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橋下弁護士の騒ぎをめぐるいくつかの議論

 タレントとしても活動する橋下弁護士が、山口県光市母子殺人事件の被告の弁護団数人から、テレビでの懲戒請求呼びかけに応じたと見られる3900あまりの懲戒請求を出されたことで、その対応におわれ、弁護士業務に支障をきたしたとして、損害賠償を求められ、訴えられた件で、兵庫の津久井進弁護士のブログと天木直人氏のブログが、それぞれ、論評している。お互いを意識されたかどうかはわからないが、奇しくも、両者とも、「理」と「情」の関係を論じるものになっている。
 
 天木氏は、2007年9月8日付けの「訴えられた橋下徹弁護士の騒ぎに思う」http://www.amakiblog.com/archives/2007/09/08/#000517で、「この橋下発言騒動をきっかけに、光市母子殺人事件の裁判の本質について考えて見たい」として次のように書いている。

 「被害者の夫であり、父親である木村洋という若い男性に、私はこよなき共感と敬意を覚える一人である。そしてまた、これほどの残酷な犯した被告に対し、理屈にあわない論理をもって弁護する弁護団に、大いなる疑問を抱いてきた一人である。
 弁護士の究極の使命は何か。それは顧客である被告の減刑の実現にあるという事かもしれないが、正義をまげてまで不当な減刑を勝ち取る事では決してないはずだ。正義の実現をゆがめてはならないはずだ。更にまた、巷間言われているように、死刑廃止論に固執する人権弁護士たちがその目的の為に裁判という場を利用して自己主張をしているとすれば到底賛成できない。因みに私は死刑容認論者である。自らの命をもって償わなければならない残忍な犯罪は確かにある。いかなる犯罪者に対しても死刑は絶対認められないという考えには、どうしても与する事はできないのだ。こう書くと必ず反発を受ける。イラク戦争に反対し護憲を唱える私は左翼と思われているが、死刑を容認し、北朝鮮の拉致問題を厳しく糾弾する私は、いわゆる左翼的な考えの人たちから批判される。対米追従を批判する私は同時にまた愛国主義者である。その意味で私は右でも左でもない。自由を何よりも重視すると言う意味でリバタリアンという事かもしれない」
 
 天木氏は、被害者の夫で、執拗に被告に死刑を求め続け、被害者遺族の裁判参加を訴え続け、弁護団を批判し、無期懲役判決を下した1審・2審の司法判断を避難し続けてきた木村洋氏に、こよなき共感と敬意を覚えるという。その理由は、察するところ、木村氏が正義を貫いたことにある。それに対置されているのが、「これほどの残酷な犯した被告に対し、理屈にあわない論理をもって弁護する弁護団」である。弁護士の究極の使命は正義の実現であって、正義を曲げてまで減刑することではないと批判するのである。彼にとって裁判とは、正義の実現の場であって、弁護士もまたその究極目標の実現に参加しなければならない存在なのである。
 
 それにもかかわらず、この弁護団は、正義よりも、不正義に荷担している。そのためには、「理屈にあわない論理をもって弁護」するとんでもない不正義な連中であると天木氏は言うのである。

 中世・封建時代において、裁判は、領主の特権の一つで、重要な収入源であった。裁判は、領主のもうけ口だったのである。日本の徳川時代の裁判も似たようもので、大岡裁きなどというのはいうまでもなく現代化された虚構である。やっかいなのは、江戸中期以降になると、石川五右衛門をはじめとする過去の大犯罪者たちが芝居などでヒーロー化され、庶民の拍手喝采を浴びるようになったことだ。大悪人たちが、庶民の反体制的な意識や感情に応える象徴となり、体制が正義の執行として処罰した悪人たちが、庶民の中で、反体制の英雄になってしまったのである。

 ミッシェル・フーコーの『監獄の誕生』には、前近代の王政時代に、公開処刑がしばしば民衆の反体制暴動を引き起こし、処刑される者を人々が口々に褒め称え、酒場などで民衆が公然と体制を批判し、暴れ回る事態が起きたことを記している。公開処刑は、王権の誇示の場であったが、それがしばしば王権対民衆の闘争の場に転化したのである。
 
 裁判や刑罰が正義の実現の場であるとする天木氏の考えは、個人心情としてはわかるのだけれども、他方で、集合表象と個人表象、社会心理と個人心理が質的に異質であり、両者を区別する必要があるということを理解されていないように思われる。リバタリアン・自由主義者にありがちなことであるが、個人というものを絶対化して、社会をなきものあるいは名目上の存在と見なすという社会唯名論におちいっているのではないだろうか? それにリバタリアンにもいろいろあるのだが、極端なリバタリアンは、一切の国家権力の強制を認めないという立場から、国家権力による死刑も容認していない。ただし、私刑(リンチ)は権力による強制ではないからと認めている。アメリカの西部劇の時代みたいに。ちょっと、これだけでは、天木氏のリベラリズムがどういう内容のものなのかはわからない。最後の外務省時代に、出世しそうもない上司にかわいがられ、他の上司には、批判を含めて煙たがられるようなことを直言したというようなエピソードから推すと、権力におもねらず、自由に物を言うということ、表現・言論の自由という点をとくにリベラリズムの基本に置いているように思われる。
 
 ついでに言うと、対米追従を批判するから愛国主義者だというのはどうかと思う。対米追従を批判するというだけで、愛国主義者だということにはならない。だいたい、日本の自称愛国主義者は、親米の立場を取っていることが多いのである。
 
 天木さんのブログ記事に対して、阿修羅掲示板に、ダイナモさんの批判投稿があるhttp://www.asyura2.com/07/senkyo41/msg/809.html
 ダイナモさんは、「天木直人さんには、正義が絶対的なものである、という考えが根底にあると思われます。そうでなければ、このような発言はしないはずです。私は絶対的な正義というものは存在しないと思います。正義とは、対極にある悪も含めて、相対的なものです。もし絶対的な正義があるとすれば、それは宗教でしょう」と適切な批判をしている。もっとも正確に言えば、正義は、絶対的であると同時に相対的なのであるが、まあここではそれはいいでしょう。絶対的な正義と別の絶対的正義が衝突すれば、非和解的な闘争になることは、アメリカのキリスト教の正義とイスラムの正義がぶつかっている現状を見れば、明らかである。他方で、カトリックは、自己の正義の相対化を進め、世界の他の諸宗教との和解と対話に積極的に乗り出している。これは宗教の脱宗教化の過程である。他の神・他の神の正義との共存だからである。
 
 弁護団が理屈に合わないことを主張しているというのは、ダイナモさんの記事を読めば、精神鑑定結果を理屈に合わないと切り捨てているだけのことであることがわかる。天木氏は、合理主義者で、精神医療や精神分析学などを頭から非合理なものとして切り捨てているのかもしれない。しかし、フロイトなどに始まる精神分析学の発展は、けっして不合理なものではなく、臨床研究や治療の過程などを通じて、積み上げられたデータを分析した上での、学問的認識である。その知見をもって、被告人の精神鑑定結果が出た以上、それを正当に評価した上で、事件の本質を明らかにしなければならないのである。鑑定結果について、精神医学上、疑念や批判はありうるし、ここにも絶対的と相対的なものとが同時にあるわけだから、絶対的結論だけがあるというわけではないのは言うまでもない。当然、疑問の余地はありうる。しかし、それを頭から非合理的だと切り捨てることは、天木氏の正義感を満足させることにはなっても、事件の本質を明らかにすることにはならない。氏には、弁護団の主張は理屈に合わないと言う前に、「あるのは反権力、反不正義の心と知識に対する謙虚さだけである」と氏自身が言う「知識に対する謙虚さ」が、求められているものと思う。
 
 事件の本質を明らかにしたいということが、遺族感情に含まれていることは、以前、当ブログにコメントを寄せていただいた杉浦ひとみさんのブログに、遺族との実際のつきあいから得た知見として記されている。松本サリン事件の被害者の河野さんも事件の真相を知りたいということを述べられている。一体何があったのか、なぜ事件が起きたのかを知りたいということを述べている遺族も多い。私の見るところでは、最近は、笑顔で談笑できるようになった(このこと自体はよかったと思う)光市の事件の被害者の遺族である木村洋氏は、最高裁の高裁への差し戻し決定が、事実上、死刑判決を促すものであったことから、被告の死刑を確信していると思う。その上で、弁護団の主張を荒唐無稽、聞くに堪えないなどと批判しているのである。彼は、精神的苦痛から解放されつつあり、司法・マスコミ世論その他が彼を支持し支えている。彼の味方は圧倒的多数であり、権力も味方である。今では、彼は、被告に対して、力関係で、圧倒的に優位に立っている。そういう変化している状況を考慮せずに、橋本弁護士が、絶対的正義の実現を声高に叫んだり、弁護団をカルト呼ばわりするのは、「津久井進の弁護士ノート」http://tukui.blog55.fc2.com/blog-entry-487.htmlで、津久井さんが、橋本弁護士がポピュリズム的やり方をとっていると指摘しているとおりだろう。彼は、自分の立場に多数の支持があると見て、かさにかかって、気に入らない弁護士連中を叩こうとしたのである。氏のブログには、それに対して、懲戒請求された当事者の今枝弁護士の反論を含む文章が載っているので参照されたい。
 
 津久井さんは、「法と良心(=「理」)にのみ拘束されるとする「司法」の特性・独立性がそこにあるからだ(憲法76条参照)」という「理」の立場に対して、「大衆を動かすには,「理」より「情」を訴える方が簡便で効果的だ」というポピュリズムの立場だと対比して批判している。そして、「私は,橋下さんの今回の一連の活動は,「世間」という言葉を多用して,大衆迎合主義を,堂々と表明しながら,一般大衆の運動力や影響力を実験しているように見えてならない」と言う。 「理」と「情」を単純に対立させるというのはどうかとは思うけれども、「理」と「情」がストレートにつながっているわけではないし、社会心理と個人心理は同じではないという認識は重要である。良心が「理」でもあり「情」でもあるということも事を難しくしている。
 
 橋本弁護士は、テレビを使って明らかに扇動を行ったわけで、それに動かされた人がいたわけである。懲戒の手続きを経て、懲戒請求が却下されると、懲戒請求を起こした人が損害をこうむることになっているのに、橋本弁護士自身が懲戒請求をしていないという事実も記者会見で明らかになった。橋本弁護士は、光市の事件の弁護団は懲戒にあたいするという自説の正当性を訴えている。
 
 天木氏はブログで、「8日朝の日本テレビ「ウェーク」という番組で、司会者の辛坊治郎が胸を張ってこう発言していた。「私の番組で起きた発言ですから私は橋下弁護士を全面的に支持します」と。それを聞いた私は早速このブログを書きたくなった。/私と辛坊とは考え方において対極にある。司会者である辛坊がエラソーにテレビの前で自分の正しさを自己主張する姿を朝っぱらから見せらつけられて不快である」と冒頭で書いているが、事件の本質などに関係なく、理解もなく、ただ、「私の番組で起きた発言」だからというだけで、「私は橋下弁護士を全面的に支持します」などと胸を張って発言することは恥知らずである。

 天木氏ならずとも「司会者である辛坊がエラソーにテレビの前で自分の正しさを自己主張する姿を朝っぱらから見せらつけられて不快である」。自己主張するなら、その理由をしっかりと述べる必要がある。もちろん、誰だって一定の限界はあるにしても、言いたいことを言う権利はあるが、それにしても、彼の場合、橋下弁護士への全面的支持の理由が薄弱すぎる。
 
 しかし、辛坊治郎が懲戒請求を呼びかけてもおそらくあまり相手にされないだろうが、橋本弁護士が、一お笑いタレントとしてのバラエティー的パフォーマンスとしてではなく、弁護士として懲戒請求を呼びかけることは、それが法的に保証された弁護士公認の行為であると受け取られても仕方がないことだ。弁護士の言葉だから、人々が実際に行動を起こしたのである。弁護士としての社会的信用を利用したのである。「たかじんのそこまで言って委員会」という番組が、好き放題を放言しまくって、溜飲を下げるだけの番組だとしたら、そこで、弁護士という立場を強調して、具体的な法的行為を不特定多数に扇動することは、番組の趣旨を逸脱している。彼が、この行為によって、弁護士の社会的信用を傷つけたのは明らかだ。懲戒請求が却下されれば、さらに傷は深まることだろう。

 この件はまだまだいろいろな展開がありそうだが、この犯罪は許しがたいものであり、被害者とその遺族に同情するが、遺族感情には、報復・応報感情と共に真実を知りたいという感情・欲求があるということも踏まえる必要があることを忘れてはならないと思う。

 阿修羅掲示板 ダイナモhttp://www.asyura2.com/07/senkyo41/msg/809.html
訴えられた橋下徹弁護士の騒ぎに思う(天木直人のブログ 9/7)
http://www.asyura2.com/07/senkyo41/msg/787.html

 に対する反論として投稿したものです。本来、直接レスポンス投稿とすれば良いのですが、元投稿がかなり下に下がってしまったので新規投稿としました。

 天木直人さんの意見には共感するものが多いのですが、今回の意見には看過できないものがあります。

 まず、「弁護士の究極の使命は何か。それは顧客である被告の減刑の実現にあるという事かもしれないが、正義をまげてまで不当な減刑を勝ち取る事では決してないはずだ。」とありますが、天木直人さんには、正義が絶対的なものである、という考えが根底にあると思われます。そうでなければ、このような発言はしないはずです。私は絶対的な正義というものは存在しないと思います。正義とは、対極にある悪も含めて、相対的なものです。もし絶対的な正義があるとすれば、それは宗教でしょう。

 次に、天木直人さんは「死刑を容認し、北朝鮮の拉致問題を厳しく糾弾する私は、いわゆる左翼的な考えの人たちから批判される。」と書いておられますが、死刑制度に対する態度と、拉致問題に対する態度は、性質の異なる問題です。一緒にすべき問題ではないでしょう。

 さらに、「これほどの残酷な犯した被告に対し、理屈にあわない論理をもって弁護する弁護団に、大いなる疑問を抱いてきた一人である。」とありますが、なぜ弁護団が「理屈に合わない主張」をしたその理由をご存知でしょうか。

 「理屈に合わない主張」とは、弁護団の主張する被告の動機や犯意が「常識的に考えて余りにも幼稚すぎる」ということだと思います。弁護団がこうした主張をしたのには、被告の精神鑑定の結果を受けてのものです。
 8月半ば頃でしょうか、ある週刊誌に被告の精神鑑定をした精神科医(野田正彰氏)にインタビューした記事が載ったことがあります。その精神科医が語ったことによると、被告は幼少の頃から、父の母に対する日常的暴力の中で育ち、次第に母をかばうようになったということです。その関係が母との母子相姦関係にまで発展していきました。少年時代のある日、母親が首つり自殺した現場を被告は目撃しています。そうした生い立ちから、被告の精神年齢は、犯行当時18であったにも関わらず、小学生程度で止まっている、と診断したとのことです。被告が今回の事件の前に別件で事件を起こし、少年鑑別所に入っていたときの職員の記録には、被告の精神年齢は5、6歳程度と書かれていたということです。少年の不幸な生い立ちから、実年齢と精神的年齢に大きな乖離が起きていたのです。
 弁護団の主張は表面的に見れば「荒唐無稽」でしょう。しかし、被告の生い立ちを知れば、そう言い切ることができるでしょうか。

 この件で、精神鑑定を行なった精神科医が死刑制度廃止を主張している野田氏であるということは、被告の生い立ちの問題とは無関係なことは言うまでもありません。

 私は死刑制度の是非を問題にしているのではありません。ほとんど全てのマスメディアが、遺族の主張を大々的に取り上げ、被告が死刑になるのが当然というメッセージを流し続ける中で、私たちには事件の真相を見ようとする姿勢が大切ではないでしょうか。

 天木氏ブログ記事「訴えられた橋下徹弁護士の騒ぎに思う」

 8日朝の日本テレビ「ウェーク」という番組で、司会者の辛坊治郎が胸を張ってこう発言していた。「私の番組で起きた発言ですから私は橋下弁護士を全面的に支持します」と。それを聞いた私は早速このブログを書きたくなった。
  私と辛坊とは考え方において対極にある。司会者である辛坊がエラソーにテレビの前で自分の正しさを自己主張する姿を朝っぱらから見せらつけられて不快である。しかしこの橋下騒動に関しては、私は辛坊と同じ立場であるのだ。その事を書く。
  タレント弁護士の橋下徹が訴えられた騒動は、単なる芸能ゴシップ騒動ではない。そこには「弁護士の責務」とは何かという深刻な問題が絡んでいる。
  事の起こりは、関西の娯楽討論番組「たかじんのそこまで言って委員会」(5月27日放映)で行なった橋下弁護士の懲戒請求発言である。あらましは次のごとくである。
  山口県の光市で1999年に起きた残虐な母子殺害事件の裁判を巡り、いわゆる人権弁護士団の弁護が行き過ぎであるとして、「たかじんのそこまで言って委員会」は盛り上がった。出演者全員が弁護団を批判した。その盛り上がりの中で橋下は、被告を弁護する連中は弁護士失格だといわんばかりに、「弁護士会にこれら弁護士の懲戒請求を行なえばいい」と発言した。これを聴いた視聴者から一斉に懲戒請求が起きた事を受けて、弁護士団が橋下発言は業務妨害だと訴えたのである。
  テレビの中で懲戒請求を示唆した発言の適否の問題はあるかもしれない。また私も出演したことがあるのだが、「たかじんのそこまで言って委員会」という番組は、出演者が意識的に極端な放言をし視聴者の溜飲を下げる事を売物にする娯楽番組である。その番組のレギュラー出演者である橋下は、営業的に過激な発言をしたのだろう。そのような橋下の発言を擁護するつもりはない。
  しかし、この橋下発言騒動をきっかけに、光市母子殺人事件の裁判の本質について考えて見たいのだ。
  被害者の夫であり、父親である木村洋という若い男性に、私はこよなき共感と敬意を覚える一人である。そしてまた、これほどの残酷な犯した被告に対し、理屈にあわない論理をもって弁護する弁護団に、大いなる疑問を抱いてきた一人である。
 弁護士の究極の使命は何か。それは顧客である被告の減刑の実現にあるという事かもしれないが、正義をまげてまで不当な減刑を勝ち取る事では決してないはずだ。正義の実現をゆがめてはならないはずだ。更にまた、巷間言われているように、死刑廃止論に固執する人権弁護士たちがその目的の為に裁判という場を利用して自己主張をしているとすれば到底賛成できない。因みに私は死刑容認論者である。自らの命をもって償わなければならない残忍な犯罪は確かにある。いかなる犯罪者に対しても死刑は絶対認められないという考えには、どうしても与する事はできないのだ。こう書くと必ず反発を受ける。イラク戦争に反対し護憲を唱える私は左翼と思われているが、死刑を容認し、北朝鮮の拉致問題を厳しく糾弾する私は、いわゆる左翼的な考えの人たちから批判される。対米追従を批判する私は同時にまた愛国主義者である。その意味で私は右でも左でもない。自由を何よりも重視すると言う意味でリバタリアンという事かもしれない。
   脱線してしまったが脱線ついでにもう一言書かせてもらう。最近私は自分は政治家にはつくづく向いていないのではないかと思ったりする。政治には妥協と駆け引きが不可欠である。政治的目的を達成する事を最優先しなければならないからだ。政治家になるためには本心を隠さなければならない。一人でも多くの支持者を確保しなければならないからだ。しかし私にはそれが出来ない。自分を偽ることが苦手なのだ。というよりも、どうしてもそれが出来ないのだ。
   外務省に入ってまだ駆け出しの時、私は省内で評価の低い上司になぜか可愛がられたことがあった。「君はわかりやすくていい」というのが彼の口癖であった。出世しそうな上司でも間違っていると思えば批判するし、皆が嫌う上司でも、いいところはそれを評価する、そういう私の「わかりやすい」ところが気に入られたのだろう。誰も相手にしないその上司を、私一人が擁護する時があった。そんな私に彼は感激したのだろう。出世の見込みのない上司に好かれるという事自体が、自分の評価を下げる事でもあるのだが。
  すべては遠い昔のことだ。官僚人生を捨てさって久しい今の私の言動をさまたげるものは何もない。あるのは反権力、反不正義の心と知識に対する謙虚さだけである。

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コメント

橋下弁護士が公共の電波に乗せて「懲戒申立を」と発言されたことが、一般の方に与えた影響について、「21世紀の風」さんのご指摘に共感します。

光市の本村さんの受けられた被害はいうまでもなく甚大なものであり、本村さんの人生を変えるほどの激しいものであって、そのことには同情などという生やさしい言葉ではすまないものを感じています。無条件にお気の毒です。

ただ、そのことと加害者をどう処罰するかとはイコールではありません。
もちろん、どのような被害を与えたかは、処罰について判断する上で大きな比重を占めることは間違いありません。
加害者がどのような情状を有するかは被害の大きさとは別に考慮する必要があるということです。
たとえば、同じ殺人で一人の人が亡くなられたとしても、善良な市民が通り魔によって被害者となったのと、被害者が加害者を虐げ抜いて耐えきれなくなったために加害者が殺人を犯した場合では、加害者の処分は多くの場合異なります。これが情状です。

今回のケースは詳細に事情を知りませんが、弁護士らが裁判において加害者の生い立ちを伝えることが必要だと考えたということではないでしょうか。
もし、この弁護側の法廷での争い方が不要であったり、行き過ぎがあれば裁判官がその必要性なしとしますし、証人尋問も不要な内容に及べば、裁判の中でそれを止めることになります。裁判長はそのような訴訟指揮権を持っています。

そして、弁護側の立証した内容が裁判官の心証を動かすに当たらなければ、判決で(軽くはならない)結論が出されます。

また、複数ついた弁護士費用は、依頼者が払えない場合でも、国からは原則として一人分しかでません。

もう一つ、この記事の中で、「弁護士の使命は顧客である被告の減刑の実現にあるという事かもしれない」というような文言がありました(天木さんの引用のようです)。
でも、私は腕のいい弁護士とは「黒を白にする」弁護士ではなく、関わる中で、被告人が行った行為の意味に気づき、被害者に対して少しでも反省の思いを持ち、自分がその償いをも含めて前を向いて歩こうという思いになったときに、裁判官がその被告人の態度を見て刑を減ずる判断をする、そのための働きかけができることだと思っています。

投稿: 杉浦ひとみの瞳 | 2007年9月 9日 (日) 23時12分

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