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OhmyNewsの一記事に思うこと

 以下は、市民記者の投稿記事でつくられている「OhmyNews」http://www.ohmynews.co.jp/news/20070819/14188にあった記事である。とてもいいことを言っていると思うので転載した。

 記者の長島さんは、幼い頃、酒におぼれる父親の家庭内暴力(DV)から逃れた母親に連れられて、家を出て実家に戻った。外で働く母親の代わりに祖母が彼女の面倒を見ていたが、祖母は、しつけと称するDVをふるった。

 DVの特徴は、彼女の言うとおり、「血のつながる家族からの暴力は、真っ先に、自己の喪失感を生み出す。なぜこんな仕打ちを受けなければならないのか理由さえ分からないまま、愛してもらいたいがゆえに、ひたすら自分を責め、許しを請い続けるのだ」というところにある。被害者なのに自分が悪いと自分を責めて苦しむということだ。

 そして、近代的家族制度の狭い檻の中からは、その外の大人たち、「教師や近所の大人たちの目には、「ひとりの人間としての私」ではなく、「誰々の孫・姪・娘」という姿でしか映っていなかったのだろう」というふうにしか見えない。これが近代的家族制度の姿の一面である。それ以前は、多くは、共同体があって、その一員となる子どもは、共同体の子どもであって、共同体が育てるものであった。

 それはもちろん「ひとりの人間としての私」ではなく、村の一員としての誰それである。子どもたちは、村の掟に縛られると同時に村全体で保護されてもいた。ところが、近代になると、こうした共同体は解体され、家族が社会の最低の単位となり、子どもは「誰々の孫・姪・娘」という形で、家族に帰属するものとされ、責任も家族におわされるようになる。他の家族のことに干渉することは、よくないこととされ、家族は孤立し、家族間のコミュニケーションが切断されているために、それに代わって、噂などが流通し、それに子どもたちが影響されて、「いじめ」などが起きたりもする。

   プライバシーは、一方では、私家族を外からの干渉から守るものであると同時に、外界から私家族を遮断する。その限界を示しているのが、家庭内暴力の問題である。プライバシーによって、DVの被害が見えなくなってしまって、被害者を救い出せないことがしばしば起きているのだ。

 しかし、必ずそうなるというわけではないし、個別的には、いろいろな場合がある。

 この場合は、時代的そして場所的な要因も絡んでいるように思われる。近代的私家族制度は、歴史的には進歩的であり、解放的な役割を果たしたが、すでにこの制度も長くなり、その矛盾も強まってきた。都市部では、すでに、家族の解体は、かなり進行しており、この歴史的な家族制度も大きな変革の時を迎えていると思う。

 思春期をこんな情況で過ごした彼女は、感情を喪失する。

 「感情の存在を否定され、人格を認めてもらえないまま生きるということは、心をグチャグチャに踏みつけられ、心を殺されたまま、体だけが成長するということだ」。

 「自分への愛情、他人への愛情、思いやり、喜怒哀楽という、あらゆる感情を身につけ、育むべき多感な時期を奪われた心は、憎悪と復讐の念だけに支配された。「もう誰も信じない」と決めた10歳のころから10年余り、私は泣くことが出来なくなった。見た目はどこにでもいる普通の人間だったかもしれないが、心の中は真っ暗闇だった」。

 彼女の青春期に、彼女の人格や感情を認め、肯定してくれる人がいなかったというわけである。これは、彼女が、PTSDによって、他者とのコミュニケーションが切断されたことによるものだ。感情の表出、表現、言葉・しぐさ・表情などが、死んでしまったのである。それは「どこにいても誰かの視線に怯え、安心して身を隠せる居場所がなかった」せいである。彼女の人格と感情を認めてくれる他者=誰かとの交流・友愛があれば、こうはならなかったのである。

 たぶん、雨宮処凛さんの場合も似たような心的体験があるのではないかと思う。彼女の回復の過程には、いろいろな人との出会いがあって、他者との友愛関係があったようだ。

 長島さんの解離性健忘症からの回復は、「私が生まれた時、どんな思いだった?」という父親への質問への「お前は望まれてない子だったから、嬉しくなかった」という答えの衝撃で、涙を流し、記憶が戻ったという体験から始まった。つまりは、身体的な反応から、回復が始まったということだ。言葉のやりとりは、聴覚の身体的物質的体験であって、感覚的であり、それが、身体を動かし、動かすことで、脳内で苦の元になっていたなにかを解消の方向に動かしたのだろう。

 そして、父親がプライドから自らの弱さや誤りから目を背けるために、酒に逃げたことを悟り、自分も、プライドが高い父親の娘で似ていることに気づいたという。すっと、記憶の回路が正常化し、そうして快く記憶回路が動きはじめ、良い循環を生みだしたということだろう。そうするとこれまで思い出すのも苦しかった事柄が、すっと思い出せるようになり、それをまっとうに整理・評価できるようになった。

 「私も、人格を否定され続けた体験を自分の過去として認めようとせず、いつしか自己逃避の道に逃げ込んだ。誰からも見向きもされなかった「幼い私の思い」を、自らが心の底に仕舞いこみ、存在を直視することを避け、記憶ごと葬った。形は違ったが、逃避の道を選んだことに変わりはない」と考え、「全ての体験を自分の過去として認めようと決めた。蓄積されて来た憎悪や復讐心という感情も、それらを生み出す切っ掛けとなった人々の存在も許そうと思った」という。

 これは、彼女が、苦痛を快楽としてしまう倒錯に陥っていたことを意味していると思う。そこからの脱出には、過去の人生を肯定することであり、生を肯定することであり、他者の肯定であり、友愛の感情への踏みだしである。もちろん、人格・感情を認めることも。彼女は、「自ら、憎むことを選択した」ということに気が付いたのである。要するに、彼女も父親も祖母もプライドが高すぎて、他者の人格を認められず、他者とのコミュニケーションができず、それは同時に、自分の人格や感情を自己否定することだったことに気づいたということだ。プライドを保つために、憎悪や復讐の感情が必要だったのである。もちろん、自己愛は、自らを守るために必要な感情であるが、過剰になれば、かえって自分を周囲から隔離して、自らを傷つけることになるのである。そんなふうに読める。

 最後に「これからも、心の視線の先を記事にしていこうと思う。記事の中に私はいる。記事にその都度込める何らかの私の思いに、それぞれの視点で真っ向から向き合ってくれる読者の存在は、「私の感情」を無視したり、殺したりせず、生かしてくれていることの証明だから」と言う。彼女は、他者とのコミュニケーションができるようになったわけである。

 生き生きと人生を生きていただきたい。  

「私」は記事のなかにいる
PTSDを乗り越えた自分が伝えたいこと長島 美津子(2007-08-26 23:00) 
 創刊前の準備ブログ向けに初投稿した記事は、創刊日、大炎上で迎えられた。

 ブログとはいえ、署名付きでメディアサイトなる場所に投稿することを選んだのは、自分自身だ。「掲載したのは編集部だから責任は編集部にある」と責任を全て転嫁し、雲隠れすることは容易だったろう。

 だが、逃げようという選択肢は浮かばなかった。私は25歳の秋、「あらゆる人生の苦難から、もう絶対に逃げない」と自分自身に誓ったからだ。

 「彼女は死ぬまで女であり続けた」を御読みいただき、長い間、家族愛に溢れていた家庭という風に感じた方もいたようだが、事実はそうではない。「目に写ることだけが真実ではない」と何度も発言してきた背景の紹介になるが、「子供たちの未来のために出来ること」でも触れた、私を虐待し続けたのはこの祖母だった。

 実父は精神的に弱い人で、困難にぶつかる度に責任を外に向けた。自身を省みることなどなく、年を追うごとに酒に溺れ、解消しきれない不満を麻痺させた。母は、酔った勢いで家族に暴力を振るうようになった父の元から離れ、私を連れて実家に舞い戻った。

 大人たちは母の前では笑顔で接し、陰では他人の家庭について何を語ったのだろう。子供たちはどんなに幼くても大人の行動を見ているし、話も聞いている。

 だから中学を卒業するまで、私のあだ名は、「捨て子」だった。「子供たち」を純粋・無垢といった代名詞で一括りし、彼らのいじめの世界を「悪意はないだろうが」などと無責任に語る評論家に、ときどき腹が立つ。「父なし子!」と満面の笑顔ではやし立てながら、崖の近くだろうが、屋上だろうが、どこまでも執拗に追いかけて来る彼らに、「いつか殺されるかもしれない」と怯えた。

 教師や近所の大人たちの目には、「ひとりの人間としての私」ではなく、「誰々の孫・姪・娘」という姿でしか映っていなかったのだろう。誰ひとりとして、SOSに気づかなかった。

 成長するとともに、笑い方や雰囲気が父に似てくる私を、祖母は嫌悪した。「どんなに慕っても、ご飯をお腹いっぱい食べさせて、学校に行かせてくれるのはお母さんなんだよ」と、幼い私にはどうすることも出来ないことを理由に挙げては、躾という名の暴力を振るった。

 雪が降った冬の夜、食事中の私の言動に癇癪を起こした祖母は、外灯も消した真っ暗闇の庭に、裸足のままの私を放り出した。肌に突き刺すような寒さ。この恐怖は言葉で表現しきれない。人生を振り返って、あの時ほど腹の底から泣き叫んだ記憶は他にはない。

 アカの他人からの暴力ならば、憎悪の感情で対処が可能かもしれない。だが、血のつながる家族からの暴力は、真っ先に、自己の喪失感を生み出す。なぜこんな仕打ちを受けなければならないのか理由さえ分からないまま、愛してもらいたいがゆえに、ひたすら自分を責め、許しを請い続けるのだ。

 こんな生活は高校入学のころまで続いた。学校と家庭での苦痛。板挟みの生活の中、窓ガラスや鏡に映る自分の顔を見つめ続けた。「みんなの目に映っている私は誰なんだろう」と思いながら。

 だが、登校拒否という選択も、死という選択も出来なかった。どこにいても誰かの視線に怯え、安心して身を隠せる居場所がなかった。結果的に「流れのまま生きる」ことを選択した。

 感情の存在を否定され、人格を認めてもらえないまま生きるということは、心をグチャグチャに踏みつけられ、心を殺されたまま、体だけが成長するということだ。

 自分への愛情、他人への愛情、思いやり、喜怒哀楽という、あらゆる感情を身につけ、育むべき多感な時期を奪われた心は、憎悪と復讐の念だけに支配された。「もう誰も信じない」と決めた10歳のころから10年余り、私は泣くことが出来なくなった。見た目はどこにでもいる普通の人間だったかもしれないが、心の中は真っ暗闇だった。

 22歳の夏、東京駅の駅前交差点で信号待ちをしていたとき意識を失い、数日間を病院で過ごした。担当医の勧めで精神科を受診した結果、「心因性健忘症」と診断された。今でいう、解離性健忘症である。

 【解離性健忘症とは】 PTSD(心的外傷後ストレス障害)の元となった体験自体は思い出せないが、体験と密接な関係を持つもの(音、光、風景、イメージ、匂いなど)に触れると、フラッシュバックで、恐怖感や不快感に襲われる症状。解離した記憶は完全に失われたのではなく、忘れたいという強い意識によって、思い出すことができない。

 学校と家庭の生活風景の記憶が失われた。名前や本籍地、両親の顔、上京してからの体験の記憶は残っていた。

 「日常生活を送るには問題ないと思いますが、あなたのように長期に渡る、特定の期間の特定の生活体験だけが全て失われるということは稀です。無理に思い出すのは危険です」

と医者は言った。

 「その日々を忘れたいという思いがあまりにも強かった結果、記憶が解離されたんです。心の準備が出来ていないうちに無理に思い出そうとすると、思い出した時、生きることを拒絶したくなるかもしれません」と……。

 特定のものに対する記憶とはいえ、何だか自分が欠陥品のように思えた。そんな自分を他人に見透かされないよう通院治療も拒否し、朝から晩まで仕事に没頭した。視野も広げようと、仕事だけでなく、人並みに恋愛もした。

 失われた記憶の代替に、他のたくさんの思い出を記憶に埋め込もうとしたのだろう。過去の自分を消去し、新しい自分に生まれ変わろうと必死になっていた気がする。

 そんな矢先、何年も接触のなかった実父から、電話が来るようになった。父の最後の記憶は、太陽のように暖かい笑顔だった。だが年老いた父はアルコール依存症に成り果て時折、電話の向こうで幻覚や幻聴と格闘した。症状が出ない日は妙に優しい声で、金を無心した。

 ……疲れた。

 心底から、そう思った。父の相手をすることにではなく、「人生に疲れた」という感覚。それと同時に、何か大事なものを置き去りにしたまま人生を歩んでいるような気持ちになった。父と話していた時、ふとそんな風に感じたのだ。

 「私が生まれた時、どんな思いだった?」 気づいたら、そんな質問をしていた。「お前は望まれてない子だったから、嬉しくなかった」 そう父が答えた時、心が受けた衝撃の大きさによって全て思い出した。同時に、何年ぶりかに頬を涙が伝った。涙は温かいものだということも忘れていた。

 親とは思えない発言に父を憎んだのも、つかの間。全ての記憶を取り戻した私は数日間、「人生」というものを考えた。自分の人生。父の人生。その過程でハッキリと、「あの人の娘なんだなぁ」と親子の関係を認めざるを得ない事実に気がついた。

 誰しも人はプライドを持って生まれてくる。プライドという言葉すら知らない、どんなに幼い子供時代でも、その意識はある。父はプライドが高すぎた結果、自分の弱さや欠点を認めようとしなかった。そして「酒」に逃げ、溺れ、自己逃避の世界から抜け出せないまま人生を歩み続けた。

 私も、人格を否定され続けた体験を自分の過去として認めようとせず、いつしか自己逃避の道に逃げ込んだ。誰からも見向きもされなかった「幼い私の思い」を、自らが心の底に仕舞いこみ、存在を直視することを避け、記憶ごと葬った。形は違ったが、逃避の道を選んだことに変わりはない。

 ここで逃げを選べば、同じことの繰り返しになりそうな気がした。逃げた直後は苦痛を感じずに済む。しかし、絶対にまたいつか同じこと、もしくはそれ以上の苦痛を味わうことになる。そして父のような人生は歩みたくないとも強く感じた。

 全ての体験を自分の過去として認めようと決めた。蓄積されて来た憎悪や復讐心という感情も、それらを生み出す切っ掛けとなった人々の存在も許そうと思った。

 誰かを憎み、復讐したところで失われた年月は戻らない。自分の人生の、あらゆる可能性を自らの手で葬ることになるだけ。憎悪という感情が生み出された背景には、いろんな体験があったけれど、あくまでもそれは切っ掛けであり誰かが私に、「憎め」と命令したことではない。自ら、憎むことを選択したのだ。

 そんな風に物事の見方を変えることを選んだ結果、長い期間、認めることが出来ずにいた記憶を、すんなりと受け入れることが出来た。あれから11年。いつの間にか心の健康を取り戻した36歳の私は、ここオーマイニュースで皆様と出会った。

 自分の人生は不幸だったわけじゃない。苦労が多かったわけでもない。ただ単に、「なんだこりゃ」と言いたくなるほどの、延々と続く急な上り坂が、生後間もなく待ち受けていただけ。

 自分の人生という道を歩いてくる途中、何度か息切れも起こしたが、その中で身についた価値観や視点をもとに記事を書いてきた。時に読者との意見交換も、多くの時間を要することが多々あった。

 それでも記事を書くことを止めようとは思わなかった。「反論されるかも」というネガティブな可能性に心を支配され、貴重な問題提起の思いなどを発信できる機会を自ら放棄するのは、もったいないと思ったからだ。

 これからも、心の視線の先を記事にしていこうと思う。記事の中に私はいる。記事にその都度込める何らかの私の思いに、それぞれの視点で真っ向から向き合ってくれる読者の存在は、「私の感情」を無視したり、殺したりせず、生かしてくれていることの証明だから。

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