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山崎行太郎氏の「保守おばさん」批判に賛成

 保守派を自称する文芸評論家山崎行太郎氏がなかなかいいことを書いている。

 私は、氏の保守政治思想を批判する左翼を自負する者だが、山崎氏の曾野綾子についての見方には同感だ。

 山崎氏は、保守論断を跋扈する権力や利権大好きな「保守おばさん」たちがいると言う。氏は、櫻井よし子、曾野綾子、上坂冬子、さかもと未明の名をあげる。そして、氏は、彼女らの言うことが、「あまりにも幼稚で、くだらないので、顔を背けたくなる」という。確かに、私も彼女たちの主張を批判してきたが、正直言えば、あんまり読みたくないのである。その理由は、保守思想を語っているからというのではなく、彼女らの言説が低レベルだからである。

 氏の「安部一派や安部一派を支援する保守系文化人の思想的なレベルの低さに違和感を持つに過ぎない」という気持ちもわかる。

 曾野綾子氏が十数年前に書いたという文を氏は引用している。「素人が現政権の批判をするということほど、気楽な楽しいことはない。総理の悪口を言うということは、最も安全に自分をいい気分にさせる方法である。なぜなら、時の総理が、自分の悪口を言った相手をぶん殴りに来たり、名誉毀損で訴えたりするということはほとんどないのだから、つまりこれは全く安全な喧嘩の売り方なのである。これが相手がやくざさんだったら、とてもそうはいかないだろう。しかも相手もあろうに、総理の悪口を言えるのだから、自分も対等に偉くなったような錯覚さえ抱くことができる」。

 それに対して、山崎氏は、「曽野綾子によると、保守とは、現政権の批判はしてはいけないものらしい。現政権の奴隷となり、ひたすらゴマスリとタイコモチに終始するのが、保守文化人ということだろう」と強烈に批判している。曾野氏がここで言わんとしているのは、つまらない俗流心理学もどきであって、もっともらしく見せかけているだけの空疎な言葉の羅列にすぎない。今は、人気の高いブログなどで、知事候補など政治家の悪口を書くと、公職選挙法違反の疑いがあるだの名誉毀損で訴えるぞなどというクレームが付く時代である。

 山崎氏が尊敬するのは、「小林秀雄、田中未知太郎、福田恒存、三島由紀夫、江藤淳…。みんな、現政権にゴマスリしたり、タイコモチしたりすることが自分の役割だと思っているような奴隷文化人ではなかった」という人たちだ。

 そして、山崎氏は適格に、曾野綾子氏が、作家として終わっているという核心を突く。「僕の眼から見れば、曽野綾子は、石原慎太郎とともにすでに作家としての命脈は尽きている」。「作家といいながら、作家とは名ばかりで、もっぱら「保守おばさん」として低俗な人生論やお説教を垂れ流してばかりである。文学が枯渇するはずである」。いいことを言う。そのとおりだ。

 小林秀雄は、政治思想が違っていても、今でも読むに値する批評家であり、私も何度も読んでいる。

 氏が、「曽野はどう転んでも「三流作家のはしくれ」でしかないが、依然として大江健三郎は超一流の作家だと思っている」というのはもっともだ。大江健三郎氏の「広島ノート」にしても「沖縄ノート」にしても、文学的価値の高さは、曾野氏の作品の文学的価値を、はるかに超える高峰なのである。前に、ソルジェニーツィンの『収容所群島』の文学的価値が低いと書いたが、ドストエフスキーを読んだ上で、この作品を読むと、誰にもその文学的価値の低さは歴然としているのである。それなら、『イワン・デニーソヴィチの一日』の方がまだ文学作品として読めるのである。書かれている内容は、政治的歴史的に大いに価値あることなのだろうが、『収容所群島』は、何度読んでも、途中で、退屈で投げ出してしまう。そのうち、新潮の文庫版も書店で見かけなくなった。今では、なんらかの政治的立場から利用するために一部が引用されたりしているが、彼の作家としての資質や作品の文学的価値が論じられることはほぼない。

 「作家として政治的発言をするなら、作家らしくもっと本質的、原理的な発言をしろ、と言いたいだけである。本質的に、あるいは原理的に政治問題を考えるならば、朝日新聞批判や中国批判だけでなく、ある場合には三島由紀夫や江藤淳のように、現政権批判に至るのも当然ではないか」と山崎氏は言うが、これももっともだ。

 「保守おばさん」たちの低レベルの発言にはうんざりするし、「僕は、曽野綾子のような権力べったりの「保守おばさん」を心底、軽蔑するが、大江健三郎とは政治思想的な立場はまったく反対にもかかわらず、それでも大江健三郎の政治的、思想的な一貫性と徹底性を尊敬している。作家を名乗りたいなら、大江健三郎の爪の垢でも煎じて飲め、と言いたい。「奴隷の思想を排す」(江藤淳)である」というのも、もっともだと思う。

 その上で、反権力は権力の一部なる訳の分からない屁理屈を並べ立てて、ただ人々を惑わせただけの左の知識人の「低レベル」を嘆かずにいられない。というのは、かれらの多くは生活保守・ソフト保守に成り下がってしまい、「保守おばさん」とたいしてかわらないように見えるからである。もちろん、「保守おばさん」がいれば、「保守おじさん」もいるのであり、山崎氏は先に「保守おじさん」の福田和也を槍玉に挙げている。それとは違うが左の「保守おじさん」化しているらしい佐高まこと氏は、若者につまらない説教を垂れているようだ。

  文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』へようこそ!!!
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/
2007-07-16
■曽野綾子は、何故、権力べったりの「保守おばさん」に堕落したのか?

 ネット右翼レベルの薄っぺらな保守系文化人に混じって、最近の保守論壇を跋扈しているのは、権力や利権が大好きな「保守おばさん」たちである。たとえば、桜井よしこ、曽野綾子、上坂冬子、さかもと未明…。別に彼女たちの政治思想や議論の中身が間違っていると言いたい訳ではない。ただ、あまりにも幼稚で、くだらないので、顔を背けたくなると言いたいだけである。僕が、最近の保守論壇や保守ジャーナリズム、そしてその「保守おばさんたち」が支援する「安倍政権」に批判的なのも、彼らの思想性や党派性に批判的だからではない。ただ、単に思想的レベルが低すぎるというだけの理由からである。憲法改正も教育基本法改正も、そして「防衛庁」の「防衛省」への昇格も反対ではない。ただ、安倍一派や、安倍一派を支援する保守系文化人の思想的なレベルの低さに違和感を持つに過ぎない。つまり、安倍一派とともに憲法改正を語りたくもないし、また憲法改正を実行したくもない。僕は、安倍や安倍一派の考える憲法改正なら、やらない方がましだと思う「保守」である。ちなみに、某素人ブログによると、僕は読んだことは無かったが、曽野綾子は、十数年前に、こんなことを書いていたということである。

     素人が現政権の批判をするということほど、気楽な楽しいことはない。

     総理の悪口を言うということは、最も安全に自分をいい気分にさせる方法である。

     なぜなら、時の総理が、自分の悪口を言った相手をぶん殴りに来たり、名誉毀損で訴えたりするということはほとんどないのだから、つまりこれは全く安全な喧嘩の売り方なのである。

     これが相手がやくざさんだったら、とてもそうはいかないだろう。

     しかも相手もあろうに、総理の悪口を言えるのだから、自分も対等に偉くなったような錯覚さえ抱くことができる。

 これは、1992年3月に、曽野綾子が書いた文章らしいが、この時の「総理」は宮沢喜一だったらしい。曽野綾子によると、保守とは、現政権の批判はしてはいけないものらしい。現政権の奴隷となり、ひたすらゴマスリとタイコモチに終始するのが、保守文化人ということだろう。曽野は、偉そうに「素人は…」なんて書いているが、自分は「プロ」のつもりか。曽野は、いったい何のプロのつもりなのか。それにしても、いつから、保守文化人は、権力や体制の奴隷になったのだろうか。僕の尊敬する保守文化人は、誰一人として権力や体制の奴隷ではなかった。小林秀雄、田中未知太郎、福田恒存、三島由紀夫、江藤淳…。みんな、現政権にゴマスリしたり、タイコモチしたりすることが自分の役割だと思っているような奴隷文化人ではなかった。曽野綾子は、一応、作家ということになっている。「一応」というのは、僕の眼から見れば、曽野綾子は、石原慎太郎とともにすでに作家としての命脈は尽きていると思うからである。今、曽野綾子は、保守論壇や保守ジャーナリズムに生息する保守系文化人としては重鎮の一人であるらしい。産経新聞やそれに類する雑誌や週刊誌に、毎月、毎週、毎日、登場しない日はないと言っていい。要するに、権力や利権の周りに巣食う御用文化人の典型である。商売繁盛で結構なことだが、作家といいながら、作家とは名ばかりで、もっぱら「保守おばさん」として低俗な人生論やお説教を垂れ流してばかりである。文学が枯渇するはずである。曽野綾子と言えば、沖縄の集団自決事件を取材し、「日本軍による集団自決命令はなかった」と主張した『ある神話の背景』が知られているが、その時、曽野がターゲットにしたのは大江健三郎の『沖縄ノート』だったはずだが、僕は、その主張の中身がどうであれ、曽野綾子を尊敬する気にはなれない。曽野はどう転んでも「三流作家のはしくれ」でしかないが、依然として大江健三郎は超一流の作家だと思っている。「総理の悪口を言うな」「素人は黙っていろ」と言うような作家が、まともな作家であるはずがない。むろん、僕としては、作家は政治的発言をするべきではない、と言いたいわけではない。作家として政治的発言をするなら、作家らしくもっと本質的、原理的な発言をしろ、と言いたいだけである。本質的に、あるいは原理的に政治問題を考えるならば、朝日新聞批判や中国批判だけでなく、ある場合には三島由紀夫や江藤淳のように、現政権批判に至るのも当然ではないか。僕は、曽野綾子のような権力べったりの「保守おばさん」を心底、軽蔑するが、大江健三郎とは政治思想的な立場はまったく反対にもかかわらず、それでも大江健三郎の政治的、思想的な一貫性と徹底性を尊敬している。作家を名乗りたいなら、大江健三郎の爪の垢でも煎じて飲め、と言いたい。「奴隷の思想を排す」(江藤淳)である。ところで、少し話は変わるが、曽野は、「保守文化人」を気取りながら、靖国神社に代わる無宗教の代替追悼施設の建設に賛成らしいし、国のために命をささげた日本の軍人(特攻隊の青年たち)より、殉教したイエズス会の神父たちの方が偉い、と話すような暢気な「保守おばさん」らしいね。

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