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「優しい世代」のためにもっと哲学を

 天木氏の9月16日のブログ記事からである。
 
 12日の『毎日新聞』「発信箱」の記事は、私も目にとまった。
 
 天木氏は、「経済的安定や社会的見栄と引き換えに、人をけ落としてまで出世競争に一生を終わる人生。それを放棄して、自分に忠実な、自由な人生を送ろうと決断する時、何が一番の障害になるか」と問い、その答えは、「それは自尊心でも、社会的見栄でもない。最後の決め手は経済的な不安である。たとえば若者が早い段階で最低限の家を確保でき、食費、光熱費などの物価が安くなり、病気になった時の国の保障が完備していれば、その若者の生き方の選択は無限大に広がることだろう」と答えている。
 
 私は、ある時期から、競争が嫌になり、それもあってか、哲学に惹かれ、哲学を学んできた。自分が好きなことをして生きてきたためもあってか、幸せを感じてきた。哲学は、疑問を持つことから始まる。その意味では、誰でも哲学していると言える。例えば、雨宮処凛さんは、就職氷河期に、学校で習った「努力すれば報われる」ということが、現実社会でまったく通用しないことから、どうしてそうなるのかや社会について考えざるを得なかったと語っている。「希望は戦争」と主張して物議を醸したフリーターの赤木智弘君は、平和は既存の労働階層秩序を守るもので、平等ではなく不平等を固定化すると平和主義を批判する。彼は、ニーチェを読んで、いろいろと考えているようだ。こういうことも哲学することに含まれる。
 
 哲学史の教科書の類を読むと、よく出てくるのが、中世ヨーロッパでは、「哲学は神学の婢(はしため)」とされたが、ルネッサンスによって、哲学が神学のくびきから解放されたということである。信仰によって、思考停止したら、哲学はお終いなのである。神をも疑い哲学すること、それが、ルネッサンス以降の哲学の方向であった。それは、19世紀になると公然たる無神論哲学であるフォイエルバッハの唯物論哲学やニーチェの「神は死んだ」という宣言に達する。しかし、それ以前には、キリスト教やユダヤ教などによる哲学者への迫害もあったし、哲学者自身がキリスト教の教義の影響を受けていたことから、すぐには、哲学の独立はなされなかった。そういうなかで、エピクロスのように、神々を批判しながらも、うまく立ち回っていくしかなかった唯物論者スピノザが出た。デカルトは、半分だけ唯物論者であった。スピノザは、オランダで、新興ブルジョア階級を代表していたオレンジ公などの庇護の下で、カルヴァン派やユダヤ教会、カトリック教会などからの迫害から逃れて、隠れ住みながら、著作を出し続けた。
 
 しかし、ルネッサンスは、カトリック教会にも及んで、ルターらによる宗教改革が起きると、キリスト教の内容が変化し、人間主義的なものになって、新教は、事実上唯物論に転化したと19世紀の唯物論者のフォイエルバッハは書いている。
 
 カントは、ほとんど彼の哲学大系から神学的なものは追放しているのだが、それをごまかして、キリスト教と一応は表面上折り合いをつけている。彼は中途半端な唯物論者である。ヘーゲルは、新教の内容を観念論としては展開しきっているために、フォイエルバッハが言う新教の人間主義的内容をも展開しきったので、それを転倒することで、唯物論に転化することが可能になっていた。それがマルクスのやったことである。ヘーゲル左派の青年ヘーゲル派は、できあがっていたヘーゲル哲学の大系から一部を取り出しては強調するだけだった。これを唯物論にひっくり返すことは、フォイエルバッハとマルクスが試みたことである。かくして、ルネッサンスに始まる哲学復興は、ギリシャ哲学の復興やら神学からの解放やら、実証科学の発展やら、近代社会の発展などと関連しつつ、行われてきたのである。
 
 宗教改革以降、哲学は神学に対して勝利してきたと言っていい。実際問題として、新教は、信仰といっても事実上は人間主義に転化していて、その実態、その中味は、神の信仰・礼賛ではなく、人間の信仰・礼賛になっているからである。今、ヨーロッパ諸国では、人々の教会離れが進んでいる。日本の仏教・神道の場合も、似たようなもので、葬式仏教化・現世利益の祈願所化している。人々は、ただ檀家制度や氏子制度の名残で、寺や神社に属しているにすぎない。檀家・氏子の多くは、信仰もないし、教義も知らない。檀家・氏子と信仰は別で、檀家・氏子とは別に新興宗教などに入るなどしている。だから、日本で、宗教への所属を調べたりすると、人口を上回るというおかしな結果が出るのである。もちろん、信者数の水増しもある。大体、成功した新興宗教は、現世利益を説いており、物質的利益の追求を信仰によって支えているところが多い。もちろんそれはごまかしであり、でたらめである。人がある程度の幸福な生活を送るのに、信仰でむりやり欲望を巨大に膨らます必要などないのである。
 
 それは、「・・・ニートや引きこもり、うつ病。利益優先の経済活動に適応できない若者は増えている。団塊世代の親たちのように、組織の歯車となり、マイホームや老後のために働く生き方には魅力を感じない・・・自分に向き合い、仲間と支え合い、無意味な競争にさらされない。そんな仕事を追い求める・・・それを『甘い』と責めるのは簡単だが、もはやその優しさは社会システムに組み込まれている」のではないかという記者の言うとおりだ。団塊世代の親たちは、その子どもたちに、大きな物質的幸福を追求させるように教えたかもしれないが、その子どもたちは、「組織の歯車となり、マイホームや老後のために働く生き方には魅力を感じない」ということでもわかる。
 
 しかし、赤木智弘君は、優しいだけではだめだ、闘わねばならないと立ち上がる。現状を追認してしまい、それに甘んじてしまえば、自分たちの未来が危ういと考えたからだ。天木氏は、「生きていくだけであまりにもカネがかかる。少ない収入でももっと豊かな生活ができないのか」と言うが、現実はそうではない。赤木君は、社民党などの左派からも、見捨てられていると感じている。ちょっと、刺激的な問題提起をしたら、こういう人たちから、集中砲火が帰ってくる。東大出のエリート弁護士出身の公党の党首だの、何十年も雑誌その他に評論を書いてきた左派系知識人だのが、本もあまり自由に手に入らず、読む時間もなく、日々、バイトに追われているフリーターに、戦争とは何かをわかるためにイラクに行ってみろだのと、攻撃するのだ。これでは、この人たちが「弱者」を口にするのは、たんなるパフォーマンスにすぎないのではないかと彼が思ったとしても、仕方がないことだ。彼のような「弱者」を戦場に送ってはならないというのが、彼らの立場ではないのか。

 天木氏は、「このような厳しい現状でも「優しい世代」が育ちつつあることは一つの救いである。その世代が増えていくような経済、社会環境をを整える事こそ政治の責任であると思う」と述べている。それがかれらに欠けていることだ。そして、それは、政治にだけではなく、哲学にも求められていると思う。
 
 16日の『毎日新聞』の日曜書評欄に、哲学者鷲田清一氏の「思考のエシックス 反・方法主義論」の山崎正和氏の書評があって、近代哲学が、方法主義ともいうべきものに陥ったことを鷲田氏が批判していると書いてある。

 鷲田氏は、「近代の学問はすべて独自の方法を設け、それに従って思考を整合的に導くことによって成立した。もっとも極端なのは、大部分を数学という厳密な方法で貫いた自然科学だが、ケルゼンの「純粋法学」もフッサールの現象学も、真実を純粋な意味の体系へと一元化することで、方法の一貫性を求め、純粋な美術や音楽や文学を創造しようと競ってきた」という。そして、山崎氏は、「鷲田さんが鋭いのは、この方法純粋主義に学者の自閉と独善を嗅ぎつけ、彼らがだれに向かって語るかを忘れたからだ、と指定するところである。学者が専門家性と大学制度の枠内に閉じこもり、たとえ頭のなかの理想像であれ、他者の存在を見失ったときから、方法の鎧で身を固めたのである」という。そこで、「知性と社交の分裂は直せないとしても、その代りに努力すべきは、エッセイを書くことだと、鷲田さんはヒュームとともに主張する。エッセイとは「試論」であり、試論であることを自覚した文章である。アドルノの言うように、それは「方法的に非方法的な文章であり、体系性の限界を意識し、あえて断片的であることを恐れない文章である。鷲田流にいえば、だれに向かって書くか、相手の顔の見える文章だといってよい」。
 
 しかし、生活世界のことを哲学に取り入れたといっても、フッサールは、その師であるカント同様、中途半端だと思う。問題は、知性と社交というだけではなく、哲学は、感覚、感性、感情をも含むし、やはり、エピクロスの「人間のどんな悩みをも癒さないようなあの哲学者の言説はむなしい。あたかも医術が身体の病気を追い払わないならば、何の役にも立たないように、そのように哲学も、もし霊魂(心と読むこと―引用者)の悩みを追い払わないならば、何の役にも立たないからである」という言葉を思い起こす必要がある。
 
 いろいろな宗教の信者を見てきたが、一時的に癒された気になっても、結局は、悩みを抱え続けているという人が多い。例えば、プロテスタントの牧師は、今は試験でなるので、非現実的知識はあっても、現実的知識や哲学がなく、経験が不足している上に、古すぎる『聖書』の言葉や知識で語っているので、当然、現代の多様な信者の現実的な悩みや疑問に答えられないのである。信者の方も、それに不満を持っているが、あきらめているか、別の相談者を見つけて、相談してなんとかしているのである。宗教から宗教へと渡り歩いている人もいる。お寺の檀家や神社の氏子と新興宗教に二重に所属している人も多い。宗教が現実的不幸や悩みを、前世などの適当なもののせいにして、信者をだまして、まるめこんでいる場合も多い。ただ空想の中だけで、慰めを与えているのである。たんに悩みがなくなった気にさせるだけなのである。

  アメリカの福音派のメガ・チャーチ(大教会)の伝道師は、まるで、ビジネスマンのようであり、スタイルも現代化して、信者数を伸ばしている。現代人にマッチするように変化して時代に適応しようとしているのである。しかし、それも一時的なごまかしにすぎない。現代の宗教は、非宗教化することで生きのびようとしているのである。この場合は、宗教をビジネス化しているのである。

 それに対して、哲学は、公然と様々な現実知識を取り入れながら、変化・発展していくことが可能であるし、現にそうしてきたのである。知性と社交を結ぶということなら、赤木智弘君のような人とも知的社交を結ぶことで、彼の悩みを癒すこともできるだろう。もっとも、それには、フッサールの認識論(意識の学)よりも、感覚・感情・感性・意志・意欲の学や社会や経済やその他の方が、必要だろう。
 
 天木氏が言う「富豪や、贅沢三昧の生活に憧れる人」「権力や地位を求めてしゃにむに働く人生を選ぶ人」は、少なくとも今の日本にはそんなにいないだろう。それは、大企業若手正社員へのアンケートで、社長になりたくないという人が多かったことでもわかる。小泉構造改革路線の時には、ホリエモンや村上ファンドの社長のような連中がやたらと持ち上げられたのだが、それも今は色あせた。赤木君も、そんな雲の上の存在は、まったく意識にすら上らない遠すぎる存在なので現実的な目標にならず、なんとか手が届くかもしれない現場の正社員程度までは上昇したいという程度のことを望んでいるにすぎないのである。目に見えている目標に、手が届きそうで届かないことに、苛立っているのである。哲学がこうした問題に答えていくことを忘れているということが、問題だ。それから、哲学は、批判・疑問から始まって、いろいろと考えていくものだが、同時に、哲学は、新しい言葉、新しい言説を創造するものであるということがある。それは、現代の唯物論者のロラン・バルトやドゥルーズやガタリなどが強調してきたことだ。

  それは、「哲学者たちは世界をいろいろに解釈してきたにすぎない。たいせつなのはそれを変更することである」(マルクス『フォイエルバッハ・テーゼ』)ということ、哲学が、たんなる認識論(意識の学)に止まることなく、意志・意欲・実践を含むものへと変わらねばならないということを意味している。
 
 なんだか、鷲田氏の言うような「体系性のない断片」のようになってきたが、知性と社交のことに関連するエピクロスの言葉で終わろう。
 
 「友情はそれ自身のゆえに望ましいものである、利益から出発するものではあるが」

  優しい世代

 12日の毎日新聞「発信箱」で、礒崎由美という記者が、「優しい世代」というタイトルのコラムを書いて一つの問題提起をしていた。東京でこの夏に行なわれた20歳―30歳の若者のトークライブにおける激論を聞いた後の所感であるという。
 会社や組織を嫌い、わが道を行くタイプは昔からいた。しかし最近の若者の労働観はどこか違うというのだ。
 「お金がなくても人間らしく暮らせればいいじゃないか」、「人をけ落としてまで生きたくない」、「社長だけ高い給料をもらうなんてオレには無理。一緒に働く人からどう見られるか考えたら、耐えられないもの」などと言う若者の言葉を聞きながら、その心象風景に当てはまる言葉を探せば、少し違和感はあるが「優しさ」ということではないか、と磯崎記者は次のように書いているのだ。
 「・・・ニートや引きこもり、うつ病。利益優先の経済活動に適応できない若者は増えている。団塊世代の親たちのように、組織の歯車となり、マイホームや老後のために働く生き方には魅力を感じない・・・自分に向き合い、仲間と支え合い、無意味な競争にさらされない。そんな仕事を追い求める・・・それを『甘い』と責めるのは簡単だが、もはやその優しさは社会システムに組み込まれている」のではないか、と言うのである。
 おそらく礒崎記者はバリバリ仕事をする有能な記者であろう。自分は決してそのような生き方をしない。人をけ落とさないまでも、すくなくとも自分は競争社会に勝ち抜いて成功しようとする上昇志向の人であろう。だからこの若者のトークに少し「違和感」を持つのだ。私自身がそうであるから磯崎記者の心が読める。
 しかし、彼女がこのような記事を書いたの、低賃金に甘んじても自分の好きな生き方をしたい、それが少しでも人にためになればそれだけで満足だ、という若者たちの生き方に、ひょっとしてそれも正しい生き方なのではないか、感じ始めたのではないか。もっと言えば、重労働低賃金に耐える青年から「お年寄りの笑顔を見るとつらい事も忘れるんです」と聞くと、自分の生き方よりも立派なのではないか、自分が果たしてそのような生き方ができるか、と、彼らの生き方に敬意すら抱き始めたのではないか。その思いが、彼女を「複雑な気持ち」にさせているに違いない。それもまた今の私の心境である。
 もう三年ほど前の話だが、私は講演で北海道の片田舎を訪れたことがあった。その時出会った若者の言葉を思い出す。可愛い奥さんと二人で東京から最近移り住んだというその若者は、土地を借りて乳牛の放牧で生計を立てていた。年収約300百万円と聞いて、「牛の数を増やせばもっと収入が増えるのに」とたずねた私に、「それはその通りです。しかし今は食べるものは自給自足だし、ここは物価も安いし・・・300万円あれば十分です」という答えが返ってきた。私は自らの愚問に恥じ入ったものだ。
  思えば私の人生は、他の多くの同世代の人々と同じように、学歴社会、終身雇用制度の下に競争社会を生き抜き、勝ち抜いてきた。その生き方に悔いはない。しかしすべてが終わった今その人生を振り返る時、もっと自由な生き方もあったと思う。
そしてここから書くことが今日のブログの言いたい事である。うまく表現できないが私が言いたい事はこういう事である。
 経済的安定や社会的見栄と引き換えに、人をけ落としてまで出世競争に一生を終わる人生。それを放棄して、自分に忠実な、自由な人生を送ろうと決断する時、何が一番の障害になるか。
 それは自尊心でも、社会的見栄でもない。最後の決め手は経済的な不安である。たとえば若者が早い段階で最低限の家を確保でき、食費、光熱費などの物価が安くなり、病気になった時の国の保障が完備していれば、その若者の生き方の選択は無限大に広がることだろう。
 富豪や、贅沢三昧の生活に憧れる人はいるだろう。権力や地位を求めてしゃにむに働く人生を選ぶ人がいてもいい。しかしそのような人生に積極的な価値を見出さない人たちが、堂々と自分の好きな人生を選べるような社会こそ理想ではないのか。そんな社会を実現する事こそ政治の責任ではないのか。ところが現実はどうだ。生きていくだけであまりにもカネがかかる。少ない収入でももっと豊かな生活ができないのか。
 このような厳しい現状でも「優しい世代」が育ちつつあることは一つの救いである。その世代が増えていくような経済、社会環境をを整える事こそ政治の責任であると思う。誰が自民党の総裁になろうとも、誰がこの国の総理になろうとも、まず政治家は真剣な政治を行う事が先決だ。

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