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「希望は戦争」についての雑感(3)

 「希望は戦争」という赤木さんの主張は、様々な反響を生んでいる。

 それは、赤木さんの主張に、共感と反発の両方を生み出すような内容が含まれている証拠だろう。赤木さんの主張を聞いて感じるのは、まず、アイデンティティの不安定さというか、漂流感というかそんなものである。赤木さんのアイデンティティは、固く、極めてエゴイスティックなように聞こえるのだが、実際には、彼のアイデンティティは、他者との社会的な関係から疎外されていて、切断されている。いわば、浮遊している感じなのである。

 雨宮さんと鈴木さんは、それを彼のやさしさと受け取っているようだが、それは、そうした彼のアイデンティティが固定されていないところからくる印象なのではないだろうか。

 彼は、過去の世代からも切れているし、親からの自立を望んでいるように親とも切れているし、深夜のコンビニでのバイトで昼間寝る生活で、世間からも切れているし、ただ、ネット上の世界だけで、かろうじて、社会とつながっているというような感じである。

 彼の発言から受けるなんとも言えないふわふわとしたとらえどころのなさは、彼の生活世界の在り方からきているように思う。

 他方では、彼は、全共闘の運動を、あっさりと遊びや流行だと切り捨てる。そして、自分たちこそ、戦後総括を真にできる世代だと言う。つまりは、新新左翼だというのである。

 言われた方は、もちろん猛反発する。例えば、フリーター全般労組の摂津正氏は、赤木的言説を絶対認めてはならないと批判する。赤木さんは、運動のことも全共闘のことも知らないくせに、言葉や衣装を借りて、二番煎じ、三番煎じのようなことをさも新しいように語っているにすぎない。彼は単なる無知だと言う。

 フェミニストの伊田広行氏は、半分はわかるとしつつも、赤木の言説は、反フェミニズム的で保守的だという。あくまでも反戦だし・非暴力だという。

 伊田氏が言うことはいちいちもっともなのだが、しかし、赤木さんに向かって、感情ではなく論理的になれというのは、やはり知識人的傲慢さを感じさせるもので、暴力的と言えば暴力的である。というのは、雨宮さんが、『論座』での佐高まこと氏の赤木批判として、ゲーム世代の問題というのを指摘したことにたいして、それは差別的だし、相互理解を閉ざしてしまうもので、暴力的だと批判しているのと似たところがあるからである。物理的暴力だけではなく、論理に潜む暴力という問題を突きつけたのは、左翼自身であったし、反差別運動はそれを特に問題としてきたのではなかったか。もう少し、「半分わかる」という感情にこだわって欲しいと思う。

 人々が直感的かつ感情的に把握しているものを論理化するのは、知識人の役割というものではないだろうか? それを代行主義として批判してしまったので、それ以降は、自分は自分の問題をやり、他の人は他の人で勝手に自分で自分の問題を自立してやればいいと、自分の世界に閉じこもって、なんだかわけのわからないことに熱中し始めて、自己満足しているというのが、90年代以降の左翼系知識人の一つの在り方だったのではないだろうか? 

 それから、香山リカさんのように、今時の若者は劣化しているとか言って罵倒することはないだろうという感覚が、雨宮さんたちにはあるようだ。

 どうして左翼は、自分たちに目を向けず、自分たちの窮状を救ってくれず、利害を代表してくれず、要求を代弁してくれないで、新自由主義政治の犠牲者である自分たちが、罵倒・非難されるのは理不尽ではないかという若者たちの不満や批判を雨宮さんたちは代弁しているように思われる。

 左翼がこうした周縁化されている人たちの声を拾い代表するという機能を自ら放棄してしまったことに間違いがあったのではないだろうか。いつの間にか、左翼ことに左翼系知識人は、かれらとは無関係に自立しているかのような錯覚に陥ってしまったのではないだろうか。そう自問すらしなくなってしまったのではないだろうか。そう考えると、赤木さんの主張は、個別に見ればおかしいところはいろいろあるし、一見すると保守的に見えるし、感情的かもしれないが、それに左翼の在り方が無関係ではないことは明らかだと思う。だいいち、感性的存在としての人間を、論理側からきってすてるというのは、転倒している。

 例えば、雨宮さんは、左翼のおじさんたちは、月収10万円のフリーターを平気で、3000円の飲み会に誘うことに、かれらの想像力のなさを感じたという。バブル時代、もはや物質的な幸福の追求よりも、精神的な幸福の追求が問題だと言われた。そこに、オウム真理教に若者が入っていった理由があった。オウムの荒木元広報担当は、バブル期の京大生時代、釜ヶ崎支援運動が取り組まれていたキャンパスで、それを横目に、精神的に満たされないものを感じ、オウム真理教に惹かれていったという。

 しかし、バブル崩壊後の90年代、物質的に窮状に陥る若者が確実に増えていたのであり、それは派遣業法改悪以降、急拡大するのである。その現実に、左翼の一部はもちろん目を向けていたのであるが、赤木さんが左翼に入れている「連合」は、完全に対応が遅れたのである。

 プレカリアート、この「持たざる者」の存在は、古典的なプロレタリアート像にかなり一致する。もちろん、それは完全に一致しているわけではないが。赤木さんが自分たちこそが、戦後民主資本主義を真に総括できる主体だというのは、たんなる自惚れだと言えないこともないが、ただ、命以外に失う物を「持たざる者」という意味では、戦後革命期の戦争ですべてを失った人々以後では、一部下層を除いては、そういう存在の大量登場は初めてと言えるかもしれない。全共闘の若者たちも、多くは貧乏学生であったが、それでも就職すれば豊かな将来があった。実際、若い頃は左翼で暴れるのもエネルギーが有り余っているのだから当然だ、そのエネルギーを今度は会社や官庁のために使えと言われて就職していった全共闘の若者たちは、がむしゃらに働いて、その後のスタグフレーション、二度のオイル・ショック、円高不況などを乗り越え、ついにバブルの宴を実現し、と歯止め無く突き進んでいった。その後、かれらは、バブル崩壊から長期不況へと突入する中で、自分たちの子どもたちが、フリーター、ニート、派遣、「ワーキング・プア」化するのに直面しつつ、自らの退職、年金生活に入る中で、今度は、少子高齢化による年金不安、年金記録漏れ、等々という晩年を迎える。

 それにしても、それに対して、能力主義の徹底などを主張するどうしようもない者がいるのには、あきれてしまう。フランスの大統領選挙で、当選したサルコジは、自分は、自由主義のハイエク主義者ではなく、イタリア共産党創設者の一人であるグラムシ主義者で、グラムシの言うように思想で権力を取ると選挙期間中に主張したという。保守派が、共産主義者の思想の信奉者だなんて、不思議だ。それが、単純に、アメリカ流の新自由主義者の勝利だと日本では報道されたのだが、実際には、そんな単純なことではないし、もっと複雑なのである。フランスの政治機軸は政権が変わっても、社民主義なのである。政治選択肢は、社民機軸で、右寄りか左寄りかということなのだ。サルコジが取った複雑な選挙戦術については、『ル・モンド・ディプレマティーク』の記事に詳しい。今は、レーガン・サッチャー時代と違って、新自由主義がそのままストレートに受け入れられる時代ではないのである。小泉後の日本もそうなりつつあるように見える。小泉時代に戻れという意見はあまりないようだ。赤木さんの主張にも、ネオ・リベ批判と同時にネオ・リベ的な思想も混じっており、しかし社民思想がよいとしているところからすると、イギリス労働党のような「第三の道」に近いことを考えているのかもしれない。9条改憲、米軍基地撤去という主張で、民主党内の自立派に近いような意見を持っているようだ。

 私は赤木さんの「希望は戦争」なる主張を肯定するものではない。赤木さん自身も、自分は死にたくないし、自分をいじめる人でもその死は望まないという。であれば、反戦となるはずなのだが、そうならず、戦争では自分と同じように皆が苦しむ平等があるので、それが希望なのだというのである。今の延長だと、この格差構造が続き、夢も希望もない不平等社会の下層で、生存すら危ういような絶望的な人生が待っているだけなので、そう思わずにいられないというのだ。しかし、保守派にも、9条改憲反対派がけっこういて、国民新党も弱者のための政治を求め、改憲に消極的で、戦術とはいえ、社民党・民主党とも連携しているのである。それは、アメリカに遠慮しているわけではなく、国民の命を粗末にするようなことはナショナリズムに反するという考えからである。新右翼もそういう考えから、イラクへの自衛隊派遣に反対したのである。大事な「同胞」の命を簡単に失わせるわけにはいかないと考えたのである。イラクのフセイン大統領は、親日的であったので、なおさら、イラク戦争に反対したのである。それと、アメリカの核の庇護なしに、日本の安全保障はないとして、日米安保強化のために、アメリカのやる戦争を支持し、自衛隊を差し出さなければならないと考えた小泉元首相などとは違うのである。

 それに対して反戦一般や暴力反対一般を対置するだけでは、赤木さんのような人を、向こう側に追いやるだけだろう。彼が置かれている格差構造の打破ということをそれらと結びつけることが必要である。派遣業法廃案、アメリカで行われたような最低賃金の引き上げ、中小企業への雇用補助金、産業の都市集中の解消・全国的な再配置、財源としての法人税引き上げ・累進課税の強化、同一価値労働同一賃金、等々。また、個人加盟の地域労組の形態での派遣などの不安定雇用層の労働運動の全国的組織化の推進、それをナショナルセンターが支援することである。アメリカ労働総同盟(AFLーCIO)は、社会的労働運動で労組組織率を引き上げようとしたスウィーニー執行部の路線に対して、増加し続けている移民労働者を積極的に組織化しようとした一部労組の批判が強まり、分裂し、その政治的反響として、アメリカ労働党を生みだした。移民労働者は、数百万人の移民法改悪反対闘争に参加し、さらには、今年のメーデーにも大勢が参加した。ブッシュ政権が提出した移民法は、議会で否決され、成立の見通しが立っていない。

 左翼は、赤木さんの主張に対して、一般原則のようなものを対置して批判するというのではなく、具体的に答えていくこと、そして彼の置かれている環境や条件を理解することで答えていかないと、似たような境涯に置かれている下層の若者の労働者をナショナリズムの側に追いやり、放置するだけになってしまうのではないだろうか。それは未来ということを考えると、望ましくないことだと思う。

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