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西部邁氏の選挙分析批判

 かつての安保全学連の闘士で共産主義者同盟員であった西部邁氏は、今ではすっかり保守思想家となってしまったが、参院選の氏の評価を『産経』「正論」に書いている。

 西部氏は、参院選の争点は、格差をもたらしたアメリカ流の「カイカク」の是非にあったが、「年金」や「政治資金」の管理問題という歴代内閣の失態の問題が表舞台の争点なって、それに隠蔽されてしまったという。

 西部氏は、「小泉改革を頂点とする平成改革は、富者と貧者、大集団と小集団そして中央と地方それぞれのあいだに(国柄から外れているという意味で、過剰な)格差を、少なくともその感覚を、国民意識にもたらした。その被格差感は「公正と安定」から程遠いのが日本国家の現況なのではないか、との疑念をこの列島の津々浦々にまで広めた」と言う。人々が求めたのは、「公正と活力」であったと氏は言う。

 氏は、安部首相を、教育基本法改正や改憲問題で、「日本の「国柄の回復」を目指したのは正しいが、日米同盟を自由と民主の価値を共有するものと主張したのは軽率だったと批判する。

 というのは、「「自由と民主」の理想は、「秩序と輿論(よろん)」の現実が国柄に拠るからには、両者の平衡としての「活力と公正」こそが実現さるべき政治的な価値・規範であり、それを日米間で共有することなどできはしない」からだというのである。これはちんぷんかんぷんだ。なんとか無理矢理解読すれば、活力というのは、経済活力のことで、それと結果の平等を公正として、両者を平衡させるのが政治の役割だということだろうか? ここで氏が言う現実が「国柄」に拠るという「国柄」とは、現行の資本主義体制という意味だろうか? 

 つまり、資本主義国という「国柄」が現実を支えているので、その「秩序」とそれを支える「世論」を保つためには、経済的活力と公正・平等のバランスを保つ政治が必要で、そうしないと自由と民主という理想は、崩壊してしまうということが言いたいことなのだろうか? 結局は、「国柄」が現実を支えているのだから、「国柄」が違う日米の間での価値観の共有はありえないということが言いたいのか?

 安部首相は、「地域の復興」をめざしているにも関わらず、集票のために「改革断行」を叫んでしまった。「カイカクは、マルクスが「自分の予言通りだ」と墓の下で大喜びするような事態に、この列島を引きずり込んでいる」。そのとおりである。今、日本の状態は、マルクスの言ったとおりになりつつある。新右翼の鈴木邦男氏まで、マルクスを勉強しなければと言い出すようになっている。現在の近代経済学は、このような現実をまったく説明もしないし、認めようとしない。現代の主流経済学は、かたくなに、成長のための改革や市場が、調和の世界を実現すると説教するばかりである。だが、「それに気づきはじめた列島人には、首相の発する改革の声もカイカクとしか聞こえない」のだ。

 人々は、占領軍が押しつけた「平和と民主」の観念的枠組みに「反動」したと西部氏は言う。氏は、こうなるのは、小沢一郎がかつては「カイカク」の旗手であり、それが、今度は生活第一を叫んだというような二枚舌が、人々に受け入れられてしまっているからだという。

 こうした二枚舌を突破するためには、明治以来140年にわたる保守思想の未熟をなくす必要があるという。だが、西部氏が言うような保守思想なるものは、世界のどこにもなく、一部思想家や政治家などの頭の中にあるにすぎない。氏が理想化するイギリスにしても、清教徒革命や名誉革命、「囲い込み」や産業革命などの「カイカク」を経ているのである。フランス革命もアメリカの独立革命も南北戦争もなしにすることはできないのである。その意味では、西部氏流の保守思想は、夢にすぎない。

 西部氏は、「国柄の回復」と「地域の復興」のためには、3つの要諦を踏まえねばならないという。

 ①「人間の認識はつねに不完全なのだから、どんな改革にも「懐疑と議論」を差し向けよ」。

 ②「社会は有機体としての「自生的秩序」を持っているのだから、社会全体への構造改革は国家の自殺行為と心得よ」。

 ③「(国柄を)保守するための(現状の)「改革」は部分的で漸進的でなければならないのだから、「革命(レボルーション)」には、古き良き価値・規範を新しき状況において「再巡(レボルーション)」させるための〈技術知〉ではなく〈実際知〉が必要と知れ」。

 ①については、懐疑主義の勧めである。どんな「改革」も疑え、西部氏自身にも懐疑の目を向けよ、西部氏の保守思想も懐疑せよ、ということになる。

 ②は、社会有機体説である。「自生的秩序」の信仰告白である。これは、決定論の一種でもある。氏は、革命的社会変革は、国家の自殺行為であるというのだが、それは、かつて明治維新から近代化の道をひた走ってきた日本の歴史を頭で否定するものではあるが、現実には社会全体の構造変革をやったわけで、今更、それを否定したところで、どうにもならない話である。

 ③は、漸進主義・改良主義の勧めである。「「革命(レボルーション)」には、古き良き価値・規範を新しき状況において「再巡(レボルーション)」させるための〈技術知〉ではなく〈実際知〉が必要と知れ」。古き良き価値・規範を新しい状況の下に再生するためには、テクニックよりも、実際的知識が必要だというのであるが、これもちんぷんかんぷんだ。これは、書いたご本人の頭の中でだけ、理解されているのであろう。西部氏の混乱は、まさに観念論者の混乱のいい例であり、やはり唯物論でないと物事は理解できないということを改めて思わせるものだ。

 古き良き価値・規範は、それが生きていた時代の社会状態を反映している。だから、それを新しい状況に持ってくれば、違った社会的意味と機能を持つようになってしまうのであり、それは、実際知なるものに頼っても変えることは難しいし、実際知は無力な説教にすぎないのでである。

 西部氏の真の保守思想の現実化という願望は、明治以来140年どころか、今後も「未熟」なものに終わるだろう。「国柄」なる観念はいつまでたっても、この世には降りてくることはないだろう。
 
 【正論】西部邁 カイカクに終止符を打て

 ■価値新たに「再巡」させる改革が必要

 ≪隠蔽された争点≫

 過ぐる参院選で自民党が大敗した真因は何か。「年金」や「政治資金」の管理問題は、安倍内閣の責というよりも(現野党のものも含めた)歴代内閣の失態ということである。それらの醜聞を選挙の争点とするのに、野党とマスコミはなぜかくも容易に成功しえたのであろうか。

 その答えは、多くの選挙民が日本国家の現状に、漠たるものとはいえ根強い不平不満を、抱きはじめているということ以外ではありえない。

 小泉改革を頂点とする平成改革は、富者と貧者、大集団と小集団そして中央と地方それぞれのあいだに(国柄から外れているという意味で、過剰な)格差を、少なくともその感覚を、国民意識にもたらした。その被格差感は「公正と安定」から程遠いのが日本国家の現況なのではないか、との疑念をこの列島の津々浦々にまで広めた。

 安倍首相は「構造改革に疑義あり、平成改革は軌道修正さるべし」と、(おそらくは)本心を表明すべきではなかったのか。そうしておいても民意に敏感なマスコミ勢力は、首相に激しくは抵抗しなかったであろう。また政治家諸氏も、マスコミ世論に追随するのを旨としているので沈黙したに違いない。

 しかし「小泉継承」の立場にいた安倍首相には、平成の構造改革に対決する気力が乏しく、準備も足りなかった。この改革がアメリカ流であることをさして(片仮名英語で)「カイカク」とよべば、カイカクの是非という真の争点は舞台裏に仕舞われて、表舞台では、あれこれの醜聞をめぐるドタバタ喜劇が盛大に演じられる仕儀となった。

 ≪心理的バックラッシュ≫

 安倍政権が(教育法や憲法などにかかわって)「国柄の回復」に努めたのは、それ自体としては、立派な業績である。しかし「日米両国は“自由と民主”の基本価値を共有する」などといった安倍発言は、いかにも軽率であった。「自由と民主」の理想は、「秩序と輿論(よろん)」の現実が国柄に拠るからには、両者の平衡としての「活力と公正」こそが実現さるべき政治的な価値・規範であり、それを日米間で共有することなどできはしない。このことを見逃すと、たとえば憲法第9条の改正も、対米追随を完成させるためのカイカクなのではないか、と疑われる。

 「地域の復興」をめざす安倍内閣の努力も、歴代内閣による「地域の破壊」に、歯止めを与えんとする企てである。しかし安倍首相は、集票のために「改革断行」と叫んでしまった。カイカクは、マルクスが「自分の予言通りだ」と墓の下で大喜びするような事態に、この列島を引きずり込んでいる。それに気づきはじめた列島人には、首相の発する改革の声もカイカクとしか聞こえないのである。

 いや、一億こぞってカイカクを支持してきた列島人は、アメリカ製の「平和と民主」の観念枠組みのなかへ、バックラッシュ(反動)しようとしている。つまり旧占領国からのあてがい扶持である平和「主義」と民主「主義」のなかで安らいで、時折にこの宗主国への不平不満を紡いでいたいというのである。必要なのは、列島人の心理における表面でのカイカク支持と裏面でのカイカク拒否という欺瞞(ぎまん)を暴くことだ。

 ≪「保守するための改革」≫

 かつて小沢一郎氏は「国民は自己責任で生活せよ、“小さな政府”へ向けてカイカクを断行せよ」と叫んでいた。その民主党代表が、今度の選挙では「生活が第一」と宣うていた。カイカクの“弊害”を減らすべく励んでいる安倍首相が、選挙となれば「カイカク断行」と叫ばざるをえなかった。こうした二枚舌の流行をこの列島から追いやるにはどうすればよいのか。

 「国柄の回復」や「地域の復興」のためには、保守思想の次のような3つの要諦をわきまえておかねばならない。

 第1に、人間の認識はつねに不完全なのだから、どんな改革にも「懐疑と議論」を差し向けよ。第2に、社会は有機体としての「自生的秩序」を持っているのだから、社会全体への構造改革は国家の自殺行為と心得よ。第3に、(国柄を)保守するための(現状の)「改革」は部分的で漸進的でなければならないのだから、「革命(レボルーション)」には、古き良き価値・規範を新しき状況において「再巡(レボルーション)」させるための〈技術知〉ではなく〈実際知〉が必要と知れ。

 平成を平穏から遠ざけた政治的混乱の一切は、近代日本の140年における保守思想の未熟に起因している。(にしべ すすむ=評論家、秀明大学学頭)

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