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2007年9月

池田氏の赤木問題への回答批判

 以下は、池田信夫氏のブログ記事である。

 これは、当ブログでも何度か取り上げてきた赤木智弘君が『論座』に書いた「『丸山真男』をひっぱたきたい」に関する議論についての氏の感想のまとめである。
 
 まず、赤木君が体験した「就職氷河期」の原因についてである。その前に、氏は、「まず「格差が拡大したのは小泉政権の市場原理主義のせいだ」という俗説は、まったく誤りである。正社員の求人は、1991年の150万人をピークとして翌年から激減し、95年には退職とプラスマイナスゼロになっている。その原因がバブル崩壊による長期不況であることは明らかだ」と言う。

 氏は、ここで、自らの信ずる学説をイデオロギー的に擁護しようとして、小泉改革批判と、「就職氷河期」の原因の問題を無理に結びつけている。小泉構造改革は、2001年の小泉政権の誕生後のことで、構造改革路線は、それ以前に始まっている。雇用問題での構造改革として、派遣業法改正が行われたのが、1999年のことであり、それまで禁止されていた製造業でも派遣が可能になるなど、派遣の範囲を26業種まで拡大したのである。
 
 赤木君が就職期だった頃は、バブル崩壊期で、それによって、バイト生活を余儀なくされたし、その後の長期不況によって、それに固定されてしまったのである。それでは、21世紀になっても彼がそこから脱出できないのはなぜだろうか? 最近は、景気回復が進んで、東京などの大都市圏では、業種によっては人手不足になっているところも出てきており、雇用環境は改善されつつあるようだが、その多くが、非正規雇用である。今問題になっているのはこういう格差である。
 
 氏は、「就職氷河期」は、長期不況が原因だから、経済成長率を引き上げて、雇用を創出すれば、問題が解決するかのごとく言う。だが、このような長期成長路線には根拠がない。やってみれば、うまくいくかもしれないという程度のものだ。池田氏は、自説を過去の経験から正当化することができない。それで、ケインズ主義は失敗したと繰り返すなど、他の経済学説にイデオロギー的批判を浴びせるしかないわけである。この路線には、成功例がないのである。
 
 だから、氏は、「したがって福田首相のいう「現在の格差は構造改革の影の部分」だから、改革の手をゆるめようという政策も誤りである。むしろ「景気対策」と称して行なわれた90年代の公共事業のバラマキが生産性を低下させ、かえって雇用環境を悪化させた疑いが強い」と疑問を呈するしかないのである。問題は、90年代の地方への公共事業のバラマキが、生産性を低下させたことにあると池田氏は言う。
 
 そして、実質成長率と地方から都市への人口移動の推移が1980年前後を除いて一致していることを示して、都市部での労働供給不足解消が必要だったと述べる。そして、「わかりやすくいうと、実質的につぶれた銀行や不動産・建設などの「ゾンビ企業」を大蔵省が「官製粉飾決算」で延命するとともに、失業者が生産性に寄与しないハコモノ公共事業に吸収されたため、労働生産性が低下したのだ」という。
 
 今の経済学というのは、こんな薄っぺらな認識で組み立てられているのかというものだ。元々、アダム・スミス以来の近代経済学は、経済・倫理・心理・社会認識を含むような総合的な学問として出発した。そこには、哲学もあった。それが、いつの間にか、自らを独立した科学の一部門であるかのように、思い上がって、ついには、経済学が、世の中を、動かす存在として、君臨するようになったとでも思い込んでいるようだ。
 
 氏は、「こうした労働供給の減少と労働生産性の低下が不況を長期化させ、しかも「日本的雇用慣行」によって社内失業者を守るために新卒の採用をストップしたことが「就職氷河期」をもたらしたのだ。この人的資源配分の不均衡は、景気が最悪の事態を脱した現在でも続いており、日本の労働生産性は主要先進国で最低だ。この意味で、まだ氷河期は終わっていないのである」とのたまう。人は、「人的資源」という経済資源の一種であり、個性も地域との結びつきも生活実態もまったく無視され、まるで、原材料のように、自由に動かせる物と同じように扱われている。
 
 ある分野で、必要なときに必要なだけの「人的資源」が調達されるというようなことは、近代経済学の夢想である。それが、成長分野に素早く移動するというようなことも夢想である。それは、そうあって欲しいという願望にすぎない。「人的資源」の側から見れば、日本全国どこにでも、すみやかに移動して、次々と異なる分野での仕事をこなすなどということは難しい。いったん、ある職種に就いたら、そこでの経験や資格や技能・能力の蓄積を生かせるような転職のあり方を望むだろう。仕事が、特殊な技能や経験の蓄積をあまり必要としないようになっていなければ、労働市場の流動化などそれほど進むわけがない。熟練の解体ということだ。もちろん、それはある程度進んでいる。それを背景にして、池田氏も、正社員の非正規化を主張するのであろう。
 
 しかし、正社員の保護をやめたら、例えば、それまで正社員がその資格によって、アクセスを許されていた企業内の高度な情報や機密を含めた企業資源がある程度失われることになるだろう。もちろん、企業秘密をなくせばいいし、役員などにそれを集中すればいいだろうし、あるいは技術開発の情報など機密を要する情報に関わるものだけを社員とする方法もあると思われるだろう。しかし、現実問題としては、難しい。現に、企業情報の持ち出しが繰り返し行われており、顧客情報などの企業機密に関わることを、どんどん流動化する非正規労働者に委ねてしまうのは、リスクが大きいのである。その場合には、企業機密の保持に関する法律などの整備が必要だろうが、はたしてこれはコストと釣り合うのだろうか? あやしいものだ。
 
 池田氏は、競争的な労働市場をつくることで、成長率を高め、失業率を減らすことができるというのだが、イギリス・アメリカの構造改革が、それほどの成果を上げたようには見えない。第一、英米の多くの人の生活の姿が、ひとつも魅力的に見えない。
 
 農業問題については、氏は、以前書いていたが、リカードの比較優位説にのっとって、日本の場合は、比較劣位な農業は切り捨てて、他の産業によって生きていくべきだということを主張している。そうすると、少子化・人口減少・労働力減少という趨勢の中で、農村から労働力を供給できて、工業やサービス業などの産業に「人的資源」を再配分できるので、結果として、それらの分野での労働者の供給が増大して、労働者間の競争が激化して、成長率が高まり、また、労働生産性が高まる。万々歳というわけだ。しかも、それは、日本国内でできるので、外国人労働者の導入にともなう治安や人権問題その他のリスクを避けられるというわけだ。
 
 しかし、成長が継続すれば、それにともなって、今度は、労働力不足による労働力の市場価格の上昇が起きないだろうか? 需要供給の法則によって。成長産業への労働力の移動の決め手は何だろうか? 賃金の高さだというのが、需要供給の法則からの当然の答えだろう。池田氏があげる「情報・金融・福祉・医療といった労働需要の大きいサービス業」のうち、福祉・医療分野では労働需要は大きいが、労働条件の厳しさによって、それこそ流動化が激しいことが、労働需要を大きくしている一因である。それに、これらの分野での労働力価格の水準は、政府支出に大きく依存しているということもある。池田氏の経済学では、一方には、過剰な正社員を抱える産業があって、他方には、労働需要が大きいサービスなどの産業がある。前者から、後者に、労働力が速やかに移動できれば、問題は、需要供給の法則にしたがって解決するというわけだ。
 
 このような非現実的で空想的な議論を聞いたら、亡き森島通夫ロンドン大学名誉教授も、さぞかし嘆かれることだろう。池田氏は、反セイの法則のことも忘れてしまったらしいし、それに、何よりも、経済学が、哲学・倫理学・社会学・政治学・心理学等々を含む広い学問として出発したことをすっかり忘れている。ケインズ革命は、当然、それら総体の変革ということを意味してたのであり、たんに、政策的に効果がどうとかというレベルの問題ではなかった。反ケインズ派とケインズ派との闘いは、広範な戦線をふくんだ闘いだったのであり、それが、簡単に片が付いたと思うのは、勝手な妄想である。
 
 それから、赤木問題は、いつの間にか、失業率の問題にすり替えられている。赤木問題は、失業率の問題ではない。それなら、この間の都市部での景気回復によって、ある程度の改善が進んでいる。しかし、その多くが、非正規雇用であって、格差が固定したままだというのが赤木問題である。失業率が改善しても、非正規雇用のままだと、正社員並みの生活という赤木君の願いがいつまでも叶わない。だから、彼は、平等をもたらす「戦争が希望だ」と叫んでいるのである。雇用の中味を問題にしているのに、それに失業率という数字で答えるのが、池田氏の経済学であるとしたら、こんな「経世済民」の学は、赤木君の幸福になんの寄与もしない下らない頭の体操でしかないし、無駄な暇つぶしにすぎない。池田氏は、大変自慢らしいが、今の経済学会なんて、人々には何の役にも立たない無駄遣いをしているだけの、それこそ、「学会ギルド」「学者ギルド」にすぎないのではないか。それはたんに財界に奉仕するだけの団体なのではないだろうか。解体すべきは、まずは、自分たちではないかという反省があって、はじめて、赤木問題をリアルに論じることが可能になるのではないだろうか。
 
 氏は、「労働者派遣法には派遣労働者を一定の期間雇用したら正社員にしろといった規定があるが、これは結果的には企業が派遣労働者の雇用を短期で打ち切ったり「偽装請負」を使ったりする原因となるだけだ。労働市場の反応を考えない「一段階論理」の設計主義による労働行政が、結果的には非正規労働者の劣悪な労働環境を固定化しているのである」という。なんと労働者派遣法を企業が守らないのは当然で、企業の脱法行為を正当として、それを労働行政のせいにしているのである。それが、非正規労働者の劣悪な労働環境を固定化している原因だと。正社員は、各種保険・雇用保証などで、非正規より優遇されている。もちろん、長時間労働などの問題があるけれども。このような雇用形態の差異にともなう労働者の待遇の優劣の問題はどうなるのか? 池田氏は、一体どこの国の人なのかと思わざるを得ないのは、氏が、経済が人々の幸福の増進のためにあるのではなく、特定の経済学のイデオロギーの実現のためにあると考えているように見えるからである。今の経済学は、そんなことでいいのだろうかと強く疑問に思う。いや、だめだ。「経世済民」の学という経済学の原点に戻ってもらいたいものだ。

 これでは、まったく赤木問題の答えになっていないのは、誰が見ても明らかである。赤木問題は、失業率の問題では全然ない。赤木君は失業者ではない。これは、ごまかしであり、とても腹の立つ文章だ。池田経済学は下らない。

「就職氷河期」はなぜ起こったのか
2007-09-29 / Economics
  フリーターの告発「『丸山眞男』をひっぱたきたい」をめぐって始まった議論は延々と続き、コメントも3つの記事の合計で400を超えた。なぜ「就職氷河期」が起こり、10年以上も続いたのか、こういう状況をどうすれば是正できるのか、についていろいろな意見が出たが、ここで私なりの感想をまとめておく。

  まず「格差が拡大したのは小泉政権の市場原理主義のせいだ」という俗説は、まったく誤りである。正社員の求人は、1991年の150万人をピークとして翌年から激減し、95年には退職とプラスマイナスゼロになっている。その原因がバブル崩壊による長期不況であることは明らかだ。

  したがって福田首相のいう「現在の格差は構造改革の影の部分」だから、改革の手をゆるめようという政策も誤りである。むしろ「景気対策」と称して行なわれた90年代の公共事業のバラマキが生産性を低下させ、かえって雇用環境を悪化させた疑いが強い。したがって「都市と地方の格差」が最大の問題だというアジェンダ設定も誤りである。

実質成長率と人口移動(1955年=100とする)
出所:増田悦佐『高度経済成長は復活できる』

  上の図は、実質GDP成長率と大都市圏への人口移動(純増)を比較したものだが、1980年前後を除いて見事に一致している。多くの経済学者が、この「1970年問題」を重視し、日本の成長率低下の最大の原因は石油ショックではなく、70年代から田中角栄を初めとして「国土の均衡ある発展」を理由にして進められた社会主義的な「全国総合開発計画」によるバラマキで、都市(成長産業)への労働供給が減少したためだ、という説が有力である。

  さらに1970年代とほぼ同じ動きが、90年代に見られる。ここで成長率が激減しているのは、もちろんバブル崩壊が原因だが、同時にそれに対して行なわれた100兆円以上の「景気対策」によって地方で大規模な公共事業が行なわれたため、戦後初めて都市から地方へ人口が「逆流」している。これが不況をかえって長期化させたのだ。

90年代のくわしい実証研究でも、90年代に各部門の雇用が減る一方、建設業だけが増えており、こうした部門間の人的資源配分のゆがみによって労働生産性が大きく低下したことが示されている。わかりやすくいうと、実質的につぶれた銀行や不動産・建設などの「ゾンビ企業」を大蔵省が「官製粉飾決算」で延命するとともに、失業者が生産性に寄与しないハコモノ公共事業に吸収されたため、労働生産性が低下したのだ。

  こうした労働供給の減少と労働生産性の低下が不況を長期化させ、しかも「日本的雇用慣行」によって社内失業者を守るために新卒の採用をストップしたことが「就職氷河期」をもたらした。この人的資源配分の不均衡は、景気が最悪の事態を脱した現在でも続いており、日本の労働生産性は主要先進国で最低だ。この意味で、まだ氷河期は終わっていないのである。

  だからマクロ的にみて最も重要なのは、労働市場を流動化させて人的資源を生産性の高い部門に移動し、労働生産性を上げることだ。そのためには、流動化をさまたげている正社員の過保護をやめるしかない。労働者派遣法には派遣労働者を一定の期間雇用したら正社員にしろといった規定があるが、これは結果的には企業が派遣労働者の雇用を短期で打ち切ったり「偽装請負」を使ったりする原因となるだけだ。労働市場の反応を考えない「一段階論理」の設計主義による労働行政が、結果的には非正規労働者の劣悪な労働環境を固定化しているのである。

  問題は、非正規労働者を正社員に「登用」することではなく、労働市場を競争的にすることだ。ゾンビ企業などに「保蔵」されている過剰雇用を情報・金融・福祉・医療といった労働需要の大きいサービス業に移動すれば、成長率を高め、失業率を減らすことができる。そのためには労働契約法で雇用を契約ベースにし、正社員の解雇条件を非正社員と同じにするなど、「日本的ギルドの解体」が必要である。また「都市と地方の格差」を是正するよりも、逆に都市への人口移動を促進する必要があり、農村へのバラマキをやめて地方中核都市のインフラを整備すべきだ。

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天木氏の参院選挙総括によせて

 9月26日の天木直人ブログの天木氏の参院選総括と今後の活動方針で、氏の選挙政治への姿勢が明らかになった。

 氏は、最初に、「このブログは、先の私の参議院選挙立候補に際して、物心両面にわたって支援、支持をいただいた読者に向けて、報告と感謝の意を伝えるために書いたものです」と述べている。次に、収支報告があるが、これは飛ばして、「2、私なりの選挙の総括」を見ると、「やはりなんといっても私自身の集票能力の欠如があります。知名度やアピール度その他選挙に勝つための個人的魅力が私には決定的に欠けていたという事」を大前提と認識するとしている。

 そして、「そもそも私自身が、9条ネットの母体となる主要団体(新社会党を中心に労働組合、みどりの会議その他の市民団体)の意図するところを十分理解しないまま、そして9条ネットが出来上がる過程での複雑な経緯を十分に知らないまま、9条ネットの共同候補者を引き受けてしまった、そこに私の根本的な矛盾があったと反省しています」と述べている。しかし、私は、この点は、それほど重要なことではないと思うし、反省する必要はないと思う。よほどの問題があるなら別だが、「9条ネット」の内情をよく知らないまま、そこから立候補したことに、天木氏が責任を感じる必要はないと思う。天木氏が、「9条ネット」に組織的にかかわっていたわけではないし、そうである以上は、政策で一致できるのであれば、そこから立候補することに何の問題もない。政策が合わないにも関わらず、政権のど真ん中に入らなければ何もできないと言って、それまで批判してきた自民党から立候補した丸川珠代候補とは違って、誠実な立候補の仕方であり、それを反省することはまったくないと思う。
 
 「9条ネット」の問題は、「9条ネット」で総括すべきことである。「9条ネット」の問題点の一つは、この組織が持っている力を最大限に発揮できなかったということにある。ここに参加する団体・個人が、選挙戦に取り組みきれなかったのはなぜかということである。それについては、以前に、「9条ネット」の選挙総括文書を載せたことがあるが、彼ら自身は、安部前総理が、参議院選で、改憲問題を正面から掲げてくると予想していて、それに真っ向から対決するという選挙争点の設定のままであったが、年金問題など生活問題や政治とカネの問題に選挙争点が移ってしまう中で、埋没してしまったということを述べている。それは一面正しいと思う。 続けて、氏は、4点の総括点を列挙している。

(1)9条ネット候補者としてのアピールが弱かったという事がまず指摘されます。
 結果として、支援者、9条ネット関係者ほかの多くの方々に迷惑をかけてしまった、その事を私はまず反省しなければなりません。
(2) 次に、候補者天木直人に限って言えば、9条ネットを支える主要組織が新社会党であったという事が、私のアピール度を減らす働きをしたという面があります。すなわち、読者の皆さんにはこのブログで繰り返し申し上げていますように、私は政治的には左翼イデオロギーはもとより特定の政治的イデオロギーに基づいて護憲を主張する者ではありません。国際政治の観点から見て、日本外交は、対米従属の日米軍事同盟関係から決別し、憲法9条を世界に高らかに掲げて自主・自立した平和外交でなければならない、そういう強い信念から、誰よりも強く護憲を訴えているのです。
  このブログを読んで私の支持者になった方々の多くも、9条ネットには関心はないが、天木個人を支持する、という人たちが多く存在しました。その私が9条ネットの候補者として立候補し、9条ネットの存在意義を訴えた事は、私の支持者のみならず、一般有権者にとっても、私の一貫性に疑義をもたせた結果となりました。実際のところ、9条ネットから選挙に出たことで私から離れて行ったり、批判を始める支持者も現れました。
(3) 三番目に、これは今後の私の活動のあり方にも関係するのですが、果たして私自身が目指している政治が、広く一般国民の受け入れられるものなのか、仮にそれが今の時点で一般国民の広く受け入れられなくても、それでも本気になってその政治的理想を貫き、いつかは実現していこうとする覚悟が、自分にあるのかという事です。
 私の基本的な考えは、既存の政治ではない政治をつくりたい、つまり既存の自民、民主のいずれが政権をとろうとも、そしてまたどのような既存の政党の連立政権ができようとも、権力は腐敗してその政治は真に国民の為の政治とはならない、特にその政治が、これまでの日米軍事同盟体制を本気になって変えようとしないかぎり、真の平和国家日本は実現できない、というものです。
  このように私の目指す政治と政治家は、既存の政党や政治家を全否定するまったく新しい政治、政治家像であるわけですが、この考え方が広く一般有権者の理解を受けるのはまだ時期尚早ではないか、ましてや今の選挙制度の下においてそのような主張を掲げて選挙に当選することは極めて困難ではないかという事です。
(4) そして最後になりますが、たとえ私が私がその理想を隠して妥協し、どんな形でもいいから勝てる選挙に臨む事にしたとても、勝てる選挙を行える参謀と支援者が必要だということです。そんな人は私にはいません。私が自分の考えだけで一人相撲を続けても、将来の見通しはなかなか開けて来ないという事です。

 注目したいのは、(3)である。「既存の政治ではない政治をつくりたい、つまり既存の自民、民主のいずれが政権をとろうとも、そしてまたどのような既存の政党の連立政権ができようとも、権力は腐敗してその政治は真に国民の為の政治とはならない、特にその政治が、これまでの日米軍事同盟体制を本気になって変えようとしないかぎり、真の平和国家日本は実現できない」という考えである。既存の政治ではない新しい政治の中味である。氏は、その基本を、日米軍事同盟体制を変え真の平和国家日本をつくる外交・安保の根本転換にあるというのである。
 
 (1)(2)にも関係するが、天木氏の基本理念と政策がどれほどの中味とリアリティを持っているのかという点が、有権者や支持者によく見えなかったのではないだろうか? もちろん、「9条ネット」は、9条改憲に反対するという一点で、社共を含む統一候補擁立を模索したのであり、それに失敗する中で、天木氏の知名度に頼るような形で、準備不足の選挙戦・素人選挙に突入していったわけで、その結果は、一人も当選できないという敗北に終わったように、同じ問題を持っていたと思う。
 
 「9条ネット」に大衆的な選挙戦を闘うだけの態勢も準備も不足していたという問題があったと思う。「みどりの会議」は、中村敦夫氏を当選させた実績があるが、それは中村敦夫氏の圧倒的な知名度と人気によるところが大きい。組織選挙を行えるし、地方議員選挙では、数十名の当選者を出してきた新社会党は、全労協という小さな労組のナショナルセンターを基盤にしているにすぎない。それに、成島忠夫後援会のような素人集団が加わっていたぐらいで、力不足は否めない。ただ、安部政権が国民投票法を強行採決で、成立させるなど、9条の本格的な改憲を狙っているのが間違いないところだったので、「9条ネット」は、反戦という立場から、これをなんとしても阻止しなければならないという思いで、憲法問題を焦点に参院選を闘うと言った安部総理の改憲路線と正面から対決するために、護憲派の横断的な共同候補擁立で闘おうとしたのである。それを社共に拒否される中で、単独での選挙戦を闘わざるを得なくなったのである。しかし、この結果は、社共も議席を減らすという結果に終わった。社共には、そのことに対する反省もないし、唯我独尊的に、今後も自分たちだけでやっていくつもりらしい。
 
 (4)の問題は、選挙参謀と支援者という人の問題であるが、これは、育てててもいいし、天木氏の政治観・政策・理念などに共鳴してくれる人が今後出てくる可能性はある。しかし、人材の不足を嘆く前に、これらのことについて、まだまだ天木氏の考えが、不十分なのではないかと思う。そのことは、「3.私の今後の方針」にはっきり現われていると思う。
 
 氏は、、「3.私の今後の方針」で、「今の政治状況では勝てる選挙が見つかる目処はまったくありません」という。自公からは出ないし、3年前の衆議院選の際に、管直人党首(当時)から民主党公認を得ての出馬の打診があったが、党内で、天木氏の反権力の言説が問題となって、公認を得られなかったというとがあり、民主党公認での出馬の可能性もないという。社共から出ても当選できる見込みがない。
 
 ただ、「私がもう一度だけ理想を求めて出馬する時は、本当の意味での政界再編が起きて、日米軍事同盟を基本とする二大保守政党のほかに、イデオロギーとは離れた平和主義のあらたな第三勢力が日本の政治に必要になる時だと思っています。その機運が国民の中から彷彿として湧き上がってくる時であると思っています」という。

 そして、氏は、「私が9条ネットに参加する事を最終的に決断したのは、9条ネットを成功させればそのような機運を国民の間に起せるかもしれないと思ったからです。しかし9条ネットは成功しなかった。それは9条ネットの非力もありましたが、同時にまた日本国民の意識がいまだそこまで到達していなかったという事です。新しい政治の流れは無理をして作り出すだけでなく、政治状況の大きな流れと並行して生まれてくるのが本物なのだと思います」という。これは、ちょっとどうかと思う。「9条ネット」関係では、成島忠夫後援会が、政策研究グループへ改組して、政策研究を始めることを表明している。一つには、選挙戦では、政策研究の積み重ねが必要なのに、それが不足していたことは明らかだが、このような活動の中から、次の展望が開けてくる可能性がある。二つには、民主党小沢代表が、一人で、一人区をひたすら地道に回り続けて、伝統的な自民党の基盤をひっくり返したということから学ぶ必要がある。小沢氏の行動は、マスコミで報道されることもまれだったが、そのシンプルな訴えは、格差拡大の中で、不安を抱いていた農村の人々の心に届いて、支持を拡大することにつながった。
 
 このことは、政治の問題は、平和であれ、日米同盟などの外交・安保問題であれ、人々の生活と切り離されたところで、抽象的に問うても、人々の心には届きにくいことを示していると思う。生活の中で、例えば、農民には、その「大地」との関わりという具体的な生活とのつながりを感じるような形で、日米同盟などの平和・外交・安保問題を訴えていかなければ、9条改憲阻止も生きたスローガンとはならないということである。「9条ネット」も社共もそれに成功しなかったということである。それに比べて、民主党小沢の訴えやスローガンは、人々の日常の生活感覚にぴたりとはまったのである。社民党が、9条と25条(生存権)を結びつけたのは、その意味では、よかったのであるが、安部改憲政治への対決という点に重点を置いていたためもあって、改憲問題から生活問題へという選挙争点の急転換に、間に合わなかった。もっと生活臭が強く感じられるような候補者がいてもよかった。福島党首は、生活の臭いが希薄である。
 
 天木氏は、「ここに来て、私はあらたな政治の予感を感じます。このままの流れでは次回の選挙で民主党政権ができるような気がしてきました」という。最新の世論調査では、50%台の福田政権支持率となっているが、この数字は、固い数字ではなく、柔らかい数字であろう。それと合わせて、7割以上の人が、1年以内の解散総選挙を求め、あるいは予想しているという数字が出ている。この数字は、参院選で示された民意が、政権交代を求めるものであったことを意味していると思う。したがって、天木氏の予感は、かなり当たる可能性が高いものだと言える。まさに「覆水盆に返らず」である。次の解散総選挙では、この民意にしたがって、氏の言うとおり、民主党を中心にした連立政権ができるだろう。そうなったら、権力にしがみつくことだけで生きてきた自民党議員が続々と離党する可能性がある。

 天木氏の予感では、民主党中心の連立政権は、社民党の日米軍事同盟容認をへて、「憲法9条改憲なき日米軍事同盟体制が発展、深化し、当然視されていく」ことになる。「その場合にはじめて平和の為の第三勢力を求める声が国民の中から彷彿として湧き上がってくると思います。その時にチャンスが生まれると私は思うのです」という。
 
 私の考えでは、むしろ、9条(平和)と25条(生存権)の問題を結びつけていくこと、つまりは、平和と生活の問題をきっちり関連させて取り上げていくことの方が、そしてそれを政策化していった方が、チャンスが生まれやすいのではないかと思う。参院選で示された民意は、9条に象徴される平和・外交・安保問題よりも、25条に象徴される生活問題に偏ったということではなく、平和の問題を生活感覚の中で、判断したのではないかと思われるからである。この民意は、日米軍事同盟の問題はどうでもいい、それよりも生活だと言ったわけではないと思う。それは、選挙直後の世論調査で、対テロ特措法延長反対が、賛成を大きく上回ったことでもそう思うし、もちろんその後は、賛成反対が逆転したということはあるけれども、それでもまだ反対はかなり高率だと思うし、9条改憲反対世論が増えているなどのことがあるからである。

 氏は、最後に、「激動する日本の政治情勢を透徹した目で見据えて、必ず我々に出番は来る、その時を信じて、その時に備えて、叡智と気迫を蓄えていく、これこそが今の私の心境であります。そのこころざしを共有し、私と一体になって挑戦していきたいと今でも考えている人たちに、私は感謝を込めて呼びかけます。/「私はあなただ、あなたは私だ。ともにあたらしいスタート地点に立って歩み始めたい」と。/ 最後までこの報告に目を通していただいた方々に心から感謝しつつ報告を終わります」と述べる。

 次に備えて、叡智と気迫を蓄えていくのはもちろんいいことだが、もう少し、民意をしっかりと読んだ方がいいのではないだろうか? 氏には、どうも、世論はあてにならないという強い思いこみがあるようだけれども、そうでもない場合も多々あるのだから、そう簡単にあきらめないで欲しい。それと、外交・安保問題を経済や生活問題よりも政治的に上にあるように思い込むのも、止めて欲しい。外交・安保問題は、経済や生活が総括される国民的生産力から規定されるからである。単に、アメリカの政治・軍事政策と日本の政治・軍事の力関係というわけではなく、日米安保条約に経済関係の緊密化がうたわれているように、経済関係も、そして、価値観の共有ということもあるわけで、それらと関連して、外交・安保問題があるということである。その点で、在日米軍基地の7割が集中する沖縄では、日米同盟のあり方が、基地経済などの経済や生活を直接的に大きく規定するから、それが、見えやすいということがある。見ざるを得ないということではあるけれども。そうだからこそ、沖縄では、「住民の集団自決」への軍関与を否定した教科書検定取り消しを訴える集会や議会決議が次々と起きているのである。生活と平和と教育と安保と基地と外交などがつながっているのである。そんな沖縄の辺野古の平和を願う人々に自衛艦を差し向けた安部政権は、許し難い。福田政権が、そういう安部政権の蛮行を継続するなら、大きなしっぺ返しを食らわざるをえない。

 天木氏の言う「平和のための第三勢力」には、「私はあなただ。あなはは私だ」ということと共に、「生きる」ことと平和を結びつける「平和的共存」という言葉がいると思う。

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福田政権で自民党は終わりっぽい

 福田内閣の顔ぶれが決まった。
 
 この顔ぶれを見れば、この福田政権の任務が、自民党の建て直しにあることは一目瞭然である。挙党一致がなによりも優先されたのである。政策については、まだあまりはっきりしないけれども、まず、小泉ー安部政権の「改革」路線の清算、タカ派色、右派色の払拭があることはうかがい知れる。そして、格差是正への取り組み、地方への配慮、その他、様々な分野で、「改革」路線の手直しが進められるだろう。
 
 福田総理は、小沢民主党の「自立と共生」のスローガンをそのままパクることも辞さないというなりふり構わぬ民意への擦り寄りぶりを示した。昔の自民党みたいに、野党の政策を部分的に取り入れて、政権を維持し続けるというなにがなんでも政権にしがみつくというやり方である。自民党は、野党転落時代に味わった悲惨な状態をなんとしても避けたいのである。それにしても情けないのが、小泉チルドレンたちだ。自分たちの総選挙での生き残りを最優先に、路線的に近い麻生ではなく、遠い福田支持をはやばやと決めた。信念も政策もなにもあったものではない。ただ処世術で政界を生きていこうというのである。
 
 この背水の陣の重厚な体制で、自民党政権の建て直しができなければ、自民党はピンチである。問題は、自民党の足腰である地方議員の減少、地方支部、職域支部などの解体情況を立て直せるかどうかである。いくら政権を重々しく立て直しても、党の末端組織の機能停止状態が続けば、自民党は終わりである。すでに、選挙は公明党ー創価学会だよりになっているところが多く、自前の選挙戦の実働部隊が弱体化しているのである。だから、地方で、自民党支持者が民主党支持に大量に回るのをどうしようもなかったのである。
 
 福田政権は、当然、こうした地方党組織を立て直すために、地方に利権を配分する政策を行おうとするだろう。すでに、福田総理は、そういう意向を表明している。しかし、そのパイは小さくなっているから、限定的なものになる。大規模にそれを行うには、増税が必要である。もし、福田政権が、法人税増税・累進課税再強化・贅沢税の創設などの金持ち増税でそれをまかなうなら、大衆的な人気が高まるかもしれない。消費税増税なら、大衆的人気をえるどころか、衆議院選挙で、自民党最後の政権になる可能性がある。安部政権のように、自然増収をあてにして、なにもしないでいるというやり方もある。それだと、地方への税配分の増分は、小さなものに止まって、地方党組織・支援組織の建て直しは、あまり進まないだろう。やっぱり、自民党政権は、終わりのような気がする。利権に食らいついている中間組織を解体・再編して、税の分配を効率化するという手もあるが、それは、自民党組織を弱体化することにつながるので、できないだろう。
 
 人気に頼るにしても人材がない。自民党は、にっちもさっちも行かない状態にある感じだ。
 
 民主党小沢代表は、「自立と共生」のスローガンが、格差是正の政策を含むということを表明している。福田政権も、民主党のこのスローガンをパクった以上、格差是正に取り組まざるを得ないだろう。小沢民主党を支持した民意は、長年にわたる意識下での我慢の蓄積が一気に噴き出したものだろうから、一度、それが表出された以上は、自民党への支持が回復することはまずなさそうだ。 昔の人はよくいったものだ。「覆水盆に返らず」。安部総理に太鼓判を押した細木和子にも聞かせたい昔の人の知恵を感じる言葉だ。

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麻生・福田公開討論に徒然思う

 自民党の総裁選は、いよいよ最終局面に入っている。
 
 党内情勢では、福田優勢は動いていないようだ。
 
 21日の公開討論会では、福田候補は、淡々と政策や主張を語るという感じで、麻生候補は、「国民」のプライドをくすぐりながら、ポピュリズム的なやり方を取っていた感じがする。
 
 福田候補は、地方・格差などの痛みの緩和という保守本流的な政治理念を強調していたが、それにたいして麻生候補は、日本の歴史・伝統・文化の独自性、日本文明の他の文明との違いを強調し、それに誇りを持つべきだということを繰り返し強調した。要するに、ハンチントンのトンチンカンな文明論の焼き直しだろう。

 福田候補の考えは、古い自民党の普通の保守思想を反映した政治主張である。それに対して、麻生候補の方の考えは、民主党支持拡大に示された日本国家の自主独立を求める民意を意識したものだろう。
 
 麻生候補は、公開討論会で、戦前の紙芝居は、手っ取り早い失業対策であったとともに物語を連続的な絵で描いたという点で、後のマンガの元になったが、そういう日本独自の文化が、今では世界に広まっているという点を強調した。物語をマンガにするというのは日本が最初に行ったというのである。それなら、鳥獣戯画がマンガのルーツと言えないこともないわけだ。
 
 その文脈の中で、継体天皇以降の皇位の確実な資料による男系継承の存在をも、日本独自の伝統文化に入れていることがまず問題である。いわゆる「記紀」については、新京都学派の梅原猛氏の『神々の流竄』や上山春平氏の『神々の体系』で、記紀編纂期に藤原体制を築いていた藤原氏に都合良く書かれていて、要するに藤原イデオロギーによって書かれているという指摘もあるし、同じ天皇の事績を複数の天皇に分けて記述しているという水野裕氏の『大和の王権』の指摘があるというように、史実がはっきりしないことが多い。天皇陵とされている宮内庁所管の古墳の学術調査があれば、もっとはっきりするはずだが、宮内庁は限定的な調査しか認めていない。
 
 世界中どんなところだって、他にない独自の伝統や文化の一つや二つはある。また、麻生候補は、日本のいつの時代のどの範囲の日本のことを言っているのかがよくわからない。古代には、北九州から朝鮮半島南部には、きわめて近い文化圏があった。どちらがどちらに影響を与えたかなどというのは、後の時代のナショナリズムによる観点であって、似たような発掘物が出てきていることから、この範囲に共通文化圏があったことは確かである。
 
 古代の日本の範囲といっても、大和政権の成立範囲も、東北の中部にまで限られていたし、それも、全域を完全支配していたわけでもない。平安時代にも、現地での反乱が相次いでいて、桓武天皇(この人の母親が、朝鮮半島の人であることを、現天皇が認めた)は、渡来系と言われる坂上田村麻呂を征夷大将軍として派遣し、その平定に苦慮した。それに、記紀によれば、朝鮮半島南部での争乱の中で、北九州で、磐井の乱が起きたり、吉備地方(現在の岡山県のあたり)に大和政権の中で、半ば公然と独立勢力を維持していた吉備王権があったりした。それに、この頃、沖縄と北海道はまったくその範囲に入っていない。
 
 中世でも、青森や北陸地方は、渤海などと独自のルートで貿易を行っていたし、北海道などのアイヌなどは、ロシアの沿海州地方との交易を行っていたことが発掘品などから明らかになっている。もちろん、つい数十年前には、北は千島・樺太から、南は台湾まで、そして朝鮮半島も、日本の国土であった。それも、沖縄はアメリカ軍政下に長くあって、外国だったし、北方4島も、ロシアの支配下にある。韓国との間で、竹島の領有権争いがあって、江戸時代の文献資料なども、引っ張り出されて、双方が自説を譲らず対立し続けている。領土は、国のメンツということもあるが、しかし、それは、経済水域を左右し、海洋資源などの権益争いと結びついている。明治政府が、その初期にいったんは竹島の領有権を放棄しながら、その後、朝鮮半島進出、ロシアとの対峙という政治的必要から、実力占拠に出たのは、その軍事的利用価値のためであった。
 
 こういう次第で、歴史上、日本独自の伝統だの文化だのの及ぶ範囲というのは変化してきたのである。
 
 麻生候補がこういう話を持ち出すのは、日本が、独自の文化・文明を持っていて、それを世界に商品化して売り込むという輸出戦略を持っているからである。おそらくは、彼はマンガ好きというばかりではなく、秋葉原の「オタク文化」を輸出産業化できると思っている。秋葉原は、こうしたソフトと先端技術を結合していて、マンガ文化をソフトとして、それをゲーム機などのハイテク機器と合わせて、世界に売り出そうという戦略を抱いているのである。
 
 しかし、彼が言うように、日本独自の文化や伝統をソフト化して輸出して、はたして、西欧のキリスト教文化の国々で、受け入れられるかという問題がある。例えば、ハリウッドで作られた「ラスト・サムライ」は、武士道を西洋的な騎士道と混合しているように見える。武士道の場合は、やはり忠君忠義という縦の関係が基本であるが、騎士道には、友情という横の関係がある。武士の場合は、連帯責任、一蓮托生で、類は一族郎党に及ぶものだ。騎士道の場合は、個人というものがあり、恋愛がある。ニーチェが強調した貴族の騎士道的恋愛である。それは、デュマの『三銃士』に描かれているものである。
 
 脱線したけれども、麻生候補が言うことは、すでに世界的にある程度の文化的共通性があって、それに日本的なものを加味し、織り交ぜれば、ソフト産業が世界商品を生み出せるだろうという話である。これは、これで、福田候補が、従来型の穏健保守主義的な手堅い政治をたんたんと語っているのに対して、新しい夢を語ることで、積極的な攻めの姿勢を対置して、差別化を図っていると言える。しかし、一時、、韓国政府のソフト輸出戦略によって、育成された映画・ソフト産業による輸出攻勢もあって、韓流ブームが日本・中国・台湾・東南アジアに広まっていった時期があるが、それが一時的ブームとして沈静化してしまったようになる可能性もある。流行というものはそうであり、さしものハリウッドでさえ、厳しい状況になっているのである。もっとも、日本の韓流ブームは、「冬のソナタ」のインパクトによるところが大きいというのが実態だったと思うけれども。
 
 麻生候補が言う、紙芝居が失体事業であったという点については、そこからマンガという新産業が生まれたというイノベーション(革新)のことを強調したものであろう。しかし、それも、マンガ業界が、今、傾きつつあるように、一時的な革新でしかなく、それは、新しいイノベーションが起き、それが成功しないと、従来産業のように停滞してしまうのである。シュンペーターは、その結果、利潤がゼロまで落ちると言った。イノベーションが起きるかどうかは、主に、それを推進し意識的に追求する創造者としての企業家とそれを評価して投資する投資家と技術開発ということにかかっているとシュンペーターは言う。構造改革路線の採用以来、日本の企業は、分配構造の変革に努め、労働分配率を低め、株主や役員報酬に多く分配し、人件費を抑制するように行動してきた。それによって、投資家は、投資からより多くの利益を引き出そうとするようになり、その分を、企業家は、経費・人件費の削減などを節約して応えてきたのである。企業が株式などの直接金融方式での資金調達する場合、投資家(とくに外資)は、短期的な利益を重視する傾向が強い。
 
 麻生候補のプラン・戦略の実現には、ある程度の長い期間の技術育成や商品開発が必要で、すぐに実現できるというものではない。実際には、すでに、小泉ー安部の改革路線の清算が始まっていることは、高齢者医療費の自己負担引き上げ凍結の決定でも露わになった。衆院選が近い以上、そうせざるを得ないのである。この流れは続かざるを得ない。いくら、爆笑問題の『太田総理』という日本テレビ系の番組の投票で、麻生候補支持が7割近くで、福田候補が3割ぐらいという結果が出ても、そのとおりにはならないのである。投票者の多くは、テレビの気楽さということもあるし、恐らく東京など都市部の視聴者だろう。その程度の重みでしかない。
 
 今選挙政治で焦点になっているのは、地方である。そして、小沢民主党の参院選圧勝を受けて、官僚は参議院では、民主党に従来より上のクラスの幹部を法案説明に送り込んでいるし、経団連の御手洗会長は、小沢路線・民主党の政策の支持を表明するなど、態度転換が各界各層で進んでいる。かくして、小泉ー安部路線の清算は、急ピッチで進んでいくだろう。麻生候補は、その点で、この路線と近いようにイメージされているのが、不利に働いており、彼は、そのようなイメージを払拭しようとしているのだろうが、それには「時すでに遅し」であろう。もし福田政権が、人々の生活の安定や未来への希望を感じさせることをある程度でも実現できれば、それなりに人々の評価を受けることになるかもしれない。次の衆議院選挙までに、どこまで、そうできるかどうかはなんとも言えない。ただ、自民党の各派閥は、それを期待しているだろう。
 
 まあ、結果は、日曜日には出る。まとまりなく、徒然と書き連ねてみたけれども、いずれにしても、参議院選挙で示された民意が生みだした流動化が、まだまだ続くことは確かである。

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教育分野での安部カラーの清算のはじまり

 安部総理辞任の影響が、早くも表われたのが、以下の『毎日新聞』の記事である。

 別の記事では、中教審だけではなく、文科省も、道徳の教科化を断念したとある。
 
 ただし、下の記事ではある中教審委員は、「「教科化にこだわった議論ではなく、子どもたちの道徳心を高めるための実質的な論議をしたい」と説明しており、小学校での自然体験や中学校での職業体験のほか、高校での奉仕活動なども論議される見通しだ」というように、道徳教育強化を中教審があきらめたというわけではない。もっとも、道徳論議は、中教審その他で何度も蒸し返されている定番の教育テーマと言ってもいいもので、また議論が延々と続くのか、という感じである。
 
 こういうところの道徳論議は、つまらないものであることが多い。
 
 安部政権が倒れるずっと前から、安部政権誕生を歓迎した右派・保守派の凋落が続いていているが、安部総理の退陣で、それは加速するだろう。
 
 安部政権に強い期待を寄せていた岡崎久彦元タイ大使、櫻井よしこ、屋山太郎の三氏が、同日の夕刊で、安部政権の総括と保守派のこれからについて語ったインタビュー記事がある。岡崎氏は、「特に教育は、思想が保守かどうかに一番影響を与える問題です。教育再生会議はあとは事務的にやればよく、教育はもう大丈夫だと思います」と述べたその日に、教育再生会議の道徳教科化が文科省と中教審で息の根を止められてしまった。彼は、安部退陣は、健康問題だと言うが、それが主な原因ではなく、日米首脳会談で、アメリカに約束した対テロ特措法が期限内に成立させることが難かしくなったのが一番の原因である。アメリカが強く日本に望む政策が実現できない時、日本の首相の首が飛ぶのである。自発性を装いながらではあるが。鈴木政権の時もそうだった。小沢党首にこの問題での党首会談をけられたためだというのは、けっこう正直な発言だったのではないだろうか。
 
 岡崎氏は、福田政権ができれば、「反動の時代」が来るから、保守派はそれに備えなければならないと言っている。
 
 櫻井氏は、福田政権が誕生すれば、自民党は終わるだろうと言っている。小選挙区制度の下の二大政党制だから、一党内で、政権交代のように政策がころっと変わることは、昔の中選挙区制の下の自民党政権時代のようにはいかないというのである。彼女の考えからすれば、政策を大きく変えるなら、解散総選挙で、民意を問うという手続きが必要だということになろう。そうしないで、昔の自民党みたいに内部で事実上の政権交代のようなまねをすれば、古い自民党になって、自民党は終わるというのである。

 屋山太郎氏の場合は、問題外である。言いたくないが、耄碌しているとしか言いようがない。彼は、「(安倍辞任で)ショックなんてないね。安倍さんが、官僚の天下りを根絶したいって言うんで賛成しただけだ」というのだが、自身が大幹部の座についている「教育再生機構」で、氏自身がなんと言っているかを忘れてしまっているらしい。
 
 そして、彼が、安部政権の教育基本法改正や改憲のための国民投票法を支持したのは、「ただ、(自分たちが)訴えたかったのはモラルの回復なんだ。日本人のモラルは恥の文化から来ている。それが日本のモノづくりの基礎になった。恥の文化のもとは名誉で、そのもとは武士道。それが廃れたから、今は子殺し、親殺しとめちゃくちゃじゃないか。恥の文化をもっと知らせなきゃならないんだ。いずれにしても、大砲は放たれた。あとはそれがどこに着弾するか。それを待つだけだよ」とのたまう。
 
 自分が恥知らずのくせに、恥の文化を取りもどしたいというのだからあきれる。武士道なら、潔さや忠義や勇気などだろう。結局、彼の道徳の基本は、モノづくりのための道徳、つまりは勤労道徳だ。彼は、いいモノをつくりたいというのは名誉という道徳によるものだと言いたいのである。そして、池田政権の所得倍増計画のような物的刺激策を戦後レジュームの悪として、否定したいのだろう。名誉という精神的価値を求めて勤労する道徳的人間が、彼の理想なのだろう。彼自身は、名誉よりも、テレビで、つまらないだじゃれをとばして、受けを狙う人物で、別に武士らしくもないし、名誉を特に重んじているようには見えない。
 
 「お坊ちゃま」安部総理は、生活の心配もないから、ただ彼の「美しい国」なる空想の実現だけを純粋に追求していくことができたわけである。しかし、日々の生活の中で、自己の幸福を物的・精神的に追求している多数の人々は、それに対する反感を募らせていった。それは当然のことだ。それに気づきもしないというのは、安部「お坊ちゃま」の鈍感力がかなり強かったということである。
 
 屋山太郎氏は、あれほど、安部を持ち上げ担ぎ上げ、教育再生機構だって、安部政権にすり寄っていったくせに、安部政権が泥船となるや沈みかかった船から、さっさと逃げを打って、「安倍さんが、官僚の天下りを根絶したいって言うんで賛成しただけだ」とは、恐れ入谷の鬼子母神だ。これを恥知らずと言わずして、何を恥知らずと言うのだろう。
 
 屋山太郎氏は、櫻井氏と違って、小選挙区制下の二大政党制という新しい政治状況をまったく度外視しているか、理解していないのかもしれない。政権交代すれば、せっかく撃った長距離砲も、着弾する前に、迎撃されて、別な長距離砲が撃たれるかもしれないということだ。参院民主党のトップの興石氏はじめ日教組出身議員が何人も参院選で当選しているし、参院議長は、元社民連の江田五月議員である。次の衆議院選挙で、民主党政権ができたら、自公が強行採決した教育基本法をそのままにしておくだろうか? 強行採決には、民主党の諸法案の強行採決で、お返しするのではないだろうか? それが、小選挙区制下の二大政党制による政権交代のある国会の政治というものではないか。
 
  「教育再生機構」八木一派と分かれた「新しい歴史教科書をつくる会」藤岡一派の方は大変な状況になっているようだ。その様子を、時々、コメントを寄せていただく知足さんのブログの記事から、一部引用してみる。「つくる会」10回総会があったばかりである。
 
  「「つくる会」この一年で正会員が3割弱減る/委任状提出の減少が際立つ/過激なヤジが多くの出席者から出る」
  「「つくる会」副会長福地惇殿 不遜な態度を改めて下さい」
  「激しい怒号が飛び交い、議長も立ち往生」
 「「つくる会」のやり方も朝日やNHKと同じ情報操作をしているように思う」
  「共倒れを避けるには「つくる会」による「改善の会」攻撃を抑制するしかない◇そんな状況の教科書を採択するような学校、教育委員会がある筈がない」
 「あれでは「つくる会」を去っていく人があとを立たない/西尾先生の「扶桑社を告訴すべき!」は物笑いになるだけ」
 「あと幕屋ですが、3年前にもさんざんやりまして、結論としては「地方では功罪相半ばだが、中央では明らかに有害」というもので、つくる会にとってはデメリットの方が大きいという認識を持っていました。尤も今ではつくる会の方が弱体化して幕屋の支えなしでは立ち行かないところまで来てしまっていますから、「必要不可欠」です(笑)」
 「「つくる会」の人脈は「南京事件」問題に深く拘った人達に限られて来た」
 
 ざっとこんな具合である。このほとんどは、「つくる会」内部の人の声である。ここで出てくる「幕屋」は、「キリストの幕屋」という新興宗教団体で、一応キリスト教っぽい装いであるが、「靖国」公式参拝推進なども主張する右派宗教団体である。女性信者が、長髪を渦巻きのような形に巻いて耳の上に束ねるという特徴のある髪型をしているので、よく目立つし、すぐにそれとわかる。保守系団体にいくつも加盟していて、集会動員や資金面で、保守派の運動を支えている。

 しかし、ついに、「つくる会」が、わずかな間に、このようなカルト教団がむき出しで支えるという状況にまで落ちてしまうとは。しかも、保守派が期待した安部政権と保守派新興宗教の「霊友会」の石原都知事の首都東京都政という保守派有利な状況の下で、こんなに保守派・右派運動が凋落してしまうとは、本人たちが一番ショックを感じているのではないだろうか。
 
 次は福田政権となるだろうが、そうすると、安部政治に対する「反動」(岡崎久彦)が起きることだろう。「戦後レジュームからの脱却」「美しい国づくり」などの安部路線は、清算されていくだろう。それがすでに以下に示されている。安部総理肝いりで作られた「教育再生会議」が早くも凋落し、力を失ってきているのである。集団的自衛権行使の解禁のための「有識者懇談会」も、実質的に終わりとなるだろう。
 
 中教審の提言が実現されるかどうかは、政治力にかかっており、政治状況が、不安定で混迷した状況が続けば、いくら議論ばかりしても、その提言は政策化できにくいし、実現困難だ。民主党政権ができれば、日教組出身議員が、教育問題を扱う委員会の委員長を占めることもありうるから、日教組系委員の中教審委員への採用なども行わなければならなくなるかもしれない。いずれにしても、これまでのような日教組排除で作られてきた教育行政議論のあり方は、そのままというわけにはいかないだろう。いろいろとこの分野でもこれから変化がありそうである。

  『毎日新聞』(2007年9月18日)

 中教審の専門部会がまとめる検討素案では、道徳教育の充実が明記される。ある中教審委員は「教科化にこだわった議論ではなく、子どもたちの道徳心を高めるための実質的な論議をしたい」と説明しており、小学校での自然体験や中学校での職業体験のほか、高校での奉仕活動なども論議される見通しだ。

 専門部会では、道徳は学校活動の全体で教えていくもので個別の教科として指導することに疑問の声が出ていた。教科化見送りは、安倍晋三首相が辞任を表明し、教育再生会議の影響力低下の可能性が高いことが背景にあるとみられる。【高山純二】

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「優しい世代」のためにもっと哲学を

 天木氏の9月16日のブログ記事からである。
 
 12日の『毎日新聞』「発信箱」の記事は、私も目にとまった。
 
 天木氏は、「経済的安定や社会的見栄と引き換えに、人をけ落としてまで出世競争に一生を終わる人生。それを放棄して、自分に忠実な、自由な人生を送ろうと決断する時、何が一番の障害になるか」と問い、その答えは、「それは自尊心でも、社会的見栄でもない。最後の決め手は経済的な不安である。たとえば若者が早い段階で最低限の家を確保でき、食費、光熱費などの物価が安くなり、病気になった時の国の保障が完備していれば、その若者の生き方の選択は無限大に広がることだろう」と答えている。
 
 私は、ある時期から、競争が嫌になり、それもあってか、哲学に惹かれ、哲学を学んできた。自分が好きなことをして生きてきたためもあってか、幸せを感じてきた。哲学は、疑問を持つことから始まる。その意味では、誰でも哲学していると言える。例えば、雨宮処凛さんは、就職氷河期に、学校で習った「努力すれば報われる」ということが、現実社会でまったく通用しないことから、どうしてそうなるのかや社会について考えざるを得なかったと語っている。「希望は戦争」と主張して物議を醸したフリーターの赤木智弘君は、平和は既存の労働階層秩序を守るもので、平等ではなく不平等を固定化すると平和主義を批判する。彼は、ニーチェを読んで、いろいろと考えているようだ。こういうことも哲学することに含まれる。
 
 哲学史の教科書の類を読むと、よく出てくるのが、中世ヨーロッパでは、「哲学は神学の婢(はしため)」とされたが、ルネッサンスによって、哲学が神学のくびきから解放されたということである。信仰によって、思考停止したら、哲学はお終いなのである。神をも疑い哲学すること、それが、ルネッサンス以降の哲学の方向であった。それは、19世紀になると公然たる無神論哲学であるフォイエルバッハの唯物論哲学やニーチェの「神は死んだ」という宣言に達する。しかし、それ以前には、キリスト教やユダヤ教などによる哲学者への迫害もあったし、哲学者自身がキリスト教の教義の影響を受けていたことから、すぐには、哲学の独立はなされなかった。そういうなかで、エピクロスのように、神々を批判しながらも、うまく立ち回っていくしかなかった唯物論者スピノザが出た。デカルトは、半分だけ唯物論者であった。スピノザは、オランダで、新興ブルジョア階級を代表していたオレンジ公などの庇護の下で、カルヴァン派やユダヤ教会、カトリック教会などからの迫害から逃れて、隠れ住みながら、著作を出し続けた。
 
 しかし、ルネッサンスは、カトリック教会にも及んで、ルターらによる宗教改革が起きると、キリスト教の内容が変化し、人間主義的なものになって、新教は、事実上唯物論に転化したと19世紀の唯物論者のフォイエルバッハは書いている。
 
 カントは、ほとんど彼の哲学大系から神学的なものは追放しているのだが、それをごまかして、キリスト教と一応は表面上折り合いをつけている。彼は中途半端な唯物論者である。ヘーゲルは、新教の内容を観念論としては展開しきっているために、フォイエルバッハが言う新教の人間主義的内容をも展開しきったので、それを転倒することで、唯物論に転化することが可能になっていた。それがマルクスのやったことである。ヘーゲル左派の青年ヘーゲル派は、できあがっていたヘーゲル哲学の大系から一部を取り出しては強調するだけだった。これを唯物論にひっくり返すことは、フォイエルバッハとマルクスが試みたことである。かくして、ルネッサンスに始まる哲学復興は、ギリシャ哲学の復興やら神学からの解放やら、実証科学の発展やら、近代社会の発展などと関連しつつ、行われてきたのである。
 
 宗教改革以降、哲学は神学に対して勝利してきたと言っていい。実際問題として、新教は、信仰といっても事実上は人間主義に転化していて、その実態、その中味は、神の信仰・礼賛ではなく、人間の信仰・礼賛になっているからである。今、ヨーロッパ諸国では、人々の教会離れが進んでいる。日本の仏教・神道の場合も、似たようなもので、葬式仏教化・現世利益の祈願所化している。人々は、ただ檀家制度や氏子制度の名残で、寺や神社に属しているにすぎない。檀家・氏子の多くは、信仰もないし、教義も知らない。檀家・氏子と信仰は別で、檀家・氏子とは別に新興宗教などに入るなどしている。だから、日本で、宗教への所属を調べたりすると、人口を上回るというおかしな結果が出るのである。もちろん、信者数の水増しもある。大体、成功した新興宗教は、現世利益を説いており、物質的利益の追求を信仰によって支えているところが多い。もちろんそれはごまかしであり、でたらめである。人がある程度の幸福な生活を送るのに、信仰でむりやり欲望を巨大に膨らます必要などないのである。
 
 それは、「・・・ニートや引きこもり、うつ病。利益優先の経済活動に適応できない若者は増えている。団塊世代の親たちのように、組織の歯車となり、マイホームや老後のために働く生き方には魅力を感じない・・・自分に向き合い、仲間と支え合い、無意味な競争にさらされない。そんな仕事を追い求める・・・それを『甘い』と責めるのは簡単だが、もはやその優しさは社会システムに組み込まれている」のではないかという記者の言うとおりだ。団塊世代の親たちは、その子どもたちに、大きな物質的幸福を追求させるように教えたかもしれないが、その子どもたちは、「組織の歯車となり、マイホームや老後のために働く生き方には魅力を感じない」ということでもわかる。
 
 しかし、赤木智弘君は、優しいだけではだめだ、闘わねばならないと立ち上がる。現状を追認してしまい、それに甘んじてしまえば、自分たちの未来が危ういと考えたからだ。天木氏は、「生きていくだけであまりにもカネがかかる。少ない収入でももっと豊かな生活ができないのか」と言うが、現実はそうではない。赤木君は、社民党などの左派からも、見捨てられていると感じている。ちょっと、刺激的な問題提起をしたら、こういう人たちから、集中砲火が帰ってくる。東大出のエリート弁護士出身の公党の党首だの、何十年も雑誌その他に評論を書いてきた左派系知識人だのが、本もあまり自由に手に入らず、読む時間もなく、日々、バイトに追われているフリーターに、戦争とは何かをわかるためにイラクに行ってみろだのと、攻撃するのだ。これでは、この人たちが「弱者」を口にするのは、たんなるパフォーマンスにすぎないのではないかと彼が思ったとしても、仕方がないことだ。彼のような「弱者」を戦場に送ってはならないというのが、彼らの立場ではないのか。

 天木氏は、「このような厳しい現状でも「優しい世代」が育ちつつあることは一つの救いである。その世代が増えていくような経済、社会環境をを整える事こそ政治の責任であると思う」と述べている。それがかれらに欠けていることだ。そして、それは、政治にだけではなく、哲学にも求められていると思う。
 
 16日の『毎日新聞』の日曜書評欄に、哲学者鷲田清一氏の「思考のエシックス 反・方法主義論」の山崎正和氏の書評があって、近代哲学が、方法主義ともいうべきものに陥ったことを鷲田氏が批判していると書いてある。

 鷲田氏は、「近代の学問はすべて独自の方法を設け、それに従って思考を整合的に導くことによって成立した。もっとも極端なのは、大部分を数学という厳密な方法で貫いた自然科学だが、ケルゼンの「純粋法学」もフッサールの現象学も、真実を純粋な意味の体系へと一元化することで、方法の一貫性を求め、純粋な美術や音楽や文学を創造しようと競ってきた」という。そして、山崎氏は、「鷲田さんが鋭いのは、この方法純粋主義に学者の自閉と独善を嗅ぎつけ、彼らがだれに向かって語るかを忘れたからだ、と指定するところである。学者が専門家性と大学制度の枠内に閉じこもり、たとえ頭のなかの理想像であれ、他者の存在を見失ったときから、方法の鎧で身を固めたのである」という。そこで、「知性と社交の分裂は直せないとしても、その代りに努力すべきは、エッセイを書くことだと、鷲田さんはヒュームとともに主張する。エッセイとは「試論」であり、試論であることを自覚した文章である。アドルノの言うように、それは「方法的に非方法的な文章であり、体系性の限界を意識し、あえて断片的であることを恐れない文章である。鷲田流にいえば、だれに向かって書くか、相手の顔の見える文章だといってよい」。
 
 しかし、生活世界のことを哲学に取り入れたといっても、フッサールは、その師であるカント同様、中途半端だと思う。問題は、知性と社交というだけではなく、哲学は、感覚、感性、感情をも含むし、やはり、エピクロスの「人間のどんな悩みをも癒さないようなあの哲学者の言説はむなしい。あたかも医術が身体の病気を追い払わないならば、何の役にも立たないように、そのように哲学も、もし霊魂(心と読むこと―引用者)の悩みを追い払わないならば、何の役にも立たないからである」という言葉を思い起こす必要がある。
 
 いろいろな宗教の信者を見てきたが、一時的に癒された気になっても、結局は、悩みを抱え続けているという人が多い。例えば、プロテスタントの牧師は、今は試験でなるので、非現実的知識はあっても、現実的知識や哲学がなく、経験が不足している上に、古すぎる『聖書』の言葉や知識で語っているので、当然、現代の多様な信者の現実的な悩みや疑問に答えられないのである。信者の方も、それに不満を持っているが、あきらめているか、別の相談者を見つけて、相談してなんとかしているのである。宗教から宗教へと渡り歩いている人もいる。お寺の檀家や神社の氏子と新興宗教に二重に所属している人も多い。宗教が現実的不幸や悩みを、前世などの適当なもののせいにして、信者をだまして、まるめこんでいる場合も多い。ただ空想の中だけで、慰めを与えているのである。たんに悩みがなくなった気にさせるだけなのである。

  アメリカの福音派のメガ・チャーチ(大教会)の伝道師は、まるで、ビジネスマンのようであり、スタイルも現代化して、信者数を伸ばしている。現代人にマッチするように変化して時代に適応しようとしているのである。しかし、それも一時的なごまかしにすぎない。現代の宗教は、非宗教化することで生きのびようとしているのである。この場合は、宗教をビジネス化しているのである。

 それに対して、哲学は、公然と様々な現実知識を取り入れながら、変化・発展していくことが可能であるし、現にそうしてきたのである。知性と社交を結ぶということなら、赤木智弘君のような人とも知的社交を結ぶことで、彼の悩みを癒すこともできるだろう。もっとも、それには、フッサールの認識論(意識の学)よりも、感覚・感情・感性・意志・意欲の学や社会や経済やその他の方が、必要だろう。
 
 天木氏が言う「富豪や、贅沢三昧の生活に憧れる人」「権力や地位を求めてしゃにむに働く人生を選ぶ人」は、少なくとも今の日本にはそんなにいないだろう。それは、大企業若手正社員へのアンケートで、社長になりたくないという人が多かったことでもわかる。小泉構造改革路線の時には、ホリエモンや村上ファンドの社長のような連中がやたらと持ち上げられたのだが、それも今は色あせた。赤木君も、そんな雲の上の存在は、まったく意識にすら上らない遠すぎる存在なので現実的な目標にならず、なんとか手が届くかもしれない現場の正社員程度までは上昇したいという程度のことを望んでいるにすぎないのである。目に見えている目標に、手が届きそうで届かないことに、苛立っているのである。哲学がこうした問題に答えていくことを忘れているということが、問題だ。それから、哲学は、批判・疑問から始まって、いろいろと考えていくものだが、同時に、哲学は、新しい言葉、新しい言説を創造するものであるということがある。それは、現代の唯物論者のロラン・バルトやドゥルーズやガタリなどが強調してきたことだ。

  それは、「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。たいせつなのはそれを変更することである」(マルクス『フォイエルバッハ・テーゼ』)ということ、哲学が、たんなる認識論(意識の学)に止まることなく、意志・意欲・実践を含むものへと変わらねばならないということを意味している。
 
 なんだか、鷲田氏の言うような「体系性のない断片」のようになってきたが、知性と社交のことに関連するエピクロスの言葉で終わろう。
 
 「友情はそれ自身のゆえに望ましいものである、利益から出発するものではあるが」

  優しい世代

 12日の毎日新聞「発信箱」で、礒崎由美という記者が、「優しい世代」というタイトルのコラムを書いて一つの問題提起をしていた。東京でこの夏に行なわれた20歳―30歳の若者のトークライブにおける激論を聞いた後の所感であるという。
 会社や組織を嫌い、わが道を行くタイプは昔からいた。しかし最近の若者の労働観はどこか違うというのだ。
 「お金がなくても人間らしく暮らせればいいじゃないか」、「人をけ落としてまで生きたくない」、「社長だけ高い給料をもらうなんてオレには無理。一緒に働く人からどう見られるか考えたら、耐えられないもの」などと言う若者の言葉を聞きながら、その心象風景に当てはまる言葉を探せば、少し違和感はあるが「優しさ」ということではないか、と磯崎記者は次のように書いているのだ。
 「・・・ニートや引きこもり、うつ病。利益優先の経済活動に適応できない若者は増えている。団塊世代の親たちのように、組織の歯車となり、マイホームや老後のために働く生き方には魅力を感じない・・・自分に向き合い、仲間と支え合い、無意味な競争にさらされない。そんな仕事を追い求める・・・それを『甘い』と責めるのは簡単だが、もはやその優しさは社会システムに組み込まれている」のではないか、と言うのである。
 おそらく礒崎記者はバリバリ仕事をする有能な記者であろう。自分は決してそのような生き方をしない。人をけ落とさないまでも、すくなくとも自分は競争社会に勝ち抜いて成功しようとする上昇志向の人であろう。だからこの若者のトークに少し「違和感」を持つのだ。私自身がそうであるから磯崎記者の心が読める。
 しかし、彼女がこのような記事を書いたの、低賃金に甘んじても自分の好きな生き方をしたい、それが少しでも人にためになればそれだけで満足だ、という若者たちの生き方に、ひょっとしてそれも正しい生き方なのではないか、感じ始めたのではないか。もっと言えば、重労働低賃金に耐える青年から「お年寄りの笑顔を見るとつらい事も忘れるんです」と聞くと、自分の生き方よりも立派なのではないか、自分が果たしてそのような生き方ができるか、と、彼らの生き方に敬意すら抱き始めたのではないか。その思いが、彼女を「複雑な気持ち」にさせているに違いない。それもまた今の私の心境である。
 もう三年ほど前の話だが、私は講演で北海道の片田舎を訪れたことがあった。その時出会った若者の言葉を思い出す。可愛い奥さんと二人で東京から最近移り住んだというその若者は、土地を借りて乳牛の放牧で生計を立てていた。年収約300百万円と聞いて、「牛の数を増やせばもっと収入が増えるのに」とたずねた私に、「それはその通りです。しかし今は食べるものは自給自足だし、ここは物価も安いし・・・300万円あれば十分です」という答えが返ってきた。私は自らの愚問に恥じ入ったものだ。
  思えば私の人生は、他の多くの同世代の人々と同じように、学歴社会、終身雇用制度の下に競争社会を生き抜き、勝ち抜いてきた。その生き方に悔いはない。しかしすべてが終わった今その人生を振り返る時、もっと自由な生き方もあったと思う。
そしてここから書くことが今日のブログの言いたい事である。うまく表現できないが私が言いたい事はこういう事である。
 経済的安定や社会的見栄と引き換えに、人をけ落としてまで出世競争に一生を終わる人生。それを放棄して、自分に忠実な、自由な人生を送ろうと決断する時、何が一番の障害になるか。
 それは自尊心でも、社会的見栄でもない。最後の決め手は経済的な不安である。たとえば若者が早い段階で最低限の家を確保でき、食費、光熱費などの物価が安くなり、病気になった時の国の保障が完備していれば、その若者の生き方の選択は無限大に広がることだろう。
 富豪や、贅沢三昧の生活に憧れる人はいるだろう。権力や地位を求めてしゃにむに働く人生を選ぶ人がいてもいい。しかしそのような人生に積極的な価値を見出さない人たちが、堂々と自分の好きな人生を選べるような社会こそ理想ではないのか。そんな社会を実現する事こそ政治の責任ではないのか。ところが現実はどうだ。生きていくだけであまりにもカネがかかる。少ない収入でももっと豊かな生活ができないのか。
 このような厳しい現状でも「優しい世代」が育ちつつあることは一つの救いである。その世代が増えていくような経済、社会環境をを整える事こそ政治の責任であると思う。誰が自民党の総裁になろうとも、誰がこの国の総理になろうとも、まず政治家は真剣な政治を行う事が先決だ。

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反動解体後のフェミニズムの行方ついて

  フェミニズムに対する反動(バックラッシュ)が1990年代後期から数年前まで激しく続いていた時からすると、今は、まるでウソのように静かである。もちろん、中には、林道義のように、一人気を吐いている人もいる。

 例えば、7月9日の氏のHPでは、「女性防衛大臣に反対」と題して、「防衛省は軍隊の組織である。軍隊とは基本的に男の組織である。命をかけて国と家族を守る。それは男の仕事である。軍隊までいかなくとも、身近な 例で言えば、男女のカップルあるいは子供連れの夫婦が歩いているところに暴漢が襲ってきたら、女性や妻子を守って戦うのが男性の役目である」。学者というのは「頭でっかち」なので、いちいちこういう具体的ケースを一般的に論じて、よしとする傾向がある。

 彼は、個人主義者なので、国と家族しか眼中にない。家族は実際には、国の細胞あるいは社会と同一視されている。古代においては、家族は社会の単位、あるいは社会そのものであった。古代家族には、非血縁者が多数含まれており、現在の夫婦と子どもからなる単婚家族とはもちろん違うし、古代家族は生産単位でもあった。そのことは古代の戸籍を調べた研究がいくらでもあるので、誰でも確かめられる。中世でも女性による土地などの財産の相続の記録がある。

 中世においても、古代的家族の結合は強く残されていて、例えば、貴族の場合は、男が女性の元に通う通い婚が行われていた。女性は、夫の元に嫁いで、その家族に入るわけではない。だから、結婚した女性は簡単に家族の元に帰っていくことができた。和泉式部は再婚している。親鸞と一緒になった覚信尼は、彼の元を去っている。それから血縁関係もそれほど重視されておらず、中世前期の貴族の母親には、遊女が多いという網野善彦氏の研究結果がある。この頃までは、まだ古代的家族で女性の地位が高かった名残で、女性の地位は高く、自由もあったわけである。

 例えば、『古事記』の垂仁天皇のところには、后のサホ姫に、天皇が「夫と兄とはどちらが大事か?」と尋ねて、彼女が、「兄です」と答えるという話がある。サホ姫は、兄のサホ彦に指示されて、天皇を暗殺しようとしたが、できず、サホ彦の屋敷に入って、子供を産む。そして、「もしこの子が自分の子と思うなら育てて下さい」と言って、子どもを天皇の家来に預けて、自分は屋敷に戻る。それから、天皇が后に「すべて子の名は母がつけるものだが、この子の名前をなんとしたらよいか」と尋ねる。結局、サホ姫は、一族と共に死ぬ、という物語である。彼女は、天皇の后になったが、元の家族への帰属意識を強く持っていて、家族のために、天皇の暗殺さえ企てるのである。名前を付けることは、天皇の臣下に対する権限であって、氏姓を与えることは天皇の重要な仕事であった。しかし、子どもの名前をつける権限が、母親にあったことは、家族関係においてはまだ女性の地位が高かったことを示しているのではないだろうか?

 要するに、家族の中味は、時代によって違うし、価値観も変わってきたということである。人間一般が超歴史的に同一で、男性と女性が超歴史的に固定的役割分担を行ってきたとする林氏の主張は、まったく歴史的に根拠がない。氏は、歴史の無知をさらけ出しているくせに、それを恥じるどころか、逆に、彼が信奉するユング心理学の彼流の解釈から、現実を創作するのである。しかし、心理学ほど、内容が変貌してきた学問もないのである。軍隊は男の組織であるという氏の主張が、根拠があるように見えるのは、これまでそうだったからというだけのことである。それに彼があげる例には、実際には、反対例が多々存在する。女性によって助けられるケースはもちろんだが、それだけではなく、ここでは、カップルと子どもだけが、暴漢に襲われるという希な状況設定になっているが、実際には、まわりに他人がいる場合が多いだろうし、そういう他人に助けられる場合が多いだろうということもある。国(軍隊・警察)と家族しかないという非現実的なことを想定するから、極端で空想的な話になってしまうのである。実際には、他者ー社会があるのだ。それを飛ばすのが、おかしいのだ。

 このところ、フェミニズムへの反動(バックラッシュ)は沈静化しているし、保守派は内紛にあけくれ、自己解体し、社会的影響力を落としている。

   小泉政治の中では、自由主義的フェミニズムが台頭してきた。それ以外のフェミニズムはどうなっているのかがよく見えない。下のリディア・シリロが「自律なしには、反資本主義的左翼女性のフェミニズムといえども、分離主義的環境の中での理論化と実践に後退する」という指摘のとおりになっているのだろうか? 

   しかし、自由主義的フェミニズムに基づくものではあるが、政府は、男女共同参画社会化を掲げ続けており、その啓蒙プログラムが進められているし、企業における行動プログラムも一部とはいえ、進んでいる。遅々とした歩みではあっても、労働運動分野での女性の進出も進んでいる。鴨下さんのように、「連合」会長選挙で善戦する女性労働運動指導者も生まれている。ただ、マスコミは、忙しいために、世の中の動きに鈍感で、情報不足で、意識が遅れているらしく、相変わらず古い価値観を平気で流し続けている。それから、安部政権になってからの教育基本法改悪や教科書問題での右傾化・反動化の動きがあって、教育における反動という点も気に掛かるところだが、賢明な民意が、安部右派政権とその「美しい日本」路線を打ち倒したので、この分野の状況は好転するだろう。もともと、反動の「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書採択運動は、採択率があまりにも低すぎて、失敗に終わっていて、しかも、「つくる会」の分裂の後は、安部政権にすり寄っていった八木一派が安部退陣で大打撃を受けたし、残った藤岡信勝一派の「つくる会」もさらなる分裂・内紛に見舞われており、到底、強力な運動を展開できるような状況にはない。

   この好転した情勢の中で、フェミニズムを強化するために何が必要なのかを下の文章をも素材に考えてみる必要があるだろう。ただ、イタリアのようにカトリックの大きな影響力がない日本の場合はどうなるのか? 儒教がそれに当たるのだろうか? しかし、今、儒教がそれほど人々の意識をとらえているようには見えない。家父長制も以前ほど強いようには見えない。女性の財産相続は、けっこうあるのではないだろうか? それに子どもを名義上の相続者としながら、母親が実権を握っている場合もけっこうありそうだ。もっともそれは処世術のようなもので、慣習的な家父長制の圧力に屈していることに違いはないのだが。

  男女の固定的役割分担はもちろんある。男女の間の賃金格差や仕事上の差別、昇進差別もある。男女の賃金格差・待遇格差は、パート・アルバイト・派遣などの雇用の非正規化と重なって、複合しているということだろう。この社会が、男女共同参画社会化して、共稼ぎの家計を基本にしていくのか、家族手当などを含めた専業主婦制による家計を基本にしていくのかは、まだ決着がついていない課題である。それによって、税制や賃金のあり方その他が決まるということがある。それに、保育制度や社会保障制度のあり方も違ってくる。労働組合運動の賃金闘争においても大きな違いが生じる。

  「連合」は、これまで、正規労働者の家族を養える賃金水準という線で要求を掲げてきており、それによって、パートは家計の補助的労働という位置づけで、差があることを基本的に容認してきた。しかし、「連合」は、ワーキング・プアやパート・アルバイト・派遣などの労働者の待遇改善に活動の重点を置くという秋期大会での路線転換を打ち出している。格差是正を優先するなら、正規労働者の賃上げを抑制し、パート・アルバイト・派遣などの賃上げを行うことになるのだろうか? それは同一価値労働同一賃金というILO(国際労働機構)が各国に求めている賃金制度の線に近いものなのかもしれない。この場合、単身者が賃金水準が高く、既婚者が低くなるというようなこともあるかもしれない。

  これらのことを含めて、今後の社会の向かう方向がはっきりと定まっていない。今後の社会のあり方について、フェミニズムの考えがどれだけ、またどのような形で、その方向性に影響を与えることができるのかどうかは、わからない。しかし、安部政権が倒れたこの機会を使って、社会の方向性を指し示すことが必要ではないだろうか? その点で、重要な役割を果たすべきは、議会政党では、フェミニズム政治の志向を強く持っている社民党である。柳沢発言への超党派の女性議員による抗議活動を、福島党首が先頭になってすすめたことは、そうした役割を果たしたものであった。

  先の参議院選挙で驚いたことの一つは、当選者はでなかったとはいえ、女性党という政党が、知名度のある天木直人氏を担いだ左派系の「9条ネット」や何度も選挙に挑戦している右派政党の維新政党新風を上回る得票を得たことだ。この政党の実体は、どっかの会社の女性社員たちらしいが、投票した人のほとんどはそんなことは知らないで、ただ女性党という名前と選挙公約だけで、選んだと思われる。社民党は、この選挙で、格差と平和の二点を特に強調したが、このことからすると、もっと女性票の獲得を意識した公約やスローガンや政策を前に出した方がよかったのではないかと思う。それは郵政解散総選挙での自由主義的フェミニストである片山さつきや佐藤ゆかりなどの女性候補を前面に立てて大勝した小泉元総理の選挙戦術が功を奏したことからも言える。

反資本主義左翼のフェミニズム              かけはし2007.9.17号

私たちのフェミニズムは戦争と軍隊、その階層組織に反対する

女性労働者の要求だけでなく女性全体の要求を引き受ける
                           リディア・シリロ
1 フェミニズムと革命的潮流

 女は種々の階級および文化に所属し、異なる政治的基準点を持っているのであるから、複数のフェミニズムに分化するはずである。たとえば、イタリアの右翼議員やキャリア女性の間にはある形態のフェミニズムが存在し、彼女たちは、伝統的なフェミニスト的議論の助けを借りて権力の共有を要求し、排斥と除外の力学を非難し、反差別的措置を要求している。
 左翼においては、革命的、民主的、あるいは進歩的傾向の中で、フェミニズムは常に生まれ、再生している。一七八九年の革命の余波を受けた十九世紀前半の国民革命において、米国の奴隷制廃止運動の中で、労働者運動とともに、一九六〇年代および一九七〇年代の急進化の中で、そしてグローバルな正義の運動の中で、生まれ、再生してきた。
 右翼フェミニズムは、常にもっぱら、左翼の中で生まれた思想を取り込んだ結果であり、遅かれ早かれ社会全体に影響を与える一種の文化的副産物である。この現象は、左翼の男たちに対して解放の名目で彼らの矛盾を暴露し、彼らの語彙と思考様式を使って圧力をかけることが容易である(またはより困難でない)という明白な理由によって説明することができる。平等、自決、解放、差別、革命などの概念は、種々の形態のフェミニズムがその中で生まれ再生した政治的潮流によって練り上げられた思想のフェミニズム・バージョンにほかならない。
 この所見は、フェミニズムと男性の革命的、民主的、進歩的傾向との関係の牧歌的風景を描くことを許すものではない。フェミニズムに対する男の抵抗は執拗で、時には露骨で無作法に、またあるときは微妙に、無意識的にさえ行われてきた。
 初期の社会主義運動には、サンシモンやフーリエのようなフェミニストの男も、プルードンやラサールのような言いようのない女嫌いも存在した。エンゲルスは反資本主義的フェミニズムの概念的基礎を提起し、女をプロレタリアートに、男をブルジョアジーになぞらえ、人類の社会的組織の基礎を生産と再生産に置いたが、後にこれらの直感は理論と実践の中で失われた。労働者運動の中での女嫌いと反フェミニズムの完全な歴史を書くこともできるが、本稿では、今日の反資本主義的左翼内で広範に広がっている二つの態度についてのみ触れることにする。
 一般に、フェミニズムに敬意を表さず、プロレタリア的、フェミニスト的、環境的未来を心に描かないほど粗野な男は少ない。しかし、これらの認識はほとんど常に関心の欠如をともなっている。フェミニズムの裏表、差異や複雑な理論的細部は依然としてほとんど知られておらず、ジェンダーが、人間関係の論理の理解にとって置き換え不能な枠組みをどのように表すことができるのかが見過ごされている。
 もう一つの態度は、実は非常にまれな態度であるが、女にフェミニズムを教え、女たちの作業と議論を導き、日程を設定してやるという、男の父親的態度である。当然ながら、特定の男性が特定の女性よりも、女の政治やフェミニズムについてよく知り理解している場合があるという事実を除外することはできない。しかし、フェミニズムは、女が知的、心理的な自律にアクセスする過程でこそ生まれ、強化され、再生するのである。それは時間のかかる曲がりくねった道かもしれないが、代わってもらうわけにはいかないのである。
 自律なしには、反資本主義的左翼女性のフェミニズムといえども、分離主義的環境の中での理論化と実践に後退する。このフェミニズムは、独立した精緻化とジェンダーに基づいた力関係の解釈を行う能力があることを実証している。同時に、このフェミニズムは多くの場合、アカデミックなサークルの、あるいはいずれにしても、階級対立にほとんど関心を持たず、自分たちの特殊な利害を一般的な女の利害として描くという誘惑に常にさらされている環境にある女性の必要と観点を代表している。

2 家父長的構造

 フェミニズムを理解することは、とりわけ、女と男の間の力関係の性格を理解することを意味する。今日、公式の平等が達成されている世界の少なくとも一部に、抑圧が依然として存在することを否定するポストフェミニズムが存在する。「特殊な抑圧」という公式が、この潮流にある種の足がかりを提供している。
 さらに、これは新たな抑圧が見つかる唯一の理由ではない。あらゆる人間社会は、例外なく、顕在的または潜在的な家父長制的構造の刻印を帯びていると言うべきであり、この家父長制的構造が種々の仕方で女を差別し、排除し、抑圧し、暴力を振るっている。
 家父長制の文字通りの意味は、財産や社会的地位が父から男の子へ、しかもほとんどの場合長男へ受け継がれる制度である。欧州北西部では(他の一部の地域でも)、社会的地位のこの種の再生産はもはや存在せず、現実は鮮明でなくより複雑である。
 しかし、権力の男系継承の論理は、法律的な公式の側面を超えて明らかに残っており、人類学的次元を持っており、二世紀にわたる解放闘争はこれを終わらせることに成功していない。女性に関する四つの国連会議がデータを発表したが、これは抑圧に関する最も悲観的な理論家をさえ驚かせるものであった。
 たとえば、世界で土地および不動産を所有している女性のパーセンテージは三~四%を超えなかった。さらにアムネスティ・インターナショナルの女性に対する暴力に関するデータもつらい驚きをもたらすものであり、これを裏付けるものであった。しかし、家父長制的構造を理解する最も単純な方法は、誕生から死に至るヨーロッパ人女性の一生をたどることである。
 他の社会においては、選択的中絶があり、男の子より多くの女の子が栄養不良で死んでいる。われわれの社会では、家父長制的構造はこの後に役割を果たし始める。人生の最初の数年間に、少女は女らしさに向かう困難な道の中で、フロイトが「去勢」(コンプレックス)と呼んだ現象に遭遇する。すなわち、彼女らはペニスを持っていないことを発見し、劣等感を植えつけられ、知的能力および自己の見方と他者が自分を見る見方を条件付けられる。フェミニズムは最初は、去勢理論に対して、フロイトは男性の見方を女性の見方に重ね合わせたのだと主張して対応したが、後に、問題はもっと複雑であるこが明らかになった。
 誰かが疑問を抱いたように、フロイトがただ少女の視点と少年の視点を混同しただけであったとすれば、彼は平凡な誤解を作り上げただけにすぎないことになる。そうだとすれば、私たちは、彼が西欧思想に巨大な影響を与えた理由を説明することができない。影響は西欧に留まらない。去勢理論は、医学上の実験、女性が自己を去勢された者と見ており、何かが欠如し奪われていると感じているという試験結果に結び付けられている。
 したがって、去勢はイデオロギーの役割を演じているのである。すなわち、それは、力関係の中で「上」にある者の視点が、「下」にある者によって内在化され組み込まれたものである。劣等感理論は、男性の偏見から出てきたものではない。それは女性の無意識の中の現実である。この現実があらゆるときに現実として作用するのであり、当然考えられる差異が作用しているのではない。つまり、力関係における異なる位置が作用しているのである。実際、女はペニスではなくファルスを羨望しているのである。ファルスは多様化した複合的な形態の権力であり、ペニスはファルスの単なる物神にすぎない。
 もう一つの例を挙げよう。女性に対する暴力の範囲と広がりを、アムネスティ・インターナショナルのデータが最終的に明らかにした。しかし、特定の女性が一生の中で、自然が病気や死を通じて私たちに負わせる暴力以外の暴力に遭遇しない場合もある。それでもなお、彼女の人生は暴力によって深く条件付けられるであろう。なぜなら、暴力のリスクは予防対策やライフスタイル、心理学的態度をともなうからである。世界が男の手段として作り上げられている程度は、犠牲者が牢屋に入るという逆説によって実証されている。社会を貫く家父長制的構造は、暴力のリスクを、女性、特に若い女性を隔離する主要な理由にしている。
 さらに数多くの例を挙げることができる。たとえば、女性の二重労働日の問題がある。すなわち、かっては男の領域であった任務を、何の埋め合わせもなく引き受ける場合である。あるいは、公的舞台において男性の代表が多すぎることがある。公的舞台は、リズムと方法を、女性独自の存在のリズムと方法とは反対のものを強制し、あるいは、数千年にわたる象徴的伝統の男性独占を通じて構築され結晶化された女らしさの規範的イメージを強制する。イタリアの新しい世代の間で何かが変化しつつあるように思われるが、しかしこれらの変化は遅く、不確実である。
 これらの潜在的構造の他の影響はさらに複雑で、ピンポイントで指摘し定義することは非常に困難である。私たちもまた自分の性を通じて思考しているというのは本当である。おそらく精神分析学が想定するより少ない程度においてであろうが、私たちが自分の性を通じて思考しているのは確かである。男が数千年にわたって文化に対する独占権を握ってきたのが本当なら、不穏な仮説が可能である。女は知識の特に、構造化され形式化された分野に突入するたびに、男性の記号や象徴の石化した森を横切らねばならず、彼女は道を見つけるのに巨大な困難に遭遇するだろう、という仮説である。
 政治において女の存在を感じさせるまさにその仕方こそが、家父長制的構造の存在の結果なのである。女の沈黙、彼女たちの限られた存在と不安定を通じて、女たちはあらゆる政治的舞台の批判を行っているのである。特定の政治団体の中での男性の存在と支配が大きいほど、その団体は力の論理を用いなければならない。
 定理を提起し、命題や式を定式化することもできるだろう。政治団体、軍隊、教会組織などは、最も男性的な環境である。なぜなら、それらは深く権力にかかわる組織だからである。種々の理由から、これらの組織は女を吸収することができる。すなわち、批判を逃れるため、もしくは極端な女の不在を避けるために、または信頼性を回復するために、あるいは社会的団体との関係を必要とするために、である。
 男性と女性の分布の最も重要な例は、明らかにカトリック教会である。時には飢えたる者に食事を与え、渇きたる者の渇きをいやして、広大な民衆部門との絆を築いている組織は、女性のエネルギーと自分は世話をする人であるとみなす女性の傾向なしには、やっていくことはできないだろう。社会に深く広がった、女性の側に開かれた教会の上には、女性に対して厳しく閉ざされた権力階層のドームがそびえている。これこそ、宗教に典型的な、古典的人間関係を保存する能力の表現である。

3 フェミニズムの三つの重要な問題

 家父長制的構造は女性の生活を条件付け、ジェンダーを種々の方法で、種々の時間と場所において構築する。非常に多数の要求、たとえば二〇〇〇年の世界女性行進の綱領に編集されたような多数の要求は、世界的規模で未解決の問題の範囲を示している。
 アフガニスタンの女性はフランスやドイツの女性が経験したものとは異なる問題を抱えていることは明らかであり、現代のイタリアにおける中心問題は十九世紀と二十世紀にまたがる数十年間の最前線における問題と同じでないことも明らかである。十九世紀から二十世紀にかけての数十年間は、フェミニズム運動の最初の大きな波が起こった時期であった。異なる社会的環境、異なる世代、異なる女性の願望の中では、女性が克服しなければならない障害は同じでないことは明らかである。
 しかし、年代記的幻想は捨てなければならないし、私たちが解放をほとんど確保しかかっていると考えてはならない。公式の平等が達成されているところでは、もっと複雑な任務がフェミニズムを待っている、というのが本当であれば、すでに勝利した戦いや明らかに解決済みの問題や古典的関係が再び登場して私たちの前に現れることがあり得るというのも本当である。女性に対する暴力は最も明らかな例であり、その大きな可視性は種々の補足的な説明を果たしている。
 今日、女は、以前は我慢していた状況に反対してより頻繁に発言するようになり、世論はますます、以前は笑って済ましていたことに対して憤慨するようになっている。男は、力関係の中でしばしば発生するように、後ろ向きの見解と懲罰的暴力によって反応する。
 反資本主義的フェミニズムは、プロレタリア女性の必要と願望に注意を向けるだけであってはならない。女性全体の要求を引き受けなければならない。当然ながら、私たちの介入は特定の環境を対象とするから、女性労働者、移民、失業女性、女子学生、左翼政党、運動および労働組合の中の女性の要求が最前線となるだろう。
 近年私たちが取り組んできた問題で、近い将来においても優先しなければならない問題の例をいくつか挙げよう。

a 戦争と軍国主義および暴力の批判

 女の政治は、永続的戦争によって作り出される軍国主義的男の風潮に対する固有の批判の手段を持っている。それは、女性の平和的性格や女性の非暴力に関する思想に後退することではない。非暴力は、暴力の他の側面である。どちらも、力関係の不変の性格を当然の前提としている。
 暴力は、挑戦しようとする者に対する永続的な抑止力である。非暴力が武装解除できるのは一方の側だけである。「下位」の側、抑圧、搾取、新植民地主義的略奪を受けている側である。イタリアにおけるこのことの最も明白な証拠は、非暴力のスポークスパーソンたちである。彼らは抑圧されている者の暴力に非妥協的に反対していながら、議会において、アフガニスタンにおけるイタリア軍の任務を改めて信任することに投票した。
 非常にずるがしこいフェミニズムは、女に想定されている平和的性格は男との力関係によって彼女たちが表すことを許されてこなかった攻撃性を内在化する必要に大いに結びついている、とすでに説明している。軍国主義と暴力(特に女性に対する暴力)の批判は、従属的地位と抑圧の理想化ではない多くのものごとに基づいている。
 女は、何よりもまず、男らしさが構築される基礎になっている固定観念に適応する必要がないので、批判を行うことができる。彼女たちは、男の性に結びつけられた幻影である堅さや強さを示すことを要求されない。彼女たちは、男以上に、暴力に支配された人間関係の破壊的影響を受けている。
 力関係(性間、階級間、国家間、など)が依拠している暴力に反対して、私たちのフェミニズムは、何よりも、この種の関係が廃止された社会を提起する。したがって、抵抗、闘争、急進的改革プロジェクトを支持する。
 私たちのフェミニズムは、戦争、軍国主義、軍隊とその階層組織に反対する。暴力は必ずしも暴力に対する正しい対応であるとは考えない。いかなる人の命も貴重なものであると考え、したがって、死刑に反対するだけでなく、残虐行為や正当防衛の過剰にも反対する。しかし、非暴力を原則とはしない。なぜなら、解放闘争の主体が進む道を防衛する権利を認めるからである。
 また、私たちのフェミニズムは、女性に対する暴力に対して何よりも自衛の論理で対応する。当然ながら、それは男に対する女の武装自衛を意味しない。なぜなら、性の間の関係は非常に異なった方法で規制されるからである。国家による保護が必要であり、現在は他の方法で置き換えることはできないと考えるとしても、問題をペニスの管理によって解決できるとは考えない。
 自衛とは、反暴力センターの設立と出資のための女性のイニシアティブを意味し、発言することが犠牲者に不利にならないように、都市生活を最初から女性のニーズに合わせて編成し、その非合理性や顕在的・潜在的暴力のコストを女性が担わなくてもよいようにすることを意味する。
 最後に、私たちのフェミニズムは、解放の力学が多くの場合民主的、進歩的あるいは革命的運動の中で武装した人民によって支えられてきたように、女の政治も、武装していないのは見かけだけであることを忘れてはいない。(たとえば)ナチズム/ファシズムに対する抵抗は、フェミニズムと女性に重要な影響を与えた。

b 世俗主義と自己決定について

 私たちがその中で生活している国は、カトリック教会が依然として自らの世俗的権力をふるう国家実体として見ている国である。カトリック教会は決して世俗的国家に従おうとはせず、駆使しうるあらゆる手段を用いて世俗的国家と闘い続けている。近年では、右翼勢力や、カトリック政治勢力の脅迫に有利な政治体制の登場によって、家父長制的および同性愛憎悪的意味を持った聖職者組織の介入が実際に増大している。
 合法的な無料の妊娠中絶へのアクセス権が、種々の方法で脅かされている。カトリック教会は、薬による妊娠中絶の実験的使用を妨げた。妊娠の瞬間から胚を法律的主体とするという恐るべき法律を承認した。さらに私たちは、ゲイやレズビアンのカップルのいかなる形の認知にも反対する非常に無慈悲で多くの場合攻撃的かつ人種差別的な反対を目撃している。
 つい最近、筋ジストロフィーの末期段階の患者であるピエルジオルジオ・ウェルビーの試練が、医師の市民的不服従の行為によって終結した。何カ月もの間、ウェルビーは、苦痛の中で強制的に生き続けさせ、近いうちにもっと苦しい死を強いるであろう機械を外すように懇願していた。彼の要求は騒々しい政治的議論を引き起こし、その中でバチカンの官僚はあらゆる権力を駆使して、判事や医師に対して圧力をかけ脅迫した。
 カトリック原理主義は(他の形態の原理主義と同様に)、女性や同性愛の人々だけの脅威ではなく、教会階層組織の政治的行動の見かけの人道主義的・平和主義的意味を越えて、あらゆる解放過程にとっての脅威である。彼らは戦争反対の立場を取ったが、その後にはイタリア軍の「平和の使命」の考え方を支持した。彼らは移民歓迎の態度を取ることを唱えたが、続いて右翼政府の差別的反移民法の実施を支持した。さらに、私たちはカトリック教会がファッシズムの登場に賛成した体制の一つであったことを決して忘れてはならない。近年では、フェミニストとクイアの運動だけが、カトリック原理主義に抵抗し続けている勢力である。
 フェミニズムに関しては、ある種の混乱のために、長期にわたってこの抵抗は弱まっていた。生殖技術に関する法律が成立の過程にあり、続いて右翼政府によって承認されるという最も微妙な瞬間に、フェミニスト組織やグループは依然として議論に足を取られていた。この議論においては、科学的調査の驚くべき意味に関する心配があったが、カトリック勢力のより洗練された主張が注意をひきつけていたのは明らかであった。
 フランケンシュタインを作り出した科学者の幽霊、女性の生殖能力の喪失に対する古典的恐怖、科学的調査の限界に対する十分根拠のある懸念、受精卵移植における多国籍企業の役割、などのすべてが入り混じって、イニシアティブにブレーキをかけた。その結果、フェミニストはこの問題においては議論を越えて進むことには成功しなかった。
 第一に、国民投票の結果は非常に低く、有効投票数に達しなかった。議論の対象となった問題は複雑で、妊娠中絶の問題とは対照的に、非常に限られた数の人々しか直接経験しない問題であった。
 第二に、妊娠三カ月までの妊娠中絶を非犯罪化する法律に関する国民投票が行われたのは、数年にわたる事実上の不服従と女性の自決の権利に根ざした議論の後であったが、生殖技術に関する国民投票は、投票前の数カ月間に法律が送り出され、メディアが決定的役割を演じた。
 この後、合法的妊娠中絶へのアクセス権に対する直接攻撃があり、そこでは反女性的抑圧的態度が明らかであったが、この攻撃が女性の運動を活動に引き戻し、二〇〇六年一月には、ミラノにおいて数十万の女性のデモが行われ、力強い反応をもたらした。この同じ日に、レズビアン、ゲイの人々およびトランスジェンダーの人々を含むGLBTQ運動の主要組織が、PACS(同性結婚の認知)を求めてデモ行進した。二〇〇六年は、世俗主義と自己決定権の問題に関するデモ、取組み、闘争に彩られた年であった。

c 女性労働者の権利の防衛について

 逆説的であるが、賃金労働者の敗北とグローバリゼーションが、女性にとって新たな雇用機会を開いた。これは新しい逆説というわけではなく、階級関係の歴史においていろいろな意味で前例があることである。
 女性が世界市場に最初に現れたとき、女性は多くの経済において好まれた。なぜなら、これらの経済は高い労働力係数を持つ生産に、したがって低賃金に依拠しており、労働組合組織の制約と権利の厳しい制限に依拠していたからである。
 ヨーロッパにおいても、当時は労働者運動はまだ弱く、男性労働力に対する女性の競争の問題に取り組まなければならなかった。このことが初期の労働運動の女嫌いの側面を少なくとも部分的に説明する。女性労働者の権利の防衛は、したがって、女性の雇用を好む雇用主の利益を削減する動機も持っていた。
 女性は、最も開発の進んだ国々の経済においても好まれている。そこではサービス部門が成長し、賃金労働者の権利に対して、特に広範な個別の臨時雇用化過程を通じて、猛烈な攻撃が行われてきた。
 コインの裏側は、あらゆる賃金労働に影響を与えている臨時雇用化された仕事が女性を好んだことである。女性にとって正規雇用はほとんど不可能に思えるようになっている。この文脈の中では、母性を保護する法律は、正規雇用として雇用することに対する強力な阻害要因として作用する。それだけでなく、ますます競争が激しくなるキャリアの競争の力学の中で、女性は依然として、後回しにされるか、キャリアと出産のどちらかを選択しなければならない定めにある。
 本当のことを言えば、ほとんどの場合、女性の個人的生涯計画がどうであれ、仕事を選ぶことは不可能である。なぜなら、出産年齢の女性であることは、企業内の協力や定職の可能性を制限するからである。
 さらに、給与は控えめであるが大多数の女性にとって人生の選択と両立し得る労働時間と権利が保証された、教職のような職業分野においても危機が存在する。
 このような問題に直面して、フェミニズムも過去において、女性固有の権利の要求の代替案に取り組み、職を得ることの困難性の増大に取り組んだ。あるいは、そのような権利を放棄し、遅かれ早かれ解決不能な矛盾に陥った。
 この問題は、ジェンダーの観点からだけでは解決できない。保護は、社会関係が従属的階級にとって不利な場合、女性が職を見つけるのを困難にする。ファッシズムが母性の強力な保護者であったことは、偶然ではない。この理由から、女性にとって、仕事と、男性とは異なる存在であることを両立させることを可能にする法律だけでは十分ではない。差別を不可能にする雇用形態を強制することも必要である。
 イタリアにおいては、一九七〇年代に、短期職業紹介の改革によって、雇用主は彼らの希望よりはるかに多くの女性を工場に配置するように強制された。しかし、他にも多くの措置が可能である。
 権利に関しては、観点も考え方も変えなければならない。このことは、女性にとってできるだけ少ない固有の権利を要求し、その代わりに最初から男性ではなく女性の視点から見て平等の措置を要求することを意味する。この観点から、私たちは、女性の夜間作業の禁止を廃止する欧州標準を拒否し、夜間作業が絶対的に不可欠である場合を除いて、これを男性にも拡張することを要求する。また、女性の早期年金支給に関しては、われわれは男も女もとることができる介護任務のための長期休暇が望ましいと考える。母親と父親の育児休暇が望ましいのと同じである。
 このような基準は、人間の体の変えることのできない差異の問題には適用できないことは明らかである。このことは、所得全額補償の妊娠や出産のための休暇、無料の合法的妊娠中絶へのアクセス権、高齢女性のために補助的生殖技術へのアクセス権のような女性固有の権利が存在することを意味する。この場合には、男が同等の決定権を持つ基盤は存在せず、関与し乱されるのは女性の体であり生命なのであるから、差異が支配しなければならない。

▲ リディア・シリロは、一九六六年以来第四インターナショナル・イタリア支部のメンバーである。フェミニズム活動家で、イタリアにおける世界女性行進の指導的人物であり、クアデルニ・ヴィオラ(パープル・ノートブック、フェミニスト・レビュー)の設立者である。フェミニズムと社会運動の関係に関するいくつかの著作がある。

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10・21反戦共同行動in京都リンクのお知らせ

 新たに、10・21反戦共同行動in京都のホームページにリンクを張ったのでお知らせです。

 10・21反戦共同行動in京都http://www.kyotohansen.org

 ついでに、このHPにあるリンクも下に張っておきます。

9条改憲阻止の会 http://www.jca.apc.org/kyujokaikensoshi/

アジア共同行動・京都 http://www.jca.apc.org/kyujokaikensoshi

関西共同行動 http://www17.plala.or.jp/kyodo/

関西合同労働組合 http://kansaigodo.no-ip.org/main/

アジェンダ・プロジェクト http://www3.to/agenda/

大阪A&U http://aanduosaka.cocolog-nifty.com/blog/

ピースメディア http://www.peacemedia.jp/

東西本願寺を結ぶ非戦平和共同行動実行委員会 http://www.mikoan.com/touzai.html

リファダンス・アリラン(梨花舞踊学院) http://www.ewhadance.com/

PACE(パーチェ) http://www.geocities.jp/pace_noyuji/index.html

パレスチナ・キャラバン実行委員会 http://palestinecaravan.org

地域・アソシエーション研究所 http://www.ne.jp/asahi/institute/association/

レイバーネット日本 http://www.labornetjp.org/

団塊ネット・コム http://www.dankainet.com/index.html

鹿砦社松岡裁判を支援する会 http://www.paperbomb.jp/

ほんやら洞 http://honyarado.cool.ne.jp/

彌光庵 http://www.mikoan.com/

京都哲学の道カフェ・テラッツァ http://www.cafeterrazza.com/

人民新聞 http://www.jimmin.com/

ジェーン・フォンダ(直接は無しhttp://www.janefonda.net/

京都行動(辺野古基地反対のHP) http://kyoto-action.jugem.jp/

 「美しい国」をスローガンに掲げ、9条改憲に向けて正面突破をはかろうとした安部政権は、ついに倒れた。安部政権を倒したのは、いうまでもなく、参議院選挙で示された民意であった。

   しかし、世界では、イラク、アフガニスタン、パレスチナなど、戦争が続いている。アメリカのブッシュ政権は、キリスト教原理主義の下に隠された邪悪な利益のために、それらの戦争を継続している。彼の神様(god)は、アメリカの文明を世界に押しつけることを命じているらしいが、そんな神様などどこにもいない。それは、アメリカの汚らしい野望が逆立ちしてブッシュの頭に反映しているにすぎない。

 そのアメリカの野望に積極的に手を貸すことで、自らの汚らわしい野望を重ね合わせ、共に、利益を貪るために、憲法9条を抹殺して、人々を戦争にかり出そうとしたのが、安部政権であった。

 しかし、その野望は、うち砕かれた。 民意の賢明な判断によって。

 これで一時的にはほっとはできても、油断するわけにはいかない。世界でブッシュの戦争は続いているし、政権は交代しても、自主憲法制定を掲げる自民党政権のままだ。もっとも、反戦運動の中には、安部政権が続いてくれた方が、やりやすいという意見も聞かれたのであるが。

   特措法を延長するよう求めるアメリカからの要求が強まっており、こういう外圧も含めて、衆議院で、与党は3分の2を占めていて、採択しようと思えばできるわけで、やはり、油断するわけにはいかないのである。新政権は、衆議院選挙での勝利を優先したポピュリズム的な性格になるものと予想される。民主党の政策をかなりまねしてくるし、生活問題に重点を置くことになろう。テロ特措法延長問題では、すでにレームダック化しているブッシュ政権に無理して恩を売る必要もない。ブッシュ政権は、すでに、自分の外交得点を稼ぐために、日本政府の意向など無視して、好きなように米朝交渉を進め、テロ支援国指定解除や米朝国交正常化交渉に向かって行っている。

 6月15日の東京の日比谷野音反戦集会1000人に続いて、10月21日京都円山公園での反戦共同行動は、参加規模次第では、政治的社会的流動の新たな大きいうねりを引き起こすことになる可能性があると思う。

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音楽の力ー天木ブログから

「議論のさいには、議論で負けた者の方が、新たに何かを学び知るだけ、得ることが多い」 (古代の唯物論者エピクロスの言葉)

  天木さんの下の記事を読んで、少々気の毒になった。と同時に、めげない人だとそのたくましさにも感心した。

   天木さんは、光市母子殺人事件の事を書いた8日のブログ記事について、批判メールが届いたので、それから学ぼうとして、謙虚にそれらを読んだという。しかし、やはり批判されるのは、いい気がしないし、ブログを止めようかと思ったりしたという。しかし、そんな時、ラ・パロマという曲が頭の中に流れてきて、そうすると、すべてを忘れて、心がなごむのだという。「あのメロデーに私の外交官人生の遠い思い出が蘇ってくる。途中で頓挫してしまったが、悲しく、甘く、そして何かを追い求める懸命な外交官であった自分を思い出す。自分の人生そのものを感じるのだ」というのである。

  私は、どこか九州のある知人を思わせる顔の天木さんのファンの一人であり、だからこそ、氏のブログを見ては、いろいろなことを考えさせてもらっているので、どうしても、当ブログでも、批判したり、評価してみたりしたくなるのである。

  氏は、改憲を掲げ、改憲のための国民投票法案を強引に成立させ、先の参議院選挙で改憲を正面に掲げようとした安部政権の改憲政治に対して、「9条ネット」という社共から共闘を拒否された準備も整わない素人ばかりの集団が、ただ9条が危ないという危機感から、にわかに選挙戦に参戦したところから立候補し、敢然とそれに闘いを挑んだ。彼は、9条改憲阻止を願う人々にとって、勇気ある戦士であり、英雄である。

  勝敗は時の運ということもあるし、当選できなかったという点では、敗北であるには違いないが、9条改憲阻止という目標は、安部総理が改憲を口にしなくなったり、集団的自衛権発動解禁の議論が止まったり、と改憲の動きに一定歯止めがかけられたという点では、ある程度達成できたとも言える。

 その天木氏が、音楽から慰めと勇気と力を得ているということに、親しみを覚える。
 
 私もまた音楽の楽しみ、音楽の力を強く感じる者である。私は、唯物論者で、霊などまったく信じていないが、最近流行った「千の風にのって」という歌を聴いて、感動した。この物語の語り手である9・11テロの犠牲者が、不幸な死を遂げたと思って同情し、家族など墓前で悲しんでいる人々に、悲しまないでと願い、人々の幸福を願って空から見守っているとメッセージを述べていることが、悲しいし、涙を誘うのである。

  ここには、社会的なものとしての言葉の力が感じられる。死者とのコミュニケーションというのは想像でしかあり得ないけれども、社会的なものは想像的なものを含んでいて、だから、想像物としての死者の言葉やイメージは、社会的コミュニケーションとしての対象たりうるのだと思う。心の中のイメージとしての誰かと対話することは、単なるモノローグ(独り言)というわけではなく、やはり社会的コミュニケーションの一部でもあり得るということである。それはなにがしかの感情を呼び起こすことができるからである。

  ある特定の人との関係は、その人との個別的な関係においてしか得られない具体的な感情を含む。しかし、その感情はどうしても変化してしまう。死者とは想像上の存在であり、それとの関係は想像上の関係である。生きている人々の感情生活は多様であり、変化するものである。それを抑圧したら、この世での豊かで幸福な人生など実現不可能だ。光市母子殺人事件の遺族の木村氏は、妻子のことを最近はよく忘れていることがあるとすまなそうに語るけれども、それを責められる人などいないだろう。

 想像上の死者は、歴史も身体も時間も空間も持たないから、描かれた通りの空想的で純粋な性質を保っているだけだ。不幸な死を遂げたと同情されている犠牲者の側が、恨み辛み、憎しみを超越して、善人になって、この世の生者を空から見守っているという物語に、驚き、泣けるものがあるのはそのせいだろう。 

 「コンドルは飛んでいく」(エル・コンドル・パサー)という歌は、昔から好きな歌の一つで、アンデスの高山をさらに上空から見下ろして飛ぶコンドルの視線から、地上を見おろすと想像すると、崇高な感じがするし、とてもさっぱりした気持ちになったのだが、ペルー公邸人質事件が、強行突入による銃撃戦の末、流血の結末を迎えた後、フジモリ元大統領が、その勝利を祝って、この歌を歌ったのを聴いて、その崇高さが汚されたように感じた。
 
 最近では、数百万の市民が、イラク戦争へのイギリス政府の参戦を批判して立ち上がったイギリスの反戦運動に参加した人気バンドU2の「with or without you」「beutiful day」を聞くと、心地よい。これらの人々の平和への思いやその力を思い出すということもあるし、美しい一日というのは、快い一日ということでもあり、そうした平和で幸福な一日を想像できるからということもある。

  エリック・サティの「ジムノペディ」、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」は甘美さを・・・

 ラ・バロマという一つの音楽が、人生の隠喩を喚起するという天木氏の言葉を聞いて、1977年にローマで現代の優れた唯物論者の一人であったロラン・バルトが音楽について語ったことを思い出した。
 
 「多分、自分の隠喩的な力によって価値のあるものが一つあります。多分、それが音楽の価値なのです。つまり、よき隠喩であるということが価値なのです」(「音楽・声・言語」―シャルル・パンゼラについて)。
 
 また、哲学者ヴィトゲンシュタインは、「音楽は、わずかな音とリズムしかもたない未開芸術だと、とみなされることがある。だが単純なのはその表面だけのことで、その肉体には、音楽の瞭然たる中味を解釈させる力があり、また、あの無限の複雑さがそっくり秘められている。つまり他の芸術では、複雑さは外観においてその輪郭をもたらすものだが、音楽は、そのような複雑さを黙秘するのである。ある意味で音楽は、もっとも洗練された芸術である」『哲学的断章』)と音楽について書いている。
 
 両者は、ほとんど同じことを語っている。音楽には、色も形もないのだが、隠喩を喚起する力がある。人生のある断片をも隠喩として喚起する力があるのである。

 ラ・パロマの曲が聞こえる(9月11日)

  いきなり唐突な事を書いてみる。このブログを毎日書き続けることは結構しんどいことだ。何がしんどいか。それは毎日その日のテーマを見つけて、誰からも文句の言われないブログを書こうと頑張るからだ。
  光市殺人事件の事を書いた8日のブログについては、一斉に批判のメールが来た。このブログの読者からくるメールであるから、さすがにバカヤローとか死ねとかいう低次元のものはない。それぞれもっともなメールだ。
  謙虚な(?)私は、そのようなメールからも学び取ろうとする。極力返事を書こうとしたりする。しかし批判を受けることはいい気がしない。馬鹿らしいから、そろそろブログを書くことを止めようかと思ったりもする。
  そんな時、なぜかラ・パロマという曲が聞こえてくる。私はこの曲が一番好きだ。クラシックもオペラもジャズもスタンダードも演歌も好きな曲は多々ある。しかしこの曲を聴くと私はすべてを忘れる事が出来る。心がなごむ。あのメロデーに私の外交官人生の遠い思い出が蘇ってくる。途中で頓挫してしまったが、悲しく、甘く、そして何かを追い求める懸命な外交官であった自分を思い出す。自分の人生そのものを感じるのだ。

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プリンセス・マサコ、橋下弁護士騒動などに寄せて

 下は池田信夫氏のブログhttp://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/a049e570337b598ff0bd8fabcbe19c54にある記事である。

  これは、宮内庁の抗議を受けて出版中止になった『プリンセス・マサコ』の完訳本が出たことに寄せての書評である。

  「一人の女性が宮内庁の「囚われ人」となって鬱病にかかり、それも外出もできない重い症状になっているというのに、周囲が心配するのは皇室の面子や跡継ぎのことばかり。鬱病が自殺の最大の原因だということはよく知られている。これは明白な人権侵害であり、場合によっては人命にもかかわる。メディアは宮内庁の異常な体質について客観的に報道すべきだし、政府はまじめに対策を考えるべきだ。その選択肢には「皇室からの離脱」も当然、含まれよう」という部分は、事実ならひどい話だ。池田氏の言うとおりである。
 
  新しく、杉浦ひとみの瞳http://blog.goo.ne.jp/okunagairi_2007、津久井進の弁護士ノートhttp://tukui.blog55.fc2.com/ 情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005、マガジン9条http://www.magazine9.jp/index.html、天木直人のブログhttp://www.amakiblog.com/blog/、をマイリストに加え、リンクを貼った。
 
 ちなみに、津久井さんの最新記事は、「今枝仁弁護士が語る~光市事件弁護団を違う視点から見る(コメント転載)」で、当ブログで取り上げたばかりの橋下弁護士に対する弁護団数人からの提訴に関連して、弁護団の一員の今枝弁護士の反論や考えを述べたコメントの転載である。以下、引用。
 
 「世間から大バッシングを受け,橋下徹弁護士の扇動で懲戒請求まで受け,刑事弁護のあり方自体が問われている光市事件の弁護団が,勇気をもって発信の努力を講じ始めた。

 言うまでもなく,弁護人というのは,もともと世間の批判の矢面に立つ宿命にあるし,被害者の方から厳しく批判を受けるのも当然の立場にある。
 弁護活動を行う弁護士たちは,自らの身をもってそれをよく知っている。

 今回の事件では,被害者である本村洋さんが勇気を振り絞って思いを訴えたのに対し,世論が共感した。
 そのこと自体は,被害者を単なる興味の対象でしか見てこなかった社会にあっては,犯罪をわが事と思えるようになり,とても貴重で価値あることだったと思う。

 また,橋下弁護士も,世間に対する配慮が必要だと指摘をした。
 それも,このように極端に情報が氾濫し,何かあるとすぐ国民的ヒステリーに増幅する社会にあっては,世論を全く無視すると大変な目に遭う,ということを気付かせた点で重要な指摘だったと思う。
 (ただ,その危うい傾向を逆に利用して,善良な世論を扇動した点は,問題であるが。)」
 
 この問題を含めて、今日の司法制度が抱える問題は多岐に渡っている。刑事弁護のあり方、遺族の裁判への参加、関わり方の問題、遺族の人権、遺族への補償・精神的ケア、死刑制度のあり方、死刑判決の基準の問題、世論との関係、裁判員制度、少年法、冤罪、自白偏重の取り調べの問題、拘置制度、監獄制度、矯正諸施設の問題、再犯率を引き上げている触法精神障害者問題、等々。光市の事件は、これらの多くに関わっていて、遺族の裁判参加が実現することになったり、少年事件における死刑の基準がおそらく変わってくることになる等の司法改革のきっけかともなっている。司法をめぐる諸矛盾がいっぱいたまっている。それにも世論のフラストレーションがたまっているように思われる。
 
 弁護団への橋下弁護士の批判の一つは、司法吏員の世論への配慮・説明がないという点にある。今のところ、弁護士の世間への説明は任意の行為にすぎないが、裁判員制度によって、世間の人が裁判で裁く側に参加するようになるという新たな状況に対して、橋下弁護士がそれを先取りするような形で物を言っている面はある。これまで弁護士は、法律の専門家である裁判官を相手に説得・説明すればよかったのだが、裁判員制度が始まると、法律の素人の陪審員をも相手に説得・説明・弁明をしなければならなくなるのである。橋本弁護士の批判は、「このように極端に情報が氾濫し,何かあるとすぐ国民的ヒステリーに増幅する社会」から、陪審員が送られてきて、かれら相手の弁論が必要になるという新しい事態に対応できているのか? と問うているように、無理に読めないこともない。
 
 杉浦ひとみさんからは、この問題での当ブログ記事にコメントを頂いている。ありがとうございます。

 その中で、「この記事の中で、「弁護士の使命は顧客である被告の減刑の実現にあるという事かもしれない」というような文言がありました(天木さんの引用のようです)。/でも、私は腕のいい弁護士とは「黒を白にする」弁護士ではなく、関わる中で、被告人が行った行為の意味に気づき、被害者に対して少しでも反省の思いを持ち、自分がその償いをも含めて前を向いて歩こうという思いになったときに、裁判官がその被告人の態度を見て刑を減ずる判断をする、そのための働きかけができることだと思っています」と述べられていることに、感心した。遺族の木村洋さんが似たようなことを言っているが、彼は、差し戻し審での、被告の陳述を、弁護団による死刑回避のためのシナリオ通りのでっち上げ話だと決めつけているのである。もちろん、彼の脳裏に減刑の余地はなく、死刑に臨むに際して、被告に、そうしてほしいということである。光市の事件の被告が、自分の行った行為の意味に気づき、被害者に対して少しでも反省の思いを持ち、償いをするという状態になるのは、生い立ちによって、精神的に未熟すぎる状態にあるために、まだ無理だというのが、精神鑑定結果からの結論の一つだと思う。被告は、このまま死刑判決を受けても、その意味をよく理解できないのではないだろうか?

 プリンセス・マサコhttp://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/a049e570337b598ff0bd8fabcbe19c54(池田信夫ブログ)
2007-09-10 / Books

 副題は「菊の玉座の囚われ人」だが、なぜか背表紙にしか書いてない。いったん講談社から訳本が出ることになっていたが、宮内庁や外務省が抗議したため、土壇場で出版中止になった、いわくつきの本の完訳版だ。

・・・というから、どぎついスキャンダルが出ているのかと思えば、内容は日本人ならだれでも知っている出来事を淡々と綴ったもの。しいて違いをさがせば、父親(小和田恒氏)も本人も含めて結婚を拒否し、小和田家が結婚を祝福していなかったことがはっきり書かれていること、それに雅子様が「鬱病」であることは疑いないという複数の精神科医の話が書かれていること、また将来の選択肢の一つとして「皇室からの離脱」があげられていることぐらいか。

  これに対して今年2月、宮内庁が書簡で異例の抗議をした。しかし「各ページに間違いがあるのではないか」と書いている割には、具体的な間違いの指摘は1ヶ所しかない。たしかに、そこで指摘されている「天皇家がハンセン病のような論議を呼ぶ行事にはかかわらない」という記述は誤りで、今度の訳本でも訂正されている。しかし、あとは天皇家の公務がいかに重要であるかを繰り返しているだけで、これは事実ではなく見解の相違にすぎない。

  原著の記述を出版社が訳本で百数十ヶ所も削除しようとし、著者がそれに同意しなかったために出版できなかった、というのが表向きの経緯だが、これは明らかに宮内庁などの検閲だろう。しかし、どこにそんなに多くの問題があるのかわからない。小ネタとしては、たとえば秋篠宮が「情事を持った女性」が少なくとも2人いて、川嶋家がその情事の結果について「責任を取るように要求した」ため、皇太子よりも先に結婚することになった、というような日本のメディアに出ない(しかし世の中では知られた)エピソードもあるが、全体としては紳士的に書かれている。

  一人の女性が宮内庁の「囚われ人」となって鬱病にかかり、それも外出もできない重い症状になっているというのに、周囲が心配するのは皇室の面子や跡継ぎのことばかり。鬱病が自殺の最大の原因だということはよく知られている。これは明白な人権侵害であり、場合によっては人命にもかかわる。メディアは宮内庁の異常な体質について客観的に報道すべきだし、政府はまじめに対策を考えるべきだ。その選択肢には「皇室からの離脱」も当然、含まれよう。

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橋下弁護士の騒ぎをめぐるいくつかの議論

 タレントとしても活動する橋下弁護士が、山口県光市母子殺人事件の被告の弁護団数人から、テレビでの懲戒請求呼びかけに応じたと見られる3900あまりの懲戒請求を出されたことで、その対応におわれ、弁護士業務に支障をきたしたとして、損害賠償を求められ、訴えられた件で、兵庫の津久井進弁護士のブログと天木直人氏のブログが、それぞれ、論評している。お互いを意識されたかどうかはわからないが、奇しくも、両者とも、「理」と「情」の関係を論じるものになっている。
 
 天木氏は、2007年9月8日付けの「訴えられた橋下徹弁護士の騒ぎに思う」http://www.amakiblog.com/archives/2007/09/08/#000517で、「この橋下発言騒動をきっかけに、光市母子殺人事件の裁判の本質について考えて見たい」として次のように書いている。

 「被害者の夫であり、父親である木村洋という若い男性に、私はこよなき共感と敬意を覚える一人である。そしてまた、これほどの残酷な犯した被告に対し、理屈にあわない論理をもって弁護する弁護団に、大いなる疑問を抱いてきた一人である。
 弁護士の究極の使命は何か。それは顧客である被告の減刑の実現にあるという事かもしれないが、正義をまげてまで不当な減刑を勝ち取る事では決してないはずだ。正義の実現をゆがめてはならないはずだ。更にまた、巷間言われているように、死刑廃止論に固執する人権弁護士たちがその目的の為に裁判という場を利用して自己主張をしているとすれば到底賛成できない。因みに私は死刑容認論者である。自らの命をもって償わなければならない残忍な犯罪は確かにある。いかなる犯罪者に対しても死刑は絶対認められないという考えには、どうしても与する事はできないのだ。こう書くと必ず反発を受ける。イラク戦争に反対し護憲を唱える私は左翼と思われているが、死刑を容認し、北朝鮮の拉致問題を厳しく糾弾する私は、いわゆる左翼的な考えの人たちから批判される。対米追従を批判する私は同時にまた愛国主義者である。その意味で私は右でも左でもない。自由を何よりも重視すると言う意味でリバタリアンという事かもしれない」
 
 天木氏は、被害者の夫で、執拗に被告に死刑を求め続け、被害者遺族の裁判参加を訴え続け、弁護団を批判し、無期懲役判決を下した1審・2審の司法判断を避難し続けてきた木村洋氏に、こよなき共感と敬意を覚えるという。その理由は、察するところ、木村氏が正義を貫いたことにある。それに対置されているのが、「これほどの残酷な犯した被告に対し、理屈にあわない論理をもって弁護する弁護団」である。弁護士の究極の使命は正義の実現であって、正義を曲げてまで減刑することではないと批判するのである。彼にとって裁判とは、正義の実現の場であって、弁護士もまたその究極目標の実現に参加しなければならない存在なのである。
 
 それにもかかわらず、この弁護団は、正義よりも、不正義に荷担している。そのためには、「理屈にあわない論理をもって弁護」するとんでもない不正義な連中であると天木氏は言うのである。

 中世・封建時代において、裁判は、領主の特権の一つで、重要な収入源であった。裁判は、領主のもうけ口だったのである。日本の徳川時代の裁判も似たようもので、大岡裁きなどというのはいうまでもなく現代化された虚構である。やっかいなのは、江戸中期以降になると、石川五右衛門をはじめとする過去の大犯罪者たちが芝居などでヒーロー化され、庶民の拍手喝采を浴びるようになったことだ。大悪人たちが、庶民の反体制的な意識や感情に応える象徴となり、体制が正義の執行として処罰した悪人たちが、庶民の中で、反体制の英雄になってしまったのである。

 ミッシェル・フーコーの『監獄の誕生』には、前近代の王政時代に、公開処刑がしばしば民衆の反体制暴動を引き起こし、処刑される者を人々が口々に褒め称え、酒場などで民衆が公然と体制を批判し、暴れ回る事態が起きたことを記している。公開処刑は、王権の誇示の場であったが、それがしばしば王権対民衆の闘争の場に転化したのである。
 
 裁判や刑罰が正義の実現の場であるとする天木氏の考えは、個人心情としてはわかるのだけれども、他方で、集合表象と個人表象、社会心理と個人心理が質的に異質であり、両者を区別する必要があるということを理解されていないように思われる。リバタリアン・自由主義者にありがちなことであるが、個人というものを絶対化して、社会をなきものあるいは名目上の存在と見なすという社会唯名論におちいっているのではないだろうか? それにリバタリアンにもいろいろあるのだが、極端なリバタリアンは、一切の国家権力の強制を認めないという立場から、国家権力による死刑も容認していない。ただし、私刑(リンチ)は権力による強制ではないからと認めている。アメリカの西部劇の時代みたいに。ちょっと、これだけでは、天木氏のリベラリズムがどういう内容のものなのかはわからない。最後の外務省時代に、出世しそうもない上司にかわいがられ、他の上司には、批判を含めて煙たがられるようなことを直言したというようなエピソードから推すと、権力におもねらず、自由に物を言うということ、表現・言論の自由という点をとくにリベラリズムの基本に置いているように思われる。
 
 ついでに言うと、対米追従を批判するから愛国主義者だというのはどうかと思う。対米追従を批判するというだけで、愛国主義者だということにはならない。だいたい、日本の自称愛国主義者は、親米の立場を取っていることが多いのである。
 
 天木さんのブログ記事に対して、阿修羅掲示板に、ダイナモさんの批判投稿があるhttp://www.asyura2.com/07/senkyo41/msg/809.html
 ダイナモさんは、「天木直人さんには、正義が絶対的なものである、という考えが根底にあると思われます。そうでなければ、このような発言はしないはずです。私は絶対的な正義というものは存在しないと思います。正義とは、対極にある悪も含めて、相対的なものです。もし絶対的な正義があるとすれば、それは宗教でしょう」と適切な批判をしている。もっとも正確に言えば、正義は、絶対的であると同時に相対的なのであるが、まあここではそれはいいでしょう。絶対的な正義と別の絶対的正義が衝突すれば、非和解的な闘争になることは、アメリカのキリスト教の正義とイスラムの正義がぶつかっている現状を見れば、明らかである。他方で、カトリックは、自己の正義の相対化を進め、世界の他の諸宗教との和解と対話に積極的に乗り出している。これは宗教の脱宗教化の過程である。他の神・他の神の正義との共存だからである。
 
 弁護団が理屈に合わないことを主張しているというのは、ダイナモさんの記事を読めば、精神鑑定結果を理屈に合わないと切り捨てているだけのことであることがわかる。天木氏は、合理主義者で、精神医療や精神分析学などを頭から非合理なものとして切り捨てているのかもしれない。しかし、フロイトなどに始まる精神分析学の発展は、けっして不合理なものではなく、臨床研究や治療の過程などを通じて、積み上げられたデータを分析した上での、学問的認識である。その知見をもって、被告人の精神鑑定結果が出た以上、それを正当に評価した上で、事件の本質を明らかにしなければならないのである。鑑定結果について、精神医学上、疑念や批判はありうるし、ここにも絶対的と相対的なものとが同時にあるわけだから、絶対的結論だけがあるというわけではないのは言うまでもない。当然、疑問の余地はありうる。しかし、それを頭から非合理的だと切り捨てることは、天木氏の正義感を満足させることにはなっても、事件の本質を明らかにすることにはならない。氏には、弁護団の主張は理屈に合わないと言う前に、「あるのは反権力、反不正義の心と知識に対する謙虚さだけである」と氏自身が言う「知識に対する謙虚さ」が、求められているものと思う。
 
 事件の本質を明らかにしたいということが、遺族感情に含まれていることは、以前、当ブログにコメントを寄せていただいた杉浦ひとみさんのブログに、遺族との実際のつきあいから得た知見として記されている。松本サリン事件の被害者の河野さんも事件の真相を知りたいということを述べられている。一体何があったのか、なぜ事件が起きたのかを知りたいということを述べている遺族も多い。私の見るところでは、最近は、笑顔で談笑できるようになった(このこと自体はよかったと思う)光市の事件の被害者の遺族である木村洋氏は、最高裁の高裁への差し戻し決定が、事実上、死刑判決を促すものであったことから、被告の死刑を確信していると思う。その上で、弁護団の主張を荒唐無稽、聞くに堪えないなどと批判しているのである。彼は、精神的苦痛から解放されつつあり、司法・マスコミ世論その他が彼を支持し支えている。彼の味方は圧倒的多数であり、権力も味方である。今では、彼は、被告に対して、力関係で、圧倒的に優位に立っている。そういう変化している状況を考慮せずに、橋本弁護士が、絶対的正義の実現を声高に叫んだり、弁護団をカルト呼ばわりするのは、「津久井進の弁護士ノート」http://tukui.blog55.fc2.com/blog-entry-487.htmlで、津久井さんが、橋本弁護士がポピュリズム的やり方をとっていると指摘しているとおりだろう。彼は、自分の立場に多数の支持があると見て、かさにかかって、気に入らない弁護士連中を叩こうとしたのである。氏のブログには、それに対して、懲戒請求された当事者の今枝弁護士の反論を含む文章が載っているので参照されたい。
 
 津久井さんは、「法と良心(=「理」)にのみ拘束されるとする「司法」の特性・独立性がそこにあるからだ(憲法76条参照)」という「理」の立場に対して、「大衆を動かすには,「理」より「情」を訴える方が簡便で効果的だ」というポピュリズムの立場だと対比して批判している。そして、「私は,橋下さんの今回の一連の活動は,「世間」という言葉を多用して,大衆迎合主義を,堂々と表明しながら,一般大衆の運動力や影響力を実験しているように見えてならない」と言う。 「理」と「情」を単純に対立させるというのはどうかとは思うけれども、「理」と「情」がストレートにつながっているわけではないし、社会心理と個人心理は同じではないという認識は重要である。良心が「理」でもあり「情」でもあるということも事を難しくしている。
 
 橋本弁護士は、テレビを使って明らかに扇動を行ったわけで、それに動かされた人がいたわけである。懲戒の手続きを経て、懲戒請求が却下されると、懲戒請求を起こした人が損害をこうむることになっているのに、橋本弁護士自身が懲戒請求をしていないという事実も記者会見で明らかになった。橋本弁護士は、光市の事件の弁護団は懲戒にあたいするという自説の正当性を訴えている。
 
 天木氏はブログで、「8日朝の日本テレビ「ウェーク」という番組で、司会者の辛坊治郎が胸を張ってこう発言していた。「私の番組で起きた発言ですから私は橋下弁護士を全面的に支持します」と。それを聞いた私は早速このブログを書きたくなった。/私と辛坊とは考え方において対極にある。司会者である辛坊がエラソーにテレビの前で自分の正しさを自己主張する姿を朝っぱらから見せらつけられて不快である」と冒頭で書いているが、事件の本質などに関係なく、理解もなく、ただ、「私の番組で起きた発言」だからというだけで、「私は橋下弁護士を全面的に支持します」などと胸を張って発言することは恥知らずである。

 天木氏ならずとも「司会者である辛坊がエラソーにテレビの前で自分の正しさを自己主張する姿を朝っぱらから見せらつけられて不快である」。自己主張するなら、その理由をしっかりと述べる必要がある。もちろん、誰だって一定の限界はあるにしても、言いたいことを言う権利はあるが、それにしても、彼の場合、橋下弁護士への全面的支持の理由が薄弱すぎる。
 
 しかし、辛坊治郎が懲戒請求を呼びかけてもおそらくあまり相手にされないだろうが、橋本弁護士が、一お笑いタレントとしてのバラエティー的パフォーマンスとしてではなく、弁護士として懲戒請求を呼びかけることは、それが法的に保証された弁護士公認の行為であると受け取られても仕方がないことだ。弁護士の言葉だから、人々が実際に行動を起こしたのである。弁護士としての社会的信用を利用したのである。「たかじんのそこまで言って委員会」という番組が、好き放題を放言しまくって、溜飲を下げるだけの番組だとしたら、そこで、弁護士という立場を強調して、具体的な法的行為を不特定多数に扇動することは、番組の趣旨を逸脱している。彼が、この行為によって、弁護士の社会的信用を傷つけたのは明らかだ。懲戒請求が却下されれば、さらに傷は深まることだろう。

 この件はまだまだいろいろな展開がありそうだが、この犯罪は許しがたいものであり、被害者とその遺族に同情するが、遺族感情には、報復・応報感情と共に真実を知りたいという感情・欲求があるということも踏まえる必要があることを忘れてはならないと思う。

 阿修羅掲示板 ダイナモhttp://www.asyura2.com/07/senkyo41/msg/809.html
訴えられた橋下徹弁護士の騒ぎに思う(天木直人のブログ 9/7)
http://www.asyura2.com/07/senkyo41/msg/787.html

 に対する反論として投稿したものです。本来、直接レスポンス投稿とすれば良いのですが、元投稿がかなり下に下がってしまったので新規投稿としました。

 天木直人さんの意見には共感するものが多いのですが、今回の意見には看過できないものがあります。

 まず、「弁護士の究極の使命は何か。それは顧客である被告の減刑の実現にあるという事かもしれないが、正義をまげてまで不当な減刑を勝ち取る事では決してないはずだ。」とありますが、天木直人さんには、正義が絶対的なものである、という考えが根底にあると思われます。そうでなければ、このような発言はしないはずです。私は絶対的な正義というものは存在しないと思います。正義とは、対極にある悪も含めて、相対的なものです。もし絶対的な正義があるとすれば、それは宗教でしょう。

 次に、天木直人さんは「死刑を容認し、北朝鮮の拉致問題を厳しく糾弾する私は、いわゆる左翼的な考えの人たちから批判される。」と書いておられますが、死刑制度に対する態度と、拉致問題に対する態度は、性質の異なる問題です。一緒にすべき問題ではないでしょう。

 さらに、「これほどの残酷な犯した被告に対し、理屈にあわない論理をもって弁護する弁護団に、大いなる疑問を抱いてきた一人である。」とありますが、なぜ弁護団が「理屈に合わない主張」をしたその理由をご存知でしょうか。

 「理屈に合わない主張」とは、弁護団の主張する被告の動機や犯意が「常識的に考えて余りにも幼稚すぎる」ということだと思います。弁護団がこうした主張をしたのには、被告の精神鑑定の結果を受けてのものです。
 8月半ば頃でしょうか、ある週刊誌に被告の精神鑑定をした精神科医(野田正彰氏)にインタビューした記事が載ったことがあります。その精神科医が語ったことによると、被告は幼少の頃から、父の母に対する日常的暴力の中で育ち、次第に母をかばうようになったということです。その関係が母との母子相姦関係にまで発展していきました。少年時代のある日、母親が首つり自殺した現場を被告は目撃しています。そうした生い立ちから、被告の精神年齢は、犯行当時18であったにも関わらず、小学生程度で止まっている、と診断したとのことです。被告が今回の事件の前に別件で事件を起こし、少年鑑別所に入っていたときの職員の記録には、被告の精神年齢は5、6歳程度と書かれていたということです。少年の不幸な生い立ちから、実年齢と精神的年齢に大きな乖離が起きていたのです。
 弁護団の主張は表面的に見れば「荒唐無稽」でしょう。しかし、被告の生い立ちを知れば、そう言い切ることができるでしょうか。

 この件で、精神鑑定を行なった精神科医が死刑制度廃止を主張している野田氏であるということは、被告の生い立ちの問題とは無関係なことは言うまでもありません。

 私は死刑制度の是非を問題にしているのではありません。ほとんど全てのマスメディアが、遺族の主張を大々的に取り上げ、被告が死刑になるのが当然というメッセージを流し続ける中で、私たちには事件の真相を見ようとする姿勢が大切ではないでしょうか。

 天木氏ブログ記事「訴えられた橋下徹弁護士の騒ぎに思う」

 8日朝の日本テレビ「ウェーク」という番組で、司会者の辛坊治郎が胸を張ってこう発言していた。「私の番組で起きた発言ですから私は橋下弁護士を全面的に支持します」と。それを聞いた私は早速このブログを書きたくなった。
  私と辛坊とは考え方において対極にある。司会者である辛坊がエラソーにテレビの前で自分の正しさを自己主張する姿を朝っぱらから見せらつけられて不快である。しかしこの橋下騒動に関しては、私は辛坊と同じ立場であるのだ。その事を書く。
  タレント弁護士の橋下徹が訴えられた騒動は、単なる芸能ゴシップ騒動ではない。そこには「弁護士の責務」とは何かという深刻な問題が絡んでいる。
  事の起こりは、関西の娯楽討論番組「たかじんのそこまで言って委員会」(5月27日放映)で行なった橋下弁護士の懲戒請求発言である。あらましは次のごとくである。
  山口県の光市で1999年に起きた残虐な母子殺害事件の裁判を巡り、いわゆる人権弁護士団の弁護が行き過ぎであるとして、「たかじんのそこまで言って委員会」は盛り上がった。出演者全員が弁護団を批判した。その盛り上がりの中で橋下は、被告を弁護する連中は弁護士失格だといわんばかりに、「弁護士会にこれら弁護士の懲戒請求を行なえばいい」と発言した。これを聴いた視聴者から一斉に懲戒請求が起きた事を受けて、弁護士団が橋下発言は業務妨害だと訴えたのである。
  テレビの中で懲戒請求を示唆した発言の適否の問題はあるかもしれない。また私も出演したことがあるのだが、「たかじんのそこまで言って委員会」という番組は、出演者が意識的に極端な放言をし視聴者の溜飲を下げる事を売物にする娯楽番組である。その番組のレギュラー出演者である橋下は、営業的に過激な発言をしたのだろう。そのような橋下の発言を擁護するつもりはない。
  しかし、この橋下発言騒動をきっかけに、光市母子殺人事件の裁判の本質について考えて見たいのだ。
  被害者の夫であり、父親である木村洋という若い男性に、私はこよなき共感と敬意を覚える一人である。そしてまた、これほどの残酷な犯した被告に対し、理屈にあわない論理をもって弁護する弁護団に、大いなる疑問を抱いてきた一人である。
 弁護士の究極の使命は何か。それは顧客である被告の減刑の実現にあるという事かもしれないが、正義をまげてまで不当な減刑を勝ち取る事では決してないはずだ。正義の実現をゆがめてはならないはずだ。更にまた、巷間言われているように、死刑廃止論に固執する人権弁護士たちがその目的の為に裁判という場を利用して自己主張をしているとすれば到底賛成できない。因みに私は死刑容認論者である。自らの命をもって償わなければならない残忍な犯罪は確かにある。いかなる犯罪者に対しても死刑は絶対認められないという考えには、どうしても与する事はできないのだ。こう書くと必ず反発を受ける。イラク戦争に反対し護憲を唱える私は左翼と思われているが、死刑を容認し、北朝鮮の拉致問題を厳しく糾弾する私は、いわゆる左翼的な考えの人たちから批判される。対米追従を批判する私は同時にまた愛国主義者である。その意味で私は右でも左でもない。自由を何よりも重視すると言う意味でリバタリアンという事かもしれない。
   脱線してしまったが脱線ついでにもう一言書かせてもらう。最近私は自分は政治家にはつくづく向いていないのではないかと思ったりする。政治には妥協と駆け引きが不可欠である。政治的目的を達成する事を最優先しなければならないからだ。政治家になるためには本心を隠さなければならない。一人でも多くの支持者を確保しなければならないからだ。しかし私にはそれが出来ない。自分を偽ることが苦手なのだ。というよりも、どうしてもそれが出来ないのだ。
   外務省に入ってまだ駆け出しの時、私は省内で評価の低い上司になぜか可愛がられたことがあった。「君はわかりやすくていい」というのが彼の口癖であった。出世しそうな上司でも間違っていると思えば批判するし、皆が嫌う上司でも、いいところはそれを評価する、そういう私の「わかりやすい」ところが気に入られたのだろう。誰も相手にしないその上司を、私一人が擁護する時があった。そんな私に彼は感激したのだろう。出世の見込みのない上司に好かれるという事自体が、自分の評価を下げる事でもあるのだが。
  すべては遠い昔のことだ。官僚人生を捨てさって久しい今の私の言動をさまたげるものは何もない。あるのは反権力、反不正義の心と知識に対する謙虚さだけである。

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このままでええの!!日本と世界10・21反戦共同行動in京都

このままでええの!!日本と世界 10・21反戦共同行動in京都

日時 2007年10月21日

会場 円山公園野外音楽堂

開始 13:00(11:40から反戦ライブイベント)

出演:Electrc NAADAM Magic. 風(ふう)終了 16:30

デモ 集会終了後すぐスタート
(円山公園→四条通→河原町通→京都市役所前・解散)

集会中ライブ(パンタ・まあちゃんバンド・趙博・友部正人)

講演(雨宮処凛・岡真理) 沖縄から(安次富浩)

加害者の歴史を許さない
侵略戦争の道をひらく憲法改悪を許さない
イラクから米軍と自衛隊は撤退せよ、テロ特措法反対
沖縄・韓国・日本国内の米軍再編反対
格差社会を打ち破り、人らしく生きられる世界を
あらゆる差別に反対し、人権を確立せよ
子どもたちに未来を、教育の国家統制反対

10・21反戦共同行動実行委員会
(代表世話人 中尾宏 千葉宣義 工藤美彌子 米澤鐵志 新開純也 瀧川順朗 高橋幸子 府上征三)
連絡先 Tel/Fax:0774-23-2908 携帯:090-5882ー2111(田川)
カンパ振込先 郵便振替口座:00910-3-280423 加入者名:10・21反戦共同行動実行委員会
E-mail 10.21hancen@gmail.com
10・21反戦共同行動in京都ホームページ http://www.kyotohansen.org

10・21反戦共同行動in京都への参加と賛同の呼びかけ

 21世紀に入って、時代は大きく変貌しはじめています。“グローバリズム”と言われる際限のない資本の利潤追求と市場の獲得、地球資源の略奪は目をおおうばかりにすさまじさを増しています。イラクやパレスチナをはじめとする中東地域への侵略と殺りくはとどまるところを知らず、アメリカを軸とする強国の論理が地球規模でまかり通っています。日本ではそんな強国の主張に組みして、海外派兵を容易に日常的に行うことが出来るようにするために、憲法九条改悪が政府・与党の公然たる政治日程にのぼっています。他方での労働現場での格差社会、人権を無視した管理社会の強化、教育現場での「愛国心」の強要、さらに社会的弱者にのしかかる増税と負担の増加が日増しに進行しています。
 私たちは、この日本社会で生きていくため、人間の尊厳を守り抜くため、今の状況を根底から変えていく必要があると考えます。若者にも、老人にも、そして子どもたちの未来のためにも! 人が人として生きるため、希望と信頼を取り戻すことが必要です。
 10月21日には、円山野外音楽堂を埋め尽くし、連帯の輪を京都の地で結び合いませんか。四条通から河原町を熱いデモ行進をしよう。一人でも多くの人に声をかけてください。一人でも多くの人が参加してください。人間の未来のために、光ある社会をとりもどすために!

《賛同人》

   浅井桐子、味岡理一、飛鳥井けい子、天野博、荒井康裕、井上加代子、池内光宏、池田浩士、磯江みづえ、伊藤淳平、稲村守、李美葉、岩田吾郎、岩津雅典、上原敦男、鵜飼哲、牛尾国彦、後義輝、卜部昌則、江口慶明、江原護、大川健二、大須賀護、大浜冬樹、大湾宗則、大管新、岡田雅憲、小川登、落合祥尭、越智洋三、甲斐布扶義、川島繁夫、川嶋澄夫、河村栄三、川村賢市、河村宗治郎、北里秀郎、北村信隆、木下昌朗、金千代、草刈孝昭、楠敏雄、工藤美彌子、黒木建、黒田伊彦、結柴誠一、厳本明夫、児玉利春、小武正教、小地政司、纐纈厚、小林圭二、駒井高之、駒見俊道、小山敏夫、ゴ-ドン・ムアンギ、紺谷延子、斉藤真、酒井満、佐藤大、佐々木佳継、渋谷要、嶋川まき子、清水明美、清水義昭、徐龍達、白井美喜子、新開純也、新谷純一郎、末本雛子、須田稔、関俊子、高桑次郎、高鍬多恵子、高瀬元通、高橋幸子、田川明子、田川晴信、瀧川順朗、武市常雄、竹内正三、竹内宙、竹林伸幸、田中啓司、田中宏、谷川正幸、多比良建夫、田村博一、崔忠植、知花昌一、千葉宣義、塚本泰史、鶴見俊輔、鄭早苗、寺田道男、戸梶博夫、徳田隆、土本顕、永井美由紀、仲尾宏、永岡浩一、中河由希夫、中北龍太郎、中嶋慎介、長田侃士、中田光信、中村在男、西浦隆男、西方淳子、西浜楢和、蜷川泰司、野坂昭生、野田雄一、朴実、橋野高明、橋本利昭、服部良一、早川義輝、原田恵子、土方克彦、菱木康夫、日高六郎、広尾喜代志、府上征三、福山義和、藤井悦子、藤井健一、藤原史朗、二葉晃文、古橋雅夫、斐梨花、堀清明、堀義明、堀井千恵子、本田克己、前川静雄、前田裕悟、蒔田直子、牧野一樹、増野徹、増本俊幸、松尾哲郎、松岡利康、松本 修、水谷協一、水野裕之、松野尾かおる、松村尚洋、松村美会子、南建、宮地洋二、宮路烈、宮本崇義、持原好子、物江克男、森本忠紀、柳田健、山田実、山本純、山本猛、山本徳二、山本将嗣、横山美樹、吉岡史朗、吉田信吾、米澤鐡志、六島純雄、渡邊琢、渡辺亜人   

《賛同団体》

 アジア共同行動・京都、アジェンダ・プロジェクト、NPO法人京都コリアン生活センター、大阪A&U、沖縄とともに基地撤去をめざす関西連絡会、関西共同行動、関西合同労働組合、京都「天皇制を問う」講座実行委員会、京都府教職員組合(きょうと教組)、九条旨酒の会、9条改憲阻止の会・関西、ぐるーぷちゃんぷるー、支え合う弱者の会・兵庫、消費者経済研究所、自立労働組合連合、東西本願寺を結ぶ非戦・平和共同行動実行委員会、とめよう戦争への道!百万人署名運動・関西連絡会、日朝友好促進京都婦人会議、反戦老人クラブ京都、平和憲法の会・京都、平和の会・宇治、辺野古に基地を絶対につくらせない大阪行動、星野文昭さんを取り戻す会・京滋、郵政人事交流=強制配転に反対する近畿郵政労働者の会、梨花舞踊学院・リファダンスアリラン 

《賛同店》

 あーす書房、おてらハウス、呉服屋南商店、八文字屋、ベジタリアンダイニングCAFE PEACE、ほんやら洞、まほろば、彌光庵、CafeTerrazza、論楽社  

                          (9月17日現在、 156賛同人、18団体、10店舗)    

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最近の二つの話題について

 当ブログでも取り上げた元自衛隊イラク派遣隊長の佐藤正久自民党参議院議員のテレビでの「駆けつけ警護」発言問題は、ブロガーにまたたく間に広がり、弁護士グループなどの「公開質問状」送付につながり、社民党などが問題を取り上げるなどして、新聞・テレビなどのマスコミでも取り上げられた。
 
 当ブログに、コメントを寄せていただいた兵庫の弁護士の津久井進さんも「津久井進の弁護士ノート」http://tukui.blog55.fc2.com/で取り上げ、また、やはり先日、コメントを寄せていただいた杉浦ひとみさんは、「公開質問状」提出運動で中心的に動かれている「杉浦ひとみの瞳」http://blog.goo.ne.jp/okunagairi_2007
 
 こうした人々によって、参院選での自民党大敗・民主党躍進という劇的な政局の動きの中で、危うくかき消されかけていた佐藤議員の「駆けつけ警護」発言問題を、問題として浮上させることができた。
 
 これには、この問題をいち早く取り上げ、ブロガー間の連携を訴え、それを実現していった「情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)」
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005さんの働きが大きかった。これは、ブログの可能性を示すものであったといえよう。

 「公開質問状」については、小泉前総理は受け取り拒否、安部首相からの回答は今のところなし。佐藤議員は、どうするか検討中だそうだ。
 
 この問題については、上記の諸ブログに詳しいので、それを見ていただくとして、今日、気になったのは、ライブドア・ニュースのJ-CASTニュースからの記事「橋下弁護士は「業界の笑いもの」なのか?」である。
 
 記事は、山口県光市母子殺害事件の差し戻し審において、加害者・被告に大量の弁護団がつき、被告がそれまでの証言をひっくり返したことに対して、橋下弁護士が、テレビ番組で、この弁護団は、弁護士の社会的信用を傷つけたとして、人々に懲戒請求するように呼びかけたことから、それに応じたと思われる懲戒請求が多数行われ、それによって、弁護士業務に支障が出たとして、損害賠償請求が起こされたことを取り上げているのである。彼は、8月29日の自身のHPで、
 
裁判なんて、科学じゃない。
刑を科すための社会手続きなんだ。
弁護団がやるべきことは、一審・二審で主張しなかことを、なぜこの期に及んで主張するのか。
刑事裁判というものが被害者遺族のための制度であり、そして社会の公器であることを考えれば、徹底的に説明すべきなんだ。
そんなこともせず、自分たちのカルト教義の信心のため、自己陶酔に浸って裁判を長期化し、被害者遺族の心を傷つけ、社会に対して弁護士不信を醸造させた、彼らカルト集団弁護士たちの行動は、完璧に弁護士法上の懲戒事由にあたる。
本日(2007年8月31日収録、同年9月1日放送)の「たかじんのそこまで言って委員会」の収録において、やしきたかじん委員長に、僕は許可を求めた。
「彼ら弁護団は、自分たちの主張をメディアが取り上げてくれないと不満を言っていますので、ぜひこの番組に出席させて主張させて下さい。弁護士仲間に話すのではなく、一般の観客の前でそしてテレビカメラの前に出させることで、世間の空気にさらさせてください」と。
やしきたかじん委員長は許可してくれた。
弁護団よ、そしてカルト集団弁護士よ、加えて、俺に野次を飛ばしたチンカス弁護士よ、世間の前でしゃべってみろよ!!

 と暴言をまき散らしている。自分の利己心を満足させるために。「弁護団がやるべきことは、一審・二審で主張しなかったことを、なぜこの期に及んで主張するのか」と文章的に破綻しながら。「刑事裁判というものが被害者遺族のための制度であり、そして社会の公器である」というのが、彼の刑事裁判観である。これもまた、文章的に破綻している。「刑事裁判は、社会の公器である」これは一体なんだろう? 意味不明だ。また別の箇所では、刑事裁判は社会の公器であるが、民事裁判は、私事だというような考えを示しているような部分が出てくる。だから、私服でいいのだと。刑事裁判だけが、公的なので、スーツにネクタイだという。弁護士同士は私人間の関係なので、ジーパンにTシャツでいいのだとも言う。私的なもの・私事と公的なもの・公事を区別する基準は一体何なのだろう? 刑事は、公秩序の維持の問題だから公事で、民事は、民法という私法の領域を扱うから私事だというのだろうか? ちんぷんかんぷんだ。

 彼は、「業界で笑い話になる」だけではなく、世間でも笑い者になるだろう。いやいや、すでに、自身がバラエティー番組で、弁護士をお笑いタレントにすることに一役買ったわけだから、笑い者になってしまっているのである。手遅れだ。そうなってしまった以上、もはや、こんなことをいくら言っても、彼が言うことは「笑い話」にしかならないことは明らかである。バラエティー・ネタなのだ。
 
 橋下弁護士は、弁護士の社会的信用を落としている張本人でありながら、そういう自分を直視し自覚した上で、振る舞うだけの器量も理解力もないことを臆面もなくさらけ出しているのである。それが彼の言葉の醜さに現れているのである。
 
 それに対して、占いだの予言だの霊だの幽霊だのの信用を自ら傷つけ、落としている占い師の細木数子の場合、すでに、自身がバラエティ・ータレント化しているという自覚があって、番組視聴率を稼ぐことに貢献することで生きのびていることを隠しもしていない。彼女の予言とやらは、はずれまくっているし、仏教は、霊を否定しているのに、まるで仏教を敬っているかのように言うし、墓だの系図だのに人間の幸不幸の原因があるように言う。そんなものが人の幸不幸を左右するわけがない。少なくともそれは仏教とは関係ない。彼女の師匠の安岡正篤譲りの儒教(陽明学)から借りたものかもしれない。いずれにせよ、まだ、彼女には、テレビと自分が持ちつ持たれつの利用関係にあるという自覚があり、バラエティー・タレントとしての役割をつとめているという自覚があるわけだ。細木を助けているのは、商才であって、「六星占術」の力などではない。彼女が、大丈夫だと言った安部総理は、参院選で大敗を喫し、政権も危うい状態だ。それに対して、橋下弁護士は、「国民に弁護士というのはこんなふざけた主張をするものなんだと印象付けた今回の弁護団の弁護活動は完全に懲戒事由にあたる」などと自分を差し置いて、正義の味方面をし、国民感情の代弁者のごとく振る舞うのだから、あきれる他はない。
 
 「きっこのブログ」は、光市の事件の犯人を、早急に、遺族に公開した上で、処刑しろと言う。そんなことをしたら遺族感情をさらに傷つけることになるだろう。たとえ憎い犯人であっても、人が目の前で殺される場面を見たら、その場面が、フラッシュ・バックしたりして、トラウマのようにならないだろうか? アメリカで、実際に、遺族が望む立ち会い処刑というのをやったことがあるが、その後、それが続いているとは聞いていない。逆に、最近は、死刑囚が冤罪で無罪放免されるケースが増えているということで、死刑の執行には慎重になっているという。いくら遺族に同情しているといっても、大谷昭宏氏のように、死刑は犯罪抑止になるなどという根拠のあやふやなことを言ったり、「きっこのブログ」のように、中国や北朝鮮みたいな公開処刑を評価するようなことを言うのは、どうかと思う。中国の公開処刑で冤罪はなかったのだろうか? 無実の者を処刑してしまったら、国家によるなんの罪もない人のとりかえしのつかない殺人になってしまう。ヨーロッパ諸国では死刑を廃止した国が多いが、それによって、死刑制度のある国よりも凶悪犯罪が増加しているということはあるのだろうか? もちろん、これらは、遺族への強い同情心と犯罪への怒りからの感情的発言であって、そう言わずにはおれないほどだという強い気持ちを表現しているのはわかる。しかし、だからといって、犯罪抑止にならない早期死刑執行だの、遺族がさらに苦しむことになりかねない公開処刑だのを叫ぶことは控えた方がいいのではないだろうか。
 
 もちろん、遺族には同情するし、犯罪事実に対して、ふさわしい刑罰が下されるべきだとうと思うが、報復感情だけが、遺族感情を代表するわけではないし、遺族感情は、複雑で微妙であり、変化するものであることを忘れてはいけないと思う。この件については、「やめ蚊」ブログでも論じられているので、そちらも見ていただきたい。

 世間が橋下弁護士の発言を一お笑いタレントの発言として笑いながら聞くかどうかはわからないが、私は、細木和子のバラエティー番組を見るときと同じように、笑いながら聞くことにする。もちろん、そこに含まれる問題を、批判的に考えながらである。

 ・佐藤正久氏問題報告 ~  回答に関する記者会見と今後
[ Weblog ] / 2007-09-04 09:04:40

 今回の佐藤正久氏の発言についての質問状を当の佐藤氏、小泉元総理大臣、辞職勧告の要望書を安倍晋三総理大臣に送っていた件ですが、8月31日を回答期限としていましたので、その回答状況を昨日、マスコミに対して公表しました。

 小泉氏については、既に質問状郵送自体を受け取り拒否され、返送されてきています。安倍氏は回答なし。また佐藤氏に対して何らかの表だった勧告や要請はされていないようです。よって、要求拒否、と理解できます。
 佐藤氏は、回答なし。
事実上のことですが、
 昨日たまたま参議院会館の中で、佐藤氏の部屋前を通りがかったときにドアが開いていたので、ご挨拶をしました。
担当の秘書さんは席を外しているとのことでしたが、事情がおわかりの秘書さんが  「あの質問状ですね」とご了解の様子で、「先週の段階(先週の土曜日は8月31日)では回答していません。どうするかも検討中。」とのことでした。
・・・検討中といっても、期限までに回答しないことは、回答拒否の意思表示ととる以外ないのですが。

 以上が、今回の重要な発言に対する当事者、監督者らの姿勢でした。
 佐藤氏の危険な発言とその後明らかになった自衛隊内での教育に関しては、放置することのできない問題です。

 そこで、9月19日にこの件に関する抗議集会を開くことになりました。
 9月19日(水)12時~13時参議院議員会館第1会議室

 野党各党の議員の出席とご発言のほか、前田哲夫さんのお話も予定しています。

 参加は自由ですので、どうぞお越し下さい。

 橋下弁護士は「業界の笑いもの」なのか?
 
橋下弁護士はブログで光市母子殺害事件の弁護団を「カルト集団」と批判していた   山口県光市で発生した母子殺害事件の裁判をめぐって、タレント活動もしている橋下徹弁護士がテレビ番組で被告の弁護士に対して「懲戒請求」を呼びかけたとして、被告の弁護士4人が橋下弁護士を提訴した。橋下弁護士はブログを通じて、被告の弁護士を「ふざけた主張をする」「カルト弁護団」「説明義務違反」などと主張。一方、被告弁護士側は橋下弁護士の主張について「業界で笑い話になる」と述べている。

「弁護士というのはこんなふざけた主張をするものなんだ」
   山口県光市母子殺害事件で被告の元少年の弁護人を務める今枝仁弁護士ら広島弁護士会所属の4人が2007年9月3日、橋下徹弁護士のテレビ番組の発言で弁護士業務に支障を来したとして、1人当たり300万円の損害賠償を求める裁判を広島地裁に起こした。
   訴状によれば、橋下弁護士は07年5月23日放送された讀賣テレビ番組「たかじんそこまで言って委員会」で、

「ぜひね、全国の人ね、あの弁護団に対してもし許せないって思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求かけてもらいたいんですよ」
「懲戒請求を一万二万とか十万人とか、この番組見てる人が、一斉に弁護士会に行って懲戒請求かけてくださったらですね、弁護士会のほうとしても処分出さないわけにはいかないですよ」
などと発言し、「懲戒処分を行うよう扇動した」としている。
   橋下弁護士はかねてから自身のブログで、被告弁護団について

「なぜそのような新たな主張をすることになったのか、裁判制度に対する国民の信頼を失墜させないためにも、被害者や国民にきちんと説明する形で弁護活動をすべきだ。その点の説明をすっ飛ばして、新たな主張を展開し、裁判制度によって被害者をいたずらに振り回し、国民に弁護士というのはこんなふざけた主張をするものなんだと印象付けた今回の弁護団の弁護活動は完全に懲戒事由にあたる、というのが僕の主張の骨子です」
「僕と、カルト集団弁護士の決定的な違いは、被害者や国民に対しても配慮するかどうかという点」
などと、弁護団を「カルト弁護団」と呼びながら主張。一方、橋下弁護士を提訴した弁護士の広報担当をしている弁護士はJ-CASTニュースの取材に対し次のように語る。

「刑事事件で加害者を弁護するのですから、弁護士に反感を持たれるというのは当然あると思います。弁護士に対する『批判』にとどまるならばならしょうがないというのはありますが、『懲戒請求』は刑事事件で言えば、告訴・告発に当たるものです。だから、数の問題ではないし、しかも報道を根拠にして、署名活動のように懲戒請求することを扇動することは理解に苦しみます」
橋下弁護士にそそのかされた被害者?
   この橋下弁護士のテレビの発言以降、この4弁護士には1人300件ほどの懲戒請求がされたほか、日弁連によれば、全国からこの事件について3,900件の懲戒請求が出された。06年の懲戒請求の総計は1,367件で過去最高だったことを考えると、今回の裁判についての懲戒請求がとてつもない数だということがよくわかる。

   懲戒請求の多くは、弁護士がセクハラ行為や横領行為など、職務としてあきらかに不当な行為に及んだ際にされるもの。しかも、弁護士にとっては、自身の行為について説明・調査しなければいけない。一方で、懲戒請求が「事実上又は法律上の根拠を欠く」とみなされた場合、請求者に対して50万円の損害賠償の支払いが命じられた最高裁判決もあった。(07年4月24日最高裁判決)

   母子殺害事件の弁護士は、懲戒請求を行った人たちについて「橋下弁護士にそそのかされ、被害者的な面もある」として、現段階では提訴しない方針だという。ただ橋下弁護士の言動については、

「業界内では笑い話になるくらいとんでもない話。しかもブログやテレビの主張もころころ変わって何を思っているのか分からないし、どういった反論が返ってくのか量りかねている」
と述べている。
   一方、橋下弁護士は07年9月5日に東京都内で会見し、提訴を受けての反論を展開する予定だ。

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この『読売』社説にもあきれた

   一見するともっともらしいが、駄論に過ぎないのが、下の『読売』社説である。新自由主義者の路線転換にあきれたついでに、『読売』にもあきれてみよう。

 来年度予算の概算要求が締め切られた。各省庁が出した要求総額は、85・7兆円である。財務省は、当然、これを削っていくつもりである。

 問題は、参院選で参議院が与野党逆転してしまったために、予算は、衆議院の優先事項で、30日で自然成立するが、予算関連法案が成立しないと、予算執行に支障を来す可能性があるという事態に陥っていることである。

 そこで、与野党の協議が重要になるというわけである。

 「民主党の選挙公約を実現するための費用は総額15・3兆円だ。高速道路の無料化に1・5兆円、農家への戸別補償制度に1兆円など、バラマキに近いとされる内容が含まれている」。

 この社説は、先日の毎日新聞「発信箱」で、原田氏が指摘していることを完全に無視している。これは、既存の利権構造を前提として、そこにただ15・3兆円をつぎ込むだけのバラマキと描いているのである。つまりこの金額は、中間の諸経費や利権分、その他を含めて計算しているのである。

 直接的所得保障方式では、例えば、国は単に直接農家に一定金額を振り込めばいいだけである。調査・記帳・計算などの事務はもちろん必要だが、基本的には、カネを右から左に動かせば終わりである。これで、どれだけ多くの国費の無駄が節約できるだろうか? 実際にこういう仕組みになったら、巨額のコストが浮くことになろう。天下りが不可能になるので、その分のコストも節約できる。

 『読売』は、「歳入面でも疑問が多い。地方への補助金の一括交付金化などで、6・4兆円を工面するとしている。今年度予算で19兆円の補助金は、大半が社会保障費と教育費関係だ。その中でどうやり繰りし、それほどの財源を捻出(ねんしゅつ)するのだろうか」と疑問を呈しているのであるが、これも、地方への補助金の一括交付金化で、この事務の節約ができ、コスト削減ができるようになる。地方交付金を、基本的に年に一度振り込めば事務が終了するからである。もちろん、監督や検査は必要だ。ただし、この構造改革の過程で、失業問題が発生する恐れがあることは考えておかねばならない。しかし、この問題も、利権組織ではない中間組織の形成という形での雇用創出という手段も含めて、いろいろと打つ手があるだろう。

 また、社説は、「税制改正でも2・7兆円を確保するというが、所得税での扶養、配偶者控除の廃止・縮減を念頭に置いている。「子ども手当」創設などの少子化対策につぎ込むとしても、所得税の増税を国民にどう説明するか、手腕が問われよう」というが、この場合には、共稼ぎという今や多数となった家計のあり方に対応するように税制を改革するというものである。この場合、さらに、家族賃金などの賃金形態や賃金体系の見直しや、賃金の男女間格差をなくしていくとか、新しい多様な家族形態に対応する税制のあり方を考えていかねばならない。働き方の変化ということもある。

 フェミニズムに対する反動(バックラッシュ)の中で、専業主婦制度を機軸とするという考えが、保守派からずいぶん叫ばれたが、これは社会の現実とかけ離れていたし、今では勢いも落ちてしまった。例えば、山谷えり子自民党議員は、内閣補佐官になった途端に、反フェミニズム、反男女共同参画社会化の主張を言わなくなった。男女共同参画社会化を推進する政府の一員になったということもあるが、彼女自身が共稼ぎであって、専業主婦化という保守反動派の主張に反しているからだろう。彼女の場合は、あくまでも、保守派であることが、自民党での出世の手段であったということであろう。

 ちょっと脱線したが、民主党の予算についての考えを、量的な単純計算と見なさないで、制度変革とセットで、それと関連させて検討することが必要だ。最低限、その手続きを経てないと、民主党の予算についての考えをはっきりさせることはできない。

 最後は、おきまりの、「国と地方の長期債務は、今年度末で770兆円に達する」という脅しだ。だから、とにかく財政再建だというのである。そして、その答えは、お決まりの消費税だ。その他の税、法人税 累進税率、贅沢税、等々は考えなくてもいいと言うのだろうか? 社会保障費は、保険分と消費税増税分でまかなえばいいということだろうか?

 民主党の主張は、年金一元化と消費税の福祉目的税化での基礎年金の全額補償である。この点でも、民主党の政策は、社会保障費の問題と制度改革がセットになっているのだが、『読売』は、量的な側面だけを取り出して比較するといういい加減なことをやっている。なにが、「来年度予算 税財政改革で与野党が競え」だ。その前に、『読売』は、読者をだますようなまねを止めて、自分がまずちゃんとするべきだ。

  来年度予算 税財政改革で与野党が競え(9月3日付・読売社説)

 来年度予算の概算要求が締め切られた。

 各府省からの要求総額は、85・7兆円に達する。今年度予算の82・9兆円に比べ、3兆円近く膨らんだ。財務省はこれを極力削り込む考えだ。

 参院選での与党の敗北を受け、地方への配慮など歳出増を求める声は高まるばかりだ。例年以上にメリハリを利かせた査定が必要となろう。

 参院での与野党の勢力逆転で、予算編成を取り巻く環境は様変わりした。衆院を通過した予算案は30日たてば自然成立する。だが、関連法案も成立しなければ予算の執行は困難だ。予算編成でも、参院第1党の民主党との調整が重要になってくる。

 その民主党は、大規模な歳出を伴う数々の政策を参院選で公約した。ならば、民主党も公約を実現するための具体策を“予算案”の形で示すのが筋だ。

 民主党は、昨年度の予算までは独自案を公表していたが、今年度分は取りやめた。責任がぐっと重くなった今こそ、詳細な“来年度予算案”を作り、年末にまとまる政府案とどちらが優れているか、年明けの通常国会で、真剣に議論を戦わせるべきであろう。

 民主党の選挙公約を実現するための費用は総額15・3兆円だ。高速道路の無料化に1・5兆円、農家への戸別補償制度に1兆円など、バラマキに近いとされる内容が含まれている。

 歳入面でも疑問が多い。地方への補助金の一括交付金化などで、6・4兆円を工面するとしている。今年度予算で19兆円の補助金は、大半が社会保障費と教育費関係だ。その中でどうやり繰りし、それほどの財源を捻出(ねんしゅつ)するのだろうか。

 税制改正でも2・7兆円を確保するというが、所得税での扶養、配偶者控除の廃止・縮減を念頭に置いている。「子ども手当」創設などの少子化対策につぎ込むとしても、所得税の増税を国民にどう説明するか、手腕が問われよう。

 与野党を問わず、重要なのは財政再建の視点だ。今年度予算は、歳入の3割が借金だ。国と地方の長期債務は、今年度末で770兆円に達する。

 安定財源の柱として期待される消費税については、民主党が税率据え置きを主張している。政府・与党には議論を見送るムードが流れている。

 だが、増え続ける社会保障費を賄い、財政再建を進めるためにも、やはり消費税に着目せざるを得ないのが現実だ。

 今後の税制改正作業の中で、消費税率引き上げの議論に、真剣に取り組むことが与野党の責任であろう。

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あきれた新自由主義者の路線転換

 世の中には、ある部分で自分と似たような関心を持っている人がいるものだ。

 天木氏は、9月2日の毎日新聞「発言席」の大和総研チーフエコノミストの原田泰氏の政治批評を「新自由主義者と思える彼の考え方のすべてにかならずしも同意するものではないが、皮肉混じりに書いている原田の指摘を苦笑しながら納得して読んだ」という。

 私も又、氏同様、この記事に興味を持った。私は、新自由主義者のどうしようもなさにあきれた。

 天木氏の場合、関心は、日米軍事同盟と平和・護憲へと強く向いていて、そっちの方に話が展開していく。そっちにもっていくというのは、天木さんらしい個性的な関心の持ち方があるからである。私は、この政治批評の経済的側面に関心を持った。

 他方で、関心の違う人もいる。同じものを読みながら、関心が違っているのである。「journalist-net」http://journalist-net.com/home/07/09/02/094710.phpの「
日曜新聞書評欄簡単レビュー」の川瀬俊治氏が9月2日の毎日新聞の書評欄から選んで紹介しているのは、東浩紀の『情報環境論集 東浩紀コレクションS』とローベルマジョーリ『哲学者たちの動物園』の二冊の書評についてである。いずれも、思想・哲学関係の本であり、これは川瀬氏の関心がこうした領域に強いということだろう。もちろん、これらの領域も興味深いのであるが、私は、この書評欄では、伊東光晴氏の「中国を動かす経済学者たち―改革開放の水先案内人」の書評に目がいった。

 今、中国で、経済政策に大きな影響力を持っているのは、アメリカ留学組の新自由主義経済学で、主に、シカゴ大学、ハーバード大学、エール大学出身者だという。彼らは、「比較優位にある産業を市場化、私有化で発展させ、ついで後発性の利益を発揮していくというものである。前者は労働集約的な産業、後者は先端技術の導入による工業化である。日本の歩んだ道でもある。資源配分は市場メカニズムで、政府による調整は財政政策、金融政策、所得再配分」という政策を提言しているという。

 ハイエク的イデオロギーの中心は、北京天則経済研究所だそうだ。

 伊東氏は、「かれらを含め改革を進める経済学者の理想とする経済がアメリカであり、西欧福祉社会が視野にないことは歪みの最たるものである、それが医療、教育、年金など山積みする福祉政策の設計と、徴税能力の欠如の現実に目を向けさせていない。アメリカの経済学から何を学んだのか。大部分の人が資源配分論と自由主義のイデオロギーだけであるのには、失望せざるを得ない」と述べている。

 他方で、毎日新聞「発言席」で原田氏は、民主党小沢代表の農民への直接所得保障を、従来のばらまきとは違うということを指摘している。小沢代表の直接所得保障政策は、従来型のばらまき政治と変わらないという批判が繰り返されていて、田原総一郎もそれを唱和している。

 しかし、「自民党は、建設会社、農協、地方自治体、中小企業団体、福祉団体などにカネを配り、それらの団体を集票マシンにして政権を維持してきた。しかし、カネを配る機構が複雑であれば、余分なコストがかかる。人々に直接ばらまき、その効果をアピールした方が安上がりだ。官僚が、組織へのばらまきを推奨するのは当然だ。人々に直接配ったのでは天下り先が作れない」。

 「人々に直接配るのはヨーロッパ左派の路線だ。アメリカの労働生産性を10とすると、日本は7、ヨーロッパは8だ(社会経済生産性本部「労働生産性の国際比較」06年版)。私個人は、新自由主義のアメリカの10を推奨したいが、労働生産性7の日本から8のヨーロッパになって悪いことは何もないと思う。しかも、ばらまけるカネは増えないものだから」。

 このへんが、あきれるところである。参議院選挙での民主党大勝、「生活第一」「社会格差是正」のスローガンの大勝利は、新自由主義者を、弱気にさせ、軌道修正、改良主義へと変化させたのである。自分は新自由主義が一番でアメリカを目指すのがいいと思っているが、次善の策として、ヨーロッパ並みの労働生産性に追いつくだけでもよりましだというのである。

 新自由主義は、機械主義的・機能主義的であり、ことにフリードマンなどのシカゴ学派にはその傾向が大である。人間は、ある外からの刺激に対して、同一の反応をするという前提があって、そこから、政策体系が導き出されている。それに対して、シュンペーターは、新結合を遂行する創造者としての企業家が活躍することでの経済過程の飛躍や革新やダイナミックな経済循環の動きを強調した。

 新自由主義者にとって、労働生産性という数字は、経済発展の基本的な指標で、効率化というのも同じである。しかし、それは、人々の幸福の基本指標ではない。これらを同一化しているところに、かれらの浅薄な人間観・社会観(そもそも社会観というものがないのかもしれないが)が現れている。

 原田氏が、直接的所得保障は、カネのかかる政治の無駄やコストを削減し、官僚の天下りを防ぐとか、労働生産性の目標を低くして、所得再配分機能・社会保障をヨーロッパ並にするのも次善の策だなどと言うのは、ほぼ自己否定に近いものだが、それでも、そう言わざるを得なくなったのは、民主党大勝に示された民意に圧倒されたからだろう。

 同じように、このところの中国の農村や都市部での下層の人々による中国政府や地方政府に対する闘争の激化は、胡現政権の「調和ある社会」の新スローガンに示される格差是正への政策転換を促した。 

 個人の領域を絶対化し「神の見えざる手」の働く場として、社会を神秘化し、市場を神のごとく讃えるというハイエク主義が見えなくしたもの、すなわち社会格差、階層階級社会の現実が、下からの闘争によって、否応なく、経済学者の目に映らざるを得ないということが、毎日新聞「発言席」の原田氏の論からわかるし、伊東氏の書評からは、中国の経済学が、そこにまだ達していないということがわかる。もっとも、ハイエク自身は、階級格差の現実について、それが下からの上昇の可能性と開かれた機会を持つ限りにおいては、良い制度だと述べているのだが。それに、ハイエクは、公私の間に、適正な関係や福祉的な関係やセーフティーネットをつくることに、政府が積極的に介入することを推奨しているし、当然としている。ただし、個人の神聖な領域を侵さない限りでという条件付きで。

 しかし、「神の見えざる手」が公と私の間に適正な効用関係を自動的に生み出すなどという市場主義者の理想的で幸福な時代は、歴史上、ほんの一時期の間のことであり(19世紀前半のヴィクトリア朝時代のイギリスなど)、そうでない時代の方が多いし、現在、新自由主義はあちこちで破綻をきたしている。シカゴ学派の大物だったフリードマンも死後は忘れられつつあるようだ。

 直接補償による所得再分配の利点は、間に介在してコストを上昇させ、手続きを煩雑化させ、中間にとりついて利益を吸い上げる団体や官僚や特権者を排除できるということにある。これまでは、官僚的な手続きや縁故や政治家の口利きや中間組織の肥大化や使い道について限定されたり口出しされたりしたカネの使い道も、個人の自由な裁量に任されることになり、それは個人消費の拡大を促すだろう。だが、現行の財政状況では、原田氏の言うとおり、ばらまきを拡大することはできない。そこで、民主党は、行政の効率化によって、その財源をひねりだすと主張している。自民党では、桝添厚生労働大臣が就任早々、社会福祉のための増税をぶっている。増税の中身について彼は具体的に指摘していないが、この場合、消費税増税が念頭にあることは間違いない。しかし、増税には、贅沢品への課税強化、法人税の引き上げ、累進課税の強化、宗教法人への課税、等々のことも考える必要があるし、更に、海外への課税逃れを取り締まるとか、いろいろと打つ手はあるが、財界・官僚と癒着している自民党が、それらのことをやることは難しい。

 政権交代によって、既得権益の構造を動かし、流動化させるというのは、一つの方法である。とにかく、構造を揺らさないと、古いうみを出して、新しいものを生み出すのは難しい。動かすなら、できるだけダイナミックに揺らした方がいい。具体的な選択肢が生まれてくるのも、そうした動きのある政治過程の中からだろう。そのことを、人々の多くが、「古いものをぶっ壊す」と叫んだ小泉路線支持で、求めたと思う。それに対して、反動と保守へと逆戻りしているように見えたことが、安部内閣の支持低下の原因にあるのだろう。個人所得保障方式は、明らかに自民党政治よりも新しいものの提示だったということを、人々は、鋭くかぎ分けていたのであろう。これをばらまき一般ということで、自民党政治と一緒くたにしてしまうのは誤りだという原田氏の指摘は、納得できる。

 2007年09月02日
護憲を叫ぶ左翼政党の課題

 9月2日の毎日新聞「発言席」に大和総研チーフエコノミストの原田泰が政治批評を書いていた。新自由主義者と思える彼の考え方のすべてにかならずしも同意するものではないが、皮肉混じりに書いている原田の指摘を苦笑しながら納得して読んだ。
 たとえば「・・・金(財源)のないばらまき路線(小沢民主党)と、言葉ばかりの改革路線(小泉郵政改革)では大きな違いになりようがない・・・」とか、「・・・自民党は、建設会社、農協・・・などにカネを配り、それらの団体を集票マシンにして政権を維持してきたが・・・人々に直接ばらまき、その効果をアピールした(民主党)のほうが安上がりだ・・・」とか、更にまた「・・・官僚が、組織へのばらまきを推奨するのは当然だ。人々に直接配ったのでは天下り先が作れない・・・」と言った指摘はその通りだ。
 しかし私がこのブログで強調したいのは、原田の次の指摘だ。括弧の箇所は、いつものとおり私の補足解説である。
 「・・・(今度の選挙を見る限り護憲派も、改憲を唱える改革派も、国民の支持を得られなかった、と指摘した上で)
 従来は自民党と社会党の対立だった。社会党は日米同盟と資本主義に反対だから自民党でないと困る、と多くの(日本)人々は真剣に考えていた・・・(しかし今の自民、民主はどちらもそれを認めている。だから)どちらに投票しても大した違いはない(と国民は安心している。その結果)政治家の失言問題のような小さな事が政局になるのだ・・・」

 左翼政党はこの言葉を真剣に受けとめ、これからの戦略を考えるべきだ。どういう戦略をとるべきか。それが今日のブログである。

 原田は護憲と日米同盟反対を表裏一体としてとらえている。それが一般的な受けとめ方であろう。そして護憲も日米同盟反対も、日本では少数派だと原田は当然視している。確かに少なくとも今日まではそうだ。
 しかし、そのような国民の意識を変え、平和な日本を実現したいと、護憲政党が本気で考えているのなら、この二つを政策課題として分離し、戦略を見なおす努力をしなければならない。今までのように護憲や平和を叫ぶ事に終始するのではなく、日米軍事同盟の矛盾を国民に分からせる努力にシフトし、全力をかけてその作業に取り組まなければならないのだ。
 それは決して容易なことではない。しかしそれしかないと覚悟すべきなのだ。その為に勉強を重ね、人材を集めなければならないのだ。
 今度の参院選の自公敗北で改憲の動きは遠のいた。憲法解釈見直しの提言は事実上棚上げされる見通しであり(9月2日日経新聞)、衆参両院の憲法審査会は宙に浮いたままだ(9月2日読売)。安倍政権がこけたら改憲は当分の間話題にも上らないであろう。そんな政治状況の中で改憲反対、国民投票法粉砕を繰り返していては、ますます国民は離れていく。
 その一方で、平和国家日本を破壊する日米軍事同盟の深化が驚くほどのスピードで静かに進んでいる。佐藤正久の「駆けつけ警護」発言が放置され、戦車が公道を走り、迎撃ミサイルが公園に配備される時代になった。テロ特措法に基づいたアフガン支援の自衛隊補給艦がイラク戦争に参加している実態が米軍機関紙で明るみになった(9月1日赤旗)。「攻撃型空母の保有は許されない」とする88年の政府見解を平然と無視して、史上最大のヘリ空母「ひゅうが」が8月23日に進水した(8月24日各紙)。「ひゅうが」とは旧海軍戦艦の名前の復活なのだ。米軍再編への協力は国民を無視してどんどんと進められている。米軍の司令官が大量に日本に移り住みはじめた。米軍のグアム基地強化に支払われる莫大な予算というアメをちらつかせ、日本企業を取り込む受注説明会が開かれている。すべては「かけがえのない日米同盟」の所産なのだ。
 日米軍事同盟強化の流れを止めることは、改憲阻止を叫ぶよりもはるかに難しい。それは抽象的に平和を唱えたり、憲法9条の素晴らしさを繰り返す事とは違う。国際情勢を的確に把握し、戦争国家米国の外交の間違いを直視し、そしてそのような米国との同盟関係が、変化する国際政治の中でもはや時代遅れであり、わが国の国益に反する事であるということを、国民に理解させなければならない。しかしその難しい事を政治の場で行う事こそ、これからの護憲政党に求められている事なのである。
 そして今その千載一遇のチャンスが来ているのだ。「終わりのない戦争」に突入して自滅する米国と、その米国との軍事協力を進めて国力を疲弊させる政府の矛盾が、これからドンドンと明らかになってくる。さすがの国民も、その不合理に気づく時が早晩訪れる。
  それを見越してか、小沢民主党はテロ特措法延長反対に固執し解散総選挙を仕掛けるかのごとくだ。小沢民主党がどこまで本気かはわからない。しかしそのような小沢民主党の真意がどこにあろうとも、今こそ護憲政党は、日米軍事同盟の矛盾をついて安倍自公政権を解散・総選挙に追い込む動きを見せる時である。護憲政党は、政治家のカネや失言問題などではなく、安全保障問題で堂々と自公政権を解散・総選挙に追い込む覚悟をすべきだ。この問題でこそ小沢民主党と共闘をすべきなのである。

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