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「希望は戦争」についての雑感(2)

 赤木さんは、同じ日本人なんだから困窮している若者を救えという意味で、ナショナリズムを利用すると言う。

 しかし、右派は、自己責任論で、かれらを救おうとはしない。左右にかかわらず、かれらを救おうとしなかったのであり、したがって、赤木さんは、どちらにも怒りがあるという。

 それに対する批判は、いろいろある。その中には、責任主体論からするものがあって、批判する以上は、自らの責任主体としての在り方をしっかりしなければならない、つまり、国や左翼・右翼に頼るのではなく、自ら自己の主張と要求を実現するために、声をあげ、運動を起こせと言うのである。それはそれで正論ではあるが、それを実現するためには具体的条件の問題がある。運動は、もちろん、自然発生するが、それが明確な形へと発展するには、意識性が必要なのである。この間生まれている若者の労働運動は、既存労組の支援、それからイラク反戦運動の中で意識が育っている若者活動家の組織化の努力と活動があった。その成果が表れたのは、ここ数年の話である。もちろん下層の問題には、寄せ場労働運動・野宿者運動などがずっと取り組んできている。

 問題は、そうした少数派の運動が存在することすら知らず、こうした運動と連絡を取ることもなく、関係することもなく、新自由主義的な自己責任論の言説の洪水の中で、職場や周囲から責め立てられ追いつめられた生活状態の中で、ナショナリズムだけが希望の光と映ってしまっていたということである。そのことに既成左翼や左翼知識人があまりにも鈍感だったのは確かであろう。

 雨宮さんの場合は、鈴木邦男という最近、左傾化した変わり種の右翼人士とのつきあいなどもあり、さらには、アナーキズム系のイラク反戦などの若者の活動家が、この間、不安定雇用層=プレカリアートの運動として、労働運動を起こしているのを知り、また具体的に関わっていることもあり、赤木さんほど左翼への批判意識は大きくない。おそらく、赤木さんも、こうした若者労働運動を知り、交流すれば、考えも変わることだろう。

 赤木さんは、戦争は、破壊と流動である。つまり、現在の正社員・非正社員・パート・アルバイト・フリーター・派遣・臨時・失業者・野宿者という階層秩序の構造全体を流動化することである。それに対して新自由主義は、破壊なき流動であるという。正確に言えば、破壊という言説を振りかざす流動化である。それは、既存の利権構造の再配分であり、そのために、ルールを作り直すということである。

 右も左も信用しない自称左翼の赤木さんは、雇用流動化を訴えているわけだが、それに対して、小林よしのりは、中小企業的職人主義的な家族主義的温情主義的な形態を理想化することで答えている。若者の長期雇用は、マンガ制作のような職人仕事では、必要不可欠なものであり、アパートを借りてやったり、積み立てをしてやったりと世話役をこなしつつ、生活の面倒を見て、長期的な手作業の技能の蓄積を図っていかなければならない。この場合、給料の高さというよりも、仕事への愛着やプライドが仕事の動機となる。もう一つの答えは、能力主義の徹底による流動化である。これにより、能力・成果が唯一の雇用・評価・給与の基準となるために、年齢に関わりなく、待遇が決まる。この場合は、正社員より高い給与をもらうパート・アルバイトというのもありうることになる。個人間の給与格差は、能力の差の反映にすぎなくなるというわけだ。この場合には、企業間の垣根を超えた雇用の流動化が前提条件である。能力の高い労働者は、他社から引き抜かれることもあるわけで、実際、ライバル会社に能力の高い労働者が取られてしまうということがある。こういう人たちの労働市場は、それ以外の労働者とは別のレベルでつくられることになる。これは赤木さんが言うように、破壊なき流動化にすぎない。つまり、労働階層は維持され破壊されないということである。

 赤木さんは破壊と流動化を望んでいる。既存の平和を守ることは、現在の自らの境遇・生活、それを再生産する構造を固定化し保守することになる。だから破壊だというのは、全共闘の論理に似ている。しかし、全共闘は、自己否定、自己を一部とするところの現体制の秩序の破壊ということを言ったのであって、赤木さんのように、現存システムの中心部から排除され疎外されている被害者として言っているわけではない。赤木さんの人生の目的は、家族を持って普通に暮らしていくことである。それに必要なだけの収入が欲しいというのである。全共闘なら、帝国主義国家での「普通の市民」としての在り方は、第三世界の犠牲の上に成り立っているにすぎないと言うところだ。

 赤木さんは、戦後初めて社会に本当の意味で対抗しようとしている世代で、全共闘世代の戦後民主資本主義への異議申し立ては、一時的な遊びとして流行っただけだと言う。雨宮さんは、世代的に、食えない中で、社会や政治について考えざるを得なくなったのだという。雨宮さんは、プロレタリア文学に関心を持ち、プレカリアート層は文化に関心が高いということも言っている。

   赤木さんは、戦争は希望するが、革命は希望しないと言う。その理由は、法違反を勧めることになるからだという。それに対して、雨宮さんは、「希望は革命」と言っている。革命は、過去との切断であり、破壊であり、流動化であり、創造である。もちろん、日本では、内乱罪もあれば、破壊活動防止法もあり、革命を違法としている。とはいえそれは、明治維新が、暴力革命であり、徳川幕藩体制から違法とされる行為で成立した明治政府は、違法行為によって誕生した革命政権であって、成立後に、実力による政府転覆を非合法としただけのことである。フランスのように人民の革命権を容認している国もある。もちろんこの権利行使は、極めて高いリスクを伴うものだ。

 赤木さんの「戦争は希望」は、破壊と流動化、自己の生活の改善・向上、生存権の保証、等々のメタファーである。

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