも変わることだろう。

 赤木さんは、戦争は、破壊と流動である。つまり、現在の正社員・非正社員・パート・アルバイト・フリーター・派遣・臨時・失業者・野宿者という階層秩序の構造全体を流動化することである。それに対して新自由主義は、破壊なき流動であるという。正確に言えば、破壊という言説を振りかざす流動化である。それは、既存の利権構造の再配分であり、そのために、ルールを作り直すということである。

 右も左も信用しない自称左翼の赤木さんは、雇用流動化を訴えているわけだが、それに対して、小林よしのりは、中小企業的職人主義的な家族主義的温情主義的な形態を理想化することで答えている。若者の長期雇用は、マンガ制作のような職人仕事では、必要不可欠なものであり、アパートを借りてやったり、積み立てをしてやったりと世話役をこなしつつ、生活の面倒を見て、長期的な手作業の技能の蓄積を図っていかなければならない。この場合、給料の高さというよりも、仕事への愛着やプライドが仕事の動機となる。もう一つの答えは、能力主義の徹底による流動化である。これにより、能力・成果が唯一の雇用・評価・給与の基準となるために、年齢に関わりなく、待遇が決まる。この場合は、正社員より高い給与をもらうパート・アルバイトというのもありうることになる。個人間の給与格差は、能力の差の反映にすぎなくなるというわけだ。この場合には、企業間の垣根を超えた雇用の流動化が前提条件である。能力の高い労働者は、他社から引き抜かれることもあるわけで、実際、ライバル会社に能力の高い労働者が取られてしまうということがある。こういう人たちの労働市場は、それ以外の労働者とは別のレベルでつくられることになる。これは赤木さんが言うように、破壊なき流動化にすぎない。つまり、労働階層は維持され破壊されないということである。

 赤木さんは破壊と流動化を望んでいる。既存の平和を守ることは、現在の自らの境遇・生活、それを再生産する構造を固定化し保守することになる。だから破壊だというのは、全共闘の論理に似ている。しかし、全共闘は、自己否定、自己を一部とするところの現体制の秩序の破壊ということを言ったのであって、赤木さんのように、現存システムの中心部から排除され疎外されている被害者として言っているわけではない。赤木さんの人生の目的は、家族を持って普通に暮らしていくことである。それに必要なだけの収入が欲しいというのである。全共闘なら、帝国主義国家での「普通の市民」としての在り方は、第三世界の犠牲の上に成り立っているにすぎないと言うところだ。

 赤木さんは、戦後初めて社会に本当の意味で対抗しようとしている世代で、全共闘世代の戦後民主資本主義への異議申し立ては、一時的な遊びとして流行っただけだと言う。雨宮さんは、世代的に、食えない中で、社会や政治について考えざるを得なくなったのだという。雨宮さんは、プロレタリア文学に関心を持ち、プレカリアート層は文化に関心が高いということも言っている。

   赤木さんは、戦争は希望するが、革命は希望しないと言う。その理由は、法違反を勧めることになるからだという。それに対して、雨宮さんは、「希望は革命」と言っている。革命は、過去との切断であり、破壊であり、流動化であり、創造である。もちろん、日本では、内乱罪もあれば、破壊活動防止法もあり、革命を違法としている。とはいえそれは、明治維新が、暴力革命であり、徳川幕藩体制から違法とされる行為で成立した明治政府は、違法行為によって誕生した革命政権であって、成立後に、実力による政府転覆を非合法としただけのことである。フランスのように人民の革命権を容認している国もある。もちろんこの権利行使は、極めて高いリスクを伴うものだ。

 赤木さんの「戦争は希望」は、破壊と流動化、自己の生活の改善・向上、生存権の保証、等々のメタファーである。

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「希望は戦争」についての雑感(1)

 『論座』1月号に掲載された31歳フリーターの赤木智弘というブロガー『希望は戦争 丸山真男をひっぱたきたい』という論文が話題になっている。

 全文を読んだわけではないが、抜粋や赤木氏のブログを見ると、この趣旨は、バブル崩壊後の就職氷河期に就職期を迎えた団塊ジュニア世代が、フリーター、不安定雇用、派遣労働などに就かざるをえず、近く景気回復するという政府のアナウンスが繰り返されたにもかかわらず、いっこうに景気が良くならない中で、長期間、フリーターから脱出できないでいるので、戦争で兵士になれば、政府が雇用・所得を保障してくれるので、自分にとっては「希望は戦争」だということである。

 さらに赤木氏は、自らは左翼であると自覚しているが、既存左翼(正社員労組など)は、自分たちを見下しつつ現場でこき使う存在であり、また、自分たちの境遇を改善するためになにもしてくれなかったことを批判する。それに対して、大金持ちや富裕層は、直接関係することもない遠い存在なので、批判すら思い浮かばないという。

 90年代、バブル崩壊後の長期不況の時代に、経済状況は、基本的に下降線を描きつつ、停滞していたわけだが、企業はリストラに走り、「連合」は、正社員の労組員の雇用を守ることを最大の課題にしていて、その外にあるフリーター・パート・アルバイト・臨時・派遣などの労働者対策を取り上げてこなかった。雇用形態がこのような構成に変化することを「連合」は想定していなかったと思う。「連合」は、ここ数年、正社員減少に伴う労組員減少の中で、ようやく、増加している非正規雇用労働者の組織化に乗り出したにすぎない。いわゆる、「連合」は、高度経済成長時代の型のままだった。いわゆる高度経済成長の蓄積様式は、フォード・システムと呼ばれるが、正社員の終身雇用・年功序列という型を前提としていた。それに対して、新自由主義型の蓄積様式においては、雇用流動化、能力主義などに、成果主義賃金、などになっているのである。

 1990年代後期、95年1月17日の「阪神大震災」、3月の地下鉄サリン事件、金融危機、アジア通貨危機、等々と続くわけである。それに対して、フォード主義型の対応策は、有効ではないとして、新自由主義への転換が急速に進められる。

 この時期、右派は、フォード主義の責任を、55年体制、社民党などの左派になすりつけ、その清算、断絶が、右派から強調された。それは、レーガン、サッチャーから学んだものであったが、自社さ政権の村山首相の「阪神大震災」への対応の遅れの責任追及、対米関係のぎくしゃくなどの批判を通じて、浸透させられていったのである。そして、自由主義史観研究会などによる「新しい歴史教科書をつくる会」の右派運動が起きる。とくに、オウム真理教との対決を通じて、公的なものが希薄化していることに危機感を抱いた小林よしのりの言説は、青年会議所の中小経営者を中心に支持が広がり、若者の間にも一定の影響を広げた。

 1990年代、アメリカで民主党クリントン政権、そしてイギリス労働党は、新自由主義と社民主義の折衷の「第三の道」に移行した。日本では、社会党分裂、多党化、新進党、分裂、民主党結成へと政局が混迷し、自民党も一時下野の後、連立政権の時代に入っていった。経済的社会的政治的混迷の時代にあって、パート・フリーター・臨時・派遣などの不安定雇用者の問題は、忘れ去られていて、新自由主義的な自己責任論などで切りすれてられていた。当初、この問題は、自由な時間を求める若者の自発的な選択と言われ、自己実現の形であると喧伝された。しかしそれは一部の話であり、バブル期流の古い言説であった。

 「オール・ニート・ニッポン」の「フリーターの希望は戦争か?」というポッドキャスト番組(クリックドットTVにある)で、雨宮処凛さんのパーソナリティ、赤木智弘さん、「フリーターズ・フリー」の杉田俊介さんの三人のトークがあり、聞いてみた。全員、1975年生まれである。90年に15歳、高卒卒業が、93年。短大卒が、95年。4大卒は、97年。

 生まれた頃は、オイルショック、日本列島改造ブームとその崩壊、革新自治体の誕生、インフレであり、十代の頃はバブルの真っ最中である。高校生の間に、バブル崩壊、以後長期不況に入る。1995年、二十歳の時に、阪神大震災と地下鉄サリン事件が起きた。その後、アジア通貨危機、金融危機、山一証券の経営破綻、長期信用銀行・北海道拓殖銀行などの金融機関の破綻、不良債権問題深刻化、リストラ本格化、就職氷河期、財政危機、派遣業法改悪。2000年、25歳の時、9・11事件。アフガニスタン侵略戦争、イラク侵略戦争。

 この中で、赤木さんは、ナショナリズムはあくまでも手段であって、それを信じ込んでいるわけではないと言っている。実際、右派は、不安定雇用者問題に真剣に取り組むことも取り上げることもなかった。自民党は、派遣業法改悪によって、不安定雇用層を大幅に拡大した。右派は、イデオロギーや道徳問題ばかりを取り上げた。それに対して、赤木さんは、平等を強く訴える。そして、戦争においては、全般的平等が実現されるであろうから、「希望は戦争」だと言うのである。現実の戦争は、もちろん、不平等なものであり、差別的なものである。それはそうなのだが、赤木さんが指摘する問題は、そういうことを言わざるをえないところに彼を追い込んでいる現実に対して、解決策を示さない既存左翼の問題である。もちろん、社共は、派遣業法改悪に反対したりしたが、議会では勝てなかったのである。

 そして、赤木さんのいるところの具体的な環境がある。彼は、栃木県でアルバイト生活をしているわけだが、栃木県は、自民党が圧倒的に強い保守王国であり、しかも、この間の都市と地方の格差拡大、地方切り捨ての中で、とくに経済環境が厳しい地方である。都市部では、労働力不足が問題になり、パート・アルバイトなどの時給が上がりつつある。だが、構造的に、都市と地方の格差は、固定化し、拡大しているのである。

 雨宮さんは、90年代後期の就職氷河期に、学校で教えられた「がんばればなんとかなる」ということが、通用せず、フリーター化する他ない中で、自由主義史観派の戦後教育批判がすっと入ってしまったという。つまり、右派の台頭の要因は、90年代のバブル崩壊後の長期不況の中で犠牲を強いられた若者の怒りと不満のはけ口になったということだ。この時期、左翼世界では、ソ連東欧体制崩壊後の反省の時代であって、代行主義批判だとか代表制批判とか、左翼言説の抑圧性批判とか、そんなことが左翼系知識人の間で強調されていた。それに対して、雨宮さんと赤木さんは、どうして自分たちの思いや要求を代表し、代弁して、状態を改善してくれなかったのかと左翼を批判する。

 これは、強烈な左翼知識人へのパンチである。彼らの言説は、赤木さんら、「ワーキング・プア」に追い込められた若者たちには、冷淡にしか見えなかったのである。丸山真男批判は、そういう左翼知識人批判の象徴である。左翼が、自分たちにとって何の役にも立たず、あれこれと内輪向けの談義にふけり、抽象的平和論を振り回しているのに彼は苛立っている。それに対して、彼のように、底辺に落とされ、希望のない不安定雇用、「ワーキング・プア」状態から抜け出せない中で、ルサンチマン(怨念)を抱きつつ、鬱々としている人々に目を向けなかった。赤木さんはブログで、ニーチェを引いて、そのことを指摘する。ただ、ニーチェは、元々は、当時のドイツのアカデミズムの超エリートであった。その後、そこから転落していき、強烈にドイツ・アカデミズムを批判するようになったのである。

 佐高まこと氏は、赤木論文に対して、イラクに行って戦争を体験して見ろ、なにも持っていなくても命はある、若者のゲーム感覚、等々と批判した。それを雨宮さんと赤木さんは批判する。うーん、佐高氏がこんなことを言うのは、やはり問題だ。これでは、憲法9条・25条以下の状態を容認しているように見える。イラク戦争への自衛隊派遣は、9条違反で、若者が、イラクに行って、戦争に参加することはあってはならないことだし、「文化的で健康的な最低限の生活」を保証している25条以下の生活の人があってはならないわけで、護憲派たる佐高氏がそれを言ってはならないことである。

 他方で、雨宮さんは、自分が右翼に行ったのは、フリーター化せざるを得ない状態に追いつめられた現実に対して、生き方の不安にあって、それをナショナリズムで誤魔化したという。すると、若者の右傾化と言われた現象は、一つには、若者の現実とその要求を取り上げず、冷淡だった左翼への反発ということがあった。そして、かれらは、ナショナリズムが持つ「国民」平等幻想、「国民」一体化幻想に入ることで、自分たちの状態を夢の中で解放されると思ったということらしい。したがって、それは、既存の右翼と違うし、むしろ、小林よしのりらは、こうした若者たちが自己主張するために利用されただけだったということになる。

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『読売』さん。米国に「原爆投下」の謝罪を求めるのは人権外交の安部政権としては当然じゃありませんか

 久間防衛大臣が、原爆投下「しょうがない」発言の責任を取って、7月3日辞任した。

 久間大臣は、自分の発言で与党の選挙に不利になったので、辞任は「しょうがない」という感じで、辞任した。

 『読売』は、「原爆投下」論議が冷静さを欠いていたと批判的なコメントを述べている。

 『読売』は、アメリカが日本への原爆投下を決断した理由を、久間元大臣と同じく、ヤルタ会談でソ連の対日参戦が合意される中で、「当時、ソ連に対して不信感を募らせていた米国は、ソ連の参戦前に早期に戦争を終わらせたいと考えていた」と書いている。

 これもアメリカが「原爆投下」を決断した一因であろうが、他にも、早い段階から、対ナチス戦での原爆使用から、対日戦での使用に切り替えていたという説もあり、さらに、実際に使ってみて威力を試そうという実験の意図もあったと思われる。いずれにしても、このような無差別大量破壊兵器の使用は、人道上の罪にあたる。

 『読売』は、「そもそも、原爆投下という悲劇を招いた大きな要因は、日本の政治指導者らの終戦工作の失敗にある。仮想敵ソ連に和平仲介を頼む愚策をとって、対ソ交渉に時間を空費し、原爆投下とソ連参戦を招いてしまったのである」として、原爆投下を招いた責任を、当時の大日本帝国の政治指導者らの終戦工作の失敗に求めている。この点は、自由主義史観研究会などの右翼歴史修正主義者たちとは違っている。

 当時の政治指導者らの終戦工作の失敗の原因は、国体護持を最優先したことにあった。その保証を求めたのである。もっと言えば、自分たちの責任追及を免れる方法を探り、身の安全の担保を探していたからである。だから、対米講和で動いた近衛文麿は、戦後、自らが戦犯として訴追されることを知って、驚いて、自殺してしまったのである。自分は連合軍によって安全を保証されていると思いこんでいたのである。だから、ソ連に仲介を頼んだのが主戦が遅れた原因だというのは、結果論であって、むしろ、自分たちの安全が保証されるかどうかをぎりぎりまで見極めようとして、終戦工作を遅らせた政治指導部の責任が問われねばならないのである。

 『読売』は、今度は、「野党側は、「米国の主張を代弁するものだ」「『しょうがない』ではすまない」などと感情的な言葉で久間氏の発言を非難するばかりで、冷静に事実に即した議論をしようとしなかった」と野党を非難する。愛国主義者を公言してはばからない『読売』が、長崎・広島の「同胞」への思いに触れもせず、代弁しようともせず、「冷静に」とは何事だろうか? 

 『読売』が気に入らないのは、「民主党の小沢代表が、安倍首相との先の党首討論で、原爆を投下したことについて、米国に謝罪を要求するよう迫ったこと」である。人道上の大罪を犯したアメリカに対して、その謝罪を要求するのは当然である。アメリカでは、慰安婦問題で、日本政府に公式の謝罪を求める決議が下院特別委員会で採択されたばかりではないか! 安部政権の外交の基本の一つは、人権である。自ら人権の旗を掲げておきながら、アメリカの原爆投下だけは例外だいうのでは、人権外交の旗に泥を塗るものというものだ。

 『読売』が心配しているのは、謝罪要求によって、「首相は、核武装化を進め、日本の安全を脅かす北朝鮮に「核兵器を使わせないために、米国の核抑止力を必要としている現実もある」として反論した」ことに示されている対北朝鮮の核使用へのアメリカの核抑止力が弱りはしないかということだ。

 『読売』いわく。「当然のことだ。日本の厳しい安全保障環境を無視した小沢代表の不見識な主張は、政権担当能力を疑わせるだけだ」という。『読売』がこの間、「日本の厳しい安全保障環境」という絵をもっともらしく描き続け、人々をミスリードしようとしてきたことは、当ブログで再三指摘した。現在、北朝鮮はIAEAの核査察調査団を受け入れて、調査がすみ、いよいよ核開発施設の封印に向けた動きが本格化しようとしている。北朝鮮政府は、従来の主張どおり、米朝二国間協議において、大きな国際問題の解決の道を進もうとしている。アメリカの核抑止力によって、北朝鮮の核使用が止められているわけではなく、アメリカが、限定的核使用を何度も口にしながらも、核使用できないように歯止めをかけているのは、外交的国際的世論の力である。近代国家は、常に他国との関係において存在するのであり、相互規定されつつ、存在しているのであって、単独で立っているのではないのである。

 金正日政権は、拉致問題の存在を公式に世界に向かって認め、謝罪し、一部被害者を公然化して日本に返した以上、当面は、同じ問題を繰り返しにくい。今度、拉致事件を起こせば、世界的孤立がますます強まることは自明の理である。長距離弾道ミサイル開発は、実験が失敗したことで、当面、技術的に困難な状態にある。資金面でも、高度技術の開発はすぐには進みにくい。核開発については、上述のとおりの状態で、これも短期的には大きな脅威となる可能性は低い。『読売』は、これらの現実を無視して、ひたすら「日本の厳しい安全保障環境」を強調し、与党の対米従属路線を支えようとしている。

 国の責任は、いたずらに「日本の厳しい安全保障環境」を強調し、不安をあおり立てて、人々の「冷静さ」を失わせることでは果たされない。アメリカは、「原爆投下」という人道の罪を自覚し、謝罪するべきであり、それを日本の政治家たる者は、堂々と求めるべきだ。北朝鮮の安全保障上の脅威が多少減少し、米朝二国間交渉がある程度機能しつつあり、米朝国交交渉にアメリカ政府がやや積極的になりつつある今は、いい機会である。アメリカは、日本に対して、慰安婦決議などで自由にものを言っているのに、日本はアメリカに自由にものを言えないのでは、それこそ、対等な関係とは言えないだろう。

 自分が冷静さを欠いているというのに、他者の冷静さを問題にする『読売』は一体なんなんだろう? やっぱり、『読売』は、物事がまったく見えていないんだなという社説である。

 

防衛相辞任 冷静さを欠いた「原爆投下」論議(7月4日付・読売社説)

 久間防衛相が、米国の原爆投下をめぐる発言による混乱の責任をとって辞任した。先の講演で、「あれで戦争が終わった、という頭の整理で今しょうがないなと思っている」などと述べていた。「しょうがない」とは、全く軽率な表現である。

 参院選を目前にして、野党側は、その表現のみをとらえ、安倍政権批判の格好の材料として罷免を求めた。与党も、選挙への悪影響を懸念して浮足立った。混乱したあげくの辞任劇である。

 久間氏は、日本政府のイラク戦争支持は「公式に言ったわけではない」と語るなど失言を重ねていた。このような言動を繰り返しては辞任もやむをえまい。

 久間氏は講演で、米国は、「日本も降参するだろうし、ソ連の参戦を止めることができる」として原爆を投下したとの見方を示した。これは、誤りではない。当時、ソ連に対して不信感を募らせていた米国は、ソ連の参戦前に早期に戦争を終わらせたいと考えていた。

 同時に、久間氏は、「勝ちいくさとわかっている時に、原爆まで使う必要があったのかという思いが今でもしている」と付言していた。

 米政権内部でも、敗色濃い日本への原爆投下については、アイゼンハワー元帥(のちの米大統領)が反対するなど慎重論は強かった。久間氏は、米国が非人道的兵器の原爆を使用したことに疑義も呈していたのである。

 そもそも、原爆投下という悲劇を招いた大きな要因は、日本の政治指導者らの終戦工作の失敗にある。仮想敵ソ連に和平仲介を頼む愚策をとって、対ソ交渉に時間を空費し、原爆投下とソ連参戦を招いてしまったのである。

 しかし、野党側は、「米国の主張を代弁するものだ」「『しょうがない』ではすまない」などと感情的な言葉で久間氏の発言を非難するばかりで、冷静に事実に即した議論をしようとしなかった。

 疑問なのは、民主党の小沢代表が、安倍首相との先の党首討論で、原爆を投下したことについて、米国に謝罪を要求するよう迫ったことだ。

 首相は、核武装化を進め、日本の安全を脅かす北朝鮮に「核兵器を使わせないために、米国の核抑止力を必要としている現実もある」として反論した。

 当然のことだ。日本の厳しい安全保障環境を無視した小沢代表の不見識な主張は、政権担当能力を疑わせるだけだ。

 久間氏の後任には、首相補佐官の小池百合子氏が就任する。国防をはじめ、国の責任を全うするためにも、安倍政権はタガを締め直さねばならない。

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7月2日の雑感

 軽いぎっくり腰で、大変だったが、元整体師の人が勧める体操をやったら、ずいぶん楽になった。

 それにしても、そのわずか数日の間にも、いろんなことがあった。

 参議院選挙が近いというのに、久間防衛大臣が、講演の中で、アメリカによる広島・長崎に対する原爆投下は、「しょうがない」と発言して、与党内からも批判を浴びた。彼の理屈では、原爆投下によって、ソ連の北海道侵略を防ぐことができ、早期終戦できたので、犠牲者が少なくてすんだことになるらしい。

 アメリカ政府は、原爆投下について、米軍犠牲者を最小限にするためであったと主張して、未だに、謝罪もしないで、この行為を正当化している。

 久間防衛大臣は、日本の一部でもソ連に占領されていたら大変だったということを言いたかったのであろう。

 しかし、元々、アメリカの原爆開発は、対ナチス戦での使用を目的に開発されたもので、対日戦に使用する計画は当初はなかった。ナチスドイツが、敗北する中で、残った日本に対して、原爆を使用することを決断したのは、トルーマン大統領である。それを知ったアインシュタインなどの一部の原爆開発計画への参加者が、反対し、抗議した。

 沖縄戦での猛烈な反撃であるとか、特攻攻撃や硫黄島の殲滅戦のすさまじさであるとかの体験から、もし、本土上陸戦になった場合には、米兵の犠牲者が大勢出るだろうとアメリカ政府は考えたのである。しかし、実際には、そもそも日本政府内部では、対米戦争に消極的だった勢力がいて、戦況が不利になっていくにしたがって、停戦への動きが本格化していた。そして、その意向は、連合国側にも伝わっていたのである。もちろん、それは、ぐずぐずしたもので、国体護持を前提とするものであった。沖縄は、本土決戦の時間稼ぎのための捨石にされたのであるが、それでも、政府中枢の講和への動きは、鈍かった。しかし、政府も敗戦を前提にした戦後体制問題を議論し始めていたのである。

 それにも関わらず、アメリカ政府は、一つには、久間大臣が言うとおりソ連に先駆けるため、二つには、原爆の実証実験をしたかったため、長崎と広島への原爆投下を決定したのである。すでに、日本本土には、アメリカ軍とまともに戦える武器も資源もなく、民間人のゲリラ的闘いぐらいしかできなかったのである。それでどれだけの米兵の犠牲が出るのかわからないが、原爆を落として、一般人を大量虐殺するほどではないだろう。 核廃絶を掲げている政府の防衛大臣として、許される発言ではないことは明白である。

 田原総一郎という男は、本当にどうしようもない。『朝まで生テレビ』での発言では、年金記録漏れ問題について、厚生労働省の上級官僚に聞いて、問題を理解しようとしたらしい。とにかく、年金を払った人が全部払った分に応じた給付が確実になればいいのだと言うのである。安部総理は、就任当初、年金問題も、とにかく経済成長さえすれば解決すると言っていたことを忘れているようだ。今国会で、強行採決された年金改革法なるものは、社保庁を解体して非公務員化によって民間の手法で年金を徴収すれば、未納率があがって、年金財政が良くなるという非現実的なものなのである。

 年金問題を理解するには、社保庁に年金記録の問い合わせに殺到している人の意見を聞かないといけないのである。それは、この人たちの人生の問題だからである。官僚からすれば、年金は、税金と似たようなもので、しかも、先に使って、後で支払えばいいものだと、どんどん自分たちの利益のために使ってしまったものなのである。民間ならいいというものでもないことは、生保の保険金不払い問題が明らかになったことで明らかである。

 結局のところ、この国の官僚も与党も年金を頼りに老後の生活設計をしてきた人々のことなど考えてもいないし、ただの金ずるや票田としか見てこなかったわけである。そのことに対する人々の怒りと不満の大きさをぜんぜん見えていないのである。田原総一郎もそうした支配者たちの一員として、価値観を共有していて、それに対する距離感や批判意識を失ってしまっているのである。それは言うまでもなく、ジャーナリズムの使命の喪失である。支配者の代弁は、ジャーナリズムではないのである。

 年金問題は、制度としては極めて簡単な仕組みである。政府が、徴収した金を預かって、それを投資して、将来に支払うというだけのことだ。仕事は、年金を徴収することと投資することと支払うこととそれらを記帳することだ。複雑なのは、年金に複数の種類があって、それぞれ制度設計が違っているということである。しかし、それでも、仕事自体は、投資判断を除けば、それほど難しくはない。投資判断についても、投機的な投資は禁止されているのだから、それほどでもないのであるが。

 政府の年金対策が対策になっていないことは、人々の多くが見抜いていて、政府自民党を信用していない。それに対する民主党の対案についても、人々の多くが信用していないのであり、人々の求める対策案がどこからも出ていないのである。これでは二大政党制というのは、ひとつも人々にとっていい政治制度ではない。それなら、年金党みたいなシングルイシューでの政党という多様な選択肢があったほうがいい。

 田原は完全に人々をなめてかかっていて、それが不愉快だから、なんとか参議院選挙で、彼があっというような結果を出して、政府自民党・官僚と一緒に落としてしまいたいものだ。

 最近は、「ワーキング・プア」の人の一部から、このままの状態から脱出できないなら、戦争でも起きて、それに兵士として参加して死んだ方がましだということを言う人がいる。バブル崩壊後、90年代以来、進んできたこうした「ワーキング・プア」の人たちは、存在しながら、社会から無視されてきた人たちで、絶望感が深いのかもしれない。田原は、こうした問題にも対して関心がないらしい。それに対して、一応、関心を向けている小林よしのりは、何でもナショナリズムで解決するというナショナリズム万能論、あるいはナショナリズム還元主義になっている。彼は、中小企業主義であり、宮台慎司も、マックス・ウェーバー主義者で、同じ立場であることがわかった。これでは、「ワーキング・プア」を理解することも問題解決をすることもできない。ただ、小林は、映画「フーテンの寅さん」のタコ社長の立場はわかるようだが、宮台はまったくわからないようだ。それでよく、左右を批判するなどということが言えたものだ。寅さんは、左翼「国民」統一戦線映画なのである。

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